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日本史の面白い、凄い逸話を語るスレッド

1 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 07:51:23
徳川家康、馬上の脱糞
http://search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%b2%c8%b9%af+%bb%b0%ca%fd%a5%f6%b8%b6+%c7%cf%be%e5+%c3%a6%ca%b5&fr=top%2c+top
金子家忠
身体に21本の矢を受けたが一歩も退かずに戦い、さらににあごの下を射られたが、生還。
http://hyohyohyo.cool.ne.jp/hyohyohyo/mousounihonsi/genpei/m_kanekoietada.html
弁慶
敵の矢を全身に浴びながら、立ったまま往生を遂げる。
http://www.fhs.kanagawa-u.ac.jp/work/study/6/kyara/bennkei.htm
徳川家康
http://search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%b2%c8%b9%af+%bb%b0%ca%fd%a5%f6%b8%b6+%c7%cf%be%e5+%c3%a6%ca%b5&fr=top%2c+top


2 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 08:20:21
>>1よ、テーマが漠然としてるな
とりあえず「死に様が」とか決めろ

そうじゃないと、大福30個食った福岡藩士・磯野藻屑だってすごいぞ!ってなる。


3 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 10:55:23
60年目の今日。昭和20年4月7日、大和轟沈す。

4 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 14:58:51
良スレになりそうな悪寒

5 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 16:27:28
なんねーよ。

6 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 19:19:25
東北関連の話はするなよ。アイツラが来るから。(笑)

7 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 20:07:23
>>6
誰よ?あいつらって?

8 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 21:46:21
今ごろ奥州藤原あたりにいるんじゃねえか?

9 :日本@名無史さん:2005/04/07(木) 22:40:45
良スレになりそうな悪寒

10 :日本@名無史さん:2005/04/08(金) 08:50:18
小野小町は水戸黄門並みに日本中を旅した。
ttp://www.iimachi-akita.jp/komati/yukari/yukari.html

11 :日本@名無史さん:2005/04/08(金) 10:27:23
>>10
水戸黄門は関東から出てないだろが。

12 :蘭太郎:2005/04/08(金) 12:01:17

寿永三年の須磨の合戦の折、それは平家の総崩れによって戦の体勢が決しつつあったさなかのことです。
「卑怯者、敵に後ろを見せるか。」
熊谷次郎直実の叫びに、追われていたその一騎は、遂に振り向いて馬首を翻えしました。
坂東武者屈指の剛の者であった直実は難なく組み伏せますが、首をとらんと兜を剥がそうとして驚きます。
なんと相手は年の頃十六七、直実の息子と同年代の少年だったのです。

この同じ日、初陣を果たすため戦いに加わった息子の姿を思い出し、
直実はもう手柄のために首を取る気はなくなりました。
「他の者に見つかる前に、早く逃げなさい。」
しかしこの若武者は、
「早く首をとれ。私の首は、お前にとっても大きな手柄になる。」
そう言ったきり、逃げる気配はありません。
健気な振る舞いが息子の姿とかぶさって映り、今まで多くの敵を葬ってきた、直実の力強い腕が震えます。
どうしても助けてやりたい。我が子に諭すように、もう一度逃げるように求めるのですが、
若武者は、ただただ「首をとれ」と言うばかり。
そうこうしているうち、数多くの味方の足音が聞こえてきます。
「こうなってはもう助けることはできない。名もなき者の手にかかるよりは、私の手にかけ後の御孝養を仕る。」
直実は大声で叫んだ後、一閃した刀は若武者の血で染まりました。

そして戦いが終り帰還した直実は、もう武勲も恩賞も顧みることはなくなり、
出家し蓮生と名を変え、念仏行脚にその後の人生を捧げたのでした。

13 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 01:11:02
その首をとられた若武者というのはいったい誰だったのか。?

14 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 02:56:35
>>2
(!)それは凄い話だ・・・。

15 :蘭太郎:2005/04/10(日) 06:37:54
>>13
この若武者が参議修理大夫経盛の末子、平敦盛です。

余談敦盛を討った後、直実はその腰に結わえ付けられている笛を発見し、
合戦当日の朝方どこからともなく戦場にこだました音曲の主を知ることになりました。
その音色は源氏の兵の心にも残っていて、笛が持ち帰られると大勢が涙したとのことです。

16 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 08:48:34
義経チンギスカン説、明智天海説、源為朝琉球王朝始祖説、東北物部伝説、
島津頼朝落胤説、徐福伝説、卑弥呼神功皇后説、鎌足百済王子説、磐井伝説

17 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 11:04:29
>>15
....で、あるか。魂を揺さぶられる悲しい話ですな。
臆病者の誹りをうけるよりも死して名を残したと言うわけか・・・。
織田信長が好んだという「敦盛」の基ネタは、この悲話からきているんでしょうか。?

