2ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【石田】関ヶ原の戦い 六【三成】

1 :金吾秀秋:2005/05/04(水) 09:22:16
さあ、おもうぞんぶん語ってくれ(´・ω・`)

過去スレ
http://academy.2ch.net/history/kako/1029/10297/1029702262.html  (消失)

【石田】 関ヶ原の戦い 弐 【三成】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1043182426/

【石田】 関ヶ原の戦い V 【三成】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1056815897/

【石田】 関ヶ原の戦い W 【三成】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1084261407/

【石田】 関ヶ原の戦い V 【三成】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1102935074/l50

2 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 09:32:52
さあ、弁当もって見にいくべ〜

3 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 11:43:37
関が原の戦いは実質上、合戦の半年以上前の、国友の鉄砲鍛冶の
大砲の奪い合いから始まっている 
国友は三成の知行地の近江長浜だが、ここの鉄砲鍛冶は家康勝利と踏んで、
家康に大砲を渡している

鉄砲鍛冶は諸大名の動静に詳しく、この連中が家康勝利と判断したのは
家康の根回し力が三成より相当上だったことを物語る
関が原合戦当日も三成方の大砲が威力を発揮して序盤優勢に立った
家康は関が原後も、この国友を厳重な管理下において厳しく統制した


4 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 13:04:20
戦国時代の直接動員数の合戦ランキングとしては最大?

5 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 13:37:44
冬の陣のが規模が大きいのでは?

6 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 14:20:30
前スレへのレス

吉勝・頼継が落ち延びることが出来た点について。
宇喜多勢が崩れていなければ北国街道に出ることは可能
だったのではないかと思います。

同方面に落ちたと思われる秀家・三成の場合、前者は小西・
宇喜多勢が崩れた後、後者は全軍総崩れの後ですから
街道沿いは混乱状態で(当時の道路事情では)思うように
進むことが出来なかったと考えられます。

大谷別働隊が実際に敗走した時間を検証する術はありませんが、
吉継が自刃してから本隊が壊滅するまで時間があったでしょうから
通史の通りでも不整合はないと思いますよ。

7 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 17:35:34
>>6
道灌

一般に大名クラスが戦場で死ぬことは珍しい

関ヶ原では大谷だけじゃないか

8 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 18:16:26
もしも大谷が病を患っていなければ、その大谷ですら
自刃することもなかったんじゃないかな?

9 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 19:31:20
前スレの999へ

「関ヶ原御合戦当日記」「関ヶ原軍記大成」「名将言行録」
関ヶ原御合戦当日記は聞いた事がないので知らないが、他は全く信用できないものですよ?
数字の典拠があるからと言って、信用度が高いとはなりません
せめて一次史料でないと話になりませんよ

関ヶ原御合戦当日記とは何?
関ヶ原始末記の異称?関ヶ原史料集の事?
それとも関ヶ原を記した史料の当日の部分だけ集めた資料集の事?

10 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 22:18:28
>>6
レスサンクス。
でも、三成らが伊吹山に逃げたのは街道の渋滞のため、というのがちょっと疑問。
当時の主要道だし、多少渋滞していても街道を選択するのが普通じゃないかな。
だから、裏切った小早川らの軍が西軍主力の背後に回ったため、
退路が東北方向(伊吹山)しか空いていなかった、ということなんじゃないかと。

関ヶ原合戦の従軍記録としてよく引用される「慶長年中卜斎記」にも小早川らが西軍の後陣より攻撃したとある。
「戦の央、筑前中納言・脇坂中務・朽木河内・小川土佐・赤座久兵衛、御忠節として手々に反復候なり。かくのごとく多人数、後陣より瞳と後切候間、堪え得ず濶と崩れたり」

この記録には吉勝や頼継の名前は出てこないけど、真っ先に敗走して戦線に穴を空けたとすれば、
彼らの隊が全体の戦況に与えた影響は大きいと言わざるを得ないだろう。

>>9
だから「信頼できる古記録が皆無に近い」って言っているのだが。
一次史料が大事というのはその通りだが、それだけだと合戦の経過は全くわからないから、
いわゆる軍記物を活用せざるを得ないのではないか(もちろん細心の注意は必要だが)。

あと、「関ヶ原御合戦当日記」については、「関ヶ原合戦史料集」に掲載されている。
原書は見たことないので、これ以上のことはわからない。

11 :日本@名無史さん:2005/05/04(水) 23:44:21
>>10
うーむ
そうなるとオレら読んでる関ヶ原合戦の歴史って、架空戦記(推定戦記)ということか・・・・

12 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 00:43:38
原書見たことないのに、なんでわかるのだろう?

13 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 01:18:27
>>9
ではあなたが当日の合戦経過の参考としている信用出来る資料とやらが
あるのなら明記して欲しい
*合戦前後も含む各資料を基に推測をし書き込みをする
*その書き込みを自分の解釈と照らし合わせレスをする
そこへ各自の嗜好、主観が入るのはやむを得ないと考えるがどうか?
資料の原文だけを転載するスレになってもつまらんだろ

14 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 01:38:24
9ではないが
参考できる一次史料と、それに類するもの
「旧記雑録三」「関ヶ原陣集(輯)録」と各家文書
特に関ヶ原陣集録は、軍記ものだが関ヶ原の史料を集めて製作されてるので参考にはなる
旧記雑録では西軍の動向、特に島津周辺がわかるので、関ヶ原当日の内容もある

関ヶ原大全は所詮関ヶ原始末記の焼き直しに過ぎない
始末記自体も家譜をもとに作られてるので、とても関ヶ原を語るに足るとは思えない
各家譜から関ヶ原始末記、そして関ヶ原軍記大全になり関ヶ原軍記大成

各自の主観は結構だが、それを史実認定するのはどうか?
史料原文を転載するだけでもいいのでは?面白いかつまらないかは読み手の判断

15 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 10:48:25
>>14
史料原文転載だけを誰かやってくれるのならそれでもいいが・・・

16 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 11:44:55
史料名だけ書かずに軍記でも何でも自分が持ってる史料の読み下し文書けばいいのでは?
でないと>10みたいに「慶長年中卜斎記」を自ら提示してるのに、「信頼できる古記録が皆無に近い」と
矛盾してる内容になるよ。

そもそも板坂卜斎の記録を使うなら、以前に>10が主張してた大谷勢が小早川勢をニ、三度押し返したというのを
自身で否定してるように受け取れるがいかがか?

17 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 14:45:53
>>16
皆無に近いというのは、ほとんどないということだから
何個あっても矛盾しない

18 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 18:16:07
国会図書館に「関が原軍功録」というのがあるらしいから読んだらいいよ
東軍の軍功の記録らしいけど信頼性は高いだろう
うちの先祖の名前もあったと家系図屋が言ってた


19 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 22:05:43
>>18
市販本にはなっていないの?

20 :日本@名無史さん:2005/05/05(木) 23:42:57
>>16
なんだかなあ・・・揚げ足取りばっかじゃん。

読めばわかるが(「改訂史籍集覧」第26冊、大きめの図書館なら置いてある)、
「慶長年中卜斎記」は合戦の経過については簡潔にしか記していない。
(例えば、小早川らが裏切って西軍主力の背後に回るまでの経過が書いていない)
だから、大谷が小早川を2度撃退した(が結局敗北した)ことの否定材料にはならない。

>>18
そんな名前の古書はない。
だいたい、東軍諸将の軍功を記した記録なんていくらでもある。

21 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 00:08:41
>>20
その記録は信頼できるので?

22 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 00:14:02
>>20
>「慶長年中卜斎記」は合戦の経過については簡潔にしか記していない。
>(例えば、小早川らが裏切って西軍主力の背後に回るまでの経過が書いていない)
揚げ足りにしか感じないのかな?
これは当時の記録では当たり前、そんな詳細な内容記した史料はありますか?
簡潔に記してあるが、経緯は書いてある。
軍記の肯定材料にならなく、「多人数、後陣より瞳と後切候間、堪え得ず濶と崩れたり」と否定出来る内容にしか読み取れませんが。

では軍記の成立年代から著者は合戦を見ていない場合が多いが、
彼等は何を見て合戦の経緯を知ったと考えてますでしょうか?

23 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 01:33:08
>>22
>そんな詳細な内容記した史料はありますか?

いや、だから「皆無に近い」と言っているのだが・・・。あったら教えてほしいよ。

>経緯は書いてある。

そう? そう思うならそれでもいいけど。
「慶長年中卜斎記」だけでは大谷と小早川が実際に交戦したかどうかもわからないのだが・・・。

>彼等は何を見て合戦の経緯を知ったと考えてますでしょうか?

そりゃあ、軍記物の作者だって100%の創作なんてしない。
史料(参加者の覚書、武功談)を収集し、合戦場に取材に言って故老の談話を聞きまわる。
軍記物の場合、当時の読者は「創作と割り切って楽しむ」ということは全くないので、
さも「見てきたかのように」書かなければいけない。
だから、然るべき根拠がある部分と創作の部分が混在して、もっともらしく書かれていると見るべきだな。
全てに当てはまるとは言い切れないが、面白おかしく書かれていたり、美談だったり、
お涙頂戴だっかり、大袈裟だったりする部分は、創作である場合が多い。

24 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 01:38:44
>>22
卜斎は関ヶ原にも従軍してたのかと思ったが違うのかな?
少なくとも同時代を生きた家康の医師?だったと思うし成立年代も
江戸初期だと思ったがうる覚えなので間違ってたらすまそ
いずれにしてもこの卜斎記だけを取ってあったなかったは判断出来ない
と思うんだが…
小早川が動いてから数時間の間の文面が短すぎて卜斎記だけでは何も見えて
こないということを言いたいのだと思う

>>14
素早いレス感謝
旧記雑録は島津家の家史を編纂したものですよね
全部は大変だけど三だけなら何とか・・・
翻訳又は注釈してくれている本があればよいのだけど

25 :24:2005/05/06(金) 01:58:12
読み直してみると卜斎記の成立年代じゃなく他の軍記物の話だった
早とちりしましたw

26 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 18:15:07
>>23
>「慶長年中卜斎記」だけでは大谷と小早川が実際に交戦したかどうかもわからないのだが・・・。
慶長年中卜斎記を丸々入手しましたが、これだけでも小早川が大谷の後背を襲った事が明確にわかりますよ。
貴方が挙げた文の前部分を読まれましたか?

関ヶ原御合戦当日記自体は、残念ながら探しきれませんでしたが、
関ヶ原史料集は入手しましたので読みました。
この本の中では「当日の戦況を書いた軍記物は、数多くあるが、いずれも全部が正しいと
思われるものは殆どない。しかし、その中でも関ヶ原御合戦当日記が、多少参考になると
思われるので、これによって概況を書き・・・」と紹介され引用してありました。
内容読むと、確かに「秀秋ノ勢四町ホド逃ル」「秀秋ノ勢松尾山へ逃上ル所ヲ」とありました。
しかし前後の文章を読めば、秀秋は裏切って二万を三手に分け、大谷・平塚・戸田へ襲い掛かったとあり
すると、大谷は平塚為広を呼び、自分は盲目なので指揮出来ないので平塚に手勢600任せて、戸田を大谷の横備とし、
平塚は秀秋勢の横槍をついて秀秋勢が四町下がった、とあります。

明らかにおかしいですよね?大谷勢はどれほどいたのか?藤堂や京極は誰と合戦してたのか?
赤座・脇坂・小川・朽木は?


27 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 18:15:29
さらに続けますと、その四町ほど下がった後に、すぐに秀秋ノ勢松尾山へ逃上ル所ヲ・・・」と続き
藤堂・京極が横槍をついて、大谷勢の壊滅する話へ続きます。(当日記では、横槍入れたという話から
一転して、他の戦況の話へ移りますが)

関ヶ原大全の元になった始末記でさえ、「大谷刑部少輔父子・戸田武蔵守・平塚因幡守等が陣へ
志し討てかヽる脇坂朽木小河も同く相続く刑部少輔等が勢暫く防き戦ふといえとも
忽打まけぬと聞て刑部少輔其傷を不去切腹す・・・」と続いてます。

これを読めば、貴方が主張する二度三度追い返したというのも一切ありません。

>史料(参加者の覚書、武功談)を収集し、合戦場に取材に言って故老の談話を聞きまわる。
疑問ですが、これは貴方が挙げた史料がそうだというのでしょうか?
軍記物の作者が100%創作しないのは、同意としても、作者が引用した軍談や逸話が言い伝わった創作ではないと
どうやって判断するのでしょうか?
当時の一次史料には、合戦の詳しい経緯は殆どないと貴方は仰ってる。
のに、後の軍記物には詳細に描かれてる。そしてその軍記は史料を収集してとある。
これは矛盾していませんか?


28 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 00:14:23
>>27
>大谷勢はどれだけいたのか?藤堂や京極は誰と合戦をしていたのか?

だから大谷隊は本隊と別働隊がいたと前スレから(r

あなたが引用した部分からだけでも秀秋の裏切り=即西軍敗北には
繋がっていないと読み取れませんか?
4町逃ルと秀秋ノ勢松尾山に逃上ルの部分を二度敗走と取れるじゃ
ないですか
所詮は軍記物とするなら合戦の詳細は勝った負けたの判断以外出来なく
なり、秀秋の裏切り=即西軍の敗北もおかしいということになる
だからいくら客観的に沢山の史料や小説を読み比べていてもそこで培われた
嗜好や主観が入り込むのは仕方がないのではと言っている

29 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 01:33:39
>>28
大谷勢の別働隊の存在があると貴方が主張されても、存在を証明するものがありません。
貴方は何をもって存在したとするのですか?息子の大学が別働隊というのでしょうか?

>引用した部分からだけでも秀秋の裏切り=即西軍敗北には繋がっていないと読み取れませんか?
いえ軍記物でさえ、秀秋の裏切りから東軍の大攻勢が始まり、大谷勢の壊滅をもって
西軍敗北という概況になっております。これは関ヶ原史料集でも同様のスタンスをとっておられますよね?
関ヶ原御合戦当日記でも、秀秋の裏切りをもって三成が「既ニ松尾山裏切ノ上ハ 最早働イテ何ノ詮ヤ有ル」
と書かれてる事もお忘れなく。

>二度敗走と取れるじゃないですか
「・・・秀秋ノ勢四町程逃ル 検使ヲ討タセテ逃ゲルカ者共ト 秀秋下知シケレバ
田中勘左衛門・布目新平一足モ不引討死ス 秀秋ノ勢松尾山ヘ逃上ル所ヲ 
藤堂佐渡守・京極侍従ハ横ヨチ懸リヌ・・・」
以上、取れませんね、無理ありすぎです。

嗜好や主観は誰にでもあります、無くせというのは無理です。
しかしながら、それが許されるのは人物の思考や行動原理などであって
歴史上の事象まで嗜好や主観であったように、なかったようになるのは間違いですよ。

30 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 02:20:54
>>26
>これだけでも小早川が大谷の後背を襲った事が明確にわかりますよ。
>貴方が挙げた文の前部分を読まれましたか?

え? >>10の引用部分の前部分は、島左近が行方不明とか、
左近の子の新吉が藤堂玄蕃に討ち取られたとか、そんなことしか書かれていないのだが・・・。

>>27
>貴方が主張する

あのさ、主張なんてしていないぞ。根拠を示しただけだ。
で、いい加減聞きたいのだが、貴方が大谷軍の奮戦を完全否定する根拠は何?

>作者が引用した軍談や逸話

軍記物は「引用」なんてしない。「見てきたかのように書く」っていっただろ?
現在残っていない何らかの史料・談話を参考にして記述した可能性があるということ。

31 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 02:44:18
>>29
信用うんぬんの記述をしながら最も信頼性の低そうな戦い最中の
三成の言を取り上げることがどれだけ無意味か
ちなみに定説では三成軍は島津を除くと一番最後まで戦っている

秀秋勢は四町程逃げた(1度目) 秀秋の下知により再度挑むと今度は田中
勘左衛門・布目新平一歩も引かず討死した 秀秋勢が松尾山へ逃げ登る
ところを…(2度目)
以上、無理ありすぎってどこがでしょう?

人物の思考傾向や行動原理をもとに前後の行動を当てはめ推理する
のであってそれ=真実の歴史でないことも当たり前
あなたは読解力がなさすぎる
どこを読んだら嗜好や主観が入った推理が真実だと読めるのか?

もう一度言う
記載がないから事実はなかったでもなく、記載ある又は推理出来る
からと言って事実でもない 

32 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 03:10:30
>引用した部分からだけでも秀秋の裏切り=即西軍敗北には繋がっていないと読み取れませんか?
いえ軍記物でさえ、秀秋の裏切りから東軍の大攻勢が始まり、大谷勢の壊滅をもって
西軍敗北という概況になっております。

ここなんだが

秀秋の裏切り
から
攻勢が始まり
ということであり

大谷の壊滅が西軍の敗北を意味するとして、秀秋の裏切りが直接的に
大谷の壊滅に繋がったとは読めない

従って
裏切り=即西軍敗北、ではないという主張を補強する発言になると解釈できるが
どうか?

33 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 13:53:40
おいおい、まさか、
小早川が裏切っても西軍の敗北が確定したわけじゃあないといっている者がいるのか?

34 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 15:14:45
いるんじゃないか

35 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 15:38:52
まあ、思想信条の自由は保障されているから、
いてはいけないということはないだろう。

36 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 15:44:56
このスレを読んだ限りでは、秀秋だけで西軍が負けたとは読めないが?

37 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 18:42:20
>>30-32
>そんなことしか書かれていないのだが・・・。
大谷刑部少輔・備前中納言・平塚因幡・戸田内記備の口へ西向にかかりたる人もあり〜後切候間不得堪潤と崩れたり
ですよ。

>で、いい加減聞きたいのだが、貴方が大谷軍の奮戦を完全否定する根拠は何?
肯定できてない時点で否定なんですよ?書いた通り、二度三度追い返したとは書いておらず
根拠にもなってないのです。貴方は否定する根拠と言いますが、肯定できる根拠がなく、
また軍記物だけの記述をして肯定できる根拠になるとでもお思いなのですか?

>現在残っていない何らかの史料・談話を参考にして記述した可能性がある
これは詭弁ですね、どんな偽書でも貴方の言い方では可能性ある=否定できないになってしまいますね。
しかしながら、状況証拠でも推定可能な史料を示さない限り、これは貴方の憶測であって推論でもありません。

>もっとも信頼性の低そうな戦い最中の三成の言
そうですか?信頼性の低い史料の中でさえ書いてない追い返したという主張を掲げてる貴方が
これを否定するのに、どういう根拠で「もっとも信頼性が低そう」とするのでしょうか?

>ちなみに定説では三成軍は島津を除くと一番最後まで戦っている
しかし関ヶ原御合戦当日記には、そうは書いてませんよ。史料の信憑性を疑いますね。

当日記の秀秋の部分は次で挙げますね。

38 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 19:46:27
続けます。
>以上、無理ありすぎってどこがでしょう?
「・・・大谷ハ平塚ヲ招キ 某ハ盲目ニテ〜布目新平一足モ不引討死ス」で一旦話を区切り
そして「秀秋ノ勢松尾山ヘ逃上ル所ヲ 藤堂佐渡守・京極侍従ハ横ヨチ懸リヌ・・・新吉ノ勢敗軍ス」 ですよ。
それから「大谷ガ曰ク 何時ノ為ニ命惜ムソヤ〜治部今日ヲ限リゾト云ヘバ 備中ソレヲ云云」
「又東方モ秀秋裏切ノ方見ヤリテ 軍タユム所ヘ押シカカレバ・・・」
と続いてます。読んでらっしゃるので、これでお解かりかと思いますが、如何でしょうか?
違うと仰るなら、この間の文を挙げて説明されては如何でしょうか?

ついでに、これには島左近の息子の新吉清正が大谷勢に軍奉行としていたとも書いてますね。

>前後の行動を当てはめ推理するのであってそれ=真実の歴史でないことも当たり前
推理するにも根拠が要りますよ?貴方は根拠が一切ないから、推理推測でなく憶測なのです。
では、秀秋と吉継の思考傾向や行動原理をどう分析し、どういう根拠で二度三度撃退したと言うのでしょうか?

何度も言いますが、根拠がないのは憶測です、それを基礎に
さらに憶測を重ねる行為は自慰以外の何者でもありませんよ。
よって
>記載がないから事実はなかったでもなく、記載ある又は推理出来るからと言って事実でもない
と貴方が仰っても、根拠がない貴方の主張が肯定されるものでもありません。

>>32
小早川の裏切りが東軍の総攻撃を生み、小早川の裏切りが大谷勢の壊滅を生み、
大谷勢の壊滅と東軍の総攻撃によって西軍が潰走した。
よって小早川の裏切りによって西軍が敗北したのです。
これは、どの史料・軍記共通の概況です。

自分は、秀秋の裏切りは西軍の敗北を決定付けただけで、関ヶ原で合戦する前から
西軍は敗北してたと思ってますが。これは個人的見解ですけどね。

39 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 20:00:20
しかし、小早川軍を仮に8000としても、
味方になるか敵になるかで差し引き16000の違いになる。
定説で言われる15000ほどならさらにすごい差になるでしょ。
西軍主力からみたら比率は相当だから影響はかなり大きかったと考えてもよさそうだ。

とりあえずみんなは、秀秋の裏切りの前は東西どちらが有利だったと見てるんだろう。
なお俺には、>>32
「東軍の勝利は見えていて小早川の動きでそれが早まったに過ぎない」
くらいに読めましたが。

40 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 20:28:29
>20
>そんな名前の古書はない。

国会図書館のサイトで「関が原軍功録」で検索かけたら
ちゃんと、出てくるよ

41 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 20:29:20
>>39
定説というか、会津征伐の際に義弘が義久に宛てた書状の内容で軍役の100石につき3人
という数字をもとにして関ヶ原役で使用した数字ですので。

>秀秋の裏切りの前は東西どちらが有利だったと見てるんだろう。
自分は、関ヶ原合戦当初から東軍が攻撃し、守る西軍となっており
それ以前に、南宮山の毛利勢の不動、小早川勢の挙動、輝元の不出馬、三成が増田長盛に宛てた書状の内容から
合戦以前から東軍有利だと思っております。
関ヶ原陣輯録(これは戦国史料叢書の毛利史料集にあり、関ヶ原の毛利家の動向が詳しく書いてありました。)を読み、
とても西軍に勝利の目はないと改めてわかりましたので。

42 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 20:47:07
うん。小早川が動かない場合、西軍は持ちこたえるが究極の勝ちはないよね。
ただ数日が過ぎて毛利秀包や小野木公郷の軍勢が到着すれば話は変わってくる。

43 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 21:12:14
>40
「見つかりませんでした」という無常な答えが返ってきたが?


44 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 21:22:40
>>38
その論理だと家康の発砲が西軍を敗北させたということになるが
それでいいのか?

45 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 21:25:08
>>41
毛利が動かないから、西軍の負けということか?

46 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 21:34:00
>>39
オレは西軍がやや優勢だと考えている

ただこの優勢は全軍を投入した上での優勢なので東軍が予備を投入すれば一気に覆るレベルだが

それから小早川は差し引きの差にはならない
なぜなら西軍として参戦していないから
+8000とした場合、大谷らが何千で対応しようとしていたかによるんじゃないか

47 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 21:42:31
全軍投入したのに予備があるとはこれいかに?

48 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 22:06:09
大谷吉継  1500
木下頼継   750
平塚為広   360
戸田重政   300

小早川秀秋 11000
小川祐忠  2000
脇坂安治  1000
朽木元綱   600
赤座直保   600

藤堂高虎  2500
京極高知  3000

49 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 22:34:52
>>47
西軍が日和見・裏切りの軍勢を除けばほぼ全軍が参戦してるのに、
東軍は家康本隊が残ってるってことっでしょ。

50 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 23:08:53
>>37
あのねー。
貴方は大谷軍の奮戦を否定していましたよね?
それは何らかの史料に基づく根拠があって言っていたんでしょ?
その根拠となる史料を早く提示してよ。

>大谷刑部少輔・備前中納言・平塚因幡・戸田内記備の口へ西向にかかりたる人もあり

この一節は小早川軍のことじゃなく「東軍の一部が大谷・宇喜多等の陣を西向きに攻撃した」
ってことだろ。

>肯定できてない時点で否定なんですよ?

また屁理屈を言う。子供じゃないんだからさー。

>どんな偽書でも貴方の言い方では可能性ある=否定できないになってしまいますね。

そんな馬鹿な話があるか。
史料的価値があるか全くの偽書であるか、然るべき根拠に基づく史料批判のうえで判断される。
貴方の議論は自分から根拠を示さず、揚げ足をとっているだけ。

51 :日本@名無史さん:2005/05/07(土) 23:58:31
>>50
言ってもムダですから、スルーしましょう。
無視して、前向きな議論に移りましょうよ。

52 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 00:30:38
>>50
あのね、貴方は「小早川勢の攻撃を大谷勢が二度三度追い返した」と主張し
関ヶ原御合戦当日記と、関ヶ原大全とを論拠としてるのですよ?
その貴方が論拠としてるものに、論拠の部分が一切ないから、貴方の意見は論拠がない憶測だと言うのです。

なのに、否定する論拠を求めるとは学説の成り立ちを知ってるのですか?
何をするにも立証責任というのが存在し、それが出来なければ否定されるのですよ。
二度三度追い返したという記述が存在しないのが、否定の根拠であり
また信憑性の高い一次史料からは、それを窺わせる記述が存在しない以上、
貴方の主張は、全くの空論だという事です。

>この一節は小早川軍のことじゃなく「東軍の一部が大谷・宇喜多等の陣を西向きに攻撃した」ってことだろ。
そうですよ、藤堂や京極らが攻撃し、そして後陣を小早川らが襲ったとなってますよ。
貴方は一文一文で途切れてるとでもお思いか?

>また屁理屈を言う。子供じゃないんだからさー。
屁理屈ではありません、これは常識です。貴方は研究論文等読まれた事が有るのですか?

>史料的価値があるか全くの偽書であるか、然るべき根拠に基づく史料批判のうえで判断される。
わかってるではないですか。では、貴方の然るべき根拠に基づく史料判断をなされてますか?
関ヶ原御合戦当日記の自身の都合のよい箇所だけ、何の史料批判を行わず肯定し
都合の悪い部分は定説と違うと否定。

貴方は言葉のロジックで誤魔化してるが、論点ずらしてるのは貴方なのですよ?
一次史料に合戦の詳細な経緯が書いてないから、自身の嗜好や主観で細かな経緯を創作してもいいとね。
そんな馬鹿な話がありますか?

53 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 00:44:40
GW厨はスルーしてください。


54 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 01:18:22
大谷刑部少輔・備前中納言・平塚因幡・戸田内記備の口へ西向にかかりたる人もあり
口々の事なれは中々一々記得す伊丹兵庫・村越兵庫・河村助左衛門・奥平籐兵衛乗込
突落され下り立て正花白に相戦ひ四人宗兵衛・可兵衛佐左衛門・太郎兵衛・谷利兵衛此等の
人々掛入て面もふらず割入て切崩し爰かしこへ込入て思ひ思ひの高名也去程に
藤堂玄蕃頭島左近総領の新吉と組打なり新吉玄蕃押ふせ頭をかき切玄蕃が小姓又おり合新吉を
討留候也島左近行方不知子供打死候なりヶ様色々様々思々戦央筑前中納言・脇坂中務・朽木河内・
小川土佐・赤座久兵衛御忠節として手々に反覆候なり如此多人数後陣より瞳と後切候間不得堪潤と崩れたり

明らかに小早川勢の事を記していますね。藤堂勢の事も書かれてます。
伊丹兵庫・村越兵庫・河村助左衛門・奥平藤兵衛は誰の指揮下でどこにいたのでしょうか?


55 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 01:27:35
ちなみに卜斎記では、この後松平忠吉のベタ褒め、井伊直正の奮戦振りを記し
大谷吉継の切腹と続き、平塚為広の奮闘・討死、戸田重政の討死へと続き、
島津の話へと替わります。

どう読んでも、島津の話までは大谷刑部少輔・備前中納言・平塚因幡・戸田内記備の口へ・・・の延長の話としか読めませんね。


56 :金吾秀秋:2005/05/08(日) 04:04:15
大谷はよくがんばったよ(´・ω・`)

57 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 05:24:48
>>37,>>38,>>54,>>55
養老氏の言葉を借りれば、結局あなたは馬鹿の壁にぶつかっており
読んだつもりでも、その実何も読んではいない
大谷勢(与力含む)の6時間〜7時間にわたる戦いを、藤堂・京極勢と戦闘を
開始し小早川の裏切りによって終結したと確認しただけでしょ

関ヶ原の戦いが一日で終わっていなかったら?の話から→小早川が裏切った
時点でそのifはない他の裏切りはおまけ→脇坂,赤座,小川,赤座らの裏切り
がなければ1日持った可能性がある→根拠提示となっている

あなたが言っている概況なんか承知の上で話しを進めているのだよ
二度押し返した根拠提示に対して→そんな分け方をするなここまで一くくり
だよ の反論では呆れるだけで反論する気にもなれん
戦闘の大まかな流れさえ否定的なあなたが引用する、詳細部分に値する三成
の口述部分には何故か肯定的だったから大まかな流れより詳細部分の方が創作
の可能性が高いと言っても→その根拠は?じゃお話にならんのですよ

事実として認められる部分は「東軍方と西軍方にわかれて関ヶ原の戦いが
起こり小早川の裏切りによってわずか1日にして東軍が勝利をおさめた」だから、
それ以外の話はよそでしてくれと言うのならもはや何も言うことはないね


58 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 05:37:04
↑のままだと誤解をうける可能性があるので付け加えておくと
徳川本隊が非戦闘状態であったため夜を迎えた可能性は極めて
低いと私自身は考えていますけどね。

59 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 08:27:56
>>36
このスレ見ただけでも、
今議論されているのは、大谷隊が小早川を押し戻したことがあったかなかったか、くらいでしょう?
仮に一時的に押し戻したことがあっても、
1万5千からの大軍を何時間も支え続ける余力が西軍にあったとは到底思えなくないかい?

まあ、確かに厳密にいえば推測の域を出ないから、
大谷なら絶対に小早川にやられることはないと信じきっている人には何を言っても無駄だと思うが。

60 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 08:38:31
俺は54読む限り二度押し返したとはとても読めんね
>>57は具体的な反論してないし、二度追い返したのは三成の発言と同じ詳細な内容じゃないの?
あんたがおおまかな流れと言うだけではないの?

根拠提示してないと言われてるのに、その説明すら出来てないし
はたから読んでるとあんた痛いよ

61 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 09:00:54
>>60
54は議論の対象ではないよ。
初めから全スレ読み返してみることを勧める。

62 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 09:15:59
>>61
スマソ、読んで思った...orz
んでこのスレ読んだが、やっぱ追い返したというのは書いてないね
あれって平塚為広のことが大谷吉継に変わっていったんでないの?
どっかにサイトに書いてあったよーな

●ないから全スレ読めねーよー

63 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 10:41:13
>>52
>貴方が論拠としてるものに、論拠の部分が一切ない

何故そう言える? 関原軍記大成も読んだのか?

>二度三度追い返したという記述が存在しない

三度というのは見たことないが、存在するぞ。
関ヶ原御合戦当日記を引用しながら、何でそんなことを言うのか。
貴方は「慶長年中卜斎記」に書いていないから存在しないと騒いでいるだけ。

>信憑性の高い一次史料

早くそれを提示してくれ。

>貴方は研究論文等読まれた事が有るのですか?

あるよ。

>自身の嗜好や主観で細かな経緯を創作してもいい

誰がそんなことを言った? このスレをもう一度読み直せ。

64 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 10:42:13
>>54
>明らかに小早川勢の事を記していますね。藤堂勢の事も書かれてます

明らかとは言えない。
つーか、卜斎は大谷軍に「かかりたる人もあり」と記述し(人って誰よ?)、
「中々一々記し得ず」(いちいち書いてらんないよ)と断っているのだが。
我々は奥平貞治が徳川家臣で小早川軍に派遣されていたということや、
藤堂玄蕃が藤堂家家臣であることを知っているが、「卜斎記」には何も書かれていない。

>伊丹兵庫・村越兵庫・河村助左衛門・奥平藤兵衛は誰の指揮下でどこにいたのでしょうか?

だからさー、「卜斎記」にはそんな細かいことは書いていないって。
ま、伊丹兵庫・村越兵庫・河村助左衛門については、東軍所属の豊臣家臣であり、
小早川軍に属していないことは確実なんだがな。

>>55
>この後松平忠吉のベタ褒め、井伊直正の奮戦振りを記し 大谷吉継の切腹と続き・・・島津の話へと替わります。
>どう読んでも、島津の話までは大谷刑部少輔・備前中納言・平塚因幡・戸田内記備の口へ・・・の延長の話としか読めませんね。

なぜそうなる? 松平と井伊は大谷・小早川の交戦と何の関係もないだろ?

65 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 14:38:05
>>57
>二度押し返した根拠提示に対して
何度も言います、根拠提示になっておりません。どれが提示なんですか?
当日記に関しては>>38で、二度押し返したと言う記述になってないと説明しております。

>戦闘の大まかな流れさえ否定的なあなた
大まかな流れを否定とは?二度押し返したというのが「大まかな流れ」なのですか?
だとしたら、関ヶ原軍記大成の元になった始末記や関ヶ原記、卜斎記ですら「大まかな流れ」すら書いてない
となりますね。
そうでないなら貴方の言う「大まかな流れ」とは何かご説明願えますか?

>詳細部分に値する三成の口述部分には何故か肯定的
違いますよ、二度押し返したという詳細な記述がないのに当日記を根拠としており、
以前に「然るべき根拠がある部分と創作の部分が混在して、もっともらしく書かれていると見るべき」
「現在残っていない何らかの史料・談話を参考にして記述した可能性がある」と述べておられるので、
同じ当日記の詳細な三成の台詞を挙げたら、「もっとも信頼性が低い」と切り捨てましたので
押し返したのと差異を是非お聞きしたいと思ったのですよ。
しかし、それについてのご説明は今だありませんが。

事実として認められる部分は、人によってそれぞれ範囲もあるでしょうが
当日記にも記載なし(そこまで当日記に拘るのも理解できない、史料集の編者
の「多少参考になる」という言葉だけをもって信憑性の高い史料としてるのだろうか?)
始末記にも記載なし、関ヶ原記にも卜斎記、多々ある関ヶ原の史料の中の初期には
全く記述がない部分を、事実として扱うのおかしいではないか?となる。

それとも「現在残っていない何らかの史料・談話を参考にして記述した可能性がある」と
言い続けるのでしょうか?

66 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 14:50:57
お願いだから、これ以上は構わずにスルーしろ。

常人であれば、あの資料から2度押し返されたと理解するし、
「2度押し返された」と記述された一次資料など存在しないのだから。

67 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 15:02:57
>>60>>62
>>54は慶長年中卜斎記なので、二度押し返したという記述は存在しません。
とはいっても、関ヶ原御合戦当日記にもないのですが。

>平塚為広のことが大谷吉継に変わっていったんでないの?
良い所を指摘しますね。後にご説明します。

>>63-64
>「卜斎記」には何も書かれていない。
そうですよ、だから他の史料を見て藤堂玄蕃とは?奥平藤兵衛とは?と調べるのです。
一つの史料で全てが分かる訳はありません。しかし藤堂玄蕃や奥平藤兵衛を調べれば
これが藤堂勢にいた藤堂玄蕃、小早川勢にいた奥平藤兵衛とわかるのです。
すると卜斎記には明らかに書いてあると理解できるのです。おわかりですか?

>伊丹兵庫・村越兵庫・河村助左衛門については、東軍所属の豊臣家臣であり、
>小早川軍に属していないことは確実なんだがな。
伊丹兵庫・村越兵庫は家康の西上の中に名前があるが、その後、誰に属したかは自分はわからない
河村助左衛門もです。しかし奥平藤兵衛はどうなのでしょうか?

>松平と井伊は大谷・小早川の交戦と何の関係もないだろ?
態々卜斎記の読み下し文挙げた理由がわかりませんか?
卜斎記では「大谷刑部少輔・備前中納言・平塚因幡・戸田内記備の口へ・・・」とあります。
これは宇喜多等を一つの備えと見て、それで松平忠吉と井伊直政の名前が出てきたのですよ。
よって、>>54は、宇喜多・大谷・平塚・戸田の話となり、小早川裏切りの「後陣」とは
この備の背後を襲ったと解釈するのです。

懇意的な一文をもって、小早川がどこを襲ったか書いてないと貴方が言われても
前後の文を挙げれば、どこを襲ったのか理解できますね。

68 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 15:31:38
続けます。

>>63
>何故そう言える? 関原軍記大成も読んだのか?
はい、読みましたよ。自称兵法家の宮腰秀興が関ヶ原始末記を基礎にし、
彼の私説を書き加えて元禄3年に書き上げた軍記物ですね。

さて関ヶ原始末記の記述は>>27で書きました。
それが関ヶ原軍記大成ではどう変わったのでしょうか?
>>63自身で証明して欲しいですね。
大成の25巻と26巻の「筑前中納言反忠附奥平貞治戦死」と「大谷吉隆自害附戸田平塚戦死」から
抜粋されればいいかと思いますので。

>貴方は「慶長年中卜斎記」に書いていないから存在しないと騒いでいるだけ。
いいえ、一次史料でさえ、それを窺わせる記述ありません。
関ヶ原の軍記でもっとも早く作られた関ヶ原始末記ですら、そんな記述ありません。
しかし、徐々に大谷勢が小早川勢に対して奮闘したという記述になっていきました。
これはなぜでしょう?

>早くそれを提示してくれ。
ですから、追い返したと窺わせる一次史料は存在しないと書いてるのですが。
何を提示すればいいのですか?書いてないと立証しろということですか?
ちなみに卜斎記は一次史料ですよ。

さて卜斎記や始末記では、吉継切腹後の平塚為広の奮闘振りがあるのですが
それがどう変わっていったのかを、また今度書こうかと思います。

それと「関ヶ原軍功記」という軍記は存在してますね。
著者・栗田光寛、原本はないらしく享保8年の写本があるようです。
しかし、活字化されてないようなので、どうやって見たのかは知りません。

69 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 17:42:03
>懇意的な一文をもって、

2ch的突っ込みだが、懇意的って何よ?

70 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 17:42:55
>>59
仮に1.5万だとした場合は確かにしんどいのは確か
しかし石田隊の奮戦を考えるとあながち不可能とは言えない
石田は3倍の敵を相手に4時間近く戦っている

大谷らがいくらを小早川に当てたのか、
あの地形で一時に正面に投入可能なのはいくらなのか、検証する必要がある

ちなみにオレは1.5万全軍が展開して総攻撃はできたとは思えない

71 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 18:53:48
大谷隊が相手にしたのは藤堂と京極と織田
藤堂隊は2490、京極隊は3000、織田は450
合計5940

対して
大谷隊は1500、木下隊は750、平塚隊は360、戸田隊は300
合計2910

大谷隊は2倍近い相手に4時間近く戦っている
小早川隊が裏切って2時間かからず西軍が敗走したので
これ以上の奮戦は期待できないと思われ

72 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 20:10:36
>43
43のパソコンがメゲているか、オツムがメゲているかのどっちかだな
ttp://www.ndl.go.jp/
右上のサイト内検索で「関が原軍功録」と打ち込んでみな
世話の焼けるやつだ

73 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 21:00:40
>>71
従って、小早川は主因ではないかもしれない

74 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 21:06:17
>>72
なぜ蔵書検索でなくサイト内検索なのか?

75 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 21:42:29
>72
そんなつまらないネタは要らないから。

76 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 00:21:09
どっちにしろ、自分は何でも知っていると思ってる>>20は恥ずかしい

77 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 00:36:03
>>73
思いっきり小早川が主因じゃないの?

大谷隊が2倍の敵を相手に4時間近く戦った→秀秋隊に負けたのはその為→従って、小早川は主因ではないかもしれない
こんな三段論法でつか!?

78 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 01:57:45
鉄砲打カケルト同時ニ 秀秋ノ先手稲葉内匠・平岡石見守金ノ絵ツルニ 猩々緋ノ羽織ニテ
二万ノ大兵ヲ三手ニ分ケ 大谷・戸田・平塚ガ勢ヘ討テ懸ル 此時秀秋ヨリ 
赤座久兵衛・脇坂中務少・小川土佐・朽木河内守へ軍使ヲ立テ 子細有テ内府ノ御味方ニ成ル
各モ与シ玉へ 本領安堵ノ上御恩賞アルベシト 申遣シケレバ 彼等モ忽チ御味方ニ成テ
大谷ガ方へ向ヒ 敵合ヒ十町計ニ成テ突カカル 大谷ハ平塚ヲ招キ 某ハ盲目ニテ下知スル事不叶候
倅ニモ人数ヲ配分シ候 貴殿ヘモ六百付参スト云ヘハ 心得候ト申処へ 戸田武蔵ガ横備へ
秀秋ノ勢懸リケルヲ 平塚横合ヨリ入リケレバ 三百七拾人討取 奥平藤兵衛敵ハ小勢ゾト飛込ミ
藤兵衛モ討レテ 秀秋ノ勢ハ四町程逃ル 検使ヲ討タセテ逃ゲルカ者共ト 秀秋下知シケレバ
田中勘左衛門・布目新平一足モ不引討死ス 秀秋ノ勢松尾山へ逃上ル所ヲ 藤堂佐渡守・京極侍従ハ
横ヨリ懸リヌ 爰ニ島左近カ四男島新吉清正ハ大谷ガ手ニ有リシガ 大音上テ 
某事当手ノ軍奉行申付ラレタリ 目ノ前ニテ戦ヲ決セヨト 是ニ答エテ出タルハ 藤堂ノ家来藤堂玄蕃
老武者故下ニ成ツテ首ヲ取ラル 所ヘ玄蕃ノ小姓高木平三郎 落合テ新吉ノ首ヲ取ル 新吉ノ勢敗軍ス
大谷ガ曰ク 何時ノ為ニ命惜ムソヤ 某目見エザレバ 面々名乗テ討死セヨ 某モ追付申サント云ヘバ
大谷ガ家来古川太郎兵衛勘斎ノ者 牧村三左衛門・平子清兵衛・持木小三郎・生沢小七郎・
若林八兵衛・森七九郎 都合百八十人 大谷カラ聞様ニ 各乗掛々々々各討死ス 此勢ニ関東方辟易シ
旗先乱レケレ共 西方モ戦労レテ働カズ 又 石田方ニハ柵ノ内ニ・・・

常人にはとても二度追い返されたとは読めませんね。
小早川勢が四町(約450b)程追い返され、秀秋が踏み止まれと命令し、田中・布目が討死した。
小早川勢が松尾山へ逃げてる時に、藤堂勢と京極勢が横より攻撃し・・・と書いてあるのですがね。
四町程追い返されたのはどっちへなのでしょうか?どちらが読んでるつもりで読んでいないのでしょうか?

ちなみに、この当日記は読めば読むほど関ヶ原大成を参考にしてる内容ですね。
藤井治左衛門氏が始末記や大成を使用せずに、概況を見るには当日記が多少参考になると
判断した理由がわかりませんね。

79 :金吾秀秋:2005/05/09(月) 04:53:00
踏み止まれ(´・ω・`)

80 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 07:59:23
要するに、
>>71の状況でも大谷隊が小早川相手に何時間も持ちこたえると信じることが出来る人もいるということ。
まあ、ここらへんは信じる信じないという信条の問題だから、一概に否定も出来ないがね。

81 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 11:44:16
>>77
そうですが、何か?

大谷隊が万全で小早川だけと戦ったのであれば、負けなかっただろう

それとも即敗北とでも言うの?

82 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 11:48:04
石田が3倍の相手に戦い続けられるのであれば
大谷が戦い続けられても不思議ではない

普通に考えれば、1.5万の兵が1500?程度を襲って敗走するとは考えられないが
敗走はしなかったということか?

83 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 17:28:11
>大谷隊が万全で小早川だけと戦ったのであれば、負けなかっただろう
この仮定に意味あるの?

それとも大谷は小早川なんぞに負けませんと言いたいだけの西軍厨?

84 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 17:50:49
>>83
ほぼ宗教がかってるから会話にならんよ。
彼はまともに論理立てて会話すれば必ず負けるから。
IF話を始めて最後はだろうだろうと自分の思い込みを押し付けるだけだからw

85 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 18:07:01
なるほど確かに狂信者が説法してるようでウザい
そりゃ詳しい人間が来ればスルーしろと言う罠
大谷が負けないと言いたいのはわかった、もうお腹いっぱい

そんなことより>>78に、『関ヶ原陣輯録』の内容を教えて欲しいね
関ケ原のあとから大坂退去までの行動を特に
そのほうがよっぽど為になる

86 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 18:56:43
>>83
意味のある仮定とは?

それとも仮定を認めない歴史厨?

87 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 18:58:34
大谷は負けないということがやっとわかったのか
頭悪いな、おまえら

88 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 20:22:03
関が原に関係のある仮定が意味のある仮定
ここは関が原スレで関が原の話してるのかと思ったら西軍厨には違ったようだ(失笑

×大谷は負けないということがやっとわかった
    ↓
○西軍厨は大谷は負けないということが言いたいだけとやっとわかった

89 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 20:49:20
あの大谷に100万の兵を指揮させてやりたい。

90 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 21:03:57
>>86
とりあえず、「大谷は負けない」という結論先にありきの仮定は全く無意味だわな。
そもそも仮定ですらないが。

というか、実際>>81は仮定と言えるようなものじゃあない。
はっきり言って妄想そのもの。
よく言っても個人の主観的な想像乃至願望に過ぎないわな。

91 :日本@名無史さん:2005/05/09(月) 21:05:42
西軍厨が妄想ぶちまけるのは関ヶ原スレの定例行事でつよ。
ただ優しく接してあげないと、すぐに本性表して暴れますので取り扱いに注意しませう。

92 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 00:39:10
激しい自演スレになって来たなw

93 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 02:03:58
>>68
スルーしてくれとお願いされているので、とりあえず3点だけ指摘しておく。

>>何故そう言える? 関原軍記大成も読んだのか?
>はい、読みましたよ。

嘘つくなよ。「元禄3年に書き上げた軍記物」とは「関原軍記大全」。
「関原軍記大成」の成立は正徳3年だぞ。

>ちなみに卜斎記は一次史料ですよ。

これは間違い。
歴史学では通常、その当時に直接の関係者によって作られた文書を一次史料、
伝聞や後から書かれた回想録、証言などは二次史料、というように区別する。
「卜斎記」は時代も隔てた寛永年間頃の述作であり、著者自身の記憶の誤りも含まれ、
また伝写の過程で改変も加えられているなどのことからして、一次史料とは見なせない。

>>78
この解釈はおかしい。
関ヶ原の地図を見ればわかるが、小早川の陣と大谷・平塚の陣は直線距離で1.5kmほど離れている。
「四町(約440m)程逃げる」と「松尾山へ逃げ上がる」が同一事象だとすれば、
小早川軍は山から約440m下った山腹で大谷軍の反撃を受けたことになる。
大谷軍は裏切りを知ってから1km以上も山を登って迎撃したとでもいうのか?

