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  新撰組にいたが、長生きできた人  

1 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 16:11:38
新撰組にいた人は幕末あるいは明治が始まってすぐに討ち死にしたり、斬首されたイメージが強い。
だが、運良く長生きできた人も結構いるんだ。
そう言う人物に関してあれこれ語り合いませんか?

2 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 16:12:49
例えば篠原泰之進。

3 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 16:13:02
やだ

4 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 16:24:28
オダジョーが演じた人は相当長生きしただろ。維新後も官吏か何か知らんが
自治体(政府か?)の仕事やってたみたいだし。

5 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 16:34:08
箱館新選組だが、昭和まで生きたのがいたな。

6 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 16:51:47
>>5
誰ですか?

7 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 16:53:24
土方歳三

8 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 16:59:29
田村銀之助

9 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 17:02:50
藤田五郎はお茶の水の学校で交通整理やってたっけな。

10 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 21:28:40
篠原泰之進しのはらたいのしん 1828〜1911篠原泰輔。篠塚友平。泰河内。泰林親。文政11年、筑後国生葉郡高見村の石工業・篠原元助の長男として生まれる。
幼い頃から武術に熱心で、久留米藩の宝蔵院流槍術師範であった森兵右衛門に入門し槍と剣を学び、18歳の時に良移心流柔術師範の下坂五郎兵衛に柔術を学んだ。
嘉永5(1852)年に久留米藩士に仕え、その後、家老・有馬右近に奉公する。
安政5(1858)年5月、有馬の江戸入りに従い藩邸に入る。
しかし、程なく起きた桜田門外の変に衝撃を受け、尊皇攘夷を志し、水戸、大坂、上総、下総、越後を歩き、尊攘志士と交流を持った。
文久3(1863)年には神奈川奉行所に雇われ、横浜の外国人居住地の警備を勤め、そこで服部武雄、加納鷲尾、佐野七五三之助らと交友を深めた。
その後、江戸に行き、加納に伊東大蔵(後の伊東甲子太郎)を紹介される。
元治元(1864)年10月、新選組入隊を決めた伊東、三木三郎らと共に上洛する。
しかし、篠原が正式に新選組に入隊したのは数ヶ月後のことである。
慶応元(1865)年初夏の再編成では諸士取扱兼監察、柔術師範に就任する。
新選組を尊攘派に替えようとするが、近藤の意を翻すことは出来ないのを悟り、離脱を画策する。
御陵衛士を拝命して離脱するというのは、篠原の尽力によるところが大きい。
果たして篠原は、慶応3(1867)年、同士と共に離脱し、伊東を盟主として高台寺党と呼ばれるようになる。
このとき泰河内と改名する。


11 :日本@名無史さん:2005/04/20(水) 21:30:21
しかし、11月18日、伊東が油小路で謀殺される。
通報を受け、伊東の遺体を引き取りに行った篠原らは、潜伏していた新選組と戦闘になる。
藤堂平助、服部らは惨殺されたが、篠原・三木、加納、富山弥兵衛の4人は脱出に成功し、その後薩摩藩の庇護を受けた。
新選組への復讐を画策していた篠原ら高台寺残党は、12月18日、伏見街道沿いの民家に潜伏し、馬に乗り二条城から屯所に戻る近藤勇を狙撃した。
銃弾は近藤の右肩に命中し、重傷を与えた。
慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩軍に加わり戦った。
続く戊辰戦争では赤報隊に加わり、偽官軍事件の巻き沿いを食い投獄される。
しかし、まもなく嫌疑が晴れ、陸軍軍曹として戦功を挙げた。
維新後は秦林親と改名し、永世士族の許しを得た。
警察庁、大蔵省などに奉職し、明治6(1873)年4月に辞職した。
その後は、様々な事業に手を出したが、日の目を見ることはなかった。
晩年はクリスチャンとなり、若い妻と2人の男子と共に過ごし、 明治44年6月13日、天寿を全うする。
享年84。


12 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 00:45:53
>>4
明治政府の警察官になったらしい。

13 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 00:53:44
池田七三郎氏が昭和11年までだっけ??

14 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 01:36:57
永倉君も長生きさ

15 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 01:38:50
鈴木三木三郎

16 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 01:47:59
長州力

17 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 04:38:54
斎藤一(さいとうはじめ) 1844〜1915山口一。山口次郎。山口二郎。一戸伝八。一瀬傳八。藤田五郎。斉藤一。 弘化元年正月1日(2日とも)、明石藩足軽・山口祐助の次男として江戸に生れる。
母はますという。
19歳の時に、旗本を殺してしまい、京へ上り、父の知人の吉田某の道場で代稽古を勤めていたといわれている。
文久3(1863)3月、浪士組上洛直後に、京都で入隊し副長助勤となる。
9月25日には長州藩の間者であった御倉伊勢武を殺害した。
元治元(1864)年6月5日の池田屋事件では、土方の組におり、到着後、戦闘に参加、報奨金17両を賜っている。
元治元年(1864)8月頃には、近藤勇増長に不満を抱き、永倉新八、原田左之助らと共に会津藩に上書を提出している。
伊東甲子太郎入隊後の再編成では三番隊組長、剣撃師範に就任する。
武田観柳斎を殺害したのは斎藤であるというのは後世の作り話の可能性が高い。
伊東らが、新撰組を離脱すると、斎藤も同調し高台寺党に参加した。
これは、近藤の密命を受け、間者として潜り込んだものであるらしく、近藤暗殺計画があることを伝えた。その後帰隊する。
そして、油小路の変で伊東らの暗殺へと繋がっていく。


18 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 04:40:59
鳥羽・伏見の戦いでは、永倉と共に殿軍を務め、甲州、会津と転戦。白河では、負傷した土方に代わり新撰組隊長を務めた。
この間に山口二郎と改名する。
榎本艦隊に乗っての蝦夷行きに反対し、離脱する。
その後、山口に同調した20数名と共に会津藩の一員として戦い続けた。
敗戦後は塩川村にて謹慎、その後越後高田城下に送られる。
会津藩が斗南3万石として再興を許されると、山口は斗南藩士として下北半島に移住した。
また、同時に一戸伝八(一瀬傳八)を名乗る。
明治5(1872)年、警視局に入り、後に警部補に任ぜられる。
この間、本仲人・松平容保、下仲人・山川浩、佐川官兵衛により、高木時尾と結婚している。
その際に、容保から藤田五郎の名を与えられた。
二人は、勉、剛、龍雄の三人の男児に恵まれた。
元会津藩士として、西南戦争にも出陣した。
その後は、博物館、学校などに奉職した。
大正4年9月28日、床の間に座ったまま往生した。
享年72歳。

 死因は胃潰瘍であったといわれている。


19 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 07:41:21
長生きとは違うが、アメリカ留学に行った奴もいたな。

20 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 13:53:08
>>18
当時の塩川なんて とんでもない僻地だったろうなぁ

21 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 17:49:44
発起人の山岡鉄太郎や山口徳之進は維新後も宮内省高官になって贈爵されている。
清川も生きていればこのぐらいにはなっただろう。


22 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 20:21:48
長生きしてパン屋になった奴もいるんだろ?

