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頼朝=極悪人というイメージはどうすれば消えるのか

1 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 09:52:53
いまだに兄弟殺しで極悪人扱いされてるけど
どうしたらイメージを変えられるか考えよう

2 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 09:53:53

全然そんなことはありませんが

3 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 10:32:34
冷酷な人だって印象は拭い難いな。

4 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 10:35:26
         糞スレ立てた>>1は氏ね!蛆虫がぁ!!!!
       ∧_∧  ̄ ̄\  
   .   (#▼凵・厂Z-Uヽ   
      ( ヽΖ/〃フ −ア  
      ( \_つ 「/ ̄>
      ノ  )/  |ヽ/ ヽヽ ヴォォォォォン!!!
    /L(__)   |へ> ) 〉
   /◆  /|   ヽ__ノ
   L__/彡|    /
    __ヽ<__/    ウワァァァン!!
  U(__(==/   (;`Д´)
     ||ヒ )  )    ( O┬O ←>>1
     ヽ__ノ   ◎-ヽJ┴◎ キコキコ


5 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 10:36:42
もっとイメージ悪いヤツなんか死ぬほどいるからなぁ。
別にいいんじゃね。


6 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 10:59:37
>>1
まずテメーが意見をだせ!

7 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 11:01:07
謝罪と賠償を六十年ほどする。

8 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 12:40:41
大河によると、北条政子に唆かされたみたいだね

9 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 19:12:39
義経はともかく範頼はなんで殺されたの?
やっぱり邪魔になったからかな

10 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 19:23:20
義経殺しは頼朝の推薦なしに朝廷から官位を授けられた義経に
非があるから当然だとしても、頼朝に終始従順だった範頼殺しは
頼朝の冷酷さの現れだと思われ

11 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 20:09:59
うじ虫がまたうじ虫スレ立てやがった。
いつ止めるんだろ。

12 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 20:27:44
頼朝=極悪人
初めて 聞きました
そんな イメージあんの?

13 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 20:33:10
そんなイメージ ない
頼朝=極悪人
聞いたことねえや!

14 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 21:09:56
範頼は頼朝暗殺のクーデターの主犯だったから、殺されて当然。
義経の方がかわいそう。

15 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 21:39:09
極悪人とまでは言わないが、あんまりいいイメージがないのは確かだな
>>14
詳細きぼんぬ

16 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 22:25:02
どうやらオレの遠い祖先は義経の家臣だったようだ。
逆落としに参加しているようなんだ。

>>義経の方がかわいそう。
知行を安堵してくれ・・・。だから守れんかった。無念。

17 :日本@名無史さん:2005/04/21(木) 23:07:14
義経は死んでないよ、あれは偽の首だよ。偽の首を差し出したときに頼朝もにせの
首だと知っていたけど、義経をかくまっていたと認めた証拠として使えるので、あ
えて偽首を本物だと断言して奥州に攻め入る口実としたんだよ。

18 :日本@名無史さん:2005/04/22(金) 02:41:02
つーか極悪なのは義経でしょ

19 :日本@名無史さん:2005/04/22(金) 08:43:37
大きな事績をなしとげたひとが、冷酷な面を持っているのは今も昔も変わらんだろ。
天皇を中心とした国家観の人間にとっては、天皇より実力持ってる時点で、極悪人扱いだろうがな。

20 :日本@名無史さん:2005/04/22(金) 09:07:03
ナムコが悪い。

21 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 20:50:58
いいじゃん悪役でも

22 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 21:19:38


極悪というより、猜疑心の強い小心者だな

.

23 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 11:48:39
なんか頼朝と徳川家康ってかぶんない?

24 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 12:27:33
そんなイメージないが。

25 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 12:43:06
北条政子=静岡の土豪の娘

26 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:07:16
自分の弟を殺そうとするとは、
もはや武士とは言うまい。

27 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:09:51
>>26
じゃあ信長も武士とは言えないな
もっとも戦国時代に武士道など無いが

28 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:18:43
知れば知るほど極悪人に思えてくる。
もう源氏など有難くもなんともなくなってしまた。w

29 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:50:00
>>26
家康は頼朝を模倣していたんだから、そりゃ被るわな。

30 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:56:27
最近の歴史書だと、頼朝の評価は高いんでないの?

31 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 04:26:26
バカな弟に思い煩わされるキレ者の兄貴。

32 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 20:13:12
晩年は猜疑心の塊ではなかったか?
猜疑心=小心者。
義経の死よりも本人にとっては範頼を間違って殺した方が痛手だったろう。
53で死亡しているがその理由が極寒の海辺で走らせた馬から落馬して
意識不明のまま死亡しているとのこと。
おそらく脳卒中、酒が手放せなかったのだろう。

33 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:11:31
>>32
流刑生活で、心における家臣ってどのくらいいたの?
今川に人質生活をした家康でさえ、三河には累代の家臣がいた訳だし。

いかに関東武士達に躍らせる振りをしつつ、自己の力をつけていく・・・
お互い利用しあっていったんでしょ?頼朝は。
誰か敵か味方か分からない環境ゆえの猜疑心が染み付いた。(京の生活、平治の乱での敗戦、流浪、親父の惨殺など)
幼少期に京で育ち、都での作法や言葉使い、または公家達の政治的な駆け引きなど、
子供ながら体験してるだけあって、関東の田舎武士達にとって、頼朝の存在価値はとても大きいし、
その事を頼朝を心得ている訳だし。

範頼にしたって、頼朝に謀反する気持ちがなくとも、北条など関東武士達が力を持ちすぎる頼朝打倒の旗頭として範頼を
担ごうとしているだろうし。
もしかしたら、義経の件から猜疑心(恐怖心)を持っている範頼を焚きつける輩も現れてもおかしくない。

そもそも頼家以降の主導権争いを見たら、関東武士達の陰湿さが分かるもの。


34 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:57:00
頼朝×範頼×義経だけでなく、

足利尊氏・義詮×直義(直冬)という争いもあったな。
尊氏と直義と明らかに血の繋がりが濃い兄弟であっても、
いざ治世を握る立場になれば、周りの家臣達の思惑もあいまって憎みあいが生まれてしまう・・・
頼朝も尊氏もドラマにみるような絶対的君主ではないんだろうな・・・


35 :日本@名無史さん:2005/05/19(木) 16:41:38
>>33
本人にとってはろくな人生じゃなかったろうなw

36 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 10:50:29
頼朝の死因ってなんぞや

37 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/23(月) 16:40:57
『吾妻鏡』では落馬という事になっていますが・・・。
『愚管抄』巻第六
かかるほどに人思ひよらぬほどの事にて、あさましき事出きぬ。同十年正月
に関東将軍所労不快とかやほのかに云し程に、やがて正月十一日に出家し
て、同十三日にうせにけりと、十五六日よりきこへたちにき。夢かうつつかと人
思ひたりき。「今年必(心カ)しづかにのぼりて世の事さたせんと思ひたり
けり。萬の事存の外に候」などぞ、九條殿へは申つかはしける。

>32の「53で死亡しているがその理由が極寒の海辺で走らせた馬から落馬
して」は、『保暦間記』の記述を誤ったものか。
「所労」云々は『明月記』にも出て来ますが、『猪隈関白記』には飲水病と。

38 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 19:00:41
あくまで諸説でしょうが、「読める年表」という本で、
「曽我兄弟の敵討ち」が頼朝暗殺説(黒幕は北条時政か?)って、実際どうだったんでしょうかね?

39 :源義経:2005/05/27(金) 18:19:43
婦女子に人気があるのが義経
歴史ヲタに人気があるのが頼朝

40 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 20:57:50
極悪かどうかは置いておいて、
冷酷ってイメージはあるわな。

41 :日本@名無史さん:2005/05/31(火) 12:07:25
北条政子と嫡流一点張りの母親が極悪

42 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 03:46:51
北条泰時の御成敗式目って、頼朝存命時代の裁きをマニュアル化したものらしい。

43 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 00:00:54
小学生・中学生の時に鎌倉に社会科見学に行ったのに大仏を見た記憶しかない…

今頃になって鎌倉に行って色々と見物したくなるなんて…

44 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 05:54:15
義経が道理知らずのバカだっただけじゃん。頼朝かわいそ

45 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 06:31:14
>>1
そんなイメージはない
嘘だと思うんなら回りに聞いてみろ

46 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 06:41:08
頼朝は天ざかる東路の果てに開幕した革新的な人物として
きわめて高く評価されて居るぞよ。

47 :小田野ぶ長 ◆n418XWtIwM :2005/06/29(水) 11:07:44
右大将家れいにゃん

48 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 11:58:20
>>43
頼朝や大江の墓を見たよ。感激!

49 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:12:02
頼朝の墓にミキプルーンを備える奴はいないのか?

50 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 14:16:39
>>1
頼朝は政子の実家、北条家に利用されただけ。(頼朝の息子2人も暗殺される)
最悪なのは北条一門。

51 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 14:23:28
それよりも俺は、これと同じスレタイを狼で見たのが気になる

52 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 22:24:33
リセットボタンを押せ

53 :日本@名無史さん:2005/06/29(水) 22:40:38
義経は馬鹿でしょ?
軍事的には天才だったけど、やったことは木曾義仲と同じ。
田舎者がのぼせあがっただけ。

54 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 07:08:39
>>50
「何の力もない頼朝を天下人にしてやった」が北条一族の本音でしょう。

55 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 07:58:37
義経は好きになれぬ。
政治的立場というか、なんだかなぁ、危ない存在として見られることを
わかってない厄介者というか・・

56 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 10:23:52
>>53
北条一族や他の坂東武者たちも思い切り田舎者。
その田舎武者たちに担がれたのが頼朝。

57 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:14:48
頼朝=曹丕=信忠

58 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:19:03
>>54
その北条も幕府の中では「頼朝の姻戚」だけで
発言権を持っていた弱小豪族。
お互い様といったところ。

59 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:27:18
NHKの今後に期待しましょ。無理かなw。

60 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:37:55
>>59
義高殺害とその後の大姫の事があるからな。
イメージ良くないだろうと予想。

61 :日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:45:52
義経中心のドラマだからなぁ・・・
しかし、作者は義経は世間知らずと言ってたが。。。

62 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 00:31:42
清盛も、頼朝も、朝廷も、義経に政治の心得を授けるのはあまりにも危険と判断していたのではないか?
政治が出来る戦の天才ほど怖いものはない。無害な凡人だったら、それなりの教育を施された上で
どこぞに居場所をみつけていたかもしれない。

63 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 13:46:15
清盛は何で平治の乱で頼朝を伊豆に流したのかな?
流すんだったら源氏の勢力基盤から遠い西国の方が無難かと思うが

64 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 16:47:38
>>63
隠岐島にでも流しとけば確実だったろうにね。

65 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 16:49:35
奇怪ヶ島

66 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 16:51:23
>>63

殺せないのなら六波羅の中に監禁して、24時間監視すべき

67 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:39:57
>>63
平治の乱は「源平の戦い」ではなく
「院政派vs天皇親政派」の戦いであったというのが最近の学説では有力です。
義朝は武力を行使したもののこの乱の中では信頼の使い走りにしか過ぎません。

また、動員勢力も
平家1000騎に対し義朝200騎 格段の違いです。
つまり、義朝は清盛からみれば「小物」です。
そのような「小物」の生き残りが一人いても後に挙兵して平家を倒すとは
誰も思わなかったでしょう。

それから、東国が源氏の基盤というは事実ですが強固な主従関係は当時ありませんでした。
義朝が東国武士を動員できたのも
院などのつながり、国守などの提携があって初めて可能だった事でした。
そのような都の人脈を持つ義朝と結ぶメリツトがあったからこその
主従関係です。
事実平家時代になると平家の家人になった東国武士も続出しました。
つまり、戦に負けて謀反人となった人の息子を担ぎ上げるメリットは無い
状態でしたから東国に流してもその当時はなんの心配も要らなかったと思います。

頼朝の挙兵の成功の理由は
平家の東国経営の失敗に付け込んだだけで
長年の主従関係によるものではなかったのです。

68 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:42:22
>>63-67
また、西国ならば安全とは言い切れません。
頼朝の曽祖父義親は隠岐島に流されても濫行。
叔父為朝は九州で大暴れ。
弟希義は土佐に流されましたが、土佐ー熊野勢力圏に迎えいれられ
反平家活動を行う余地があったとの説もあります。

69 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:47:29
>>66
頼朝をどこかに流さずに六波羅監禁というのも当時の法体系から見れば不可能です。