>>92
同感だ。ハッキリ言って見苦しい。

94 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 03:57:44
>>93
関ヶ原軍記大全は関ヶ原軍記大成を発展させた軍記です。
元禄3年1690年、正徳3年1713年と言う事実から、貴方はそれを真っ向から否定なされてる訳ですね。
自分が書いた関ヶ原軍記大成が元禄3年というのは国書総目録でも書いてありますから
貴方自身でご確認ください、人を嘘つき呼ばわりまでしたのだから、自信お有りのようですので。

>これは間違い。
貴方が間違いと言おうと、卜斎記は卜斎の覚書を卜斎自ら纏めた物です。
確かに卜斎記にも誤りはありますが、それを差し引いても、
貴重な「その当時に直接の関係者によって作られた文書」で信憑性の高い記述が多数ある史料ですので。
それに一次史料と認められてますしね。

貴方にかかれば、時代も隔てた江戸初期頃の作であり、著者自身の記憶の誤りも含まれ、
また伝写の過程で改変も加えられている信長公記は一次史料ではないですね。
付け加え、他人のサイトの孫引きせずに、自身の言葉で説明するといいと思いますよ。

>この解釈はおかしい。
折角>>78で分かりやすく挙げたのに、それすら読めませんか。
では、貴方にもわかり易いように口語訳を入れてご説明しますね。

二万の兵を三手に分けて、大谷・戸田・平塚へ討って掛かる。
この時秀秋より脇坂等を味方に誘って、戸田勢の横へ「十町計ニ成テ突カカル」(約1.1qばかり突撃する)。
すると平塚より横槍入って「秀秋ノ勢ハ四町程逃ル」(秀秋の軍勢は約440b程逃げる。)
秀秋は逃げるなと命令し、田中・布目が討死した。
「秀秋ノ勢松尾山へ逃上ル所ヲ」(秀秋の軍勢が松尾山へ逃げ上がろうとする所へ)、藤堂・京極が
横槍を入れ、そこに島左近の四男の新吉清正・・・
となってるのですね。

当日記の中でさえ満足に読んでいない、全く的外れなのがわかる貴方の反論でした。

95 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 04:23:05
しかし、自分が反論出来そうな3点だけ反論しといて、後はスルーと言われてるからですか。
まぁいいでしょう、可哀相なのでそういう事にしておきます。

>>85
関ヶ原陣輯録を挙げても構いませんが、関ヶ原後とは関ヶ原合戦終了直後で宜しいでしょうか?
なにせ関ヶ原陣輯録は毛利家から見た関ヶ原なので、合戦内容は簡潔というか皆無なのですが
西軍敗走した直後から大坂退去までの記述が結構長いのですよ・・・。

これも誰かに言わせると、自作自演になるのでしょうけどね。
どうも誰かから見れば日本史板は不特定多数ではないようで。怖いですね、火病みたいで。
酔っ払いには、どれが自演かわかりませんし、どうでもいいですけどね。

96 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 10:28:55
スルーしてくれって>93の自演じゃん
メール欄にageと入れてるのは93だと皆分かってたし

総スカンくらうと自演扱いにするなんて見苦しい

97 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 11:06:20
どっちが自演してるか知りようもないが
自演指摘するのは負け犬の証拠だから止めとけ。
何でもかんでも自演に見えてくるだろ?

それより有意義な話をしたいもんだ。

98 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 13:33:15
小早川隊の中にも
東軍への裏切りを良しとせず、
中立を守った連中もいたくらいだから、
士気や勢いに難があったんじゃないの?

99 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 14:05:05
士気や勢いに難はあっただろうね
下っ端なんぞは何も知らないから、いきなり味方だと思ってた相手に
攻撃しろと言われても、混乱するだろうしね

>毛利家から見た関ヶ原
毛利がどんな言い訳してるのか、ぜひ知りたい

100 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 16:17:44
>>99
毛利のこっちゃから、三成と広家とエケイに責任転嫁してるに違いない。
輝元のいう事聞かない三成と、家康にだまされた広家と、輝元を担ぎ上げたエケイの
3バカ許すまじってな感じ。

101 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 20:39:29
では、関ヶ原陣輯録から

一、関原合戦大坂方不利、諸将敗北の事
 吉川広家書案 益田家證文略文
案中、山中の儀即時御乗崩し、悉く討果され候 嶋津など選り勢三千候にて、随分一戦は仕るべき
の申候つれども、中々馬を入れられ相成らず候て、其身一騎のりぬけ、伊勢路の如く取退き候儀候つる条、
幾重にとは候はぬ仕合にて御座候つる由申し候事

 佐々部一斎留書 蟷螂の書
内府御先手衆はや合戦に及び候 嶋津兵庫右の先手と渡り合せ合戦の時、井伊侍従深手を蒙られ候
其故右の備の衆遅々候節、嶋津一勢は敵の方へ突き貫け、伊勢路へ一分敗軍候て、堺の津へ罷り退き候事
石田は後の大谷陣に合戦始るに付て道筋を取切られ、伊吹山へ取上り、山伝ひにして佐保山敗軍候
 評む云、討死可也 さ様相成らずば大谷果て候如く尤も也
備前中納言爰にて生捕り候事 大谷刑部山中の合戦半、筑前中納言逆意に付て、彼陣の高見の山にて、
鉄砲にて打立ておろし候故相叶はず、大谷刑部乗物にのり、敵の方へ敵の方へと進み出るの所に、
刑部目懸の小姓介錯して、其頸をけふ田の中へふみ込むに付て、其以後御穿鑿にも出で申さず候事
長曾我部、木下周防守、原壱岐守いかが成り行き候や存ぜず候事 備前中納言関ヶ原にて虜の後、八丈嶋へ流され、
近年迄長命居られ候 あわれ至極の為体の由候事 以上

 長土佐、長大蔵、安国寺等伊勢路え退き、安国寺中途より引返し南宮山え行く事 長土佐殿御弓てっぽう衆は、
一昨日内府山中へ打越され候を見られ候てから、人夫悉く伊勢路のごとく退かれ候て、山中の合戦勝手に成り候由の
聞き候てから、届なしに皆伊勢路の如く取退かれ候 長大蔵殿も山中合戦悪敷く候由到来候へば、則ちとどけなしに
伊勢路の如く罷り退かれ候 安国寺も長大同前に、中途迄罷り退き候つるが、いかが存ぜられ候や、中途より
引帰され候て、南宮山え罷り越され候 然ば此和談の由聞かれ候て、定めて腹切らせらるべく候条、覚悟仕るべきの
由にて候条、曾てさ様これ有る事にどもこれ無く候条、人数武具などのけられ候て、しのび候て、出家一分の
安国寺にて先づ参られ然るべく候はん由申し候て、右の通りにて候

102 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 20:40:02
                  刺賀治部左衛門元信
関原表軍敗れ候時も悴志を仕り候 安国寺え付慕ひ、爰かしこ艱難を致し候 安国寺漸く鞍馬迄退き申され候へ共、
大坂へ下り候儀相成らざるに付、輝元公えの口上申し含められ、忍び候て大坂え罷り下り、右の趣申上げ候

       閥閲録 宍戸四郎五郎
以上
鹿戸十郎兵衛殿手前の事、今度南宮山各御取のき候刻、安国寺より御使として長束大蔵殿え相加へらるるの処、
諸勢に路次押隔てられ、御了簡無く駒野の城下へ取入られ候 則ち拙者同心致し罷り出で候 前後残る所無き
御働くに候 駒野の様子十郎兵衛殿具さに仰せ入れらるべく候 此等の趣、輝元様え御取成し仰ぐ所候 恐々謹言
                                       池田伊豫
                                          高祐判
          片田兵部少輔殿

 佐々部一斎留書 蟷螂の書
長束大蔵、南宮の麓より伊勢路へ敗軍候て、水口の城へ込入り候事 安国寺は南宮山の中国勢の内に相加はり罷り居り候
長束は頓に敗軍、十方無きの故あきれはて、何方の勢に加はる儀も相成らざる躰を秀元君見及ばれ、乗物かき計りにて
手負にまぎれ、同勢の内へ引加はり、佐保山迄つれ逃げられ候 夫より船に乗り、坂本え押渡り、遠山を越えて、
鞍馬の月正院を頼み落られ候 老僧難所を歩み越え、落行かれ候に付て足腰立たず、夫より洛中へ忍び入るの所に、
訴人有て又ちりぢりに成り行き候 北村五郎左衛門、小姓の少次郎只二人相届け候 安国寺頭に切疵のこれ有り、
もはや成らざる所を右の少次郎見切り、頸を打はづし是の如く候、其故生捕にあひ、洛中を渡し、獄門に掛けられ候事

103 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 20:50:44
本日はこれで勘弁を・・・。

追記
関ヶ原始末記  明暦2年 1656年
関ヶ原軍記大成 元禄3年 1690年
関ヶ原軍記大全 享保4年 1719年
やはり、どう調べてもこのようです。

104 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 23:33:01
>二万の兵を三手に分けて、大谷・戸田・平塚へ討って掛かる。
この時秀秋より脇坂等を味方に誘って、戸田勢の横へ「十町計ニ成テ突カカル」(約1.1qばかり突撃する)。
すると平塚より横槍入って「秀秋ノ勢ハ四町程逃ル」(秀秋の軍勢は約440b程逃げる。)
秀秋は逃げるなと命令し、田中・布目が討死した。
「秀秋ノ勢松尾山へ逃上ル所ヲ」(秀秋の軍勢が松尾山へ逃げ上がろうとする所へ)、藤堂・京極が
横槍を入れ

ここだが
平塚隊の横槍を受け、検使の奥平藤兵衛らを討たれた秀秋勢は4町程逃げる。
秀秋は「検使を討たれておきながら逃げるか者ども」 と再度戦うよう命令
した所、今度は田中・布目らが一歩も引かず戦うも討死した。
秀秋勢が松尾山へ逃げ上るところを藤堂・京極が横槍を入れ

こう解釈するべきではないか?
再度戦ったということは二度戦った
1度目は4町逃げ、二度目は松尾山まで逃げ上ろうとした
従って当日記では、大谷勢は最低二度は追い返していると読み取れる

間違った解釈のまま話題が終了していたので補足しといたが
こんなことをいつまで論じても仕方ないので毛利の話を続けよう

105 :日本@名無史さん:2005/05/10(火) 23:37:04
伊吹山の近くだな。

106 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 01:13:28
東軍厨はどのような状況下でも大谷が瞬殺されることにしたいのか?

藤堂らに攻められた大谷はすぐに瓦解したとでも主張したいのか?

107 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 01:16:22
毛利もだが、それに釣られて動かなかった盛親も盛親だな
長曾我部盛親だけでも南宮山を迂回して参加してたらどうなってたかな?


108 :104:2005/05/11(水) 01:42:16
>>106
逆に二度押し返したという解釈で正しい=小早川勢を圧倒していた
という説を後押ししただけだけど?
少なくとも藤堂・京極勢に横槍を入れられ浮き足立った以降から
は脇坂ら4将も裏切っているのだから奮闘はしたのかも知れないが
瓦解したことは史実が物語っているでしょ




109 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 01:52:34
>>104
>再度戦うよう命令した所
申し訳ないが、そういう解釈にはなりません。
なぜなら再度戦うように命令したとするなら、「復」という漢字を下知の前に用いなければなりません。
しかし使われておりませんので、この事からも逃れる最中に命じた事になるのです。
これは基本ですね。
付け加えると、>>78の最初の表記で見ても、先に軍勢の行動を描き、次に個人の行動を描くとなっていますね。
それから判断しても、貴方の言うような解釈は到底無理です。

結論付けるなら、大谷はすぐに崩壊した訳ではありません。
これは卜斎記でも見られるように、しばらく保ったようですよ。
時間的にどれくらいかと言うのは、判断しかねる所ですが。



110 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 01:56:04
>>107
20歳そこそこ、実戦経験も無い盛親にそこまで望むのは無理難題。
名将信親が生きていれば、ともかく。

もっとも信親だったら、東軍についた可能性もあるが。


111 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 03:25:58
>>94-96
>関ヶ原軍記大全は関ヶ原軍記大成を発展させた軍記です。

これは逆だ。もう一度調べ直せ。

>国書総目録でも書いてありますから

要するに原本を読んでないんだろ? 正直に認めろ。

>それに一次史料と認められてますしね。

「慶長年中卜斎記」や「信長公記」を一次史料と認めている学者がいるとは思えんが・・・。
一体誰よ?

>戸田勢の横へ「十町計ニ成テ突カカル」(約1.1qばかり突撃する)。

これは脇坂等の軍の行動のことだろ? この訳は強引すぎるぞ。

>秀秋ノ勢松尾山へ逃上ル所ヲ」(秀秋の軍勢が松尾山へ逃げ上がろうとする所へ)、

「逃げ上がる」の「上がる」は補助動詞でその動作を完了する意を表わすから、
「逃げ上ろうとした」とする訳は間違い。

とりあえず、貴方が三成並の負けず嫌いだということだけはよくわかったし、
関ヶ原陣輯録の話題に早く切り替えたい気持ちもよくわかった。
いい加減、間違いを指摘するのもバカバカしくなってきたな・・・。

112 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 07:07:36
>再度戦ったということは二度戦った

一度目は松尾山から下りたときのこと
二度目は一度逃げた後のこと

だから二度逃げたという解釈にならないのでは



113 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 07:58:43
>>106
どのような状態でもではないよ。
正面と側面に5倍以上もの敵を抱える状況では、
遅かれ早かれ壊滅するだろうってこと。
少なくとも丸一日、小早川裏切り後だけでも、
半日間持ちこたえるのは無理だと思うと。

逆にあなたがその状況でも持ちこたえることが出来ると信じているなら、
そのあなたの思いを別に否定しようとは思わないがね。
勝手に信じていてくれればいい。

114 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 08:03:50
俺は大谷が奮戦したことは認める。
しかし二度押し返したという話には否定的だし、いつまでも持ちこたえるとも思えない。
いくら大谷吉継が名将でも、その下で戦っている士卒は生身の人間である以上、
体力の限界は必ず来るし、いくら大谷隊が勝ち続けても死者は出る。
兵が増えることはないのだから軍そのものが小さくなり、戦闘が不可能になる時が来る。

115 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 10:47:48
>>107
盛親は最初っからやる気なかったからね。
最初は東軍につくつもりだったが家康に遣わした密使が捕まって、
彼が東軍につくつもりだったのを知った、三成や長束に無理矢理、説得されてやむおえず西軍についたのだからね。
やる気は当然ほとんどない。

しかし戦後、本多忠勝の養女を妻としている
兄に長宗我部の家督がいくと思い込んだ、盛親は兄を瞬殺。
逆に家康を怒らせて全領地没収・・・・

116 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 11:11:46
>>70
石田は堅固な野戦築城があったし。

117 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 11:14:41
松尾山の麓に布陣していた4部隊(小川祐忠、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保)と
吉川ら南宮山の西軍が全て東軍と交戦して、小早川秀秋だけが傍観していたら
西軍が勝っていた可能性が高い?

118 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 11:45:47
↑低いだろ。

119 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 12:59:19
徳川本隊や後方に残した池田、浅野勢がいるし。

120 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 17:07:12
>>108
いや、あんたに対する批判ではない

その前の「大谷厨」に対する反論だ

121 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 17:08:38
>>113
>>114
石田は3倍以上で何時間も耐えていたがそれについてはどうか?

石田は実は崩れていたと言うことか?

122 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 17:10:00
最近、西軍優勢説、自体がゆらいでるからね。

せいぜいが石田、大谷、小西、宇喜多が圧倒的数の東軍に対して何とか崩れずに
済んでただけという説の方が納得できる。

たぶん、小早川、脇坂、毛利、長居宗部らが全員、西軍として積極的に戦っても
家康とは将としてのキャリアの差もあるし負けてたんじゃないかな?

123 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 17:17:42
>>112
だから石田隊はかなり堅固な野戦築城をしていたから耐えられたんだよ。

長篠城の奥平は500の兵で15000の武田相手に数週間耐え、
ナントカ城の高橋招運は800の兵で4万の島津勢に数ヶ月耐え数千の兵を道連れにしたという、
城に篭れば圧倒的兵力差でも相当長く耐えられるよ。

それに対して大谷は城に篭ってたわけではない。

124 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 17:37:18
西軍が奮戦したというのは
あくまで多勢で猛攻をしかけてくる東軍に対して「崩れずに耐えた」というだけで、
実際は防戦一方だったにすぎない。
関ヶ原は実は終始一貫して東軍優勢。小早川の裏切りは西軍の粘りに対してトドメをさしただけ。

東軍は基本的に強いだろう。
徳川は小牧長久手の戦いで同数の池田恒興を圧倒したし、
他にも福島、細川、黒田、池田、浅野と武闘派が揃ってる。
文官ばかり西軍に勝ち目などない。
宇喜多なんて1万5千の大軍をようしながら六千の福島隊と互角という有様だったしさ。

125 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 17:39:19
石田が3倍相手に4時間耐えた
大谷が2倍相手に4時間耐えた
だから小早川が裏切った後も、大谷が耐えられるとは限らない

石田は耐えてたぐらいで島左近が負傷したり防戦しかしてない
宇喜多みたいに福島を敗走寸前に追い込んだ話は、宇喜多以外に聞かない

126 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 17:42:54
>>123
レス番間違えてまっせ旦那。

127 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 17:53:09
石田の陣地跡には野戦用の本格的な陣跡は発見されてないから
石田がかなり堅固な野戦築城してたのはありえない
だって笹尾山に三成が来たのは5,6時間前

逆に早くからいた大谷の陣地跡には東側に空堀とか残ってる

128 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 18:36:27
そんなのどうだっていいよ。それより明日の会社のこと考えろ。

129 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 19:15:02
>>111
>これは逆だ。もう一度調べ直せ。
もう調べて成立年代も書きました(>>103)ので、後は貴方のを証明してくださいね。
大成には当然ながら成立年は書かれてませんし、史料調べる上で一番参考になる
国書総目録に書かれてる成立年を挙げたまでですけどね。

>要するに原本を読んでないんだろ? 正直に認めろ。
原本読んでませんね。自分が読んだのは国史叢書の関ヶ原軍記大成全四巻ですので。
所謂、活字化されたものです。話題の部分で言えば「筑前中納言反忠附奥平貞治戦死」と
「大谷吉隆自害附戸田平塚戦死」ですので3巻ですね。

>一次史料と認めている学者がいるとは思えんが・・・。
史籍集覧でも一次史料として紹介はされてますが、貴方が思わないのは自由です。

>これは脇坂等の軍の行動のことだろ?
いいえ、御味方してという記述と、その後の彼等の記述が全くなくなった事から
脇坂等を含めて秀秋ノ勢と見なされてます。それは「申遣シケレバ」と
命令の形を取ってる事から明らかですね。

>「逃げ上がる」の「上がる」は補助動詞でその動作を完了する意を表わすから、
>「逃げ上ろうとした」とする訳は間違い。
「秀秋ノ勢松尾山へ逃上ル所ヲ」の、「所ヲ」はどうされましたか?
なぜこれが片仮名表記かわかりますか?

貴方は何ら根拠もなく人へ非難したいだけのようですね。
関ヶ原陣輯録は挙げただけで、別に切り替えるというような類のものでもありません。
通常・一般的な解釈を説明すれば負けず嫌いとしますしね。

貴方が自論を主張したければ、貴方自身が主張した根拠で説明すればいいのではないのでしょうか?
当日記は何度も書いてますが、二度の解釈は無理です。
でしたら貴方が挙げられた「関ヶ原軍記大成」「名将言行録」でも提示できると思いますが。
なぜ当日記にだけ固執するのか理解出来ませんね。

130 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 19:51:30
>>78読んで思ったけど秀秋って扱い悪いね
大谷とかほかの大名は苗字で呼ばれてるのに秀秋だけ名前
なんでだろ?


131 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 20:09:11
石田が三倍相手に四時間耐えた。
福島が三倍相手に四時間耐えた。

どちらも互角じゃないか。
西軍が奮戦したとはいえない。

132 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 20:41:00
>>130
儒教思想から家康に味方したとはいえ
豊臣一門として秀頼を裏切った不忠者の汚名は拭い去れないから

133 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 20:56:41
島津義久
毛利輝元
伊達政宗

尊敬にあたいするな。


134 :104:2005/05/11(水) 21:11:41
>>109
おいおい変なとこ突っ込むなよ
再度というのは解りやすいように付けただけだ
復があるとかないとか全く検討違い
松尾山から最初に攻めかかる時が1度目の下知なのはわかるよね?
4町逃げた後の下知は何度目?ってこと
少なくとも2度目以降なのわかるよね?
これでもわからないというならただの荒しかオツム弱すぎ
認めるべきところは悔しくても認める心の余裕を持ちなさい

135 :104:2005/05/11(水) 21:28:03
>>112
>>再度戦ったということは二度戦った

>一度目は松尾山から下りたときのこと
>二度目は一度逃げた後のこと

その両方を逃げているのだから二度逃げたでしょ
逃げて松尾山へ戻ろうとしたところへ藤堂らの横槍が入り
大谷勢は浮き足だったため、秀秋勢は今が好機と捉え再々度
攻めかかった
これくらい言えば解りますかね…

要約
当日記では少なくとも3度攻めかったうちの2度は逃げた



136 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 22:21:42
秀秋が静観状態で、毛利や長曾我部他が本気で参戦したとしても
東軍が勝ったとか本気で言ってるの?

脇坂ら4将は崩れかかった藤堂・京極へ横槍入れる→藤堂京極総崩れ
三成戦線でも島津が動く
以後、藤堂・京極勢の崩れたほうから順次西軍押し捲る
徳川方の毛利勢への押さえの人数と顔ぶれでは毛利勢・安国寺・長束
長曾我部を押さえれるわけがない
徳川本隊がどちらへ動こうがどちらかが崩れ挟みうちにあう

ちなみに14日には大津城を毛利元康・立花らが落としており、関ヶ原
戦が翌日以降へ持ち越せば大津からの距離を考えても西軍が明らかに有利

その他関係が深いと思われる西軍の動向
伊達は上杉と和議を結んでおり何を考えていたのか不明
佐竹は義宣が義重に抑えられてすぐに動けなかったため西軍勝利の
情報が来た段階でないと動かない可能性もある
大垣には7500名程の居残り部隊有り
細川領を攻めていた西軍と伊勢に残っていた西軍部隊有り
真田は上田の居城で無傷
西軍総大将輝元は大阪に有り
秀頼は西軍に協力はしても東軍には付かない

同じく関係が深いと思われる東軍動向
秀忠隊は信濃山中に有り
前田隊は越前へ侵攻中(大谷勢が攻め寄せるとの情報に惑わされ出遅れた?)
掘は上杉が扇動した一揆勢との戦闘で動けず
関東は上杉勢の押さえとして残した兵が有り




137 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 23:03:08
確かに毛利が参戦した場合、東軍勝利の確率はガクリと落ちるね。
ただ、戦局を決めるのは藤堂・京極の敗退ではないと思うね。

石田三成は開戦早々に島左近を討ち死にさせ、黒田や細川等数倍の兵力を持った部隊が
続々と押し寄せるのをなんとか防いでいた状態。
そのまま波状攻撃が続いたら、兵は疲弊し、少しずつ斃れ、やがては打ち破られただろう。
福島正則は自軍の倍以上の宇喜多隊に対し、押しまくられていた。
宇喜多の総攻撃がその後数回行われれば、福島隊は壊滅しただろう。

というわけで、石田隊が崩れるのが先か、福島隊が崩れるのが先か、
先に崩れた方が負け、のような気がする。

138 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 23:52:26
関が原で後方部隊が動いていれば、西軍の勝ちでしょ。
戦場の兵士は恐怖と紙一重のところで戦っている。
後ろが動きだしたとなれば、一気に恐怖感が爆発して、総崩れ。

139 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 00:32:29
>>129
>大成には当然ながら成立年は書かれてませんし

序文に書いてあるんじゃないか?

>自分が読んだのは国史叢書の関ヶ原軍記大成全四巻ですので

そういえば、>>52で「論拠の部分が一切ない」なんて言っていたよな。
貴方の読んだ「軍記大成」では大谷が瞬殺でもされていたのか?

>史籍集覧でも一次史料として紹介はされてます

そんな紹介してたか? 改定史籍集覧で?

>脇坂等を含めて秀秋ノ勢と見なされてます

そう見なしているのは貴方だけ。

>それは「申遣シケレバ」と 命令の形を取ってる事から明らか

「申遣シケレバ」は「秀秋が軍使を派遣して申し伝えたので」という意味だろ。
これを根拠に脇坂等が小早川の指揮下に入ったとする解釈は無理があるぞ。
(無理な解釈はここだけに限らないのだが)
 
>「所ヲ」はどうされましたか? なぜこれが片仮名表記かわかりますか?

「松尾山へ逃上ル所ヲ」は「松尾山に逃げたところで」という意味だ。
「逃げようとした」にはならない。これはカタカナにする・しないに関係ない。
だいたい、カタカナ表記にすると何か変わるの? それって日本語の話?

140 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 01:16:12
このスレ急にカキコのレベルが落ちたな
まるでyahooのIF厨がカキコしているようだw

141 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 01:17:27
このスレは>>129>>139のためだけにあるわけじゃない。
どうしても互いの意見を全否定したいみたいだから、国会図書館で直接会って一緒に同じ
資料を見て心行くまで決着をつけてくれないか。
で、ここにはその結果だけ書いてくれ。

142 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 01:51:05
↑まったくだ。

143 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 02:55:47
>>134-135
>4町逃げた後の下知は何度目?
下知は二度目ですが、それが何なのでしょうか?意味がわかりません。
そしてこれは四町逃げた後に留まれと指示したものです。
これを攻めかかったする解釈は無理ですね。

何度も言いますが>>78を読んで下さい。
「鉄砲打カケルト同時ニ〜大谷・戸田・平塚ガ勢ヘ討テ懸ル」で小早川勢の行動を描き
「此時秀秋ヨリ〜敵合ヒ十町計ニ成テ突カカル」で秀秋の行動と脇坂勢の行動を描き
「大谷ハ平塚ヲ招キ〜三百七拾人討取」で大谷等の行動を描き
「奥平藤兵衛敵ハ小勢ゾト飛込ミ藤兵衛モ討レテ 秀秋ノ勢ハ四町程逃ル」小早川勢の行動を描き
「検使ヲ討タセテ逃ゲルカ者共ト 秀秋下知シケレバ田中勘左衛門・布目新平一足モ不引討死ス」秀秋の行動を描き
「秀秋ノ勢松尾山へ逃上ル所ヲ 藤堂佐渡守・京極侍従ハ横ヨリ懸リヌ」藤堂・京極の行動を描き
「爰ニ島左近カ四男島新吉清正ハ〜落合テ新吉ノ首ヲ取ル」で新吉を描いてます。

文の構成をよく見てください。
貴方は構成でも文の内容から言ってもこじつけにもなっておりません。


144 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 03:26:27
付け加え>>134-135
貴方の言う解釈で言うと、四町逃げた後で一旦態勢を立て直し
改めて留まれと指示したとなりますよ?
「検使ヲ討タセテ逃ゲルカ者共」とは、逃げてる最中に発せられた言葉であり
それを攻めかかったと解釈するののはおかしいと言うのです。

これは>>139にも言えるのですが、最初に小早川勢の行動が書いてあり
そして秀秋の留まれという下知があって、残ろうとした田中・布目が死んだ。

二度や三度と主張してる人は、「秀秋ノ勢松尾山へ逃上ル所ヲ」を
小早川勢がそれから更に逃げたと解釈してるのです。
しかし前後の構成から、これは藤堂・京極勢がいつ動いたかを表してるのであり、
それをもって小早川勢が二度逃げたと解釈するのは無理だと言ってるのです。


145 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 03:40:37
同じ当日記で例をだしますと

此時石田ガ家臣蒲生備中・犬山伯耆・高野越中ヲ始メ、物頭ヨリ上ノ屈強ノ侍、
百二十三人討死ス 残党悉ク敗走ス 治部モ不及力 小関村ノ笹尾へ引退ク
其時浮田ハ、兼テ内府ノ諸備ニ儲置キタル勢、三千人召連レ切テ出デ、島津・小西
相続テ懸リケレバ、本田ガ勢、新手ニモミ立ラレテ敗軍ス 角テ家康公ハ、
浮田・島津・小西勢討テ懸ルヲ御覧有テ、只今懸ルハ敵ノ大将ゾヤ、
打テヤ者共ト上意有レバ、新手ノ御譜代衆競ヒ懸リ、半時計戦ヒケリ
敵味方ノ放レ馬千四百、南北ノ野ヘ飛出シケル

宇喜多や島津、小西勢は二度攻撃したのですか?
三成は二度敗走したのですか?

146 :金吾秀秋:2005/05/12(木) 03:42:24
けんしをうたせてにげるかものども(´・ω・`)

147 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 13:20:26
>>135
再び戦えといったのは「逃げている道中で」という解釈の方が自然。

148 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 18:48:19
139と135が同一人物な件について

149 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 19:42:38
>>145
おいおい、島津が戦闘に参加してると書いてあるぞ
島津は関ヶ原終了まで動かなかったんじゃねーの?

150 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 19:57:01
>>149
司馬小説が参考文献ですか?

151 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 19:58:13
>>149
島津の家臣の山田って人の記録には、鉄砲隊を援軍として亀井に
送った記述もあるので、戦っていたと思われる。また井伊、松平
が最初に発砲した相手は宇喜多だが、島津を攻撃しに行く進路上に
宇喜多勢がはみ出していたため、発砲したともいわれているので
(福島の戦功を奪ったわけではない)島津は戦っていたのだろう。

井伊が福島の戦功を奪うために抜け駆けをして鉄砲を撃ったとするのは
徳川御用史家の創作だろう。もしもそのようなことをすれば、福島の性格、
から考えて、根に持って騒動を起こしていただろう。

152 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 20:56:41
>>121
確かに石田隊は正面の兵力的に優勢な敵に対してよく耐えたが、
大谷隊は同様に正面の兵力的に優勢な敵と戦いつつ、
その上で、側面からさらに優勢な敵に攻撃されたのだよ。
それでその後何時間も耐えられると思うかい?

153 :日本@名無史さん:2005/05/12(木) 21:56:53
↑信者だから思うと答えられて終わり。

154 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 00:30:08
>>144>>145
>宇喜多や島津、小西勢は二度攻撃したのですか?

攻勢側と守勢側で立場が違う
守勢側は攻撃側に攻撃したとは言わない

>三成は二度敗走したのですか?

敗走?私は二度逃げたと言っていますし、スレの流れも二度逃げた
話をしてますよ?
3度攻めかかって2度逃げたと書いてあるでしょう
あなたは一度しか逃げてないと言い張っているんでしょ?
はっきりしたほうがいいですね

>>147
再び戦えといったのは「逃げている道中で」という解釈の方が自然

逃げたが過去形
大谷勢が松尾山まで追撃しようとでもしていたならそうとも解釈出来る
あの環境でやっていたとしたらそれはそれで凄い

>>148
139と135が同一人物な件について

もしもし? 青色と緑色の区別も付かないのかな?
134〜136が同一人物


155 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 00:47:32
>154
2度かで揉めてるようで口出ししたくないけど、3度攻めたとは読めん
どーやっても読めん

正直、どう読んだら3度攻めたと読めるのよ?
>145みたい長くなくていいから、普通に解説してくれ

156 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 01:06:38
過去形とかマジレスでつか?

157 :139:2005/05/13(金) 02:53:25
おいおい、部分的だが正しく読んでるじゃないか(珍しいこともあるもんだ)

>>143 「秀秋の下知は四町逃げた後に留まれと指示したもの」
>>144 「秀秋の下知は逃げてる最中に発せられた言葉」

「四町逃げた後」で「逃げてる最中」の下知が発せられるということは、
四町退却だけで止まらず、更に逃げているということだろ?

悪いことはいわん。
これ以上書いても恥の上塗りだから、この件はこれで終りにした方がいいぜ。

>>148
135はオレじゃない。だいたい言っていること全然違うだろ。
貴方は複数を相手にしているの。
いい加減気付けよ。

158 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 09:02:48
>>151
実際、騒動起こしたやん。
伊奈事件。

159 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 19:00:31
>>154
>守勢側は攻撃側に攻撃したとは言わない
「懸リケレバ」「懸ル」と攻撃したと書かれてますが。

>3度攻めかかって2度逃げたと書いてあるでしょう
三度攻めたとも、二度逃げたとも書いておりません。>>143-144御覧下さい。

>>157
>「四町逃げた後」
これは自分の書き方が悪かったですね。秀秋の下知は逃げてる最中に発せられた言葉という事です。
>>143の逃げた後は、逃げたと書かれてる後に、秀秋の下知という事です。

それと>>148は自分ではないですよ。>>144で、135と139と分けて書いてますけど。
いい加減気付いて欲しいですね。

>>145で、宇喜多・島津・小西勢が本多勢に「相続テ懸リケレバ」と書いてありますね。
そして、家康が「討テ懸ルヲ御覧有テ」と書かれてます。
同じく石田勢が「敗走」したと書いてあり、三成も「引退ク」と書いてあります。
しかし、二度と主張する人は、「逃ル」「逃上ル所ヲ」と二回書いてあるから二度と主張してるので
これで言えば、宇喜多勢なども二度攻撃し、石田勢も二度敗走したと解釈する事になるのです。
如何にこじつけてるのか、わかりますね。

160 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 19:24:45
忘れていたので>>139
序文に書いてあるなら、どう書いてあるか貴方が提示すればいいかと。

>大谷が瞬殺でもされていたのか?
そんな事は自分は一度も主張しておりません。上記のように貴方が挙げて自論の論拠を提示すべきでしょうね。

>改定史籍集覧で?
改定史籍集覧は見てませんが、史籍集覧で見ましたので。ですので史籍集覧と書いておりますよ。

>小早川の指揮下に入ったとする解釈
そんな事は書いておりませんよ。上位の人間が下位の人間に命令、指示したという事です。
それと指揮下に入るのとは別ですよ。

>「松尾山に逃げたところで」という意味だ。
違いますね。同じ当日記の
治部少モ“無心許思ヒ来リシ所”、関東勢亦横ニ当リ、味方進兼ルヲ見テ、兼テ大坂ヨリ大筒三挺取寄セケルヲ、
高所ニ置テ、三挺一度ニ放チケレバ、関東勢三十人計殺サレヌ “敗軍スル所ヲ”、
小関前ニテ石川伊豆守定正取テ返シケレバ、兼松亦四郎・小坂助六・坪内喜太郎父子四人高名シ、御感状ニ預リヌ

逃げたところではないですね、逃げてる最中という解釈ですね。
「敗軍スル所ヲ」では、敗走しようとした所をでも可能ですね。それとも敗走したと過去形と言い続けますか?

自分は具体例を出して解釈を説明してますが、二度と主張してる人は、その人の概念論ばかりで
同じ史料による具体例が全くないですね。どうしてでしょうか?

161 :日本@名無史さん:2005/05/13(金) 21:08:46
>160
あんた、遊ばれてるよ
西軍厨は重箱の隅つつこうとしたり、難癖つけたりしてるだけ
もう放置したほうがいいぞ

162 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 19:49:30
大津城や伊勢にいた西軍の武将を教えてください

163 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 20:08:41
大津城攻城戦の大将は毛利秀包ですね。
話によく出る立花宗茂もここにいました。

>161
俺も西軍厨だけど、「大谷が二度押し返した」説を唱える馬鹿にはついていけない。

164 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 20:46:02
昼行灯の石田三成はただの茶坊主から
秀吉に気に入られ、のし上がり
戦術よりも戦略が優れており、昼行灯呼ばわれされていた
武士っぽくなかったんだな。
肖像画も変な帽子被ってるし

165 :日本@名無史さん:2005/05/14(土) 22:10:20
>>162
大津
 末次、小早川、立花
長島
 原、龍造寺、鍋島、氏家

166 :139:2005/05/14(土) 23:35:00
>>159
>二度と主張する人は、「逃ル」「逃上ル所ヲ」と二回書いてあるから二度と主張してる

違う。「主張なんてしていない」と前から言っているだろ。
2度撃退というのはこのスレで突然言いだされたわけではなく、昔からある通説。
「その根拠は?」と聞かれたから、これじゃないかなと提示しただけだ。

とりあえず、関ヶ原御合戦当日記を紹介した「関ヶ原合戦史料集」の編者は
同書概説部分で、「秀秋の兵1万3千が南側面から突撃してきたので、
吉継は大いに怒り、これを撃退すること三度」と書いていることを指摘しておく。

>>160
>序文に書いてあるなら、

関原軍記大成の最初の部分だが、筑後の儒者竹田定直の漢文の序(日付は正徳癸巳季春)に続いて国文の自序があり、「慶長五年秋、天下麻の如く分れて萬民累卵の憂いを致せり」に始まり、
「されば此書を読まん人、仮令咎むる所ありとも、再び補はん日を待って、罪を宥めよかしという事爾り。 正徳三年癸巳三月」と結んでいる。

国史叢書の編者である黒川真道は「軍記大成」について、こう解説している。

…本書は初め「伊吹物語」と題せしが、「慶五記」と改め、又其の後に「関ヶ原記大全」と改め、また「関ヶ原軍記大全」と改め、最後に「関ヶ原軍記大成」と改めたり。…
「関ヶ原軍記大全」は三十二巻本なり。今此の軍記大全本を見るに、元禄三年の奥書ありて、…されば軍記大全本を第二稿本と見るべし。…
「関ヶ原軍記大成」は即ち本書にして四十五巻本なり。…本書は、元禄三年増補本を更に追加増補し、四十五巻本とし、正徳三年を以て編輯成りたる、第三稿本にして、即ち完成本なり。…

>史籍集覧で見ましたので。

ほう。では「慶長年中卜斎記」を掲載している改定史籍集覧ではなく、
史籍集覧に「卜斎記は一次史料」と書いてあったわけだな?
ちなみに第何冊のどのへんだ?


貴方に欠けているのは、間違いを認める勇気と、嘘をついたことを謝る正直さだな。

167 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 00:22:19
>>155
>2度かで揉めてるようで口出ししたくないけど、3度攻めたとは読めん
>どーやっても読めん

>正直、どう読んだら3度攻めたと読めるのよ?
>>145みたい長くなくていいから、普通に解説してくれ

秀秋が裏切って最初に攻めかかったのが1度目
4町逃げた後の下知に従い再度攻勢に出たのが2度目
松尾山へ逃上がっていたところを藤堂らの横槍を好機と捉え攻めかかったのが3度目
当たり前のことだから一々説明つけてないだけです

>>160
>自分は具体例を出して解釈を説明してますが、二度と主張してる人は、その人の概念論ばかりで
>同じ史料による具体例が全くないですね。どうしてでしょうか?

あんたらが木を見て森を見ずというか細部しか見えていないため
どうでもいい反論してくるだけ
「逃ル」の部分と「敗軍スル所ヲ」をなどを同じ意味に捉え持ち出して
来て一体どうしたいの?逃ルには所ヲがついてなく完結してるでしょ
ホントに読んで理解しているのかと疑いたくなるような反論なんだよ
ちなみに敗軍スル所ヲは
「敗走したところを小関前にて石川伊豆守勢が取って返したために」という
ことで、敗走したが具体的に「小関前」で取って返したとあるじゃないか
正直もう面倒なんで一々説明はしないが当日記の内容は大谷勢に攻撃した
秀秋勢が二度逃げたとなっている
自分で戦場地図や高低差や流れを踏まえて読んで下さい






168 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 00:51:07
166と167が同一人物な件について

169 :139:2005/05/15(日) 00:56:02
(おまけ)
「関原軍記大成巻之二十五」の最後部分と「巻之二十六」の冒頭部分を引用する。

 …(前略)…秀秋の先鋒三百騎、死憤の兵に駆立てられ、
 松尾山の麓へ披き靡く輩廿九人、創を蒙る者五十人に及べり。
 内府の御目附奥平藤兵衛は、高名して其首を御旗本に送り、猶先鋒にありて戦いけるが、
 味方の兵士崩るゝとき、比類なき働きして討死す。
 此時、藤堂高虎以下の諸将も、大谷が先鋒木下山城守・大谷大学頭と相戦いけれども、
 利を失ひて引退く。

 斯りければ、大谷が先鋒に向かいたる
 藤堂高虎・同宮内少輔・織田有楽・同河内守・津田長門守等の関東方
 初度の戦に利を失ひ、戦地をしざりけれども、秀秋の裏切の手を合わずべしとて、
 大谷が左の方に駈近づく。
 脇坂中務少輔父子は、兼て藤堂高虎を頼み関東に内通ありけるが、
 高虎の陣に旗を振ふと等しく藤川を渡りて右の方に兵を進む。
 之に依って一所に備えたる小川土佐守父子・朽木河内守・赤座久兵衛、
 脇坂と一手になって馳懸かる。
 是を見て秀秋の先鋒も旗を返し、又令己をあげて討て懸りけるに、
 大谷の一陣の兵士、又は戸田武州・平塚因州、三方に敵を受けて勇を挫かず、
 秀秋の先鋒を又一町計り追立てけれども、左右より厳しく揉立てられて、
 列伍漸くしどろになる。然れども、恩に感じ義に服する大谷が手の者なりしかば、
 一足も退くべき、…(後略)…

これを読んでまだ「根拠がない」と主張したいなら、勝手にやってくれ。もう知らん。

170 :金吾秀秋:2005/05/15(日) 02:04:01
なんで漏れ様だけ「秀秋」って呼び捨てなわけよ(´・ω・`)

171 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 06:52:07
未成年

172 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 08:04:06
>>170
ワラタ

173 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 14:14:16
>>170
まだ19歳の悩める大将だから。

174 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 18:27:09
朝鮮再征で諸将が在鮮していた慶長二年(一五九七)十二月、
在鮮軍の主将・小早川秀秋(秀吉の甥)が、突然、召還されて、
その封土(筑前一国、筑後四郡、肥前二郡)を召し上げられた。
謹慎を命ぜられ、翌三年四月、あらためて越前北ノ庄十二万石を与えられた。
四十余万石からの、実質的な減封であって、秀秋は大いに不服を鳴らし、
告げぐちせられたものと信じ、讒者を大いに怨んだ。

秀秋がとがめを受けたのは、在鮮中の掟や、
軍法を無視した乱暴な行為もさることながら、
後に養父の隆景が死ぬと、その暴虐な本性を
むき出しにして、隆景の遺制を蹂躙した。
老臣の杉原下野守が諫言すると、秀秋はこれを斬殺した。
秀吉も驚いて、山口玄蕃頭を付家老として派遣したが、
秀秋はこれをも誅殺しようと計った。
山口はさじを投げ、仔細を秀吉に報告したので、
秀吉もついに意を決し、秀秋には大国の主たる器量なしと認めて、
以上の措置をとったのである。
(古今武家盛衰記)

175 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 19:01:20
この秀秋をなだめて、越前に赴任させず、
筑前の居城・名島に居座るよう、悪知恵をつけたのが徳川家康である。
秀吉の死後、家康は秀秋にたいし、大老連署をもって筑前を安堵した。

石田三成は筑前の代官とされたので、
(秀吉は三成を筑前に封じようとしたが、固辞して受けなかった。
固辞した理由について、慶長三年五月二十二日付けの家臣に宛てた書状で
佐和山を離れたくなかったこと、佐和山の後任に
適当な人がいなかったこと等述べている)
慶長三年六月、博多に下向し、領内を巡視し、領民の不安、動揺をおさえた。
また、太宰府天満宮に参り、建物の荒廃を憂えて、修築を計った。
(阿保文書 筑前国続風土記)

176 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 19:08:21
>>166
>昔からある通説。
違いますよ、通説ではありません。
貴方が何を見て通説と思っているのか知りませんが、通説とは関ヶ原の概況を述べてるもので
二度追い返したというのは、通説ではありません。

>「関ヶ原合戦史料集」の編者
そうです、明治の岐阜の郷土歴史研究家(主に古代史)であった藤井治左衛門氏が解釈したのであって
これが正しいとは限りません、何故なら大成の成立年代でも間違ってるからです。

>儒者竹田定直、正徳三年癸巳三月
まずこれです、なぜ自分が国史叢書読んだのに、国書総目録の方を持ち出したかといいますと、
藤井治左衛門氏は大成の写本を読み、竹田定直の書いたその年を成立年と勘違いしたと思われるからです。
大成の著者は竹田定直ではなく、宮川忍斎であるのはすで存じてると思います。
軍記大成が最初に成立したのは元禄三年で、写本し追加した人の中に竹田定直がいるのです。

そして関ヶ原軍記大全は田丸常山が書き、享保四年頃の成立と見られてるので
国書総目録は、大成の成立を元禄三年とし、大全を享保四年としてるのです。
本書は元禄三年増補本を・・・とあるでしょう?元禄三年にすでに軍記大成としてあるのですよ。

貴方が間違ってるとは言わないが、通常は同じ題名で初版された時期を成立年と言うので
元禄三年で間違ってはおりませんよ。

慶長年中卜斎記は史籍集覧にはありません、信長公記の事です。
どう書かれてるか、火曜にでも挙げます。

177 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 19:30:57
>>167
同じ事を繰り返しますが
「奥平藤兵衛敵ハ小勢ゾト飛込ミ 藤兵衛モ討レテ 秀秋ノ勢ハ四町程逃ル」攻め
「検使ヲ討タセテ逃ゲルカ者共ト 秀秋下知シケレバ 田中勘左衛門・布目新平一足モ不引討死ス」
と逃げる最中に逃げるなと下知、「不引討死ス」で再度攻勢に出たとは到底読めません。
引かずに討死したので、逃げてる最中という解釈しか出来ません。

松尾山城へ逃げてる最中(四町逃げてる最中の方向ですね。何故なら再び逃げあがってるなら、
逃げてる距離を、当日記の表現であれば書き記すはずであり、又、藤堂・京極勢と交戦中でもあり、
約450b逃げた小早川勢に、更に深追いする余力が大谷勢にあったのか、又、大谷の陣は
野戦陣跡が残されており、数の上で圧倒的劣勢であった大谷勢が、そこから出て行くような事をするのか?
という疑問もあり、最後に「秀秋ノ勢松尾山へ逃上ル所ヲ」は藤堂・京極勢が動いた時期を表してるのです。
当たり前の事なのに一々説明つけなければならないとは。

>「敗走したところを小関前にて石川伊豆守勢が取って返したために」
敗走してる最中に、小関前にて石川がですね。
簡潔してるから、次の記述は時間的に言うと、それ以前の記述の後と言いたいのでしょうが
>>145でも同じように、「敗走ス」「引退ク」「懸カリケレバ〜敗軍ス」「懸ルヲ」と完了した形になってますが
どうでしょうか?

>>139に宛てたのに、>>167が答えるとは思いませんでしたが。

178 :174:2005/05/15(日) 20:15:38
正月二十九日秀秋釜山を発し帰朝の途に就く


中納言様(秀秋)俄明日御帰朝之由尤目出度存候…(以下略)

(慶長三年)正月廿八日(浅野左京大夫長慶の書案)
杉原下野守殿
(浅野家文書)


…はてさて。

179 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 20:17:56
>>169
ようやく大成あげましたね。ではお答えしましょう。
貴方は多分、「秀秋の先鋒を又一町計り追立てけれども」で二度と言いたいのでしょうが
これは逃げたのではなく、一町押し出したとするべきでしょう。

理由は、まず小早川勢が「引退ク」など、逃げる、又は。敗れるような表現をされてない事。
また、追立てと大谷勢が前に出た表現がなされてるからです。

秀家正則合戦の項でもそうですが、軍勢が逃げる時には必ず、「敗走」「引退」「退」という表現が
されてるのは分かると思います。
細川黒田力戦の項でも、「石田が先手の輩、田中兵部をニ三丁計り追立てけるに・・・」とありますが
これも逃げた部類ではなく、押し込まれたという内容です。

180 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 20:51:45
秀吉死後の前田家、上杉家、毛利家の動きについてですが、

(A) 家康(東軍)に嵌められた
(B) 三成(西軍)に乗せられた
(C) (A)+(B)の複合要因
(D) 自主的(独自)に動いた

皆さんは、どれだと思いますか?