23 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 22:43:34
永倉新八(ながくらしんぱち) 1839〜1915永倉栄治。栄吉。英治。永倉新八載之。杉村義衛。長倉新八。
天保10年4月、松前藩江戸定府取次役・長倉勘次の次男として、江戸・下谷三味線掘の松前藩長屋に生れたという。
8歳のときに、本所亀沢町(現在の神田猿楽町)にあった岡田十松の撃剣館に入門し神道無念流を修行し、15歳で切紙、18歳で本目録を得た。
19歳のころに松前藩を脱藩し永倉と姓を改める。
百合元昇三に神道無念流をまなび、22歳で免許皆伝を許された。
また坪内主馬の元で心形刀流の剣も学んだ。その道場で島田魁と出会う。
23歳のころ、近藤勇と出会い試衛館の食客となり、文久3(1863)年2月、近藤らと共に浪士組上洛に参加する。
 副長助勤を勤め。文久4(1864)年6月の池田屋騒動では、近藤・沖田総司・藤堂平助と斬り込み、
沖田が病に倒れ、藤堂が額を割られて離脱した後も、刀を折り、指を削がれながら奮闘した。
事件後、20両の報奨金を賜っている。
同年8月には、同士を家臣扱いするようになった、近藤に不満を抱き、原田左之助・斎藤一らと共に松平容保に近藤批判上書を提出し、
その後謹慎処分となったようで、同時期の編成から外れている。
その後は、二番隊組長、撃剣師範を務め、三条制札事件などに活躍、油小路の変でも剣をふっるった。


24 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 22:46:21
伊東甲子太郎とともに新選組に入隊した阿部十郎の後日談に「沖田よりはちと稽古が進んでおりました」と残されており、
その剣技は、沖田をも凌ぐものであったことがわかる。
鳥羽・伏見の戦いを経て、甲州勝沼の敗戦を最後に近藤・土方との溝を埋められず新撰組を離脱する。
自ら靖共隊を組織し副長となり会津を目指し、小山、宇都宮など各地を転戦した。
  戦後は、単身江戸(当時は既に東京と改められていた)に潜伏後、松前藩に帰参する。
その後、鈴木三樹三郎と偶然再会する。
三樹三郎は永倉を兄・伊東甲子太郎の仇のように思っており、身の危険を感じた永倉は、
元松前藩医・杉村松柏の養子となり北海道福山に移る。
後家督を継ぎ、杉村義衛を名乗る。
明治9年、松本良順の協力で板橋・近藤勇の処刑場跡に近藤・土方の墓碑を作り、隊士百余名の名を刻む。
晩年は小樽に帰郷し、札幌で剣術指南をしながら、悠々自適に暮らす。
大正4(1915)年1月5日、虫歯の悪化による骨膜炎、敗血症のため病没。享年76歳。
彼の手記『浪士文久報国記事』は、幕末を幕府側から見た、貴重な資料となっている。


25 :日本@名無史さん:2005/04/22(金) 06:15:43
篠原。いい人生送りやがったなぁ!

26 :日本@名無史さん:2005/04/22(金) 06:18:10
>>25
晩年はキリシタンになったんだっけ?


27 :日本@名無史さん:2005/04/23(土) 04:07:53
そうです。

28 :日本@名無史さん:2005/04/23(土) 05:48:10
明治になって、篠原は久留米藩主の依頼でライフル・ロケットの試射を行い、藩士(100石)としても登用された。
その後、弾正台京都支庁少巡察に任命されるが、上司海江田信義(有村俊斎)の大村益次郎暗殺犯死刑執行停止事件に連座して謹慎。
復職するも、久留米の奇兵隊脱走兵隠匿事件に謀議の疑いで免職。結局、お構いなしとなったが、退職。
退職後は実業家となった。後年、クリスチャンに改宗。
秦林親日記を記し(日記といっても、回顧録。息子の書いたものである可能性もある)、史談会に出席して証言するなど、当時の記録を残した。
享年84歳。

29 :日本@名無史さん:2005/04/23(土) 08:18:54
近藤勇には養子がいたよね?
彼はどういう人生を送ったんだろう。

30 :日本@名無史さん:2005/04/23(土) 08:47:52
近藤周平(谷昌武);1848?〜1901
嘉永元年5月20日、備中国松山藩士・谷三治郎供行の三男として松山で生まれる。
谷三十郎、谷万太郎の実弟である。

入隊は文久3(1863)年末から、翌年春頃である。
元治元(1864)年6月の池田屋事変の前頃に近藤勇の養子に迎えられる。
板倉周防守の後落胤という噂を近藤が信じた為だといわれている。

池田屋にも参加し、近藤が養父周斎に宛てた手紙には最初の斬り込み参加したと書かれているが、疑わしい。兄万太郎とのすり替えの可能性もある。
事件後、15両の褒賞金を得ている。

慶応3(1867)年に新選組が幕府直参となった際には見廻組並の格付を得たが、谷性に戻っていることから、その前後に養子縁組を解消されていたようである。

慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦いの後、江戸で脱走する。

維新後は大阪府警に入ったが、ほどなく辞職している。

神戸で没したとされる。享年54。


31 :日本@名無史さん:2005/04/23(土) 08:53:38
>>29
養女もいるよ。
沖田にフラれたけど。

32 :日本@名無史さん:2005/04/23(土) 10:05:08
永倉の死因が虫歯って悲しいよな
新選組1,2の腕前だったのに・・・虫歯はないだろ

33 :日本@名無史さん:2005/04/23(土) 11:56:35
島田魁は西本願寺に戻ったんだっけ?

34 :日本@名無史さん:2005/04/24(日) 23:11:42
たぶん。

35 :日本@名無史さん:2005/04/25(月) 01:52:39
島田はその後西本願寺の警護守衛

36 :日本@名無史さん:2005/04/25(月) 01:57:42
懐の中には常に土方さんの戒名(はぁと

37 :日本@名無史さん:2005/04/25(月) 02:46:35
斉藤一。

38 :日本@名無史さん:2005/04/27(水) 05:30:05
>>32
さぞかし、激痛だったろうな。

39 :日本@名無史さん:2005/04/28(木) 20:31:29
新撰組が落ち目になったら逃げるが勝ちだ!

40 :日本@名無史さん:2005/04/28(木) 20:49:30
よらば大樹の陰    by斉藤一

41 :日本@名無史さん:2005/04/29(金) 01:15:40
原田サノスケ(漢字わからん)が実は生きていて馬賊になったっていう話のネタ元は?