頼朝はあくまでも「朝廷に対する謀反人」として処罰されたのです。
本来ならば「死罪」であったのを「刑一等減じて流罪」となったのです。
当時の刑罰は重い順に 死 流 牢 杖 鞭
です。
死罪でなければ流罪でなければならないのです。

六波羅監禁は現在でいうと
「死刑囚の死刑を減刑する代わりに警察官の自宅に拘束」という
奇妙な状態になったのです。

一方今若、乙若、牛若の三人は出家で済んでいますが
「出家」は刑罰ではありません。
かれらは律令上では「無罪」扱い。
出家は単なる圧力ということになります。

70 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:53:47
>>68
なら硫黄島へ流刑にすべきだったな。

71 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:40:19
誰か】軍事板難民キャンプ75【飯作って】
http://aa5.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1118754680/


411 名前:海の人 ◆STEELmK8LQ 投稿日:2005/07/03(日) 09:51:16 ?#
 高松塚古墳の経年劣化放置にしろ、聖徳太子などという架空の存在を意固地になって
主張する態度といい、なんつうか・・・おまいら藤村新一と五十歩百歩やんけ。

 などと日曜の朝から、新日曜美術館で、歴史の教科書なんかに掲載されてる頼朝像が
縦に読んでも斜めに読んでも画風と言いモデルと言い頼朝じゃねーだろ、という突っ込みに
どこだかの考古学博物館の副館長が「そんなことはハナっからあり得ませんよ」なんて
感情的な(かつ根拠レスな)研究者らしからぬ断言をするのをみながらおもターリ。

 おまいらみたいのは「専門家」の面汚しだから、全員クビくくって逝ね。
 専門家でいたいなら、松本清張「断碑」を百回書き取りしてこい。

72 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:42:08
自分は助命してもらったのに、義高許さないなんてやっぱ極悪人当確だわ
器が小さい

73 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:10:09
>>72
じゃあ、清盛は器が大きすぎて平家を滅ぼしたことになるね

74 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 13:38:48
>飲水病
って何?

75 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 13:40:33
頼朝は義家の晩期を調べ、嫡流がしっかりしてないことを確認。
義高殺害もその一つ。論理的政治的判断。性格ではない。

76 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 16:51:37
>>74
糖尿病

77 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:16:26
清盛ってマラリア死亡説をみたことがあるような

78 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 21:48:28
頼朝は頭が大きくおおあたま殿と呼ばれたらしい。
現代で言えば65cmくらいの帽子でないとかぶれない。
当時は平均身長が150cm位だから三頭身だな。
イメージよくなった?

79 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 23:09:40
>>72
清盛に命を助けられ、現在平氏を打倒するわが身を振り返れば、
自分に反感を持つ者を生かしていく怖さが一番わかっているから
情をかけないんだよ。一つの情が後に大きな災いになることが
頼朝自身が身に染めているから。


80 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 23:15:40
りちゃーどさんせいみたいなもんか
身内殺しとか

81 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 23:28:17
静御前と義経の間にできた赤ん坊も由比ガ浜に埋めたよね。

82 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 11:01:25
>>79
どうせ死んだらそれまでなのに、ちまちまと小さい奴だな頼朝って。
助命してやがて成長を遂げた義高の刃を甘んじて受け入れる位の度量が無いのかねぇ
ホントに武士なのかな?コイツ。
あ、だから義経や義仲の方が人気あるのか。

83 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 13:43:01
だから頼朝は幕府を作れた
ビジョンがあった

84 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 16:03:28
でも器が小さいから三代であぼーん。

85 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 16:55:49
家康も秀頼の5歳の子を貼り付けにしたから根絶やしにするのは作法といえなくもない。

俺が頼朝でも逆らう弟の血筋は根絶やしにするな。 清盛はアホだったという事だ。

86 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:05:27
義仲、義経、行家、全成や有綱はともかく範頼はなぜ殺されたんだ?
その一方で不遇だったとはいえ佐竹は生き残ってる。

87 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:42:32
北条家の陰謀

88 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:35:42
>>84
鎌倉御家人は最初から源氏の血筋を断つ魂胆だったとしか思えないくらい
頼朝周辺の源氏の血は絶えた。

89 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:50:05
>>88
酷いことしてるとバチが当たるのよ。

90 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:16:47
>>86
鎌倉御家人たちにとっては自分たちの権益が守られれば、源氏も用済みと
いうことで源氏を絶った。
要するに頼朝はじめ源氏嫡流も権益を守るための飾りだったのだ。
源氏でも御家人化した足利、武田、佐竹らは生き延びた。

91 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:44:08
そのシステムは、頼朝が作ったんだけどね

92 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:53:36
>>91
頼朝とその家来(鎌倉御家人)たちが作ったと言った方が正しいと思う。

93 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 22:16:31
頼朝は個人崇拝に陥らぬように政所から安堵状を
出させたりしたが、御家人が頼朝本人からが欲しいと言うのもいた。
自分の子に跡継ぎさせたかったからだろうけどね。
だから、御家人たちにはわかっているものとわかっていないものがいた。

94 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 22:44:59
落馬して死んだというのマジ?

95 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:00:36
>>94
だから頭が大きかったんだから、落馬してアタマから落ちて
打ち所が悪くて死んだの。

96 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:10:08
>>94
殺されたと言う説も確かにある。

97 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:27:35
北条義時が頼朝の孫の公暁を煽って鶴岡八幡宮で叔父の実朝を殺害させ、
その公暁もまとめて斬首にして源氏嫡流を絶やす行為をした説があるくらいだしね。

98 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:33:16
(株)頼朝商事と、(株)義経商事(義仲でも可)があったら、どっちに就職したいですか?自分は、トップが義経みたいな考え方の会社には嫌だなぁ


99 :ミユ ◆MIYU/7A.SM :2005/07/05(火) 23:41:48
http://blog.livedoor.jp/miyumiyu38/archives/27253548.html
http://blog.livedoor.jp/miyumiyu38

100 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 00:05:43
100

101 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 09:55:45
>>82
個人的な恨みなら頼朝が一人で引き受けてそれで終わりでいいでしょうが
組織の長としては組織に壊滅的打撃を起こさせる可能性はつまなければならない。
個人的問題や度量の問題で済む問題ではない。

102 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 09:58:22
>>88
御家人が最初から源氏の血筋を絶とうとしたよりも
将軍独裁を進めようとした頼朝ー頼家と御家人勢力の対立によって
結果的に根絶やしにされたと見るべきでしょう。

後世のように絶対的な主従関係があったわけではないのだから
将軍と御家人に緊張関係があるのはむしろ当たり前。

103 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 12:09:56
範頼って何か反抗したんだっけ?

104 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 12:11:05
http://aog.2y.net/forums/index.php?showtopic=1558
http://aog.2y.net/forums/index.php?showtopic=1550

韓国の子供達の素晴らしい作品の数々です。

105 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 15:32:04
>>105
どうやら、その頃御家人の中で主流派から離れた人々が
範頼を担ぎ上げようとした動きがあったらしい
との説があります。

例の曽我兄弟事件で
多くの死傷者がでておりとても二人だけでは傷つけることが出来ない人数であったこと
不審な動きをした御家人がいたこと
領地を没収されたり、出家をした御家人がかなりいたらしいこと

などがあり、曽我兄弟事件は単なる敵討ちではないとの
説があります。

106 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 15:38:34
105だが
マーカー間違えた
>>103

107 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 23:42:45
落馬というのは武士としてはあまりにも情けないね。
もみ消せなかったのかな。
病死とかで。
それとも、わざと流したのかな。

108 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 10:39:35
しかも流鏑馬とかやってたわけじゃなくて単に歩いててだからね。
裏に何かありそうだな。

109 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 10:44:52
その前に毒を盛られてた可能性はある。

110 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 11:53:46
毒と聞くと、金粉時頼が・・・orz

111 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 12:12:19
範頼ですら殺されるようでは、義経がどれほど要領のいい人物であっても多分殺されただろうね。

112 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 12:35:11
身内で殺し合いが源氏の歴史だよ。
平家は将門がらみを除けば、概して仲が良い。

113 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 12:58:08
>>112
清盛は叔父さん討っているが?
>>63
都の人は蛭ヶ小島は伊豆七島のさらに先くらいに思っていたらしい。
そういえば誰が流刑地決めたんだ。


114 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 13:55:14
>>113
>63の部分
流刑地の決定は頼朝の場合「従五位下」を有する官人でしたから
朝廷の会議で議決もしくは太政官制度の担当部門が決めたと思われます。

なお、頼朝はあくまでも「伊豆」に流刑になったのであって
「伊豆国内のどこに居住するか」を判断するのは
伊豆守であったとの事です。

115 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 21:55:28
98年の暮れ、相模川の橋供養に臨席した帰途に落馬し、
それが直接の原因となって翌年正月に死去した。 

116 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 02:38:20
1192から7年後なんだ
短い天下だな。

後白河が死ぬまで待ってたんだよね、そういうところは後の家康にも被るかも。

117 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 12:44:42
将軍の実権は1180年代に持ってたと思うが

後白河が死ぬのを待ってたというより後白河が承認しなかった

118 :  :2005/07/10(日) 12:53:29
認証しなかったから、死ぬまで待ってたんじゃないの。
死んだ後の即、征夷大将軍でしょ。
地盤は固まってたから急ぐ必要も無かったというのもある。

119 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 06:59:08
来週からいよいよ身内殺しが始まるな
東洋のグロスター公

120 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 13:00:10
殺して当然だろう>人質

121 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 14:04:39
義朝は実質的に廃嫡されていたという考えもあるようで、
本来は義賢、義仲、義高の流が嫡流だというコンプレックスがあったのかもしれない。

122 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 14:25:35
>>121
確かに、義朝は為義の嫡男を外されたという見方があつたようですね。

それももしかしたら原因かもしれませんが、
もう一つ気になることがあります。

義高殺害の直後、頼朝は甲斐に兵を派遣した上で、
武田一族の一人一条忠頼を御所で謀殺しています。
もしかしたら、武田一族と木曽残党の提携という動きがあり、
木曽の旗頭として義高を迎えるつもりだったのではないのか
とも思います。

義仲の死後義高を殺すまで少し時間的に間隔があるのも気になります。

123 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 15:37:29
義高を頼朝が殺した後で、当然ドラマじゃ京都かどっかでみすぼらしい小池栄子
が出てきて「何故義高を殺した!!!お前は「義高どのは私の命に替えても御守りする!」
と逝ったではないか!!!」ってタッキーを責めるんだろうねw

124 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 15:40:54
スレタイからかなり外れるけど、
大姫との結婚を前提にしての話ではあるけど、後ろ盾のいない義高の方が結局妻の実家
というものが生じてくるはずの頼朝の子息たちより、北条氏にとっては都合が良い存在で
あったのではあるまいか?
それを恐れて頼朝が殺したとか言うと、これはもう妄想の世界になりますけどね。

頼朝って人は本質的にはコンプレックスの塊のように思える。
それだけでことを決するほど単純な人間ではないのだろうけど、政治的にはどちらを選んで
も問題ない場合は、コンプレックスが隠れた動機になっていそうだ。
まあ人間誰しもある程度はそう言うところがあるけどね。

125 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 15:44:44
器が大きすぎれば清盛みたいに放漫になるし、
器が小さければ頼朝みたいに身内殺しで自滅する。

126 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 15:48:24
>>119
一応、旭将軍も身内なんだけどね


127 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 15:52:42
いずれにせよ八つ当たりと浮気三昧はよくない。

128 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 21:49:50
身内殺しをできたから、幕府を開けた

129 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 22:04:09
なんだかタマゴ産むためにオスを食ってしまうメスのコオロギのようだな・・・

130 :日本@名無史さん :2005/07/12(火) 08:28:29
>27
信長の場合は弟の信行に謀反を起こされたが一度は許してるよ、
しかし懲りずにまた起こしたから殺したんだけど、当主の座を
巡っての争いだから殺すか殺されるかの二つに一つだったんだが。
世間では義経と頼朝が実母兄弟と勘違いしてる人も多いけど、
実際は異母兄弟だったからね、当時の感覚では月とスッポンぐらいだしね。


131 :日本@名無史さん:2005/07/12(火) 12:04:25
>>130
とりあえずは「自分が嫡流だ」ってセリフがあったから
ちゃんと見ていたら実母兄弟とは思わないのでは?
政子もそれを指摘してたしw

132 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 10:15:43
身内を容赦無く殺せる人は、皆恐れおののいて面従されるけど、悲惨な末路を辿るね

133 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 13:33:55
朝廷に対抗する政治権力を打ち立てたのだから、
身内を固めるのは当然だろう

134 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 16:29:20
殺す者は殺される。無常よの〜。

135 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 17:21:20
因果応報ってやつですな・・・合掌

136 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 17:50:21
鎌倉駅前に頼朝の像が無いってことはアレだよな。

137 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 21:27:38
自分の命令で義経に河越氏の娘を娶らせておきながら、
義経との関係が悪化すると河越氏を滅ぼしてしまう。
冷酷というより自己中なのでは?