18 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/10(日) 11:12:30
>>17
>織田信長が好んだという「敦盛」の基ネタは、この悲話からきているんでしょうか。?

そうです。ちなみに、実際に出家・遁世して法然坊源空の弟子となった動機は、
所領に関する相論で彼の主張が認められず、実利もさることながら面目を失い、
俗世に嫌気がさした事にありました。

19 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 13:03:21
>>12
教科書に載ってる有名な話だよね

信長が好んだ「敦盛」は出家した熊谷が敦盛の亡霊と戦う話だったと思う。うろ覚えだが


おいらからも一つネタ。源頼政は妖怪を退治した事がある

20 :蘭太郎:2005/04/10(日) 14:36:27
慶長五年八月二十四日。月初めに伏見城を陥落させ勢いに乗る西軍は、
毛利秀元、吉川広家、鍋島勝茂、長宗我部盛親、安国寺恵瓊、長束正家等の率いる三万の軍勢をもってこの日伊勢阿濃津城に攻め寄せました。

守将富田信高以下二千の守備兵は寡兵よく防戦しますが、衆寡敵せず、ほどなく外郭を破った敵勢が城内になだれこんできました。
信高自ら槍を持ち防戦しますが、四方の口ことごとくが破られた様子。もう落城は免れそうにありません。
次々と攻め来る敵兵を相手に奮戦しながらも、信高は本丸に戻り自刃して果てる覚悟を固めます。

その時、俄かに一人の若武者が本丸から打って出、混戦の中ひたすら信高の元へと突き進んでくるのでした。
見るからに美貌の持ち主であるその者のいでたちは、緋縅の具足に中二段黒革縅に半月打った兜をかぶり、
手にした片鎌の槍が宙に煌くと左右では怒号と血飛沫があがり、たちまちにして数人の敵兵が打ち倒されます。
「味方にあんな者がいたのか。」
なおもこちらへ進んでくる若武者を見て、信高は側の者に尋ねるものの、誰も知りません。

思わぬ出来事に勢いを取り戻したのか、そのうち味方は敵勢をなんとか城外に一端押し戻すことに成功し、
若武者は引き上げる信高の側へ寄ってきました。
「実は討ち死にされたと聞き、同じ所で枕を共にしたいと思いここまで来ましたが、ご無事のようで嬉しく存じます。」
その顔を見ると、なんと信高の妻ではありませんか。
「お前にどうしてあれだけの働きができたのか・・・」
常日頃慎ましやかな妻からは、さきほどの剛勇ぶりは想像できず、信高はただただ驚くばかりでした。

21 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/10(日) 15:18:22
>>19
これまた『平家物語』にある鵺退治ですね。寧ろ、これで有名かも。
ただ、鵺というのは元々トラツグミという小鳥の事で、夜中に鳴く事から、
『堤中納言物語』「はなだの女御」でも言われていた通り、凶鳥扱いされて
いました。この点は、梟も同じです。
『袋草紙』などには、鵺やくつわ虫の鳴いた時の呪歌が記されている。
『今昔物語集』には、命じられて狐を射殺した話がありますが、宮中には鳥
は勿論の事、犬や鹿などの獣もしばしば侵入していました。
事実とすれば、闇夜で小鳥を射た話であったろうとは、近世の考証家の指
摘しているところです。
鳴弦が魔除けになったという信仰も、無視は出来ませんが。
なお、頼政は歌人としても有名な人物で、「沖の石の讃岐」と綽名された娘
は、小倉百人一首でその名を知られています。

>20
別所吉親や、諏訪勝右衛門(実名不明)の妻も、篭城戦で活躍しています。
女性陣は積極的に戦場に出ないまでも、囲まれれば活躍したものらしい。

22 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 23:11:32
>蘭太郎

リアル若者か?
最近知ったいろんな知識に萌え萌えな気分はわかる。

んでもこの板的には一般知識レベルな話ばっかし持ってこられてもなぁ、と思う。


もっと凄いのもってこい

23 :日本@名無史さん:2005/04/11(月) 01:04:37
磯野藻屑源素太皆(いそのもくずみなもとのすたみな)
お盆の時期に、波平の夢に出てくる、磯野家のご先祖。殿様の御前でおはぎを38個も平らげ、殿様からお褒めに与った逸話を持つ武士だったらしい。
享年は不明。磯野家が源氏の系統だということがわかる。