42 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 06:34:28
>>41
単なる噂

43 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 08:59:38
何でよりによって原田なんだろう。
他にいくらでも有名人いるのに。
新選組でもむしろ土方の方が、遺体が見つかってないし知名度あるし箱館だから大陸に近いしで、生存説が出てきそうなもんだけど。

44 :日本@名無史さん:2005/05/01(日) 09:45:51
喧嘩の末に、腹を斬ろうとしたからじゃないか?
つまり、それだけ衝動的行動を多く起こしたと思われたんだろ。

45 :原田:2005/05/02(月) 08:43:14
原田左之助忠一

謎が多い人物ですが、それだけに惹かれます。

伊予国(愛媛)松山藩の足軽の家に生まれ、後に松山藩を脱藩。

左之助は坂本竜馬暗殺の嫌疑もかけられるなど逸話も。
(おそらく犯人ではないでしょう)




46 :日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:34:29
斉藤一の警察官はなんかこえー。

47 :日本@名無史さん:2005/05/02(月) 22:51:25
芹沢グループの生き残り平間重助は?
こいつが近藤、土方や伊東等より長生きしてたのも意外。

48 :新選組十一番隊長:2005/05/02(月) 22:54:04
日露か日清戦争時に、やたら新選組に詳しく、いつも先頭きって斬り込みかけて無傷で戻る初老の軍人が原田左之助だったという話しを祖父が曾祖父から聞いたと言ってました。長い槍ではなく、手槍と云う短い槍を持ち歩いていたらしいです。

49 :原田:2005/05/03(火) 04:47:03
>>48

伝説が多いですね。
あちこちに名前は出てきますけど、知名度は近藤・土方・沖田ら
とくらべ物にならないとおもうのに。

日清・日露の話は、彰義隊で死亡せずに大陸に渡って
馬賊になり日本軍を後方支援という話ですね。
自分で名乗ったという話。

原田さのすけ

50 :日本@名無史さん:2005/05/03(火) 05:39:49
望月三起也の漫画では原田が主人公。

51 :日本@名無史さん:2005/05/03(火) 20:11:42
永倉新八の死因初めて知った
なんか物凄く切ないのは何故

52 :日本@名無史さん :2005/05/03(火) 21:38:10
原田左之助は日中戦争で目撃情報があるぞ。

53 :52:2005/05/03(火) 23:09:27
既出だった(´A`)

54 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 00:27:22
>>52
日中戦争ではないよね?さすがに。

55 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 00:27:50
日中戦争ってことは、生きてても100歳近いんじゃないの?

56 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 06:02:35
原田生存説はガセネタさ。

57 :原田:2005/05/04(水) 08:36:54
日中じゃないよ。日露ですね。
義経みたいですね。

原田さのすけ

58 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 22:57:45
沖田生存説もある。

59 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 01:25:03
幹部クラスは情報が現在も残ってるが、平隊士は最早調べ様が無いよね。
文久時代からの古参平隊士を始め、慶応までの幾度かの隊士募集、
そして戊辰戦争中の隊士募集、加わっては散り散りになって…
案外、昭和初期ぐらいまで京都には元平隊士だった生き残りがごろごろいたかもね。
「元新選組」の肩書きは命取りになるから、まず口外しなかっただろうけど。

60 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 02:57:58
実際、新撰組が国賊という汚名は、いつまで続いたのだろうか?

61 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 03:11:34
来年には解除されるんじゃね?

62 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 20:52:49
去年発見された山崎烝の取り調べちゃうぞ帖はガセ?

63 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 01:11:36
ガセだぜ

64 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 04:28:49
まだ新撰組は国賊扱いなのか?
慶喜公ですら許されたのに、不条理だ。

65 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 04:37:58
だから去年NHKが名誉回復したんじゃないかー

66 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 08:35:11
今はNHK自体が名誉回復に躍起なわけだが・・・。


67 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 21:17:28
大河では芹沢先生の名誉回復はかなり達成された。


68 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 08:33:33
「あと一人は誰だ」

 ゴゴーン

「(ニヤリ)嬉しいぜ」

69 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 14:44:26
近藤の首は京都で晒された後は行方不明だよね?
首なしの遺体はどこにあるの?
掘り返して埋葬した説とか色々説があるけどよくわからないので誰か教えてくらさい

70 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 23:51:11
>>69
水木しげるの漫画では
首無し遺体は
遺族が土から掘り起こして
手厚く葬ったそうだ。

71 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 23:52:21
結局、斎藤一は近藤の首を持ち帰ることはできなかったんだろう?

72 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 12:26:08
斎藤一は正座したまま絶命した、って本で読んだが
本当ですかね?

73 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 13:47:48
>>72
本当です。(座布団の上で死にました)

74 :新選組十一番隊長:2005/05/09(月) 03:10:27
近藤の胴体は一旦、刑場に埋められたが、有志や遺族が掘り出して、近くの寺もしくは三鷹の龍源寺に埋めたらしい。首については諸説あるが、愛知の法蔵寺説が有力かと♪理由はここの住職が京都にいる時に近藤と親交があったため。因みに松平家の菩提寺でもある。

75 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 22:54:51
新選組隊士・阿部十郎。
この人物は、新選組の中でただ一人、新選組を二度脱走している。
一度目は、池田屋事件の前、男色が隊内に流行し、
不逞浪士の追補のみに奔走する現状等に失望し、数名脱走していったなかに彼はいた。
脱走後は大坂に潜伏していたようだ。
その後、新選組は池田屋事件で大戦果をあげ、より強大になっていき、
その新選組の威名に、新入隊士が増えていった。
そんな中、阿部十郎は、この池田屋事件の二ヶ月後、ツテを使って無事に新選組に復帰し、
伍長、砲術師範役など、幹部の道を進んでいったのである。
二度目は、伊東甲子太郎が御陵衛士を名乗って、隊士15名と共に独立した時である。
この15名の隊士の中に、阿部十郎もいた。
その後、御陵衛士から赤報隊として戊辰戦争を戦い、明治40年まで生きた。
また彼は、伏見墨染において、近藤勇を狙撃して傷を負わせている。

76 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 06:00:03
阿部。いい人生送ってるじゃねえか。

77 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 05:48:49
長生きした奴結構いるんだよな。

78 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 22:18:10
もし五稜郭にあると思われる土方の遺体を発見しても 今の科学力で土方の遺体だと証明できるのかな?

79 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 22:22:16
>>78
母親一緒の系統が残ってるから証明はほぼ100%可能。


80 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 22:32:09
なるほど

大規模な発掘調査をしても見つけるのは困難かなぁ
ちゃんと見つけて家族のお墓に入れてあげたい気もするけど、このままのほうが良いのかなぁ

81 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 03:01:38
>>76
けど風雲幕末伝ではいつまでも油小路とか言っててうざかった

82 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 07:12:15
油小路。一発屋みたいだ。

83 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:11:49
俺達の言葉は幕末の人に通じるのかな?
普通に俺達と会話とかできるのかな?

84 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 22:20:22
>>83
会話できる部分もあれば、全く通じない言葉も存在するのではないだろうか?

85 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 09:01:13
以前、俺がネトゲで知り合った人が京都の人で、その人の亡くなったおじいちゃんが元新選組平隊士だったらしい。
まぁ本当かどうかはもはや調べ様が無いけれど、京都には「元隊士」の末裔がゴロゴロしてそう。

86 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 11:21:09
最大時250人位の隊士がいたようだし、その都度に
隊士募集もしていたわけで、鳥羽伏見のゴタゴタ
の中に雇い入れた傭兵じみた人や、甲陽鎮撫隊の
時の募集隊士も、新選組が有名になった事で、後日
人に話をする際には元新選組隊士と名乗っている
可能性もあるし、あながち間違いでもない。
それを考えたら、結構な人数の子孫は残っている
でしょうね。
むしろ、維新後悪役にされた事で、新選組隊士で
あった過去を隠した人も多いだろうし、子孫も
そんなことも知らないままに時が流れている、って
ケースも多いでしょうね。
一番長生きしたとされる、記録に残っている隊士と
しては、稗田利八と言う隊士が昭和11年くらいまで
存命してたよね。
新選組の末期入隊の人らしいけど。
江戸時代最後の生き残りは、確か慶応元年生まれで
120歳まで存命されていた泉重千代さん(1986年没)
のようだから、昭和2〜30年くらいまでなら、新選組に
関わった事のある人が存命していた可能性はあるね。

87 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 17:48:04
赤間さんの新撰組女一人旅の本は面白いですね
実際に現場に取材に言って子孫の話を聞いてるし



88 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 22:23:09
>>86
そりゃすげえや!
波乱万丈の人生だね。
若い者たちにさぞかし昔話をしたんじゃないの?