181 :日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:07:57
>>180
申し訳ないが3家ともに(D)だと思うが。

182 :139:2005/05/15(日) 22:34:51
>>176
>なぜ自分が国史叢書読んだのに

だから、嘘つくなって。

>藤井治左衛門氏は大成の写本を読み、竹田定直の書いたその年を成立年と勘違いしたと思われるからです。

藤井氏は「関ヶ原合戦史料集」の編者であって「国史叢書」の編者ではない。
竹田の序文はいわば推薦文であって、その後に宮川本人が書いた自序があり、「正徳三年癸巳三月」と明記している。
読んでいればこんなアホな間違いするわけないよな?
勘違いしているのは貴方だ。

>そして関ヶ原軍記大全は田丸常山が書き、享保四年頃の成立と見られてるので

最初から田丸常山(具房)が書いた軍記の話なんて、これっぽっちもしていないのだが。
「関ヶ原軍記大成」って何回も書いただろ。

>元禄三年にすでに軍記大成としてあるのですよ。

もう一度、>>166を読め。元禄三年は「大全」であって「大成」ではない。
だいたい貴方は>>129で「大成には成立年代が書かれていない」と断言していなかったか?

>慶長年中卜斎記は史籍集覧にはありません、信長公記の事です。

あのさ、なんで信長公記にこだわるの? 関ヶ原と全然関係ないだろ。
貴方は>>129で「卜斎記は一次史料と認められている」と断言した。
誰がどこで認めているのか、その根拠を提示すればいいだけ。

>>179
交戦した後、「退却していない」敵をどうやって「追い立てる」というのか?
常識で考えてくれ。
貴方がどう解釈しようと勝手だが、屁理屈ばかりなので、もうつきあいきれん。

183 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 00:05:44
>>182
だから関ヶ原合戦史料集の著者という後に藤井氏の名前挙げてますが?
というか、国史叢書云々は自分で見ても訳分かりませんね、訂正します。

自序は、宮川本人ではありません、よく読まれた方が良いのでは?

大成と大全の成立年代を逆と言うので細かに説明しただけです。ですから、貴方の鵜呑みを説明してるだけ。
軍記大成は元禄三年に、この名前で出来てます。大全はそれを参考にして関ヶ原記大全や関ヶ原軍記大全とあります。
軍記大成は「本書は、元禄三年増補本を更に追加増補し、四十五巻本とし、正徳三年を以て編輯成りたる」
とあるでしょう?大全は「元禄三年の奥書ありて・・・」でしょう?

大全と大成の著者が同一なら、これをそのまま使って支障はないでしょうが、著者は違いますね。
ご理解できましたか?

貴方は信長公記も一次史料ではないと述べてましたよね?
>>129の前読まれましたか?卜斎記は一次史料と認められてると同時に、全く同じ構成の信長公記も一次史料として
例えました、貴方が違うというので、史籍集覧で信長公記が一次史料として挙げられてると書いたのです。
貴方は何でも人の文章を自分勝手な解釈して、それを事実のように断定して語る傾向にありますね。
もう少し冷静になって読解力付けられた方がいいですよ。

>交戦した後、「退却していない」敵をどうやって「追い立てる」というのか?
まぁ、当日記の記載すら穿った解釈できない貴方からすれば屁理屈に見えるのでしょう。
「追立て」とは、押込むですよ、相手が引かなくとも、ずるずると下がる場合がありますね。

当日記の内容は、反論出来なくなると、藤井氏が書いてたから。
大成は序文に書いてあるから。

184 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 00:45:06
>>177
>逃げる最中に逃げるなと下知、「不引討死ス」で再度攻勢に出たとは到底読めません

あなたの理屈からすると

>「敗走したところを小関前にて石川伊豆守勢が取って返したため」
>敗走してる最中に、小関前にて石川がですね

敗走中、小関前で取って返して再度攻めかかったと言わないのですか?
それとも上は4町という距離だけで具体的な地名が入ってないからですか?
秀秋が下知したが故に取って返したか再度攻めかかったかし、田中・布目ら
が討死したんじゃないのですか?

>逃げてる距離を、当日記の表現であれば書き記すはずであり、又、藤堂・京極勢と交戦中でもあり、
>約450b逃げた小早川勢に、更に深追いする余力が大谷勢にあったのか、又、大谷の陣は
>野戦陣跡が残されており、数の上で圧倒的劣勢であった大谷勢が、そこから出て行くような事をするのか?
>という疑問もあり、最後に「秀秋ノ勢松尾山へ逃上ル所ヲ」は藤堂・京極勢が動いた時期を表してるのです。
>当たり前の事なのに一々説明つけなければならないとは。

それは藤堂が動いた時期を記すためという勝手な自説が当たり前と来ましたか…

ここら辺は藤堂・京極は大谷勢に敗軍寸前まで追い込まれており体勢を整える時間が必要だったとか、
すぐに体勢を整え直せたが小早川の裏切りに驚き支援していいものかどうか迷ったとか
死兵と化した大谷勢に攻撃をするほど藤堂・京極勢に戦意がなく脇坂らの寝返りを求めたとか
大谷勢の実数は与力合わせ石高以上の勢力であったとか諸説わかれて然るべし
当日記を持って判断出来るものではないと思うが

185 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 01:06:01
>>184
「敗軍スル所ヲ、 小関前ニテ石川伊豆守定正取テ返シケレバ」
ですから、敗走してる最中に、小関前で取って返した。最中であってますが?

「検使ヲ討タセテ逃ゲルカ者共ト 秀秋下知シケレバ 田中勘左衛門・布目新平一足モ不引討死ス」
と逃げた後に、逃げるなと下知するのもおかしい。逃げた後なら、「不引討死ス」」という表現もおかしい。
よって「秀秋ノ勢ハ四町程逃ル」の最中に「「検使ヲ討タセテ逃ゲルカ者共」と下知し、
従ったから「一足モ不引討死ス」したのですよ。

どうやったら攻めかかったと取れ、取って返したとなるのか不思議でしょうがないですけどね。

勝手な自説ではありませんね、その為に「敗軍スル所ヲ」の例を挙げたのですから。
「秀秋ノ勢松尾山へ逃上ル所ヲ 藤堂佐渡守・京極侍従ハ横ヨリ懸リヌ」
とありますね、どう解釈しても藤堂・京極勢が動いた時期を表してます。
その後の内容でも藤堂玄蕃の話になってますしね。

>当日記を持って判断出来るものではないと思うが
当日記の記載されてる内容の解釈の問題なんですけど。
信憑性や記載されてる事象の整合性を見るなら、所詮、軍記物なので全く話になりませんが。

貴方は、こんな軍記物を根拠として提示する人に問うべきですね。


186 :139:2005/05/16(月) 01:34:34
>>183
>自序は、宮川本人ではありません

おいおい、著者本人が書くから自序とよばれるんだろ。

>大全と大成の著者が同一なら

だから、同一なんだって。
国史叢書の解説では田丸の軍記のことなんて書いていないぞ。
もう一度>>166を読め。
貴方は自分が目録で見つけた田丸の軍記のことが頭から離れないだけ。
検索だけして読んだフリする奴にありがちなミスだな。
まあ、同じ「関ヶ原軍記大全」という題名だから、紛らわしいといえばそうなのだがな。

>卜斎記は一次史料と認められてる

だから、誰がどこでそんなこと言っている?

>「追立て」とは、押込むですよ

そう思っているのは貴方だけ。

>当日記の内容は、反論出来なくなると、藤井氏が書いてたから。
>大成は序文に書いてあるから。

意味不明。何が言いたい?

187 :139:2005/05/16(月) 01:53:58
↑と思わずレスしてしまったが、もういい加減スルーした方がいいかな?
嘘つきを相手にいくら議論してもしょうがない。
なんだかバカバカしくなってきた。。。(何を今更と言われそうだが)

188 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 02:50:21
>>187
スルーするかなんて一々人に聞くなよ。

189 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 02:57:02
>「秀秋ノ勢ハ四町程逃ル」の最中に

ってどういうことよ?
4町逃げるはずだったけどその途中に留まったの?
んなバカな

190 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 03:30:10
>>当日記を持って判断出来るものではないと思うが
>当日記の記載されてる内容の解釈の問題なんですけど。
>信憑性や記載されてる事象の整合性を見るなら、所詮、軍記物なので全く話になりませんが。

>貴方は、こんな軍記物を根拠として提示する人に問うべきですね

その記載されている内容の解釈の問題で、当日記を見てよくそこまで勝手な解釈で一々説明
するまでもないなど言えるものだと言っている
要するにあなたは藤堂・京極勢が秀秋の裏切り前から大谷壊滅までずっと大谷勢と戦っていた
とどこで判断出来たのかということ
こんな軍記物というがそれならあなたはどれを参考に当日の戦況の推移を検証出来ると
考えているのかな?
東軍の黒田家の史料にさえ西軍に押し捲られた記述があるのに、結果だけを見て秀秋が寝返ろうが
寝返るまいが戦いの結果に影響はなかったような言い方を平気でする東軍厨は、家康に限ってとか
家の子に限ってみたいな話しかしていない

191 :174:2005/05/16(月) 14:03:25
蔚山の警報諸城に達す
(釜山、梁山には(慶長二年十二月)二十三日、
南海には二十四日、泗川には二十七日、其他未詳)

小早川秀秋釜山に在り乃ち老臣山口宗永(兵三千)をして代わりて赴援せしむ

…はてさて。

192 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 15:08:39
>大全と大成の著者が同一なら
だから、同一なんだって。


m9(^Д^)プギャー

193 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 18:00:13
>>186
だからあれは宮川忍斎の自序文ではありません。

関ヶ原軍記大全は田丸常山の著書であり、関ヶ原軍記大成は宮川忍斎の著書です。
著者が同一だとするのは、黒川氏が、軍記大全本を第二稿本、軍記大成を第三稿本と述べ
、「本書は初め「伊吹物語」と題せしが、「慶五記」と改め、又其の後に「関ヶ原記大全」と改め、
また「関ヶ原軍記大全」と改め、最後に「関ヶ原軍記大成」と改めたり」と述べてるからですか?

だとするなら関ヶ原始末記はなんと黒川氏は関ヶ原始末記でどう書かれてますか?

>だから、誰がどこでそんなこと言っている?
〜は一次史料と明言してるものなんてありませんよ?そんなの常識です。
しかしながら、卜斎記は一次史料として扱われてる事実があるではないですか。
多々ある関ヶ原関係の研究本・論文等で卜斎記が使用されてる事実があります。

>そう思っているのは貴方だけ。
そうですね、そう思われても結構ですよ。解釈論は散々しましたから。
おかしい解釈をこじつけてるのはどちらか明白ですしね。

>意味不明。何が言いたい?
>>92で解釈がおかしいと、意味不明な反論しておきながら、こちらが説明すると反論し、
それが出来なくなると>>166で「提示しただけ」「書いてある」・・・何なんでしょうね。

194 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 18:40:31
面倒なので纏めて>>189-190
>4町逃げるはずだったけどその途中に留まったの?
四町逃げたと書いてあるので、四町逃げたとするのは間違いありませんよ。
四町逃げてる最中に、秀秋の下知があり、従ったので下がらず討死したと、書いてあるのです。
よって四町下がってる間の出来事が書いてあるのですよ。
そして四町下がらずに留まったとは自分は何処にも書いてませんよ。

>こんな軍記物というがそれならあなたはどれを参考に当日の戦況の推移を検証出来ると
>考えているのかな?
推移を調べたければ、各家譜や旧記雑録、各家文書や卜斎記等々で十分推移の検証できますけど?

確かに家譜は徳川史観等で脇坂記のように、かなり脚色されたのも存在します。
しかし主観的な部分を排除すれば、「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」というのはわかります。
軍記物を使用するなとは言いませんが、あくまで軍記であり、しかも多々脚色されてるものをもって
事実とするのはおかしいというのです。
大成が多々脚色されてる軍記というのは、今さら指摘するまでもない事実です。
しかし、それを指摘すれば「現在残っていない何らかの史料・談話を参考にして記述した可能性がある」
と可能性の詭弁をする。

徳川史観の話をしましたのも、大谷吉継が軍記の著者の多くが儒学者であり、
それによって大谷が儒学思想で美化されてるのを外岡慎一郎氏も指摘されている。
ですので、自分は当初に軍記でも最初の始末記では、大谷勢はしばらく防戦したという記述しかないのに
後になればなるほど、大谷勢の美化が始まるのです。
己個人で美化した逸話で満足したいなら、それで結構。
しかし、ここは学問としての日本史板であるので、それを差し引いて考えるべきではという事です。


195 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 20:02:28
そろそろどーでもいいので終われ
出来ることなら、相手を罵倒することしかの能がない西軍厨は消えてほしい

196 :日本@名無史さん:2005/05/16(月) 20:24:26
つか結論でてるよなぁ。
そもそも秀秋が寝返っても、大谷隊だけで防ぎきれる、宇喜田の援軍もいたなんて
言い出したヤシが言い張ってるだけだろ?

197 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 00:10:57
兵力の多寡は勝敗に影響を与えることはあっても、
決定することは無い。

1万5千の軍勢が横一列になって600人に襲い掛かれば
あっという間に決着するけど、地形を見れば判るだろ。
おまけに小早川の実戦力は数千人と思われ。

198 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 00:20:11
その前に戦意がなかったんじゃなかろうか
いきなり味方に攻めかかれと言われてもねぇ

199 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 00:52:43



200 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 00:53:21
敵だと思う

201 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 03:19:11
関ヶ原とはあまり関係ないんだけど秀頼の父親ってやっぱ三成が1番有力?ほかの父親候補がわからない

202 :174:2005/05/17(火) 09:16:04
小早川秀秋の北庄への転封命令は実行されないまま、
家康主導によって取り消されたと考えられていたが、
福井に残された史料などでは、小早川家重臣の知行割が決められ、
秀秋自身が北庄城に移動していたことが記されており、
転封は実行されていた可能性の方が高い。

家康の力添えにより名島城主に復帰するが、
小早川家の禄高は五十二万二千石から三十五万七千石となった。

小早川家において雇用調整が行われたことからも、
減封処分が実行されたことは確実であるにもかかわらず、
日本戦史では小早川家の禄高を五十二万二千石とみなし、
関ヶ原合戦における動員兵力を一万五千六百六十名と算出している。
そのため、関ヶ原合戦関連の書籍では、
松尾山に布陣した小早川勢の兵力は一万五千名前後とみなされているのだが、
禄高が三十五万七千石であれば、一万七百十名となる。
(日本戦史では、参戦大名のすべてについて三人役と計算している。
禄高×0.03=動員兵力)


…はてさて。

203 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 13:36:25
>>197
そこまで言い切るのは暴論だろ。
確かに小勢が大勢に勝つという事はあるが
ほとんどは負けるぞ。

204 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 14:08:34
>>201
大野治長。
三成はあまり淀様と親しくない。

205 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 19:05:48
>>197
決定はされなくともどっちが有利かは一目瞭然だろう?

206 :日本@名無史さん:2005/05/17(火) 23:09:01
>>200
>敵だと思う

一般兵卒から見れば敵は東軍

207 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 00:18:21
一兵卒は動揺しただろう、それは大谷も同じ
大谷の一兵卒も今まで味方と思ってのに襲われたら動揺もする罠

ほかの西軍の兵も動揺が激しいと思われるが、どうよ?


208 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 01:01:48
大谷は動揺しなかった
むしろ怒りの余り戦闘力がUP
最初から想定内だった

小西あたりは動揺しまくっただろう

宇喜多もそれなりに動揺
但し主将が斬り込んで殺すとまで言っているので崩れるまではいかない

209 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 01:07:31
↑三戦板に帰れ↑


210 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 01:47:12
小説ネタが出たら三戦版へ帰れとか一々言う奴のがうざいよ
小説でも作者なりに古書を読んで想像を膨らましたのだから
それを否定する必要はないし、一般人の知識には小説が元ネタ
で十分だと思うけど?
別にそれを史実認定しろと言ってるわけでもあるまい

211 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 01:47:55
>>205
だから何?

どちらかが有利だと何なんだ?

巷説によると関ヶ原は西軍が有利だった。
だから西軍の勝ちにでもなるのか?????

212 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 01:52:13
程度が低いのはわかったから三戦板へお帰りなさいね
あそこなら想像膨らませて遊んでも誰にも文句言われないからさ

ここは学問文系日本史板

213 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 02:06:02
西軍蜂起が1週間遅ければ全く違った結果が出ていたかもね

214 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 02:06:53
一兵士の話してりゃ大谷は動揺しなかった    ←一兵士まで知るか
宇喜多は切り込んで殺すと言うから崩れない   ←それは崩れた後の話だろってーの

話ズレ杉、バカ丸出しだから三戦板に帰れと言われれば、小説ネタだ何だと言い訳自演








はいはい、とっとと帰った帰った

215 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 02:14:48
>>212
ではどのレスが日本史版らしいのかな?
学校で勉強出来なかったからここで勉強してるお目出度い奴age

216 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 02:21:25
今度は自演扱いかw
自分の知識不足で知らなかっただけなことに気づけよ

三戦版だ自演だ騒ぐ奴の程度など所詮こんなもの

217 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 02:26:20
一般人は208が流れ読めてないバカだと気付く
208本人だけが、小説ネタだからかー!!と勘違いするw

結果>>213>>215>>216
必死になるw

218 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 03:02:10
変だと思うレスあれば指摘すればいいだけ。煽るだけなら消えて欲しい、何にもならない。


小早川の裏切りの影響を考えれば、自分は小早川が大谷攻撃した時点で、
大谷が崩壊するのは時間の問題だと思うけどね、いくら大谷が想定していたとはいえね。

それより西軍蜂起が一週間遅かったら・・・、それでも、まだ上杉と交戦すしてないから
引返す事が可能になるので、せめて一ヶ月遅ければと思ったり。
8月17日あたりだと、さすがに上杉勢と交戦状態になってるでしょうからね。
ただ、上杉がどれだけ保てるかが勝負の分かれ目だと思うけどね。

>>202
小早川秀秋の所領の細かい禄高は、隆景時代の数字でしょうか?
東軍の筒井定次や生駒一正の所領はどう思われてますか?

219 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 04:24:16
>それは崩れた後の話だろってーの

だから、それだけ気合いが入っていたということだろ
そんなこともわからないのか

学校に帰った方がいいぞ、馬鹿なぼくちゃん

220 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 04:26:51
>>212
全く学問らしくない発言で、学問板だと言っても説得力が全くない

学問的な反論さえもできないのか

221 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 04:28:09
>>218
小早川だけが裏切った(表がえった)という想定でか?

222 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 08:10:10
筒井は実質18万石くらい。
伊賀一円と山城や大和に飛び地が少し。

223 :202:2005/05/18(水) 16:21:18
>>218
生駒一正 讃岐高松 15万石(関ヶ原後17万3千石)

筒井定次 伊賀上野 20万石(本領安堵)

小早川秀秋 筑前名島 35万7千石(関ヶ原後備前岡山51万石)

224 :202:2005/05/18(水) 18:38:23
知行方目録之事

一、寺社領弐万石分、輝元次第仁立置支配可、寺社入不之儀、其方次第?破可事
一、七千石京進方事

一、六萬六千石 羽柴小早川侍従(隆景)
此内壱萬石無役、輝元近所於

一、拾壱萬石 羽柴吉川侍従
此内壱万石無役、輝元近所於、伯耆國三郡有次第、其外出雲國富田城、
ほうきのかたへかた付、都合拾萬石相渡、とた居城に然可哉之事

一、隠岐國 羽柴吉川侍従

一、拾萬石 輝元國之?(たい)所入事

一、八萬三千石 京都?(たい)所入事

合十八萬三千石之たい所入也

一、七拾三萬四千石之軍役

惣都合百拾弐萬石也

右之内二十三萬石者無役、残八十九萬石之軍役、
但、小早川・吉川相勤可之者也

天正十九年三月十三日 (秀吉朱印)
羽柴安芸宰相とのへ
(毛利家文書)

225 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 19:22:54
>>211
全然話が違いますが。
小勢と多勢を比べた時、確かに多勢の方が必ずかつとは言い切れない、
しかし、どちらが有利かは自明のことだろうってこと。

>>219
主将一人が気合が入っていても、一兵士までそれに付き合ってくれるとは限りませんよ。

>>218
西軍は上杉攻めへ向かう途中の部隊を足止めして自軍に組み入れているから、
決起が遅くなればその分動員できる戦力が減り、逆に家康の下には戦力が増えることになってしまう。
また、史実では輝元は吉川が止める前に大坂城に入ってしまい、西軍の総大将になってしまったが、
下手に時間をかけてしまっては吉川の説得により動きが鈍る可能性もある、
実際、出陣を押しとどめる使者とほとんど行き違いで輝元は大坂に向かってしまったそうだし。

226 :202:2005/05/18(水) 19:23:54
知行方目録

一、弐拾六萬九千参百五拾石 筑前一國

一、参萬七千九百五拾石 肥前内二郡 筑後内二郡

合参拾萬七千三百石之内

一、弐拾萬石
人数八千人(遠国為之條、百石に付四人宛之役也)

一、拾萬四千参百石 ?(たい)所入無役
此内五萬石 在京料

一、参千石 安國寺(恵瓊)

右領知方、今度検地之通、全知行有可者也

天正十九年三月十三日 (秀吉朱印)
羽柴筑前侍従とのへ
(小早川家文書)


小早川隆景は合計三十七万三千三百石を領し、十一万七千三百石を無役とし、
二十五万六千石を以て軍役を勤め、一万二百四十人の兵を出すべき義務を負っていた。


…はてさて。

227 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 20:36:32
>>221
そうですよ、小早川だけだとしてもです。

>>223-224>>226
小早川秀秋の所領ですが、隆景の毛利領内に所領の6万6000石は、 隆景の隠居領になり
小早川家自体の所領も、秀秋が相続し秀包にも分配されてますが、それを除いて
筑前名島35万7千石なのでしょうか?

後、各軍勢の算出方法なんですが、自分が思うに、島津家に課せられた100石3人役を基に算出されてるが
東になればなるほど、軍役は重くなるであろうし、畿内周辺の大名も無理をして兵を出すと考えられるので
もう少し検証をすべきではと思ったり。

>>225
確かにそうなんだけど、基本的に三成は、上杉と交戦して会津征伐に向かった軍勢が、なかなか反転して来れない、
又は、反転してきても少数と踏んでた節があるので、結果を知ってる自分としては、
足止めして西軍に組み入れた多くはまともに戦っていないのを考慮し、だったら一ヶ月程遅らせた方が
逆に良かったのではと単純に思ったのですよ。
ま、結果論ですし、遅らせたら遅らせた分だけ、状況が改善するとは思いませんけどね。
輝元の件は、どうも輝元は吉川と安国寺の行動を秤にかけていたようで・・・、この辺は難しいですね。

228 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 20:47:39
>>225
確かに主将がやる気があっても兵士が頑張るかどうかはわからない

ということは誰が主将でも同じと言うことを意味するということか?

229 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 20:49:41
>>226
25万石なら、3人役だと、7500人じゃないか?

230 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 20:53:04
>>215
今見てると資料の細かい解釈の論争?
「もしも〜だったら」は参戦版へ池といわれがち


231 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 20:53:13
>>227
小早川だけだと疑問だな

まず前提条件として、3倍程度の差ならば4時間程度は耐えられる可能性があるということに同意?

それから、10倍の兵力差で10倍の側が敗走したという事実には同意?

232 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 20:55:07
>>227
軍勢の算定法に疑問があることには同意

しかしそうなると福島らがもっと大勢であってもおかしくはない

徳川が全力動員をかけていたかもしれない

233 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 20:56:45
>>231
あの、仮定の話してるのでしょ?
否定も肯定も出来ないのですよ?

それとも、大谷勢だけでも小早川勢を退けられたと自分に押し付けたいのですか?

それに前提条件と言っても4時間耐えたのは石田勢、大谷勢ではない。
敗走したとは軍記の記述で事実ではない、以上です。

234 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 20:57:42
>>227
上杉の件だが、結果論的に待つべきだったに同意
しかし当時は状勢なんてわからないし
三成はもう交戦している頃合いと踏んだのかも知れない
あるいは挟撃しているのでそう簡単には関西には出て来れないはずだと

235 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 20:59:11
>>233
もちろん押しつけではない

そちらはそっちの意見を押しつけたいのか?

敗走したのは事実ではないという認識か?

236 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:03:53
>>235
押し付けてませんよ、自分は思うとだけ書いてますけど。
他人にどうこう言ってませんし。
貴方は此の件で自分にレスして、何がしたかったのでしょうか?
貴方が疑問に感じるのは結構ですが、それを自分に問われてもね・・・。

小早川勢が敗走したのは事実と認識してません。
何度も書きましたが、成立の遅い軍記にしか記載がないからです。



237 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:11:02
>>236
小早川だけで崩れるかどうか疑問と言いたかった

小早川の敗走が事実ではないとするならば、色々と再検討が必要であろう

小早川麾下の部隊で死者が出ていると思ったが、これもガセか?
徳川の奥平某が敗死したというのは事実ではないのか?

238 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:13:49
>>236
ここは2chなんだから、何か書いたらそれにレスがつくってことは覚悟した方がいい

239 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:18:11
>>237
小早川勢で討死した人間出たのと、敗走したのは同意ではありませんよ。

例えば、小早川勢を軍記通りに敗走させてるのなら、誰かの書状や何かで
その奮闘振りが残ります。
しかしながら、それら状況証拠になるものすらありませんので。

それと、小早川だけで崩れるか崩れないかは仮定なので、誰にも是非は問えません。

240 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:24:37
>>239
なるほど

では奥平某の死亡も軍記物だけに出てくるものなのか

仮定に関しても推定を行うことは可能
ただ絶対ではないがな
推定を行うのも楽しみだと思うが、嫌ならば仮定の話はしなければいい

241 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:30:31
>>240
>では奥平某の死亡も軍記物だけに出てくるものなのか
小早川勢で討死した人間出たのと、敗走したのは同意ではありませんよ。
敗走したとは軍記の記述で事実ではない、以上です。




推測と憶測は違います、頭痛くなってきた・・・。

242 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:32:52
>>241
まず前提として奥平某が死亡したかどうかを聞いているんだが?

死亡も負傷もしていないということであれば、あまり損害は負っていないだろうし
ほとんど敗走もしていないんじゃないかという公算が強くなる

推測と憶測はどう違うんだ?

243 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:45:44
奥平籐兵衛の討死は間違いありません、複数の史料で確認できますから。
ですから、奥平が死んでいないとは書いてません。

奥平籐兵衛が討死すれば小早川勢が敗走でもするのでしょうか?
意味がわかりませんけど。
奥平籐兵衛が小早川の先陣を率いたとするのは軍記です。
>>54に卜斎記での記述ありますから、どうぞ。

憶測と推測の違いは国語辞典でどうぞ。

244 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 22:15:18
レスが進んでると思えばこれかよ

メール欄にageと入れてる厨は放置だな
>226で百石に付四人と書いてあるのに>229
>233は仮定の話だからとしてるのに食い下がる

>81や>106見てみろ
粘着する大谷厨は相手にするな

245 :日本@名無史さん:2005/05/18(水) 22:20:16
変だと思うレスあれば指摘すればいいだけ。煽るだけなら消えて欲しい、何にもならない。


246 :日本@名無史さん:2005/05/19(木) 00:26:11
筑後二郡は秀包領だろ

247 :日本@名無史さん:2005/05/19(木) 07:41:55
>>228
一行目と二行目になんのつながりもありませんが・・・・

248 :日本@名無史さん:2005/05/19(木) 12:06:46
age厨が一人で複数こなしてるのがバレバレなのが笑える
言うにことかいてこれだしなw

87 名前: 日本@名無史さん [age] 投稿日: 2005/05/09(月) 18:58:34
大谷は負けないということがやっとわかったのか
頭悪いな、おまえら

文体同じだし、論破されれば誹謗中傷に必死になるあたりそっくりw

249 :日本@名無史さん:2005/05/19(木) 20:44:00
弱い者虐め禁止

250 :226:2005/05/19(木) 22:59:57
>>227

本表は、二木謙一氏が
「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」「断家譜」「恩栄録」「廃絶録」
中村孝也「徳川家文書の研究」中巻、藤野保「新訂幕末体制史の研究等を参照して作成した。

…の数字です。>>226

小早川秀秋 旧封地 筑前名島 35.7万石 新封地 備前岡山 51万石

黒田長政 旧封地 豊前中津 18万石 新封地 筑前福岡 52.3万石


日本戦史関原役
小早川秀秋 52.25万石 筑前名島 動員力15675人

版籍奉還時の領地石高
筑前 黒田氏 52万石

…はてさて。

251 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 00:24:27
>>250
黒田の関ヶ原合戦後の新封地は34万石

252 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 04:35:36
>>243
奥平は何で死んだのか?

勝ちまくっていたが、死んだと言うことか?

253 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 04:37:51
論破されたのは小早川厨じゃないか
反論できなくなって、嵐をするとは哀れなものだ

言いたいことがあるならば、論理的に言ってみたらどうか
論破されたので何も言えないのか

254 :日本史@名無しさん:2005/05/20(金) 05:26:26
秀吉は黒田を冷遇しすぎ

アフォの福島加藤よりこいつや細川なんかに空気読まれた時点で負け。

255 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 07:44:25
>>252
あの、負けている時にしか戦死者は出ないと思っているの?
全般に優勢だったが指揮官の一人は戦死したと言うだけでしょう、
別に普通のことだと思うが。
その指揮官が別段最重要人物で特別な存在だったというわけでもなし。

否定したいなら他の論拠を持ってこないと話しにならないよ。

256 :226:2005/05/20(金) 07:46:17
>>250訂正

…の数字です。>>223

>>251
小早川秀秋の領地石高は隆景の筑前、筑後、肥前の石高を
基準にした方が良い気がします。

…しかしこう書いている人もいます。

秀吉の遺命で加増復領、両築五十二万二千石を領した。

………。

>>246
天正十五年六月、隆景には、伊予にかわって筑前一国、
筑後国生葉郡(八女、浮羽郡)・竹野郡(浮羽郡)、
肥前国基い郡(三養基郡基山町)・養父郡(鳥栖市)の半郡が与えられ、
秀包には、筑後三郡が与えられ、久留米城主となった。
(毛利家文書981 筑紫家文書66)

はてさて。

257 :226:2005/05/20(金) 08:03:15
慶長五年八月五日、石田三成が真田昌幸に宛てた書状を元に
外川淳氏が作成した兵力動員表の動員兵力

伊勢口
毛利輝元 41500
宇喜多秀家 18000
小早川秀秋 8000
長宗我部盛親 2000
京極高次 1000
立花宗茂 3900
小早川秀包 1000
筑紫広門 500
鍋島勝茂 9800
脇坂安治 1200
堀内氏善 300
滝川雄利 400
山崎定勝 400
蒔田広定 370
中江直澄 390
長束正家 1000

計89760

258 :226:2005/05/20(金) 08:08:17
美濃口
石田三成 6700
織田秀信 5300
稲葉定通 1400
島津義弘 5000
小西行長 2900
小西与力 4000
稲葉通重 400

計25700

259 :226:2005/05/20(金) 08:20:03
北国口
大谷吉継 1200
木下勝俊 3000
丹波七頭衆 5000
但馬二頭 2500
木下頼継 700
木下家定 800
越前東江衆 2000
戸田勝成 500
福原長堯 900
溝口彦三郎 300
寺西是成 500
上田重安 300
奥山正之 500
小川祐忠 2500
生駒家代理 1000
横須賀家代理 2000
青木一矩 6000
青木宗勝 800

計30500

260 :226:2005/05/20(金) 08:26:43
瀬田橋東番衆
太田一吉 1020
垣見一直 405
熊谷直盛 405
秋月種長 600
相良頼房 800
高橋元種 800
伊東祐兵 500
竹中隆重 360
木村秀持 520

計5410

261 :226:2005/05/20(金) 08:34:35
大坂城守備
大坂留守居 7500
御小姓衆 8300
御弓鉄砲衆 5900
前備後備 6700
前田玄以 1000
増田長盛 3000

計32400

伊賀在番 7000


総計190770


…はてさて。

262 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 09:38:37
その外川という人は福島正則のことを、かなり優秀な人物である
ように書いていたぞ。

263 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 11:30:12
>>255
敗走はせずに、勝っていたが、奥平だけ死んだというのが史実ということか?

これを肯定する論拠はあるのか?



264 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 13:05:55
外川淳のその数字はまさか関ヶ原大合戦っつー本からか?

265 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 13:16:34
つーかage厨一匹が非論理的に騒いでるなw
騒ぐ前に人のレスをじっくり嫁

266 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 14:59:12
263の頭には奥平貞治戦死=小早川隊負けしかないらしい。

267 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 16:18:48
講談まがいを論拠に騒ぐ阿呆をひさしぶりに見た

>>263
おまいは、まず大谷によって秀秋が敗走して奥平が死んだのを
理論的に説明することだな

なにからなにまで人任せだと相手にされなくなるぞ
すでにそうなりつつあるが

268 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 17:22:50
>>263
別に戦に勝ってても
敵側からの銃弾で将兵の一人や二人が倒れるのは
いくらでもある事だろうが。

現代戦みたいに指揮官は後方で図面を見て指揮しているとでも思ってるのか?

269 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 17:25:54
ネルソン提督なんてどうなるんだ?

270 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 19:57:31
奥平は検使のため通常であれば後方にて検分する役目である。
しかしこの日は別の使命も担っているためそちらが優先する。
その使命を全うするには自ら先頭に立ち、切り込まなければな
らない程ギリギリの選択であり戦意にも欠けていたと考えられる

一般の兵卒から見たら味方であったはずの西軍へ攻撃するという
行為を簡単に考えすぎていないかな?
それまで西軍として行動しているのだし、今までに経験のない
そういう行為を躊躇うのは当然と思えるが
松野の逸話などを参考に考えると、主命には逆らえないが
戦意は全くなかった者も少なくないはず
松野はあからさまにそうとわかる行動をしたというだけで同じ
思いのものも多かったに違いない

271 :日本@名無史さん:2005/05/20(金) 22:28:57
小早川秀秋は西軍として行動してないから、問題だったんだろ
つか、秀秋ばかり言うが、西軍の一般の兵卒からすれば
今まで味方と思ってた連中が襲い掛かって来るんだぞ
それを単純に考えてるな

松野一人しか秀秋の命令を拒否しなかったのだしな
多かったに違いないとか己の思い込みを既成事実みたいに語るな

272 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 00:01:19
裏切り行為があった場合を想定して伝達しておける側と
伝達してしまうと寝返りがバレてしまうため周知させる
ことが出来ない側では根本的に違うと思うよ

273 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 00:15:42
寝返りはバレてるようだぞ
伊勢入り拒否したり松尾山の伊藤を追い出したり
西軍に対する敵対行為してて、家康の部下や長政の部下を引き入れてるぞ
秀秋が美濃にさえ来なかったから、合渡川合戦や岐阜城の救援にも行けずじまい
ダメじゃん

274 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 00:38:21
>>250>>256
なるほど、小早川秀秋の所領はもう少し検証の余地ありそうですね。
とは言っても期間が二年程度しかないから、中々難しいでしょうけどね。

>>252
奥平藤兵衛については>>54参照の事。

>>257-261
外川淳氏の数字は微妙ですよね、自分も畿内周辺に所領を持つ大名が多い西軍が
この戦いで兵を出し惜しみするのか?と思い、西軍の動員数はもっと多いのではと思ってましたが、
しかし総勢19万を越えるとなると、逆にそれは多すぎるようなと思ったり・・・。


小早川秀秋の行動は伊勢云々は知りませんが、伏見攻撃後、西軍の軍事行動に一切参加せず、
卜斎記にも秀秋謀反の噂で大垣を出たとありますので、すでに西軍諸将は知っていたと思われます。

しかし、西軍の軍勢は小早川勢裏切るかもとは思いつつも、裏切られた時の影響は大きいでしょうし、
小早川勢に至っては、仮に薄々西軍を裏切ると知っていたとしても、命令された当初は混乱するでしょう。
松野主馬の一件でも命令系統が狂うのですから。

275 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 01:08:06
>卜斎記にも秀秋謀反の噂で大垣を出た
詳しく

276 :金吾秀秋:2005/05/21(土) 06:16:17
しめしめ。誰も気づいていないに違いない(´・ω・`)

277 :226:2005/05/21(土) 06:52:56
秀吉時代の直轄地については、現在のところ、
「大日本租税史」巻三十一所収の「慶長三年蔵納目録」
が最も詳細を伝える史料である。
これと、同書巻二十五所収の「慶長三年検地目録」によって、
秀吉蔵入地がどのような比率で、
どのように分布していたかが明らかとなる。

試みに、両書をもとに山口啓二氏が作成された
「豊臣期諸国検地高・豊臣氏蔵入地一覧」(「幕藩成立史の研究」50ページ」)
によってパーセンテージを出してみると次のごとくなる。


筑前 検地高335.695 蔵入地186.077 55.4%

各国の石高に対する直轄地の比率が50%を越しているのは
摂津・河内・和泉の三ヶ国と筑前である。

…はてさて。

278 :226:2005/05/21(土) 07:32:16
慶長五年(1600)八月五日、真田昌幸・信幸・幸村の三名宛てに、
石田三成本人から書状が出された。
連署でないのは、佐和山から出されたからである。
三成は八月四日までは大坂城にいたが、五日には佐和山に戻っていた。

この書状には信濃の、小諸・深志・川中島・諏訪の地を、
真田氏が占領してもよいこと、伏見城での戦闘の詳細、丹後の田辺城の戦いが決着し、
城主の細川幽斎は高野山へ向ったことが記され、
最後に、以下の西軍の計画が記されている。

この計画の部分を現代語におきかえてみると、
「自分(三成)は、岐阜へ行き、織田秀信と打ち合わせをし、秀信は兵を出すことになった。
福島正則に対しては、なお、説得中である。説得できたら西軍は三河に進出する。
正則を説得できなかったら、西軍の美濃口(方面)の軍と、
伊勢口の軍が合同して事に当たる」としている。

279 :226:2005/05/21(土) 07:44:58
さらにこの書状には、八月はじめ現在の、
西軍参加者とその兵数が記された「備之人数書」が添付された。
各方面ごとにその人数をまとめると、

伊勢口(中国・四国衆が中心) 79860

美濃口(三成・秀信・行長など) 25700

北国口(若狭・丹後の衆) 30100

瀬田橋(中小領主多数) 6910

大坂城(秀頼家臣など) 42400

合計184970という大兵力である。
この「備之人数書」は伏見落城後に数日で書かれたものと考えられる。
全軍の兵数を掌握し、参加大名をまとめて各方面軍を編成する。
この緻密な作業に三成の性格が表れている。
この表で、三成は上方には大軍が控えており、
家康に勝ち目はないと真田に伝えたかったのだろう。

…はてさて。

280 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 07:59:49
>>270
前日に既に西軍が篭る松尾山を攻めて武力で制圧していますが。

281 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 10:34:51
福島正則を説得しようと無駄な努力をした三成が、西軍の敗因。

282 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 11:48:58
>>267 
>>268
勝ち戦で検使や目付が戦死するという事例を聞いたことがないが、どうよ?
「関ヶ原だけは唯一の例外」と主張したいのか?

それに小早川家の今後を考えれば、検使を死なせたのは大失態だ。
しかも奥平家は徳川家と姻戚関係にあり、ただの一武将ではない。

283 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 14:48:58
>282
奥平藤兵衛は自分から前線に出て行って討死した訳だしなぁ。
それに徳川家との姻戚関係といっても、藤兵衛自身はずっと秀吉に仕えていたようだから、
そこまで重きを置かれる武将じゃないだろう。

284 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 17:15:45
>>282
唯一の例外どころか、
勝ち戦のさなかに総大将が戦死した事例もあるぞ。

どのような立場のものであれ、前線に出たなら常に戦死の可能性はある。

285 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 17:25:12
>>284
総大将が討ち取られた合戦は負け戦と言うんじゃないのか?

286 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 17:28:02
>>285
トラファルガーの海戦を知らんのか

287 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 17:29:49
京極の裏切り篭城がなければ西軍が勝利してたと思う

288 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 17:35:58
>>285
グスタフ・アドルフとかも知らない?
まあ、アレの場合は国王の突然の戦死で勝敗はあやふやになってしまったが、
優勢な情勢の時に最重要人物が戦死することですら、
稀ではあってもありえないことではありません。

289 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 17:57:16
http://blogs.yahoo.co.jp/oldcoin2005

290 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 18:47:11
三増峠合戦で浅利信種が戦死したが、武田が負けたとは言わない
大坂夏の陣では目付どころか本多忠朝が戦死したが、負け戦とは言わない
島原の乱で幕府軍監の板倉重昌が戦死したが、負け戦とは言わない

291 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 19:03:26
age厨が無知な反論でわかりやすすぎw


292 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 19:03:52
軍艦も目付けも総大将じゃあるまい
グスタフ2世軍はその後和平し撤退している
ただ先にバレンシュタインが気づかずに撤退してるから
その戦いだけを見れば勝ちと言えるね
名前は失念したがその時のグスタフ2世の宰相が優秀だったのかな
というかここ日本史版ですよ!

293 :日本@名無史さん:2005/05/21(土) 22:18:59
>>286
>>288
外国の話を持ち出されても全然説得力ないんだが・・・。
本当に日本では事例がないのかよ。

>>290
この3つで検使・目付は板倉だけなんだが、まあそれはともかく。

三増峠合戦って確か、北条軍の追撃→浅利の戦死→北条軍の油断
→武田軍新手の反撃→北条軍の敗北 という流れじゃなかったか?

大坂の陣では、忠朝の戦死→忠朝隊の敗走、が東軍を混乱させたはず。

島原の乱の板倉の戦死は城攻めで、完全な攻撃失敗。

いずれも局地戦では敗退しているよな。
やはり奥平の戦死は小早川軍の局地的敗退によって発生したと考えるのが自然じゃないか?

294 :日本史@名無しさん:2005/05/21(土) 23:27:24
>281

まあ半分同意。

福島を説得するという政治であって、他の武将に見せるためのポーズとしても
重要だからね。
三成自身が声を大にして裏切り者呼ばわりすれば、余計に他の連中も家康側
に追いやってしまう危険性もあったわけで。

やはり御当主様が幼少なのは痛い・・・。せめて成人していれば秀吉の後継者
として堂々と福島追討指令を出せば済むことなのにね。


295 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 00:15:09
>>294
秀頼が成人していた場合、福島に対する追討令は出せないと思う

296 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 00:26:15
その前に秀頼が成人してたら前田への嫌疑も上杉攻めもおこってない
例え家康が前田へ嫌疑をかけたとしても潔白を晴らすのは家康では
なく秀頼にということになる

297 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 02:45:20
>>275
十四日に大垣より家康公御上り歟と人を出し候二度目は人数通候葵の旗も通候歟下野守上り候由申候ひつる歟
下野にても候はんや三度目に人を出し候其者慥に家康公御上着と申候由日暮六ッ過に大垣外の小屋十計り焼亡
此時備前中納言殿小西摂津守石田治部少輔大垣を出て関ヶ原へ被参候由子細は筑前中納言殿謀反と風聞仕置
いたすべきとて被出候由

小早川秀秋が松尾山城の伊藤盛正を追い出した一件が、西軍にかなりの動揺を及ぼしたと思われます。

>>279の兵数ですが、どうも誇張という気してならないんですが・・・。
そこまで一気に動員できるものなのかと思ったり。まあ、乾坤一擲の大勝負仕掛けたので
参加する側としては出来うる限りの動員をするとは思いますけどね。

>>293
>やはり奥平の戦死は小早川軍の局地的敗退によって発生したと考えるのが自然じゃないか?
>>54はどう思いますか?奥平藤兵衛は自勢を率いて自ら戦ったのであって
小早川勢が敗退したとは別と読めますが。
小早川勢の先鋒であった平岡重定や稲葉正成が負傷した等ない事からも
奥平藤兵衛の討死が小早川勢の敗走と繋がるとは考えがたいですね。

また同じく伊丹兵庫や村越兵庫も家康の西上に付き従ってますので
彼らは徳川家の目付としてまとまって行動してたと思われますが、如何でしょうか?

秀頼が成人してたなら、家康が伏見や西の丸で単独で政務を取るのは不可能でしょう。
秀頼交えての大老や奉行衆による合議制が維持されてたでしょうね。

298 :226:2005/05/22(日) 09:42:35
>>297
まず、>>257-261>>279の数字が違うんですが、
元の書状を僕が確認してないもので…。確認が必要です。

この書状は石田三成が書いた事。
数字を見ると、必ずしも三人役ではない事が面白いかなと。

257を見ると、例えば小早川秀秋は八千ですし、
(279の方でも八千と書いてあるのでこれは間違いなさそうです)
島津は五千。長宗我部盛近二千。
二木氏の表で島津忠恒を見ると56万石で一人役以下。
二人役位の人も結構います。
外川氏の表には禄高と禄高から百石あたりの軍役も書いてあるのですが、
日本戦史関原役の禄高や、二木氏の表の禄高とも少し違います。

島津義弘の兵数のように誇張もあり、(島津義弘の当時の兵数は書くには少なすぎるかも)
書いていない人もいますが、実情や予定に近い部分もあるかもしれません。
石田三成の書状を読んだり、
性格や状況を考慮して判断すべきでしょうか。

299 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 10:05:00
小西行長は十四万五千二百石だから、二人役だな。

300 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 10:08:24
石田三成は親兄弟合わせて二十二万四千石だから三人役

301 :226:2005/05/22(日) 10:18:54
西軍 関ヶ原本体の兵数(日本戦史関原役)

石田三成 5820
織田信高 ー
伊東盛正 900
岸田忠氏 300
豊臣氏家臣 凡1000
島津惟新 凡800
島津豊久 858
小西行長 6000
宇喜多秀家 17200
川尻直次 300
糟谷武則 360
大谷吉継 1500
木下頼継 750
平塚為広 360
戸田重政 300
脇坂安治 990
小川祐忠 2100
朽木元綱 600
赤座直保 600
小早川秀秋 15675
毛利秀元 凡16000
長宗我部盛近 6660
長束正家 1500
安国寺恵瓊 1800

計82373

302 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 10:19:07
織田秀信は十三万五千石なので、四人役。
少しきつい軍役だな。

303 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 11:41:25
>>283
あのねえ、勝ち戦で総大将が戦死なんてのは恐ろしく極端な例なのですよ?

で、局地的に負けたとしてもいずれの例も最終的には勝っている。
勝ち戦と言っても全ての局面、全ての局地戦で常に有利なんてことは稀なこと、
普通そのくらいのことは分かっていて、だからこそ、
全体的には勝ち戦の中でも指揮官の一人が死んでも別におかしくないと言っているわけ。
いずれにしろ、ただ一人の戦死を持って全体の有利不利をとくのはナンセンスだよ。

304 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 14:17:20
>>303
前後の文章が支離滅裂で意味不明
大谷と小早川の局地戦では一時的に不利だったが全体的に見ると
徳川有利で結果勝利していると言いたいのかな?
大まかな経緯や結果は「それこそ普通わかっていて」、局地戦の確証の
ない部分を皆が話していたんだろ

305 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 18:41:59
>>303
言いたいことはこういう感じか?