24 :日本@名無史さん:2005/04/11(月) 03:17:12
頼政の鵺と酒天童子、
渡辺綱の鬼退治(羅生門)、
坂田金時の熊相撲
俵籐太のムカデ退治

あの時代は恐ろしいぐらいの逸話の宝庫

25 :日本@名無史さん:2005/04/11(月) 03:33:50
>>22
虹板曰く「まずおまえがもってこい」

26 :日本@名無史さん:2005/04/11(月) 08:30:59
>>25

>>2にて既に福岡藩士を推挙済。


>>23
先着スマソ

27 :蘭太郎:2005/04/11(月) 20:32:29
海軍特別攻撃機「桜花」。目標手前で母機から切り離されロケット推進により敵艦に突入するこの特攻兵器は、
人の命を兵器の部品と見なす非情な本質的前提から、別名は「空とぶ棺桶」であった。
しかしより悲惨なのは、それを運ぶ母機一式陸攻の搭乗員だったかもしれない。
護衛戦闘機に欠け、そしてただでさえフライングシガーの異名を持つ脆弱な一式陸攻は、基準爆弾搭載量の二倍も重量がある桜花を搭載し、
速度性能、運動性能の多くを犠牲にした結果、目標到達機の実に95%以上の撃墜・未帰還機をだした。
一度出撃したからには、正に生還を期せず。実質特攻と同じであり、そして彼らは特攻隊員のような華々しい栄誉とは無縁である。

昭和二十年五月二十五日。神雷攻撃隊所属長沼武治上等飛行兵曹の操縦する一式陸攻は、桜花を投下するべく沖縄洋上の空にあった。
この日の沖縄は酷い雨天であり、視界はゼロに等しく、動攻撃隊機はほとんどが帰還、行方不明となり、作戦目標地点に到達を確認したのは長沼機だけである。
過積載の機体は、荒天によりただ飛行する事すらままならず、悪戦苦闘しながらもやっと目標地点にさしかかると、とたんに激烈な対空砲火の洗礼を受けた。
レーダーと高性能信管による的確さは絶大で、周囲に次々と高射砲が炸裂し、激しく動揺する機体を安定させることも適わず落弾体勢が取れない。
相変わらず視界もゼロで敵艦を発見すらできず、長沼機はただ放火の中周囲を旋回するだけだった。
桜花搭乗員がこのまま投下しろと叫ぶ中、長沼は遂に彼を回収し桜花のみを投棄する決断をした。
全員が命を捨てる覚悟だが、しかしこの状態では敵艦に到達できる見込みなど殆どなく、かといって今のままでは全員犬死である。長沼の迷った挙句の判断だった。
子機を切り離し身軽となった機体は驚くほど機動性を取り戻し、放火の雨の中、必死に海面すれすれに高度を取って奇跡の全員生還を遂げたのだった。

後に、同日同海域の米艦隊が桜花によって損害を受けたことを知った長沼は驚いた。
あの日目標に到達できたのは自分の機だけだったはずだが、視界ゼロの中無我夢中で投下した無人の桜花が、見事に命中するなんてことが起こりうるのだろうかと。

28 :蘭太郎:2005/04/11(月) 20:36:19
>>22
もっと認知度が低く凄い逸話を出せとは、難しい注文を出しますね。
逸話というのは往々にして、誰もが感心する凄いものほど人口に膾炙しており、
知るものの少ない廃れたものほど、内容も比例してマイナーなものです。
そもそも、自分の好きな話から紹介しているだけですので、そんなことを言い出されても困ります。

29 :日本@名無史さん:2005/04/11(月) 22:16:39
煽りは無視する方向で

30 :某所のやつ、微妙に修正:2005/04/11(月) 22:25:07
千葉県南部安房地方には、源平時代の逸話がある。
かつて、石橋山の合戦に破れた源頼朝が海を渡りこの地に訪れた。
宿や食事を世話した土地のものに、頼朝は感謝し
「わしが東国を治める時には、そちらに安房一国をやろう」
といった。これを聞いた土地の二人は答えた
「そんなものは、いりません。畑でいくらでもとれますから、それよりも我々に苗字をくだされ」
安房一国を粟一石と勘違いしてしまったのです。
頼朝はそんな二人を「そうか、バカだな」と笑いました。
すると、二人は大喜びで頼朝に感謝したそうです。
いまこの地に残る左右加、馬賀という苗字の由来がこれだそうです。

31 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/12(火) 00:14:40
>28
まあ、その点は好き好きで。