89 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 04:44:33
>>58
はじめて聞いた。
教えてくれ。

90 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 23:45:40
子母澤寛の書いたものによると、新撰組を脱退した人などの記載もあるよね。
横浜で、ガラス商として成功した人がいるらしいと書いてあったような。

斎藤、原田ほど有名ではないけど脱退した人のその後の人生をおせ〜てください。



91 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 02:14:43
竜馬殺しの犯人として獄中で死刑になった隊士がいたよね?
竜馬殺しの謎を解く本に書いてあった

92 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 03:35:40
>>91
「人斬り鍬次郎」と称された大石鍬次郎ですね。

93 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 16:01:40
鍬次郎かわいそうに

94 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 16:32:58
相馬さんは新島に流された後に浅草に移って自殺してるよね?

95 :日本@名無史:2005/05/19(木) 00:02:15
>>91
竜馬殺しの黒幕は薩摩。
実行は当時薩摩に飼われていた伊東率いる御陵衛士に近藤・土方と袂をわかったふりをして潜入していた斉藤一。
当時薩摩は大政奉還後の体制で主導権を握るため、徳川家存続を主張して譲らない竜馬が邪魔で仕方なかった。
竜馬を消して、罪を新撰組になすりつければ一石二鳥。
斉藤は潜入操作の役目を全うするため竜馬暗殺実行を引き受けるが、実行後すぐに土方に報告する。
新撰組は薩摩の更なる陰謀を封じるため手先の伊藤暗殺を決行する。
というのが浅田次郎説で妙に納得できた。

96 :日本@名無史さん:2005/05/19(木) 06:18:01
>>95
説得力があるな。
坂本龍馬は所詮西郷のパシリ。
用済みになったら捨てられたわけだ。

97 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 16:01:23
浅田二郎>>>司馬遼太郎

98 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 16:55:43
近藤勇の衆道の相手だったという小姓が
昭和の初めまで生きていたという話は聞いたことがある。

99 :新選組十一番隊長:2005/05/22(日) 04:28:09
龍馬暗殺については諸説あるが、俺は中岡もかんでると考えている。薩摩に説得されて、最初の額の横なぎの一刀は中岡が放ったと。その後、検分に来た高台寺党に斬殺されたと。龍馬の傷は少ないが中岡はメッタ斬りされてるし。

100 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 05:20:19
>>95
その説、さいとうたかおさんの「血闘!新撰組」でも採用されていましたね。
俺もそうかと思っています。
>>99
中岡が・・か、確かに龍馬とは意見の食い違いはあったようだけど・・。
盟友にそんなことするかなあ・・。

101 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 05:20:22
>>99
たまにその説を聞くね。

102 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 10:59:11
>>99
とても興味深いですね。
今まで俺が読んできた説だと、新撰組の原田・見廻組の数名という説はあったが
中岡が裏で一枚噛んでいる説は初見でした!
もしよろしければ、もっと詳しく聞かせて頂けませんか?

103 :新選組十一番隊長:2005/05/22(日) 19:33:23
龍馬は北辰一刀流の免許皆伝です。刺客が高台寺党だったとしても、額に横なぎ一閃は無理かと思われ、峰吉が十津川の郷士が来た事を告げた時に中岡なら可能かと思われます。ただ、中岡も自分まで斬られるとは思ってなくて窓つたいに屋根まで逃げたがメッタ斬りにされましたね。

104 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 15:05:11
永倉って北大の道場で「人を切るときはこうする」ってやろうとしたらぶっ倒れて、それからヨボヨボなったと聞いたことあるけどホント?


105 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 22:59:40
本当だ。

106 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 10:25:34
>103
竜馬が北辰一刀流免許皆伝って話は良く聞くが、それは
長刀での免許皆伝だよ。
刀と長刀じゃ全然間合いも違うし、ましてや狭い室内で
は刀を一閃させるだけでも結構な技術だよ。
焦っていれば、たいてい大降りに振りかぶって天井など
を削り、殺すに至らない。
冷静に横薙ぎに額を切ったということは、それだけ前も
って計画をして覚悟した上での襲撃だろう。
いきなり襖を開けての襲撃ではそうも行かず、一番可能
性の高いのは、やはり目前にて隙を伺いつつ歓談しなが
ら機を待って冷静に事が運べた存在と言えば、やはり
中岡慎太郎その人である可能性もあるよね。
でも、自身が切られたのに、存命中に犯人を誰何する事
無く、死んで行ったのは不思議な話だが。
高台寺党とはまるっきり面識がなかったのか、それとも
それ以外の人間だったのか・・・
死ぬ前に幕府内にも肝の据わった人間がいるから注意しろ
との発言をしたのが本当なら、やはり見廻り組にやられた
と考えるのが自然かな?


107 :新選組十一番隊長:2005/05/24(火) 12:37:37
龍馬の皆伝が長刀だったとしても、山内容堂主催の御前試合で優勝したのは確かだし。
中岡は翌日まで生きていたと言われるが、全身数十カ所に及ぶ斬り傷で重体だったので口は聞けないだろう。見回組の今井は龍馬暗殺で獄に入るが後に西郷によって赦免されている。

108 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 13:13:45
>安政の御前試合のもようは、武市半平太が小南五郎右衛門に宛てた
>安政5年10月29日付の手紙に詳しく書かれています。「桂は
>連戦連勝、向かうところ敵なしだったが、龍馬と立ち合うと10本
>までが相打ち、11本目に龍馬がもろ手に付き勝利を収めた」と
>いうことになっています。しかし、龍馬は安政5年それによると
>の9月に帰国、桂も10月に帰国、試合を実見した武市も安政4年
>9月に土佐に帰っています。「坂本龍馬のすべて」の著者平尾道雄氏
>は「手紙はまったく偽文書だ」と指摘しています.

109 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 15:21:55
見回組の今井は西郷によって赦免されているのに新撰組の大石鍬次郎は死刑。
後に今井は西郷には借りがある発言した記録も残ってる。
竜馬殺しの黒幕は薩摩説が有力。

原田を犯人にしようとしてたのは薩摩だっけ?それとも土佐だっけ?

110 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 19:35:53
ん?今井の釈放に西郷が関わっていたことを確証出来る資料は発見されていないぞ。
借りがあるって西南戦争に従軍したことも別に珍しいことではない。
西南は維新政府を潰せるチャンスと目論んで、旧幕府軍も西郷軍に大勢参加していた。

で、龍馬暗殺だが、寺田屋襲撃時の同心射殺容疑の廉で
実行者:佐々木只三郎
命令者:会津藩重臣の手代木直右衛門(佐々木の実兄)
でFAが出てるんじゃね。
まぁ会津方にしてみれば、龍馬は瀕死の長州に薩摩を結びつけた上に、
幕府の権威失墜をもたらした曲者だしな。
龍馬の慶喜延命策をどれだけの幕臣が認識していたか。
事実、近藤・土方は龍馬の死報に喜んでいる。

111 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 20:09:26
>107
>龍馬の皆伝が長刀だったとしても、
>山内容堂主催の御前試合で優勝した
>のは確かだし。
その話は確かな話なのか?
各章を得たと言うような資料を見た事
が無いのだが・・・
まさか、小説の類を見て「確か」なんて
言ってるんじゃないよね?

