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【江上】騎馬民族説は今。。。vol.3【波夫】

1 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 21:50:13
騎馬民族は日本を征服したか
http://inoues.net/mystery/kibaminzoku.html
騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ     江上波夫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121001478/qid=1068485710/sr=1-4/ref=sr_1_2_4/249-2208796-7626727
騎馬民族は来た!?来ない?!                江上波夫・佐原真
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4096260665/249-2208796-7626727

☆過去スレ
【江上】騎馬民族説は今。。。【波夫】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1068492251/
http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11119593470689/
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.2【波夫】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1096735827/
http://makimo.to/2ch/academy3_history/1096/1096735827.html

2 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 21:55:21


3 :日本@名無史さん:2005/07/01(金) 23:57:59
もう論ずることもねーし。


4 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 04:51:44
直木孝次郎という人の河内政権論は面白い。
もちろん河内王朝は大和の政権とは別系統だというのだが、その経済基盤は
河内以西にあったという。
以下は私見だが、基盤が河内以西にあったのなら、それが瀬戸内海を通じて
伽耶につながっていたのであり、その経済力は鉄と馬の輸入にあったと考える
こともできる。ここまで来ればそれが伽耶勢力そのものだったというところまで
もう一歩だ。

5 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 12:23:26
>>4
今さら直木孝次郎かよ。(プッ

6 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:56:20
河内−吉備−伽耶を包含する勢力圏を想定することによって吉備の巨大古墳の
意味もわかる。

また、騎馬化は2段階に起こったのではないか。すなわち河内王朝の始まりと
同時に起こった「中核的」騎馬化が第一段階だ。この段階では相手は騎馬戦術
処女の三輪王朝ないし九州の小王国だから、戦力の中核が騎馬化していればよかった。

第2段階は広開土王以降の高句麗との戦いの必要によって起こった、日本列島の
馬供給基地化だ。
この段階で始めて中部地方の大規模馬牧場が作られた。
このように考えれば河内王朝の始まりと本格的騎馬化のずれを説明できる。

7 :日本@名無史さん:2005/07/02(土) 14:08:02
騎馬民族は日本を征服していません。
しかし>>6の推測は一部同意。

8 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 04:23:14
>>6
河内王朝が騎馬王朝の拠点で、その対抗に半島と大和があるんなら、
騎馬処女の大和など瞬く間に屈服することが可能ではないのか?
伽耶から九州侵攻して服属させ、吉備を制し、次いで河内にまで到達するほどの
圧倒的な攻撃力があるのなら、ついでに大和も落としてしまえよ。
そこが倭の最大拠点なんだから。
あるいはその必要すらないのなら、騎馬族の拠点はのちに河内にとどまらずに
大和に転じ必要はあるのか?

9 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 04:41:22
>>8
その疑問はそっくりそのまま「河内王朝」に当てはまる。
河内王朝はなぜ最初から大和に入らなかったのか?

10 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 05:10:57
>>9
大和から河内に進出したからだろ決まってるじゃないか。
直轄支配して馬飼育の拠点にしたんだよ。
半島情勢がそうすることを迫ったわけね。
しかし本拠はあくまで大和のままだ。


11 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 05:21:23
88 名前: 日本@名無史さん 04/10/20 18:27:53

>>87

1.扶余が倭人が居住し、鉄資源を採取している任那に侵攻、制圧。
2.金官と高句麗との戦闘が激化。
3.苦戦する扶余は後背地を確保したいが、海に隔てられ困難。
4.扶余が資源供給を欲する倭との連合を選択。技術を提供する一方で戦力の提供を受ける。
5.次々金官に補給される大量の倭人が、扶余指導の下、訓練されて騎馬戦術を習得してゆく。
6.倭人の将軍も扶余と同等の力をつける。
7.戦力的に高句麗と互角の争いに。
8.しかし最終的には高句麗の前に屈服。金官は崩壊して、扶余は流れ者として倭国に亡命。
9.敗北への危機感から、倭は日本列島で本格的な馬の飼育に入る。

http://makimo.to/2ch/academy3_history/1096/1096735827.html 前スレ

12 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 05:25:11
倭の中枢・大和が国内で馬飼育の場に選んだのが河内。
大和に近く、かつ半島への海上輸送に適してるから。
ただし海上輸送と言っても、海運力はそれほどでないから、
半島向けとしてはあくまで一定年齢に達するまでの飼育かも知れない。
他は国内制圧・統治向け。

13 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 09:20:28
古墳時代の外洋航海用船舶は西都原式の準構造船で全長10m。
元寇船は40mだと遺物から推定されている。
半島から日本列島への馬の輸送は、当時の外航船の大きさから考えて、
仔馬時分のものだったはずだ。

仮に成馬だったとしても、人間も含めた騎馬兵としての戦闘部隊まるごとの輸送は不可能。
船頭と馬飼いと馬何匹かのセットを何船かのスタイル。
船舶数と輸送回数を重ねることで幾度の転覆を克服して輸送を実現できたにすぎない。

もし船舶による馬の輸送が容易だったら間違いなく倭は騎馬民族に征服されてただろうが、
海に隔てられ安泰だった。
騎馬民族が大船舶率いて倭に侵攻してきたなどと夢想するのは全く愚かなことである。

任那を通じて仔馬を輸入し、河内中心に飼育を始めた倭は、
騎馬技術を元に、急速に国家統一を実現していく。

半島への馬の逆輸出も開始して、高句麗と互角の争いを可能に。
東国の征服に中部地方での飼育も開始することとなる。

それはあたかも種子島に漂着した鉄砲が、
短期間で日本を世界最大の鉄砲生産国に引き上げ、
日本での天下統一を実現させ、
朝鮮半島・大陸への征服戦争を可能にしたことと同じである。