大量得点差で負けている試合で、九回表に登板したリリーフ投手が、
相手クリーンナップを剛速球で三者連続三球三振に打ち取ったようなもの。

306 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 21:06:03
>>298
>必ずしも三人役ではない事が面白いかなと。
そうですね、これはかなり面白いと思いまいました。
小早川秀秋の8千は、35万石とすると2人役を超える程度、52万石とすると2人役にも達しない程低くなる。
再封されて間もなく、遠方だという事を考慮しても、秀秋の石高は52万石より35万石ではないかと思えたりする数字ですね。

島津の数字ですが、島津は薩摩に義弘・大隈に義久と、島津家は検地後に義久と義弘が入れ替えられて
薩摩は28万3500石、大隈は17万5000石、義久が非協力的だったのを含め、義弘だけで動いたと考えれば
2人役足らずで妥当な数字かと思われます。

九州勢は立花宗茂や鍋島勝茂がほぼ3人役、小西行長が与力と分けてるのが分からないのですが
(もしかしたら与力大名という意味で畿内周辺の1万石以下の豊臣系の家臣の事かも知れません)、
小西行長自体で考えると2人役どころか、1.5人役という、島津も含め、慶長役の影響ではと思える低さですね。

長宗我部盛親の数字は、なんともいえませんね。
長宗我部氏の所領が、9万石や実質22万石など様々ありますので。
自分は一条氏の御所体制が豊臣政権下でも継続していたのを考えておりますので、長宗我部氏の所領は
土佐内で9万石しか認められてなかったのでは?と考えます。
それを踏まえると2000人だと2人役超ですので、妥当な数字と考えますが、いかがでしょうか?

307 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 22:09:39
>>297
検使の戦死など大したことではない、というのは納得できないな。

検使・目付が手勢を率いて戦った例としては豊後戸次川合戦があるが、
あの戦いでは目付仙石秀久が島津軍に無謀な攻撃をしかけて敗走したことが原因で、
四国勢は大敗したんじゃなかったか?

それから、あの時代の合戦で、一軍に3人も目付がついて(普通は1人)、
しかもまとまって行動するなんて聞いたことがない。何かの間違いじゃないの?

あと、目付が仮に3人いたとして、3人が3人とも討ち死にするのは、かなりの非常事態じゃないかと思うのだが、どうよ?

308 :日本史@名無しさん:2005/05/22(日) 22:14:57
まあ誰も経験したことのない大兵の激突だからね。
戦術も糞もない消耗戦でひしめき合ったからなんでも起こりえたとは思うよ。

309 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 22:22:39
>>306
熊本県史によれば、加藤は十九万六千石、小西は十四万五千二百石。


310 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 22:37:24
>>304
大谷隊対小早川隊の戦いの中で、
部分的に大谷側の方が有利になった場面があってもおかしくないってこと。
その場で小早川軍の指揮官の一人が討ち死にしてもね。
しかし、それだけで数倍の敵に二方向から攻められているものが有利に戦い、
何時間も持ちこたえるとは到底思えないと。

311 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 23:22:23
将が討ち取られるというのは、そう簡単に起こることではないし、
そんなに軽い出来事ではないよ。

大谷勢に派手に押し返されたのならともかく、そんな事実はないと
言い切るような戦況下で、討ち死になどすると本気で思うのか?


312 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 23:41:49
>>310
仰ることはごもっとも
ただそれを何故他のレスではなく>>283なの?
まぁ関係ないからいいんだけど突然とんでもないとこに噛み付いた気が
したからさ…
小早川勢へ脇坂・小川ら4将が当たっていれば(藤堂京極勢へでもよいが)
いい勝負したと思わなくもないけどね。その日はジリ貧だろうが誰かが
言っていたように1日持てば戦況はどうなるか


313 :日本@名無史さん:2005/05/22(日) 23:55:30
>312
たぶん>283じゃなくて>284なんだと思う。じゃないと話が全くかみ合わない。

314 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 00:27:58
>>307
だから貴方は>>54をどう読んだのかお聞かせ願えますか?
思えないばかりで、奥平等が小早川勢を率いたのを事実として語ってるように思えますが。
小早川勢と奥平勢は別物として考えられませんか?
戸次川合戦の例えは、ここの話には全く合わないですしね。

奥平等が目付として小早川勢の近くに居たのは間違いないですが、
小早川勢を率いたのでもないのですよ?
繰り返します、>>54をしっかり読んで下さい。

>>309
確か太閤検地で肥後は34万1000石でしたので、そちらの数字の方が信憑性高いように思われます。
52万石は寛永検地ですしね。出来れば熊本県史が参照にした史料を是非知りたいです。


315 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 01:18:53
小早川のことが、詳しく載っているよ
ttp://www.sewayaki.jp/ken39/yasu/rekichi/rekichi16.html

316 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 02:46:21
>>314
なんでもかんでも否定しすぎだろ
貴方の論法で確証が取れないものは全て否定では江戸期以前の歴史は
殆ど何もわからないということになってしまう
わからないと言うことを何をそんなに必死で力説する必要があるというのか
貴方の小早川勢はそんなに弱くないと言う妄想も十分伝わったからいい加減
やめてくれ

317 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 08:08:33
>>312
>>303>>293宛てでした。
失礼しました。

318 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 18:56:56
>>316
否定しすぎ?あのですね、>>54はどう読めるか聞いてるのですが。
貴方は自身の都合が悪い事は、あえて読まないのですかね?

卜斎記では奥平等は「西向」からかかったと書いてあります。
これ以前の記述で黒田や福島、田中、藤堂、京極等も「西向」からかかったと書かれてます。
これは奥平等の所在が小早川勢に帯同していたのではなく、大谷勢等の東側に位置していたと示すものです。
奥平藤兵衛が目付なのは間違いがないですが、だから小早川勢に帯同していたとはならないというのですよ。

自分は弱い強いのはなしをしてるのではなく、史料で示してある事実を書いてるのですが
小早川勢が弱いという結論ありきの貴方にとっては、受け入れがたいのかも知れませんけどね。
それとも大成の方が真実を書いているというのでしょうか?

ちなみに始末記では
古田織部正猪子内匠舟越五郎右衛門佐久間久右衛門同源吉等も敵陣へ馳入攻戦ふ小坂助六郎安孫子善十郎
稲垣一左衛門兼松又四郎坪内喜太郎等も高名す伊丹兵庫村越兵庫河村助左衛門奥平藤兵衛等敵陣にかけ入討死す
本多中務少輔は中筋より敵陣へかけ入る其男出雲守は高名する所に筑前中納言勢俄に北向に備を立直し平岡石見守
稲葉佐渡守を先手として大谷刑部少輔父子戸田武蔵守平塚因幡守等か陣へ志し討てかヽる・・・

軍記物の変化が見て取れますね。最初は奥平等は小早川勢と別でしたが、いつのまにか小早川勢の先手になり、
そして小早川勢が大谷勢に敗走したと変わります。
たった一つの史料(しかも軍記を)盲信せずに、多々ある史料を見て考慮すべきものなのですが
>>316に言わせると、なんでも否定するなという意味不明な反論になるのです。

319 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 19:37:56
>>318
だからさ貴方はト斎記からはそこまでの記述はありませんと一々当たり前
のことを書き込みしているだけでしょ?
ト斎記で記述がないから何なの?という話
そんな当たり前の書き込みするんじゃなくて、なら貴方は奥田がどういう
位置づけでどういう行動をしていたのかを書けばいいのではと言いたい
んだよ

320 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 19:39:25
ちょっと文章変になってるが言いたいことはわかるからいいよね?

321 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 20:11:39
>>319
いえ、卜斎記では奥平に関して明確な記述があるでしょう?
「西向にかかりたる」から、奥平等が居た位置は大谷勢の東側、小早川勢は南側なので場所が違うのが明白です。
そして小早川勢等が大谷勢の「後陣」に襲い掛かる前に、討死しています。

これらが意味するのは、奥平等が小早川勢の先陣にいたのではなく、独自で行動をしていたと言う事と
小早川の陣中にいなかったのがわかるのです。
なのに、貴方は「やはり奥平の戦死は小早川軍の局地的敗退によって発生したと考えるのが自然」と
>>293で主張してるのですよ。

ですから自分は、奥平と小早川は別物と切り離して考えるべきと書いてるではありませんか。
その為の卜斎記の記述であり、始末記と大成の比較をしたのです。
ご理解頂けましたか?


322 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 20:16:58
だから戦に勝ってようが負けてようが
鉄砲の流れ玉に当たって武将の一人や二人死ぬ事はありうるだろう。

そういう常識的な事を頑として認めようとせず、
「武将が死ぬって大変な事なんだよ」
と最初から結論ありきな反論をして小早川が負けたという事
を言いたがるのがどうかと思うんだよ。

323 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 20:24:12
>>312
あんまり意味のない仮定と思われ。
脇坂なんて最初から徳川に寝返るぞと連絡入れてたくらいで、
事実上の東軍と同じ。
実際、小早川に追随した寝返った四家のうち唯一、加増を受けたくらいだ。

ちなみに脇坂家では、そういった事情から
「関ヶ原では我が家は裏切ったわけではない」と
いう事になっているそうな。

324 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 21:19:38
322は鉄砲の仕組みがわかっていないようです。

恥さらしだね。

325 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 21:55:10
流れ玉でも流れ矢でもどうでも良いだろ。

326 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 22:09:50
江戸幕府の大名家の中で裏切り者でないのは徳川譜代を除くと
島津、立花、上杉、佐竹くらい

327 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 22:34:12
>>321
検使役ではあったが連携は全く取っていなかったということ?
それとも検使役ですらなかったということ?
>>293は私じゃないのでお間違えなく
ただ局地的な敗退の中で奥平が討死したと考えるのが自然と
言うのには賛成
ト斎記は戦線が広すぎて一々記せないがと前置きし流れを無視
してそれぞれの行動を簡潔に記しているだけだろう
貴方がト斎記から明白と言い切るくらい読み取ることに無理が
あると思うよ
ト斎記だけを丸ごと鵜呑みにするなら、貴方は小早川勢と4将は
当初からぐるりと迂回して後陣から攻め寄せたと考えているわけ?

328 :日本@名無史さん:2005/05/23(月) 23:32:02
>>321
>ですから自分は、奥平と小早川は別物と切り離して考えるべきと書いてるではありませんか。

うそつけ。>>54でこう断言していたじゃないか。

>小早川勢にいた奥平藤兵衛とわかるのです。
>すると卜斎記には明らかに書いてあると理解できるのです。

いくらなんでも、ちょっといい加減すぎないか?

329 :328:2005/05/23(月) 23:37:52
やべえ。間違えた。

>>54でなくて>>67だよ。すまん。

330 :金吾秀秋:2005/05/24(火) 02:04:57
まったくいい加減なやつらだぜ(´・ω・`)

331 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 02:31:22
>>327
>ト斎記は戦線が広すぎて一々記せないがと前置きし流れを無視
>してそれぞれの行動を簡潔に記しているだけだろう
大谷刑部少輔・備前中納言・平塚因幡・戸田内記備の口へ西向にかかりたる人もあり
口々の事なれは中々一々記得す伊丹兵庫・村越兵庫・河村助左衛門・奥平籐兵衛乗込突落され・・・

確かに口々とは、備の口ですが、前置きを無視してというのが理解できません。
何をどうやって前置きを無視してとなるのですか?ご説明ください。
しかも、この後に藤堂玄蕃の話が続いてるではないですか?
四人の宗兵衛が必死に戦い、切り崩し、思い思いに・・・と続いてます。
これで奥平等は藤堂勢付近にいたと読めますが?

>貴方は小早川勢と4将は当初からぐるりと迂回して後陣から攻め寄せた
迂回とは?卜斎記では大谷等の備の口とは、東軍に向かっての布陣ですので、
後陣という表現は迂回して云々という捉え方は出来ませんよ。
この場合は、備えてない方向を後陣と表現しただけですね。


332 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 02:31:53
>>328
何か勘違いしてますね。前後の流れを読まれましたか?
卜斎記だけでは、奥平藤兵衛が何者なのかわからないので、他の史料を読めば
奥平藤兵衛がどういう存在かがわかると書いてるのですが。

奥平藤兵衛貞治が、目付なのは間違いないとは思いますが、小早川秀秋だけかは断定できませんし、
また、小早川の陣にいたのかとなると、それは否定できますね。
そして小早川勢が敗走した事によって討死したとなると、それは全く関係ない言い切れますよ。
明らかに小早川勢などが大谷勢に討入る前に、討死してますから。

「局地的な敗退の中で奥平が討死」と「奥平の戦死は小早川軍の局地的敗退によって発生したと考えるのが自然」
は全然ちがいますけどね。

どう小早川勢が敗走した事にしたくて揚げ足とろうとしてるようにしか見えませんけど、
結論ありき的な発想ですのでしょうがないですけどね。

しかし、似たような反論してくる人多いですね。


333 :226:2005/05/24(火) 06:08:24
>>299-300 >>302 >>309
詳しい禄高のレスをどうもありがとうございます。

>>306
島津義弘はそう見ると二人役なのですね。

文禄・慶長の役に出陣した九州の大名は、
その負担の影響がかなりあったのではないかと思います。
(小早川秀秋に関しては、慶長の役に出陣しましたが………)

長宗我部盛親の二千は二人役だと思います。
しかし兵数について
「長宗我部盛親の軍勢を五千名としたのは、
島津義弘が国元にあてた書状を参考にした」
と外川氏が書いています。
外川氏の表で長宗我部盛親の禄高を見ると10万石となっています。
島津義弘は書状に何と書いたのか…。


>>315
ありがとうございます。
御井郡+198530.139(代官 石田三成)+186077.350(代官 浅野長政)=384607.489。
これを見ると、小早川秀秋の領地はおよそ四十万石と言い切ってもいいのでは。
八千は二人役。三人役なら一万二千。
筑後の新たな二郡(御原郡、御井郡)は小早川秀包の旧領ですね。
御原御井五万五千石と書いている人がいますがどうなのか…。
これは隆景が亡くなったので、
毛利輝元領国内の隆景の領地(六万六千石)を調整した結果かな。
六万六千石の行方が気になります。

334 :226:2005/05/24(火) 06:46:20
慶長三年豊臣家蔵入目録 筑前 186007とあるのですが、
では石田三成の方はどうなったのでしょうか?
これも行方が気になります。
関ヶ原には関係ありませんが…。

小早川秀秋の慶長二年十二月の帰国命令ですが、四日に出ているようです。
毛利秀元にも書いていて、こちらは大体内容がわかるのですが、秀秋のは分かりません。
叱責するような内容ではないような気がしますが…。

翌年の書状に、誰かの注進により蔚山の毛利が軽率な行動として秀吉の耳に入ったが、
その後の注進で褒めているから気遣いはいらない(増田長盛→安国寺恵瓊)とか、
恵瓊の注進で秀吉の機嫌もよくなり大慶とか、当方も気遣いは大かたではないとか、
秀吉の機嫌が非常に悪くなったが、増田長盛の注進で
秀吉も褒めているから安心しろ(毛利輝元→秀元)などあります。

335 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 06:52:24
軍役が科せられるのは総石高ではないのでは?
免除される分を引かないと。

336 :226:2005/05/24(火) 07:00:39
>>334日本語訂正。
誰かの注進により、蔚山の毛利軍に軽率な行動があったと秀吉の耳に入ったが、

………。<(_ _)>

337 :日本@名無史さん:2005/05/24(火) 23:13:18
>>67
>一つの史料で全てが分かる訳はありません。しかし藤堂玄蕃や奥平藤兵衛を調べれば
>これが藤堂勢にいた藤堂玄蕃、小早川勢にいた奥平藤兵衛とわかるのです。
>すると卜斎記には明らかに書いてあると理解できるのです。おわかりですか?
>>332
>奥平藤兵衛貞治が、目付なのは間違いないとは思いますが、小早川秀秋だけかは断定できませんし、
>また、小早川の陣にいたのかとなると、それは否定できますね。

これが↓に繋がるわけか…

>卜斎記だけでは、奥平藤兵衛が何者なのかわからないので、他の史料を読めば
>奥平藤兵衛がどういう存在かがわかると書いてるのですが

……はてさて

338 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 01:13:53
>>337
そうですが何か?
自分が奥平藤兵衛が小早川勢にいたとわかると書いていれば、貴方の指摘は正しいですけどね。

しかし色々大変そうですね。

339 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 02:16:05
>>338
へ?
小早川勢にいた奥平藤兵衛とわかるのです。
↑書いてますね

340 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 10:12:25
奥平の戦死は

「小早川勢が裏切って西軍を攻撃した」

という既成事実を作るための無理から来たのではないのか?

341 :226:2005/05/25(水) 16:53:16
豊臣政権末期と徳川政権初期の国高

畿内
    豊臣  徳川
山城 225262 216070
大和 448945 444130
摂津 356069 290900
河内 242105 308850
和泉 141512 138700

東海道
伊賀 100000 95900
伊勢 567105 572700
志摩 17854 17800
尾張 571737 520000
三河 290715 350000
遠江 251160 280000
駿河 150000 172000
伊豆 69832 72000
甲斐 227616 240000
相模 194304 194000
武蔵 667126 840000
安房 45045 92000
上総 378892 378000
下総 393255 393000
常陸 530008 753000

342 :226:2005/05/25(水) 17:02:54
東山道
近江 775379 832100
美濃 540000 581500
飛騨 38000 38700
信濃 408358 547000
上野 496377 468000
下野 374083 464000
陸奥 1672806 1729000
出羽 318095 870000

北陸道
若狭 85000 85090
越前 499411 682600
加賀 355570 442500
能登 210000 216800
越中 380298 530630
越後 390770 456000
佐渡 17030 25090

343 :226:2005/05/25(水) 17:15:07
山陰道
丹波 263887 280570
丹後 110784 123170
但馬 114235 123900
因幡 88500 131600
伯耆 100947 175030
出雲 186650 223400
隠岐 4980 11800
石見 111770 137300

山陽道
播磨 358534 521030
美作 186018 227700
備前 223762 286200
備中 176929 227800
備後 186150 238830
周防 167820 164400
安芸 194150 259300
長門 130660 134050

344 :226:2005/05/25(水) 17:25:42
南海道
紀伊 243550 395200
淡路 62104 63600
阿波 183500 186700
讃岐 126200 171800
伊予 366200 381600
土佐 98002 202600

西海道
筑前 335695 522500
筑後 265998 302080
豊前 140000 321600
豊後 418313 378500
肥前 309935 561400
肥後 341220 572900
日向 120088 288500
薩摩 283482 315000
大隈 175057 170800

壱岐 ー
琉球 ー

345 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 17:40:33
>>339
ん?ですから、

>>64
>我々は奥平貞治が徳川家臣で小早川軍に派遣されていたということや、
>藤堂玄蕃が藤堂家家臣であることを知っているが、「卜斎記」には何も書かれていない。
に対して
>>67
>そうですよ、だから他の史料を見て藤堂玄蕃とは?奥平藤兵衛とは?と調べるのです。
と断ってから、書いてますよ。

それを一文だけを抜粋し、貴方が勝手に、自分が奥平藤兵衛が小早川勢に帯同していたと書いてると
いうことにしたいようにしか見えませんけどね。

>>340
これは、大谷吉継の美化・小早川秀秋を貶める為の脚色と考えられます。

346 :226:2005/05/25(水) 17:57:44
>>333訂正

御井郡+198530.139(代官 石田三成)+186077.350(代官 浅野長政)=384607.489+御井郡(小早川秀秋禄高)
(毛利領国内小早川隆景領地6.6万石=?)

………。orz

347 :226:2005/05/25(水) 18:56:57
223762(備前)+186018(美作)=409780

…はてさて。

348 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 19:08:16
>>347
備中と播磨の領地が抜けている

349 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 19:22:06
>>333
小西は領地の他に、天草を支配している。六人の土豪がいて
四万二千三百石。これを二人役か三人役で追加すると四千人
程度になる。
恰土西半郡は寺沢の唐津領に編入されている。薩摩の豊臣直轄領を
貰っていたのだが、飛び地で不便なので近くに交換を願い出ていた
ため。薩摩の旧寺沢領は、朝鮮征伐の戦功で、島津に与えられた。
また同じように肥前の一万石ほども、宗氏に戦功として与えられた。
だから小早川秀秋が名島へ復帰しても、三万石ほどが減ってしまう。

350 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 19:42:15
>>345
奥平貞治は何にも関係がないけど徳川とは離れて布陣していたということか?

それで何ら理由もなく単独で突撃して戦死した?

脚色?
ということは史実ではないということか?
小早川が裏切ると貶めることになるのか?

351 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 19:45:35
雑兵はたくさん死ぬだろうが、名のある将はそうは死なないだろ

井伊・松平あるいは敗走しまくっている福島麾下で、死んだ武将は誰か?

あるいは東軍の誰でも構わないが

352 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 19:46:29
バカは何言っても理解できない典型だなw

353 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 19:57:32
>>345
正直、貴方がどう考えていようが関係ないので嘘を指摘だけして
去るつもりだったが1回だけ釣られてあげますね

>それを一文だけを抜粋し、貴方が勝手に、自分が奥平藤兵衛が小早川勢に帯同していたと書いてると
>いうことにしたいようにしか見えませんけどね。

以下の内容は貴方が書いたことです

>そうですよ、だから他の史料を見て藤堂玄蕃とは?奥平藤兵衛とは?と調べるのです。
>一つの史料で全てが分かる訳はありません。しかし藤堂玄蕃や奥平藤兵衛を調べれば
>これが藤堂勢にいた藤堂玄蕃、小早川勢にいた奥平藤兵衛とわかるのです。
>すると卜斎記には明らかに書いてあると理解できるのです。おわかりですか?

一文だけを引こうが全文引こうが書いてる者は書いてる
書いてるようにしたいんじゃなくて書いてる おわかり?

貴方にはシナか半島の血が色濃く流れているようなので、
ここまで確認出来ていても反論来るだろうけど面倒なんで
もう相手しないから引き続きオナニーを続けて下さい


354 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 20:05:13
↑あんたさ、くやしくて罵倒したいだけだろ?
つか、何度も同じ人につっかかっては罵倒して消えてくねw

355 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 20:07:37
オレか?
オレは違うが?

356 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 20:14:37
日本の合戦で、戦いの最中に総大将が戦死して、戦いに勝った例はあるか?

357 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 20:17:08
「板坂卜斎記」だけじゃ奥平が何者かわからないから他の資料を読んで理解しろって意味だろ?
>>64>>67と見りゃわかるじゃん
そりゃ67も書き方悪いとは思うが、あんたのやり方も陰湿でウザイよ
それに秀秋のトコにいたと書いてると問い詰めて、何がしたいの?
なにか結論出るの?

345じゃないが、重箱の隅つつくのに必死になって攻撃しかできんおまえさん消えてくれよマジで


358 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 20:25:58
>>357>>353へだ

議論を普通にするならいいが、自分が受け入れられないと消防みたいに人の罵倒目的で
反論始めるバカは消えろ
マジでウゼェ

359 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 20:35:29
>>358
コロコロとその時々に合わせて解釈を自分の都合のいいように
変える>>345とどのように議論しろと?

360 :日本@名無史さん:2005/05/25(水) 20:45:02
解釈を自分の都合のいいように変えるのは>>359も一緒だっつーの
345も書き方は悪いとは思うぞ、だけど意図を説明してるじゃねーか
なのにおまえさんは自分の解釈にこだわって
その意図説明すら受け付けてねーじゃねーか

345は書き方が悪いから、意図と違うとられ方されるよーな紛らわしい書き方ですいませんと詫びればいい
だが詫びたとして、おまいさんは何か関ヶ原の話題に関連する結論出るのか?

361 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 00:49:04
>>353
>我々は奥平貞治が徳川家臣で小早川軍に派遣されていたということや、
>藤堂玄蕃が藤堂家家臣であることを知っているが、「卜斎記」には何も書かれていない。
に対して
>>67
>そうですよ、だから他の史料を見て藤堂玄蕃とは?奥平藤兵衛とは?と調べるのです。
>一つの史料で全てが分かる訳はありません。しかし藤堂玄蕃や奥平藤兵衛を調べれば
>これが藤堂勢にいた藤堂玄蕃、小早川勢にいた奥平藤兵衛とわかるのです。
>すると卜斎記には明らかに書いてあると理解できるのです。おわかりですか?
ですね。

>>360の指摘通り、確かに紛らわしくので書き加えますと

そうですよ、だから他の史料を見て藤堂玄蕃とは?奥平藤兵衛とは?と調べるのです。
一つの史料で全てが分かる訳はありません。しかし藤堂玄蕃や奥平藤兵衛を調べれば
これが藤堂勢にいた(とされてる)藤堂玄蕃、小早川勢にいた(とされてる)奥平藤兵衛とわかるのです。
すると卜斎記には明らかに書いてあると理解できるのです。おわかりですか?

語弊を招き、申し訳ないです。



362 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:23:56
>>350-351
>奥平貞治は何にも関係がないけど徳川とは離れて布陣していたということか?
申し訳ないが、質問の意味がわかりません。布陣というほど率いていたのかさえ疑問ですが。

>それで何ら理由もなく単独で突撃して戦死した?
単独ではなく討死した他の名前もありますし、突撃とも書かれてませんけど・・・。

>史実ではないということか?
そうです、小早川勢の先陣にいた、率いた等は脚色と見るべきでしょう。

>小早川が裏切ると貶めることになるのか?
裏切る行為が儒学思想では許されざる行為なのでしょう。ましてや小早川秀秋は豊臣の連枝衆であり
大谷吉継や石田三成、宇喜多秀家等から比較され、より一層、彼の行為が目立ちます。

そして以前に書いたように、大谷の美化と小早川への非難の為、小早川勢の大谷勢への攻撃の前に
討死した奥平藤兵衛を小早川勢の先陣を率いたとし、彼の討死を小早川勢の敗北と見なさせ、
大谷勢の美化としたと考えるのです。
でなければ江戸初期には、始末記にも見られるように小早川勢の攻撃前に藤兵衛が討死してるのに
大成で小早川勢の先鋒と変わっている理由がわかりません。
特に大谷勢には義や恩という言葉を用いてますしね。

>井伊・松平あるいは敗走しまくっている福島麾下で、死んだ武将は誰か?
>あるいは東軍の誰でも構わないが
将が討死したというなら、藤堂玄蕃でしょうか?奥平等が「将」かどうかすら疑問ですけどね。

363 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:55:05
>>360
64が奥平が小早川勢にいたことを後世の我々は知っているがト斎記には記述が
ない と書き込んでいるのに対し→67で他の史料(当日記や大成等か)と合わせて
読めば小早川勢にいたとわかる
と書いたかと思えば
当日記の記載例をあげ大谷勢らの奮戦へのレスへは→ト斎記にはそんな記載は
ないし他の史料(当日記)は所詮軍記物扱いでいつの間にか言ってること逆転
と他にも沢山あるからですよ
そしてしまいには>>340へのレスで
 
>これは、大谷吉継の美化・小早川秀秋を貶める為の脚色と考えられます。

関ヶ原に墓まである奥平という人物とその戦死を消し去ろうとしている

1,2度いい加減なことを行って嵐のように去っていくのならスルーもするが、
この板に常に張り付いていい加減なことを並べ混乱させているためタチが悪い
と思い指摘したまでで、議論をしようとしたわけではない


364 :363:2005/05/26(木) 02:15:00
2Ch開いた時刻が重なって>>362のレスがついてなかったので
奥平の戦死まで消そうとしているとしてしまったが、362でそうでは
なく小早川陣にいたことを脚色と伝えたかったみたいですので
上のレスの一部は削除扱いして下さい

365 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 02:26:27
>>360

と、>>363
「67で他の史料と合わせて」書けば関ヶ原合戦当日記と関ヶ原軍記大成と決め付け。
奥平藤兵衛を知りたければ、作手奥平出身なので奥平家譜見ても良しなのですが、彼にとっては
かの二つをとなるのですよ、軍記を根拠にした事は一度もないのですけどね。
関ヶ原は軍記を頼らずとも調べられるのですが・・・。

>>340へ脚色と書けば、「奥平という人物とその戦死を消し去ろうとしている」と決め付けてます。
>>362以前に>>243すら読まないですしね。

如何に話にならないかお解かりですね。

当初からいい加減なことを行って嵐のように去っていき、スルーとか勝手にしろと言いつつも
この板に常に張り付いていい加減なことを並べ混乱させているためタチが悪いですね。
レッテル貼りするだけの輩はこんなもんです。

366 :226:2005/05/26(木) 06:11:16
>>348-349
レスありがとうございます。

…備中と播磨の小早川領について資料不足です。orz

関ヶ原論功行賞後秀秋新領地
備前223762+美作186018+備中?+播磨?=409780+?

肥後145200+天草42800=188000

188000×0.02=3760 188000×0.03=5640 188000×0.04=9400

>>257-261より
小西行長 2900 小西与力 4000 計6900
文禄・慶長の役 小西行長 7000人
小西行長は14、5万石の方がはまりやすいですね。
他に2900と6900のどちらの数字を重視するのかなど…。

文禄二年閏九月波多信時の肥前唐津城(石高未詳)を寺澤正成に興ふ
文禄四年四月二十六日島津忠辰の薩摩出水の地一萬石を以て
宗義智に加封し其連年の戦功を賞す…までは追えました。

>>315より
筑前い土西半郡17000?(?がついていたんですね)
肥前基薙郡7556.1620+養父半郡 4280.380=11836.562
17000?+11836.562(10000)=28836.562(27000)?

384607.489?−28836.562(27000)?=355770.927(357607.489)

…はてさて。

367 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 15:21:47
>>363
おまいさんは自分がこうと思ったら、それしかないとするタイプだな
そんなおまいさんに言えるのは、ひとまず落ち着いて人の書き込み嫁、罵倒を止めろ
このスレの最初からおまいさんは罵倒多かったからな
それだけだ、もうおまいさんにはそれ以上言う事はないよ




>>365は、363の罵倒はもう無視しろ
彼は聞く耳持つようなタイプじゃないとわかってるだろ
罵倒を返したら余計荒れるだけだ

368 :日本@名無史さん:2005/05/26(木) 23:59:16
>>367
>おまいさんは自分がこうと思ったら、それしかないとするタイプだな

それそっくりそのまま逆だろう
史料をここへ貼り付けてくれる労力は認めるが、その解釈は誤ってる
上、苦しくなってくると最初からそんな解釈はしていないと言う
色々なケースが考えられるような場合でも「こうだ」と断定
過去、数々の史家や小説家達が様々に記述をするのはそのようなケースも
考えられなくはないからなのに、ト斎記には記述なしの理由だけで全否定
議論にならなくしているのはそちらですからお間違いなく


369 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 01:48:07
>>367
そうですね、>>368見れば根拠もないのに「考えられなくはない」「記述なしの理由だけで全否定」
もう駄目ですね、話になりません。
大成の基の始末記にさえ、そのような記述ないから脚色だというのに、大成や当日記の記述に拘ってますからね。
解釈論は散々しましたが、こちらは内容を詳しく解説しても「こうとしか読めない」としか述べない。

数々の史家?小説家?何なのでしょうね、一体・・・意味がわかりませんね。
論理的説明なしで、意固地になってますな、どうしても小早川勢を敗走させたいのでしょうね。

そういえば「現在残っていない何らかの史料・談話を参考にして記述した可能性があるということ。 」
と似たような事書いてますね・・・。


370 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 01:53:58
ついでなので>>102の続き

  譜録 毛利筑後広定書出
 天野六郎左衛門元政
九月十五日、関ヶ原敗軍の時、総大将秀元より明日は諸勢陣を揚げ、打立つべしと觸れられけるに、十五日夜半より諸軍騒ぎ立て、
我も我もと陣を拂ひて退散す 是を見て忠三郎元倶に付き居りたる財満彦兵衛声を揚げ、毛利忠三郎是にあり 蓬も落退き玉ふ人々かな
踏み留られぬ方々は、忠三郎確に見届けたるぞと呼ばはりけれども、大勢聞きも入れず、思ひ思ひに落て行く 元政父子一手三千余騎は、
鶏籠ノ山のうねに備て有りしが、諸軍かく散々に落ち上るを見て秀元の本陣へ参じ、諸軍周章しき躰に見へ候 か様の時は弥々御陣を
堅められ、事のやうを能々御見はからひて有て、夜明て後御陣拂ひある然るべく候 我等御跡を押し候はんとて、十六日辰刻、秀元
打立ち玉ふを見て、後陣に備て殿して、其日は江州伊吹山の麓に陣を取る

一、嶋津兵庫頭殿より使者差越され候事
  佐々部一斎留書 益田家證文略文

此節境の津より嶋津兵庫殿西の丸え御使者進ぜられ候 弥々御籠城成され候や、御儀定仰せ聞けられ候はば、
其意を得べきの通りに候 其返事如何存ぜず候事

一、吉川広家、福原式部より、和談の事に付て又々申上げ候事
  吉川広家書案 益田家證文略文
爰元調の趣は右の分に候 はや餘日これ無き事候 申すに及ばず、一刻もはぐれ候へば、御無事の調成らざる仕合せ候つる故、
祖元伺ひ申し候事中々相成らず候間、右の分に先づ両人として相調へ申し候条、其元御無事何もかも両人そこつに作せられ候て
此節御家の御続き、千言万言肝心迄に候 口上申し分け候衆、早々下し候て申上げ度く候へ共、路次の程いかにも計られず
候て延引仕り候 今明日中一両人差下し、具に申上ぐべく候 其内御分別の為め有増書中を以て申上げ候

一、家康公え内通の面々、御備内え相加へられ候事
  佐々部一斎留書 蟷螂の書
此中諸大名衆、秀秋を初として、家康公へ内通申上ぐ方々は、家康公惣御人数の内へ相加はり候事

371 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 01:58:01
面白いのは関ヶ原後、島津義弘が大坂籠城を勧めてる事でしょうか?
しかしどう返事したのかはわからないようで・・・。

義弘が大坂をすぐに去っている事から、輝元は籠城を断ったか曖昧な返事したのでしょうかね。

372 :226:2005/05/27(金) 06:11:03
寺沢広高
…慶長元年、父広政の死によって肥前国唐津城で六万石を継承した。

慶長三年正月に朝鮮出兵で奮戦した功により
筑前国い土郡内で二万石が与えられた。

関ヶ原では大谷吉継の隊に当たり、
小早川秀秋と協力して、激戦の末これを破った。

慶長六年肥後国天草郡内で四万石を与えられ
十二万国を領するようになった…。


宗義智
…文禄二年薩摩国出水郡等で一万石を加増された。

文禄四年には薩摩の所領を肥前国内に移されている。

関ヶ原合戦後、西軍に属したとして家康から糾問されるが、
肥前の所領一万石の没収のみですんだ…。

>>366訂正
筑前い土西半郡17000?(20000)
肥前基雉郡7556.1620+養父半郡4280.380=11836.562(10000)
17000?(20000)+11836.562(10000)=28836.562(30000)?

小早川秀秋名島復帰後
384607.489?−28836.562(30000)?=355770.927(354607.489)?

…はてさて。

373 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 10:10:03
>>372
おまえ「…はてさて。」がうざい。

374 :226:2005/05/27(金) 12:19:56
じゃ、やめた。
バイバイ。

375 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 13:48:20
関ヶ原御合戦当日記とは何ぞや?
作者は?
成立したのは?

376 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 15:16:36
軍記物を論拠に議論はできんわな。
川中島合戦、今山合戦、姉川合戦なんかも軍記で語られてきたけど
否定されたのはここ10年ぐらいなんだよね。
もっとも川中島合戦は昔から信用できないといわれてたけど。

377 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 23:09:57
>>372の人は引用元を明らかにしてくれると嬉しいですね
暴言はく輩は放置しませう

378 :日本@名無史さん:2005/05/28(土) 13:46:48
野風でバカにされてるddikokiyu乙


379 :日本@名無史さん:2005/05/28(土) 14:41:04
>>345
>これは、大谷吉継の美化・小早川秀秋を貶める為の脚色と考えられます。

なんで強引な解釈を繰り返すのか不思議に思っていたが、そういう主張が背景にあるということは理解できた。
ただ、現段階では思いつき・思い込みにすぎない、と言われても仕方がないと思う。

そもそも、なぜ軍記の作者が縁もゆかりもない大谷をわざわざ美化する必要があるのか?
江戸時代においては、あくまでも大谷は反乱軍の一武将にすぎない。
大谷が絶賛されるようになったのは「名将言行録」などが書かれた幕末以降のことだ。

>>369
>もう駄目ですね、話になりません。

そう思うなら、もうやめたほうがいい。
オレとしては>>361で謝っていたから、これ以上間違いや矛盾を追及することはしない。
これ以上話を続けるなら、論拠となる新たな史料を提示してから行うべきだろう。
独自解釈をあくまでも貫きたいなら、論文でも発表して専門家の評価を受ければいい。

>>376
>軍記物を論拠に議論はできんわな。
>否定されたのはここ10年ぐらいなんだよね。

それは逆。
軍記といっても「信長公記」のように比較的良質とされるものから、
「武功夜話」のように偽書の疑いをかけられるものまでいろいろあるが、
軍記が史料として積極的に活用されるようになったのは最近のこと。
(各軍記が成立した環境を承知して慎重な扱いをすれば、という条件付きだが)

ただ、個別の合戦の内容などは歴史学者は関心がなかったので、
参謀本部「日本戦史」の解釈が通説としてまかり通っていた、ということはある。
関ヶ原にもそれは言えるんじゃないかな。

380 :日本@名無史さん:2005/05/28(土) 17:32:52
>>379
逆じゃないぞ。
軍記が史料として鵜呑みにされてきたからこそ、姉川しかり、今川しかり、川中島しかり。
それが今では、軍記の鵜呑みをやめてるから、姉川で徳川が朝倉を敗北させた、
龍造寺が大友を敗北させた、妻女山に上杉謙信が陣をひいたが否定されてる。


どっちにしろ軍記物を論拠に議論は出来ないのは当然。
それでも押し通すなら、あんたのいう新たな史料を提示してから行うべきだろう。
もっと信頼性の高いものをね。


つーか、日本戦史には関ケ原と姉川しかないと思われ。
あとさ、願わくば369と379はコテハンにしてほしい、または、いままでのレス番号書くとか。
特に379、あんたの今までのレスはどれよ?

381 :日本@名無史さん:2005/05/28(土) 20:23:11
>>380
>日本戦史には関ヶ原と姉川しかないと思われ。

非常に面白いから、君の今までのレスを全部書いてくれないか?

382 :日本@名無史さん:2005/05/28(土) 20:41:18
>>380
従来の歴史学が軍記を史料として鵜呑みにしていた事実はなく、むしろ排除されていた。
「太平記は史学に益なし」という言葉を知ってるか?

>それでも押し通すなら、

あのな、何も押し通していないんだけど?
「大谷奮戦の根拠は何?」と聞かれたから、これじゃないかと史料を提示した。
その史料について間違っている(と思える)解釈が出てきたので、そのことを指摘しただけだ。
で、貴方の主張したいことは何?

>願わくば369と379はコテハンにしてほしい、
>特に379、あんたの今までのレスはどれよ?

まず自分からやったらどうよ。

383 :日本@名無史さん:2005/05/28(土) 21:21:18
380 376 367 358 357 290 275 266 196 131 127 99 97 77
これだけかな?誰かの間違って入れてるも??77より前はワカンネ。
次は382あんたね、あと369も。

>「太平記は史学に益なし」という言葉を知ってるか?
だから例だしてるじゃん。軍記物や講談使われてて通説になってたのを。
他にもいっぱいあるよ。

桶狭間は小瀬甫庵の信長記
明智軍記での光秀領地没収
川中島五箇度合戦次第、
上杉将士書上の宇佐美定行と長尾政景とか
九州史は軍記のままの通説が今でもまかり通ってるじゃん。

384 :383:2005/05/28(土) 21:29:27
書き忘れ
主張したいことは、軍記物は論拠にならん。
人に別のを持って来い言う前に、あんたが持ってきなさい。

解釈は382のステロタイプみたいに読めない読めないくの繰り返しばかりより
369がきちんと説明して書いてるし納得いくね。


385 :226:2005/05/28(土) 23:15:33
ちょっと復活(多分ラスト)

寺沢志摩守広高は、関ヶ原戦役の功により肥後国天草郡を加増された。
しかしながら同時代の諸大名がそうであったように、
寺沢領の領知高は慶長期を通じて確定されていない。

慶長期における寺沢領々知高についての記載を
管見の限りで示すと次のようになるが、
関ヶ原役後の領知高は11万6〜7千石と12万3千石余の二種類に大別できる。

慶長三年 領知高 61637石 富岡文書
慶長十年 差出高 116000 国主・城主記
慶長十年 国絵図高 123129.042
慶長十二年 書上高 116975 御知行物成覚
慶長十五年 普請役高 123689.800 尾陽始君知
慶長十六年 普請役高 117000 禁裏御普請帳

そこでまず慶長十年の差出高をみると、国主・城主記は
「肥前唐津拾弐万三千石(注 内肥後天草四万石 慶長五年加増)
寺沢志摩守広高拾一万六千石余、慶長十年差出高」と記載している。

386 :226:2005/05/28(土) 23:39:56
この記事から慶長十年の御前帳(>>341-344徳川初期数字)
徴収に際して十一万六千石余が幕府に差出され、
おそらく元和三年に発給されたと考えられる朱印状で
十二万三千石余と表高の決定をみたのであろうと推測される。
その間他の諸大名と同じように寺沢氏もまた過酷な普請役を負担しなければならなかった。

慶長十五年名古屋城の普請に際して、
寺沢広忠は次のように負担役高を記載されている。

肥前 寺沢志摩守広忠
拾弐万三千六百八拾九石八斗 三割加て 本九万五千百四拾六石也

そして実際に請取られた「町場間数之坪数」は、
「町場四百七拾六坪弐分五厘 内一坪三分五厘過上」であった。
「高壱万石ニ付、町場割増三拾八坪壱分五厘宛」
で普請役高を計算してみると十二万四千四百八十二石余となり、
寺沢広忠は本高の三割増しの役高十二万三千六百八十九石八斗以上に精勤したことになる。

387 :226:2005/05/28(土) 23:49:32
なお前引の記事で、本高が九万五千百四十六石とされていることも
今後の検討を要するところであろう。
慶長三年正月十七日の年紀をもつ秀吉朱印状下書が
実効性をもったものかどうかは今後の検討を必要とするが、
仮に発給されたとしてその六万一千百三十七石に天草郡高が四万石ではなくて
それより過少に見積もられて加増されたことを想像せしめるものがある。

…はてさて。

388 :226:2005/05/29(日) 00:05:53
寺沢広高の父、寺沢越中守広正は、「日本国ノ木奉行」として
秀吉より特に「御目ヲカケ被召仕六人」の一人であったというが、
寺沢広高もまた九州「取次 」人として活躍している。

秀吉の側近として頭角をあらわし、
文禄元年の朝鮮の役では「名護屋旅館御作事衆」として名をあらわしているが、
後備衆として名護屋に駐在していた広高は、
文禄二年改易された波多氏の後を襲い、唐津藩主になったと考えられる。

その年次は必ずしも明らかではないけれども、
「慶長三年大名帳」によれば、その領知高は三万千三百石である。

389 :226:2005/05/29(日) 00:20:25
なお秀吉朱印状の下書きかと推測される史料によれば、
本高三万七千五百石に、慶長三年正月十七日、二万四千百三十七石
(内二万百十二石余は薩摩出水郡、四千二十四石余は肥後水俣)
を加増されたとしており、その間の異同は判然としない。

その後朝鮮の再役で戦功を挙げ、
慶長三年には筑前国い土郡のうちにおいて
二万石を加増されたという。(新訂寛政重修諸家譜)

前述の領知高六万一千六百三十七石と合わせて八万石余となったのであるが、
そのことは慶長四年改めの「豊臣秀吉公治世諸侯分限」の記事とも符合するところである。

…はてさて。

390 :226:2005/05/29(日) 00:32:14
天正十六年、佐々成政改易後の肥後を二分し、
加藤清正には肥後北部八郡に
島津の領国薩摩と接する肥後南端の葦北郡を加えた、
九郡十九万四千九百十六石が宛行われ、
小西行長には肥後南部四郡十四万六千石程が宛行われた…。

…はてさて。

391 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 01:18:44
>>379
強引な解釈ではありません、通常の解釈です。
貴方と違って結論あっての解釈ではありませんので。
卜斎記では記述なし、始末記でも記述がないのに大成で記載されてる事実から
こういう結論に至ったのですよ。

そして大谷の美化と小早川の卑下は、大成で十分に示されてます。
これは次回に大成の内容で挙げますね。
江戸期で「あくまでも大谷は反乱軍の一武将にすぎない。」とはなりません。
逸話集である落葉集を例に、これも次回に挙げましょう。

最後に・・・>>361で自分が謝罪したのは紛らわしい、語弊がある表現だったからです。
間違いや矛盾で謝罪したのではありません、それらが“あれば”貴方と違い答えてきましたしね。
解釈は自分は何度も詳細に同じ史料での例を挙げて説明しましたが、貴方は如何でしたでしょうかね?
それをやらない貴方が自身の根拠となるものを提示し説明するだけでしょう。
文法的解釈も、内容的解説もしながらです。
付け加えれば、専門家の評価は必要ないですしね、誰も当日記を根拠に
小早川勢が二度引いたとしていないからです。
大成で根拠にしてるなら、“まだ”理解は出来ますが、内容の信憑性でも十分否定できますしね。
では貴方が認められるよう頑張ってくださいね。

>>375
現在調べておりますが、全く不明です。
関原御合戦当日記という名称自体違うのかもしれません、藤井氏の抜粋のまま検証も成されてない模様。

392 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 01:46:24
>>380
9,16,22,26-27,29,37-38,41,52,54-55,65,67-68,78,94-95,101-103,109,129,143-145,159-160,176-177,179
183,185,193-194,218,227,233,236,239,241,243,245,274,297,306,314,318,321,332,338,345,361-362,365,369-371,391
はぁ・・・目が痛い。アンカー多すぎるとレス出来ないのを知りましたし。

しかし、こちらがレス番号示しても相手様は示すのでしょうか・・・。
似たようなレスで同じような反論しようとしてたのが何度もありましたしね・・・。


393 :金吾秀秋:2005/05/29(日) 06:44:40
ちゃんと見てるからね(´・ω・`)

394 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 14:16:10

>>383
>次は382あんたね

釣られてくれたから、オレも釣られてやろう。
379,307,187,186,182,169,166,157,139,111,93,64,63,50,30,23,20,10

>ステロタイプみたいに読めない読めないくの繰り返しばかりより

そんなことは言っていない。もう一度読み直せ。

>人に別のを持って来い言う前に、あんたが持ってきなさい。

上記レスをすべて読めば、先に史料を提示したのはこちらであって、
何度もはぐらかされて苛立っているのがわかっていただけると思う。
まあ、読み返してみると自分でも何だかなーって感じはするがな。反省はしているよ。

言いたかったのは、通説を否定したいなら、それなりに根拠を示す必要があるということ。
他人の発言を尊重せず、「史料解釈が強引ではないか」と言われてムキになってしまうようでは学問とは言えない。
だいたい、通説なんだから、オレに根拠を聞くな。自分で調べろ。

>>391
ごめん、何が言いたいのかさっぱりわからん。
とりあえず、こちらの意図が全く伝わっていないようで残念。

>では貴方が認められるよう頑張ってくださいね。

どういう意味だろう・・・?
もう、あまり気にしない方が精神衛生上よさそうだな。

395 :380:2005/05/29(日) 19:23:26
>>394
ステロタイプとしか見えんよ、391のよーな解説ないし
史料示して読めないよと言われたら、解釈が強引強引としか書いてないから
周りからアンタがおかしいと言われてるじゃん
あんたは解釈について説明をいつどうしたの?

