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【越山】福井の歴史も語ることあるよね?【若水】

1 :松平春嶽:2005/04/10(日) 18:00:12
遠く遡れば、鳥浜貝塚
新しければ、瀬戸内寂聴

間をとれば、角鹿命、継体天皇、紫式部、蝉丸、道元、新田義貞、朝倉義景、柴田勝家、
乱心先祖軍団、お仙、わし、左内、雲浜、岡倉天心、岡田啓介、山川登美子

ゆかりの人は数知れず、そろそろ語れるときじゃない?
朝倉スレはあるから、それ以外でお願いします。

2 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 18:03:24
福井県博物館
http://www.pref.fukui.jp/muse/Cul-Hist/

偏った紹介ですが、これもらしいと言うことで・・

福井の名前の由来
この地名のいわれは、織田信長の重臣・柴田勝家が築城した「北ノ庄城」の歴史からなるものです。
本能寺の変が起こったとき、上杉の攻撃をおそれた勝家は、出立をちゅうちょして秀吉に戦功をゆずることになりました。
関ケ原の戦いの後、北ノ庄に封ぜられたのは、徳川家康の第二子であった結城秀康で、文武を愛した名君でしたが、
弟である二代将軍秀忠に従うのを嫌ったため、暗殺されたともいわれています。
後を継いだ藩主・松平忠直は名高い暴君で、その乱行ぶりは、後に菊池寛が小説「忠直卿行状記」に描いたことでよく知られています。
城主・松平忠昌は、二代にわたる城主の不幸を悲しみ、「北ノ庄」の北は「敗北」に通じるとして、「福居城」と改名。
これが現在の「福井」の地名の由来となっているようです。


3 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 18:07:00
気比神宮の『都怒我阿羅斯等命』(ツヌガアラシトノミコト)
任那の王子様も訪れる日本海の玄関口。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4311/tunugazinnzya.htm

4 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 18:08:24
福井県の歴史 in Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%9C%8C#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

5 :平泉寺白山神社:2005/04/10(日) 18:13:54
福井県勝山市

養老元年(717)に泰澄大師によって建てられた修験道三聖地の一つ、平泉寺白山神社。
現在の拝殿はもとの大拝殿の1/10にすぎず、大拝殿は45間以上(81m)もありましたが、兵火により焼失しました。
拝殿あとはじゅうたんを敷きつめたような青苔が美しく、拝殿の入口には中宮平泉寺と一品天真親王の筆による立派な額がかけられ中に数多くの絵馬が奉納されています。

朝倉義景が頼った所でもあり、福井の延暦寺的位置づけでしょうか。
東尋坊もここのお坊さんでした。

6 :東尋坊:2005/04/10(日) 18:15:17
 昔、平泉寺には数千人というお坊さんがいました。その中に、とても力の強い東尋坊という僧がいたのですが、
この東尋坊は自分の力が強いことを頼りに、悪さばかりをしていました。東尋坊が暴れ出すと手がつけられないので、
誰も彼を押さえることは出来ません。東尋坊はまさに、やりたい放題、好き勝手に悪行を重ねていたので、
当然のように平泉寺のお坊さんたちは困り果てていました。


7 :東尋坊:2005/04/10(日) 18:16:04
 そして寿永元年(1182)四月五日、平泉寺の僧たちは皆で相談し海辺見物に出かけることにしました。
その時、東尋坊も誘われ、彼も一緒に行きました。一同が高い岩壁から海を見下ろせるその場所へ着くと、
早速、岩の上に腰掛けて酒盛りが始まりました。その日は天気も良く、眺めの良い景色も手伝ってか、
皆次第に酒がすすみ、踊り出す者もいました。更に酒がすすみ、その内、東尋坊も酒に酔って横になり、
うとうとと眠り始めました。