>30
後世生じた伝説に突っ込むのも野暮ですが、当時は「馬鹿」という言葉はようや
く使われ始めたばかりかその直前で、「馬鹿者」と「者」も加えて言っており、そ
の意味も「狼藉者」であって、今の「馬鹿」とは異なりました。

しかし、いざ紹介するとなるとなかなか難しい・・・。

32 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/12(火) 00:16:32
某所に記したものの転載ですが。

保元の乱の勝者、藤原忠通。
敗者となった弟頼長は流れ矢に当たって野垂れ死にをし、死後墓をあ
ばかれてさえいますが、彼の死に方も、ある意味悲惨なものでした。
彼は女性関係には恵まれず、北の方宗子や、愛妾加賀には早くに先立
たれ、その後は五条という女房を寵愛し、子供も儲けていました。
出家して円観と名乗ってからも、思いは変わらなかった様です。
ところがある日、五条は兄(異母兄弟?)源経光と情交。
その様子に気付いた雑仕女早百合葉の通報でかけつけた円観の目に
飛びこんで来た時にも、それは継続されていました。
彼はただちに経光を屋敷から追い出しましたが、その後も五条に恋焦
がれ、それでも会う事は出来ずに、消沈して二月足らずで亡くなった
と言いますから、悲惨の一言に尽きます。

33 :日本@名無史さん:2005/04/12(火) 00:17:05
んなこた、わかっちょる。
史実を書けとは書いてないだろ、このスレのタイトル。

34 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/12(火) 00:18:09
なに、ついでに引き出した逸話というか、歴史の断片ですよ。
まさか、本気にされる方はいらっしゃらないでしょうが・・・。

35 :日本@名無史さん:2005/04/12(火) 21:59:28
道鏡の同祖神が、最高に面白い、凄い逸話じゃろ。

36 :日本@名無史さん:2005/04/13(水) 00:20:42
>>20-21
諏訪部定勝の妻もすごいぞ
甲相同盟が敗れて武田軍が武蔵に来襲したとき、北条氏邦はじめ諸将が自分の城にこもったのだが、
定勝は篭城中に酒を飲んでいて泥酔して寝ていた
起こそうとしてもついに起きなかったので、妻が家臣を指揮して武田勢を追い払った

つか奥さんもすごいが寝てる↑こいつもすごい
よく合戦後の宴会やってるところへ夜襲した、なんて話はよくあるが、
白昼堂々寝てたやつはそうはおるまい



37 :日本@名無史さん:2005/04/13(水) 09:11:39
鳥居強衛門勝商の話は有名ですね。

38 :蘭太郎:2005/04/13(水) 20:02:37
>>36
高天原の危機の折に、天照大神は男物の鎧に身を包み自らが矢面に立ったといいます。
そういう国柄なのか、日本史を見渡せば、割と戦で活躍した女性の話というのは多いですね。

有名な所では巴御前など木曾義仲の妻達。これは説明の必要はないでしょうが、
他にも私の知る限り秀吉の側室成田殿や、織田信長の伯母で遠山景任の妻なども守将として攻城軍を迎え撃っています。
織田信長の伯母などは寄せ手の将秋山信友と結婚することを条件に降伏し、後に信長に攻められて逆磔の刑にされ、
呪詛の言葉を残すという波乱に満ちた生涯でした。
しかしなんといっても、女性最強は「豊後の尼御前」妙林尼を推します。
この女性は戦国最強の軍事集団である島津軍を相手に寡兵よく善戦し、
あげくに撤退する島津軍を追撃して凛々たる大戦果をあげた出色の女傑です。

39 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/14(木) 09:47:19
巴は妻というか、山吹と共に「便女(美女)」として登場していますね。
史実としては、越後の城氏にいて捕虜になった坂額御前が有名です。
鎌倉時代も後半になると家父長制の発達に伴って女性の公的な立場は次第に
制限される様になります。
『難太平記』によれば、少なくとも東国では、当時女物を陣中に入れる事は禁
忌とされていました。戦国初期の畿内に「女騎」がいたという記録もあります
が、実態は不詳。
以降の女性の戦での活躍は、主に篭城時に活かされたもので、戦場まで同行
したものは、なかなか見当たらぬ様です。

40 :蘭太郎:2005/04/14(木) 19:40:00
どこかでお見かけした名前だと思っていましたが、確か世界史板にいらした方でしたね。
木曾義仲の「便女」とはようするに妾のことだと理解していましたが、
違う解釈がございましたらご指摘いただきたいと思います。