138 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:26:05
頼朝が大人気になってたらとっくに国が滅んでるよ。

139 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:32:15
伊達政宗も弟を殺していなかったけ?

140 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:36:33
頼朝好きなのにな〜、人気無いみたいで残念。

うまく、暗い所や同族殺しの部分をミュ−ジカル風に明るく仕立てた大河ドラマでもやって
なんとか回復して貰うしかないよなあ。


141 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:36:33
>>139
殺さなければ殺されるような切迫した状況なら、とやかく言わんけど。。。

142 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 08:33:24
>>137
滅ぼしとらんぞ、失脚(多分後で殺したが)→領地没収
没収した領地は重頼の母に渡した。
それに、河越の娘が離婚に応じなかったと言うことは
河越氏が義経に味方しますと宣言したのと同意義。
どうしても河越氏が潔白を証明したいのならば
力づくでも娘を取り返すべきであった。
うがった見方だが、河越氏は義経に実は同心していたのですないか?

143 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 08:52:57
>>140
わからないなーwww
同族間の相克をミュージカルぅ?
明るく偽装して何の意味があるんだか。
頼朝好きなら、その心奥の闇の部分も好きになってやんなよ。

人気無くたっていいじゃん。
自分がその人物に魅了されているならさ。

144 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 11:52:52
まぁ、人質生活と事ある毎に嫡流である事を吹き込まれた生い立ちが、
彼の闇を作ったという事で、現在なら幾ばくかの同情は集められるクチだろ
やっぱしつけ、教育は大事。健やかな義経と比べるとよく分かる。

145 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 12:04:34
呪文のように吹き込まれて人質生活のために屈折
甘やかされてDQNまがいの世間知らず
どっちがいいんだろうなあ

146 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 12:53:29
>>133
身内を固めてねえぞ。それどころか殺しすぎで直系だけになっちまった。

147 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 12:57:58
>>144
嫡流と吹き込まれたのは今回の大河ドラマの中の話でっせ。
実際には
父の義朝は為義によって廃嫡されていたらしい。
義朝は自力で院に接近して、血筋以上に実力でのし上がった人物。
(為義の後継者は頼賢)
為義自身もずーっと五位にもなれず他の清和源氏の面々にリードされて
嫡流だったか疑わしい。
頼朝に関しても、官位は途中まで朝長がリード。(頼朝が抜いたけど)
鎌倉には長兄の義平がいて嫡子の座は安泰ではなかった。


148 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:02:21
>>144
それから「人質」ではありません。
「流人」という「罪人」です。
人質ならばそれなりの扱い(客分)を受けますが
流人は完全に罪人扱い。
義経が甘やかされたのも大河限定のお話ね。

149 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:34:51
そんな状況だからこそ余計に清和源氏の嫡流とか言う怪しげなものすがるしかなかったんだね。
他に何にも誇れるものがなかったから。
しかしそのコンプレックスをバネに出世したんだからたいしたものではある。

150 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:40:14
>健やかな義経

史実では性格が歪みすぎの卑怯者の異常者。

151 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:42:37
>>143

いや、おれは好きだよ?
あくまで他の人の”頼朝=極悪人というイメージはどうすれば消えるのか”だからさ。

152 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:55:01
>>149
確かに、後世頼朝は自分の家系の正当化や
御家人との「譜代関係」(東国武士との間にはそんなものはなかったのだが)
の強調をしている。
そして、後世の大名は自分の家を正当化するためによりいっそう
鎌倉将軍家の正当化や譜代関係の強調を繰り返し行った。
そうやって後世出来上がったイメージで最近まで惑わされていたとも言える。

153 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 14:35:27
為義の親父の義親は追捕された「賊」だからな。
本来は、義康が義家流の嫡流なんだろう。

154 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 15:06:30
>>153
そういえば新田氏も自分が嫡流だと主張していたという話を聞いたことがある。

また、「保元物語」「兵範記」では
清盛、義朝、義康が同列に記されており
都の貴族からみれば義朝と義康が同格であったと考えられていたのでは
ないかとも思われる。
義康は保元の乱直後に死亡した為影が薄いが
生きていたらその後義朝とどのような関係になったかが非常に興味がある。

155 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 15:08:14
義重のほうが兄だからね。

156 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 19:08:53
家康とどっちが嫌われているかな?どちらかが日本史上最大の嫌われ英雄だろうけど。

嫌われ“英雄”なのがポイント。梶原景時みたいなただの嫌われ者とは違う。

157 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 20:02:10
確かに義親は謀反人ですが、為義は義親の子としてではなく義家の跡を継いだ形なので
義家流の嫡流であったのだと思います。
さて義朝ですが、どうも為義の嫡子ではなく、関東における代官に過ぎなかったのではな
いかと個人的には思っています。
つまり保元の乱以前の義朝は、嫡流からはずされたために独自の経路で権門と結びつき
分流した河内源氏中の義朝流の初代当主と言うのが現実だったのでしょう。
乱後は河内源氏の嫡流に成りあがったと言ってよいでしょうけど。
その後平治の乱後は、後白河との政治取引で頼朝が復権するまでは、河内源氏の嫡流は
義康流だったのだと思います。
しかしこの時期清和源氏の嫡流などと考えられる存在があったと仮定すると、都の官吏とし
て出世した頼光流の方でしょうね。
個人的には頼朝以前には清和源氏の嫡流等という概念はなかったと思っていますが。

158 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 21:32:27
>>157
為義が義家流の後継者とみなされた辺りを詳しく書くと
義家の後継者とみなされていたのはその子義忠。
その義忠が暗殺される。
その黒幕とされた義家の弟義綱を追討したのが為義。
なぜ為義なのかと言えば
義忠の実子はまだ幼くて義綱の追討の大将にできなかった。
そこで義忠の養子になっていた為義が追討。
そして、為義が義忠の後継者とみなされるようになった。
という感じです。

159 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 22:01:27
>>156
いやいや、5年くらい前に「日本史人気投票」をNHKがしたところ
家康が人気NO.1だった。

一方源平時代はかろうじて義経がベスト10入りするくらい。
戦国、幕末に比べてこの時代のマイナー感は拭えない。
頼朝は嫌われているというよりは多くの人からは「無関心」なのだと思う。

160 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 23:16:06
知られると人気は極限まで落ちるのかと。
鎌倉のイメージも・・・

161 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 23:38:06
無関心な時点で既に人気の無さ極限状態とみなすべき。
むしろ、最近義経の人気低下のほうが甚だしい。
大河板を見ても、義経=DQNとみなす人が多いし、
滝沢に人気があっても義経の人気なさそう。

162 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 23:53:01
人気が落ちるまでならいいけど、頼朝由来のものものに
破壊活動が起こらなければ、いいのだが。イヤガラセ等々・・・・

義経は御伽噺の世界みたいなもんだから、
ロマンとして語られればいいんじゃないかな。
歴史のエンタメ化には役立ってるし。

163 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 00:24:24
>>159
家康が1位?
普通信長か秀吉じゃないか(もしくは竜馬かセゴどん)?

>>162
今回の大河見れば寧ろ頼朝が好きになる人が多いのではないかと。
吉川三国志読んで劉備よりも寧ろ曹操を好きになるような現象が起きると思う。

164 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 00:28:59
曹操は悪いこともできる快男子だが、頼朝はただの兄弟殺しだから。

165 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 08:17:20
>>163
最近は以前とは傾向が違うということでしょう。

>>164
ただの兄弟殺しという評価をする人最近減ってますよ。
むしろ義経の方がアホという評価が増えている。

166 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 08:20:42
>>163
追加、その人気ランキングでは信長が2位、秀吉が5位だったと思う。
NHKの解説によれば
高度経済成長期のイケイケ時代には信長のようなイケイケタイプがもてはやされていたが
低成長時代には「堅実と忍耐」の家康が合っているらしい。

167 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 09:00:05
あれほど秀頼の事を頼まれたのに裏切って殺した家康や
兄弟を殺してまで権力に拘った頼朝に人気が集まるとは、
世も末よのう・・・日本人の美徳はどこへ行ったのじゃ?

168 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 09:20:13
>>167
秀吉だって旧主の息子を死に追いやり、その母と妻子も処刑。
我が子かわいさに甥とその関係者一同処刑(20人以上)。

信長は功績大だか、やったことは・・・

義経にしても、一の谷は単なる虐殺だといっている人もいるくらい。

家康、頼朝のみ悪役扱いするほうがおかしい。
秀吉などは暗黒面が目立たなかったに過ぎない。

169 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 09:24:41
ついでに言えば
家康は信長がぶち殺しまくった武田の遺臣を自軍に加えたり
石田三成の子供を殺さなかったりしている。
必要のない殺戮をしていない。

頼朝も政敵には容赦がないが
滅ぼした敵の遺臣で最後まで主君につき従った人は
誉めて後に御家人に取り立てている。

人気者の秀吉の息子を殺した為悪く言われる家康や
判官びいきの影響で悪役にされた頼朝は寛大な部分が
逆に見過ごされてきた。

つまり、歴史上の人物にはそれぞれ
いいところと悪いところがあり
どこを見るかによって善悪に見えるかに過ぎない。

170 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 09:39:01
>>168-169
ほぅ・・目から鱗。なるほどねぇ。。
大河も、虐殺と言われる一の谷の一面を再現すれば、視聴者の視野も広がって良いのに。
前作も、薩摩の悪辣ぶりが目立っていたし。
ドラマや講談本が誤解の原因なのかな

171 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 09:47:14
スレタイ見て一瞬「朝鮮=極悪人」かと思たよ

172 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 12:10:10
スレ違いですが、後白河法皇=極悪人というイメージはどうすれば消えるのでしょうか?

173 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 12:24:35
>>172
少なくとも私にとっては極悪人ではない
遊び好きで男性好きで芸術好きで権謀も好きな愛すべき法皇様

174 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 12:37:21
>>173
おぇ、オマイ趣味悪すぎ

175 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 13:06:33
どうしても政治家よりも武将のほうが人気出るわけだが
家康は武将としても凄い実績あるからいいが、頼朝はそれが無いから辛いな。

176 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 13:22:43
確かに実戦参加した二度は大敗ばかり。
総大将でも命からがら逃げ出す羽目に。

177 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 13:33:17
奥州攻めは楽勝ですた

178 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 15:03:33
>>176
負けたのは事実であるが
平治の乱は「参加」しただけで、敗戦責任は信頼と義朝にある。
石橋山はあれだけ兵力差があれば誰が指揮しても99%負ける。
追い詰められての挙兵だったから仕方が無いが。

といっても負け犬の遠吠えだろうが・・・・・

179 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 16:45:48
>石橋山はあれだけ兵力差があれば誰が指揮しても99%負ける

やはり屋島で勝った九郎は偉大ってことか。

180 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 17:02:48
まあ、義経はそれが取り柄なわけだし。

181 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 20:35:52
でも政治力ないからな。
足利直義が頼朝で尊氏が義経みたいなものかな?

182 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 09:01:41
石橋山の場合平家方の戦略目標が頼朝抹殺であったとしたら、
極端に言えば頼朝以外の全員が戦死か捕虜になったとしても、
頼朝1人が逃げ延びさえすれば戦略的には勝利かもしれない。
その場合は北条全滅で三浦か比企が執権?

尊氏は行政能力ないけど政治力はあると思う。

183 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 10:05:59
妻の北条政子の方が極悪という点では遥かに上だよ。
息子たちや孫たちが殺されても平然だし。
頼朝殺しだって北条でしょ。

184 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 12:11:09
というよりも頼朝=劉邦、政子=呂后 だな。

妻の一族のバックアップを受け、天下統一した点は似ている。
となると、恵帝の劉盈は頼家+実朝だな。

185 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 22:16:28
頼朝?いいじゃない。
漏れ的には好きな歴史上の人物で1位だけどなw

186 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 22:17:08
>>183
頼朝が殺されたのか単なる事故だったのかは不明。
ただし、頼朝が死んだ時点では北条が幕府内部で絶対的な力を
持っていたわけではなく、次期将軍は比企と梶原に固められていて
頼朝には死なれては困る状況だった。
頼朝の姻戚という事で他豪族に伍していただけの元小豪族でしたから。
(ちなみに他豪族より優位に立てたのは実朝以降
幕府を北条独力で動かせるようになったのは時宗以降)
政子も息子孫が殺されて平然ではなかった
「承久記」に次々と子供たちが亡くなっていった事を嘆く文章がある。
もちろんフィクションかも知れないが
彼女の偽らざる本音だったかも知れない。

187 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 22:38:40
>>186
時宗以降ってのが意味がよく分からんけど。
貞時以降ではなくて?