8 :東尋坊:2005/04/10(日) 18:16:59
 東尋坊のその様子をうかがうと一同は目配せをし、真柄覚念(まがらかくねん)という侍に合図を送りました。
この一同に加わっていた真柄覚念は、ここぞとばかりに東尋坊を絶壁の上から海へ突き落としました。
平泉寺のお坊さんたちのこの観光の本当の目的は、東尋坊を酔わせて高い岩壁から海に突き落すことにあったのでした。
崖から突き落とされつつ、ようやくそのことに気付いた東尋坊でしたが、もはや手遅れでした。
近くにいた者どもを道連れにしつつ、東尋坊はまたたくまに崖の下へと落ちて行きました。
 ところが、死に際に子供たちやお坊さんたちを道連れにしたものの、それだけでは東尋坊の無念は晴れませんでした。
東尋坊が波間に沈むやいなや、それまで太陽の輝いていた空に、たちまち黒い雲が渦を巻きつつ起こり青い空を黒く染め、
にわかに豪雨と雷が大地を打ち、大地は激しく震えだしました。そして、東尋坊の怨念がついには自分を殺した真柄覚念をもその絶壁の底へと吸い込んでしまいました。


9 :東尋坊:2005/04/10(日) 18:18:10
 以来、毎年東尋坊が落とされた四月五日の前後には烈しい風が吹き、
海水が濁り、荒波が立ち、雷雨は西に起こり東を尋ねて平泉寺に向ったということです。
 この近くに住む漁師は、この日は沖に船を出すことができないだけでなく、
毎年のこの祟りを恐ろしく思い、ある日、福井東光寺の長老瑞雲に申し出ました。
早速、瑞雲はこの岸にのぞみ、「

 好図見性到心清  迷則平泉不太平
 北海漫々風浪静  東尋何敢碍舟行

 」という詩を作り波に沈めました。するとそれまで例年続いていた東尋坊の祟りが、
この日をさかいになくなったということです。

 一説には、回国の僧がこの地にやって来て、「

 しつむ身のうき名をかへよ法の道
        西をたつねて浮へ後の世

 」という一首を水底に入れて以来、祟りが鎮まったともあります。


10 :若狭彦神社:2005/04/10(日) 18:32:09
http://www.genbu.net/data/wakasa/wakasahiko_title.htm
若狭彦神社と若狭姫神社

山幸彦と豊玉姫の神社です。
東大寺二月堂にお水送りを行う神社でもあります。



11 :日本@名無史さん:2005/04/10(日) 23:09:37
福丼の歴史はタブー
哀痴最弱マンがやってくるから

12 :継体天皇:2005/04/11(月) 03:05:42
 継体天皇は、いまの福井県(越前)に住んでいた。越前の伝承では、九頭竜川、足羽川、
あるいは日野川の流域平野を大いにひらいて農業生産をあげたという。
その在世は五世紀から六世紀にわたっている。越前の古墳文化でいえば、
旺盛なエネルギーでもって中期古墳が無数に造営されつつあった頂点(もしくはそのエネルギーの末期)にあたる。

 名は、男大迹王(おおどのおおきみ)(もしくは彦太尊)と呼ばれた。おそらく彼は、富強であったであろう。
 この勢力家はの正体については、『日本書紀』は応神天皇五世の孫であるという。
実父はいまのJR湖西線ぞいの滋賀県高島郡にいたともいう。実際はどうであったかもわからず、
そういう由緒は当時でもつくることができるのである。たとえかれが五世の孫であったとしても、
五世代も経って、しかも父が湖西の草ぶかい高島の地にいたという程度ならば、地下の者とさほどかわらない。



13 :継体天皇:2005/04/11(月) 03:06:37
ときに、倭(やまと)政権は前代の血が絶えた。
 そこで、有力な豪族たちが、はるか越前(当時、越前という呼称はなかった)の地にいる人物をかつぎ、
畿内にまねいて天皇になってくれことを望んだという。『日本書紀』によると、男大迹王はすでに五十七歳になっていた。
手腕、勢力、思慮すべてが成熟しきった年齢といっていい。

 かれはその擁立運動に応じ、おそらく大軍をひきいて越前から出てきたが、ふしぎなことにすぐには大和盆地に入らなかった。
淀川ぞいをくだってこんにちの京阪沿線の樟葉(くすは:いまは楠葉)でとどまり、そのあとその付近で三ケ所を転々しつつ、
二十年経ってからやっと大和に入り、磐余(いわれ)に宮居(みやい)した。(継体天皇成立は西暦507年)
おそらくこの間、大和盆地や諸方の豪族の出方を見たり、政治工作をしたりしていたに相違なく、このことを見ても、よほど慎重な性格だったと思える。
 このことは、古墳時代中期の越前の地が、他の先進、後進の地方にくらべ、農業生産や鉄器生産、あるいは灌漑土木が沸き立つほどにさかんだったのではないかということを想像させるに十分である。