112 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 20:28:18
龍馬好きの俺が断言するのもなんだが、山内容堂主催の御前試合で優勝したなんてのはない。
創作。

あと、佐々木只三郎は清川八郎も殺してるし、実績で言えば文句は無い。
同じ京都見回り組みの男が、その事件で指を怪我して云々みたいな細かい話もあるし。

113 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 20:45:52
ことごとく否定され続ける107w

114 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 23:27:54
107じゃないけど。
俺の手元にある文献によれば山内容堂主催の御前試合で優勝したって
のは事実らしい。


115 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 23:43:29
 龍馬が剣術試合に参加したという記録は数種類ほどある。その記録のうちの一つに江戸鍛冶橋土佐藩邸で行われた武術大会があるが、
これによると龍馬は「島田駒之助」なる人物と試合をして勝利を得たことが記されている。しかし現在この記録は「当時の事情にかな
り精通したものによって偽作されたもの」との評価が定着している。
偽書とされる理由として
●史料によって試合結果が異なる。(結果の異なるものが三種類以上ある)
●同時代史料の『山内家日記』に該当する記述が無い。
●開催時期が史料によって一貫しない。
●出場者・桂小五郎の詳細な伝記『木戸孝允公伝』に該当記述がない。
●開催された当時、江戸にいるはずのない人物が出場している。

と、ここのサイトは書いている。
ttp://homepage2.nifty.com/ryomado/index.html

116 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 13:05:10
>114
その文献て、竜馬がゆくだろ・・


117 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 19:20:30
>116
それを言ってやりなさんな。
114は「俺の手元にある文献」と書いている割に
その文献名を明かしていない。
「文献名書いたら突っ込まれちゃうなぁ・・・」
って気持ちで、わざと書かなかったんだろう。
多分107と114同一人物だと思うが、突っ込まれ
るのが分っていながら、それでも何とか自分の
意見を正当化したかったんだろうよ。
かわいい奴ではないかw

118 :日本@名無しさん:2005/05/26(木) 19:49:19
市村鉄之助って西南戦争で西郷軍に加わっていたみたいだけど
政府軍にいた斎藤とあった可能性とかないかな?

119 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 20:06:41
市村が兄事していたと言うか付き従っていた
土方と斉藤は会津で別れちゃったし、詳しい
いきさつも知らず、まだ若いから単純に斉藤
に対しては良い感情を抱いてなかったんじゃ
ないだろうか?
新選組内での立場も違いすぎて、互いに口を
聞いた事すらあったかどうか?
例え西南の役で見かけたとしても、市村の方
は距離を置いて知らん顔をしたかも。
斉藤の方は、市村を覚えていたかどうかすら謎。
そもそも、互いに新選組に関っていた過去は隠し
ていただろうしね。
って気がするけどどうだろうね?

120 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 20:12:55
斎藤は豊後口の士族軍と戦闘。延岡で負傷し、東京へ送還。
一方、西郷本隊は鹿児島へ。
市村が桐野の側近にいるなら、遭遇率は皆無。

121 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 23:04:59
司馬の作り話にうんざりの今日この頃。

122 :新選組十一番隊長:2005/05/27(金) 01:27:53
今井は龍馬暗殺の罪で投獄されたが、鍬次郎は龍馬の件で死刑になった訳ではなく、高台寺党の加納らが伊東甲子太郎の暗殺の件で死刑にされたようだよ。伊東を殺しておいて、加納達に顔見知りだから、助けてくれと哀願したらしい。
そして、今井の西南戦争ですが、参加するのは新政府軍だから逆ですね。西郷とはあと腐れなく、投獄、赦免で終わりでしょう♪西南戦争は仕事でしょ。腕を生かしてね。

123 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 10:41:27
ジャンキーで性格破綻者になって自殺した香具師って誰?

124 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 11:24:21
>>123
そんなんいたか?

125 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 05:52:39
>>119
日本史に弱い腐女子っぽいレスだね。
土方と斎藤のいきさつってなによw
会津で離散した時の状況は不明なはずなのに、
痛い小説で得たスパイ説なぞ持ち込まないでくれ。

126 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 08:40:02
http://plaza.rakuten.co.jp/lapislazuri/ 何か知ったかぶりしてるバカ女ハケーン
みんな一見の価値あり

127 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 08:42:26
昨日秋葉原で原田左之助見たよ。
何か美少女フィギュアの顔の塗りを一生懸命チェックしてた。
流石にヨボヨボのお爺ちゃんになってたよ。

128 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 13:54:57
沖田総司。実は明治の中頃まで生きてた。
そう言う説があるが本当か?
肺病のふりして逃げ回ってたと言う。
珍説としかいい様がないけどな。

129 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 16:05:24
良スレなのに、腐女子だの○○のレス書いたのお前だろうだのと、しょうもない煽りを入れる奴が増えたな。

130 :日本@名無史さん:2005/05/30(月) 02:24:35
>>127
今度見かけたら、すぐに捕まえておけ。
165歳の爺さんなら、貧弱なお前でも大丈夫だろう。
とりあえず、マスコミ呼んでの記者会見に、ギネスの申請、あと忘れてならないのが聞き取り調査だな。
さぁ、これから忙しくなるぞぉ〜。

















こんなもんでいいか?

131 :新選組十一番隊長:2005/05/30(月) 17:43:35
確かに、沖田や土方が生きてたという話しは聞くけど、いまいち信憑性にかける気がする。
そうあってほしい願望なだけの気もする。西郷もだけどね。
ところで近藤の首って、所在わかる人いますか?愛知の法蔵寺と会津の天寧寺、米沢説といろいろあるんだけど、それ以外のところって知ってる人いますか?

132 :日本@名無史さん:2005/05/30(月) 17:46:24
沖田に関しては、そうであっても不思議ではない、とは思う。
まぁないんだろうけど。

133 :日本@名無史さん:2005/05/30(月) 19:39:03
京都の東山山中。

134 :日本@名無史さん:2005/05/30(月) 19:46:34
そういえば今日は沖田総司の命日です‥よね??

135 :日本@名無史さん:2005/05/30(月) 22:29:21
>>134
ぴったしカンカン!

136 :日本@名無史さん:2005/05/31(火) 11:02:02
死んで無いんだから、命日なんかあるわけ無いじゃん。

137 :芹沢矢ガモ ◆e9w/ElzaeU :2005/05/31(火) 17:40:55
>>136
えっ!?まだ生きてんの?

138 :新選組十一番隊長:2005/05/31(火) 17:47:19
聞き書き新選組によると佐藤彦五郎が京都にいる山野八十八のとこに聞きに行ったが、わからず、東本願寺の島田塊に捜索を依頼したって書いてあるけど、その後は書かれてないんだよな〜。斎藤一が晒された河原から持ち去ったとか、同士が持ち去ったとか、どれがほんとなんだか?