188 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 22:46:30
>>188
確かに少し言葉が足りなかったですね。
得宗の権限が強化されたのが時宗以降という意味です。
少なくとも泰時期までは有力御家人の合議制で運営されていたのですよね。


189 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 23:07:55
いわゆる得宗専制体制ね。了解しました。

190 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:31:20
義経の卑怯戦法は頼朝にばれてるんだから、もし義経率いる奥州藤原軍と頼朝率いる鎌倉武士軍が戦ったとしても
義経は勝てたかどうかわからね。


191 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 14:00:58
そりゃあ、関東武士の圧勝だろう

192 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 21:39:05
頼朝は九州からも御家人を集めた>奥州攻め

193 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 05:56:27
荒らしが現れたけど、ひろゆきが対応してくれず、ハックして住所を探り
懲らしめるストーリーで

194 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 22:02:04
頼朝は奥州藤原氏攻撃を、後三年の役をまねして戦っていたね。

195 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 23:12:49
話の流れ無視してすいません。
平家は身内以外冷遇していたというのが認識されてないからじゃないかな
源氏は身内に厳しく、家の子重視。その最たる人が頼朝。どちらが多くの人が幸せであったかという観点が欠けているせいだと思う
京雀は都内では和気藹々する平家を見ていたわけだし、京から賑わいを奪った頼朝に反感があるため、当然の風習を悪し様に言ったんじゃないかな
それに、源氏は坂東人って意識もあるんじゃないかとも思う。だから平家物語とかでよけい悪し様に言われていたんだと思う。

196 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 03:00:22
身内に厳しくも何も、他人の神輿に乗ってるだけの借り物の権力だもの。
それ以外にしょうがないでしょ。

197 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 15:28:01
>>196
頼朝自体は神輿ですから、まあ、そう言えなくもないですね。
ただ、源氏は歴代{義家公から特に}>>195さんの言うような風潮があったわけですから
それだけともいえないんじゃないですか?

198 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 15:33:34
良い国作ろう鎌倉幕府だから、

4192年ってことでおっけ???

199 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 15:48:53
おっけ

200 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 16:32:03
頼朝は首尾一貫せずコロコロ態度変えてるからどうしても小者としてしか評価できない

201 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 22:34:24
>>200詳しく知りたいので説明お願い
>>198「良い国作ろう」までだから正確には4192年296日・・・・だったよね?

202 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:09:13
鎌倉時代初期は日本史上最も治安が悪かった時代
政治抗争に敗れて殺された武士の部下が盗賊になって各地を荒らしていた

203 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:12:02
三国志で言えばせいぜい劉表クラスの能力しかないんじゃないの?>頼朝

204 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:16:45
HARAKIRIの頼朝は悲しいくらい能力が低かった
伊達政宗でプレイし、義経と義仲を引き抜いて攻めたらあっさり滅亡した。

205 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:22:03
頼朝が人気ない理由

1.信長や秀吉などに比べて華が無い
2.清盛や尊氏などに比べて度量が狭い
3.源氏政権に徳川政権のような持続力が無い
4.鎌倉時代の文化レベルが前の時代より明らかに低い

206 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:46:08
>>203
なるほど面白い例えだな。
確かに荊州の統治システムは鎌倉幕府の御家人制度に酷似していたし。

207 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:55:20
>>205さん、確かに・・・・・特に1が致命的かもしれませんね。
戦えば連戦連敗・・・・不遇武士の唯一の救いであり、血統の良さでのし上がれた感が・・・・
>>203さんのいうようそれくらいの能力でしょうね。
ただ、自重を重ねたのと、部下の扱いは上でしょうが


208 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 22:06:05
坂本竜馬など、幕末の志士の大半は頼朝を「人間のクズ」と酷評していたらしい。

209 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 22:53:01
>>205
>1.信長や秀吉などに比べて華が無い
こればかりはしょうがないっしょ。朝廷の権威がまだ強かった平安末期と
朝廷の権威が有名無実化した戦国時代では単純に比較できないし。

>2.清盛や尊氏などに比べて度量が狭い
清盛に関しては、度量の広さがかえって仇になったと思うけどね。
でも尊氏の度量が頼朝なみに狭かったら間違いなく足利氏は三代ぐらいで
細川あたりにとって代わられていたんじゃないかな。

>3.源氏政権に徳川政権のような持続力が無い
義経を生かしておけとは言わないがせめて範頼が生きていればなあ…。
その点徳川御三家を作った家康はやはり凄いとしか言いようが無い。

>4.鎌倉時代の文化レベルが前の時代より明らかに低い
これも致命的だよなあ。文化レベルが低い=国力に余裕が無いということだし。
鎌倉幕府が武力で打倒された政権=戦火で文化財の多くが焼失したと考えても
こればかりは弁解のしようがない。せめて実朝がもうすこし長生きしてればなあ。

210 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 07:58:43
執権北条一族は頼朝に輪をかけて人気が無いが、
時政・義時が頼朝の劣化版のような存在だったことと、
最後の得宗・高時の悪政が泰時、時頼、時宗らの功績を
すべて無にしてしまうほど酷かったのが原因。
時政・義時の悪行の因果が全て高時に跳ね返ってきたというべきか。

211 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 09:17:38
>>209
>3.源氏政権に徳川政権のような持続力が無い
義経を生かしておけとは言わないがせめて範頼が生きていればなあ…。
その点徳川御三家を作った家康はやはり凄いとしか言いようが無い。

といっても、徳川時代とも状況がちがうでしょ。
強力な譜代と独自の経済基盤を持っていた家康に対して
「利害のみ」で東国武士に担がれていた頼朝。

血族が「警戒すべきもの」であると同時に「頼もしき状況」だった徳川将軍家

反対勢力に「担がれる可能性」しかなかった源氏一族。
範頼粛清の原因も反主流派による頼朝打倒の旗頭に範頼が担ぎ上げられたから
だとも言われている。

東国武士達も兄弟間の争いの絶えない時代だったし。

時代が違うのだから仕方が無い

むしろこんな殺伐とした時代に幕府というものを150年存続させたことを評価すべき。

212 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 09:25:20
>4.鎌倉時代の文化レベルが前の時代より明らかに低い

これは明らかに誤解です。
平安文化が完成の領域に入ったのは鎌倉初期です。
「新古今和歌集」などに代表される和歌の隆盛、
宮廷絵画の興隆
一連の軍記物
などは鎌倉時代に入ってからだそうですし、
この頃から公家には「家芸」というものに力を入れるようになったそうです。
鎌倉時代にはいって益々公家は文化に力をいれるようになったそうです。

鎌倉幕府の成立によって「武」という面のアイディアンティーを失った
宮廷貴族たちが自ら「文」や「芸術」に目覚めたといったところでしょう。
つまり、幕府はその方面に直接タッチしていなくても
その担い手たる人に意識を与えたといったところでしょう。

213 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 09:32:34
>2.清盛や尊氏などに比べて度量が狭い

これも、人物的な面での評価は難しいところですが
鎌倉幕府と平家や足利政権との違いも考慮しなくてはなりません。

平家政権の場合は
朝廷内部に多くの一族を送り込んで朝廷の「多数派」を占めなくては
政権は運営できません。

一方足利政権も、鎌倉幕府の方針を一部継承しつつ
都の宮廷社会をも飲み込むという方針で
一部平家的な所がありました。

つまり、一族の使い道はあったのです。

一方頼朝の時代は
頂点に立つ「鎌倉殿」は一人のみ
それ以外の一族は徹底して服従させるか、弾圧するかしなければなりませんでした。
当時は江戸以降と違い
相続は一子相伝ではなく、「嫡流」という意識が薄かった。
兄弟は同格に近く
その中で「鎌倉殿の絶対性」を浸透させるには
かなりの犠牲を必要とした。
つまり、一族の必要性はあまりなし。
むしろ、一族の存在は危険な部分もあった。

そういった政治的立場の違いも考慮にいれるべきかと。

214 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 09:34:28
>>210
高時が優れていなかったという点は同意しますが

当時は分割相続が行き詰まり、
その結果
御家人が貧乏になり
鎌倉幕府を支えていた経済基盤が崩壊していたという面も
みるべきでしょう。

215 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 10:07:31
家康って「吾妻鏡」を何度も読み返して
鎌倉幕府や頼朝を研究していたんですよね。
つまり、良い面も悪い面も含めて頼朝を参考にして江戸幕府を作り上げた。
江戸幕府安定の陰に頼朝あり。
一方頼朝はなにもお手本も先輩もいない中で
あちらこちらからブレーンをかき集めて
暗中模索しながら幕府をつくりあげた。
結構試行錯誤の連続だったんじゃないのかな?


216 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 12:13:34
>>215
それだけ頼朝は立派ってこっちゃ

217 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 12:29:51
御三家と譜代大名で周りを固めて200年も保つ日本というのは中国と比べると甘い国だね。
中国なら御三家が必ずどこかで反乱を起こすか内紛を繰り返して自滅するだろう。

218 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 13:18:18
いよ!頼朝、いい男!

219 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 15:17:44

ここに集まった全員が頼朝の格好をして日本全国を闊歩し、
市町村の方々に宿を借りつつ、「おれ頼朝、おれ頼朝」と名乗り、
世間話しをまじえつ愛想を振りまいていけば解決するであろう。


220 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 15:40:30
先週の義高斬首の影響で、頼朝と聞いた時点で叩き出されそうだけど

221 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 18:24:10
頼朝が好かれない理由、205以外、こんな物がある。
5.嫁の政子に頭が上がらない
6.梶原のような嫌われ者を重用
7.義経嫁の静ちゃんを口説いた

222 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 02:20:12
これからどんどん人気は低下するだろ
鎌倉のイメージも


223 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 08:04:44
>5.嫁の政子に頭が上がらない
これは、後世作られたイメージみたいですね。
政子は、派手な夫婦喧嘩をしたり義高や静の事を口出しした位で
頼朝の生前は政治向きな事には何の口出しもしていません。
後家になってから、政治の表舞台に出たのでこのような誤解もあったのでしょう。

しかし、当時夫の死後後家が絶対的な権限をもつようになったので
政子は当然のことをしたにすぎません。
江戸以降女性の権限が制限され、表向きのことを口出ししないという建前に
なってから、
政治に関わった政子=悪女、でしゃばり女

にされ、それが助長されて頼朝だらしない。
ということになったのでしょう。

>6.梶原のような嫌われ者を重用
梶原は別に悪ではありません。
彼は職務を忠実に遂行しただけです。
ただし、職務に忠実すぎて、嫌われたきらいがありますが
梶原失脚の原因は将軍独裁を進めようとした頼家の政策を実行しようとしたことで
将軍独裁反対派の矢面に立ったという面があります。
また、梶原氏排斥の中心的立場にいた「北条氏」が編纂した「吾妻鏡」が悪く書いたこと
「判官びいき」の影響で梶原が「悪役」にされた
という面があったからでしょう。


224 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 08:10:06
>7.義経嫁の静ちゃんを口説いた
頼朝は口説いていません。
口説いたのは梶原一族の景茂という男です。
頼朝が静に興味を示したいう記載は永井路子さんの小説にあるだけです。

ただし、静の子供を殺したことは嫌われる原因の一つにもなるでしょう。
といっても、「謀反人指定」を受けた者の息子は当時殺されるのが
当時の常識ですから、頼朝も当然のことをしただけです。
当時の世情ではその赤ん坊でさえ特定勢力の旗頭にされる可能性があったわけですから。


色々と書きましたが
「嫌われている」要因として上記のことがあることは否めません。
色々と調べると「誤解」や「イメージ」が多いのですが
特に「歴史好き」でもない限り
深く考えないで従来の「イメージ」で「好き嫌い」を言う人の方が多いでしょうから。



225 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 10:21:43
家康が尊敬してた男、頼朝。
すぐれていないはずがない。

226 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 11:06:36
真田広之あたりが頼朝をやって、平家や公家を極悪に描いて武士による
天下万民のためになる新たな世を築いた、みたいな大河ドラマを
やればイメージ変わるんじゃね?