14 :日本@名無史さん:2005/04/11(月) 03:15:28
糞田舎
自殺の名所
以上

15 :日本@名無史さん:2005/04/11(月) 04:30:44
>>14
確かに自害した柴田勝家もいるが、それは現実であって歴史ではない。
若狭も中国、越前にいたっては上国。京に隣接しているれっきとした都会です。


16 :日本@名無史さん:2005/04/11(月) 12:33:26
>>14
同意
>>15
福井が都会なら47都道府県すべてが都会になるじゃん

17 :日本@名無史さん:2005/04/11(月) 12:37:52
>>16
だから、それは現実であって歴史の話ではない。
歴史上は上からかなり政治の中心地寄り。

18 :日本@名無史さん:2005/04/11(月) 13:03:16
>>17
現実は糞田舎って認めてるのねw あははは

19 :日本@名無史さん:2005/04/11(月) 13:05:54
まんせーまんせー

20 :日本@名無史さん:2005/04/12(火) 03:22:48
北陸4県の都会度
大都会新潟>>ラフォーレ金沢>>マツヤ富山>>サバづくし福井

21 :日本@名無史さん:2005/04/12(火) 03:41:20
歴史の無さ
新潟(この板最低スレが推奨)>>金沢(江戸以降)>>越中>>越前

22 :日本@名無史さん:2005/04/12(火) 13:31:18
まず縄文時代から始めませんか?

23 :日本@名無史さん:2005/04/13(水) 20:29:48
福井は漁村だからどこへ行っても鯖臭い。

24 :日本@名無史さん:2005/04/13(水) 23:33:40
>>23は歴史だな・・。

鳥浜貝塚から発掘された物を見ると、アシカとかオットセイとかだけでなく
イヌ、ヤマネコ、オオカミ、ニホンザルと色々なものを食していたんですね。
クジラとかサメも食べていたみたいだし、丸木舟も日本海を渡れるものだとか。
かなり発達した漁村だけど、彼らは北に行ったのか、それとも血は残っているのかどうなんでしょう?

25 :日本@名無史さん:2005/04/13(水) 23:42:28
>>15
>若狭も中国、越前にいたっては上国。京に隣接しているれっきとした都会です。
京都府で「都会」と言えるのは京都市の中の一部分だけ。
それ以外はすべて田舎。
特に京都の日本海側は福井以下のド田舎だよ。

26 :ty270410:2005/04/13(水) 23:53:56
朝倉氏勃興の前後(?)に活躍したとされる
斯波政綿について教えてください!

27 :日本@名無史さん:2005/04/14(木) 11:18:34
ぐぐったら4件です。読んで下さい。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E6%96%AF%E6%B3%A2%E6%94%BF%E7%B6%BF&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

では能が無いので、一応まとめを・・。
越前の府中〜敦賀の街道の要所付近に斯波氏の一族が配置されていて、孝景vs甲斐・斯波in応仁の乱時のその地域の当主が政綿であろう?ということです。
その時期の甲斐氏と斯波氏の本拠が府中だから、一乗谷から廻って来ると池田・今立の辺りはほぼ背面になり、そこにいる斯波一族が斯波・甲斐の味方につくと面倒だから、その時は重要人物だったのでは?
そして、このあとは傀儡にされた鞍谷氏と同じ地域だから、鞍谷の一族に繋がる人なのかも・・?ということです。
鞍谷氏系図、当然のように名無し。
ttp://www1.odn.ne.jp/~cem89780/siba.html
鞍谷郷長斯波詮教子民部
  義久郷長子左京
  義次郷長子左京
嗣俊斯波義俊子足利義嗣子?右衛門鞍谷御所
  嗣時嗣俊子掃部
  嗣知嗣時子刑部
しかし、斯波家譜では永正16年から大永5年(1519-1525)までの発給文書に登場しているとも書いている人がいるので、時代が思いきりズレている・・・。
義廉が1506年に死去。義俊もしくは、嗣俊・・・。

結論;それ程重要人物ではなく、福井の歴史にはあまり影響がなかった人物。
   これ以上の興味は偉い人の追加を待ちましょう。

28 :日本@名無史さん:2005/04/14(木) 14:44:37
鞍谷の件は朝倉スレでガイシュツ

29 :日本@名無史さん:2005/04/25(月) 12:30:10
先祖が福井で武士だったらしいのですが、同じ苗字の永見右衛門(忠直乱心時)に興味があります。
そのあとの一族はどうなったのか詳しい人はいますか?