つーか通説なんだから根拠聞くな、自分で調べろ?ハァ?
通説って秀秋が二回敗走したのが通説なの?
どこでそれが通説とわかるのかね?

他人の発言を尊重せずにと、他人の悪口や文句ばっか言って、
あんたはなんの説明もせずに、根拠聞くな、自分で調べろとはね
一番他人の発言尊重せずにムキになって、逃げまわってるのはあんただよ

こんなやつ相手にしても無駄だね、こいつこそスルーすべきだ

396 :380:2005/05/29(日) 19:30:13
>>392
レスの指定を付けてくれるとありがたかった


394はもう放置してくれ、こいつはただ嫌がらせしてるだけだ
答えのはぐらかしと、文句しか言わないだけ
どこいっても問題起してるよ、こういうのって

397 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 20:34:22
>368
>363
>359
>353
>339
>337
>328
>319
>316
>293
>283
>167
>154
>140
>135
>134
>108
>104

ddikokiyu乙w

398 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 22:32:15
>>395
自分で読んで解釈したらいいじゃん 
ここは学校じゃないんだから解説する必要ないだろ
ソース希望されてその人はそのソースは出している
当日記の内容を読んで大谷勢は何度か小早川勢を押し返していると
読み取ることが出来ない人や
ト斎記には書いてないよ?とト斎記に書いてないことは全否定
する人が一部にいるだけ

399 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 22:42:40
読めないとする解説はあった。
読めるとする解説はなかった。

ソースがソースになってないと言われたら、根拠聞くな自分で調べろ。

読み取ることが出来るいう人と、軍記物にしか書いてないのを全肯定する人が通説と逆ギレ。

解説する必要ないではなく、解説できないと受け取られてる。

これがスレの現状。

400 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 22:55:39
奥平某だが、小早川隊と離れていたということだが
何をしていたのか?
資料からは、何をしていたか不明と言うことか?

突撃せずに死亡したとすれば、大谷に攻めかけられて戦死したのか?
それとも資料には記されていないと言うことか?

401 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 23:18:04
オレが思うに一度、全てリセットして現存する史料を片っ端から読んで自分の頭で考えたらいいんじゃないかと。通説、定説っつー言葉にだまされて思考停止してる人なんかね。

402 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 23:41:03
>>398
激しく同意する。

403 :日本@名無史さん:2005/05/29(日) 23:44:08
東軍全体で、奥平某ともう一人ぐらいしか、死んだ名前が記録されていないのであれば
それはかなり異常な事態と言うべきだろ

それとも、極端に運が悪いというような事情が資料に明記されているのか?

404 :日本@名無史さん:2005/05/30(月) 00:06:28
西軍厨まだいるの?

405 :ddikokiyu:2005/05/30(月) 01:12:22
397の指摘した投稿の中にひとつだけ私の本当の投稿があります。
あとの全ては見当違いですよ。
397のヤフーのHNは書き込み時間、内容等から全て判明していますが、
397は私のことを何ひとつわかっていないようですね(爆)

406 :日本@名無史さん:2005/05/30(月) 02:07:13
よく2cHが、引き合いにだされます。よく覗いていますが、厳しい表現の応酬があっても、節々にオチが付いていて、途中からけっこう笑っています。
 この掲示板では、読後も笑えないことが多い。まじめで頭の固い参加者が多いせいかもしれません。ともかく異論反論があっても、表現は工夫したいものです。

397 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2005/05/29(日) 20:34:22
>368
>363
>359
>353
>339
>337
>328
>319
>316
>293
>283
>167
>154
>140
>135
>134
>108
>104

ddikokiyu乙w



407 :日本@名無史さん:2005/05/30(月) 02:50:33
>>405
じゃあだれか指摘しなよ。間違ってたら相手は激怒するだろうね。
キミが誰をさしているかは想像がつく。

408 :ddikokiyu ◆uBXeCfesdI :2005/05/30(月) 06:01:59
本人ですw

トリップつけないで投稿したりしませんよ

409 :日本@名無史さん:2005/05/30(月) 07:00:59
はてさての人は、検地の縄の緩急を計算に入れていないのが痛い。
天草で言えば、乱の起こる前には4万石とされていたが、乱後に再検地した時には2万石
強とされたことになっている。
これは、寺沢家の検地がよほど厳しかったか、乱後の再検地を行った者の検地がよほど
甘かったかというどちらかであると考えることができる。
また、島原の松倉家が5万石程度で10万石以上の軍役を勤めようと厳しく検地したことや
最上家改易後に山形へ入った鳥居家が厳しい検地を行って「左京縄」と言い伝えられてい
ることも記録に残っている。
「石高」と一口で言っても家格としての面、軍役の基準としての面、領主側の取り分を確保
するための面、実際の生産力の面で全てが個別に存在するので簡単に割り切れるもので
はない。と言うか物理的に無理。

410 :日本@名無史さん:2005/05/30(月) 07:30:45
>>409
はてさての人ではないが。天草は肥後の国人一揆に参加しなかったので
乱後も再検地されず、肥後の他の地域と比べて重い年貢のままだった。
島原の乱後、鈴木という代官の自殺もあって検地され、乱による荒廃も
考慮されて二万千石になった。

411 :日本@名無史さん:2005/05/30(月) 15:25:28
405ではやまったとさとり、408でトリップつけて別人に仕立て上げる。ヤフーではあらかじめ言い訳済。なかなか策士でつね!



412 :日本@名無史さん:2005/05/30(月) 16:12:27
検地の数字が絶対ではないが、一つの目安だろう


413 :日本@名無史さん:2005/05/30(月) 22:34:10
>>390=ddikokiyu
>>392=Toshy_SnowWolf
>>397>>394のレス=ssaba

だなw

414 :日本@名無史さん:2005/05/31(火) 12:17:54
>>392=Toshy_SnowWolf
違うよ(わら

415 :日本@名無史さん:2005/05/31(火) 21:36:48
ズバリ言われるわよ!

416 :日本@名無史さん:2005/05/31(火) 22:26:57
あらら、まだ通説と主張してる可哀相な人いるんですね。
ま、二度敗走したのが通説なんていう人は、いませんけどね。

当日記の解釈に対して、何ら理知的な反論もないので結果は一目瞭然ですので改めての説明はしません。
卜斎記に記述なし、軍記大成の大元である始末記にすら記述がない。
そんな程度のものを根拠にして、これが通説だからとは片腹痛いですがね。

>>396
ですから、アンカー(>>のこと)が一定数以上あるとレスできないのですよ。

>>400
わかり易いように、史料と内容提示しながら少しずつ小早川勢敗走の成り立ちを説明しようかと思います。

多々ある史料を読み比べて、その史料の成り立ちや書かれた背景などを考えるのも、史学の一つなんですけどね。
一部の方には、それが出来ないようですが。

大垣藩地方雑記

一番備、関ヶ原町西大関村境迄ニ
福島左衛門大夫 同刑部大輔 京極侍従 藤堂佐渡守 有馬玄蕃頭 山内土佐守 田中兵部少輔
以下四人御目付 伊丹兵庫頭 村越兵庫頭 河村助左衛門 奥平藤兵衛
二番備・・・

信憑性はあまりないが(なにせ大垣藩が纏めた蕃史の一つなので)、これに見られるように
多くの史料は、奥平藤兵衛は合戦当初は小早川勢に居なかったとしている。
では、なぜ小早川勢の目付になったのだろうか?
それは奥平家譜に答えはあります。

417 :日本@名無史さん:2005/05/31(火) 22:27:27
慶長五年九月関原の役、金吾中納言秀秋かねて内応せるにより、十四日其状をうかがはむがため、
伴五兵衛重盛とともに、秀秋が松尾山の陣にいたり、仰によりて貞治は彼の陣にとどまり、十五日の合戦に
秀秋裏切せんとすと雖も、大谷刑部少輔吉隆、平塚因幡守為広、戸田武蔵守重政等がためにへだてられて、
其事遅滞に及ぶ 時に藤堂佐渡守高虎が備より、松尾山にむかひて試に鉄砲を発す
此時にあたりて、大谷平塚等少しく怠りし体に見えしかば、秀秋が先手松野主馬某がもとに使をはせて、
速に大谷等が備に切入べしといふ
しかれどもかねてこの事を告げざるが故に、松野服さずして愈遅々に及ぶ これにより貞治、
秀秋が近臣とともに、松野主馬が陣にいたり、事すでに急なり、今に及びて秀秋の下知に背かれむは、
逆臣たるべしとて、もし違背せば討果さんとするの勢ひあり 松野これに属し、人数を渡し退き去る
よりて速に敵陣に切入といへども、大谷平塚等勇戦してこれを防ぐが故に、先手すでに破る
時に貞治ふみとどまり、奮戦して死す・・・

と奥平家譜では書かれております。なるほど、これでは小早川勢は敗走してると(回数まではないが。)いえますね。
次回は松野重元、そして始末記、軍記大成の記述を順次書いて見ますね。

>>413>>414
Toshy_SnowWolfとは何でしょうか?意味がわかりません。

418 :金吾秀秋:2005/06/01(水) 02:35:02
貞治の奮戦ぶりは、決して無駄にはしないぜ(´・ω・`)

419 :日本@名無史さん:2005/06/01(水) 12:33:02
>>417
ddikokiyu同様、Yahooの関ヶ原トピでカキコしている人です。

420 :日本@名無史さん:2005/06/01(水) 20:30:14
ddikokiyuが405で指摘したのがToshy_SnowWolf。
野風でその時間帯に書き込みしているのが、自分とその人物しかいないから。
ところが406-407で違うのではないかと思い、慌ててトリップつけて別人になりすました。

421 :日本@名無史さん:2005/06/01(水) 23:25:02
>>416
>多々ある史料を読み比べて、その史料の成り立ちや書かれた背景などを考えるのも、史学の一つなんですけどね。
>一部の方には、それが出来ないようですが

自分のことなのに他人事みたいに言うな!w

422 :日本@名無史さん:2005/06/01(水) 23:33:09
>>419
今見てきたが三戦板並に酷い
ここも荒らされて酷いが
思うにここに居座ってる>>416>>417がそのddikokiyuでFA

423 :日本@名無史さん:2005/06/01(水) 23:56:35
と論破されたssabaが荒らしています

424 :日本@名無史さん:2005/06/02(木) 01:35:06
そんなのどうだっていい うざいから出張者は消えて下さいね

425 :ddikokiyu ◆uBXeCfesdI :2005/06/02(木) 06:13:19
>>424
yahooのID出して粘着しているのはタダの荒らしだから、
自力アボーンしてスルーされるがよろし。

>>420
どうみてもあなたが>>405にしかみえないのですがw

426 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 10:39:26
皆さんはじめまして。若干スレ違いになるかもしれませんが、十年来の疑問を聞いてください。

高校の頃、大垣城の歴史として日本史教師から聞いた話です(大垣市の高校に通ってました)。
 「石田三成の刀は、関ヶ原後、誰の所有物となるか揉めたが、結局本拠地となった
 大垣城が預かる事となった。昭和に入って城は歴史資料館として一般公開され、
 展示品の目玉として三成の刀が飾ってあったが、防犯や警備をほとんどしていなかったため、
 あろうことか頭のいかれたキチガイが持ち出してしまった。警察がキチガイを追いつめたが、
 テンパったキチガイが刀を振り回したお陰で刀はポッキリ。国宝級の名刀が一瞬でガラクタ同然に
 なってしまいましたとさ。」

この話の真偽を確かめたいのです。ネットで調べても、キチガイ絡みの事件のせいか、
どこにも載っていません。大垣の役場や資料館で尋ねた方が良いのかもしれませんが、
なかなか機会が無く現在に至ってます。どうか詳しい方、教えてくださいませ。

427 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 20:34:35
保存方法として抜き身のまま柄も外して保管する気がするけど
柄や鞘も一緒に持ち出したのかな?

428 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 22:49:45
ここでどう議論しようが、大谷は最初から勝ち目はないことは分かっていたはず。

429 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 22:56:33
ここでどう議論しようが、大谷は最初から勝ち目はないことは分かっていたはず。

430 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 23:30:59
それこそ作り話じゃん

431 :日本@名無史さん:2005/06/03(金) 23:54:52
>430
くわしく

432 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 02:27:35
皆が嫌う通説で大谷が勝ち目がないと言ったのは、三成が総大将になった
場合だろう
そこで他に総大将となってくれる家康の対抗馬を探そうと言うことになった
それがどこまで信憑性があるかは別として大谷が勝ち目がないことを悟って
いたとするならばそれが元と思われる



433 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 02:37:26
近年明るみにでた松尾新城の籠城可能性についての一考察

うちの大学の台湾ハゲの伊藤教授が明らかにしたところでは小早川勢二万は、松尾新城で半年の籠城もできたらしい。

434 :金吾秀秋:2005/06/05(日) 05:33:00
できたんだぜ(´・ω・`)

435 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 13:22:43
>>434
おい、金吾
おまいさん二万も率いていたのか?

436 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 19:09:15
四捨五入すればおk

437 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 20:29:56
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050605-00000001-kyt-l25

石田三成記念カキコ

イケぇー左近!


438 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 20:34:50
関ヶ原に住んでますが何か?

439 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 21:03:51
佐和山に住んでますが何か?

440 :日本@名無史さん:2005/06/05(日) 22:03:10
伏見城に住んでますが何か?

441 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 01:10:17
竹島に住んでますが何か?

442 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 01:27:48
>>426
結城秀康

443 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 02:01:33
>>441
チョン

444 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 03:04:14
石田三成の居城を本格調査 10年計画
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050605-00000001-kyt-l25


445 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 04:02:06
>>444
どうも東日流外三郡誌が天井にあるようです。
あとお宝も。

446 :日本@名無史さん:2005/06/06(月) 20:25:03
ウロオボエだが、津軽藩の「開かずの秘仏」というのを
明治になって開けてみたら石田三成だったという話を聞いたような、、、、、
案外に隠れた人気があったのかの知れない、石田三成は
あるいは、世間に知られないような別の側面を持っていたのかもしれない


447 :日本史@名無しさん:2005/06/10(金) 20:48:17
それはむしろ血縁

448 :日本@名無史さん:2005/06/11(土) 02:54:08
大浦為信の長男信建の烏帽子親は石田三成、
石田三成の三男(次男だったかも)は関ヶ原の後
信建によって弘前藩にかくまわれ、杉山源吾と名を変えて
弘前藩の家老を務めたらしい

449 :日本@名無史さん:2005/06/11(土) 23:50:46
>>426
三成の愛刀は石田正宗といって現存する。
ガラクタどころか重要文化財。東京国立博物館蔵。
三成が佐和山に引退するときに結城秀康に送ったもので、
棟に2箇所、地に3ヵ所の切り込み痕があり、合戦時に付けられた傷とされる。
そのため、「切り込み正宗」とも呼ばれる。

ttp://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/story.html
ttp://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/A-MASA.htm

模造刀の画像
ttp://www.n-p-s.net/masamunetati.htm

450 :金吾秀秋:2005/06/12(日) 05:53:25
本当は、漏れ様に送りたかったに違いない(´・ω・`)

451 :日本@名無史さん:2005/06/12(日) 07:58:34
手紙の中に仕込んでか?

452 :394:2005/06/12(日) 08:10:48
>>416
何で回数にこだわるのか(松尾山まで一連の敗走劇とすれば回数にあまり意味はない)、
どう一目瞭然なんだか、さっぱりわからないが、とりあえず、手元にある関ヶ原関連書籍から、いくつか紹介しておくことにする。
いずれも日本史を専攻している学者が執筆しているものだ。あとはこれらの先生に手紙でも書くことだな。

1 中公新書「関ヶ原合戦」(二木謙一著)

そこで「関ヶ原御合戦当日記」「関原軍記大成」 等の記述から、
その激戦のさまをうかがってみよう。まずは、大谷隊と小早川隊との壮絶な死闘から始まった。
吉継は、始めから秀秋の裏切りを警戒していたので、この変事に遭遇しても、驚きの色をみせなかった。
あらかじめ指示を与えておいた六百余の精鋭の士が、襲いくる小早川の前衛部隊を迎え撃った。
ことに平塚為広・戸田重政の率いる部隊の勇戦ぶりはめざましく、小早川隊を五百メートルほども退かせ、たちまちのうちに三百七十余人を討ち取った。
秀秋の検使である奥平藤兵衛も討たれ、小早川勢の多くは再び松尾山に逃げ帰った。
だが、そこへ藤堂高虎・京極高知らの兵が横合いから大谷隊に突入すると、大谷隊の攻勢も止まった。

2 新人物往来社「大谷刑部のすべて」(諏訪勝則「慶長五年九月十五日の大谷刑部」)

秀秋の背反を予期していた大谷隊は動揺することもなく、小早川隊に備えていた600余の兵が小早川隊の先鋒を迎撃した。
大谷隊と行動をともにした平塚為広・戸田重政は前方の敵を捨てて側面に回り、小早川隊を蹴散らし、敵軍を500メートルほど後退させた。
平塚・戸田隊の活躍により、小早川隊は370人ほどが討ち取られた。
この時、秀秋への検使である家康の家臣奥平藤兵衛貞治も敗死している。
小早川勢の多くは再び松尾山に戻った。
まだ、この時点では西軍に勝利の可能性が残っていたものと思われる。

3 歴史読本1997年7月号「闘将 大谷刑部」(宮本義己「関ヶ原合戦」)

彼の与力の脇坂安治・朽木元綱や小川祐忠・赤座直保といった面々も、やはり東軍に寝返って吉継勢を急襲したため、秀秋の大軍を二度までも押し返していた屈強の大谷隊も、遂に壊滅した。

453 :394:2005/06/12(日) 08:11:34
>>416
>軍記大成の大元である始末記にすら記述がない。

あれほど言ったのに、まだ「軍記大成」読んでないのかよ・・・。
軍記大成の序文を見れば、「軍記大成の著者が始末記の合戦記事を改変して
儒学思想で大谷吉継を美化した」なんて説(>>194)は出てこないはず。
なぜならば、始末記の著者(酒井忠勝)は、軍記大成の著者(宮川尚古)の主君だから。
あくまでも「軍記大成」は、始末記の「正説」を踏襲し、
その簡に過ぎるのを補うべく諸書を集成したもの、というスタンスで編纂されている。
史料を読まずに思い込みだけでその史料を批判しようとするから、こうなる。

>多々ある史料を読み比べて、その史料の成り立ちや書かれた背景などを考える

この言葉はそっくりそのまま貴方にお返しする。
つーか、揚げ足取りと脳内史実披露はもういい。うんざりだ。

454 :日本@名無史さん:2005/06/12(日) 09:22:56
>>452
> いずれも日本史を専攻している学者が執筆しているものだ。

2ちゃん的に突っ込むと、「他人の権威に頼るのか!?」
いや、漏れも他スレでそうまぜっかえされたもので。(w

455 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 00:36:07
>>454
>>416は452や他の人が一般的には>>452にあるような解釈が通説だと言っても
そんな通説聞いたことないとか言うから仕方なく出したんだろ


456 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 03:15:38
>>455
そんな世間の一般常識がここで通用するかよ。
何書いたって叩かれる時は叩かれると言う中学生の虐めみたいなのがここの売りではないか。

457 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 08:29:32
しかし、通説かそうでないかなんて話、どうすんだ
一般と研究者で認識違うこともあるし
外部の論文の貼りあいになって不毛じゃないか

458 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 13:48:09
関が原の戦いは、本当に序盤は西軍が優勢だったのだろうか?

459 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 18:09:06
酒井忠勝は関ヶ原始末記の著者ではない
幕府に編集を命じられたんだよ
著者は林羅山などの複数名いますがw



460 :日本史@名無しさん:2005/06/13(月) 23:02:40
地形的には余程の兵隊個々の能力差がない限り西軍に有利なのは確かだけどね

461 :日本@名無史さん:2005/06/14(火) 08:19:00
>>458
陣地に籠もっているだけだから、善戦しているというレベルで、西軍が
押しているわけではないので、優勢という表現は妥当ではないと思う。

462 :日本@名無史さん:2005/06/14(火) 09:11:16
>>449
ありがとうございます。
う〜ん、高校の教師の話はやっぱりハッタリだったのかなぁ…?
その教師、すぐに授業が脇道に逸れるのだが、どの話もマユツバで
胡散臭かったw それゆえに楽しい授業であったのだが。

懐かしくなって、教師の名前でググって見たら、どうやら去年
鬼籍に入られていたようで… ちょっとショック。
ご冥福をお祈りします。

463 :日本@名無史さん:2005/06/14(火) 22:38:49
前半は西軍が僅かに優勢だったが、東軍には家康本隊が控えている
しかも、西軍主力は疲弊していた
つまり、野球に例えたら・・・
5回が終わって巨人4−5阪神で、阪神が僅かにリード
しかし、巨人はエースと強打者が控えに残っているが阪神は全選手が疲弊している状態
だから、西軍の優勢は一時的なもので逆転するのは時間の問題だった

464 :日本@名無史さん:2005/06/14(火) 22:43:59
本人は気の利いた例えだと思ってるんだろうな・・・

465 :日本@名無史さん:2005/06/14(火) 23:16:33
>>426 調べ物するのにネットだけに頼るなよ・・・・

466 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 02:25:54
>>463
5回が関ヶ原戦で言う何時ごろに当たるのかわからんが、疲弊していた
のは西軍だけじゃないだろ
時間次第では徳川本隊にいた一部と毛利押さえの有馬、山内も参戦してたぞ

それから毛利や小早川、小川らの去就がはっきりしない限り又は家康の参戦が
決定打になることが明らかな場合以外参戦することはないだろ

467 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 02:59:59
毛利の去就がはっきりしたから押さえの予備戦力が投入され、さらに西軍が圧倒されたと
小早川なぞは関ヶ原で戦う前から東軍に寝返る気で、寝返るのが遅かっただけ〜
数で圧倒され続けた西軍が、より疲弊していたのは言うまでもない

468 :日本史@名無しさん:2005/06/15(水) 07:04:28
家康本隊はいわば最後のとっておきで、毛利への押さえ、退路の確保など、また寄せ集めの
旗本でもありそんな簡単にとうにゅうできる部隊ではなかった。

という常識を持ち出す時点で(ry

469 ::2005/06/15(水) 08:42:44
>>467 家老の平岡某がいなければ.西軍優勢とみた秀秋は東軍に襲いかかっ
ただろう。だから.最後の最後まで帰趨は読めなかった。

470 :426:2005/06/15(水) 11:34:08
>>465
えぇ、そりゃ別の刀と言う可能性もありますしね。
機会があったら大垣市役所等に尋ねてみるつもりですわ。

471 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 11:53:25
西軍優勢と見たとか襲い掛かっただろうとか
西軍厨の願望まるだしw

472 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 18:38:52
>>463
東軍が巨人で
西軍が楽天だった。
それだけのことだよ。



473 :日本@名無史さん:2005/06/15(水) 23:59:02
>>469
よほどの大馬鹿でない限り、
主力のほとんどが既に戦闘中の軍を攻めるのと、
総大将率いる3万の予備戦力が手付かずで残っている軍を攻めるのを比べれば、
前者の方が安全で有利だということくらい分かると思うぞ。

まあ、秀秋がよほどの大馬鹿ではないという保証はどこにもないが。

474 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 00:15:48
リスクで比較すると、徳川家康で纏まっている東軍と、総大将が毛利
のバカ殿で、石田三成が権力を握っている西軍と、どちらが安定した
政権を築けるか考えると、誰でも東軍に付くぞ。

475 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 00:25:48
だから人質をとったり関所を封鎖して無理やり西軍に引き入れないと、
頭数が揃わなかったわけだ。

476 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 00:36:44
>>471
ここはそういうこと(西軍が勝てた可能性とか)を話すスレでもあるだろ
藻前はここで何を話したいんじゃ?

477 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 00:40:38
>>472
その楽天が巨人に勝つ方法を模索してるのだろ?

478 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 00:43:33
石田は頭はいいが石頭

わ〜い

479 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 00:46:48
スレタイ見ても、日本史板の主旨からも
個人の願望を書くスレには見えんが、俺の気のせいだろうか?




480 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 00:49:38
まあ、はっきりいって論理も糞もないんだけどな
論理を突き詰めていってその結果として結論が出るんならともかく
関ヶ原スレの西軍厨は自分の願望がまずあって、その願望を空想の世界で実現させるために
史実から自分の都合のいい部分だけを抜き出して、それをもって”論理”とする

初めにまず、家康嫌い、家康に天下取らせたくない、西軍に勝たせたかった、っていう願望ありきで
ではどうしたら→そうだ、秀秋が裏切らなかったら・・・ となり
その理由付けのための屁理屈を並べてるだけ

実際、反論されたらきちんと返さず
すぐに感情的になる人ばっかりじゃん
どうしようもないよ

481 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 00:55:10
まあ裏切らなければ勝ちはほぼ決まりだからなあ。
もしくは毛利と吉川が最初から突っ込めばね。

482 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 01:03:11
南宮山の連中が動くのであれば、家康は関ヶ原まで出て来ない

つか裏切ったのをタラレバで西軍有利にして勝たせたきゃ
家康以外の東軍が西軍に裏切ったらにしとけ
絶対勝てるだろw

483 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 01:12:59
>>482
違う。

少しのIFで西軍が勝てたのを証明し、家康とは紙一重の差で負けてしまった、ツキがなかった、
三成マンセーワショーイと言いたいだけ。
でもIFなんで証明しようもなく勢いと思い入れで勝負。

484 :;:2005/06/16(木) 13:30:19
吉川広家が巧妙に毛利秀元を南宮山から降ろさなかったのが毛利が動かなか
った真相だろう。全軍突撃とならば.安国寺や長曾我部なんかも連れて動き
東軍も大混乱に陥っていたに違いない。

485 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 13:35:11
実は西軍VS東軍ではなく、

宇喜田・石田・小西・大谷VS全国大名だからね。
だまされた宇喜田はともかく、
実質、石田・大谷によるクーデターに近い。
まあ、よくやったよ。天下も見えていただろうし。
やはり三成はひとかどの人物であった。


486 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 13:36:26
>>482
毛利が動かないのも、小早川が裏切るのも確証はなかったんだけど。
西軍にも通じていた東軍があったように、
西軍にも通じていた東軍がいないわけじゃないし。どっちにも兵を送っているものの方が多いしね。
そして太閤恩顧の将は三成が嫌いだから、という理由でしかない。

あと一番勝ち目があるようにするには、三成が東軍に裏切ることだといっておこうw

487 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 17:32:21
毛利秀元は動く気ない
大坂で籠城主張したのもデマ
こんなの常識、毛利調べりゃすぐに答え出る

でも家康がそれを確信持ってしってたかは別だが

488 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 17:33:39
ちなみに秀秋が裏切ったのは関ヶ原じゃないし
それ以前から裏切ってるし、伏見城攻略の詫び状がいい例だ

489 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 17:40:05
それは別に裏切っているわけではないんだけど。

490 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 17:56:12
その後は三成の指示に従わず、伊勢行きも拒否して挙句に松尾山城占拠
それまでに家臣2人を家康に人質として送るわ、黒田から家臣送り込まれるわ
裏切ってるじゃん

つか西軍でも秀秋が裏切ってるとしてるじゃん
ま、西軍が疑心暗鬼で内部崩壊寸前だったのは三成自身が暴露してるがw


491 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 18:47:40
なんで三成の指示に従わねばならんのかわかりません。
三成は西軍の総大将だったわけじゃないですし。

492 :日本史@名無しさん:2005/06/16(木) 20:10:03
まあそんな格などでごじゃごじゃ言ってたのが西群の敗因なわけだが。
たしかに三成は戦術面での柔軟性が足りなかったのは確かだが、戦略面では
実践不足と思えない的確な絵を描いているし、ケツのアナの小さい連中によって
ぎくしゃくしなければなあ・・・。

島津だって結局酷い目にあったわけだし、勝つと負けるではおおきな違い。
つうか家康に対して過大評価があったんだろうね。本気で勝つ気があったのが
三成らだけだったとは、とほほのほw

493 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 20:48:20
よく考えてみると
吉川広家は西軍副将宇喜多秀家とは兄弟の関係になり

毛利秀元は東軍総大将徳川家康より知行を受けた恩顧の将
広家よりも秀元の方が東軍に内応してしかるべきな気もするが・・

>>487秀元は戦う気は無かったろうけど、安易に家康を信じず
条件闘争で篭城の構えを見せようとは考えていたんじゃないの?

494 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 21:42:12
>>485
なんだか枢軸vs連合といいながら実質2国vsイパーイだった二次大戦みたいだ

495 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 22:19:46
>>493
吉川⇔黒田父子
   ↑
   対立
   ↓
安国寺⇔石田

毛利家の豊臣政権に対する取次役の構造

秀元は籠城の構え見せてない
関ヶ原から撤退するときに、福原に家康に挨拶しとこか?と聞いたほどだから
大坂で毛利家の中で籠城しようと言い出した連中、皆無
つか秀元がいつ家康から知行受けたの?


496 :日本@名無史さん:2005/06/16(木) 23:34:40
>>490
確かに秀秋は以前から東軍として行動していたと言えるが、
それでも結局最後の最後で迷ったという点も事実だからね。

497 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 00:15:35
>>496
その迷った理由は、人それぞれの捉え方があるから言及はしないが
西軍を裏切ってたのは事実だからね


498 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 00:27:10
西軍の敗因は西軍を結成して戦いを挑んだこと。
負けないためには戦うべきではなかった。

499 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 00:39:53
既に東軍として行動していた秀秋が土壇場でどちらにつくか迷ったということは、
つまり、東軍から西軍に寝返ろうかと心が動いたということ。
当然何らかの西軍につきたくなるような理由があったということだろう、
この点はむしろある程度西軍を評価していい点だったと思う。
言うまでもなく結果が伴わなければ歴史的には何の意味もないが、
まあ、過程について「よく頑張った」と評価してもいいだろう。
逆に言えばそれ以上の意味は全くないわけだが。

500 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 00:48:36
西軍の将として伏見城攻めしときながら、東軍に内通してるとはいえ
西軍に対して直接的な軍事行動とるのを躊躇ったのかもしれない

また、内通はしたが毛利のように最後まで介入せずに傍観する腹積もりだったのかもしれない

従来言われてるような、西軍か東軍かで迷ったのかもしれない

こればっかりは、秀秋の心中であってわからない

501 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 02:06:49
>>487
毛利の何を調べたん?
毛利は総大将であり吉川が貰った分の再配分を申し出なければ領地没収だった
それでも吉川はその後毛利家で肩身の狭い思いをしている

西軍が勝っていれば東軍参加となっている大名も西軍への裏切りは
当初からの予定だったとする大名が沢山出るだろうに、東軍厨って
一方向からしか見れない奴多すぎ

502 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 02:16:52
>>500
当初は西軍へ付く予定だったが遠く上杉攻めへ出立したはずの大名の
殆どが家康に付き取って返したことが秀秋の予想と違った可能性もあるね

503 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 02:25:04
上杉が伊達最上への押さえを残し秀康へ攻撃をしかけていれば…


504 :金吾秀秋:2005/06/17(金) 02:33:16
予想では、松尾山城に入った時点で家康も三成も、この漏れ様に降伏する
はずだったがな(´・ω・`)


505 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 07:01:45
>>500
小早川秀秋は当初東軍側、あるいは伏見城側だったと言うべきだろう。
伏見城の主将が秀秋の兄だったのだから。
秀秋としては兄貴が危ないので助けに行こうと伏見に駆けつけたところ
既に兄貴は敵前逃亡した後であり、残されて、突然の急変にパニックに
陥っていた鳥居元忠に追い返され、去就に迷ったのだおろう。

506 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 08:19:15
そういう状況で(すぐに)的確な判断が出来る奴が名将なんだろね。

507 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 17:28:44
>>501
毛利家文書でわかるが?
ていうか、487に対するレスにしては何を主点に言いたいのかわからん
領地没収だった、で?それは大坂退城後の話
吉川が肩身狭い思いした、うん、それで?大坂籠城に何か関係あんの?

西軍が勝ってれば←負けた
西軍への裏切りも←西軍から東軍に寝返って勝負を決定付けたのが事実

東軍への調略は行われたろうが、実際に行動起したのは皆無
西軍へ調略行われ、京極や秀秋は合戦前から寝返ってる
西軍厨はアホすぎるな


508 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 17:38:29
関が原って結局西軍が勝つと日本ぼろぼろになっちゃうよね。寄り合いの豊臣政権じゃ外国の植民地化がいいとこだろう。
あれでよかったんだよ。みもふたもないけど。


509 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 18:12:46
>>505
伏見城救援はどうかと思われ
秀秋は伏見攻めの総大将なんだし

ただ、筑前に戻された恩もあるから家康と敵対する気はなかったように思われ
状況に流されやすい御仁という印象を受けるね

510 :ミユ ◆MIYU/7A.SM :2005/06/17(金) 18:29:15
http://blog.livedoor.jp/miyumiyu38/archives/21766551.html
http://blog.livedoor.jp/miyumiyu38

511 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 19:40:37
>>500
直接的な軍事行動なんて前日に松尾山を占領する時に既に行っていますが。

512 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 20:14:18
当時の五大老五奉行は、前田利家没後は

前田家=家康暗殺計画の濡れ衣に屈して藩主利長の実母・芳春院を人質に送り
     事実上臣従
宇喜多家=家中騒動の際に家康が仲裁判決の労をとり、秀家に相対した側の
     重臣たちを保護したりしている。
毛利家=藩主輝元は家康と兄弟の契りを交わし、で>>495
    当初輝元の養子後継者だった秀元は、輝元に子が誕生した際
    最初秀吉から「毛利の知行の半分秀元に渡せやゴルラァ−」
    の判決を受けながら、秀吉の急死で知行なしの状態になった。
     そんな秀元の知行を決めろと強引に輝元に採決を強要し
    長門を秀元の知行とすべしと決定したのが家康。
浅野家=前田家の家康暗殺に連座し、事実上臣従
石田三成=武断派の三成襲撃の責を取って隠居謹慎
前田玄以=さっさと家康に臣従
長束&増田=家康に右顧左眄している状態

北政所=さっさと家康に大阪城西の丸を明渡し協力的態度をみせた。
淀殿=家康と情事関係にもなったといわれ、愛人大野治長の身柄を
   条件に東軍支持

唯一手付かずなのが大老・上杉家だったわけで・・ 

   


513 :日本@名無史さん:2005/06/17(金) 22:20:08
西軍が勝つとしたら
大津に立花ら押さえの兵を残し、幽斎攻めの兵ともども残余を関が原へ移動。
大垣城を出るべきかどうかは、ひとまず置いて、史実どうりに布陣したとする。
開戦。戦況一進一退つづけるも石田方、小早川へ参戦要請の鉄砲うちかけを行う。小早川松尾山を下り、福島勢の側面を襲う。大谷らもこれに従う。たちまち東軍先鋒が混乱し、最右翼で石田を攻めていた黒田らにまでこの混乱が及ぶ。
一方、この光景を見た毛利、長曽我部らもようやく南宮山から池田、山内ら東軍後衛を衝く。これらは狭い街道沿いに布陣しているので横合いの攻撃に弱い。伊勢街道方面は空けておく。
小早川参戦で浮き足立つ東軍は、この攻撃でさらに浮き足立ち、池田ら潰走。
毛利勢そのまま家康主力めがけて殺到。前後から攻撃を受けた東軍は、動揺止まらず統制が取れない状態に。東軍将兵ら各個に離脱し、家康自刃。
また逆に、毛利が参戦したのを見た小早川が、東軍攻撃することもある。
その他のオプション
黒田と仲直りして如水に相談する。淀君を口説いて秀頼の馬印を立てる。朝廷を説得して錦の御旗を立てる。


514 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 01:46:44
>>513
逆に押さえは大田ら中小名に任せ立花や毛利元康が関ヶ原に布陣しただけで全く
違った結果が待っていた可能性はあるな
それ以上に上杉が秀康と戦端を開くだけで西軍勝利だった気がするが

515 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 01:58:13
一つ違えば関ヶ原で決戦になったかどうかぐらいわかってるだろ

516 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 01:59:24
>>508
豊臣政権が続いても、なんぼ頑張っても100年もたたずに戦乱の世にもどるだろうけど、
幕藩体制は糞だから、100年たらずで戦乱の時代に戻った方がいい。
どうせ江戸時代は、中期以降は停滞してて、150年は日本を遅らせたからね。

517 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 07:34:26
>>514
秀康と政宗と最上の3者を相手に、戦線を維持するのは無理だろう。
「関ヶ原の西軍は必敗だった」というのと同レベルの妄言。

518 :;:2005/06/18(土) 11:14:43
>>517 上杉が立てば.常陸の佐竹が立った。両軍あわせれば.秀康を一掃.江戸
も風前のともし火。上杉は不毛の新領(会津)に固執する必要がなかったはず
なのにおかしい。そうすれば.上総.下総.安房.あたりは佐竹に譲っても.旧領
の越後.上野.下野.伊達.最上の旧領あたりを領する大大名になったであろう。

519 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 17:50:38
いや、関東を守備する徳川勢は総勢で2〜3万はいただろうし、
それだけの人数にがっちり守りを固められたら
簡単に打ち破れるものではないよ。
そもそも上杉は長谷堂で小勢相手にかなり手こずったでしょ。
それをゆうに上回る兵力が関東には存在するわけでな。

だいたい上杉は関ヶ原が一日で決着するなんて思ってなかったわけで、
だからこその山形侵攻なわけで。
上方でゴタゴタやってるうちに、後顧の憂いを片付け、
悠然と関東に侵攻するっていう作戦は、別におかしくない。というか普通そうする。


520 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 18:51:09
あの時点で西軍は必敗、負けないと言い張ってるのは西軍厨だけ

東軍は敵前通過し、南宮山の西軍は何もせず、秀秋は言われてる有様
ある程度の確証なければ、包囲される様に突っ込んで行く無茶は普通しない

521 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 20:50:37
>>520
逆にいえば東軍必勝とはいえなかったとも言えるけど。

522 :日本@名無史さん:2005/06/18(土) 21:18:58
残された徳川の北関東守備は秀康以外烏合の衆
>>514は北関東で大規模な戦いが起れば家康が上方遠征してる場合じゃなくなる
だろうってこと
家康が関東に留まるならば、上杉は決戦を避け佐竹と連携を取りながら守備に
尽力すればよい

>>517
政宗は上杉と戦うことで戦力を消耗することを嫌い、南部(東軍)へ侵攻しているが?
当時の上杉は決戦のため戦備強化中であり徳川に次ぐ戦備が整っていたにも関わらず
有効に活用出来ていない
>>519の言う通り伊達の動きも不明な点が多いため、まずは後顧の憂いを片付ける
つもりだったのだろうが

523 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 12:01:43
連携というが佐竹がどれほどの事をしてくれると?
佐竹は動かなかったのでなく、義宣と義重含む佐竹家中が家康へ敵対するかで意思統一できなかったから
動けなかった

小山の秀康攻めるという事は、佐竹義久を派遣してる佐竹まで敵に廻す行為だな

524 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 12:31:19
>>513
どちらの側へでも鉄砲うてば小早川が動くと思ったら大間違いだぞ。

525 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 13:24:16
上杉が便所扉のような最上ではなく伊達を攻めていればよかったのだ。
伊達の側には最上を救援する義理はあるが、最上の側には伊達を救援する義理はない。
上杉の言うとおり城の扉を堅く閉じて引きこもっていてくれただろう。
何しろ「攻めないでください攻めないでください」って軍資金を提供していたくらいだから万が
一伊達が圧勝して上杉領内に逆侵攻という情勢にならない限り変わらない。
宇都宮の秀康軍は、単独で上杉に仕掛けるほどの戦力はない。家康が西上する時にも「こ
ちらから攻めるな。攻められたら籠城はせず後退して関東へ引き込んでから打て」と指示し
ているように専守防衛を旨としていた。上杉が動けば佐竹も動くということからも当然の判断
だと思われる。
そして、先に最上を攻めようと決めたのは直江だ。この判断ミスが痛かった。

526 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 13:46:24
既出の通り佐竹は動けなかったのだし、
上杉の主力が関東方面へ動いたなら伊達がその留守をつく可能性は高いわなあ。
伊達が嫌ったのは上杉主力との直接対決で、背後を突くことなら喜んでやっただろう。

527 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:03:45
「危険なヤシから潰す」という原則から言えば家康が西進した後は伊達を潰す=政宗を殺す
のが最優先だろ。
最上も秀康も引きこもり戦術のつもりでいたのだから北目へ攻め込んでもどちらも動かない。
故に伊達は滅ぶ。
伊達が滅んだ後ならば、最上なぞ先鋒にして関東へ攻め込ませるもよし三方から一気に攻
撃して甥の後を追わせるのもよい。
ついでにその後佐竹と共同して秀康も殺してしまうとある意味家康から感謝されるかも。(w

528 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 18:48:58
関ヶ原の決着がつく前に最上すら潰せなかった上杉が、
最上の数倍の国力を持つ伊達を鎧袖一触で滅ぼすと?


529 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 19:02:23
どう考えても先に最上を叩いて飛び地を繋げるのが最優先だろうに
それから伊達と構えたり、関東へ押し出すと考えるのが上策じゃないか?

最上以上に伊達と戦うのは潰すとしても時間かかるぞ
その間に最上が動かない保証も、堀が一揆鎮めるかも知れないし

要は関ヶ原が早期決着したんで失敗に見えるだけ

530 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 19:31:02
先に堀を叩いて越後へ戻るべきではないか?
そうすれば前田も動けないし、東山、東海方面の東軍も北陸に備えな
ければならなかった。

531 :日本@名無史さん:2005/06/19(日) 20:45:32
主力が国をあけたら伊達の動く可能性は高かったと思うよ。
最上攻めなら同時に伊達も牽制できるからその点でも最良だったでしょう。

532 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 01:40:04
伊達が白石城を攻め落としたのは何月何日?
上杉が秀康を攻めるなら伊達が白石城から撤退した後がよく、岐阜城陥落の
少なくとも4,5日前でなければ意味がないね

533 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 01:40:46
撤退した日が何月何日?の間違い

534 :日本@名無史さん:2005/06/20(月) 19:49:51
あの・・・
最上を潰せばというか降伏させて併合する戦略は正しいと思いますよ。
@飛び地を繋げることができる。
A国力の高い伊達との戦をj回避して弱いところ(最上)を潰しておく。
 伊達とぶつかった場合、最上を野放しにしておいては背後を突かれる
 恐れがある。
B最上を抑えれば保春院(政宗の母)がついてくる。政宗が内心どう思おうと
 ある程度の外交交渉の材料にはなる。

 上方の戦が長期戦になるのを前提にして
何らかの違う策もあったのかもしれんが。

535 :金吾秀秋:2005/06/21(火) 01:57:23
>>513
大間違いだぞ(´・ω・`)

536 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 04:08:00
>>534
史実と異なり、絶対に伊達が最上の後詰に出てこないという前提においてなら同意。
ただ、伊達には最上を救援する意味があるが、最上には伊達を救援する意味がない。
よって先に伊達に襲い掛かる方が「急がば回れ」になる可能性があったと思われ。

537 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 04:15:18
最上攻め、伊達攻め、どちらにしても関ヶ原本戦の進行が、史実どおり
に進んでしまうと、場外乱闘で終わってしまう。

538 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 16:48:12
みなさん、ここは西軍厨の寝言を書くスレじゃないぞ。
東照神君の用兵と調略の妙を熟読玩味し、その栄光を末永く記憶するための
スレなんだ。
だから、戦う前から敗れていたような三成の悪あがきや、不毛のトーホグでの場
外乱闘を語るのはヤメレ。

539 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 18:51:27
>>536
伊達が潰れれば次は自分のところなのだから、
最上には伊達を救援する理由は大いにあったと思うが?

540 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 20:49:24
>>538
煽り荒らしは黙ってろ。スレタイ見ろ

541 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 22:06:18
>>539
上杉と伊達が正面からぶつかったとして
早期に、しかも互いのダメージも小さいまま決着が付くわけがない。
そして、最上は中央の政局を眺めつつ勝ち組に乗り、
美味しいところを掠め獲って太りやがる姿は目に見えている。
(形だけは伊達に兵を出すかもしれないが)

そういうのは元気なうちに先に潰して後顧の憂いを絶つに限る。
状況次第で寝返って、伊達攻めの先鋒になってくれる可能性すらあるしな。

542 :日本@名無史さん:2005/06/21(火) 23:19:02
スレタイは【石田】関ヶ原の戦い 六【三成】

東照神君の用兵と調略の妙を熟読玩味し、その栄光を末永く記憶するためのスレではないが
西軍厨のIF妄想を語るスレでもない

543 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 00:45:51
>>541
そんなの伊達だって実際に同じことをしているが?
だったら、小勢の上自領を分断する位置にいる最上を先に叩き、
より状況を有利にした方が効率的に決まっている。

実際に東軍西軍を両天秤にかけていた伊達に、
先に攻め込み明確な敵にしてしまうのは下策もいいところ。

544 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 00:53:20
>>538>>542
東照神君の用兵と調略の妙って藻前…
なんかにトリツカレテルゾ!

それともただチビデブ似の共通点だけで家康オタになった人?

545 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 00:59:06
>>543
だったら最上なんて相手せずに白石から撤退した伊達と和睦で白石割譲し
関東へ大挙攻め入ろうぜ

546 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 01:04:29

東海・北陸・甲信越>>>東北・四国・中国・九州
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1119368786/

547 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 01:27:51
>>545
東西を両天秤にかけている伊達がそんな大胆に西軍に組するはずないでしょ。
少なくとも西軍というか上杉勢圧倒的有利という状況を作り出さなければ無理。

548 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 01:33:38
伊達は表面上は明らかに東軍につきながら、裏でいろいろ策謀している状態。
東軍としてはいまいち信用できないこまった状態だが、
上杉としても無視して他の方面に主力を向ければ背後を突かれるかもしれないし、
かといって直接主力で攻めれば明白な敵になってしまうという厄介な相手。
最良なのは自分についた方が得だと思わせて東軍から寝返らせることだが、
関ヶ原本戦の早期終結によってそんな事をしている時間はなくなってしまった。

549 :金吾秀秋:2005/06/22(水) 02:23:04
まったく、伊達はいまいち信用できないこまったやつだぜ(´・ω・`)
こんな何考えてるかわからないのがいたんじゃ、家康も不安でしょうが
なかったに違いない。

550 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 02:35:18
政宗は田舎領主らしく小細工好きで後でバレると。
しかも若い頃は虐殺好きだし。それでいて最上義光との人気の差がありすぎ。

551 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 06:48:52
>>550
最上家の身内殺しが多すぎるのと、そのせいで結果的に領地を失ってるからイメージが悪
いんじゃね?
政宗の人気だって大河にならなければ大して高くなかったろうが、最上はさらにその下を行
っていただけのこと。
義光は弟と長男を殺して父親を幽閉、家親は弟を殺し、義俊(家信)は家臣に見捨てられた。

552 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 19:34:08
何ぞの小説に直江山城守兼続の戦略は
最上家山形24万石を屈服併呑し
会津・米沢と飛び地の庄内とを繋げ小野寺と合流、その余勢で小野寺(西軍)
と合流し、戸沢秋田を屈服併呑、できれば平行して旧領越後の奪回も進め
そのまま津軽を抑え
奥羽の日本海側に強大な上杉王国を築きしかるのち状況を見ながら伊達と
和戦両様で望み奥羽越支配を完成させる。
その時分には上方の決戦は見通しがついていたろうから
 そしておそらくそれは東軍の勝利のはずだから(万が一西軍が勝利していても)
そのまま常陸の佐竹と合流し関東管領の家柄として関東に侵攻する。
 恐らく東軍が関東侵攻に際し引き返してくるだろうから
そこで天下分け目の合戦を東国で行う。
  天下分け目の合戦を東国で行うことに意義があり
勝てば征夷大将軍として東国覇府を、そうでなくとも和睦に持ち込み
全奥羽越支配と江戸幕府副将軍の家柄は保証させ
他日に備えよう。

 まあ関が原が1ヶ月以上かかっていれば実際に、起こりえたかなともおもったが・・

553 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 19:35:31
どこぞの五流小説家かなにかでつか?