227 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 19:55:06
義経を誰にやらせるかにもよるよな。

228 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 05:59:24
落馬で死んだ、というかっこ悪い最期が余計イメージを悪くしている。
捏造だったとしてもそういう話が伝わっている時点で
庶民にはあまり慕われていなかったという証拠だろう。

229 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 09:03:13
このスレで挙げられた美点を基に、ジャニーズ主演で大河「頼朝」をやれば
イメージ改善しそう

230 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 09:12:38
頼朝:真田広之、赤西仁(青年期)、神木隆之介(少年期)
常磐:落合夫人
義経:その息子
静:奥菜恵か広末涼子

231 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 11:15:40
今の大河って頼朝をかなり良く描いている部類だと思うが。
「頼朝は武士による天下万民のためになる新たな世を築いた。
義経は所詮“いい人”止まりで頼朝とスケールが違う。」
という印象を持たせるんじゃないの?

232 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 11:57:03
>常磐:落合夫人
>義経:その息子
うぎゃあああああああ

233 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 12:50:42
>>231
そうだね。「何故、九郎は事が見えぬのか」と言わせてたし。

234 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 16:14:01
『兄に物申す』の回で中井貴一がタッキーに武家社会、ご恩と奉公の実現の理想を説くシーンは
凄く迫力あるシーンだった。
あれで頼朝に対する見方が変わった人はいるんじゃないの?

235 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 21:50:22
>>233>>234
同意見。
作者は頼朝は優れているとどこかで言ってた

236 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 10:07:14
頼朝は所詮北条の傀儡。
人の上に立つ器ではなかった。

237 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 13:05:50
>>236
北条の傀儡というよりは
御家人連合政権の担がれた旗頭。
北条はそんなに力がなかったことは散々ガイシュツ。

238 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 13:47:08
頼朝の判断はかなり適切。
平家と違い、武家の政府を作れた。
本人はともかく、周囲の人材活用がうまい。

239 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/26(火) 13:50:17
落馬で死んだというのはおそらく嘘でしょう。
朝廷よりに傾いたので御家人集団に殺されたというのが
真相だと思います

240 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 13:56:49
>>239
平氏{義父派}の陰謀と聞いたことがある。
このままだと、自分の影が薄くなるから{政子に功績による力を全て取られてるから}

241 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 16:33:00
>>239
その武家vs公家という視点はすでに学界では過去のものです。
強いて言えば将軍独裁に反発する動きはあったかもしれませんが。

>>240
北条氏にとっては、「将軍の外戚」であるだけがまだ頼みの綱状態。
まだ頼朝には死なれては困る状態だった。
ちなみに政子が政治的発言を開始したのは頼朝死後の話なので
「政子の功績による力」はまだここではない。


242 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 18:23:35
頼朝が源氏の総大将としての器量がなかったのでは。
範頼や義経を生かして使いこなせなかった。
それ以外の源氏一族も殺している。(義仲等)
一族がそろって繁栄しなければ、直系の子孫が亡くなった後は滅びるわけで。

243 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 19:36:13
一瞬スレタイが朝鮮=極悪に見えたんですが

244 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 20:26:11
>>243
頼朝も朝鮮もどっちも極悪。間違いない。

245 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:26:24
義家は源氏の内紛に苦しんだ。
それを知っていた頼朝は、直系を重視した。
大仏再建のとき息子を京都で披露している。

246 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:42:15
>>245
ていうかさ、義家自身が清和源氏の嫡流にいなかったから、当たり前なんだよね。
頼光の子孫こそが嫡流だからさ。

247 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:00:15
頼朝は義家に自分を重ねていたみたいね>東北攻め

248 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:32:19
ちょっとまて
一ノ谷は虐殺だったってどういうこと?
両家の存亡をかけた源平合戦の最中なわけだから
殺しまくって当然だと思うんだが

それと
義経が勝手に官位を授かったとはいえ
京に駐在していて後白河から直々に授かったら
その場で拒否なんてできないんじゃないの?

なにも木曽殿みたいに京を荒らし回ったわけでもないし
自ら政治的策謀で官位を奪取したわけでもないでしょ?


249 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 09:15:57
>>242
当時の東国は「兄弟は争いあうもの」というのが当たり前の状態。
財産の相続は分割相続。
それに
後世直系相続が定着していたが
その頃「直系相続」が始まろうとしていたところで
若い嫡子が世慣れた「叔父さん」に取って代わられることがよくある時代
だったから、
当主としても「弟」というものに警戒をしなければならない時代だった。

近世的なものの見方が定着しているが
このフィルターを離して見てみるべき。

対照とさせる平家の場合は
一門を要職に貼り付けて政権の中枢を占拠するという方式をとらざるを得なかった為
一族の使い道はあった。


250 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 09:20:48
>>248
一の谷の軍事作戦展開の院側の理由は「三種の神器」奪還。
それを果たせないのに
やたらと平家方の討ち死にが多いのは言わば「無駄な殺戮」

それに、平家方は後白河院の「偽和議」を信じて
鎌倉方が攻め込んでも暫くの間、「戦闘開始」とは気が付かなかったらしい。
つまり、最初の1時間くらいは鎌倉方のやりたい放題だったわけで。

さらに、神器と安徳天皇が海上に逃げ去ってからも
しつこく戦闘を源氏方は続けていたわけで。


251 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 09:26:42
>>248
>義経が勝手に官位を授かったとはいえ
京に駐在していて後白河から直々に授かったら
その場で拒否なんてできないんじゃないの?

それ以前に頼朝は都に使者を送り
「御家人の任官に関しては全て自分が推挙しますから
それ以外は任官させないでください」と申し入れている。
それを知っての上で頼朝の推薦なしに「任官」させた法皇はやはり
「鎌倉殿の意向を踏みにじったもの」であると認識される。

また、ドラマのように法皇がじきじきに義経と話をすることは当時の常識として
まずはない。
法皇が女房にささやき、女房が義経にことずてをするという方式である。
もしくは、近臣が義経に意向を伝えるということになるであろう。

義経の身分だと、たぶん後者であろう。
ドラマのように断りきれないという状況ではない。


252 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 09:30:18
しかしながら、当時「院から直接官位をもらってどこが悪い」というのが常識で
義経のほかに「無断任官」をした御家人も多数いた。

彼らは特に悪気も無く頼朝の激怒を知って初めてことの重大さを気づいたというところである。
後日彼らは御家人として頼朝に仕え続けている。
また、義経も「京都守護」として鎌倉の代官としての立場や権限が何一つ制限されていない。

つまり、頼朝も「今回は仕方が無いこと」と有る程度黙認していたものともとれるのである。

253 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 09:33:46
>>250
横レスですまんが

「三種の神器」を素直に返さないから殺戮したわけで
加えて源氏の本音は平家殲滅なわけで
敵方に甚大な被害があったという理由で義経が非難されるのは
どうも理不尽な気がします
殺されたくなければ返せばいいんだし

「偽和議」にしても後白河が仕組んだのは
平家を圧倒的に不利な状況に追い込むためでしょ?
その戦略どおりに戦闘を進めたのがまずかったと?

それならば非難されるべきは現場の指揮官ではなく
グランドデザインを設計した人なんじゃないですか?

254 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 09:57:09
という以前に、頼朝の全国支配構想がまちがっている。
武家中心の社会を作ろうと考えれば、当然それまで国を統治
してきた公家から反発が出る。
あえてそれを敢行したら当然、頼朝に相対する力のある人物、
すなわち義経を公家衆は味方にしようともちあげる。
義経が死んだのも、こうなることを見越してあえて改革をおし
すすめた頼朝のせいといっていい。

255 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 13:28:33
反発を恐れてたら何も出来ないのでは。

256 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 13:46:38
>>253
>加えて源氏の本音は平家殲滅なわけで

そうでもないようですよ。
頼朝の構想では、平家を滅ぼすつもりもなく、
「三種の神器」を返してもらえるならば、平家と和議を結んでもよい。
西国は平家、東を源氏、東北を奥州藤原氏で治めればよいと
考えていたというのが最近の見方のようです。

義経の暴走により平家が滅んだので
バランスが取りづらくなった結果
奥州にも手をつけた、と。

257 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 13:48:30
>>254
最近は武家vs公家という見方をしている専門家は減っています。
頼朝のとろうとした方針は
東国に独立性の高い政権を打ち立てつつ
軍事部門を源氏が独占する。

実質的な国の支配は従来通り朝廷に任せるという感じで
後の北条政権にくらべると比較的穏健だったようです。

258 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:16:06
>>257補足
軍事部門を源氏が独占というのは
朝廷の軍事部門という意味あいです。

事実、頼朝期の支配体系は
朝廷の荘園公領制度にのっかていた感じですし
荘園を増やしていった貴族は武士の持つ
武力にかなり支えられていた部分があったようです。


259 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:49:23
>>258
ならば義経を目の敵にするのは政治的戦略ではないってことですね
義経は朝廷の覚えめでたいわけですから
ただ単に怖かったのか嫉妬したのか・・・

260 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 19:41:54
>>251
直接言われようと伝言ゲームだろうと、権力のトップにいる人の意向じゃ断りづらいよなあ。

261 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 22:09:14
>>259
義経との対立の原因は
「壇ノ浦」にあったとされています。
「壇ノ浦」自体が頼朝の構想にはなく後白河院の命を受けたか
義経の独断で始めたこととの意見が最近強まっています。

つまり、義経は頼朝から独立しようとする動きを見せ
朝廷側もそれに手を貸したようなのです。
それは頼朝にとっては由々しき問題だったようで。

262 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 22:14:11
>>261補足
それまで「京都守護」を任じ、屋島攻めの大将をしていた義経が
まさかそのような動きをするとは頼朝も考えていなかったと思います。

263 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 10:05:05
武家vs公家の対立構造だったのはむしろ足利尊氏vs後醍醐天皇だな。

264 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 10:34:11
壇ノ浦って義経の独断だったのか・・
でもお目通りかなわぬと涙にくれてたわけだから
義経本人に独立する気なんてあったのかな

若くてアホでチヤホヤされたからうまく乗せられたってことか?

265 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 13:31:35
頼朝のグランドデザインはなかなかいい。西国は朝廷にまかせ、東国をきちんと把握している。

266 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 13:41:36
>>264
素直なのはいいことだが、、、
「そうではないかと言われている」「そういう説が有力」って話はそのまま受け取らないほうがいいかと

267 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 16:59:03
>>1
だいたい、兄弟殺しなんて歴史上たくさんいるわけじゃん。
そんなに極悪人のイメージ無いけどねえ。
兄弟の情を断じた決断をした、という選択をしただけ。

頼朝自身も業半ばで変な死に方してるし、
頼家と実朝の悲惨な最期もあり、因果応報でおあいこだな。

268 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 07:13:55
頼朝には朝廷を滅ぼそうという考えはなかったのかな?

269 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 09:53:11
副署長が自転車盗む 神奈川、警官が取り押さえ

 神奈川県警は23日、緑署副署長(49)=警視=が放置自転車を盗み、警官に取り押さえられたと発表した。県警は占有離脱物横領容疑で書類送検する方針。
 副署長は退職の意向を示しているという。
 県警監察官室によると、副署長は22日午後10時すぎ、同県相模原市上溝のJR上溝駅前で、鍵が壊れた放置自転車(1000円相当)に乗って帰宅しようとしたのを相模原署員に見つかり、取り押さえられた。
(共同通信) - 7月23日20時2分更新


神奈川県警察のモラルの低さは鎌倉武士が生んだ悪しき伝統だったのか…。

270 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 11:16:11
>>267
頼朝=極悪人というより単に暗い印象が強いだけじゃないかな。

271 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 12:02:43
>>268
なかった。頼朝の狙いは東国の自立。

272 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 12:08:47
肖像画をみると結構イケメンだったと思いますけどねw

273 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 12:12:07
頼朝は朝廷を滅ぼすというより
朝廷に憧れてたと思いますけどね。
晩年になって朝廷に接近したことからも
それがわかります。

274 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 12:15:59
あの肖像画は、最近、疑問視されている。

275 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 12:58:19
あの肖像画は、最近は足利直義だったって説が強いんだろ?

276 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 13:08:56
>>273
頼朝自身は大阪の出身だっけ?