あと、忠直に攻め殺された時の土地や、一族の領地は何処なのでしょうか?

30 :日本@名無史さん:2005/04/28(木) 14:35:55
大谷吉継が、吉隆と名乗っていた時間はどれくらい?

31 :日本@名無史さん:2005/04/28(木) 18:25:18
>>25
いや福井に住めばすさんだド田舎はここくらいだと思いますよ。田舎人の顔つきですし。プリズム福井が出来たくらいで騒ぐから他府県から見たら奇妙キテレツですわ。
福井以下の田舎って離島とか北海道の過疎地とか山陰の山奥くらいですわ。マジで。

32 :日本@名無史さん:2005/04/29(金) 11:46:27
>>30
吉継は三成に組する時に改名したのが六月二十一日(日時には異説あり)
9月15日に関が原で討ち死にするまでの3ヶ月間が大谷吉隆です。

福井敦賀は1589-1600の11年間治めました。

33 :日本@名無史さん:2005/04/29(金) 20:26:33
かつては福井は北は石川県で南は滋賀だったんだよね。南は福井より滋賀と未だに仲良し。
北は石川からもほされてしまうくらいの嫌われ地域。北だけでは福井は成り立たないから滋賀の一部を無理やり取り上げてしまい、無理やり福井県を作りあげたわけです。

34 :無名:2005/04/30(土) 00:57:43
 福井の歴史について語ろうというのに田舎論議に変えてしまったり、攻撃的な修飾語を
ことさら使うのは、その人の日常が緊張感で苛立っていることから生じる訳ですが、
それは文化論ではなくて怒りの捌け口にすぎませんね。ちょっと寂しい。

35 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 01:16:10
>>34
という風に都合のいいように解釈するのは、脳内がry


>>29
永見姓は元々愛知だぞ
そっち洗え

キーワード:双子

36 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 08:47:19
>>35
その情報は知らなかったので面白かったのですが、
私の先祖は永見かつ越前松平の領地に実家のお墓があります。
先祖が武士だったということしか分かりませんので、
永見長次が何故1万石以上も貰えるのたのか?や
忠直に殺された右衛門が何処で殺され、何処が領地だったのか興味があるのですが?


37 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 09:43:27
>>33
黙れ外様石川。

38 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 09:52:57
>>34
残念、福井の人間だね。前田利家みたいな人が福井にいたらまた違っていたんだろうね。
石川県は歴史を語らせれば興味深いけど福井はマイナー。


39 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 10:33:23
>>36
福井藩の永見は,福井藩発祥だよ。御殿様お気に入りの寵童。

40 :無名:2005/04/30(土) 10:47:43
 福井はマイナーで十分なんですよ。結局、東京中心の明治以降の国づくりから見れば
どの県も捕らえ方は同じ。ところで、石川県は辻正信どう考えているのかしら。

41 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 10:47:49
>>6-9
で、平泉寺は義仲軍に協力したの?



と、知っていてあえて聞く。

42 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 13:01:29
>>39
福井藩『発祥』ってどういう意味ですか?
お万の方の家系から秀康のお付になって福井に来たのではないのでしょうか?


43 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 13:35:07
>>41
斎明は味方したし、裏切った。

と知っているらしいのでこの程度を書いて、
義経が泊まったらしいことと、頼朝から寄進を受けているので、
表立っては表明していないと見た。


44 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 14:56:50
>>38
前田利家は柴田勝家を裏切ったけっこう狡賢い武将だったのでは?
柴田勝家に比べれば人格的に一段落ちる感じ。
俺的には、福井の歴史には儚いロマンがある。

45 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 15:03:23
新撰組が最初本拠を置いてた壬生の八木家は越前朝倉の子孫なんだって
ね。朝倉氏の直系の子孫は全滅してたのかと思っていたが、姓が変わっ
ているのはどういうこと?