554 :日本@名無史さん:2005/06/22(水) 19:45:27
>>551
伊達も最上の身内だし。

555 :越前少将:2005/06/22(水) 21:52:14
秀康の心境はどうだったんだろうか?これまで実父家康からは散々疎んじられ
今回の大事も所詮上杉に対する押さえ。その家康は「兄弟」とも思った秀頼の
いる大坂攻め(建前上は三成討伐だが・・)。万が一秀康謀反!!といった事
にでもなれば関東、東北の諸大名の旗色ははっきりしただろうし・・。佐竹な
んて真っ先に動いたんじゃないかな?

556 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 16:20:51
>>555
やる気満々だったと思う。手柄を立てて見返すチャンスだし、秀忠は
所詮は後詰めに過ぎず、手柄を立てられないので大きく差を付けられる。
秀頼公のための正義の戦いで、今まで仲の悪かった親爺と共通の目的
のために協力できるから。

557 :日本@名無史さん:2005/06/23(木) 20:05:59
上杉景勝−直江兼継────────前田慶次−前田利政
  │    │           │
真田昌幸−石田三成−佐竹義宣   結城秀康
  │    │
真田信繁−大谷吉継

558 :金吾秀秋:2005/06/24(金) 05:57:07
>>557
で、漏れ様はどこに加わってやればいいんだ?(´・ω・`)

559 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 08:50:25
利休もっかいキボンヌ

560 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 08:51:33
>>559は誤爆orz

561 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 13:02:41
上杉景勝−直江兼継────────前田慶次−前田利政
  │    │           │
真田昌幸−石田三成−佐竹義宣   結城秀康
  │    │
真田信繁−大谷吉継








 ∞
∞秀秋∞
 ∞


562 :日本@名無史さん:2005/06/24(金) 22:36:49
上杉景勝−直江兼継────────前田慶次−前田利政
  │    │           │
真田昌幸−石田三成−佐竹義宣   結城秀康
  │    │ │
真田信繁−大谷吉継 徳川家康
                    │
福島正則
                   │
                 村上通清
                    │
             来島通総
                    │
            小早川隆景
                    │
                 小早川秀秋

563 :日本@名無史さん:2005/06/25(土) 04:21:13
>>555
ソースが信頼出来るものからだったかどうかの記憶が定かじゃないが
秀康から景勝に自分が押さえとして配置されたことを文書で送り、それに
たいして景勝から秀康へ上杉は先代より人の空き家を狙って攻め入るような
行為はしないと返書したという記憶がある
強敵上杉の押さえとして残された弱小土豪集団はさぞかし胸を撫で下ろした
ことだろう

564 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 00:30:49
毛利勝永は宇喜多秀家と親しいのか?
伏見城攻めで活躍し感謝状を秀家から貰ってるみたいだし、
息子は勝家(1599年生まれ?)と名付けているし、違うか?

565 :森勝永:2005/07/04(月) 14:03:40
↑特に親しい訳でも無い様である。西軍の副将格である秀家からの感謝状にして
も戦功があれば何の違和感も無い。しかし勝永の父は豊臣家にとっては珍しい譜代
であり、幼い時より豊臣家に近い立場であった二人であるので、当然面識はあった
であろうし、豊臣に対する忠誠は西軍の中でも高いほうであったはず。

566 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:09:11
大坂の陣でもわざわざ苦労して大阪城入ったしな。忠誠度ナンバーワンかもね。



567 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 01:39:01
本多忠朝と小笠原秀政を討死させ。井伊、藤堂軍を撃破したの
だから、たいしたものだ。

それはそれとして、伊達なんて上杉にくらべたら弱くて、
お話にもならないね。

正宗は、景勝の武将の、本庄繁長と松川で戦い、本庄軍3,500、
伊達軍2万で2,00名あまりの死傷者を出して敗北し、身ひとつで
逃げ出すしまつ。(主の留守の城を落とすのがせいぜい)
繁長は最上と戦った、十五里原合戦でも3千の兵で1万を超える最上
勢を撃破している。
つまり、上杉はあまり後方を意識する必要はない。

残念なのは、三成が徳川と上杉が激突する前に挙兵してしまった
ことだね。徳川+諸侯で約7万、上杉は皮籠に5万5千の兵を集中し、
内線作戦がとれるので十分、景勝には勝算があった。

568 :金吾秀秋:2005/07/05(火) 02:12:05
実は、十分、勝算があったんだぜ(´・ω・`)

569 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 09:32:43
>>567
上杉兵5人は伊達兵5000人に相当するので、伊達が2万人動員した場合上杉は21人を押
さえに用意しておけば十分である。
最上兵はもう少し強いので、最上が1万人なら20人くらい用意しておけば向こうから攻めて
くることはない。
もちろん、こちらから攻めて行く場合は史実同様それではあまりにも足りないし、最上の場
合は米沢・庄内の2面あるのでそれぞれに20人ずつ用意する必要がある。
それでも、伊達・最上両方あわせて70人程度用意しておけば一歩も動けなくなる。
上杉は70人残して南下すべきだったのだ。

570 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 11:16:39
http://ingo3.at.infoseek.co.jp/cgi-bin/old/source/old0044.jpg

571 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 19:53:43
>>570
WWWWWW

572 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 00:50:59
関ヶ原に秀忠をワザと遅らせて、江戸を抜かれた場合と
関ヶ原に敗れた時の備えとした、
こんな予想は家康考えなかったかな?

573 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 07:43:14
敗れた時の備え?

そんなのは後世の発想だよ。
関ヶ原で敗れれば、酒井や本多勢だって西軍に寝返る。
(というか酒井が秀忠を討とうするのでは?)

574 :金吾秀秋:2005/07/09(土) 20:08:21
そして、背後を断たれた東軍諸将は次々と、この漏れ様に投降してくる
に違いない(´・ω・`)

575 :日本@名無史さん :2005/07/09(土) 21:10:27
西軍勢の切り崩し工作で大活躍した黒田長政がいなければ・・・

正直、どうなっていたか分からんな

うむ

576 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 22:05:34
敗れた時と言うか、資料によっては、
真田のせいで遅れたとかワザと遅らせたとかいろいろ言われてるから、
反家康側からしたらどうかなって思った、
江戸と関ヶ原の中間に3万の軍勢が居たら敵も攻めにくいでしょ?
特に上杉とか。

577 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 22:40:22
真田も、秀忠の軍を足止めしたなんて得意になってるけど、
それすら家康は計算済み、思惑通りだったのかもな。
もしそうでなかったとしたら、関ヶ原後に真田一族皆殺しだったはず。

578 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 22:45:37
だよな、真田兄が徳川派って言っても、
軍事的に邪魔されたら幽閉だけじゃ済まされないよな、
それに徳川の跡継ぎ、普通は後継者候補から外れて、忠吉が継ぐよな。


579 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 00:50:35
関ヶ原後に家康が独裁的な実権を握っていたなどという解釈は
既に過去のものだと思う。
解釈の違いはあるだろうけど、豊臣体制が継続していた。

だから徳川譜代からも除名嘆願されていた真田昌幸を粛清など
できる情勢にはないのでは?

580 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 18:58:30
徳川の独裁を阻むのに、福島の存在は大きかったよな。
毛利、島津の処分の緩和は福島の発言が大きく影響した。
特に島津は福島に金を借りて、家康の前まで付き添ってもらっている。

581 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:21:27
福島が改易に徹底的に抗戦していれば徳川の権力も小さかったろうな

582 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 23:19:10
573
それこそ後世の安易で幼稚な考えだ。

583 :日本@名無史さん:2005/07/12(火) 00:05:29
>>582
決戦を控えて、投入可能戦力を温存した例なんてあるか?



それとも秀忠は強敵・真田の抑えということ???

584 :日本@名無史さん:2005/07/12(火) 00:25:23
>>581
逆じゃないか。
福島が徹底抗戦すると徳川の武力を見せつけるデモンストレーションに
なってしまい、徳川の専制政治が強化されたかもしれない。
反対に先手となる西国外様大名は戦闘で大きなダメージを受けて弱体化
するだろうし、福島との関係で外様大名同士に軋轢が生じる可能性もある。

585 :日本@名無史さん:2005/07/12(火) 00:27:08
決戦になるとは東西両軍とも想定外かと
でも、負けた時の為に温存してたってのも苦しい

遅れた理由
中山道を兵站を確保しつつ西進してたので遅れた(上方は西軍が兵糧押さえてたので、東軍は東海道周辺や
中山道周辺から掻き集めて、長期戦に備えるしかないしね)とか
単に真田に時間稼ぎされて遅れたとか、それほど整備されてなく、大軍が進むには不便だったとか

単に結果的に遅れたから、家康が激怒しただけで
本来であれば、関ヶ原決戦なんて考えてもないのだから
秀忠としたら、予定通りの行軍速度だったのかも知れない

586 :日本@名無史さん:2005/07/12(火) 01:03:12
結果論だけど、誰も短期決戦になるとは思ってなかったからね。

587 :日本@名無史さん:2005/07/12(火) 06:32:06
>>585
財布を持ってくるのを忘れた。
本多が江戸まで取りに戻っていた。

588 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 02:10:38
まあ、そうだね、賤ヶ岳や小牧・長久手のように、最初のうちは睨み合いのハズ
だから、秀忠は結果論で遅れただけだね。
直江もこんな短期決戦で終わるとは思わなかったので、最上を屈服させてから
反転して江戸攻めという目論見が狂ったな。
(伊達は上杉に降伏を申し出ていたので、伊達を先鋒にして江戸討ち入りだ)

589 :金吾秀秋:2005/07/13(水) 02:14:05
漏れ様も、思わなかったよ(´・ω・`)

590 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 05:45:29
>>588
大垣と赤坂で睨み合いはしていただろ

591 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 11:06:50
>>590
家康が赤坂に着陣した次の日には、関が原の合戦になっているが?

592 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 11:18:03
>>591
福島が居た

593 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 11:22:08
>>592
に追加
援軍である徳川勢の到着によって勢力の均衡が崩れたので、決戦にな
ったのだ。賤ヶ岳の戦いでの、佐久間勢の奇襲と秀吉の大返しで、決戦
になったのと同じ理屈。

594 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 12:14:38
>>593
大垣と赤坂の対峙は20日にすぎず、賤ヶ岳や小牧・長久手
とは比べられない。
勢力は 三万の兵を率いての家康の着陣でちょうど均衡したハズ。
それまでは7万(大垣)、5万(赤坂)だったし。

595 :日本史@名無しさん:2005/07/13(水) 21:01:33
>>587

つうかそもそも戦費が乏しかった。東海道を秀吉の遺産を貰いながらうはうはで
西上した家康とは事情が違って関東の貧しさがもろに出た。

596 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 22:01:39
いや、関東平野の農業生産力は非常に高いがね。
かつての頼朝の成功だって、根拠とした関東の国力があったればこそ。


597 :日本史@名無しさん:2005/07/13(水) 22:06:32
>関東平野の農業生産力は非常に高いがね

単位面積当たりの畿内との作付け能力の違い知ってるか?

あと、流通に占める貨幣流通のレベルが段違いだよ

まあいずれにしても軍費がきつかったのは記録にもあるわけだし

598 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:31:00
関東ローム層などの火山灰土はリン酸肥料大量に与えられるようになるまでは
基本的に貧弱な土だぞー

599 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:41:11
>>594
大垣の西軍は石田、島津、小西、宇喜多、福原、相良、秋月、高橋等
四万ほど。南宮山と大垣の間は長松城を奪取されて、連絡路を遮断
されていたし、到着も遅かった。

600 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 13:09:01
>>585
家康の諸将への書状に、秀忠は10日くらいには美濃に着く予定だと書いてあるものがあるから、
遅参であることに間違いはない。
その理由は上方を目指すように指示した家康の使者が秀忠の陣に着くのが遅れてしまったため。

601 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 13:43:45
>>567
家康+諸将で7万って?
当時の上杉攻めの兵力は、関ヶ原で戦った東軍だけで7万以上、
それと秀忠が率いていた3万8千。
加えて上杉の押えに残った秀康率いる部隊+伊達勢・最上勢ですよ。
さらに西軍の挙兵が遅れれば、
当初家康とともに上杉攻めに参加する予定だった長宗我部等の部隊も合流する。

602 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 17:38:46
>>601
伊達と最上は上杉の兵力換算だと合わせて30人くらいにしかならないぞ。

603 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 20:35:54
蒲生備中(こいつが喜内)とサトイエを司馬大先生のせいで同一人物だと思ってた漏れが来ましたよ。

604 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 20:45:38
e?
横山喜内=蒲生郷舎じゃねーの?

605 :603:2005/07/16(土) 21:17:07
ちゃうんよ!
織田有楽の「横山か!」っていうのが備中のことで、死んだのもこいつ。
郷舎の方は例によって逃亡して結局蒲生本流に仕えとったらすい。


606 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 23:15:18
石田家中で、最期が判明しているのは蒲生備中真令(=横山喜内)くらい。
同じく、関ヶ原役を生き延びたのは蒲生郷舎くらい。(役後、蒲生家三千石)


607 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 23:36:19
司馬史観っつうかただの勘違いか…
変な形でこいつ(こいつら)を有名にしてしまった。
大河ドラマにまで悪影響を及ぼした。


まあ司馬の小説自体は大好きなんだが。

608 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:24:11
>>601
妙ですね、
慶長5年7月18日 秀忠3万七千を率いて江戸城を出立
慶長5年7月21日 家康3万1千を率いて江戸城を出立
で正確に言うと七万にも足りません

また、上杉が皮籠原に集中した兵力が5万数千なのであって、
最上、伊達の押さえの兵は勿論別です。(伊達・最上は弱いけどね)
その他にも、徳川は佐竹の動向が気になって、
うかつには動けないでしょうね。

徳川の詰問で、上杉が城(神指城など)を築いたり浪人を募兵
(前田利太、車猛虎、山上道及、岡野佐内、上泉泰綱など)して
いるのはけしからん!とあるように、浪人衆だけでも数万を
抱えていたので兵力に絶対的な差があるわけでもなく、
家康が、過去、戦に負けた例は1回や2回ではなく、
戦上手とはいえません、しかも有利な迎撃戦だし、楽勝。


609 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:37:29
伊達を馬鹿にしましたね。

610 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 01:18:24
景勝って戦に勝ったことあるの?

611 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 01:47:07
土豪に数年かけて勝ったことが一度ある。
兄を謀殺したこともある。

まあ、人に自慢できるような武功はない。

612 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 01:57:27
二三挙げると
2年にもおよぶ「御館の乱」で、春日山城の黄金で勝頼を懐柔し、
上越国境の城の玉砕(岩屋城なみ)で、北条の影虎方への援軍を阻止
して勝利したが、それ以前にも一門衆として謙信の合戦では一手の
大将として行動していた。
本能寺の変後、北信濃四郡を北条軍4万、
景勝軍5千で争い手中にしたこともあった。

戦は、最上や伊達に不敗の本庄や、直江に任せておいてもいいのだが。

613 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 03:03:26
付け加えれば、御館の乱後、越中への侵攻を開始した佐久間盛正、
佐々成政、前田利家らの柴田軍団(約3万)、柴田軍団への援軍
として越中へ侵攻した信忠軍団を5年の間、支えつづけて越後に踏み込
ませなかったというのもある。最後はあぶなかったが。


614 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 07:36:30
>>601
秀忠3.7万+家康3.1万という数字には、福島や黒田など豊臣恩顧の
武将の兵力も入っているので、徳川家自体ではかなり余力を残した動員数。
さらに長曽我部や立花など、当初は上杉征伐に参加する予定だった兵力も数万。

一方の上杉は120万石で5万の動員だから、相当キツキツなはず。
数万の浪人を抱えていたとなればなおさら。
征伐軍と違って補給ができないので、長期戦になれば兵糧・戦費が不足してくるし、
国許では働き手が不足することにより、生産性もがた落ちとなるだろうね。

615 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 07:54:32
基本的な話だが、関東は生産力は低いし、動員可能兵力も少ない。

個人的な想像だが、関東入部時の家康の石高の250万石余という
のは、実態を大きく上回っている数字だと思う。

616 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 09:08:02
>兄を謀殺したこともある。

景勝の話題がちょっと出るとこういうこと書く人ってやっぱミラヲタなのか?



617 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 09:20:44
>>614
前田と堀も計算に入れなきゃ。
二万はある。

618 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 09:23:22
>>608
あの、家康が江戸を出た時点では、
既に東軍先発隊が岐阜城を落しているのですが?
彼らも元々上杉征伐のために集められたものですよ。

619 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 09:30:14
>>615
あなたの想像はともかく太閤検地では250万以上ありますよ。

620 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 09:39:58
>>616
ここにいるのか?ミラオタなんて?

621 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 10:32:35
>>615
関ヶ原の折に、東海道方面軍と中山道軍合わせて7〜8万。
さらに江戸守備隊、松平秀康勢も万を超える。
これだけの人数を動員しているのに、250万石は張り子の虎と?

622 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 10:41:31
ミラオタ?
なにそれ?

623 :616:2005/07/17(日) 10:57:38
>>622
三郎景虎マンセーの転生ものBL小説。一部オタには禿しいアンチ景勝の傾向あり。
この板的にはお奨めできない。御館の乱を謀殺とか意味不明なこと云ってるようなので、
画面を前に呟くだけにしとけばいいものを思わず書き込んだ。
正直申し訳ない。本題に戻ってください。

624 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 11:23:42
>>619
太閤検地が根拠ですか・・・
それでは島津の石高は(ry

625 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 11:36:35
>>624
少なくとも根拠が個人的想像であるよりは遥かにましだと思うがね?

626 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 13:35:39
まあ、実際関東の領土だけでは220万石くらいじゃなかったかな。
でも飛び地があるので240だか250いくはず。

627 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 17:16:55
ところで前田利長ってホントに大谷吉継の策にはまって後退したの?

628 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 06:36:25
>>623
あーーーそうだったんだ。よく聞くけど何なのかと思ってたよ
わかりやすい説明ありがとう

>>627
策だってわかってはいたけど、それにかこつけて帰ることにした
(あんまり戦いたくなかったから)

だったらいいな

629 :金吾秀秋:2005/07/19(火) 10:24:32
今日も暑いね(´・ω・`)

630 ::2005/07/19(火) 12:06:37
>>627 利長が戦いたくないのを知ってて.吉継が共謀をもちかけたと
いう話もある。

631 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 01:10:26
>>630
でもそれだと退却後を狙って猛攻した丹羽長重の行動の説明がつかなくね?
演技っていうわけにもいかないしw

632 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 01:13:12
一説では、今川義元の亡霊が徳川に味方したという見解がある。
石田勢は、義元の亡霊にやられた可能性が極めて高い。


633 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 03:23:11
常識。

634 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 13:10:03
やっぱり、今川義元は、ただものじゃなかったんですね。
なんか、義元氏の研究が盛んになったのもうなずけます。

635 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 13:52:53
関東は沼地が多くて人が少なかっので
家康は250万石に見合うだけの動員は出来なかった。


636 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 14:17:22
今川義元の亡霊の件は本当なんですか?

637 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 14:24:24
今川の怨霊は、よく取り上げているが、
その関が原の戦いでも、やはり現れたようなんだ。

小早川は、今川の霊に説得されて、東軍に寝返ったのだ。
家康の鉄砲隊が脅したという話もあったが、
最近では、今川霊の説が有力となっている。

638 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 14:29:16
今川の亡霊は、関が原以前にもあったわけだが。
まずは、本能寺の変で一度現れている。
桶狭間の戦い以降、金縛りが絶えなかったとも聞いている。


639 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 15:31:17

 今川義元という人物

    かなり粘着質で、執念深いという。
    頭はかなりキレル方で、偏差値高い頭脳。
    たまたま桶狭間でコケ、評判悪の運悪大大名。


640 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 15:43:56
確かに、吉本は、切れる男だよ!!
治水工事もかなりやった大名として有名だね。
それは、子の氏真公にも受け継がれた。

641 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 15:54:10
秀吉は晩年まで信長の霊に悩まされたというね
信長の亡霊に叱責されて度々布団から転げ落ちたらしい

642 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 16:14:36
ああ、それもあったよね。
ってことは・・・・・・

西軍は、今川義元の霊と織田信長の霊にやられたのか・・。

戦国時代は、今川と織田が最後まで主役だったことになる。

643 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 16:24:21
戦国時代の特徴としては、

前期の主役が、北条早雲、今川義元、斎藤道三、武田という感じ。
中期が織田信長、朝倉義景、浅井長政、足利義昭だ。
後期がもう徳川、豊臣しかない。

主役級と言われる上杉謙信などは、わからない事だらけで、文献が乏しい。

644 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 19:33:05
>>635
関東は池沼が多い

645 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 22:23:57
義元の亡霊話は釣り?本当なら誰かソース教えて。

646 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 23:43:04
よく考えてみる事だ…

647 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 00:05:11
サッカー日本代表には今川氏真の霊が憑いているらしいぜ。
ハラハラさせられるが結局なんとかなるところとか、偶然では説明がつかない。

648 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 00:08:08
な、なんだってー(AA略

649 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 00:16:27
義元の話は、本当ですよ。
学生ならば、教授に聞いてみれ。
義元の霊は、ところどころで活躍している。

近代にも現れたというから・・・。

650 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 02:34:37
近代だと列車事故の時に救援に来たらしい

651 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 09:58:30
ああ、「歯が汚れていて眉毛の剃り方が奇抜な人」が助けてくれたってアレか。
アレって義元のことだったの!?

652 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 12:06:29
         __,,,,,,
      ,.-'''"-─ `ー,--─'''''''''''i-、,,
   ,.-,/        /::::::::::::::::::::::!,,  \
  (  ,'          i:::::::::::::::::::::;ノ ヽ-、,,/''ー'''"7  
   `''|          |:::::::::::::::::::::}     ``ー''"    
     !       '、:::::::::::::::::::i           
     '、 `-=''''フ'ー''ヽ、::::::::::/ヽ、-─-、,,-'''ヽ
      \_/     ヽ--く   _,,,..--┴-、 ヽ
                   ``"      \>


653 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 12:40:37
〜今川義元〜

優勝候補の強豪校(PL、広商)が一回戦ではやばや足下を掬われたイメージ。

654 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 14:19:05
子孫が吉良

655 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:26:20
今川義元の亡霊が何で徳川に味方するの?
東軍の構成は
豊臣武断派=秀吉初期からの家臣が多く織田縁り
徳川家康にいたっては今川を裏切って領土を奪った大罪人だろう?
対する西軍はすでに秀吉は無く
織田縁はいたにしろ
今川の恨み買うような関係でいえば東軍の方が強そうだぞ。
 ちなみに西軍の大将が今川義元と同じ名前(になる予定だったW)
のも有名な話だし。


656 ::2005/07/21(木) 20:32:05
>>631 丹羽もグルだったのだ。あまりいい加減にやるとあとあと.障りが
でてくるので。

657 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:47:12
>>656
ええ〜??そりゃ無くね?長隊の犠牲者めっちゃ無駄死にじゃんよ。
漏れが思うに、刑部と利長の間には暗黙の了解があったが、丹羽のボンボン
>>655みたく空気読めてなかったのではとw

658 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:37:54
>>655
家康は、築山の死後、義元の亡霊に悩まされたため、氏真に頼んで毎年慰霊をした。
その時供物にしたのが義元の好物だった後の今川焼き。
>>647
氏真は後年静岡に帰り、蹴鞠の普及に励んだ。静岡がサッカー盛んなのはそのせいもありそう。


659 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:54:54
>>658
サッカーの応援に今川家の旗指物でも持って行けばいいな。

660 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 22:04:09
楽勝ムードで奇襲、はマジ勘弁。

661 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 22:04:25
>>657
長隊の戦死者は、一方的な戦闘だったにも関わらず少人数だった筈。

662 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 22:08:09
嘘こけ。花が咲盛明の著書にも被害甚大って書いてあったよ。

663 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 23:47:54
>>662
死者は30人だよ。

664 :662:2005/07/22(金) 00:31:27
スマソ。普通に2,30人ですた…

665 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 10:19:22
かつて宮本武蔵も関ヶ原の戦いに参加したそうだ

666 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 22:59:10
今川義元の霊「竹千代に勝たせてやってくれや」

秀秋「おまえは誰じゃ」

今川義元の霊「もうわしが無名な時代になったのか(´・ω・`)」

秀秋「だから誰じゃ」

今川義元の霊「わしの若い頃はのう、海道一の弓取りと呼ばれてのう・・・・」

秀秋「あのちょっと」


今川義元の霊「あの北条氏康すらわしのことを恐れたもんじゃ」

秀秋「そろそろいい加減にしてくれないか」

義元の霊「でのうわしは、桶狭間に負けて評価が悪いが雑魚ではあるまいよ」

秀秋「いい加減にしろお前は誰だ!」

家臣「殿がおかしくなられたぞ」

667 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 02:33:58
下らん

668 :金吾秀秋:2005/07/25(月) 04:11:10
義元もいっしょにガリガリ君食べる(´・ω・`)?

669 :日本@名無史さん :2005/07/25(月) 05:20:54
俺なんか文献なんて読めねえし、歴史なんてゲーム本と2chの落書き知識しか
ないから、このスレで前半居た史料厨に帰ってきてもらいたい。本物の歴史家の
見解を見たいんだよ。

因に俺の関ケ原の不思議と見解。

@秀忠の遅参………こんなの主力温存に決まってるじゃん真田厨美化しすぎ!

A小早川の裏切り………松尾山に着陣した時点でもう裏切り決定してるよ。

B関ケ原………こりゃAに掛かる事だが、松尾山の異変で西軍が動いて東軍
       も動き決戦に持っていったんだろ?

C秀元・広家………動けるかボケ!動けたとしても数万の兵が南宮山降りて行く
         前に勝負決まっとるやないけ。

って言う感じなんだけど。一般的には@は秀忠が無能。Aは合戦が始まっても優
柔不断。Bは東軍が西軍を誘導して決戦に持って行く。Cは広家が邪魔して秀元
が軟弱で動かない。って感じで思われてる。時間、空間、質量から考えて変だよ。

670 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 07:07:39
>>669

             「 ̄ `ヽ、   ______
             L -‐ '´  ̄ `ヽ- 、   〉
          /           ヽ\ /
        //  /  /      ヽヽ ヽ〈
        ヽ、レ! {  ム-t ハ li 、 i i  }ト、
         ハN | lヽ八l ヽjハVヽ、i j/ l !
         /ハ. l ヽk== , r= 、ノルl lL」
        ヽN、ハ l   ┌‐┐   ゙l ノl l
           ヽトjヽ、 ヽ_ノ   ノ//レ′
    r777777777tノ` ー r ´フ/′
   j´ニゝ        l|ヽ  _/`\
   〈 ‐ 妄想は    lト、 /   〃ゝ、
   〈、ネ..         .lF V=="/ イl.
   ト |チ ラ シ の  とニヽ二/  l
   ヽ.|l         〈ー-   ! `ヽ.   l
      |l 裏 に 書 け lトニ、_ノ     ヾ、!
      |l__________l|   \    ソ


671 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 08:35:11
関ヶ原の戦いは、政権首班の外征中に政権奪取を狙ったクーデター

672 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 09:16:06
>>669
秀忠遅参が主力温存のためうんぬん以外は賛成だな。
秀忠遅参は徳川の史書には服天候のためだと書いてあるし、
俺はそっちを支持。

673 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 09:16:41
悪天候・・・

674 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 11:17:44
>>672
クレジットカードさえあれば・・・・

デカケルトキハ、ワスレズニ。

675 :669:2005/07/25(月) 13:15:35
>>672
すんなり3つも同意してくれて嬉しいぜありがとう。
俺高卒ニートで文献も検証できないアホだから、あんたは先生だ。でもよ、先生
秀忠が悪天候で遅参ってのはもっと納得できるよう教えてくれよ。
俺からの質問。

@何故秀忠率いる主力が当時まだ未整備の難所で有名な東山道と呼ばれる道を通
ったのか?
A良く補給路確保の為の行軍とあるが補給路なら東海道があるから意味が無い。
仮に上田城が東軍でも美濃路が今だ西軍なのでやはり東山道は補給線確保の行軍
理由に無理がある。
B真田を放置しながら本道を渡らず西上したのは警戒の為と聞くが、数万の軍勢
が獣道に近い脇道での行軍って実際問題無理があるのでは?
Cそして最大の疑問は、あれほど待った家康が何故に徳川本隊の到着を待てなか
ったのか?

676 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 19:08:10
>>669
@関ヶ原で勝てれば主力を温存する必要はない、
そして秀忠隊が到着すればほぼ確実に勝てた。つまり温存する意味がない。

A確かに前日の段階で小早川は事実上東軍として動いているが、
当日になって東軍から参戦を促す狼煙が上がっても動かなかった。
そのため家康は謀られたかと疑ったくらいだ。
つまり、前日には東軍のつもりだったはすなのに、
優柔不断にも当日になってまた迷ってしまったわけ。

B確かに東軍が誘導したとしてはいかにも東軍にとって不利すぎる情勢になっている、
イニシアチィブは西軍がとっていたと思っていいと思う。

C意味が分からない。どう考えても動こうと思えば普通に動けるし、間に合わないわけがない。
だからこそ東軍は毛利軍がもしも動いた時の抑えとして、
池田・山内ら1万余の兵を置いているのだが?

677 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 19:16:26
>>675
@東山道は本来なら少なくとも3万くらいの軍は動ける整備された街道。

A整備された街道がもう1本あるのに、
全軍を一つの街道のみで移動させるのは効率が悪い。

B獣道を通ったなんて事実はない。

C関ヶ原からすぐの距離にある大津城が西軍に攻められて落城寸前で、
これが堕ちればその落した軍が西軍の援軍となる可能性があったから。
実際大津城は関ヶ原の戦いの一日前に落城しているので、かなりきわどいタイミングだった。

678 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 19:21:53
機種依存文字使用反対

679 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 19:54:15
@関ヶ原で大勝したが自前の戦力も消費
A関ヶ原で大勝、徳川本体無傷
@Aでは関ヶ原後の大名の態度も違ってくるのではないだろうか
伊達、上杉、佐竹、毛利、加藤、黒田(如水)等の大名の事を考慮
した上で秀忠をワザと遅らせて戦力温存をしたのでは?
関ヶ原では味方になったがいずれは敵になる可能性が高い豊臣恩顧
の大名同士を戦わせ戦力の削減を狙った等も考えられないだろうか。

680 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 20:19:19
実際は逆、
自分たちの力があったから東軍は勝てたという自負で、
豊臣恩顧の武将ははむしろ自信を持ってしまった。
家臣同士のいさかいで家康に談判し家康の家臣を切腹させた福島なんかはその典型。
関ヶ原で活躍した外様には大量の加増をしなければならず、
対して関ヶ原に参加しなかった榊原や大久保らにほとんど加増することが出来なかったので、
戦後の体制は徳川やや不利になった。
それに当時の合戦による損耗率はそんなに高くはないので、
実際に合戦に参加していてもいなくてもその後の戦力にそれほどの差はない。

681 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 23:25:54
↑それさえも家康の戦略だとしたら?加増されて遠方に飛ばされた
大名は大坂で事があってもすぐには兵を大阪に集結出来ない、距離や道中に徳川派の大名
が居るため、対する徳川は江戸から京近辺まで譜代の家臣等で固め
てるので大坂に集結しやすい、道中で襲われる心配も少ない上に
敵対勢力が来るまでに陣地や戦術を構築する時間的な余裕がある
こんな予想はどうかな?

682 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 03:37:52
>>681
さすがにそれは無理がありすぎ

683 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 07:15:55
>>681
ちょっと無茶すぎると自分でも思わないかい?
また、仮にそうだとしても、
豊臣恩顧の加増量を少なくして、
譜代の家臣により多く加増した方が都合がいいことに変わりはないから、
秀忠軍も参戦させてその部隊の武将も加増させた方がいい。

さらに言うなら、
秀忠軍を温存してもその結果家康の手勢3万に甚大な被害が出ては意味がない、
結果的に戦力は集中した方が総合的な被害は少なくなるんだよ。

684 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 09:23:32
>>675
Cは、関ヶ原前日、福島正則が京極高知を伴って家康を訪れ、長浜から
大津救援の狼煙を上げる許可を求め実行されている。
西軍の関ヶ原方面への移動を探知した福島の家臣祖父江法斎(のちの
家康旗本青山家長)が家康の元へ西軍の移動を伝え、石田三成を追って
合戦に及びたいので出馬されたい、と依頼している。
合戦を急いだのは福島達、豊臣恩顧であり、家康がそれに引きずられ
て出陣した。

685 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 18:42:39
高知は大津城に籠城する高次の弟だからね、
肉親を見殺しにされてはたまったものではない。
そうでなくとも、大津城の窮状を放って置くようなことがあっては東軍の士気は下がるし、
家康への不信感も高まるだろうから、
大津城が落ちれば、大津城攻めの部隊が西軍に合流するかもしれないという事の他に、
内部的な事情からもこれ以上は決戦を引き伸ばせなかっただろうね。

実際家康は、赤坂着陣以前に体調が優れないとかいって時間を稼ぎ、
ギリギリまで秀忠を待っているのだが、
さすがにこれ以上は無理だったというところだろう。

686 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 20:42:14
実は、島左近は死んでいない。
影で徳川家康と一緒に秀忠と戦い豊臣家を守ってた

687 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:01:45
683なるほど、じゃあこんなのは?
開戦前から吉川、小早川の寝返りを確信していた為に本体を待たず
に関ヶ原におよんだ!東軍が佐和山城を攻めるって噂流した為に
西軍は大垣城から関ヶ原に出陣したんだよね?
違ったかな?

688 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:31:37
>>687
当然、確信とまで言えるかどうかはともかく、
それを念頭に置いた上での行動でしょう。
そうでなければあまりに無謀すぎるし。
ただ、東軍が西軍を誘き出したというのは実際のところはどうかと思う。
それにしてはあまりにも有利な地点を西軍に先取されてしまっているし、
ここらへんは状況証拠による推測に過ぎないけど。

689 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 00:22:38
どっちが誘い出したのかはちょっと断定できないよね
ちなみに秀忠の軍勢も参加させて譜代の地領を増やした方がいい
についてなんだけど、豊臣の家老の家康がそんな事したら豊臣側の
大名の反発凄くない?地方に飛ばすのも難しいと思うけど。

690 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 06:19:40
家康はさんざん豊臣領ばらまいて
気前のいい人という名声上げてるんだから
それまで貰ってた大名たちの反発は少なそうなきが

691 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 19:37:45
↑流れ読め、今まで気前良くってのは、いつからいつまでの事だ?

692 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 22:45:20
>>689
しかし実際に、関ヶ原に参戦した譜代の家臣は加増しているよ。
本多忠勝は石高の加増はないが京・大阪に近い伊勢桑名転封して、
徳川家の勢力を畿内に拡大しているし、
井伊直正は同様に近江彦根へ動かして6万石の加増。
息子の忠吉なんかは、武蔵忍10万石から尾張清洲52万石へ。
関東の守りについていた結城秀康も下総結城10万石から越前北荘75万石。

まあ要するに合戦で戦った等のそれなりの「功績」さえあれば、
それによって加増、或いは少なくとも都合のいい所に移すことも出来た。
しかし、本戦に間に合いませんでした、
その上上田城も落とせませんでした、ではさすがに加増する名目が立たなかった。
だから、榊原も大久保も本多正信も全く加増がない上所領の移動もしていない。
本戦へ参加していたならいずれも多少なりとも加増は出来たはず。

693 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 00:16:38
井伊直政、松平忠吉、本多忠勝、鳥井忠政は合戦の手柄で独立した
大名として豊臣直臣に取り立てられての加増と捉えるべきだな。
結城秀康は結城氏として、そして秀吉の養子として名義上、徳川とは
無関係の加増、その他は家康への加増分からの分配だろう。

694 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 05:02:30
関ヶ原直後は、まだ家康は豊臣の大老な訳だから
ただ豊臣の名前で領地を好き勝手に分配したのは事実だよね


695 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 06:46:42
関ヶ原合戦における家康の手柄に対する加増としては、
関東移封前の旧領五カ国だろう。

696 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 07:42:05
>>693
まあ、名分はともかく、
すべて徳川家の勢力拡大の役に立ったのは事実。
何らかの功績さえあれば、榊原・大久保他秀忠軍に従軍した者も、
同様に扱えたはず。

697 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 15:38:03
大津城攻略に手間取ったことが、西軍の敗因か?

698 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 16:26:39
>>693
>大名として豊臣直臣に取り立てられての加増と捉えるべきだな。

どういうこと?関ヶ原以前となんか待遇変わったの?

699 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 16:33:19
>>698
693とは別人ですが、豊臣秀吉が、徳川の武将から大名に立てた人達。
離間のためとも言われるが、結局は徳川の武将の立場から離れなかった。
ただ、形式上は大名として独立させられてるから、>>693のようなことを行える。
藤堂高虎を考えると近いかも。徳川の走狗ながら他家という意味では

700 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 18:54:53
関ヶ原の合戦の手柄で、というところはちょっと違うかね。
いずれにしても実質的に徳川家の家臣であることに変わりはない。
関ヶ原以前も以後も。

701 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 21:25:24
>>697
田辺城の一万五千が細川幽斎に弄ばれたのも大きい。

702 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 21:41:55
>>699
本多とか井伊とかってただの大身の陪臣だと思っていたんだが、
秀吉時代から独立の大名だったのか?
初耳だが。

703 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 22:00:14
本多も井伊も、独立大名ではない。
松平忠吉など一族の領地も、酒井大久保などの家臣の領地も
すべて徳川250万石の中に含まれる。

ただ、結城秀康はどうかわからん。


704 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 22:00:50
元々他の大名の家臣だけど、
それぞれ独立した大名扱いになったのは、
有名なところだと、直江兼次、小早川隆景とかだけど、
徳川家の家臣連中がどういう扱いだったかは詳しくは知らないな。

705 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 22:44:57
>>702、704
秀康と隆景は豊臣政権下では独立大名。
直江は陪臣。
ちなみに、鍋島も陪臣扱い。

毛利秀元も陪臣だと思うけど・・・ 最終的に直臣扱いになったのかな?


706 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 22:47:10
井伊だっけ? 榊原だっけ? 本多だっけ?
関東移封後に、秀吉が家康にもうちょっと加増してやったら? って勧めたことがある。
それらの武将の領地を決める権利は、秀吉にはなかった。できるのは勧告くらい。
ということはつまり、それらの武将の監督者は、秀吉ではなく、家康だったってこと。


707 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 00:25:29
>>701
龍造寺、鍋島、原、氏家など一万あまりが福島正頼の長島に拘束
されたのも痛い。

708 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 00:45:16
>>705
立花宗茂、島津家久とかもだね

709 :金吾秀秋:2005/07/31(日) 08:47:34
まったく痛いやつらだぜ(´・ω・`)

710 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 10:43:19
秀吉の死の直前に出した誓書で諸大名に混じって井伊が署名したものを
見た記憶があるのですが・・・

711 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 04:42:36
きっと「イイ(・∀・)!!」って言われたからだね。

712 :定ちゃん:2005/08/01(月) 04:49:06
三成 出っ歯

713 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 06:18:01
スネ夫orイヤミ

714 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 01:09:12
>>田辺城の一万五千が細川幽斎に弄ばれたのも大きい。
それと立花ら1万5千。大垣に7千はいらんだろう。
2千ぐらいでいい。これだけで約4万。それと秀頼からの馬印を借りで
デマを流す。秀頼公出陣。
これで西軍は大勝利。(w

715 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 19:48:53
貸すわけねーだろ

716 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 01:16:16
>>貸すわけねーだろ
馬鹿か?奪うんだよ。やったものがち

717 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 02:03:13
奪うくらいなら偽造するだろ普通

718 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 02:25:18
おれが石田三成なら秀頼の偽者を使っう。
そして立花は関ヶ原出陣。立花3千は1万に値する
これで勝利(w

719 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 09:33:12
西軍が完璧に一枚岩ならともかく、
裏切り・内通・日和見派がひしめく中でそんなことしたら、
一瞬でばれて戦うまでもなく西軍崩壊するぞ。

720 :伊達政宗:2005/08/03(水) 10:37:39
まったく、信用できない奴らばっかりだな(・∀・)

721 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 13:20:14
結局、徳川家康と石田三成の地力の差があまりにも大きいから、
何をしても西軍不利なんだが、その中で史実の西軍は本当に良くやったと思うよ。

722 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 15:39:55
>>721
西軍というか、石田三成ね。
日本の歴史に燦然と輝く英雄だと思う。

723 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 16:08:54
それにしても家康ってホントに野戦得意なのか?
野戦で鮮やかに勝ったのって長久手くらいのものじゃないの?
むしろ武田信玄に大敗して糞をたれ、大阪の陣では本陣が崩れて逃げ回って2回も自殺しようとするし、関が原でも裏切りがなけりゃどーなってたか、、、
まさか小早川、吉川の裏切りをアテにして戦ったんじゃねえだろうな。
もしそうだとすれば家康なんぞただのゴミだぞ。

724 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 16:21:11
>>723
ゴミに天下は盗れんだろw

725 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 16:53:04
つまり信長はゴミということで

726 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 18:27:42
>>725
お前がゴミ

727 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 19:02:34
>>723
三方ヶ原の戦いがあまりにも印象的だけど、
武田家との長い戦いでは劣勢の中かなりの健闘をしているからね。
そこら辺の経験があったからこそ、後年強大な秀吉相手に、
少なくとも戦では負けなかったという実績を残せたのだし、
他にも桶狭間の戦いで今川軍の先鋒を務めたり、
信長の越前攻めや姉川の戦いにも参戦している。
姉川は徳川軍の活躍で勝てたという話はちょっと信憑性が薄いらしいが、
それでも優勢な朝倉隊相手に力戦したのは事実。
まあ、歴戦の勇将そ称して間違いないと思うよ。

728 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 20:09:52
727>>
そこそこ優秀な武将てとこか(w

729 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 20:53:05
素直にとれば戦国時代でもトップクラスってとこだよ。

730 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 20:59:00
信長死んだ後も、どこをどう上手くやったのかよくわかってないが、
一旦は敵対した北条と講和して甲斐信濃を手に入れてるしな。
まあ、普通に戦争も謀略も上手いよ。

731 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 21:21:14
今川家から独立したころの松平家は、岡崎周辺を支配しているにすぎなかった。
氏真がアホだったことに助けられたってのもあるが、
義元死してなお強大だった今川を破り、三河を統一し、遠江を奪取した。
これだけでもかなりのもん。下手すりゃ普通に鎮圧されて終わり。
また、三方が原で惨敗したっていうのも、参考記録にしかならんな。力が違いすぎる。
むしろ、圧倒的だった武田と長年戦い続け、滅ぼされなかったことを評価すべき。

732 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 21:38:30
あのさぁ、家康がウンコ漏らしたってほんと?

733 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 23:51:42
あれは味噌だよ

734 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 05:18:44
>>730
甲斐で北條と戦った若神子対陣は家康の圧勝だった。

735 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 00:51:09
>>723
長久手のくらいって、
気軽にいうが、尋常なことじゃあないぞ、
恐るべき力量とするべきことだ。

736 :金吾秀秋:2005/08/08(月) 05:07:23
ウンコ漏らすのって、チンコ蹴られるより情けないよな(´・ω・`)

737 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 06:41:20
>>736
だから味噌だって!
嘘だと思うなら舐めてごらんよ!

738 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 21:32:37
みそ味のウンコかも知れん・・・・

739 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 22:55:58
大垣城にあのまま籠城して、持久戦に持ち込んでも勝機は無かったのかな?

義弘提案?の夜襲作戦実行→籠城・・・・

740 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 07:22:22
>>739
そのまま東軍が大坂へ進攻する。
西軍の相手は秀忠になってしまう。

741 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:15:34
>>740
それでイマイチやる気のない毛利輝元と対戦か

742 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:21:37
>>739
東軍がそのまま進んでしまうと、松尾山の小早川と合流して、
西軍にとって情勢はさらに悪くなる。
しかも主導的立場にあり戦意も高かった石田三成が籠城して身動きが取れなくなれば、
ただでさえ寄り合い所帯の西軍の士気はさらに低下し統制が利かなくなってしまう。

743 :金吾秀秋:2005/08/12(金) 02:23:56
そんなときは颯爽と東軍を急襲して、戦後に関白になる漏れ様さ(´・ω・`)

744 :金吾秀秋:2005/08/12(金) 02:25:22
でも、どっちみち怪しい死に方したんだろうね(´・ω・`)

745 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 05:01:53
若くして実力でもないのに大きな手柄をたてて、それで自分は偉いの
だと思い違いをし、結局暴君となって自滅。

746 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 01:15:02
蒸し返すか・・・
大刑小の一隊は、9/2頃からかの地に駐屯して街道を封鎖していたのだ。
関所の役割を果たすためと、佐和山と大垣の連絡を確保するためだ。
金吾中納言の部隊は9/14に伊藤隊を追い出して松尾山に布陣。
この行動が合戦の引き金になったと言っていい。
この日の夜東軍進発の報を受け、西軍が強行軍で廻り込み、
先発の石田隊によって脇街道を封鎖しながら、ああいう布陣にならざるを得なかった。
東軍先発は進路を塞がれ(もともと塞がれていたけどね)、
福島隊が停止した位置に対し、当然後続の部隊は、
その真後ろの街道に立ち止まっては戦にならないので、その横へと布陣。
実際は福島隊の布陣が終わっていない事から、
また朝靄でハッキリと敵の布陣が確認出来ないので、
取り敢えず探りながらあのような陣形になった。
つまり、9/15時点での両軍の陣形から連想する様なあたかも
お互いが最初から関が原の合戦を意図していたかの様な合戦と言う性質より、
西軍が時間とも戦いながら(何とか脇街道を塞ぐためもあり)、
やっと布陣できたという出会い頭の遭遇戦的要素の方が強い、
出た所勝負の合戦に至ったもの。


747 :金吾秀秋:2005/08/13(土) 07:47:11
引き金になったんだぜ(´・ω・`)

748 :夏休みだぜ@おじさん:2005/08/13(土) 09:09:14
うーん。小早川・吉川・毛利・長曽我部が参戦してたら西軍は勝ってたかなあ?
これらが合わさると4万はいくらしいし。でも家康の旗本3万が怖いよ。

西軍が勝ってたらどんな世の中になってたんだろな?気にならないか?