277 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 14:07:10
>>276 
源氏の本拠地は鎌倉近辺だったと聞くけど、産みの母はそのあたり出身だった気がする。
知ってる方、情報お願いします。
>>273
鎌倉幕府はあくまでも御家人を守る政府だと学校の教授が言ってたよ。御家人以外にも武士はいるし、朝廷の支配する地もあるし
それに、法王には逆らっても、天皇には決して逆らわなかったみたいだよ。
勘違いしだし朝廷に完全敵対したのは北条時宗以降みたいだよ。それ以外は防衛で幕府から攻め込んでないらしいよ


278 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:07:04
>>273
頼朝生誕地説は
京都説と尾張説があります。
尾張説は母が熱田神宮の大宮司の娘だったことから
熱田神宮の近くで出産したのではないかということで
その近辺に産湯の井戸というのが残っています。

しかし、「熱田大宮司家」は基本的に都で院や女院に仕えていた
「都の公家」だったようですし、頼朝の母自身が宮仕えしていた可能性も高いようですので
「京都出生説」の方が濃厚です。

育った場所は京都とみてほぼ間違いがないようです。

279 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:58:30
>>277
頼朝の出身は「河内源氏」。つまり大阪に本拠があった。
本来の源氏嫡流は「摂津源氏」だが、こちらは源義経とともに没落。
「東の源氏西の平氏」というのは誰が言い出したのかしらんが、、、

280 :277:2005/07/29(金) 16:43:44
>>279さん情報ありがとうです
朝廷は、東は坂東人と一括りに言うから、東下した源義家のイメージから、一口に「東は源氏」
また、平清盛達が瀬戸内にいたから、「平氏は西だ」と単純に考えたのではないでしょうか
京雀は無責任で偏見に満ちているというのが通説っぽいですから



281 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 17:10:29
静御前って踊り子だっけ
当時の踊り子って売春もするの?
それとも都のアイドルみたいなもの?


282 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 17:26:49
白拍子ね。
神殿娼婦の日本的進化形態だな。

283 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 21:11:42
白拍子って人気者?

284 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 21:55:44
>>283
あったでしょうね。

285 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 22:53:27
白拍子は遊女が多かったそうで
まあかなりエロティックな存在だったろうね
いろいろと艶っぽい話も多いし

静御前がどうだったのかは分からないけど
人気があったという話もあることはある

286 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 22:56:34
清和源氏も桓武平氏も京都系。ゆえに、清和であり桓武。

287 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 13:46:36
>>286
清和源氏も桓武平氏も、支流に分かれてから、各地を根拠地にしたから、>>279の言いたいこととは若干異なりそうだよね。
日本国民は一応、皆、天皇家と繋がりがあるから、その意味では皆、奈良・京都系だよね

288 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 20:03:24
出産後の静は、何してたんでしょうか?白拍子に戻ったのか、出家したのか、誰かに嫁いだのか?その辺の曖昧さも義経美談を手伝ってる感じかな

289 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/30(土) 20:08:05
そういえば足利尊氏の肖像もなんか
高師直のものらしいですよw

290 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 21:58:02
そうらしいね

291 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 15:41:47
静の子供は砂浜に埋められたんだよな
その後どうしたんだろ・・・

292 :日本史@名無しさん:2005/07/31(日) 17:49:08
単に三種の神器取り返せなかったというのも間違ってないと思うけど

昔やってたのが石坂浩二で今は中井貴一か

293 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 17:49:38
頼朝の長男も絶壁から投げ捨てられたな


294 :日本史@名無しさん:2005/07/31(日) 17:55:15
他の役者でってイメージも湧きにくいし、やっぱり情熱的な熱血漢でも豪傑でもなかった
んだろうね。

まあそれもこれも自前の兵力持ってない悲哀として、所詮はロボットと自覚してたかもしれんが。

ある日の閨
頼朝「さあ、一発やろうか」
政子「うっふ〜ん。ちょっとまってね。あの出っ歯どうしてるの?あそれはそうと明日は父が馬揃え
    を(ry」
頼朝「・・・・・・・・・(つまりこれは九郎を始末しないと漏れの方が・・・・・(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル)
   ああ。ヤシは捕縛いたす。」
政子「うっふ〜ん。さあ野暮な話は忘れてやりましょうよ。」


295 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 17:57:27
つーか軍監でも本体の大将でもない義経が
なんで三種の神器の奪取計画の失敗の責任を負わせられるの?
その前になぜ頼朝は任官の推挙をしなかったのか?
後白河につけこまれたのもそこだよね
わかんねえなあ・・・


296 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 18:13:41
義経は、一軍をまとめる位置にあっても、一番のりなどの手柄にこだわった。
その当時のまとめ役は部下達に手柄を上げさせ、それを褒めて、大将に伝えるのが役割。
いわば、配下の味方であり、保護者。だから、死んでも手柄を伝えてもらえ、領地の安堵、子孫の反映を約束してくれる存在。
しかし、義経は手柄を横取りし、しかも自分の手柄しか主張しないから、配下についた御家人は反感しかいだかない。最後まで人望が無かったのはそこが大きい。
頼朝もその辺を皆から言われているから、立場上、任官の推挙などとてもできないし、自重を促す注意{警告}を言うしかない
・・・・・後白河上皇はそこに漬け込み、不和にさせられたわけ

297 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 18:16:58
追加
責任取らされるのは、見せしめと注意的な意味もあったんだと思う。
頼朝の弱い立場と自分の立場をわからせ、自重を促す意味だったと思う。
無論、周囲の敵意・朝廷の評価への妬みも絡んでいたと思うけど

298 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 19:02:01
そうだったんですか・・・
義経はアホだなあ
頼朝の脆弱な地盤を考えると軽率ですね

299 :日本史@名無しさん:2005/07/31(日) 19:13:54
>296

ただし何故義経がそういった功名駆けにこだわったのかと言うことも
実は同じ理由ではなかったかとも言われるけどね。
形式上大将であっても人事、賞罰等の権利は無かったようだし。

300 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 19:17:02
大江広元が300ゲット!

301 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 19:22:16
義経に手柄を取られたというなら、それを素直に頼朝に訴えればいいんじゃないの?と思うんだが、
具体的に誰のどの手柄を取ったとかいう記述はあるの?

302 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 21:17:15
>>301
その軍の大将はあくまでも、手柄を認める者。
なのに、功名一番の一番乗りを取られる。誰かの取った手柄を掻っ攫うのでなく、一番美味しい所をみんなから奪ってしまう。
そして、「俺は、優秀だ」と威張るから、「義経は俺らの手柄より自分の手柄を優先する」と配下に言われている。
小説などでもやや丁寧なものには、この出展が乗っていた気がするし、多くの作家・研究家がこのことを言っているよ。
また、義経は途中何度も戦線を外されているが、その際は、平家に負けているため、戦力として認めている頼朝は義経に出撃を命じている。

個人的にだが、頼朝は他の武将たちよりは義経を評価し、庇っていた様に感じる。でも、それも立場上、限界が・・・・・


303 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 21:21:39
>>299
一説によると、手柄を立てることにより、頼朝に「肉親として」認められたかったというのがあったらしいですね
仰るとおり、配下の讒言を信じる頼朝に対する忠告{文句?}の意味が大きかったようですし
小説家ですが、司馬遼太郎の義経では、肉親の愛に飢えた一種の異常者として書かれてました。
平家の肉親愛を元に考え、数少ない兄弟への過度の甘え・・・・それが>>296さんの言うように・・・・

304 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 21:52:27
範頼&東国武士団が先発隊として平家討伐に行ってたのに、
後発の義経&西国武士・水軍が平家討伐に多大な功績を上げちゃって、
梶原景時は屋島に参加できなかったし、範頼軍も壇ノ浦にほとんど参加できなかった。
先発隊にしてみりゃ後発隊にしてやられた訳で、その不満が、合戦に参加できなかった=手柄を取られた、となった。
という見方もある。

305 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 22:13:26
大将が先陣をしてはいけないでしょ。
義経は先陣大好き。
範頼は御家人と先陣争いをして頼朝に散々叱責されている。


306 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 01:33:02
身内可愛さより、建前なんだよね、増してや、これからが鎌倉の土台を磐石にしていくのに、個人的な私情なんか通してはいけないですよね

なんだか本田技研とかさなりますね

307 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 02:59:37
>>305
言われてみれば確かにありえないなw

308 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 07:41:54
平治の乱後の頼朝のガラは頼盛→池禅尼(仲介)→北条時政と池家グループ内でタライ回されてる。
頼盛はぶっちり独走態勢を築きつつあった清盛を毛嫌いしてて、頼朝が殺されなかったのは「源氏だし
何かのカードに使える」って下心があったからだ。で、全部終わってみれば勝ち組は頼朝だったと。

頼朝は「危険な芽は摘め」っつーのをその身でリアル体験してるワケだ。あの猜疑心は理解できん事も
ないな。

309 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 08:13:57
頼朝は義経を滅ぼしてから暴走し始めて源氏一族は人望を失った
→故に滅亡したと考えていいのかな?

310 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 08:23:47
>>308
頼盛と時政の関係は杉橋氏によって推測されていますが
牧の方の息子政範の年齢から考えて
頼朝配流の時点での関係はないとの説が出ています。
私もその説に同意です。
時政が頼朝の監視役になったのは伊豆の国衙の中職務の割り振りの中
単に担当になっただけだと思います。

311 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 08:25:25
>>309
人望というより
範頼、実朝、頼家の遺児など
鎌倉の有力御家人が次々と源氏の人を担ぎ出した為
パイが消えたと見るべきだと思います。

312 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 09:23:45
>>310
失礼知らんかったっす。確かに時政は頼朝の色恋に過剰反応してたあたり
清盛に相当びびってた感じはあるっすね。要は頼朝自身が「危険の芽」
出身者だったので同族でも容赦しなかった、は自然だと思えたのです。

313 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 10:05:09
もし、頼朝が義経討伐の兵を挙げる前に死んでいれば、
義経は東北で力を蓄えて再起してたかもしれないね。

頼朝が死ぬ→後を継ぐのは幼い頼家(実朝は生まれずじまい)
→弟の範頼を立てる御家人も現れるはず→後継者争い勃発
→関東御家人は結束力を失う→義経討伐どころではなくなる

そっちのほうが源氏にとっては良かったかも…。

314 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 10:31:11
>>1
兄弟といっても薄い関係や
幕府経営戦略や地盤固めの重要性からみれば
仕方のない処置かと。
普通に情勢を考慮すればちっとも極悪人ではありません。

315 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 11:30:46
親族が入り乱れた争いの末に伊豆に流されたんだから、
身内を信用しなくて当然。
北条親子だけを妄信してしまったから、簡単に乗っ取ら
れる。(祭り上げられただけの傀儡的存在だから当然と
言えば当然だが、傀儡される事を嫌った足利義昭より愚か)
極悪人というより、義経同様悲劇の主人公の一人。
結局は、世間知らずのボンボン。
征夷大将軍職=源氏の専売特許みたいな変な慣習を作った
悪い功績もあるが、せいぜい小悪党がいいところw

316 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 11:37:30
京都からブレーンを招くような点が優れたところかと

317 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 13:24:48
>>315
北条氏を盲信はしていない。
親族の配偶者は比企一族で固めているし
幕府の要職、嫡男の乳母いずれも最初は北条氏はありつけていない。
もっとも北条氏自体小豪族で大した力をもっていなかったのであるが。
北条氏が頭一つ出たのは実朝が将軍になってから。
後々の結果から北条を過大評価しないように。

318 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 15:20:12
頼朝=極悪人というより「暗い」よな。

319 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 15:44:02
せいぜい小悪人だな。

320 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 15:46:05
>>319
有る程度悪人でなければ政治家にはなれません。
奇麗事だけですまないのが政治というものです。

321 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 16:55:50
義経ヲタは土方ヲタと同じくマゾ

322 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 20:21:36
バカでも血統がよければ補佐が付くから政治はできるんだよ
頼朝はその代表例

323 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 21:48:23
頼朝にはビジョンがあった

324 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 22:26:20
>>322
それは違う。北条をはじめ多くの御家人は代々源氏に使えてきた
わけではないから、血統は否定しないがやはり、その人物に
惚れたのがついて行った理由だろう。
馬鹿でも補佐がついていたから政治ができたのは徳川家光など
でしょう。

325 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 22:43:26
頼朝のビジョンなんて信長に比べればちっぽけなもんだろ

326 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 00:14:25
歴史を学校の授業程度しか知らない人には、鎌倉幕府を作ったえらい人。
歴史に少し興味を持って関連の小説等を読んだ人には悪い人。
歴史オタには言われてるほど悪い人じゃない。
という感じだと思うが。

327 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 01:37:46
マジレスだが、
俺のご先祖様が源頼朝を折角追い詰めたのに、
内通者のせいで討ち漏らすが為に頼朝は生き延びて鎌倉幕府を開き、
後世に名を残す事になろうとはね…
その時ご先祖様が討ち取っていれば、歴史はどうなっていたのだろうと考える今日この頃…
ちなみに我が家のご先祖様は源頼朝と戦い、
勝ったがその時討ち漏らしたが為に富士川の戦いの後投降して、
斬首されて我が家は没落した訳なのだが…


328 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 09:15:23
>>325
時代が違えば描くピジョンは違って当然。

329 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 11:39:53
頼朝のビジョンは、家康が参考にした
信長のは参考にしなかった

330 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 11:58:33
信長のビジョンは無理だったんじゃないかな。
時間がかかるだろうし、抵抗もされまくるだろうし

331 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:05:20
頼朝の王権

332 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:24:28
朝廷との距離のとり方が絶妙。たいしたものだと思う。

333 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 20:04:17
白拍子萌え━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!