139 :日本@名無しさん:2005/05/31(火) 18:35:48
佐久間象山の息子も一応隊士だったよな

140 :日本@名無史さん:2005/06/01(水) 01:19:40
>>139
その後の人生は?

141 :日本@名無史さん:2005/06/01(水) 12:56:22
東京にも近藤の墓ありますよ

142 :日本@名無史さん:2005/06/01(水) 13:33:12
>>140
三浦啓之助は、自ら人にぶつかっておきながら、その相手を斬り殺すなど乱暴狼藉が目立っていた。
そのため、新撰組には居辛くなって脱走。維新を迎える。
新政府には〔佐久間象山の息子〕という看板を持って、司法省に出仕。
松山県(現・愛媛県)裁判所判事として赴任中の明治十年二月二十六日、食中毒にて死亡。
享年二十九。なお、現在その墓は、愛媛県松山市鷺谷墓地内に打ち捨てられている。

143 :日本@名無史さん:2005/06/01(水) 16:53:11
>>142
食中毒で死亡。享年29歳。
何ともあっけない人生ですな。

144 :日本@名無史さん:2005/06/01(水) 20:58:56
>>143
可哀想に。
男汁を飲み過ぎたんだね。

145 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 13:43:40
>>144
マジレスすれば、男汁で食中毒なぞ聞いたことがない。
そもそも、男汁が原因なら、もっと早くに死んでいると思うが?w

146 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 00:23:04
沖田総司が明治半ばまで生きたと言う説。ソースは?
ちょっと気になる。

147 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 00:45:25
新撰組隊士のくせに生き延びたなんて、士道に悖る
腹を切れ!

148 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 05:08:23
>>142
暗殺されたんジャマイカ?

149 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 07:21:50
板橋に碑(墓にあらず)が建てられた時の話。除幕式が
終わり人も散り始めた頃、一人の男性が碑に手を合わせて
祈った後、短冊を供えて立ち去ろうとした。近藤の養子
近藤勇三が「旧隊士の方では」と声を掛けたが、男性は
名乗らず立ち去った。残された短冊に書かれた句は

速き瀬に
力足らぬや
下り鮎

150 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 09:36:20
>>148
それはないだろ。
しかし、墓参りに行く人が誰もいないというのも、実にさびしいもんだな。

151 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 12:54:01
>>149

>速き瀬に
>力足らぬや
>下り鮎

あまりにもベタで句の態をなしていないが・・・
というか突っ込み所は俳句かよ!

152 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 14:30:59
>>151
下り鮎ではなく、戻り鮎にしてみてはいかがでしょうか?

と、普通に添削してみるテスト

153 :日本@名無しさん:2005/06/04(土) 18:50:43
>>147
相馬主計

154 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 20:11:14
誰か原田佐之助が日清戦争時まで生きてた話の根拠って何か教えて

155 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 20:32:06
財閥の重役になったのは誰だっけ

156 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 05:10:50
>>149
誰だったんだろう?斉藤一かな?

157 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 08:28:53
下手な俳句・・で土方と膝を打つ音があちこちから・・。

158 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 05:31:27
土方の俳句は意外に女性的だった。

159 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 06:09:22
って幽霊かよ
その場にいた関係者の誰も顔を知らなかったらしいから
無名の平隊士だったんでないの?

160 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 06:38:16
>>159
「はっ!新入隊員の三浦恒次郎でありますっ!」

161 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 08:28:23
>>149

句に名前が隠されていると推理

162 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 11:58:37
判った縦読み

163 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 13:08:43
生存説なんか眉唾すぎて聞いててあくびが出る
妄想はチラシの裏にでも書いておきたまえ

164 :日本@名無史さん:2005/06/07(火) 09:08:36
昭和38年まで天保生まれの人が生きてたくらいやから(中村重兵衛)
昭和初期まで生きてた人も一人くらいいるんじゃない?

165 :日本@名無史さん:2005/06/07(火) 22:15:16
長生きしていろいろな体験をする人生。
いいよなあ!

166 :日本@名無史さん:2005/06/08(水) 01:56:42
>>154
日清戦争のとき新選組の内情に詳しい老軍夫がいて
「原田さんでは?」と人に聞かれても肯定も否定もしなかった
という話から。

167 :日本@名無史さん:2005/06/08(水) 06:03:52
>>166
その老軍夫って尾形俊太郎じゃない?いや、根拠はないけど。

168 :日本@名無史さん:2005/06/08(水) 12:04:50
バーバラ寺岡は新撰組隊士の子孫

169 :夜更かし:2005/06/08(水) 21:55:59
新撰組で長生きしたと思える人は・・・
原田左之助→日露戦争にいた、或いは中国で何かをしでかしたと言う伝説がありま
す。私は性格上中国に行って生き延びたと思います。
永倉新八→この方は確実です。近藤(土方もだったかも)の墓を立てたそうです。
そしてご本人が亡くなられたあと親族が隣に墓を立てたんだそうです。また生存中お孫
さんも居り、イイおじいちゃんだったそうです。因みに新撰組のコトを記録し顛末記と
なって今でも売られてます。(今生きてる私の爺ちゃんなら会えたかもw)
斎藤一→近藤の死後会津の幕臣(確か)の娘と結婚し警察官として働いていたらしい
です。明治の終わり頃に死にました。(確か)
一応のところはそんなトコでしょうか。新撰組は結構バラついてたので不明な人が多く
長生きした人も多いかもしれません。

170 :日本@名無史さん:2005/06/09(木) 01:32:11
>>169
原田左之助は日清戦争。大陸で馬賊の頭領になった等の伝説。
永倉新八は近藤の墓ではなく板橋に新選組の追悼碑を建てた。
顛末記は長男の義太郎がまとめた「新撰組永倉新八」の復刊。
斎藤一は会津藩士高木小十郎の娘、時尾と結婚。仲人松平容保。
大正4年に72歳で死亡。
もっと勉強しましょう。

171 :日本@名無史さん:2005/06/09(木) 01:54:38
>>170
>永倉新八は近藤の墓ではなく板橋に新選組の追悼碑を建てた。

ただ、あの近辺(板橋)の看板には「近藤勇墓所」とか書いてあるんだよね。

>顛末記は長男の義太郎がまとめた「新撰組永倉新八」の復刊。

「新撰組永倉新八」自体は、新聞記者が執筆した新聞連載。




172 :日本@名無史さん:2005/06/09(木) 02:35:25
>>171
碑の正面には近藤と土方の名前、両側面に百十人の死亡
した隊士の名前が刻まれている。
小樽新聞では「永倉新八」で70回連載。
息子が「新撰組永倉新八」として本にまとめた。
戦後「新撰組顛末記」で復刊。

173 :日本@名無史さん:2005/06/09(木) 10:05:58
>>170
別に近藤の墓でも間違いではない。
役所では近藤の墓印という形で申請を受けている。
単なる新選組士慰霊塔or供養塔ならわざわざ近藤処刑ゆかりの地に
碑を建てなければならない理由はない。
旧幕軍の法要をしている円通寺や会津の方が適しているし、
新選組最後の地である箱館でもよい。
わざわざ刑場跡を探ってあの地に建立したのは、近藤死地に建てる
という意義が最大の理由。(ゆえに墓印として申請)
○○家の墓に○○家の人間でない■■姓の人間が入っているという
ような事はよくあること。
それに近い形で、新選組という家族の家長としての近藤の碑に
新選組ファミリーとして隊士名を刻んだとみてもよい。
名目として、近藤勇の墓(印)であり、実質、新選組隊士供養碑となる。
だから、どちらか一方が間違っているというわけではない。