749 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 10:55:54
知らんがな(´・ω・`)

750 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 11:27:03
合戦というのは数では決まらぬことが多いのよ。
日本史板なんだからさー(以下ry

751 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 11:27:48
上杉を会津に流したのが失敗だったな。


752 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 14:09:14
>小早川・吉川・毛利・長曽我部が参戦してたら西軍は勝ってたかなあ?
と思う。但し、その時々の戦況なり状況によってかなり違っています。
9/15時点だけで考えるのか、そこに至るまでの経過で考えるか。

毛利、吉川、長宗我部、長束、安国寺の諸隊が南宮山近辺に布陣したのが
9/7頃だったはずで、赤坂に駐屯している東軍部隊と大垣城の配置を考えると、
あの布陣は軍事行動としては通常ありえない行為です。
西軍としての行動であれば、大垣城部隊の後詰或いは積極的な参戦意欲があれば、
少なくとも大垣近辺に出張るのが普通ですし、
或いは少なくとも北側の山麓から街道を封鎖する布陣で東よりになるはずです。
大垣部隊と赤坂部隊の両陣営は相当疑心暗鬼になったと思います。
三成達は本気か?と思わざるを得ないし、
長政達だって罠かも知れない、いざという時に騙されれば?
家康が東進を決意したのは、やはり相当な賭けに出ていると思います。


753 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 14:22:34
家康が赤坂に到着し、小早川隊の松尾山占拠が、
少なくとも東軍に戦機が熟した様な印象を与えたように思います。
戦機が熟すというより、赤坂に駐屯を続けていつくるか当てにならない秀忠達を待つより、
−待っている間必ずしも状況が有利になるようなことはないとの判断−
大将が来た以上ぐずぐずしても始まらない、家康にもしても岐阜落城後に
自分が行くまで待てと言い、着いたからにはお互い改めて覚悟が決まる訳で、
大垣を攻めるか東進するかの選択になったと思います。

754 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 14:29:53
あらためて思うのは、敵の出鼻をくじく意味でも、夜襲すべきでした。
その夜襲が結局成功しようと撃退されようと、そうした事実が必要でした。
東軍は慎重にならざるを得ないか、焦りを覚えると思います。
少なくとも夜襲を受ければ、
東軍は消極的な大垣攻めをせざるを得なかったでは思うのです。

755 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 14:45:13
島左近が評判倒れのカス野郎だったから、勝機を逸した
島津の進言どおり、夜襲をかけていれば勝機はあった


756 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:33:04
もしも毛利達が西軍として参戦してしまった場合、
南宮山を下りた直後に寝返った長曾我部に背後を襲われる危険はないか?

757 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 21:35:51
>>748
一応勝ってたと思われるが
案外家康は生き延びそう。他の東軍残党をまとめて秀忠軍と合流し
清洲に撤退くらいか・・・
逆に西軍は緒戦の勝利も満足に生かしきれるとは思えん。

 少なくとも、そうなりゃ吉川は覚悟決めて西軍に加担を決めるだろうけど
小早川秀秋は立場が不安定だよね。

でも、毛利軍が完全にやる気で参戦するということは・・
東軍に勝てる公算は大きいけど
西軍は毛利が仕切るという意思表示をしたわけで、
徳川よりも毛利のほうが
豊臣の脅威になるという本末転倒に
なりかねん気はする。



758 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 01:37:27
左近より、やはり大谷や明石、島津を中心に戦略を立てるべきだったと思います。
戦が始まってからの駆け引きは明らかに彼らの方が上手だと思うから

あとできれば如水が生きてたらなぁ・・と思います。

上杉が来れなかったのも痛かったと思う。

759 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 02:03:51
おーい如水は関が原時ピンピンしてたぞ
つか、九州で空き巣強盗しまくってるよ

760 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 02:14:12
あ!そうでしたか!
あのおっさんも西軍敗北の原因なんですよね?


761 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 02:38:35
如水が碁に夢中になっていたのがいけない。

762 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 05:42:12
西軍に付けと息子に言えば歴史は変わっただろうけど
如水自身の行動は西軍敗北にあまり関係ないんじゃない。

763 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 08:54:00
大丈夫。毛利は豊臣を裏切ったりしない。
大坂の陣も名前を変えさせて、豊臣に味方させている。

764 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 11:46:24
>>763
それなら福島も(w

765 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 12:53:33
>>754
何でそうなるのか意味が分からないし、
そもそも、大垣攻めになったとしても別に西軍有利になるとは思えないが。

766 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 13:40:41
>>754
夜襲したら、その直後の軍事行動が取れないよ。

>>758
そうですか、「駆け引きは明らかに彼らの方が上手」ですか・・・


767 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 14:20:10
>何でそうなるのか意味が分からないし、
自分が東軍の将士になって考えてみてください。

>そもそも、大垣攻めになったとしても別に西軍有利になるとは思えないが。
そうです。もっと時計の針を逆戻りさせないと見出せません。
9/15の合戦は西軍が既に負けたという史実がある以上、
そこに至らぬパターンを考えているのです。
9/14から9/15の軍事行動から西軍勝利或いは優位の状況は見出せません。
西軍の夜襲がないよりマシだとしたのは、
9/15の西軍敗走を取り敢えず無くそうという意図程度の話です。

>夜襲したら、その直後の軍事行動が取れないよ。
何故?全軍で夜襲する訳ではないよ。

>徳川よりも毛利のほうが 豊臣の脅威になるという本末転倒になりかねん気はする。
家康が大老家を順に打倒しようとしていました。前田上杉。
次にくるのは当然毛利宇喜田。毛利が完全に西軍についたとして仮に西軍が勝利しても、
つまり家康が戦死したとすると、毛利家による豊臣政権下での支配が起こりえた様に思います。


768 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 14:38:43
>>767
夜襲に成功されれば士気はさがるし、
失敗させれば意気が上がるだろうね。

ちなみに言っておくが、夜襲に失敗したということは、
はなっから相手は夜襲を警戒していたということだぞ。

769 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 14:45:56
>>767
なんで、夜襲をされたら大垣攻めしか選択肢がなくなるのか、
その意味が分からない。

770 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 16:24:07
夜襲は当然警戒されています。
夜襲を受ければ東軍は西進し難いといっているのです。
選択肢がそれしかないとは言っていません。

自分が死ぬかも知れないと思って考えてみてください。
そうそれば色々な事が浮かび上がると思います。
繰り返して言いますが、自分が将士になったつもりで考えてみるのです。
その当時自分がそこにいた事を想像するのです。
あなたは家康ですか?三成ですか?
馬上の指揮官ですか?槍や鉄砲を担いだ足軽でしょうか?
戦場近くの村民ですか?故郷で帰りを待つ家族ですか?
あなたは3万人の将兵を率いて指揮するんです。
あなたは数万人の友軍の盟主です。
あなたは最前線の足軽でこれから突撃するんです。
あなたは馬上から大声をだして数十人の足軽たちと一緒に突撃します。
あなたは何人かを殺しあとに途中で殺されます。
或いは最初の突撃で最初に死ぬ名もない戦士です。
将士になって考えて見ましょうと言うのはそういうことです。
あなたは



771 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 17:16:46
まっいいか、クドクド言っても仕方がないわい。
岐阜落城、これがいけなかったのだ。これ以降西軍優位はかなり無理。
そこから言うと東軍先発の清洲入場が問題。
西軍の伏見攻城後の大局観の誤りだ。
そんなに時間は無く、岐阜大垣近辺に集結し、
清洲を攻め落とす必要があった。
東軍というか上杉討伐(公式には)勢は、
ことさら家康は2正面作戦に陥り相当苦慮したものと思う。
彼は西軍決起の報を受け、例の小山での軍議のあと江戸に戻り、
都合一ヶ月ほど滞在している。いつ何をどうするか決めかねていたのだ。
そりゃそうだろう、簡単に結論は出ない。もし出せるなら一ヶ月も江戸にいない。
先発のあとを直ぐに追っていたはずだ。恐らくその方が早く勝てただろう。
なぜなら西軍が急げば清洲落城は可能だったからだ。
正則は気が気でなかったと思う。自分が敵側だとしたら清洲を狙うと思うからだ。
清洲が落ちれば東軍優位といえる状況にはない。
幸い西軍がモタモタして、時間さえかければ落とせる城をチマチマ攻めていたもんだがら、
先発隊が正則の居城清洲に入り、家康とひと悶着したあと岐阜落城に至った。
西軍びいきがその優位さを目指すなら、清洲奪取は必要不可欠だ。
東軍びいきが東軍優位が覆らないとするなら、史実よりマシな作戦を立てるべきだ。

772 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 19:32:22
小早川の寝返り以前に西軍の負けは決定的だったと思う
西軍が勝つためには、清洲城を攻め落とすしかなかったはずだ

773 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 20:26:52
関が原じゃなく大阪城で戦えば、三成は楽勝だった筈。
家康に誘き出された三成の浅はかさ故の敗北でしょう。
家康にとっては三方が原の教訓が大いに生かされた。

774 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 20:54:40
>>770
夜襲を警戒していた、
そして夜襲があった、で、それがどうして西に進みにくくなる理由になるの?
しかも成功しても失敗しても同様にとは?

というか、
あなた、もう少し読みやすい文章ってものを考えた方が良いぞ。

775 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 20:54:53
関が原以外の戦場はどうだったんだろう? 九州、東北とかしりたい

776 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 20:58:09
>>775
ほとんど八百長

777 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 23:25:28
三成は東軍が大垣城を攻撃する、というデマにおどらされて、関ケ原で食い止めようとしたの?塾の椰子が自慢げに語ってたから確かめたいんだが。

778 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:28:53
むしろ大垣を素通りして佐和山、大坂方面に

779 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:20:22
>>777
という話もある事はある(軍記物)
でも状況から真相は不明、現在では小早川の松尾山占拠で状況が変化した為という説が強いように見受けられる

つか大垣じゃなくて佐和山のはずだが…
大坂だっけ?

780 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 02:06:00
佐和山を攻めて大坂に上る(必ずしも大坂城を攻めるということではない)、単に佐和山を攻める、
単に大坂に上るという流布はどれもあった。 まあ意味するところは似たようなもんだ。三成は、
恐らく直接的には佐和山を攻めさせないために決断したのだろう。さすがに彼(ら)は不利な状況を知っており、
仮にこのまま大垣に釘付けにされると、東軍が畿内に進出されればどうにもならない、
今より更に状況が絶望的に悪化する、その様に切羽詰まっていたから夜間の強行を実行したのだ。
状況を打開するにはそれしか無かったのかも知れない。
夜襲は必要だったが、時間稼ぎ程度にしかならなかったとも言えるか。

それより、真偽は実際には不明だが、三成が餌にした秀秋(とその家臣)への説得、即ち関白に100万石。
もしこれが本当なら、これを蹴った秀秋はやはりどうかしている。餌なのはミエミエで判るとしてもだ、
三成が本気であっても実際には無理だとの判断であろうか。 家臣たちの人質云々もあるようだが、
人間というのは如何に金と地位と権力に弱いものかを考えると、もしかしてこれは驚愕に値することかも知れない。
自分なら「200万石の間違いではないのか」位は言って吊り上げる(笑)秀家と三成の連判があればだ、
俺なら餌に目がくらんで躊躇無く西軍につく。折角昼間まで眺めていたなら尚更だ。
攻めあぐねていた東軍は福島隊から崩れ、東軍の先方は混乱しながら敗走する。
気がついた友軍も混乱に巻き込まれ、一応家康本体は街道からそれたところに本陣を構えていたが、
敗走する兵でゴッタがえすのが後詰めにとって一番始末が悪く、その最中に本隊は戦闘に巻き込まれただろう。
東軍の先手が敗走し、小早川勢の後詰めに宇喜田勢が位置取る形となれば、家康本隊は負ける。
結局彼は討ち死にしたと思う。もし打ち漏らして岐阜〜清洲辺りまで行けば、それはそれで興味深い状況が生まれる。
9/15時点で西軍勝利の可能性は、金吾が(関白と100万石−俺なら200万石−を確約されて)西軍につくしかないのだ。
何で三成は200万石と言わなかったのか。そこに彼の限界があったのかも知れない。
いまさらだが、時々あらわれる金吾殿ならどうであろうか?


781 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 02:37:50
その様に考えると、信長、秀吉、家康は三者三様ながら、よくもまああれだけ数多くのピンチを、
中には絶体絶命のピンチまでも潜り抜けたもんだと今更に思う。
信長の場合はついにその悪運もつきた感だが、恐らく彼の数ある京都滞在の中で、
最も安全に思われた一時では無かったのか。そこに最大にして最後の落とし穴があった。
人間というのはピンチとチャンスが裏腹で、安全と超危険も同様なのだと思う。
現代から関が原を見てもそうだ。家康も相当危ない橋を渡っていたのだ。
リスクを冒さなければ生きていけない。ではどの様なリスクを冒すべきか。
戦国の世を走り抜け生き延びた者だけが体得できるものなのであろうか。
大分月日が経って尚、孫娘のいる城を攻めねばならなかった家康だが、
何だかんだ言っても遂に内戦を収束させ、(秀吉もそうだ。家康の帰順が大きいのも確かだ。)
息子とその家臣達によって泰平の世が築かれた。その礎となった人物にある程度敬意が払われてもいいと思う。
三成が悪人であったとも思わない。秀吉の政権を、無論彼一人ではないが、その屋台骨を支えていたのだ。
二人とも時代が生んだ当時の日本における最優秀の政治家であったのではないだろうか。


782 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 02:39:09
長文書いてて悪いが、正直読みにくい


783 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 07:25:26
西軍は兵糧不足を心配していたと誰かに聞いた
清洲に福島正則の備蓄した米があったが東軍が押さえたし

784 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 07:55:59
>>780
夜襲なんて変な色気を出さずに、全力で関ヶ原への移動を急いだから、
有利な地形を先取出来て、前半有利に戦えたのだけどね。

あと、西軍にはまともな予備兵力がなかったが、
(大谷が小早川に備えていたと言われる数百がせいぜい)
東軍には家康本隊3万の予備兵力があった。
手付かずの敵予備と戦うリスクを考えれば、東軍についたのは極当然の判断。

785 :金吾秀秋:2005/08/15(月) 12:15:42
今日も暑いね(´・ω・`)
最近ガリガリ君のソーダー味とコーラー味しか売ってないね。
ヨーグルト味とグレープフルーツ味見かけなくなったよ。

786 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 13:37:10
序盤は西軍が優勢だったというのも疑わしいよ

787 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 14:18:22
優勢=攻められているのを比較少数の兵でよく防いでいた
と言うだけの話では

788 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 14:37:15
小早川秀秋のしぼんってやはり暗殺かね?

789 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 15:12:04
島左近が一番強いんだって

790 :日本@名無史さん :2005/08/15(月) 16:23:55
序盤、西軍が優勢だったのは、地の利でしょう。現地で、検分すると分かるが、西軍は、東軍を
包囲するような形で、上から見下ろす陣形。守るに易く、攻めるに攻めやすいが、撤退には、坂を上らなければ
いけないので、後退戦でのみ、不利な陣形に、見えるが、撤退時は、海道にどうしても集中するので、
追撃されやすい地の利ともいえる。
別に西軍が、特別強くなくとも、あの布陣なら、前半、西軍有利は、動かぬ所でしょう。
東軍先方の、心理的プレッシャーは、あの西軍の布陣を見ただけで、負けを予感させる。
東軍側から、西軍の布陣を、現地で見上げれば、勝てる気がしないよ。

家康が、途中で、本陣を前進させて、士気を鼓舞したのもよく分かる。

まして、西軍は先に布陣して、簡易陣地を築いていた。
東軍の攻め手は、高地に包囲陣をして、待ち構える西軍を、一体、どれだけの後詰があるかも、分からない中、
上り坂を、登りながら、鉄砲や、弓の餌食になりながら、前進するのは、相当なプレッシャーが、あったはずだよ。

攻守3倍の法則に照らすと、その兵力バランスが、崩れた時が、西軍が崩れ始めたタイミングでしょう。
現地での検分が、もっともリアルな現場の空気を感じられると思うが。


791 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 16:31:46
但し、西軍は、撤退時、海道に集中し、追撃を受けやすい状態になるが、その分、
正面兵力は、少なくて済む可能性があり、尚且つ、伏兵等の仕掛けで、追撃を遅らせる
可能性は、有ったわけだが、そこまでの余剰兵力も、準備時間も無かったし、
そこまで、西軍全体のマネージメントをするだけの、能力のある指揮官、指揮系統は、
存在しなかったと言う事は、結果が示しているが。
少なくとも、戦術的にみれば、あの布陣は、あの時点でのもっとも合理的な布陣であるように見える。

792 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 16:37:54
もっと言えば、家康の旗本は、数は多いが、多すぎるがゆえに、機動戦にきわめて不利で、
尚且つ、相手に地の利を完全に摂られていれば、最初から最後まで、後詰の予備として、
敵、味方、にその存在を誇示するのが、もっとも効果的且つ、唯一の選択肢だったと、
思われる。
家康本体が、乱戦に突入していても、戦場の正面面積は、限られているので、戦いが有利になり得ず、
尚且つ、その戦力予備としての、威嚇が、なくなってしまうので、あのように、雪崩をうったような、
西軍の寝返りは、生まれなかった可能性は、否定できない。

793 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 16:53:20
更に、家康本隊が、戦場正面の、乱戦に突入すれば、かえって逆に西軍の士気が、
上がり、東軍が、三成に攻撃を集中した以上に、西軍は、その少ない勢力でも、
いや、少ない勢力がゆえに、家康本隊に攻撃を集中し、戦場全体の勢力バランス、
が崩れた可能性は、ある。
特に、家康勢は、多勢で、機動力に欠けるので、あの地の利で、高地に攻め上った場合、
鉄砲、弓の集中攻撃で、福島隊が後退したような、状況になれば、大混乱は、家康隊に留まらず、
東軍全体にその影響は、響き、戦場全体が、全く史実と違ってしまった可能性は大いに有り得るが、
やはり、振り返ってみれば、現実に家康がとった、戦術は、家康旗本隊の弱点と、強みをしっかりと、
理解し、もっとも効果的に戦場において、その力を活用したと言う事でしょう。
そういう意味で、やはり家康は、戦術においても、百戦錬磨であった事が分かる。



794 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 19:12:25
家康が松尾山に向かって鉄砲を撃ったって本当かよ?音が聞こえるわけなかろう。十数万が戦ってるのに。

795 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 20:16:52
>上り坂を、登りながら、鉄砲や、弓の餌食になりながら、前進するのは、相当なプレッシャー
>戦場の正面面積は、限られている
>多すぎるがゆえに、機動戦にきわめて不利
>もっとも効果的に戦場において、その力を活用したと言う事
そういうことなのだ。自分にとっては大変珍しいが、賛同できる意見だ。
突撃して撃退されるの繰り返しだが、撃退されて部隊が態勢を立て直すために、
一旦下がりの同じ部隊の中で交代したりする。
これが大変危険で難しいことは想像に難くない。先手が本格的に後方まで撤退というか、
逃げると後続部隊は大混乱に陥るのが普通だ。
こうした中で東軍が攻めあぐねていた訳で、後ろに家康が控えていたにせよ、
足軽達はいい加減浮き足立ってくる。
そういう意味では、西軍の奮戦は言うまでもないが、
実は東軍は前線を維持するのを持ちこたえていた感すらある。
家康が前へ出たのは、リスク承知で前へ出たのだ。
どうせ前線が崩れれば、自分の部隊は戦闘の矢面に立つことになるので、
結果論だが、空いた隙間を埋めて前線へ近づくことにより、
敵味方両方にプレッシャーをかけたと言える。
相当なリスクなのだが(桃配山にいた方が迎撃し易いから)、
この辺の呼吸はさすがだなと思う。
家康プッツン(戦場猪突型)説もあるが、的は外していない説だと思う。
戦場では先に気後れした方が負けると知っていたのだ。
あのまま金吾が傍観していたら、というのはどうだろう?
当日に決着つけれたのだろうか?


796 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 20:32:45
あのまま小早川秀秋が傍観していたら、西軍が有利な条件で停戦が成立した可能性が高い

797 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 20:53:30
石田隊は既に前衛の島隊も崩れ、
いつ崩壊してもおかしくない状況だぞ。

798 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 21:20:14
小早川秀秋が西軍に加担しても、西軍の勝ちは無かっただろうな

799 :488:2005/08/15(月) 21:28:28
>おーい如水は関が原時ピンピンしてたぞ
>つか、九州で空き巣強盗しまくってるよ
実際、官兵衛って本気で九州平らげるつもりだったのかな?
大友の残党が蜂起したから戦ってただけって感じなんだけど。
しかも結構苦戦してたっていうし、
そんなあちこち軍を派遣する余裕あったの?
戦後、立花宗茂の助命嘆願みたいなこともしてくれてるし
野心家だったってのは創作だと思うんだけど。
その時でも義理堅い人物みたいに語られてたから信じられない。

800 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 21:54:20
如水は戸板の上で軍配を振っていた。
ピンピンは無いだろ?

801 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 22:07:26
宗茂の助命嘆願つっても関ヶ原後だし。
長政との親子問答は創作なの?
あの逸話を聞くと野心はあったと思うけど。

802 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 22:18:03
なかったと言えば、なかった
あったと言えば、あった
そんなもんでしょう

あわよくば応仁の乱の状況になって、そのうちに勢力を拡大しようって腹積もりはあっただろうし
でも東軍として北九州を席巻してたので、東軍としての立場を貫いてたのも確かだろうし

親子問答も創作でしょうね、んな話残して外に漏らしてたら、黒田藩ヤバス

803 :金吾秀秋:2005/08/15(月) 23:22:46
まぁ、事後の言い訳ができたことが、如水のよかったところだな。
漏れ様は事後の言い訳ができない。
せっかく輝ける勝者で、才能も実力もあるのに(´・ω・`)

804 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 00:57:26
人口規模が同じ自治体での、日米のコスト比較です

●レイクウッド市 人口7万5000人
 市職員 180人+300人の非常勤職員委託費
 (アウトソーシング)を含めた歳出総額(99年度)で3000万ドル(約33億円)
●大阪府交野市 人口7万2000人
 職員は非常勤を除く市職員630人歳出 240億円

世界的に見ていかに日本の公務員の人件費が高いかがわかります。
人数の問題というよりも一人あたりの費用が問題。
米国の約4倍ですね。米国公務員の4倍も仕事をしているのか?

■地方公務員の年収(例・長野県)
ちなみに長野県は積極的に経費節減を行っているので
他の自治体より職員の年収は少ないようです。
(他の自治体は公開できないくらい職員の年収が多い)
部長(11級) 1.100万円
課長( 9級)   950万円
45歳       710万円 
35歳       510万円

■学校教諭年収
特殊教育諸学校 教諭45歳 :年収 960万円
    高等学校 教諭45歳:年収 920万円
    小中学校 教諭45歳:年収 900万円
特殊教育諸学校 教諭35歳:年収 800万円
    高等学校 教諭35歳:年収 760万円
    小中学校 教諭35歳:年収 760万円
教職員平均年収:850万円
http://www.pref.nagano.jp/soumu/jinji/kyuuyomode.htm
http://www.2log.net/home/zk1/archives/blog36.html


805 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 01:23:25
>>775
東北
上杉→最上領侵攻
最上→上杉防衛戦
伊達→上杉と休戦後、最上へ援軍を差し向けながらも同じ東軍の南部領へ侵攻
   (但し名目は隣接地で起きた一揆の鎮圧)
南部→領内一揆の鎮圧

その他上杉周辺の堀,佐竹
堀 →上杉に扇動され領内で起きた一揆鎮圧
佐竹→義宣は西軍参加を訴えるも父義重に反対にあい纏まらず
   結果としては少数を秀忠へ派遣している

九州
島津→義久は家康へ付く判断は下しているものの動員要請は拒否
   (義弘,豊久領からの動員(強制ではない)のみ認めた)
   義弘は成行上西軍へ付いてしまうが、国許の協力が得れず中途半端な
   参戦となる 
如水→西軍へ加担し挙兵した大友義統の鎮圧他数拠点の城を席捲
   (大友が西軍としての挙兵だったため東軍としての体裁が取り繕えた?)
   九州北部は上方へ動員されて空き巣同然だった城が多く如水もそうだった
   が蓄えを使い浪人を雇い入れた
加藤→東軍として西軍へ加担した城への攻撃や戦後も立場が微妙だった島津へ
   の対応 (秀頼への配慮か積極性には欠けていた感あり)
他 →如水のところで記載したが立花、鍋島、小西、黒田、有馬、大田等殆ど
   が上方へ動員中

こんな感じだったと思う


806 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 02:36:30
>>805
島津は加藤領へ進攻している

807 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 07:11:04
>>805
島津義久は親徳川ではなく中立主義。
義弘は強い西軍派。
伏見城の件は江戸時代に義弘の行動をフォローするために作られたねつ造。

関ヶ原で戦闘に参加しなかったというのもまるきり嘘で、
三成の要請で鉄砲隊を派遣したといった文章が残ってる。

808 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 07:13:37
ソビエトの東北占領計画の中で佐渡島占領の案があった筈。
南東北よりも佐渡島の占領が優先された。

809 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 07:15:03
>>807
有名なのが二番備え説ね。

810 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 07:25:08
結論から言うとなにから何まで東軍優勢。
関ヶ原が前半優勢だったいうのは守勢に回りながらもかろうじて耐えていたというのを誇張しただけ。
たとえ小早川が西軍についても(ありえないが)3万の手付かずの徳川兵を温存していた東軍の勝ち。

西軍に勝ちがあるとすれば秀頼出陣だけだが、
形の上では東軍側に大義名分があり、ありえない。

811 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 17:17:08
それと東軍には加賀の前田も計算できるんじゃね?

812 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 17:23:22
>>809
西軍は陣地に籠もっていたから、東軍に相手にしてもらえなければ、
戦えない訳だ。北国脇往間あたりは狭隘な地形であり、一応参謀本部
の図面では前線にいるように見えるが、島津の前に他の部隊が散開
していた可能性もある。井伊と松平が宇喜多に鉄砲を撃ったのも、
島津へ向かう途中、前路にいた邪魔な宇喜多勢を追い払うためだった
という説もある。

813 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 17:33:34
島津が二番備えと書いてある資料には、
宇喜多が三番備えとなっているのだが、なんで三番備えが、二番備えの前にいるんだ?

はっきりいってその説はあまり信憑性がない。

814 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 17:35:21
必ずしも兵力の過多で勝敗は決まらないのだが・・・

豊臣氏長者(公式に豊臣姓を名乗る)に
関白(何れも一応秀頼成人まで)、
加えて2百万石加増(旧領の他に)。
重臣家臣は身分に応じ一部を大名に任じる。
更に、今回の戦費その他賄い分として(重臣たちの分も含め)取り敢えず黄金5千両。
でどうだ金吾?いやさ小早川衆よ?

安いもんだ。






815 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 19:30:12
>>813

>>812

>>809
に対する反論だが?

816 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 19:58:52
>>813
たしか石田と宇喜多が前線部隊で
島津が石田の小西が宇喜多の二番備えであるはず。

817 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 20:15:48
家康本隊の三万は旗本の寄せ集めで大身がいないので
実戦力は著しく低かった、って説は事実なんでしょうか

818 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 20:54:37
>>817
嘘です。
そもそも何で大身がいなければ
実戦力が著しく劣るのかわからない。

819 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 20:58:28
九州は、加藤清正が小西領の宇土城攻め。(守将は行長の弟の行景)
細川家の家老長岡佐渡VS大友義統
黒田如水VS毛利秀包(筑後の久留米)
かな? 間違っていたらごめん



820 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 21:03:42
家康が 逆三方が原 をやっていたらおもしろかった?

あれ?実際もやっている?

821 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:21:36
>>816
それなんて資料?

822 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:31:43
>>814
そうだね、こういう事言うと厨房とか言われることもあるが、
率いる将の優劣とかも実際重要な要素だったと思うよ。
で、それを踏まると、
相手は海道一の弓取り・百戦錬磨の徳川家康が直率する3万の部隊、
ネームバリューだけでも勝てっこないと思わないかい?
つーか、小早川さんたちは勝てっこないと思ってしまった、
そして当然のように東軍についた。
まあ、至極当たり前の判断以外の何物でもないでしょう。

823 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 23:40:08
822さん、それなら小早川のみならず他の西軍だってそうじゃない。
家康は百戦錬磨でも,兵卒が仮に屈強だったとしても、
兵自体代替わりしていたり、実践経験から言うと、
家康の部隊は朝鮮出兵には出兵しておらず、
徳川家以外のほうがの兵の方が、
東西両軍にわたって実戦経験が豊富な部隊が多いのも事実だ。
それにネームバリューで勝てるなら、海道一の弓取り今川義元は何故敗れたのだ。
ネームバリューで勝てるなら、何故旭将軍源義仲は敗れたのだ。
つまりネームバリューで勝てるほど、戦争は甘くないのだ。
9/15時点で西軍が勝利か或いはあのような形での敗走を防ぐ手立てとして、
小早川を買収しようというのだ。
西軍が優位になるような状況は清洲落城がスタートになる、
と既に仮説を立てているのだから、そちらで議論すべきだね。
自分が金吾かその家臣として、関白2百万石の提示をどう思うだろう?
果たして100%東軍につくと確証がもてるかな。
俺だったらかなりぐらつくね。
というか餌に目がくらみ躊躇無く西軍につくという話だ。
家康は8/5から9/1まで江戸にいた。その間決して能筆ではない彼が、
手紙を書き捲くった。受け取った者たちは何をどう思い、
家康の言い分をどう受け止めたのか。
多少なりとも人間の心理に通じていれば、
それは走馬灯に様に揺れ動くものだと判る筈だ。
秀秋を買収しようというのはそういうことなのだ。
海道一とか、ネームバリュでは説得できないのだ。
小早川家の判断が当たり前だとか、
その程度の話をしているのではないのだ。

824 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 23:45:19
関白就任の200万石は嘘

秀秋を関白就任させるなんて豊臣政権の根幹を覆す行為だからね
そもそも三成にそんな権限ないし、秀家や輝元がそれを許すとも思えない

825 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 23:57:48
嘘とか本当とかじゃなくて、それを餌に釣るという意味だ。
三成にそんな権限が無くてもいいの。
極論すると、つまり騙してもいいの。
というかほとんど騙すようなものかも知れないし、
そうなってもいいのだ。
今どうやって負けないで済むか、願わくば勝ちたいと切羽詰まった状況で、
政権の根幹云々など、どうでもいいことなんだ。
今日死ぬかも知れないのに。
そんなこと勝ってから対処すればいいんだよ。
それに仮に勝って秀秋が関白になったところで、政権は揺るがない。
で、騙すには三成一人の判じゃ駄目だから、
秀家、行長、吉継、頼継にも連判させる訳だ。
特に秀家の連判は絶対必要不可欠。


826 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:00:58
いいんじゃない、イギリスみたいに2枚舌で。履行できるかどうかなんて勝ってから考えれば。
ともかく懐柔、買収して勝利すればいいじゃん。

827 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:04:39
>>825
>秀秋が関白になったところで、政権は揺るがない。
揺るぐ、政権の根幹だから
豊臣氏を継ぐ人間にしか関白になれない、これを覆すのは大問題

釣るエサとしては大きすぎて逆に信頼されず、この話は信憑性がない

828 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:06:30
大体9/15の話なんて今更だ。餌抜き餌有どちらでも金吾が西軍について勝てば、
その後は想像しやすい。餌抜きなら金吾が大納言になって大老就任位だよ。
石高も秀家秀秋は100万石クラスだ。三成その他も大幅加増。
つぶされるのは徳川前田伊達加藤黒田福島諸々。
ま結局三成が取り敢えず奉行に復帰、
場合によっては大老になることもありえる。
これに行長吉継らを加えて主導権を握る。
これが嫌で家康についた連中も多い。このパターンはもういい飽きた。

829 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:09:14
あのね関白は飾りでもいいの。
秀次関白で自害させられたでしょ。
平安時代の関白
鎌倉時代の執権
室町時代の管領
江戸時代の老中
ね、関白は根幹じゃない。

830 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:11:09
ああ言い方がまずい。
平安時代の関白は根幹だ。(そうでないと思っていた人もいたが)
平安時代の天皇
に訂正

831 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:11:14
想像しやすくないだろ>>828

西軍勝利後は創造するのは難しすぎる。
・東軍処理を問題なく出来るのか?
・戦後の論功行賞でのキャスティングボードは誰が握るか?
・今後の政権運営の方法は?
・秀頼の後見人は?

最悪、内ゲバ。

832 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:12:59
>釣るエサとしては大きすぎて逆に信頼されず
これはまともな指摘だ。その通りなのだ。
だから地位と石高だけでなく金の話も持ち出すのだ。

833 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:15:47
>>829
あのさ、頼むから豊臣政権の構造をもう少し勉強してくれ
君の思い込みで語られてもしょうがないの
君が飾りでいいと思うのは自由だが、豊臣政権では飾りじゃないの
秀次は後継者となり、一応形式的には豊臣家を継いでる
自害させられたから飾りではなく、関白にまで就任させたからこそ自害させてまで排除したのだよ

豊臣政稚と関白制を飾りなどというのは、初めて見たよ

834 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:15:58
どの道疑心暗鬼なんだよ。
金もつけることで(仮に同じ連判状には書かなくても)、
全部反古にはされないだろうと、
同じ疑心暗鬼でも期待を持たせるのだ。

835 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:18:20
はいはい、思い込みのみで、こういう事実があるからこうだじゃなく
こうだと思うからそうしてるに違いないって言うだけか

相手して損した

836 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:27:52
>あのさ、頼むから豊臣政権の構造をもう少し勉強してくれ
頼むから政権の実務がどの様に処理されているか歴史を勉強してくれ
秀頼は飾りでしょ。彼が政務取ってる?
大老がして奉行が執行するんだよ。
ポストは飾りに出来るんだよ。
関白=秀吉だったから飾りではないの。
初期の政権は執政者として秀長の存在が大きかった事実もある。
彼の裁可で処理されていた件も多い。

>豊臣政稚と関白制を飾りなどというのは、初めて見たよ
あのさ、よかったね初めて見れて。
先入観を捨てる時が来たんだよ。
秀頼は関白になってないんだ。

837 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:36:31
それより>>833の「豊臣政稚」ってOCR使ったような誤変換、一体どうやったらできるんだろうか?

838 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:40:56
俺が言っているのは想像は難しくない、という事。
戦後処理の難しさは当然のことだ。
家康だって将軍任官まで3年掛かったでしょ。
幕府の職制が固まったのは3代目以降だよ。
大坂城が落城するのは15年後だよ。
(攻める気無かったんだよ最初は)

一応答えるか。
・東軍処理を問題なく出来るのか?
難しいが時間をかけてやるのだ。
無論秀頼かもし関白に就いていれば秀秋。
大老制は当面維持されるから大老名。
・戦後の論功行賞でのキャスティングボードは誰が握るか?
戦場に赴いた連中。中でも三成、秀家、秀秋。
秀秋に能力がないのだから、三成、秀家主導となる。
・今後の政権運営の方法は?
大老−奉行制は当面維持される。メンバーが代わるんだ。
政権が変わるわけじゃないよ。
・秀頼の後見人は?
それは大老職。
・最悪、内ゲバ。
これは有り得る話だ。というか可能性が高い。
そして当事者達が一番よく知っているだろう。
大きな戦いが起きるかどうかは予断を許さぬところだろう。
つまり、家康が死んで困るのは徳川家と、
関が原で彼に付いていった連中。
豊臣政権自体は困らないんだ。

839 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 00:51:28
あなたが政治家だとする。
目の前に5億積まれたら相手の頼み聞くんじゃないのか?
俺なら5000万でも聞くな。

この政治家のお金の話を実感するという事を想像できる人は、
俺の話について、賛同かどうかはともかく、言わんとする事は理解してくれるだろう。
出来ないなら社会経験浅すぎる。
本人の正義感に関わらず厨房でもわかる奴がいる筈だ。



840 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 03:38:14
参考
http://ww3.tiki.ne.jp/~yang/c-5.htm

841 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 03:48:11
>>818
もともと家康本隊は徳川軍全体で言えば数が多くても「旗本備」だから。
本来は先備・二番備などが攻撃を受け持ち、旗本備は攻撃力よりも大将を守ることが第一、次いで前線の
予備兵力の供給源として存在意義がある。
そして、小身が多いということは独立して戦闘を行うには消耗に対する耐久力が低過ぎるということ。

ものすごく単純なモデルでスマソだが、200人×5隊の軍勢と50人×20隊の軍勢が戦って互いに100人消耗
した場合、前者よりも後者の方が全滅する部隊が出る確率が高い。
そして当時の合戦では、全滅するような部隊が出れば連鎖反応で崩れていくことが多い。
従って、平地での野戦という前提であれば部隊数は多少少なくても一単位の規模が適度な大きさの軍勢の
方が小部隊が多数ある軍勢よりも有利であると思料する。

842 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 08:00:17
>>823
だからこそ、西軍からバンバン裏切り者が出ているでしょう?
無論、最初から性根を据えて戦う覚悟を決めた連中なら、相手が強大でも戦うだろうね。
しかし、最初から積極的に西軍につく意思が弱く、
保身を第一に考えるものにとってはそうではないのよ。

843 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 08:35:22
>>841
そんな都合よく考えてもしかたないぞ。
家康本人のほかに忠勝や井伊がなど名将揃いだったのに。
各個撃破みたいな事言ってても。

844 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 09:06:55
なんにせよ家康の率いる3万の軍の戦闘力が低かったと考えるのは無理がある。
西軍厨はそこまで無理して西軍に勝たせる想定をしたいのか。

845 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 10:21:28
その通りだ。家康の旗本3万は強いはず。秀吉は長久手で兵力は勝っていながらも
思い切った行動が出来なかったのも、家康を恐れていたからだろ?

小早川が寝返らなければ、1日で戦は終わらない。秀忠を家康が巧く使うだろ。

846 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 10:37:51
小早川が裏切らず(ありえないが)松尾山から東軍サイドに攻め込んだら(更にありえないが)
傍観していた他の大名家はどうしただろう?
それでも毛利・吉川は動かない・・・よなあ。島津も。
長宗我部は・・・?
毛利・吉川が動かないから、やはり動けないか・・・。


847 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 11:32:23
>>846
どうなんだろうね…
西軍の動揺は小早川の寝返りが引き金になったようなもんだしね。
ただこの時の西軍の布陣を黒田長政が秀吉の参謀として名高い父・黒田官兵衛に伝えたら『三成にしては見事な陣型、寝返りが無ければ西軍が勝ったのは間違いない』と言ったらしいし、
近代に至ってどこだかの国の偉い軍人に関ヶ原の両軍の布陣を見せて、どちらが勝つか質問したら躊躇なく西軍と答えたらしい。
有利な布陣で且つ小早川が寝返ることなく戦っていれば、毛利吉川も動いたんじゃないかな…

848 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 11:59:34
>>847
毛利、というより吉川だよね
進路上にある吉川が動かなければ、毛利も動けない

思うに小早川が東を攻めても戦局を一変させることはできないのでは
結局は吉川・毛利が動かなければ・・・(毛利が動けば長宗我部も動けるし)
そういう意味ではイニシアチブを握っていたのは、毛利+吉川
要するに広家だろう
でも小早川動いても、広家は「動かない」という約束を守るような


849 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 12:10:07
戦場では、威嚇効果がもっとも、有効。
小早川が、東軍に攻め込まなくとも、寝返りさえしなければ、西軍有利は、動かないと思う。
小早川が、あの場所で、布陣し、東軍が石田勢に集中しすぎていて、比較的手薄な東軍の南側へ、
戦線が伸びきった所を、山から駆け下りてきて、横っ腹から押し出し、包囲すれば東軍の南側は、あっという間に、
包囲殲滅し、壊走するのは、火を見るより明らか。

東軍の先方主力を、石田隊の堅固な陣地で、吸収、持ちこたえ、西軍の2大勢力の宇喜田、小早川勢で、東軍の比較的弱小な
南翼を突けば、もっとも効果的な包囲殲滅戦になりうり、その事実は、東軍、西軍ともに、
現場に居た、将士から、足軽に至るまで、皆、間違いなく理解していたと思われる。

そのため、小早川勢は、西軍に加担し攻め込まなくとも、その場所に居るだけで、
東軍に対して、もっとも効果的な「威嚇」が、出来ていた事は、家康の狼狽振りなど、史実が
物語っていると思う。

これは、小早川勢が強かったわけでも、なんでもなく、もっとも効果的な、地の利を得ていたと言う事では、ないかと。

合戦でも、戦争でも、冷戦でも、実践の強さは、あまり関係ないんだな。
如何に相手に、強そうだ、実際に実践に参加したら、どうなる事か?っと、不安を掻き立てる
「威嚇」が、もっともものをいう。
実際に、鉄砲を向けられて、動ける人間は皆無だが、その鉄砲に玉が入っていようが、いまいが、
相手に悟られなければ、もっとも有効な武器になりえる。

人質と一緒で、殺してしまえばそれで終わりだが、殺すぞ、殺すぞ、っと言っているのが、
もっとも効果的な方法。
戦場でも一緒でしょう。

850 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 12:11:57
>>848
なるほど…小早川が動いても吉川が動かないとどうにもならないね。
結局、いかに有利な布陣にしようと事前の調略に成功していた家康の勝ちは決まっていたようなもんなのか…。

851 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 12:14:24
>>848
吉川が動けば毛利も動けるわけで、さらに毛利が動けば長宗我部も動けるし
これだけの大軍が家康を背後から攻撃すれば、小早川が動かなくても西軍が勝ちますね?

852 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 12:21:04
>>843
> 家康本人のほかに忠勝や井伊がなど名将揃いだったのに。

「揃い」って二人だけじゃん。(w
両酒井も榊原も大久保も奥平も高力も秀忠に付いていた。謀略大王の本多正信もだ。
忠勝がいるじゃん、と言っても本多忠勝の家臣の主力は長男忠政が率いて秀忠に付いていた。
忠勝自身は織田有楽並みの兵力しか連れていない。
有力な人数を連れてきていたのは井伊直政と初陣の松平忠吉くらいだ。
それに、小笠原や鳥居忠政のように結城秀康とともに宇都宮に置かれた連中や江戸城はじめ関東や
東海筋の諸城に入れた人数もいる。
つまり、1万石当たりの兵数を300人と概算すると家康が直接掌握しているのは1隊300人以下の部隊
がほとんどだ。
こんな連中は通常攻撃に使う時は3〜5万石以上(動員900〜1500人程度)の大名に与力として付けら
れるのだがそういう大名自体が家康の指揮下にほとんどいない。故に家康を守る役には立つかもしれ
ないが崩壊していない敵とガチンコする役には立たないのだ。

853 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 12:51:06
>>851
そうですね…毛利、吉川、長宗我部…これらの軍勢が動かせればあるいは…ですね。
家康は実は関ヶ原の陣構え等ほとんどの情報を得ていなかったという話も聞いたことがありますしね。

854 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:19:44
>>849
だから、家康本隊が温存されていて、東軍は手薄でも無防備でもないと何度言ったら分かるのか。
実際には小早川はその家康本隊三万に苦もなく威圧されて、
西軍に攻めかかっているのだが?

855 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:35:41
>>852
大須賀忠政(3万石)や奥平信昌(3万石)もいますが?

856 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:48:58
>>841
各部隊が単独で戦えばね。

確かに家康本隊3万には上級指揮官クラスの将が少なかった。
だから、家康本人がまとめて全ての指揮を取らねばならず、
本隊から一部を切り離しての運用は出来なかった。
本隊から切り離せば、数百から千程度の部隊が単独で戦うことになって、
ご説の様にもろくなってしまうから。

しかし、家康の指揮下にあるならばそういうことはない。
そう簡単に各個撃破されるということにはならない、
何よりそれを防ぐ為に総指揮官家康が直接指揮を取るのだから。

つまり、家康本隊はその全てをまとめて家康が指揮せねばならず、
その一部を切り離しては使えないので、
使い勝手は確かに悪い、しかし、家康本人が総指揮を取る限りにおいては、
別段弱い部隊と言うことはないし、その兵力どおりの威力を発揮できた。

857 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:54:20
自分の書いてることが、さも事実のように書いてる人間多いな

858 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:56:04
>家康は実は関ヶ原の陣構え等ほとんどの情報を得ていなかったという話も聞いたことがありますしね。
それは当然の事なんだ。両軍とも深夜行軍して、朝霧が晴れて御互いの居所が解ったの。
何度か言ってるけど、前年の利家が亡くなってからとか、外征隊が帰還してからとか、
もっと日時を遡ってから9/15に至る方が、色々な事が見えてきていいと思うよ。
東軍は家康の大坂出立から、西軍は伏見攻めから始め、
両軍の位置を小山評議から考えてみるいい。
東軍びいきはもっとマシな作戦を立てれたと思うし、
西軍びいきは清洲奪取が必要だと分かる筈だ。
そうすると、関ヶ原の合戦は、発生する確率が極端に低くなるんだ。
西軍が清洲攻めにとりかかる条件は岐阜大垣に集結する必要があるし、
東軍は別働隊の行程を見直すべきだと思う。


859 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:12:29
この板は自分の知ってることや、
傍証至上主義で何かの記載を引用するだけの板では無い筈だ。
書かれた意図や目的に打算までも考慮し、
両者の信頼関係人間関係力関係を推量する。
資料の使い方は、その種類内容によって引用のみで解決されるものではない。

余談だが例えば信長公記に、信長が丹羽長秀の邸宅に立ち寄ったと言う記載があるんだ。
単にそれしか書いていないのだ。前後を見てもその必然性がない。
すると何しに言ったのか?となる。
筆者の気紛れ!?で日常的なことを書いただけなのか?
用事は以前からあったことを足しに行ったのか?
もしかして信長お気に入りがいたのか?
我々の知らない信長の子供を長秀に預けていたのか?
或いは寵童でもいたのか?
二人は、他の信長と部下の関係より入魂だったので、
米に例えられる五郎左長秀と何がしかの話しでもあったのか?
単に信長の気紛れなのか(筆者がそれを珍しく思ったのか)?

書かれていること鵜呑みにするのは歴史を考察する事にはならない。
なぜそうなのかを考えることを考察と言う。

860 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:16:36
憶測と推測は違うけどな。
信長の行動原理を追及しての答えでなく、自分の考えや思い込みで語ってるだけにしか見えんけどな。

で、軍記物が論拠ばかりなのに、どこを考察してるのかね?