334 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 07:32:27
中国史では頼朝タイプの群雄は長続きしないというジンクスがある

335 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 08:42:11
「中国には家康がおらず、日本には劉備がいない」
とよく言われるが、国民性の違いなんだろうか?

336 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 09:16:25
>>335
魏晋:
曹一族=信長
司馬一族=秀吉
で家康がいない

織豊:
織田=曹操
毛利ほか反織田勢力=孫権
で劉備がいない

って感じか?

頼朝の話をするとよく前漢の劉邦が引き合いに出されるが、
劉邦の戦略には柔軟性があるのに対し頼朝の戦略には柔軟性が無かった。

曹操は劉邦を手本にしていたが、
同じ革命児である信長は頼朝を全く評価しなかったことからもわかるように、
劉邦が多くの人間に慕われていたのに対し
頼朝があまり多くの人間に慕われていなかったということがわかる。

337 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 11:22:55
俺的には劉備≒家康だと思うが。

ただ国民性や民族性の相違には同意。

338 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:32:46
中国にも「家康」はたくさんいると思うよ。
ただそんな奴は途中で抹殺されてしまって有名になれないだけなんじゃないの。

339 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:43:13
というこは日本にも「劉備」がたくさんいたってことだな。
大体が天寿を全うできなかったのかも知れんな。有名にもなれずに。

340 ::2005/08/03(水) 12:45:56
頼朝を、キムタクが演じれば?

341 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:48:21
いや、ヨンさまだ

342 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:49:22
所詮蜀の親分に過ぎない劉備程度なら日本にもそこそこいたかもね。

343 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 14:18:29
柳眉とかいかがわしさの代名詞

344 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 16:03:43
>>305
総司令が先頭にたっちゃいけないというのは東アジアの特徴かな。
ヨーロッパやオスマン・トルコでは総司令が最前線にいるぞ。

345 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 16:09:03
>>344
上杉謙信はどうよ。

346 :日本史@名無しさん:2005/08/03(水) 18:06:19
なんだよ夏厨っぽいこの展開はw

仲達=家康に決まってるだろ。あんな頭は良くないがw
曹操=信長+家康
つまり人望も知略も革命性も全部あった画期的指導者で、ただ皇帝にならず
死後の展開にも恵まれなかったってことで。

347 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 18:46:58
上杉謙信こそ厨の代表格。内政も派閥もまったく興味なかったから
当人死んだだけで3年も内紛→越後半国に逆戻り。いい例には入らない。

348 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 19:05:43
孫権+司馬懿≒黒田如水入道孝高(官兵衛)

349 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 07:41:10
劉表=源頼朝
劉[王奇]=源頼家
劉[王宗]=源実朝
甘寧=源義経
蔡瑁=北条時政
蔡夫人=北条政子
黄祖=梶原景時
[萠リ]越=大江広元

350 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 08:51:12
義経は劉虎か劉盤でいいんでないの?血族だし。
教頼なら劉脩。
義仲なら、近縁に当たる劉必かなあ…。一応、劉封の族父という意味で。
(演義では泌で樊城の県令らしいが、どうも県丞か県尉くらいかと)

351 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 10:18:21
ほーら三国志馬鹿が湧いてきた・・・

352 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 12:12:54
なんだ、このひでぇ流れは

353 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 17:02:56
教頼→範頼…orz

354 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 23:14:04
>>349 大江広元をもっと知的にすごい人にして欲しい。張良だと言い過ぎかもしれんが
あと、甘寧=源義経は甘寧がちょっとかわいそう・・・・



355 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 12:28:24
大江広元は東国政権に貢献したね

356 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 13:51:00
それをうまく使ったのは頼朝の能力

357 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 14:06:32
義経=政治感覚ゼロの無能な奴

というイメージを定着させることだな。

358 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 16:52:09
>>357
義経役を誰にすればよかったか?

359 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 17:27:42
まぁ、義経が生きてたら義経に潰されてたよ。
で、小説とかで無能なのでこれでは鎌倉幕府の安定は望めないから、
義経は断腸の思いで頼朝の権力を奪った風に描かれる。
それに現代人も納得する。
まだ殺して嫌な奴扱いされた方がマシ。

360 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 20:21:08
義経は武将として優れてたが、政治家の素質は全く欠如したということ!

361 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 09:28:09
義経が略奪などの悪政を行っていたから討伐されたというのなら話はわかるが…。

362 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 13:20:35
義経は頼朝追討の宣旨を出させてるからなぁ

363 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 07:31:56
極悪人ですらない。小悪人だ。

364 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 12:15:27
頼朝よりも梶原景時、北条義時、政子のほうがより悪人という印象だがな。
頼朝は暗い、死に方が情けない。実は暗殺かもしれんが、、、

365 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 13:09:26
そうか?聡明なイメージだけど

366 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 13:16:49
頼朝&義経はお笑いコンビみたいなもんだな

仲悪くなる→ピンで仕事し始める→片方だけ売れる(生き残る)

367 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 13:31:36
ピン芸人かw

368 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 13:20:58
頼朝は東国に都を作った

369 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 07:30:28
>>368
が、北条高時がすべてをダメにした

370 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:42:19
そういう誰が阿呆だったからとか、誰が専横だったからとかいう
個人的な次元で説明できるものではないよ。

371 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:24:21
最近の日本の概説書レベルでも頼朝の評価は高いよ。
実際にほぼ従来の体制の枠内に反する事なく、政治的な駆け引きで
実質上の自治政権を作り上げてしまった手腕は卓越な事には間違いないだろう。
やり方がまるでローマのアウグストゥスみたいだ。ちなみに合戦にも弱いのも同じだ。
恐らく日本史上屈指の政治家だと思う。惜しむのはティベリウスのような人物が
周りにいなかった事だ。

372 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:47:07
>実際にほぼ従来の体制の枠内に反する事なく、政治的な駆け引きで
 実質上の自治政権を作り上げてしまった手腕

「体制の枠内に反」しない場合、どうして評価が高くなるのでせうか。
色々な意味でのリスクやコストが避けられたと考えるからでせうか。  

373 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:54:36
>>372
>>371では無いけど、政治的摩擦を生じさせないからじゃないかな。
政治的摩擦が生じやり方だと、多くの人が深刻な被害を受ける。
明治維新とか摩擦が激しい良い例だと思う。
だから、被害が最小限で、スムーズな政権奪取は政治の最上の手段だと思うよ

374 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 02:23:17
とりあえず、現状のあんな山奥ではなく
鎌倉駅ロータリーの真ん中に銅像を建てることだな。

375 :371:2005/08/17(水) 02:28:44
>>372
日本史はいまいち分からないけど、自分なりの理由を言うと:
たぶん頼朝の持つ権力が板東武士などの支持層のバランスの上に立って、従
来の門地の部下を持っていなかった事からすれば、実際に独自の権力基盤を
築くにはそれしかできなかったと思う。当時朝廷の追補令の可否によって恩
賞が出るかがどうか決まっており、それに群がる武士が多かった事を考える
と、微妙な支持基盤を空中分解させるリスクを負うよりも朝廷が持つ権威は
自分の権力の拡大に役立つ程度には利用する方が得策だった。実際、頼朝は
自分の権力の影響する範囲が奥州を含む東国にまで及んで、政敵後白河法皇
がいなくなると早々に征夷大将軍の肩書を返上している。官位の持つ有効性
と弊害を適格に理解していた証拠だろうと思う。

376 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 03:51:34
頼朝のイメージが比較的悪いのは事実。それは義経伝説があまりにも民衆に広まったため。
悲劇のヒーロー義経は「ヒーロー」として揺るがないから、それを殺させた頼朝のイメージが悪くなるのは当たり前。
問題は、一般大衆が主にヒーロー義経の視点で歴史を見ているのだということ。
義務教育課程じゃ義経が勝利を収めた合戦の詳しい経緯や頼朝の苦心なんぞ教えてはくれないだろ。
にも関わらず、様々題材にされやすいヒーロー義経の活躍は歴史教育としてではなく娯楽として多く親しまれていく。
だから、義経のヒーローとしてのイメージが多くの人間の中で一人歩きしていく。専門書を読んだり、高校から日本史を学んだ人間であればそんな事はないだろうが。
では、そのイメージを払拭するにはどうすればいいのか。
1つだけある。
この説を定着させれば義経の英雄的イメージに多少なりとも傷がつけられるのは間違いない。
つまり、


                       義 経 = チ ン ギ ス ハ ン 説 で す よ


377 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 04:30:08
↑かえって英雄視されると思うのだが‥‥

378 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 04:37:41
朝廷の争いに巻き込まれ父を失い、伊豆へ流罪となり、
義経が講談の影響で人気があるのは分かるけど、頼朝も書き方によっては
小説になれると思うけどなあ。そんな才能自分にはないけど。

朝廷の争いで父を失い、伊豆に流罪となり、平家の東国支配から挙兵。
今まで殿上人のいいようにあしらわれていた武士の武士によるクニを作ろう
として後白河と腹のさぐり合い、勝手な事ばかり言う武士団のバランスを
探り、必要とあらば粛清。外なる敵と内なる敵と同時に戦い続ける頼朝。
組織を作りあげるために、離ればなれになっていた弟たちまで殺さなくては
ならなかった男の心境とはどのようなものだったのだろうか?
という感じに(ゴッドファーザーみたいに)。

379 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 09:30:15
酷い物になると晩年の頼朝が暴走して悪政を敷いたために人望を失い、
そのために北条一族が源氏一族を粛清した、という話もある。

範頼を死に追いやったのは明らかに頼朝の失政の一つだろう。

380 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 00:05:52
>>379
秀吉も弟・秀長亡き後はそうだったね。
違いは、秀長が義経と違って病没だったということだが。

381 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 15:42:29
秀吉にとっての秀長の役割は、頼朝にとっては義経、範頼というより梶原景時
の方ではなかったろうか?やはり兄弟を頼朝は警戒していたんじゃないかな?
あれだけ雑多な武士団をかかえ、壇の浦以降、精神的なつながりのない西国の
武士もかかえるようになったろうから、後継問題で対立候補にかつがれるのを
恐れていたと思う。

382 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 16:09:47
小物は小物なりに必死なわけよ。責めるいわれはない。

383 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 16:31:24
弟、弟ってよく言うけど、現代の常識の兄弟とは全然違うでしょ

まずは、第一のライバルであるし
しかも血も半分しかつながってない(母違い)
さらに育つときもそれぞれ母単位での生活だから、兄弟という意識も育まれない。

まあ現代でいえば、せいぜい従兄弟と同じ程度のものではないか。

384 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 20:41:09
恐らく頼朝の脳裏にあったのは八幡太郎義家の事だったと思う。
朝廷の権威で都合のいいように振り回されて、親子兄弟反目しあって
結局天皇の近辺に侍り勢力の強かった源氏の勢力を半減させ、
もともと検非違使の役割を担っていた平家の台頭を許してしまった
事が頭にあったのでは?
だから自分の後継者の血統と兄弟や他の源氏ときっぱり上下をつけたん
だろうと思う。ただ、こういう直系、傍系の差別待遇するのは当時では
一般的ではなく、それに義経、範頼は気付かなかったんじゃないかな?