さて戦国時代の女性のありようですが、
不浄の存在であり「三世の諸仏も見捨てたもう」という仏教的思想の影響からか、仰るように陣中では女人禁制が原則でした。
出陣前には精進潔斎のため肉食や女断ちすることも多かったようです。
ともあれ、戦国後期になると原則が破られることもまま見受けられ、豊臣秀吉が陣中に側室を呼んだというのは有名な話ですが、
質実剛健を旨とした徳川家なども女性を同伴しており、そのため阿茶局は小牧・長久手の陣中で流産したようです。

そして戦で活躍する女性というのは、いつの時代も基本的には同じ。
戦国時代も御陣女郎や桂女、比丘尼といった慰安婦が大勢戦地に出向いて営業していたようです。
女は忌み物といえども、やはり暴力衝動の開放ともいえる戦場で断つのは至難なのでしょう。

41 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/14(木) 22:09:35
>木曾義仲の「便女」とはようするに妾のことだと理解していましたが、
『貞丈雑記』が「未女」・「非上」といった表記を併せて紹介していますが、
「美女」とも記されたもので、その容貌の特に優れたものが女中となった
事に由来する称だといいます。早い話が下女。

>不浄の存在であり、
女性を罪深い存在とする事は、平安時代中期から見られ、女人禁制が目
立ってくるのもこの頃からですが、当時はまだ文人貴族などの一部のイ
ンテリの思想でした。
中世になって次第に広まりますが、「不浄」と明言する様になるのは戦国
期からの様で、女性の祭礼への参加が「不浄」を理由に断たれた時代とし
ては、近世初期が目立ちます。京都の祇園祭などがそう。
元々、女人禁制は男子禁制と並んで寺・尼寺に異性を近づけない思想で
あったものが、女性の公的な地位の低下とともに、女人禁制ばかりが目
立って主張される様になった様です。

42 :蘭太郎:2005/04/14(木) 23:13:11
元々、木曾義仲の「下女」或いは「美人」とはようするに妾と理解していましたが、というのが先のレスポンスの趣旨です。
なるほど妾とはどこにも書いてありませんが、木曾義仲との逸話から、ただの下女というより特殊な男女の関係があると考えるのは邪推なのでしょうか。

>元々、女人禁制は男子禁制と並んで寺・尼寺に異性を近づけない思想であったものが

女人禁制のルーツは仏教の思想とともに伝わったものだと考えています。
根本仏教では異性というより、女性を特別に区別していたのはご存知でしょうか。
釈迦は当初女性が出家することを許しませんでした。許せば「仏法が永遠に伝わることなく滅ぶ」という理由からです。
愛弟子アナンダの度々の説得により、結局女性の出家は許されますが、通常の250戒だけでなく348戒もの戒律を守るという条件が付きます。
例えば「比丘は比丘尼を非難してもよいが、比丘尼は比丘を非難してはならない」とか、
「教団内での立場(仏教では唯一修行年数)に関わらず比丘尼は比丘を尊敬しなくてはならない」などです。
「三世の諸仏も見捨てたもう」と初期の比叡山が女人禁制だったことなどは知られていますが、
結局はそういう仏教的な女性観が飛躍して扶植された結果、所謂女人禁制や女は忌み物といった価値観が構成されていったのではないでしょうか。

43 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/15(金) 01:37:36
>42
身近にいた故の連帯感はあったでしょうが、ああした関係は『平治物語』等に
出て来る主の下人の間にもあったのではないかと。
男女関係に出来るかどうかは、分かりません。
容貌が優れていたというあたり、『平家物語』の作者は暗示している様にも思
えますが、何分ほかに記したものがありませんからね。

>女人禁制のルーツは仏教の思想とともに伝わったものだと考えています。
経典の内容はともかく、一般の認識では平安時代中期まではまだ女人を罪悪と
見做す思想は一般的では無かった様ですよ。
少なくとも、『日本霊異記』には、尼を劣った存在とする説話はありません。
思想・信仰は時代とともに推移しますが、女人に対する宗教的なイメージもま
た、時代と共に変遷(悪化?)していった様です。

44 :蘭太郎:2005/04/15(金) 18:05:30
確かに義仲と巴との関係は、物語を受け取る側の想像に任せるしかない要素であり、
それぞれに異なった視線で眺めるというのも面白いのかもしれません。