174 :日本@名無史さん:2005/06/09(木) 10:09:49
>>173
なかなか実証的、かつ論理的でよいと思います。

175 :日本@名無史さん:2005/06/09(木) 17:15:32
胴体を掘り出して竜源寺に運んだ話もあるけど、
あそこから掘り出せなかった説もあるからね
だから墓をたてたんでしょ

176 :日本@名無史さん:2005/06/11(土) 08:01:21


177 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 02:22:24
昭和まで生存した隊士発見。
しかも2人。ただし出身は桑名藩。

178 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 11:19:25
昭和13年まで生きた池田七三郎が最長ジャマイカ
その他、昭和まで生きたのは
井上泰助(〜昭和2年)
佐久間銀太郎(〜昭和8年)
高木剛次郎(〜昭和8年)
くらいかと思います。
補足あったらお願いします。

179 :原田生存説:2005/06/19(日) 11:51:13
明治40年、原田が松山に帰郷して半次(弟)や松山市内に住む甥たち
を訪ねて金品を与えたという話が残っている。
その時に「自分は明治元年に支那へ渡り馬賊の群れに入りその頭
になった日露の戦には皇国のために尽したが
出征軍人将校中には自分を認めてくれた人がいる。これが最期の
袂別と思い来たのだ」と言って半次に多くの金品を渡したが、半次
は坂本龍馬を殺したのは原田だと思っていたので関わり合いになる
のを恐れ、よそよそしい態度で接したらしい。
原田は「鉄嶺(中国の都市)に帰る」と言って松山を去ったとされ
ている。

『原田佐之助助事跡』伊予史談会

180 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 05:32:03
>>178
大した奴らだ。豪傑だ。

181 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 18:31:50
俺達が幕末の京にタイムスリップしたらどうなるの?
普通に歩いてたらいきなり捕まえられちゃうの?
その後どうなるの? (((;゚Д゚)))ガクブル

182 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 18:51:18
>>181

現代の我々の格好で幕末をうろうろすれば夷狄として斬られる可能性が高いので
おすすめ出来ない
茶髪だったら100%危ない

183 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 22:03:30
よし、どうやったら生き延びられるかみんなで考えよう

184 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 10:58:21
>>183
男子は普段から褌着用。タイムスリップした際は即座に服を脱げば
身ぐるみ剥がれた可哀想な人に見えるはず。
勿論、茶髪金髪は禁止。
もし実現したら伊東甲子太郎が新撰組に入らないように策を労して
下さい。よろしく。

185 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 11:47:25
以前からものすごく気になっている事があります。

斎藤一が女学校の交通整理員(用務員さん?)をしていたのは有名な話ですが、
通学していた女学生のみなさんはその事実を知っていたのでしょうか?

個人的には知らなかった、というエピソードであった方が好きなんですが。
学校の用務員のおっちゃんが、実は過去、泣く子も黙る新選組三番組隊長だったとか、カッコエエなぁと思います。

186 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 11:59:07
>>185
名前も藤田五郎と変えて過去を隠していたのだが。

187 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 12:39:34
伊東に話しかけても俺の言葉通じるかなぁ?

188 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 12:58:05
同じ日本人だ。
なんとか通じるだろ

189 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 13:04:44
>>185

平成の今の世と違い、まだ維新の志士を斬りまくった連中という
負のイメージが強いから、明かさないだろう。
彰義隊の生き残りでも身分(姓名)を明かさなかった人は多い

190 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 14:54:07
>>185
今に例えるなら、日本赤軍かオウム信者であった過去を引きずっているようなものだ。
当時は京都の街中を土足で踏み荒らし、白刃をちらつかせながら洛人をびびらせた思想憲兵みたいなイメージだよ。
小説等で色々と脚色された現代とは違う。

191 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 15:49:03
新選組を蛇蝎のごとく嫌って明治になってからも探し回っていたのは官軍方ですから。
明治初期には錦絵になるほど人気はあったのだよ。

192 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 23:44:37
京都をはじめとする日本の西と、江戸幕府があった日本の東では
新選組に対する民衆の深層意識も違うとオモ

その女学校の校長自体、会津人だしね

193 :185:2005/06/25(土) 14:34:14
>189
赤軍の生き残りってのは、なんとなくイメージとして重なるところがあったのかな
と思っていたのですが、同時代人(ってか同窓)の永倉が30後半で、
新選組の慰霊碑作るために奔走したと聞きましたので、ちょっと違うものなのかなと思ってました。

>192
なるほど
では、学生さんは知らなかったかもしれないが、その学長は知っていた可能性が高い
という事ですかね。
そうであれば、ますますドラマを感じますねぇ

194 :日本@名無史さん:2005/06/26(日) 12:16:34
歴史はドラマだ。

195 :日本@名無史さん:2005/06/27(月) 14:10:30
>>193
知っていたもなにも、校長が斎藤を庶務に据えたわけだが・・・。


196 :185:2005/06/27(月) 18:48:04
>195
まぁそのへんの線引きが、時代背景と重ねてどんなもんだったんだろうなぁって単純な疑問です。

出自を隠していたと思われる、ってのも正論だと思いますしね。

校長、教頭、教師、生徒

校長は明らかに知っていたが、生徒が全く知らなかった。
ってのはなかなか難しい状況では?

少し昔とはいえ、超有名人だったんじゃないでしょうか>新選組生き残り

197 :日本@名無史さん:2005/06/27(月) 18:59:05
>>196
たかが学校庶務の経歴を生徒が把握している方が異常だと思いますが?
貴方は貴方の出身校の職員の経歴を全て御存知なんですか?

198 :日本@名無史さん:2005/06/27(月) 20:02:23
>197
なるほど、そう言われて見ればそうですね。

ただ、適切な例かどうかはわかりませんが、
前出の元オウム信者とか日本赤軍の生き残りって経歴持たれた用務員さんなら、
なにがしか耳に入ってきたような気もします。
(田舎だからかな…。そういう意味では東京の学校には当てはまらないかもしれませんね)



199 :日本@名無史さん:2005/06/27(月) 21:19:34
>>198
元オウム信者とか日本赤軍の生き残りなんていう例えを
本気で信じているのかw


200 :日本@名無史さん :2005/06/28(火) 18:37:55
>>199
当時の感覚を現代に例えるならそれも然りだろう。それを否定したい信者の気持ちは分かる。
時代がたてば、日本赤軍の捉え方も変わっていくさ(オウムはちとオーバーすぎて違うな)。

201 :日本@名無史さん:2005/06/28(火) 20:16:28
>>200
当時の感覚をわかっているのなら、尚更、本気で信じている方が変w
あと、信者じゃないからw

202 :日本@名無史さん:2005/06/28(火) 23:44:33
>>201
んじゃあ君の考えは?
「新撰組は赤軍如き反乱テロリストとは違う、御公儀の為に尽くした治安部隊だ」というのは無しだぞ

203 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 08:19:54
>>196
なるほどなあ。面白い意見だ。

204 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 08:39:58

新撰組は体制側だったのだから、赤軍やオウムではない。
あえて、強いて例えるなら憲兵や特高のようなものだろう。
国家の為と思ってやっていたことが、敗戦後、価値観が逆転し
経歴を公表することが憚られるような

205 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 19:16:31
現代で元日本赤軍の警官や公立学校職員というのはいるの?
聞いた事がないけど・・・
斎藤は警視庁勤務や学校勤務をしていたのだから、
日本赤軍の生き残りっていう例えは適当だとは思えないけどなぁ〜
斎藤以外でも公職についていた元新選組隊士は居たよ

206 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 12:25:05
>>204の考えが一番的を得ているな。

207 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 13:56:42
204が的を射ているかはわからないが、
何か書きかけで止めたような文章が
気になる。

208 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 01:24:17
中島登は?