46 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 15:13:56
歴史が”面白い”のは越前若狭>>>加賀能登

絶えず”大国”として位置づけられ、
なので絶えず歴史のキーマン(それも二番手ぐらい)が統治し、
なので敗北を続け、警戒され続け、、、

挙句に空襲地震火事水害。


でもこれだけは言っておく。
天下人も首相も横綱もとーっても乏しいけど



 天 皇 出 し た ド 田 舎 は 福 井 県 だ け wwwwwww

47 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 15:56:38
福井県といえば放射能しか思い浮かばない

48 :えーと:2005/04/30(土) 20:40:35
 >>47
思い浮かばないのはあんたが知的に問題だから。
 昔からいるよね。クラスに1人くらい。うけない与太飛ばす奴。
 それはまぁどーでもいいけど。
 福井県は田舎だから田舎のまま21世紀を過ごしてくれればいい。
 それが逆に大切な意味を持つよ。

49 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 20:50:46
福井県の原発の多さ。
悲劇だよ、福井には悲劇がつきまとうね。可哀相…
これは神が託した試練だろうか。
この地域が原発を制御しなければ日本は破滅するだろう。
責任は重いね。

50 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 21:01:18
福井って新潟の北だったか?
青森の西だったか?
あのあたり、どうも位置がよくわからん
山形の東だったか?

51 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 21:22:36
>>42
永見姓は秀康のお付になって改姓。

52 :日本@名無史さん:2005/04/30(土) 21:48:04
>>50
あほかっ ((( ・_・)_θ☆パシッ

53 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 02:55:02
福井県と原発は確かに歴史になりつつあるけど、
まだ30年も経っていないでしょ?
ttp://www1.fctv.ne.jp/~sksknet/genpatu/1980-1.htm

>>48
田舎論議はどうでもいいのだが(ど田舎だと思っているし)、
田舎を残す意義が出てきていることも確かだね。
家の裏の川を普通に蛍が飛び、冬に吊し柿を作る家が普通に見える風景は贅沢ではある。
「一生住むのか?」と聞かれると辛いが・・・。

>>51
つまり、本来の福井藩『永見』である右衛門の系統は忠直乱心で途絶え、福井藩で武士として残った
永見は志摩守の系統だけということでしょうか?

永見志摩守
実名吉次。はじめ毛受忠左衛門と称した。祖父毛受小三郎は三河田原城主であったと伝える。
小三郎の子、孫兵衛は三河小山に閑居していたが、妻が永見吉英の娘で長勝院の妹であり、
孫兵衛の子吉次が秀康に召し出された。秀康の二男、忠昌が五歳の時に附属を仰せつけられ、
大坂の陣の前、駿府で家康の命で秀康の外戚の称号である「永見」と改めた。
忠昌の嫡男、光通が家督相続の御礼に江戸城に登城した際は、光通が幼少のため、
将軍の言葉への返答を吉次が代わって行った。(「諸士」)

永見右衛門
実名吉望(貞武)。永見吉治の子。母が家康の従妹にあたり、母と共に越前に行き、
慶長六年、初めて秀康に仕えるという。慶長十二年閏四月九日、秀康死去の翌日に殉死。
二十四歳。子の右衛門佐は元和八年、忠直に成敗された。十六歳。(「叢記」)



54 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 04:12:10
・永見長良の系統が、その後どうなったか
 (もしかしたら子孫がいて、福井藩が引き取った、とか)
・愛知以前の無名な分家が、そのままついてきて存続してる可能性。
・旧家臣がのちのち(明治以降とか)改姓
・女系で永見家と縁があった家が、藩主に許されて永見を名乗った


・・・とか、いろいろ推測できますなぁ。



55 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 11:07:40
どーでもいいけど、なんで福井人がこんなに皮肉れてしまって古い考えを押し付けるようになったかの歴史を紐とこうよ

56 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 11:33:48

そうか、原発捨て場なのかorz

57 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 12:55:58
>>55
意味が分からんのやって。
話聞いてやるんで、説明してみねの?