>経典の内容はともかく、一般の認識では平安時代中期まではまだ女人を罪悪と
>見做す思想は一般的では無かった様ですよ。

仏教の思想が日本に伝わった際、神道との交わりで軋轢が生じた結果「本地垂迹説」という奇形児が誕生したのはご承知の通り、
初期日本仏教においては在来宗教との妥協により、根源的教義は扶植できませんでした。
そして平安仏教の成立以前に日本にあった所謂南都六宗というのは、宗よりむしろ派に近い存在であって、
それぞれが経典や教理の研究に力を入れる研究機関的存在でした。
仏法にとって知(教理)と行(実践)は車の両輪であって、そのどちらが欠けても意味を為しません。
しかし当時仏教は国家の庇護の下に行われる事業であって、宗教的な実践といえば護国利民の為の祈祷を行う程度であって、
大衆を教化するような活動はスポイルされているのが実情でした。
法相宗の道昭や行基などはその中にあっても、弾圧に耐え大教化に努める活動を行いましたが、
まだ当時の仏教は一般に浸透する価値観たりえてはいません。

45 :蘭太郎:2005/04/15(金) 18:07:54
>少なくとも、『日本霊異記』には、尼を劣った存在とする説話はありません。
>思想・信仰は時代とともに推移しますが、女人に対する宗教的なイメージもま
>た、時代と共に変遷(悪化?)していった様です。

ルーツが伝わるというのと一つの観念が定着するというのは問題が別です。私は女性蔑視の淵源に仏教思想の影響があるという考察は述べましたが、
それが即形となって現れたとも、また仏教そのものが男尊女卑の思想だとも考えていません。
釈迦自身は「大小便に満ち満ちた女」なる表現をつかっていますが、仏教には大きく分けても小乗、大乗、密教、
それぞれ教義がまるで違い、具体的には浄土真宗や禅宗、密教的な性的概念や女性観は釈迦の五戒をも大きく逸脱しています。
当初の日本仏教に付いては上記説明した通りですが、最初に具現化され影響を及ぼした女性観として、最澄の起こした天台の教えがあると考えます。
天台宗の教理とはほぼ『法華経』に典拠を求める事ができるのは周知の通りですが、
これには「女性と性的不能者には近づいてはならない」というような教義が見られます。
そういった思想的淵源と時代の状況、例えば儒教文化との醸造などが行われた結果、
ある時代においてはそれが女性蔑視の俗情として発現しているのではないでしょうか。

46 :蘭太郎:2005/04/15(金) 19:58:10
仏教の話ついでに、一休宗純などより(ある意味)遥かにレベルの高い増賀という僧の話を紹介します。

延長五年十歳で比叡山に登った増賀は、当初から並外れた知性を発揮し学問に勤しんだ結果、若くして比類ない学識を得るに至る。
また当時僧の出世には家柄が影響しており、朝廷の高官の息子である彼には、早くから天台の担い手として大きな期待が寄せられていた。
しかし期待に反して増賀は、次第に変貌していき、度々奇行を行うようになる。
そして内論議(天皇の前での行事)が行われ朝廷に参内した際、増賀は庭で乞食と一緒に残飯を漁り、
居並ぶ一同を驚愕させたことが原因で狂人とみなされ、遂に比叡山を追われることになった。
増賀の師良源は、彼の奇行が名利や権威を厭った上での演技だと見抜いて諌めたが、
「名利を全て捨て去った上で、仰せの通りに致しましょう。」と、増賀にはまるで通用しない。

世間というものは不思議なもので、そのうち増賀の奇行は名僧である証だと噂がたつようになり、
皮肉にも増賀の奇行は、彼の意に反して名利を高める原因となっていった。
しばらくして、その噂を聞きつけた三条大后宮が増賀を受戒師として召し出すことにした。

内裏に趣いた増賀は、三条大后宮の髪を切り終えると、おもむろに大声で喋りだした。
「拙僧をお召しとは物好きですな。拙僧の物がでかいことを聞き及びですかな。たしかに並よりはでかいですが、今はもうお役にたてません。」
三条大后宮を始め、座の一同が凍りついたように静まり返った。増賀の言葉はまだ終わらない。
「今日は風邪のせいか、腹をくだしておりましてな。」
そして南殿の高欄にのぼり、裾をまくって大きな屁を一発、続けて下痢便を撒き散らし、名利も権威もなにもかも棄て、意気揚揚と引き上げていったのだった。

47 :日本@名無史さん:2005/04/17(日) 15:34:25
>>46
その坊主は凄いというか、凄い基地外ですな。
それだけの事をして手打ちにならなかったのかが知りたい。