385 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 21:39:38
>>384
社会の相続制度がそこまで来てないのに、そういう無茶やるから自滅した。

386 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 09:11:44
>>385
逆にそのけじめをつけなかったら
後々までもっと混乱していたと思う。

>>379
だから、そのころは北条にそんな力はなかったんだってば。
頼朝の失政といえるかどうかはわからんが
将軍独裁を目指した頼朝と御家人とのあいだに微妙な対立があったとは
言われている。


387 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 11:02:14
>>385
当時の東国は親族の間では所領問題などを巡って争うのが当然という状況。
それをなんとかまとめようとするならば
やはり親族の間の序列を決めるのも
必要なことだったと思う。
それを自らの血族で範を示すのも必要だったのだろう。
ただし、争うのが当然の中で新しく秩序をつくろうとすると
色々な軋轢は出て当然。
しかし、それでも序列を作ったということは大きいと思う。
事実頼朝の時代は御家人の中で血族内部の戦闘は無かった。
「問注所」設置の効果も大きかったともいえるが。

388 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 10:42:08
頼朝は、旧時代のシステム(院政)を破壊せずに
先に新しいシステム(鎌倉幕府)を作ってしまったんだよね。

朝廷の権威に真っ向から立ち向かっていった足利尊氏や、
古い権威を全て否定して実力主義を徹底した織田信長に比べると
改革者としては中途半端な印象が拭えないと思う。

389 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 14:14:04
信長は改革者として分かりやすいけど、頼朝の業績は分かりにくいのは確か。
あからさまに改革していたら朝廷につぶされていた可能性もある
ので、頼朝の行動は適切だったと考えているが。
この頃の朝廷はまだ統治システムとしてはまだそこそこ機能していたので、
迂闊に手を出さずに、逆に御家人をいかにまとめるかに集中できたのだろう。
たぶん後白河法皇以外は頼朝が何をやろうとしているのかを理解できなかった
のではないだろうか?
幕府が朝廷の普通の公家から別組織として認知されたのは承久の乱以降だと思う。


390 :日本@名無したん:2005/08/21(日) 14:20:02
>>389

 同感!
 彼こそ冷徹な政治理論家であり、現実を忘れない理想主義者だったと思う。

 家康が尊敬するだけの男だった。


391 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 17:22:17
小物には小物なりの苦労がある。

392 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 00:22:52
源平の時代が男性より女性に人気があることからもわかるように、
頼朝も義経も繊細で信長や秀吉などに比べると男らしさに欠けていた。

源平で唯一朝廷と互角に渡り合えた清盛でさえも改革者にはなれなかったんだよね。

393 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 09:05:42
>>389>>390
時代の特性というものもあるが
古いものを徹底的に破壊するだけが時代を進めるということではない。
古いものと共存し、また古いものの持つノウハウを活かすということが
新体制にも必要。

明治時代も統治や行政のノウハウを持つ
旧幕府役人を新政府に登用したり
旧大名を華族として取り込んでいる。

徹底的に前のものを破壊してOKな時代は限られるし
下手をすると果てしない混乱を招くだけということが多いと思う。

394 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 19:31:14
>>393
まさしく、その通りだと思う。既存の社会制度を徹底して破壊
してスムーズに政権を樹立した時代は実を言えば少ない。話は近現代ヨーロッパになるが、フランス革命
がナポレオン戦争へ、ロシア革命が冷戦下の共産圏へのソ連の軍事介入へ
、中国共産党政権の成立が文化大革命へと移行した例から前政府を否
定して新政府を作るとなると、寧ろ大混乱、大虐殺を招く事が多い。

395 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 20:24:36
清盛は京都に独自政権を建てたわけではない。あくまでも太政大臣として
朝廷の臣とある。軍事恫喝による無言の圧力によって朝廷の圧力をかけれ
た事は確かだろうが、建前上、臣である以上限度がある。それ以前にそも
そも独自政権を立てようと言う構想が清盛にあったのかさえ疑問なところ。
それは個人の裁量に依存するところであり、平安期の武士がおのれの「武芸」を頼
みにしていたのと何ら変わりがないと思う。もちろん清盛の技量は卓越だった
のは疑いの余地はないが、清盛没後、後白河法皇に平家は手玉を取られる事
となった。

頼朝は個人的な武芸を頼りに近辺に所領争いばっかしていた武士団に武家に
よる秩序を与えた。その結果源氏将軍がいなくなっても制度としての幕府は
残った。つまり今まで朝廷から「あづまえびす」の差別に甘受していた武家
に武家としての自意識を与えた。でなければ承久の乱で朝廷を圧倒する事は
たとえ政子の叱咤がなくともありえなかったろう。

どちらが「男らしい」だろうか?

396 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 20:45:19
ピジョン

397 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 12:02:49
ピジョット

398 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 15:51:18
頼朝亡き後も幕府が残ったのは凄いと思う。

399 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 00:03:45
>>398
源氏幕府は潰れたけどな。
ちゃんとした政治システムが出来たのは北条幕府になってからだ。

400 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 07:33:45
>>399
御成敗式目には「右大将家いらいの慣例」というのが
重要視されている。
右大将=頼朝の時代に決めたことが
その後に大きな影響力を持っていたことを見なければなるまい。
また、政治システムというものは常に不動のものではない
根幹の部分はめったに変わらないが
流動する社会や政局にあわせて政治システムも変化するものである。
「ちゃんとした」という表現は決して適切ではない。

401 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 00:18:17
御成敗式目を作った北条泰時の烏帽子親は頼朝だね。
実際頼朝は泰時を次世代の幕府を担う者として大いに
期待していたらしく、泰時の方も頼朝を尊敬していた。

泰時のような人物を見つけだしたり、言動が成文化され、
御成敗式目になるなど頼朝の影響力は計りしれないもの
があると思う。実際、朝廷よりも幕府の御成敗式目の方
が役にたったらしい。「税金と謀反人の取り締まりだけ
はやれよな。あとは知らん、そちらで解決してくれ」と
いうのが大凡の朝廷の対応で、領地争いなどの裁判には
関与しなかった。一方御成敗式目は適応が厳格で、式目
に反する裁定をした者がいれば裁定者の領地を取り上げ
られるという事まであったらしい。

こんなに有効な御成敗式目だったが、朝廷の公家からは
「武家どもが何やら朝廷の真似事をしおった」と嘲笑を
かっていたらしい。この事から当時の公家の武家に対す
る強い差別意識が伺えると思う。

402 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 08:43:21
泰時が実は義経の子だったという珍説もあるね。
義時と性格があまりにも違いすぎるし。

403 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 23:11:37
>>393
いや、明治政府は江戸幕府のシステムを徹底的に破壊していると思うが。
廃藩置県なんて最たる例だ。これぐらいやらないと欧米の列強に対抗できない。

鎌倉幕府の致命的な欠陥は、公家の統治システムを残したまま
武家の統治システムを作ってしまったという二重構造にあるわけで、
この状態では外国から攻められたらひとたまりもない。
史実のように運良く撃退しても崩壊の道を辿るのは必至といえよう。

404 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 01:32:10
>>403
確かに公家の統治システムを残したのは、統制が取れていず、中途半端な
印象を与えるが、これをもって鎌倉幕府の欠点とするのはいかがなもので
あろうか?
朝廷の権威が強く、武家が朝廷の御墨付きをもって武名を残そうとしてい
た武士団の多かったあの当時、頼朝にできたのは幕府を設立する事くらい
しか残されていなかったと思う。元冦、列強の侵略は後世の我々が知って
いる歴史で、頼朝の時代には認識されていなかったし、頼朝の敵は内外と
あった。後世全て知っている我々の常識をあの時代にまで押し付けて「だ
から欠点だったんだ」というのは適切ではないと思う。

405 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 01:35:18
「頼朝の的は内外」というのは
「外=後白河」と「内=幕府の統制下に入っていない独立武家」の事。

406 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 21:28:49
>>403
システムは破壊しているが
旧幕府時代の人的資源や人脈は大切にしていた。
例えば旧大名家の多くは
昭和初期に入っても「殿様のお国入り」といって
昔の領国に行くと物凄い歓迎されていたらしいし
女学校の成績優秀者が「殿様のお屋敷」に女中としてはいるということを大変誇りにしていたという
話もある。
つまり大名家の持つその土地でもカリスマ性は
それ以前の明治初期ではそれこそ絶大なものであっただろう。
その大名を敵にまわすか味方に取り込むかでは
新政府の統治に大いなる違いをもたらしたであろう。

つまり破壊すべきシステムは徹底して破壊するが
温存すべきもの利用するべきものは取り込む
この点も明治維新が成功した要因の一つであると思う。
旧貴族社会を徹底して破壊したフランス革命とは
この辺が違うと思う。

407 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 21:51:34
信長のように旧勢力と対立し、それを破壊する
というのも確かに必要。
確かに信長が仏教勢力を破壊しなければ日本の歴史はかなり混沌としたものになっただろう。
しかし、その後長期安定政権を維持できたかといえばそれは疑問。
信長が死んでしまったので 何とも言い切れないが。
しかし、最終的に長期政権を維持した
徳川の場合
武田の旧臣を抱え込み、関東に入れば関東の名士の子孫を召し抱え
関ヶ原では外様大名を味方につけ
その後、旧足利将軍家につらなる家を高家として召し抱えた。
しかし、その一方で朝廷を封じ込め
大名の力を押さえ込んだ。
政権の安定には、旧勢力も使えるものは使い
妥協と対立を繰り返し、基本的な部分は押し通すということが大切。
頼朝は朝廷には妥協と圧力をうまく使い分けながら
坂東武士の権益を守ったという
一番の目標を達成していたと思う。

ちなみに、当時の朝廷の力は現在の一般人の認識より強大な力を持っていたと思う。

408 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 01:14:54
>>403
二重構造だから、欧米との対抗には適わないというのも疑問。
二重構造の中でも一方が権威を、もう一方権力を統括できれば
さしたる抗争に繋がる事はあまりないように見える。
叙任権闘争以降のヨーロッパや南北朝以降の日本がよい例だと思う。
逆に権威と権力が一ケ所に集まると文化的に停滞を起こす可能性も
ある。始皇帝の焚書坑儒、明初期の文字の獄など粛清、思想統制、
思想管理が起りやすい。現在の北朝鮮、中華人民共和国もその類いだ
と言っても差し支えはないだろう。

409 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 02:35:44
>>407
家康は一向宗を弾圧し国を二分する内乱を起こした末
一向宗勢力を駆逐したわけだが
 
信長は最後は妥協した


410 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 07:57:08
>>409
しかし、一向宗方についた家臣の帰参を許している。
また、これは家康若年の頃の話。
この事件やその後の色々なことで人心掌握や
対立と妥協の合意点を学んでいって
晩年の>>407を達成したと思われる。
つまり、弾圧や破壊も時には必要だが
妥協や抱え込みも必要。

>信長の最後は妥協した。
つまり、妥協の必要。破壊のみではダメ。

411 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 09:15:06
頼朝は妥協すべき相手を間違えたな。
朝廷に対しては弱気なくせに、義経に対しては全く妥協しなかったのは何故?

412 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 09:24:20
幕府の根幹、御恩と奉公システムに反したから

413 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 09:39:16
>>411
御家人の上に君臨するためには
朝廷の権威や「荘園公領制度」を利用するのが
必要だった。

後世無力化した朝廷とその頃の朝廷とは実力が違う。

414 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 10:21:45
>>411

頼朝が義経を抹殺したのは、事前に官位の下賜は頼朝が承認を必要と朝廷に
約束していたのに、後白河法皇が官位を義経に下賜し、義経がそれを受けた
からだろう。
頼朝が最も警戒していたのは配下御家人が朝廷が官位恩賞を餌にして幕府の
体制を切り崩しにかかるという事であったが、よりによって数ある源氏の中
でも最も頼朝に近い一族の義経がそれを受けてしまった。無論、後白河法皇
はそれを知ってて敢て義経を朝廷に取り込もうとしたのだろうが、頼朝にと
っては、それは許されぬ一線を越えた事に他ならなかった。これを見逃して
は悪しき前例になると判断したのだろう。
他の人も言っている事だが、当時の朝廷の法令の威力が絶大であり、平治、
保元の乱ではおおくの武家が朝廷の恩賞のもと家名を上げようとして戦乱に
巻き込まれた。義経の行動はそのまま他の源氏にも当てはまり、幕府の体制
が空回りに終わりかねない危険性を帯びていた。
しかしながら、義経の逮捕を理由に全国に地頭を置くよう朝廷にゴリ押しで
許可を取ったり、頼朝はちゃっかり幕府体制を補強していたりする。
そんな頼朝でも義経が奥州藤原氏に亡命したと聞いた時にはかなりの危機感
を持ったと思う。実際、朝廷からなかなか討伐の勅命が出ないので、頼朝は
軍事金恩賞など自分の身銭を切る覚悟(実際にはかなりの負担を強いられる
。八幡太郎義家がこれをやってしばらく源氏勢力が停滞し、結果として平家
の台頭を招いている)で奥州征伐に見切り発車している。

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