58 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 14:59:46
富山人一生懸命だな

59 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 08:38:43
岡田啓介
 明治元年福井藩士の家に生まれる。18年海軍兵学校入学。第15期卒。この後、海上勤務を経て海軍大学水雷科を卒業する。
日清、日露戦争、北清事変、第1次大戦に出征。水雷戦隊司令官、佐世保海軍工廠長、、艦政局長を歴任、ワシントン会議の際は艦政本部長。
高橋是清内閣で海軍次官代理、加藤友三郎内閣で次官。内閣総理大臣時代、2.26事件に遭遇。
 大正13年大将に任ぜられ、第1艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官となるが、事故はほとんどなかったが「保安艦隊」と陰口をされるほど、
無理な演習は避けた。廃棄駆逐艦「弥生」と「初春」を標的に夜間演習が行われ、「長門」「山城」「川内」「由良」から計百数十発の砲弾が発射されたが、
一発も命中することがなかった。新聞は「由々しき失態」と書きたて、海軍部内では「岡田や古賀などがやるからあんなことがおこる」と非難された。
ワシントン軍縮会議当時海軍次官代理、古賀峯一も軍縮支持者であったことから、とくに艦隊派からの非難は厳しかった。
15年横須賀鎮守府司令長官、昭和2年田中義一内閣で海軍大臣となる。
 昭和3年6月4日、関東軍は北京から満州へ引き上げる張作霖を乗せた列車を、奉天で爆破し張作霖を爆殺した。張作霖の帰奉の直前、
満州の治安維持を名目に陸軍は山海関に一個師団の上陸を計画した。政府閣議が了承しようとしたとき、岡田啓介海軍大臣は陸軍が張作霖軍を阻止し
満州を簒奪する計画を見抜き、「北京、天津地方への駐兵については国際間の取決めがある。そんなことをすれば英米との戦争になる」として、猛反対し計画を頓挫させた。
前日に陸海外三者会議で、陸軍の案を聞いた軍令部第3班長米内光政少将が、軍令部長鈴木貫太郎大将に報告、岡田海相に連絡があったものだが
これを境に鈴木、岡田、米内は陸軍の目の敵とされる。


60 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 08:46:43
 昭和4年7月、田中義一内閣総辞職後は、軍事参議官。5年1月ロンドン軍縮会議が開催され、
ワシントン会議に引き続き、補助艦についての制限が討議されることとなる。
日本は三大原則として、対米水上補助艦7割、大巡7割、潜水艦78000dを主張したが通らず、
結局合計6割9分5毛で妥結した。海軍は条約派と艦隊派に分裂し、岡田はただ一人の現役大将として奔走し、
内大臣牧野伸顕(吉田茂の岳父)を訪ね「日本のために決裂は困る」との天皇の意向を知り、
また元老西園寺公望の励ましを受け、条約のまとめ役として奔走した。
艦隊派の強硬派は大将伏見宮博恭王を中心に、軍令部総長加藤寛治、次官末次信正らは
元帥東郷平八郎を抱き込み7割に固持し、「国防が危うい」と条約に反対した。
しかし岡田は「航空機に力を入れればこれでやれぬことはない。
それよりも海軍の反対で政府を倒すことになれば由々しい大事だ」と主張し、強硬派を退けた。
岡田は、海軍の神様的存在である東郷元帥に傷を付けぬよう細心の注意を払った。
時の総理大臣浜口雄幸も「海軍の意向は聞くが決定は政府がする」と毅然たる態度で対応し、
10月1日ようやく枢密院で可決し、翌日批准された。浜口は翌年1月15日、
東京駅で佐郷屋留雄に狙撃され死亡する。その後、続々と条約派の優秀な人材が、
予備役(クビ)に編入されていった。昭和7年財部彪大将(山本権兵衛の娘婿)、
8年3月山梨勝之進大将、同年9月谷口尚真大将、9年3月左近司政三中将、
同年4月寺島健中将、同年10月堀悌吉中将等が予備役に編入された。