48 :日本@名無史さん:2005/04/17(日) 16:09:47
>>46
カレー食ってるときに(ry

49 :蘭太郎:2005/04/17(日) 20:04:03
当時の朝廷には死刑アレルギーといえるような感覚が存在していて、
朝臣に限っては、例え謀反を企てたとしても遠流ですまされていました。
大抵のことでは死罪にはならなかったのでしょう。
だからという訳ではないかもしれませんが、
増賀も特に手打ちなどにはならずに87歳まで天寿を全うしています。
ちなみに、臨終に際してもこの聖人の行動は常軌を逸していました。

床につき、もうお迎えを待つだけの状態だった増賀は、
最後を看取るべく側に控えていた弟子に碁盤を持ってこさせます。
弟子を相手に少し碁を打つと、それを投げ出し、今度は馬具を持って来させました。
すると増賀は馬具を首にかけ、何やら踊りだします。
本当に逝っちまいやがったのか、そう思った弟子が恐る恐る理由を聞くと、
「何気なくこれがやってみたかったのじゃ。もう思い残す事は何もない。」
そう言い残し、増賀は安らかに息を引き取ったそうです。なんだか訳が解らない。

50 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 00:28:20
馬鹿と天才紙一重というが、こ、こいつは・・・。

51 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 07:14:48
基本的なことを知らないのだが、坊主は自分のために勉強してるのか?

自分の為なら、変人
他人の為なら、基地外で87まで生きるな!

ってのが感想かな。


52 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/23(土) 18:57:21
>蘭太郎氏
失礼、ご無沙汰しておりまして。増賀は『今昔物語集』からですか。
他にも、彼の登場する説話がありましたね。

今は昔。東宮蔵人であった、宗正という者がいた。
大江定基(これも奇人)の様に、死んだ妻の遺骸が腐り果てるのを目にした
彼は官職を棄て、四歳の娘を寝かしつけると、そのまま出家してしまう。
山で修行をしていたところ、かつての主からの文が届いた。
それを読んでいる内に、つい落涙してしまったが、そこを師であった増賀
に見られ、目を椀の様にされ、激怒されてしまう。
「東宮から文が来る様な聖に、悟りが開けるのか。さっさと出て行け」
そう言って師が怒鳴りつけて来たので、とりあえずそのまま飛び出すと、
外でしばらく木によりかかり、房へ戻った。
この増賀という人、あっという間に怒り出し、あっという間に静まる性
分で、弟子もそれを心得て、とりあえず引いていたという。

『今鏡』でしたか。寂心が弟子となり、経文を読む度に泣き出したので、
「分かったふりをするな」
と増賀が殴りつけたが、いくら殴られても同じ様に泣くので、遂には、
「本当にありがたくて泣くのだ」
と思い、もらい泣きをしたという話があるのは。

>47
当時手打ちはありません。せいぜい島流しでしょうが、八虐抵触の罪でもない。

53 :日本@名無史さん:2005/05/03(火) 20:06:45
エピソードを一つ

戦国時代の武将、細川藤孝は多芸な人で和歌、連歌、茶道、料理、音曲、能楽
刀剣、弓馬術、有職故実などありとあらゆる分野に精通していた。
特に三条西実枝卿から古今伝授を受けるほどであった。

初め、足利義輝に仕え、松永久秀の叛逆が起こると足利義昭を脱出させ、諸侯の間を渡り歩き
義昭が落ち目になると信長に従って各地を転戦し、信長が駄目になると秀吉と共に明智光秀を討ち、
秀吉の死後は徳川に近づくなど、的確な状況判断のもと着実に領土を増やしていく。

関が原の戦いでは当然、東軍についていたが、このような順風満帆な人生に絶体絶命のピンチが訪れる。
細川藤孝の居城、丹波田辺城は取るに足らない小城であったがこれを石田三成の命を受けた小野木公郷の軍勢
1万5千が包囲した。

勇将である息子の忠興は関ヶ原へ出陣中、守る城兵はわずかに5百。
もはや落城は必至。
細川家の将来のためには最後まで戦い、後は城に火をかけ、自刃する他はなしという、
戦国ではよくある日常が再現されようとしていた。
ここに一つ、例外な事件が起こる。
後陽成天皇より勅使が使わされ、西軍に城攻めの中止を求めたのだ。

勅使の伝えるところ
「細川藤孝は文武両道に秀で、とりわけ宮中にあっても伝統の絶えた古今和歌集の秘訣を受け継ぐ帝王の師範、
 歌道の国師というべき人物である。
 もしここで命を落とせば古今和歌集の秘訣が永遠に失われる。すみやかに城の囲み解くべし」