209 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 15:08:03
明治20年くらいに亡くなったはず。
晩年は葉蘭栽培で財産を作って、浜松の名士になったらしい。

210 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 23:29:49
斉藤は西南戦争で政府軍の抜刀隊に参加してたらしい


211 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 00:37:34
会津藩士や白虎隊の生き残りも政府の伐刀隊に所属した。

212 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 00:55:17
松本捨助は?

213 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 01:58:42
大正七年没。享年74歳。
家督は土方の甥にゆずって、自身は米屋やってたそうです。

214 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 05:51:12
いい人生だ。

215 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 22:34:18
>>213
米屋。随分稼いだの?

216 :213:2005/07/07(木) 01:04:17
稼いだかどうかまで詳しい事まではわかりませんが、
なぜか故郷の多摩じゃなく名古屋等で米屋をやって、
隠居か廃業かはわからないが晩年は八王子に住み、
そこで天寿を全うしたとのこと。
あと、奥さんは井上源三郎の姪っ子だそうです。

217 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 05:40:26
>>216
詳しい情報ありがとう。

218 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 10:50:03
中島登は、浜松で花火屋やってた・・・

219 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 11:05:13
生き残った人達・・・結構いますよ。名前だけ上げると・・・
佐々木一、中島登、永倉新八、斉藤一、池田七三郎、大野右仲、尾関雅次郎(結構謎が多い)、
神戸四郎、近藤芳助、斎藤一諾斎、島田魁、関川代次郎、高山次郎、立川主税、谷口四郎兵衛、
田村銀之助、森常吉、横倉甚五郎、山野八十八、安富才介・・・

220 :日本史@名無し:2005/07/09(土) 16:25:07
生き残った隊士の中の斉藤一による口述を記録した夢録という回想録は、本当にあるのかそれともただのフィクションなのか?



221 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 20:40:05
いつ頃の話を口述したもの??

222 :日本史@名無し:2005/07/09(土) 20:59:58
子母沢寛の新撰組遺聞の一文の中にあり、斉藤一の晩年になってからの話しらしい。

223 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 22:10:06
斉藤と永倉は維新後に会ったりしなかったのだろうか。

224 :日本史:2005/07/09(土) 22:44:35
多分会っていなかったと思います。

225 : ◆vOONRCNRtc :2005/07/10(日) 20:31:49
司馬以前は、ただの悪役だったそうですよ。

226 :斎藤三:2005/07/12(火) 01:03:25
司馬以前というか、戦後しばらくしてから見直されたんでそ?戦前は完璧に悪役だったらしい。まあ、政府に楯突いたからという理由でしょ。
歴史なんて勝てば良くなり負ければ悪く書かれる。支配するのに都合いいからね。

227 :日本@名無史さん:2005/07/12(火) 09:49:31
>>225-226
「だったそうですよ」「だったらしい」程度の話なら、わざわざ書き込むな。
そんな暇があるのなら、中里介山でも読んでからからカキコしろ。
「戦前は完璧に悪役」だったと主張するなら、戦前に何故、赤間倭子が
ファンと称して近藤の実家に押しかけていたのか、赤間関係者に
わけを聞いて来いよ。


228 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 11:38:34
>>225-226
明治期に錦絵にもなっているちゅうに。


229 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 21:57:08
>>219
尾関の謎が知りたい。

230 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 19:01:55
尾関弟のどの辺が謎?

231 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 07:03:34
ググれ。

232 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 17:57:41
age

233 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 18:41:43
>>225-226
戦前の頃には既に大河内伝次郎主演の「近藤勇」や新撰組関係の映画が何本も作られている
憶測で語るな。馬鹿タレ

234 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 01:28:46
age

235 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 00:54:45
227よ!おまいもまだまだ甘いよ!赤間のオバハンは斉藤一に興味を持っただけの話。いつからではなく、新撰組をここまでにしたのは子母澤寛やぞ!記者を辞めてまで自費で史実を綴ったの!

236 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 02:56:41
>>235が無知。赤間が近藤を好きなあまり、終戦前に宮川家に出入りしていた
のは事実。誰が新撰組をどこまでにしたという話が主題なのではなく、赤間の
ような熱狂的なファンがすでに終戦前に存在していたということ。
>>225-226みたいに「ただの悪役」「完璧に悪役」だったというのなら、当時
赤間のような硬い(?)お嬢さん系女学生が熱狂するのはおかしい。
つまり、>>225-226はおかしい。
>>227>>225-226への反論なのであって、新撰組研究者の功績評価に関する話
をしているのではない。スレの流れをよく読んでからレスすべきだな。


237 :新撰組よ…:2005/08/08(月) 10:47:41
236↑かっかっか(^O^)怒られちったよ。俺様に対して無知とは…よほどの知識者かアホかやな!ま、少しうれしい気もするけど。実際、まわりに新撰組のことでそれだけ言える奴が俺様以外にいなかったからな!しかし俺様に対して無知とは…俺様を知らないとはいえ何とも…。。

238 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 12:25:46
子母澤が史実ねぇ…w

239 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 13:27:35
>>237はただの夏厨

240 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 21:34:44
239はただのイジメられっ子。

241 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 22:24:41
子母澤の名を得意気に出してるあたり、釣りかとも思われるが
夏だし真性という可能性も考えられる。

242 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 04:39:13
ということは、戦前から新撰組は見直され、許されていたということなんですね!
戦前はまだ、明治政府の影響が色濃く残っていたのに・・

243 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 11:33:38
>>242
「見直され、許されていた」ってどういう意味?

244 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 20:08:58
他に組長の写真残ってないの?
特に藤堂、沖田、原田が見たい。
原田は息子の写真が残ってるみたいだし、その写真から想像できるが

245 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 20:30:51
沖田は有名な甥っ子の肖像画と沖田?って疑惑の細い目の男の写真
を見た事がある。本人ではないと思うけど。

246 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 21:04:30
沖田の母方の叔父さんの写真みました。
眼光が異常に鋭い!沖田が母方の顔だったらいいなぁと思いました。

247 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 07:30:57
そうだな。

248 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 19:50:47
斎藤一。いい人生おくったなあ。

249 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 16:38:10
>>242
「赦された」という意味なら明治期にはすでに新撰組は赦されてるのでは。
だから、釈放もされたし、新撰組の石碑も建てられた。

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