61 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 08:49:01
岡田の軍備に対する持論は「軍備というものはきりのないもの、これで大丈夫という軍備はない。
米英を相手に戦うだけの仕度は国力の劣る日本には出来ない。出来ないならばなるべく楽にしていた方がよい」
というものであり「ロンドン軍縮のあと、私はさらに軍縮をやるつもりだった」とも述べている。
艦隊派の加藤寛治はロンドン軍縮会議の条約交渉の委員として出席していたが、
帰国後、東郷元帥に「申し訳ありません」と手をつくと、「馬鹿者、訓練に制限はない」
と叱られたエピソードが残っている。その艦隊派の頭目加藤が晩年、軍縮論に傾斜したのは歴史の皮肉だ。


62 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 08:54:08
昭和7年5月、斎藤実内閣の海軍大臣となり、8年1月に65歳定年で現役を去り、海軍大臣を辞任。9年7月、斎藤内閣総辞職後、内閣総理大臣に就任する。

昭和11年2月26日午前5時、栗原安秀中尉・野中四郎大尉らの率いる歩兵第1・第3・近衛歩兵第3各連隊などの下士官・兵隊役1400名が反乱を起こした。世に言う、2・26事件である。
反乱軍は、首相官邸・陸相官邸・警視庁はじめ政府首脳や重臣の官私邸を襲撃した。
当時の新聞には、岡田啓介首相、斎藤実内大臣、渡邊錠太郎教育総監ら即死、高橋是清蔵相、鈴木貫太郎侍従長負傷、牧野伸顕前内大臣行方不明とされていた。
後藤文夫内相は留守のため、被害に遭わず、直ちに総理大臣臨時代理に任命されている。この後、高橋は死亡。牧野の生存も確認されるが、死亡確認されたはずの岡田が生存していたことが判明する。
射殺されたのは、容貌が岡田にそっくりの、義弟で秘書の松尾伝蔵であった。
岡田の娘婿で秘書官の迫水久常(戦後参議院議員)は
「全く千古の謎というより外申し上げる言葉もありません。
亡くなった松尾は私にとっては妻の関係から叔父に当たりますし、
殊に私の妹がその倅に嫁いでいるので、私自身も何時も『叔父さん』と呼んでいました。
義父が亡くなったと思ったのが叔父になったのですから、
私としては嬉しいんだか悲しいんだか判りません。(略)」
と複雑な心境を語っている。
岡田は女中の機転で女中部屋の押入にもぐり込み、反乱軍の目を欺いた。岡田は『反乱軍に占拠された首相官邸の押入の中でいびきをかいて寝ていた』との説も流れるほどの豪勇であった。
この後、岡田は変装をして首相官邸から車で逃れた。軍法会議の結果として公表されたところによれば、
4日間のクーデターに参加した兵力は、将校21名・見習士官3名・準士官下士官91名・兵1358名で、
民間人は「日本改造法案大綱」(大正8年)の著者・北一輝とその門下で予備騎兵中尉の西田税を含めて10名であった。


63 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 08:55:38
 その後岡田は表舞台に立つことはなかったが、重臣の一人として日米開戦に反対し、
米内光政等と共同で東条英機内閣打倒を画策し、鈴木貫太郎内閣の和平工作では影の力となった。
 評論家の新名丈夫は井上成美との対談で、日本海軍5人の英傑として勝海舟、山本権兵衛、
加藤友三郎、岡田啓介、米内光政を挙げている。井上に異論はなく、これに山梨勝之進を加えている。
 昭和27年10月10日逝去。86歳。

全然知らなかった。2.26で殺されかけただけだと思っていた。
実はすごい人だったんだね。


64 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 10:47:27
>>41
倶利伽羅峠の義仲の火牛の計は「源平盛衰記」に出ているだけで嘘っぽいと言うのは知っていたのですが、
それよりも、長門本「平家物語」では義仲と平泉寺長吏斎明が北陸で戦った時に、
斎明が火牛の計を使っているらしいのです。
これは本当ですか?


65 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 12:03:35
>>64
本当

66 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 16:30:51
和泉村に行けば源義平の青葉の笛伝説が出てるけど一の谷の戦いの平敦盛のとごちゃごちゃになったのじゃないかとは思います。
おみつと言う女性も架空なのでは?いかに何もしない義平をダメにしたような女性って感じで(挙兵するとき察して止めようとしなかったし)好きにはなれないです。

67 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 19:05:47
続きです
義平が20歳ならば正室の一人くらいいてもおかしくないと思います。
父義朝に至ってもたくさんの奥さんを持っていたのも事実ですし。
そこんとこ誰か知りませんか?