861 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:28:12
そこに心理的な要因を求め、
心理的考察をするとこも、時には必要な事だ。
動機が推察されなければ分析した事にならないからだ。
上の余談で用いた例えはほんの一例だが、
あまりにも知らないことが多いのだ。
それは書かれていることより、書かれていない事の方が当然多く、
その中には、書けなかった事も含め重要な真実が隠されている。
まだ、仄めかしている表現だとマシだが、粋狂な著者が少ないのも確かだ。

歴史にIFを用いる事に意味があるとすれば、
起こり得る事態を想定する事が必用ではないか。
それは荒唐無稽な事態ではなく、可能性が少しでも高い事態を想定すべきだ。
低い事態を想定しなくて良いと行ってる訳ではない。
人の病死を推し量るには無理があるし(信玄とか)、
信長が義元の首を取るとは予想されない事態だ。
しかし、信長と義元の話しは示唆に富んでいる。
勝負の確率は数学的に50%だからだ。
西軍がびいきが西軍の勝利を求め仮説を立てるのは無意味とは言えない。
東軍びいきが家康を義元のようにしたくないのであれば、
もっとマ・シな作戦を提示せよ。

862 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:30:33
>信長の行動原理
何これ?彼の行動に原理なるものがあったのか?
あるならそれは何だ?よもや天下統一などを原理とは言うまい。

863 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:32:35
心理的要因を構築するに足る根拠は存在するのか?
分析するに足る根拠は質量共に存在するのか?
書かれてないと断定するに足る根拠は存在するのか?

歴史にIFはない、歴史は必然の結果であり、必然の結果であるから
全てに要因を求めるのである、それが史学。

詭弁にもならない駄レス乙。

864 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:36:00
>>855-856
近代以降の軍隊と違って各部隊が質量ともに均等でない上に、軍団長の下に師団長1人、大隊長2人
で小隊長だけが無数にいるような奇形な編成であることを考えれば、防戦ではなく崩れてない相手との
戦闘へ積極的に加入するのは難しい。

軍団長と末端の連絡は無線などなくて伝令なので一旦混戦になったら家康の指揮は(家康に限らず)
後方にいては行き届かない。
そのため、大抵は現場指揮官が即興で対応することになる。故に先鋒・二備くらいの部隊には最強の
部隊か新参で必死に戦って実績を示さなければならない部隊が置かれることが多い。
そして、それを何とかするために家康自身が前線まで進んで陣頭指揮を取った場合、家康の戦死率
はそれだけ高くなる。カール・グスタフやネルソンみたいに「勝ったが自分は死んだ」という状況では勝
った意味がなくなる立場の家康が、そのような危険を冒すとは思えない。
しかし、井伊や忠吉は独立部隊として豊臣系大名に混じって戦闘に加わっているため分遣隊長として
は自前の部隊が普段の数分の一しかない本多忠勝しか使えない。

よって、家康本隊にできることは豊臣系大名軍が西軍を叩き潰すまで西軍の攻撃を跳ね返す盾となる
ことと、もし豊臣系大名軍が崩壊した場合家康を東に逃がすための時間稼ぎということになる。

865 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:37:49
結局、資料頼りで通説を鵜呑みにし、
自分で考察も出来ない者は、
憶測や推測或いは仮説についてこれないと認めている様なもので、
この際だから言っておくが、
自分で考えないから先入観を払拭出来ないと認めている様なもんだ。
どれもこれもつまらない指摘ばかりで、
まともな推論や議論にすらならないじゃない。幼稚なんだよ。

866 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:39:44
>>862
人間誰しも行動原理ありますが?
それを数ある史料から読み取るのですよ。

何、当たり前の事を言ってるのですか?

人によって史料からの読み取り方も違い、解釈も違うので、主張する行動原理も違うでしょう。
しかし、全て直筆の書状研究などから考えるのですが、どこぞの房は自分の主観・価値観・思考を
当時の武将に当て嵌めてるだけですな。
IF議論すれば、それが尚更顕著になるだけ。
IF議論するには、多くの史料検討からの推測でしか成り立たず、そして推測できるのは、ほんの僅かな先のみ。
だが、それを理解できずに安易にIFしたがる多くは、そんな知識の欠片もない。

ネタ遊びしたければ三戦板という場所があるのに。

867 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:42:13
ゲームの駒を動かしてる訳じゃない。
小早川が傍観している戦場で、ここにリスクがある。
秀忠が到着していないのは作戦の失敗なのだ。
意味解るか?

868 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:42:44
通説も理解できてない、史料にも目を通してない、考察にもなってない、憶測のみ。
何の論拠もない自分の考えを押し付けてる輩が自論を推論と言ってる時点で、まともな議論すらならない。

869 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:43:52
>秀忠が到着していないのは作戦の失敗なのだ。


典型的な先入観の例

870 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:48:38
>>869
> >秀忠が到着していないのは作戦の失敗なのだ。
> 典型的な先入観の例

典型的な東照公史観の例

871 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:50:02
鸚鵡返ししか出来ない
やはり

通説も理解できてない、史料にも目を通してない、考察にもなってない、憶測のみ。
何の論拠もない自分の考えを押し付けてる輩が自論を推論と言ってる時点で、まともな議論すらならない。


872 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:53:22
本人の日記を読んでも行動原理を読み取るのに
深い洞察力と心理学的要因も必要なのに、
あなたに【それを数ある史料から読み取るのですよ】その能力があるとはね。
その結果はおろか、中途経過すら読み取ったものが示されていないじゃないか。
つーかあなたには無理だよ。自分の書き込みみてごらん。
あなたは誰も説得出来ていないし、
せいぜい自分より知識がないものを黙らせている程度で、
安易じゃないIFもないではないか。
で、信長の行動原理は何?
結局何も答えられないだろう。
数多く?出しても直接帰ってこない。何故か?
教えてやろう、結局何も解っていないからだ。


873 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:57:36
心理学的要因も必要←日本語としておかしいぞ?

話逸らしてるのはそちら

>で、信長の行動原理は何?
>結局何も答えられないだろう。
>数多く?出しても直接帰ってこない。何故か?
>教えてやろう、結局何も解っていないからだ。
とまぁ、自分で憶測して結論付けて完結させて、断定してる。
典型的な>>868


874 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:59:03
だから批判はいいから自分の仮説言ってごらん?
出来ないでしょ。
考察したことないからだよ。
いい機会だから、その浅い人生経験で恥ずかしがらず披露して見ろよ。

孫が出来た老人を見たことがある?
人によってはまさに豹変だよ。
こういう事がわかっていないと行動原理など読取れる筈ないんだよ。
因みに資料や空想小説の類は厭きるほど読んだよ。
どれにも全て賛同できないから、自分で考えたんだ。
出来るならやってみろ。

875 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 14:59:30
というか、誰かと混同してるな。
ファビョったかな?

876 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:05:49
俺のはいつも長い。読みにくいとの批判もある、承知だ。
だが仮説推論するには字数が必要だ。
それにイチャモンつけてる発言に、
それを否定するだけのネタが示されているだろうか?
自分と意見の合わない者への中傷だけじゃないか。
人生経験積めば行動原理なるものは変わるの。
人間に対する洞察力のないものに歴史を論ずる能力がある訳なないよ。
大体人間が残した歴史を振り返っているんじゃねーか。
隕石や地殻変動の分析じゃねーぞ

877 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:06:35
・主観で決め付ける
・資料を示さず持論が支持されていると思わせる
・一見、関係がありそうで関係のない話を始める
・陰謀であると力説する
・知能障害を起こす
・レッテル貼りをする
・細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
・新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
・全てか無かで途中を認めないか、あえて無視する。
・勝手に極論化して、結論の正当性に疑問を呈する。
・自分で話をずらしておいて、「話をずらすな」と相手を批難する。

これに該当します。

878 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:09:26
仮説推論とは、論拠根拠あるもの。
肯定する物の存在を示さず、否定するだけのネタがないと詭弁を発する。

行動原理の話題も、あるとすれば、一貫して同じと勝手に断定し、自分の考えを洞察とよび
それが正しいかのように発言する。

議論にもなりません。

879 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:09:44
今なら建国し放題だぞ
http://www.sangokusi.com/test1/index.asp

880 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:12:44
どうさつ 0【洞察】


(名)スル
(1)鋭い観察力で物事を見通すこと。見抜くこと。
「結果を―する」「―力」

(2)〔心〕
(ア)新しい事態に直面したとき、過去の経験によるのではなく、
課題と関連させて全体の状況を把握し直すことにより突然課題を解決すること。見通し。
(イ)自己の行動パターンを意識化し、その原因や意味を理解すること。
心理治療や問題行動の改善において重要な過程。
「自己―」「―療法」


見抜いたらすぃ

881 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 15:40:05
好き勝手に持論を語れば良い。

882 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:02:15
このスレはなんのスレですか?

883 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:55:38
>好き勝手に持論を語れば良い。
そうさせて貰う。持論すらもてない者とは平行線かねじれの位置なので。
傍証や資料の提示程度で反駁されないの。
だってほとんど知ってる内容しか出てこないからね。


884 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:11:29
・・・不毛な論争にようやく一息ついたか
さて、それではマターリと再開しますか

関が原に学生時代遊びに行った。
まず関が原市役所に「ノーモア関が原」という石碑があるのに爆笑。

更に「関が原ウォーランド」というテーマパーク?がまた最高だった。
200体ほどのコンクリートでつくった人形たちが戦ってるんだけど
関が原なのに、なぜか武田信玄がいる。
そのそばの吹き出しには
「戦をやめーい!わしは武田信玄じゃ!ノーモア関が原じゃ!」

隣国を火のように侵略しまくった人間に言われても説得力が無いためか、
だれも相手にせず戦っている。存在感無いぞ、信玄!

肝心の古戦場跡は水田や畑があるだけだから、見晴らしも良く
当時のまま残っているね。ある意味貴重。
石田本陣跡から桃配山を眺めると感無量だったよ。


885 :ノーモア関が原:2005/08/17(水) 17:16:04
そんでそこのウォーランドのしょぼい博物館に
小早川隆景のヨロイってのが、その他の雑品と同じ扱いで
陳列されていたけど・・・明らかにニセモノだよなあ

886 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:44:12
自分が傍証や史料の提示一切無しで語ってるのに、反駁にはそれを強要すると。
典型的な夏厨じゃん。

887 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 18:08:32
>>864
無論だ、家康本隊3万は本人が直接率いて、
一つの戦場に一度に投入しなければならないから、実際に戦闘に投入するのはリスクが大きい。
まして小早川の旗幟が鮮明でない状況では、軽々しく戦闘に参加して、
正面の敵と戦い始めた後、万が一にも小早川に攻められては目も当てられない。
だからこそ、あの時点での最も有益な家康本隊の活用法は、
後方に予備隊として控え、味方部隊を鼓舞、あるいは威嚇することであり、
事実そのように運用され、その活用が図に当たって見事に勝利した。
小早川がなかなか動かず気をもむ場面もあったが、
概ね順当な結果に終わったと言うことが出来る。

888 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 18:22:06
>>876
手付かずの大軍と戦うのと、
正面の敵と戦っている相手の横腹を襲うのと、どちらの方が安全で安心かという、
その程度の心理も理解できないものが人間への洞察力とは片腹痛い。
世の中ハイリスクハイリターンを望む者ばかりではなく、安全確実を重視する人間もいるんですよ。
それも結構な数ね。
あなたは目先に報酬をちらつかされればリスクも考えずに飛びついてしまう人間かも知れないが、
誰でも、そうだと思っては大間違いだ。

889 :天狗:2005/08/17(水) 18:57:14
>・・・不毛な論争にようやく一息ついたか
全く、したくてしていたわけじゃないよ。
未だに信長の行動原理が提示されないでしょ。
それだけじゃないよ。他のクエスチョンに何も答えていない。
とやかく言うだけで、自分の意見が反論されるのを恐れるあまりか、
もともと仮説や推論を立てたり持論すら持ち合わせていないかのどちらかじゃない。
あれば言えばいいのだ。
人の意見を詭弁と言って逃げる奴を臆病者というのだ。
まあ今から考えれば早くて明日だろうけど、無理だろうな。
746、752、753、754、767、770、771、780、781、795、
814、823、825、828、829、830、832、834、836、838、839、
858、859、861、862、865、867、872、847、876、883
は同一人物だ。つまり俺だ。
鼻がデカイのと自虐的な皮肉を込めてこれからは天狗で書き込む。


890 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 19:03:13
信長の行動原理

「人によって史料からの読み取り方も違い、解釈も違うので、主張する行動原理も違うでしょう。」
提示する意味がわかりませんが?
論点ずらす意味がわからない。

バカが電波飛ばしてるから、飛ばすなら飛ばすなりの論拠持って来いと書いたら、これ。
仮説も結構、推論も結構、その推論の論拠を示して話せというのを無視して
詭弁を繰り返す>>889

臆病者とか、発想がバカだ

891 :天狗:2005/08/17(水) 19:06:40
戦場で安全確実かよ。
どっちが勝つかで決めるのと(秀秋か?その他)、
自分から勝ちをつくっていく(家康、中途半端だが三成、秀家)
>誰でも、そうだと思っては大間違いだ
誰でもそうだなんて言っていない。823と839をもう一度読め。
どう思うだろうか?と聞いている。
5000両じゃ少なすぎるようだ。
5万両でどうなのだ?に言い換えるよ。
その内手付けに2万両キャッシュってのはどうだ?
まあ戦場で持ち運べないからな。
伏見攻めの軍議前に手付けを渡しておくべきだった。
さあどうよ、2万両のキャッシュつき返すか?



892 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 19:07:07
だいたい、参考って書いて紹介したのが↓
ttp://ww3.tiki.ne.jp/~yang/c-5.htm(しかも直リン)

どうしようもない。
何一つ自分の言葉で語ってない受け売り。

893 :天狗:2005/08/17(水) 19:08:45
890よダ・カ・ラ自分の意見を言うのが怖いのか?それとも無いのか?
あるなら言ってみろ。
信長の行動原理って一体何だ?お前が言ったんだぞ。

894 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 19:11:55
とまぁ
>5000両じゃ少なすぎるようだ。
>5万両でどうなのだ?に言い換えるよ。
>その内手付けに2万両キャッシュってのはどうだ?

出来もしない妄想もちだして、それを基に話進める。
このように、当時の三成がそのような事を思考出来たのかどうか?
そのような金を用意できたのか?
そのように出来た、用意できたと推察出来る史料は?

この前提を全て無視してだからね。

895 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 19:17:41
>余談だが例えば信長公記に、信長が丹羽長秀の邸宅に立ち寄ったと言う記載があるんだ。
>単にそれしか書いていないのだ。前後を見てもその必然性がない。
>すると何しに言ったのか?となる。
>筆者の気紛れ!?で日常的なことを書いただけなのか?
>用事は以前からあったことを足しに行ったのか?
>もしかして信長お気に入りがいたのか?
>我々の知らない信長の子供を長秀に預けていたのか?
>或いは寵童でもいたのか?
>二人は、他の信長と部下の関係より入魂だったので、
>米に例えられる五郎左長秀と何がしかの話しでもあったのか?
>単に信長の気紛れなのか(筆者がそれを珍しく思ったのか)?

これに対して、信長の数多ある史料から行動を読み取り、行動原理を推測し、どうして立ち寄ったかを推察する。
これが通常の思考。
すると

>何これ?彼の行動に原理なるものがあったのか?
>あるならそれは何だ?よもや天下統一などを原理とは言うまい。
と意味不可解な反応をみせ、その後は、それに固執

行動原理と書いた理由すら理解できずに、年積み重ねることによって変るなどと、当然の事を言う
バカ丸出し
行動原理とは、何についての行動原理を書けというのかすら不明

896 :天狗:2005/08/17(水) 19:30:32
ご紹介の分今読みました。
学研と桐野氏の作を参考にして書かれたものじゃないか。
賛同できる箇所もあるけど異論も多い。
それがどうかしたのか?
俺の意見を受け売りと言うが、
手間かけて発言番号書いてあるのでもう一度読んで見るといい。
同意見を受け売りとかではなく、賛同出来るか否か、
是々非々で論じるべきではないか?
大体同じ結論に達してもアプローチの仕方が違うのだ。
本当にわからねー奴だな。



897 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 19:34:14
>是々非々で論じるべきではないか
論じて欲しいなら、全て論拠提示汁

それがなきゃ、アプローチも何もない


898 :天狗:2005/08/17(水) 19:35:08
>これに対して、信長の数多ある史料から行動を読み取り、行動原理を推測し、どうして立ち寄ったかを推察する。 これが通常の思考
で、その通常の思考法で得た結論は何かと聞いている。
分からないなら、分かりませんすいませんでした、と誤るのが通常の思考法。
もう少し勉強します、くらい言うならまだ可愛げもあるけど、
つーか見所もあり、妄想世界だけじゃなく現代社会でも通じるよ。

899 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 19:37:01
軍隊が一人の指揮官によって効果的に運用できるのは5単位まで、と
いわれている。ちなみに軍艦は一人の指揮官によって効果的に運用
できるのは8隻までといわれている。
関ヶ原の時の家康本隊の編成をみると、家康自身が指揮しなければな
らない部隊数が、限界を越えている。直轄部隊の数が多すぎて直感的
には把握できないわけだ。本来なら、もっと多くの大身の部下を何人
も率いていて、小身の部下を与力として配下に付け、直接命令を出す
べき部隊の数を減らさなければならない。
家康本隊が戦闘に突入すると、家康が各部隊の状況を理解しきれず、
命令に混乱が発生し、力を発揮できない。


900 :天狗:2005/08/17(水) 19:38:28
大体信長の話を提示しているの俺だよな。
お前やっぱり少し可笑しいよ


901 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 19:40:23
>>898
行動原理を推察する場合、何の事象について信長がどういう行動を取ったので
これは如何なる理由か?それを推測する時に考えるもの。
それが1日で可能だと考えるからこそ、>>891のような短絡的でバカなレスが出来るのだろう。

バカが例えをだしたので、その答えを出すにも、史料検討等、膨大な知識と資料が必要なのだと
言うのが理解できずに、いまだに信長の行動原理云々…。

自分の今までのレスは、それらがどうなされてるのかの答えさえ放置してるのにな。

902 :天狗:2005/08/17(水) 19:40:47
出来もしないとか俺がやるんじゃないよ、
それと当時大名クラスの貨幣流通の規模分かってるのか?
もし不足あれば借りるんだよ普通。

903 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 19:45:32
そう、このバカ天狗が思考してるのではない。
あくまで三成が、そういう思考をしたのかというのを証明しなければならない。
でも、それをすっぽり飛ばして、バカ天狗が思ったから、三成も実行すれば良かったとなり、
不足があれば借りたなどと、気軽に、簡単に述べる。

しかし、いまだに論拠らしき史料の提示は一度もない。

904 :天狗:2005/08/17(水) 19:46:24
>それが1日で可能だと考えるからこそ
考えていないよ。
初めから考えがあるから一旦じゃないの?
自分のカキコ見ろよ、相手にそう思わせているぞ。
まず、信長に関してはその様な考えはなかった訳だね。
素直にでは無いが、やっと認めたことになるな。
それは評価してやる。
それでは、これ以上追い詰めるのは止めよう。
で、どうしても西軍が絶対勝てないなら、
東軍としてモットましな作戦行動を提示すべき。
西軍優位に別な持論でもあるなら、やはりそれも提示すべき。
そこが議論のスタートになるのではないか?


905 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 19:53:26
904が全く理解できない。

筋違いな話ばかりしてる。
バカが例を出したので、その例えの答えだすにも、時間と知識がかかると書いたら、答えだせと要求したレスが
しっかりと残ってるのだが。

相手にそう思わせてるではなく、バカがそう思ってるだけ。

1日で答えが出るようなものではなく、多種多様な答えがあると書いたら
>まず、信長に関してはその様な考えはなかった訳だね。
と己の主観で断定し、それを基に話進めて、勝利宣言。
典型的な詭弁ですなw

自論を言う前に、天狗の自論の論拠を提示しろ言うのは一切無視。

906 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:02:20
盛り上がって参りました!

907 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:03:25
天狗はこのまま詭弁続けて1000まで行ってスレ潰す気だからw

908 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:04:14
つか天狗もアホもこのスレにはいらん。

909 :天狗:2005/08/17(水) 20:14:06
>証明しなければならない。
お前にか?しかもお前の言う推論、持論、洞察に証明?
それってお前の大好きな資料の開陳のこと?

>三成も実行すれば良かったとなり、
なんで?言ってねーぞそんな事。
お前が言ってるんじゃないか。
これを見れば自分が詭弁を弄していることに気が付かないか?

>不足があれば借りたなどと、気軽に、簡単に述べる。
大名家は借金も多いんだ。
資料漁っていそうな割には何も知らんのか?

>いまだに論拠らしき史料の提示は一度もない。
家に帰って積み重なっている文庫資料を一々引用するのかい。
引用すればあんたの気が済むのか?
それと、傍証至上主義じゃないんだ俺は。
自分で考えたと言ってるだろ。
それに対して、まともな反論も出来ていないじゃないか。
そういうと資料論証の提示が無いから駄目だという。
分かったよ。そうだ俺が勝手に言っているのだ。それでいい。
どうだ、お前は資料がなければ何も言えないのか?
社会経験が浅いと言ったのは、お前のそうした態度をいうのだ。
遠慮して未熟者と言うのを躊躇したが、お前は未熟者だ。
戦史を研究して何かを得るつもりでいるなら、素直さも必要だ。
その未熟さ加減は、秀秋や秀忠よりもだ。

910 :天狗:2005/08/17(水) 20:17:39
自分の身の回りを想起しろ。
誰かお前の言うこと聞く奴がいるか?
いないだろう。それがお前の未熟さだ。
浅はかさを知るがいい。
ここで罵倒されたことはお前の社会経験に活かせる筈だ。


911 :天狗:2005/08/17(水) 20:18:57
>つか天狗もアホもこのスレにはいらん。
同意する。自分が荒らしみたいで嫌になってきたスマン。

912 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:20:07
で、天狗はこのスレでアホの相手以外に何が言いたいんだ。

913 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:24:51
アホを煽るだけなら消えてくれ。

914 :天狗:2005/08/17(水) 20:25:27
>で、天狗はこのスレでアホの相手以外に何が言いたいんだ。
忘れたワ。
アホに一々かまっていて、嫌言い訳はよそう。
えっと、西軍を優位に導くなら、9/15時点の話は今更なので、
もっと遡る。早い段階で清洲を攻めようというものだ。
それと、史実の展開では東軍はもっとマシな作戦行動を取れて
勝てたと思うのです。

915 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:27:19
>>899
もう指揮官厨の粘着は飽きた。
家康の指揮下には名将揃いなんだからそんな問題は発生しないんだよ。何度言わせりゃ気が済むの?

916 :天狗:2005/08/17(水) 20:27:53
取り敢えず話が多少?提示された清洲攻めです。
伏見攻めと同時に清洲攻めの先発隊が出立しているべきだと
思うのです。
それは伊勢攻略をしないということです。
そんなに時間がないからです。

917 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:32:22
>>909
証明とは、結論に至るまでの経緯説明。
どういう史料を、どう解釈したのか、それを2〜3繰り返し、どう結論を導き出したのかという経緯。
バカのは結論だけ

>なんで?言ってねーぞそんな事。
>>891の話は?東軍で、出来るかどうか、発想するかどうかは別として、実行可能なのは家康しかいない
西軍で、同じ事が出来る立場なのは、主導的だった三成しかいないが?
別人なら誰の事を指すのか?

>大名家は借金も多いんだ。
平時に借金出来たのと、当時のあの状況で、>>891で書かれてる金子を用立て出来たのとは意味合いが全然違うが。

>自分で考えろ
考えるのは当然だ、考える基になる物がなければ、それは憶測であって、傍証ではない。
通常知られているのは、提示しなくてもいいだろう。
しかし、お前は思考等、史料提示による推論の証明をせねばならない事にも
何もせずに、自分がこう思うから、そうに違いない的説明をしながら断定して進めてるではないか?
お前は、戦史研究とかのレベルじゃない、個人サイトで妄想ぶちまけてる程度のレベルだ

天狗の文体から、常駐自演なのはバレバレだから。

918 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:38:40
>>915
家康さんの関ヶ原本隊の構成を万石以上の武将が少なく、寄せ集め的で、攻撃力を欠いたも
のと書いた本を見ましたがどうお考えでしょうか。

919 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:39:51
伊勢攻略の話もそう
後知恵の話をしても全然意味がない

だからバカなんだよ

920 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:40:56
新スレに移ったら、この話題はなしという事で宜しくな。

921 :天狗:2005/08/17(水) 20:42:12
>証明とは、結論に至るまでの経緯説明。
また辞書ひいたんだねご苦労。
俺のおかげで物知りになれるな。

>個人サイトで妄想ぶちまけてる程度のレベル
それすら論破できないお前は何?
またやっちまった。フー不毛だ。
ここって証明ごっこ板か?傍証資料板か?

>>891の話は?東軍で、出来るかどうか、発想するかどうかは別として、実行可能なのは家康しかいない
こうされたらどうするって聞いてんだよ。
他の奴にもアホって言われてるぞお前、俺と同じだね。

922 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:46:00
>>921
論破出来る出来ないのレベルじゃないじゃん。
人の妄想話をどう論破すんの?
それすら論破出来ないという事は、バカは自分のは妄想だと認めたという事か?

>こうされたらどうするって聞いてんだよ。
出来もしない仮定をして、どう対応するのか?と聞くバカはお前だけ

内容で反論できないから人格否定に割く割合増えてるな



923 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:47:04
あのさ、アホさんも天狗さんも面白い事も書いてると思うけど、罵り合いを始められてもね。
それはよそでやってくれいと。

924 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:48:56
面白くないよ
でも、こういうバカは徹底的にやらないと次スレでも、延々と勘違いして論拠も何もない電波飛ばし続けるよ

925 :天狗:2005/08/17(水) 20:50:18
もっと具体的に聞いてみよう。
お前に頼みごとをしたい人間がお前の目の前に3億円積んだ。
お前は本意ではないが、その頼みごとを聞くのではないかと、
聞いているんだよ。3億で不足なら5億でどうだ、と。
因みに頼んでいる相手が俺だ。

逆なら、つまり頼んでいるのがお前で、
聞いているのが俺だとしたら俺は3億要らないよ、
相手がお前でさえも5000万で受ける。

3億円。目の前にあれば、
お前の唾をのむ音が聞こえるよ。
俺ならヨダレ垂らしているかもね。


926 :天狗:2005/08/17(水) 20:52:40
>アホさんも天狗さんも面白い
ゴメンちょっと楽しんだ。

927 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:52:55
>>925
意味が分からん。

928 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:54:01
とまぁ、そういう事が可能だったのかどうか。
そういう事例が当時あったのか。
バカがそう考えたが、当事者達がそう考え、そういう行為が可能と考えたのか。

それを理解せずに、自分の感覚だけで語ってるバカ。

929 :天狗:2005/08/17(水) 21:01:15
>徹底的にやらないと
おう望むところだ。それを望んでいるのだろう?
別板立てろ。お題は
【★★★関が原★★★アホVS天狗=傍証資料対妄想★★★死ぬまでやってろ】
で、どうだ。
付き合うぜ幾らでも。
二人だけだ。
他の奴は秀秋みたいに高みの見物しててくれ。

930 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:02:17
>>915
三方原の戦いの時、武田勢の後備は穴山信君一人だった。
小牧の戦いの時、豊臣勢の後備は浅野長政一人だった。
(福島正則も後備に入っている)
しかし関ヶ原の戦いの時、徳川勢の後備は四人おり、しかもその内
二人は金森、遠藤の豊臣直臣の美濃の大小名だった。
本来は一人の武将の統制下に置かれていなければならないものである。
その他の備えも同じような状況であり、家康に過度の負担を強いる
指揮系統だった。

931 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:03:34
あら、反論できなくなって煽り一辺倒になった
こりゃ次スレ厳しいなぁ、夏休み明けが一番良いかもなぁ

932 :天狗:2005/08/17(水) 21:07:11
逃げたか。
ま逃げるが勝ちもあるか、
アホにしてはマシな作戦だな。
これで他の奴に迷惑かけずに済む。
休み明けに板立てておけよ。
見ているからな。

933 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:10:42
逃げた!?
個人のサイトじゃないんだが…バカすぎる
しかも相手して欲しけりゃ、自分で建てればいいのに、別板(スレじゃなく板だしなw)建てろ

( ゚д゚)ポカーン. ( ゚д゚)ポカーン. ( ゚д゚)ポカーン.
バカすぎ…

934 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:14:51
ttp://hobby8.2ch.net/warhis/

2chも歴史も初心者のバカにぴったりな板ですよ〜
どんな人でも相手して付き合ってくれるから、安心して逝って来い


935 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:19:48
後備は奥平信昌、松平(大須賀)忠政、本田成重、戸田尊次。

936 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:30:42
家康の本隊を分かり易く喩えると、大会社の部課長が全て出張で
出払っており、全ての係長が、直接社長の指示を仰ぐ。
そんな感じだ。係長からの伺いをいちいち社長が直接決裁するの
だから、処理が滞る。

937 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:32:14
関ヶ原本隊の万石以上の武将は、先鋒の松平忠吉、井伊直政、
軍監の本田忠勝(本田隊主力は中山道)
後備の奥平信昌、松平(大須賀)忠政(家臣は館林城守備)
の5名。

938 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:34:02
>>937
それだけいりゃ、十分じゃん。何の問題もない。

939 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:37:58
平時の徳川家の軍制と関ヶ原時を比較してみてはどうか?

940 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:39:31
関ヶ原合戦の東軍の前線部隊は3万強のうち、徳川の主な兵力は、井伊直政と松
平忠吉の軍勢あわせて6千余。残りはほとんどが豊臣系の将士。

941 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:42:06
>>939
確か5カ国時代の平時編制では井伊勢は一万以上。

942 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:45:43
徳川本隊と井伊直政と松平忠吉は別扱いになってる史料多いけど、どうよ?

943 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:47:40
家康の兵の質を旧軍に喩えると、秀忠の軍は現役兵の常設師団。
家康の軍は、召集令状で集めた応召兵の特設師団。

944 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:48:46
>>941
というと、小牧長久手辺りの史料でしかわからないと思うのだが
その辺りで兵数まで載ってる史料あったっけ?

945 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:34:36
井伊直政 上野箕輪 12万石
12万×0.03=3600

946 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:40:28
当時の軍隊は「備」を基本単位とする構成を持っている。
一つの備は旗頭、侍大将を中心として騎馬士、鑓部隊の徒士、足軽の鉄砲、弓の
部隊からなっており、これが戦闘の基本単位をなしている。

備はまた、総大将の構える旗本備を中心として、これを囲むように先鋒・先手備、中備、
脇備、後備・殿備といった配置をとり、戦闘はもっぱら先鋒・先手備の攻防で展開される。

自余の備は先手の後詰、第二波攻撃あるいは総大将の本陣、旗本備の防御に当たる。

旗本備はもっぱら総大将と本陣の守備を目的とするもので、その機能は本来的に
防御であって、攻撃ではない。

947 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:48:29
それゆえに、各軍団の戦力はたんに兵数で決まるものではなく、その質的構成が
問題となるのであり、先手備を中心とする攻撃型の備がどれだけ厚く、充実して
いるかにもっぱら関係する。

軍団の編成において万石以上の武将の数に注目するのは、彼らこそ独立の備を構成する
能力を持つからであり、その多さ、厚さこそが、当該軍団の戦力を判断する基準となる。

948 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:57:52
このような観点からするならば、徳川直属軍のうち秀忠隊と家康隊の兵数自体は
ともに3万台で大きな差は見られないものの、その質的な差、軍団の構造的な差
においては歴然たるものがある。

秀忠隊が直属の旗本備の他に、十人余を数える万石以上の武将たちを率いて、独立の
備を多数構成しうる本格的な軍団であるのに対して、家康隊というのは大身武将を欠
如した「旗本の侍共ばかり」からなる寄せ集め的で、防御的な部隊であったと解される。

949 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 00:00:06
また天狗か

950 :天狗:2005/08/18(木) 01:20:53
>信長の行動原理を追及しての答えでなく
こう言っておきながら、結局自分の答えを遂に提示しなかった。
アホのあだ名にいいのがあったわい。「ネームバリュー」ってのはどうだ?
少し長いか。何せ名乗らないからな。「海道一」でもいいな。

>歴史にIFはない、歴史は必然の結果であり、必然の結果であるから全てに要因を求めるのである、それが史学
この際だから言っておく。 自称史学にはうんざりだ。勘違いも甚だしい。
お前の与太話よりマシな講義をかなり受けているのだ。
ゼミで嫌というほど資料漁った俺に対し講釈垂れる前に、己を知れ。
人間というものを良く知れ。幾ら資料を漁っても、
それを学術研究と称して幾ら自分の殻を硬くしようとしても、
疑問に見当違いな答えをして、仮説や推論憶測に、得意の資料を駆使して反論すら出来ず、
一体何の史学を学んでいるのだ。
一体何の為に研究しているのだ。
歴史の真実を明かにしようとするものが、人間の心理に無知でどうするのだ。
人間とは生き物だ。その生き物が創る歴史が、
必然と簡単に表現など出来るものではないのだ。
歴史が必然ならば、これから起きる事を予想しろと、
過去が必然であれば現在も必然で、未来も必然となるんだぞ。
その様に言われると思わないのか?

お前は自分史学の開祖者に過ぎない。
お前のこれまでの発言は、史学を学んでいる者研究している者を冒涜しているぞ。
愚か者め。


951 :天狗:2005/08/18(木) 01:22:08
>伊勢攻略の話もそう、後知恵の話をしても全然意味がない
岐阜落城がまずく、清洲攻めが必要で、ダ・カ・ラ伊勢攻略に割く兵力と時間がないというのだ。明快だろ『海道一』、いい加減わかれコノ。
それを「後知恵」というのはいいが、「意味がない」のは何故だ?お前のこうした言い方が冒涜的だというのだ。
そういうお前の手口が腹に据えかねるからいい加減にしろとなるのだ。
「アホ」と、俺以外の者から言われただろう。気がつけつけよ。その手口他にもあるぞ。

>バカ天狗が思ったから、三成も実行すれば良かったとなり
ならない。 お前が言ってるだけだろ。誰が三成も実行すれば良いと言ったのだ。こうした言い方、
お前のそうした手口が姑息で幼稚だと言っているのだ。言いたくもないのに、未熟者と言わさるのだ。
愚か者と言わざるを得なくなるのだ。お前の手口が透けて見えるんだ。
幾ら言っても分からん奴は世間でガキ扱い受けるのだ。俺はお前をガキ扱いしたが、
このままではお前は実社会でも確実にガキ扱いのままだ。俺はお前を救おうとしているのに、
お前はガキのままで言いという。もう一度見直してみろ。俺の発言と自分の発言を全部見ろ。
反省したら、賛意と異議を明確にしろ。少しでも答えが見つかれば、書いてみるんだ。
貴様に今必要なのは猛省だ。俺に付いて来い。


952 :大和天狗:2005/08/18(木) 01:32:54
お前を弟子にしてやる。
俺はこれから大和天狗となる。
お前は鞍馬天狗と名乗るが良い。

953 :大和天狗:2005/08/18(木) 01:41:41
鞍馬天狗よ
俺の全てを伝授してやる。
10年は掛かろう。
お前は10年後日本一の史学者となるのだ。史学者とならなければ、
お前は日本一の歴史作家となるのだ。

鞍馬天狗よ
俺と共に歴史の真実を明らかにするのだ。
後世のために真実を明かにするのだ。
古くて新しい歴史観が確立されるのだ。

鞍馬天狗よ
それがお前の運命だ


954 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 02:02:07
話題に出ている井伊隊や忠吉隊はもちろん山内隊や有馬隊,有楽斎隊まで前線へ
投入していた
浅野らは後を裸にすることも出来ないため、もうそれ以上前線へ投入出来ない
状態だった
毛利らが万一西軍として参戦していれば、浅野らが持ちこたえることは、到底出来る
状況でなかったし、小早川がどちらへ攻撃してくるかで勝敗が分かれたと考えるのが
妥当

家康本隊も烏合の衆の状態だと支えきることさえ出来ないのは大阪陣の例を見れば
納得出来るというもの

これは私の憶測の域を出ないが島津はその時を狙っていたに違いない


955 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 03:18:40
狙っていない。
島津も家康以上に烏合の衆。ろくに武装を持たない者さえいた。
島津の兵は、単身或いは二、三人で連れだってやってきた者が
多数で、義勇兵に近い。まともに戦闘の出来る指揮系統が無い。
豊久の部隊のみが、まともに戦闘に耐えられる存在。

956 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 03:48:05
>>955
義久が動員をよしとしなかったため義弘領内の有志と分家の豊久部隊のみ
とはなったが、九州平定戦や朝鮮の役なども経験した兵ばかり
長躯して駆けつけたものの中には軽装な物もいたが、それだけに義弘のた
めには命を惜しまぬものばかり
それのどこが烏合の衆だというのか?

それまでの遺恨により三成の指揮に従うつもりはなくても、義弘ほどの
ものが敵を追い払うのみで、ただ座して待っていた訳がない
少数のため大勢に影響を与えるためには、その時を待つしかなかったが
その機が訪れることなく西軍が崩れ去った可能性は否定出来ない

957 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 04:04:42
>>956
三成の遺恨うんぬんは俗説だよ。
島津義弘は普通に西軍に参加してた。
実際、戦闘していたいう史料もある。
ただ中立主義の島津義久の妨害のせいで義勇兵しかいかなかっただけ。

その義勇兵の戦闘力はそこそこ高かっただろうが、
やはり戦局を左右するほどてはない。

958 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 04:10:09
>>955
義勇兵は動員されたものと違って戦意は高い。したがって個人的武勇
には優れているだろう。ただし集団戦法での練度が低く、部隊としては
烏合の衆となる。

959 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 04:24:58
>>956
分かり易くいうと、敵の騎馬武者の突入を、長柄隊が槍襖を作って
防ぐ、などという効率的な部隊運用が出来ない。
当時は軍役で装備比率が決まっており、バランスが取れるようになって
いたが、義弘隊に関しては、個人ごとの武器もまちまちになっていしまう。

960 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 04:40:56
通常は動員された足軽隊に長柄、鉄砲、弓などのお貸し具足が貸与され
鉄砲隊や弓隊や長柄隊などが編成される。しかし島津のような兵の集
まり方だと、そういった足軽隊が存在しない。自前の武器で参加する
侍主体なのだ。そういった意味では島津が夜襲を望んだというのは頷
ける。部隊としてまともに敵と対陣するのにはとても脆弱だが、夜襲
の場合は混戦になるので、各々の個人武勇に頼ることになる。島津が
最も力を発揮できる望ましい状況なのだ。


961 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 06:52:38
島津の夜襲提案説も事実かどうかわからないしさ。
それ以上に強引な説なのは家康隊弱体説だなあ。
なんか夏厨の季節っぽい。

>>954
支え切れない?
少しは混乱したものの真田隊は壊滅し幸村も討ち取られてる。
どこが支えてきれないんだか。


962 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 10:13:04
>歴史にIFはない、歴史は必然の結果であり、必然の結果であるから全てに要因を求めるのである、それが史学

典型的な受け売り勘違い厨
誰も史学が何たるかなんて尋ねてもいないのに毎度こういうのが出てくる
全てを結果から見ればifがないのは当たり前

歴史は必然ではなく、その時の行動や判断により変化する
貴方の行動や判断は貴方個人の未来を変化させ、国家元首の行動や判断は
国の行く末をも変化させる
ifとは歴史が動いたその時に焦点をあて、その要因が変化した場合を語って
いる


963 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 10:56:44
つまらない流れになったな

964 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 11:02:53
>>963
それと言うのも、家康本隊の戦闘力を不当に貶める厨どもが荒らしたせいだ。謝罪汁。

965 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 11:11:09
家康本隊(30000)と秀忠本隊(38000)が反対の進路を進めば良かったのかな・・・?

秀忠本隊は徳川の精鋭だから、関が原の最前線でも戦えたであろう
家康本隊の到着が遅れても、あまり問題は無かったと思う

966 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 11:22:09
>>965
> 家康本隊の到着が遅れても、あまり問題は無かったと思う

つ[豊臣系大名の戦意]

967 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 13:43:14
秀頼か輝元が出陣するか、または大津城攻略隊が到着しないと西軍が勝つのは無理でしょう?

968 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 14:21:36
秀忠隊は精鋭だが、秀忠や本田正信に兵や諸将を率いる能力がないから遊兵になった。
これは家康のミス。

969 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 14:32:40
家康が精鋭を率いたら、秀忠の到着が遅れても影響は小さいでしょうね?

970 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 14:44:57
三万人以上いない影響は大きい罠。

971 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 15:29:01
井伊軍団は武田氏滅亡後、武田旧臣を中心に結成された点で、三河譜代による本
田忠勝・榊原康政の軍団とは異なる。

井伊旧臣の数はごく少数で、大半は武田旧臣などからなる混成軍団で、これを「物主」
として配置された家康直臣が指揮、そして国衆の井伊谷三人衆が配属されている。

この井伊軍団の働きについては、小牧・長久手の戦いで、
「井伊直政カ二千余兵ヲ愛知郡矢作川ノ北ニ進マセ御旗本三千同郡長久手ヘ押サ
レ、井伊カ赤備一戦ヲ始ム」(武徳編年集成)とある。

井伊軍団の兵力は二千人余という。他の一般の譜代部将の兵力が二、三百人程度
であるから大部隊である。
しかもこの軍団は兵員の武具を赤色で統一した「赤備」であった。
混成軍団であるため、統率と士気高揚の面から考えだされたのであろうが、戦国
諸大名間では評判の軍団であった。

972 :デット−リ:2005/08/18(木) 17:26:26
しかし福島正則と宇喜多秀家って秀吉存命中も疎遠だったのかな?

973 :大和天狗:2005/08/18(木) 17:43:42
1584年小牧・長久手の戦い
1600年関が原の合戦
鞍馬天狗よ
見ているぞ


974 :大和天狗:2005/08/18(木) 17:50:19
>荒らしたせいだ
お前がだろ鞍馬天狗よ
お前ホントに只の徳川オタクみたいだな
それじゃ駄目だ、俺が鍛えてやる

975 :大和天狗:2005/08/18(木) 17:57:37
鞍馬天狗よ
お前西軍の清洲攻めの作戦立てるよな
幾ら徳川オタクのお前でもこれ位は出来るはずだ
いや・・・
恐らくそれを知っている筈だ

976 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 18:03:29
バカ天狗まだいたのか、後知恵で何語ってる時点でバカなんだよ
冒涜とかアホだな

>>962
結果から見て、何故その選択をしたのか、それを考えるだけでも全然違う
選ばれた選択を無視し、それによって起きた結果を考えず
むやみやたらIFに走るのが厨なんだよ。

>その時の行動や判断により変化する
から必然という、行動や判断は、当時の人間が選んだのだから。
選択するには理由が存在するのだよ。

バカ天狗は、伊勢攻略を無視して清洲攻めればいいと後知恵で語っても、
それは稲葉山落城など、結果知ってるから。
結果知ってれば、悪い結果を覆すことが出来るのは当然だ。
そして、それは当時の人間が思考して出した選択の意味を放棄し、自己満足に浸るだけ。
これこそ冒涜と言うのだよ。

選ばれた選択の結果だから必然と言うのを、「現在も必然で、未来も必然となる」と選ばれてもない状況を仮定して
必然と言う、典型的な詭弁だよ。
ttp://bio-diversity.hp.infoseek.co.jp/kiben.html
そんなバカは↑を読め。

977 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 18:14:07
天狗はただの愉快な人だから、そうカリカリしなくてもいいんでないの。
マジで相手する方がアホにしか見えん。

978 :大和天狗:2005/08/18(木) 18:22:52
我が弟子よ
お前はすぐ間違える、962はお前の師ではない。

俺もやっと気が付いた事がある。
何がしかお前の発言に違和感と不自然さを覚えていたが、
(アホさ加減は別として)その原因が分かった。

弟子よ
お前は他人の発言の内容に対して理解力があまりに不足している。
修行以前の問題だが、お前しか希望が残されていない以上やむを得ない。
俺の課す修行に耐えた、こなせる様になれば、
師の俺を越えるだろう。

979 :大和天狗:2005/08/18(木) 18:25:24
弟子よ
西軍の作戦を立てるのだ
お前の盲目を消せるからだ
お前にそれが出来ないとは言わせない
お前は既にそれを知っているからだ

980 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 18:27:09
962には>>962と区別してる。
バカにはバカと書いてる。
バカは自分が理解力不足してるのを、他人が不足してると勘違いする。
だから>>964を俺と勘違いしてバカレスしつつ、>>978のレスをする。
自分が見えてない典型。


>>977
そうね、NG設定しとくよ。

981 :デング熱:2005/08/18(木) 18:27:14
立ててみたけど、知恵熱がでた

982 :大和天狗:2005/08/18(木) 18:35:11
弟子よ
そんなに怖がらなくてもいい、お前をとって食おうという訳ではない。
具体的な作戦計画を示せというのだ。お前は既にそれを知っているから、それを書けばいいのだ

一体何を恐れているのだ。
自分の価値観と趣向が壊されていくのを垣間見たのか。
そうだ、垣間見えたからこそ、お前が最後の希望なのだ。
それを恐れる必要は全くない。なぜなら、お前は更に強くなるからだ。
さあ出でよ、自分で名乗るのだ、鞍馬天狗と

983 :大和天狗:2005/08/18(木) 18:44:27
弟子よ
さあ今こその正体をあらわせ。お前は只の徳川オタクではない。
お前は徳川オタクで一生を終える惨めな自分の姿を知っている。
深淵でそれを逃れたいというお前の叫びが俺には聞こえるのだ。
そして、お前が徳川オタクで一生を終えるなど、俺がさせない。
本当になりたいの自分の姿は鞍馬天狗だ。自分が見えただろう。
そう、お前は鞍馬天狗なのだ。


984 :大和天狗:2005/08/18(木) 19:55:20
弟子よ
いつまでメシ食ってんだ

985 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 20:49:47
何お前ら?
キチガイ?

986 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 02:47:45
…何か落ち着いちゃったね。
どうせなら埋めちゃえばよかったのに

987 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 06:19:28
島津、徳川は烏合の衆。
通常の第一線兵力ではなく、それぞれの中核をなす部隊は
他方面にいる。

988 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 08:05:02
>>987
指揮官厨、ウザいから他所行って。

989 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 08:30:38
現代戦に例えてもしかたない。
百万の大軍を手足のように動かす家康、義弘が率いているのだし。
ただ島津は兵質だの士気だのがどうこういう以前にあまりに少なすぎる。
家康の3万は腐っても大軍で弱いということはない。

990 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 11:24:16
惜しむらくは宗茂が遅参したことだ。それに尽きる

991 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 11:36:42
>>989
> 百万の大軍を手足のように動かす家康、義弘が率いているのだし。

頭だけあっても、神経や関節がなければ手足は動かないのでわ?

992 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 12:21:33
秀忠軍を見ると、家康のいない徳川軍団は烏合の衆。
家康がいるといないでは大違い。
とも言える。

993 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 12:28:13
毛利輝元のいない毛利家や、西軍も烏合の衆、とも言える。

994 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 12:30:37
つまり、関ヶ原の戦いの主役は烏合の衆。

995 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 13:07:56
上に家康抜きの秀忠隊が、関ヶ原の最前線で戦えたであろうとあるが、
徳川秀忠が豊臣系大名達も仕切って大合戦するのかと。

996 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 16:19:46
というか宗茂って攻略した後の大津城の守備を任されたらしいから
美濃方面への出撃はひとまず考えられていなかったというわけで遅参とはまた違うと思われ

997 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 16:56:52
997

998 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 16:58:25
だれかスレ建て宜しく
でもまた不毛な議論が続くのかな・・・?

999 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 16:59:07
999

1000 :日本@名無史さん:2005/08/19(金) 17:00:40
おしまい

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

386 KB
★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.02.02 2014/06/23 Mango Mangüé ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)