勅命に従わないとあらば体裁が悪い。
小野木公郷は兵を収め、細川藤孝も城を明け渡した挙句、むざむざと生きながらえたものの
勅命に従うという大義名分がたっているため、
その後の論功では西軍に城を明け渡した責任を東軍より責められる事はなかった。
こうして一命を取り留めた細川藤孝はそれまでの戦績を評され、
肥後藩54万石の開祖として、浮き沈みの激しい戦国時代をついに生き抜いたのだった。

54 :日本@名無史さん:2005/05/03(火) 20:18:05
今更だけど
>>12の話を古典の教科書で読んだことある
「敦盛の最期」って題だったような希ガス

55 :日本@名無史さん:2005/05/03(火) 20:19:14
うは外出
吊ってくる

56 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 01:47:20
>>53
この人が実は若いころ牛と戦ったという逸話がある

あと12の敦盛の話は、
戦国時代にも国府台合戦かなんかで里見の若武者なんとかが、
北条方の武者に呼び止められて引き返し、
北条武士は相手が若かったので躊躇したものの、
味方が群がってきたのでやむなく討って、
その後出家した
という丸パク(ry な話がある




57 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 01:22:53
面白いかどうかはともかくちょっとトリビア

伊達騒動の柴田外記は長宗我部元親の孫

58 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 20:40:55
平安後期、
相模に坂東平氏で鎌倉景政(平景正)という武将がいた。
源義家の部下であった彼は、後三年の役に参戦したとき敵に右目を射られ、
矢が目に刺さったそのままでその敵を射殺するという豪のものであった。

その後なんとか陣に帰るものの、ついにその場に倒れ、味方の三浦為嗣が慌てて
近づき景政の顔に足をかけて矢を引き抜こうとした。
しかし、景政は武士の顔を踏みつけるとは無礼であると怒り、為嗣にひざまづかせて矢を抜かせたという。

この人・・・・人間?

59 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 22:30:53
面白いと言ったら渡辺幸庵

関が原の合戦では伏見城を守備
忠長付きになるが改易で浪人、巡礼の旅へ
山の中でろくろ首の村を発見w
島原の乱では板倉戦死に立ち会って遺体を担いで逃げる
中国へ密航
印度へも行く
帰ってきて幕府に咎められるも忘れたと言ってごまかす
享年130歳w

60 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 10:52:53
age

61 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 11:38:34
>>58

ていうか、この挿話が医学的におかしいということを
杉田玄白が書いている

62 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 07:28:57
このスレ、1000まで逝かんな。(´〜`)

63 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 07:54:20
徳川家康(竹千代)が今川家の人質時代、初恋の女性と伝えられているのが、飯尾豊前守の奥さん。
もちろん、人妻に恋したわけではなく、恋していたが、飯尾豊前に嫁になって失恋。
で、この飯尾豊前の家来に松下嘉兵衛という人がいる。
で、この松下の下でサルに似た召使が若き日の豊臣秀吉(日吉丸)。

つーわけで飯尾豊前を通して、竹千代と日吉丸が顔を会わせていた可能性がある。


64 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 17:18:10
小なりといえど城預りな松下之綱と、
小なりといえど三河の有力勢力の跡取りで、
今川家青年将校として将来を期待されていた松平元康

なら、籐吉郎だって元康の面ぐらい見たことあるべよ。普通に。

65 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 17:32:33
日本史の範疇にはいるかどうか微妙だけど
日露戦争時、部下である杉野兵曹長を助けに戻った「軍神」広瀬中佐。彼は
爆死してしまうが、なんと、助けに戻った杉野は生きていたかもしれない・・・
じゃあ広瀬の死は一体・・・


66 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:44:54
     

67 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 02:02:53
>>64
身分がまったくちがうので、藤吉郎は直に目通りできる訳もない。
遠目にみるぐらいで元康は藤吉郎の事など相手にするどころか存在も認知
していない。
藤吉郎の方はこれまた相手どころが眼中にも無かったと思われる市の
面影を茶々に求め、やはり眼中にも無かった勝家を潰しているので
執念はあったとは思うけど、いずれにしても一般人と芸能人ぐらい
元康と猿とはかけ離れていた

68 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:53:03
そうでもないと思うけど

今川家中だよ?あの当時の。
その程度の所帯だよ?

元康→籐吉郎、の面識はなかったかもしれないけれど
籐吉郎→元康、は当然あったろうし、

元康→松下のとこの下っ端、という認識はあったかもしれない。

69 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:14:50
元康が三河に住んでて松下が岡崎の松平に出入りしてたらの話だな。


バーカバーカ

70 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 00:27:14
なんやねん

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