68 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 23:45:11
義平の正室は新田義重の娘と書いてあるが・・。
それと、おみつと結婚したかどうかも定かではないけれど、
庄屋の娘、かつ1ヶ月の短い期間じゃ妻になることは不可能じゃない?
1ヶ月もあれば妊娠させることは余裕で可能だけど・・・。

あとは美濃に逃げた悪源太が何故越前に向かったのか?
それらしい理由はあるのだろうか?

69 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 14:58:59
>絶えず”大国”として位置づけられ、

これ。

70 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 21:17:41
>>68
大河ドラマ「義経」を見ていて、庶民の女性の名前がうつぼとか千鳥とか当時はそんな名前が一般的だったのになぜ「おみつ」と言う名前なのかが疑問ですね。
高貴ならば時子とか政子になるのですが。おそらく後に作られた人物だと思います。


71 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 22:44:31
続きです
1ヶ月しかいなかったのならば結婚生活は無理でしょう。
和泉村でずっと暮らそうなんて思ったのも不明ですね。そこに暮らすならば正室を普通連れてくるとは思いますが・・・・仲が悪かったのかな?

72 :日銀の福井総裁:2005/05/11(水) 23:37:14
日銀の福井総裁

73 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 02:59:25
北陸一の糞田舎、自慢できるものといえば自殺の名所と原発だけ
悲惨だな福井県人w w w

74 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 06:08:16
>>70
名前はどうでもいいんじゃないか?それに庄屋の娘に高貴も何も無いだろ。
大河ドラマは作り話。比較する対象ではない。

義平とおみつについても結婚しているしていないじゃなく、
単に夜の相手をさせられてただけだろ。

それと正室を連れまわす人間なんぞ、あの時代にはいない。
正室は家にいるのが普通。

>>72
大阪出身の商人が何用だ?

>>73
現実じゃなく、歴史を語れ!

75 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 13:24:39
歴史的に面白いところだぞ。
富山、新潟の一部まで治めた越の国の中心地で、京に北陸で一番近く、文化が伝わってきている。
奈良の東大寺へのお水送りとか、阿部清明関連の土御門家跡とか、一乗谷とか、
あんな狭い地域にいっぱい面白さが詰まっていることを、教養なしではみつけられまい。
無教養では、小学生並みの原発がせいぜいかな。

76 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 15:46:49
>>74
大河ドラマが全くの作り話とは言えませんね・・・・。千鳥やうつぼが実在したかは不明ですが、巴や静は実在しましたからね。上におを付ける呼び方は室町辺りからじゃないのと思いますが。
庄屋の娘なんて身分は低いですよ。


77 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 15:48:57
>>74
正室が家にいるのが普通と言う根拠は?
根拠もないのに決めつけるのが福井人らしいね。あははは。

78 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 23:45:45
>>77
正室を外(出張先でも戦場でも)に連れまわした人をあげてみようよ・・・。


79 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 01:25:00
馬鹿に言っても無駄

80 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 09:31:16
>>78
じゃああんたが言え

>>79
あんたも馬鹿な福井県民

81 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 08:06:24
時子、政子、熱田大宮司季範女、河越重頼女、今井兼平女

さて、この中で夫と伴に戦場に出たことがある人はどなたでしょうか?


82 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 09:43:14
福井は北陸とされてるが
県民意識は圧倒的に関西より、
道州制が実現するなら関西に属したいという意向。

あと石川と富山は仲が悪いし、
新潟は自分たちが北陸とは微塵も思ってない。
北陸なんてもはや意味のない定義。

83 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 10:34:23
>>82
> 新潟は自分たちが北陸とは微塵も思ってない。

じゃ、新潟は自分たちを何者だと定義してるんだろ。

84 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 10:44:26
>>83
甲信越もしくは関東甲信越として関東の一部。

85 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 12:08:58
>>82-84
新潟の話はスレ違いな上に、擦れ違い易いのでお控え下さい。

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