他、騎馬民族説出現の背景としての文化的共通項だが、
倭は百済とは同盟関係にあり、知識人始め人材の交流は頻繁、
かつ百済滅亡後遺民受け入れの経緯から、
歴史書や文化体系において、騎馬民族的要素が日本の古墳時代に色濃く残っていたとして、
何の不思議もない。

14 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:34:38
北方系騎馬民族は泳げない、造船技術がない

15 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 12:16:23
真実はこれ、中津平野(豊国)を占領し出雲が関西に大和政権を樹立した後
東国経営に騎馬戦術を受け入れた。
・ 出 雲 に 生 き る 渡 来 の 神 々
www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/tripizumo2.html
出雲人=新羅渡来人、騎馬戦術渡来

16 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 12:30:55
騎馬民族がそのまま渡来したのではない、騎馬民族の文化を
受け入れた新羅人の渡来地出雲・吉備から和泉、東国へと拡散した。
倭は安曇族・邪馬台国など漢との交易を重視していたので騎馬とは無関係
南洋系邪馬台国が滅んで電光石火のごとく吉備に騎馬王朝立てるなんてどうみても
不自然だよ。
新羅と親密だった出雲が吉備・大和を騎馬兵の拠点にしたと考えないと
とても説明つかない。


17 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 12:55:26
出雲は最終的に負け組み、それを踏まえて
なるほど〜ですね。
具体的な説明もなかなかのものです、説得力もあるし、よし!それでいこう


18 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 12:56:26
>>13

19 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 13:28:20
>>16
騎馬民族の文化を受け入れた倭人で良いじゃない?なぜに態々新羅人=出雲人と
したがるの?その新羅人秦人と倭人はすでに出雲において混一化してたでしょう。
「出雲人=新羅渡来人、騎馬戦術渡来」
堅い思考が見え隠れして、賛同は得られないよ。

20 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 13:53:14
>>19
出雲人がそのまま新羅人というわけではない、しかし
出雲族、宗像族は新羅(新羅を通じ北魏の影響も)と密接な関係があり、倭(九州)、
難波(安曇江)、滋賀、近江、信濃などの安曇系の勢力とは
信仰、生業、習俗にかなりの違いがあった。
しかし、邪馬台国女王(台与=とよ=豊)が豊葦原中津国を
出雲・宗像勢力に明け渡して統一王朝が出来て以降
畿内、東日本を中心に一気に中国出雲系習俗が広まったと思われる。

21 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 14:15:44
宇佐神宮はその時のものだろう、九州で宗像族の宗像以外で
初めて神道を受け入れた場所だと思われる。

22 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 15:34:20
>>10
大和が河内に進出したのでないことは日本書紀に暗示されている。
始祖王の応神は九州出身であり、しかも年代から言って仲哀の子では
ない。
なおかつ神功皇后の胎内にあって日本に入ったのだから、外地との
関係も暗示されている。

さて、なぜ一気に大和をつぶさない?という質問に答えよう。
それは、当時の支配形態がそのようなものであるからだ。
河内に従属して、要求に応じて土木工事の労力や外征の兵力を供出
してくれるのなら、なにも苦労してつぶす必要はない。
そして大和が河内の巨大古墳を許容したこと、みずからはその後巨大古墳を
作らなかったことが、とりもなおさず大和の河内への従属を表している。

23 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 16:25:56
応神は九州出身じゃないだろ・・
半島遠征の帰路筑紫で生まれただけだよ。(日本人だよ)
河内に移したのは出雲騎馬勢力の拠点があったから


24 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 16:49:25
騎馬民族説は誤り、東国経営に馬と馬の使い手(渡来人)が必要で
半島と密接な繋がりのある出雲と統一王朝(崇神天皇)を作り
応神の時により具体化した。


25 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 17:58:50
>>13
>古墳時代の外洋航海用船舶は西都原式の準構造船で全長10m。
>元寇船は40mだと遺物から推定されている。
>半島から日本列島への馬の輸送は、当時の外航船の大きさから考えて、
>仔馬時分のものだったはずだ。

何故そのような状態で馬を運ぼうとしたかへの考慮が足りないな。
彼ら渡来人は騎馬民族だったからこそ馬が欲しかった。
彼らは亡民だったろう。
日本に逃げてきたものの馬が無くどうにかして馬を手に入れようとした。
そこで子馬を運んで日本で繁殖させたのだ。

馬は一回一頭しか生まないが、三年くらいで繁殖可能になるから割合速く増やす事が出来ただろう。



26 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 18:06:36
物部、伴氏も新羅の騎馬民族系であった可能性はある。
そもそも出雲系はみな出目が新羅

27 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 18:30:43
脳内完結かよ。
出雲族が新羅系なんて判別ついていない。

出雲族は大和民族と同様、神話では古くから三韓と交易や戦争といった交流を続けているが、
創生神話は三韓とも大和とも出自は別としている。


28 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:08:01
先ず時代観がはっきりしません、弥生全般にわたって波状的に渡来があった
のだから、大凡600年以上の年月で考えなければなりません。
3韓からの渡来で辰韓人だけが出雲に渡来した、とは長き年月を考えれば強引すぎる
主張です。
だいいち朝鮮半島全域にわたって倭と思しきぞんざいが文献などで確認され
ますから、半島の倭人が騎馬化して渡来したとも推測できますよね。

29 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:14:18
あとから出雲に上陸した勢力に制圧したされた可能性も排除できません。
滅ぼされた側の勢力が新羅勢力です。
怨霊・たたりを恐れて 、建立したのが出雲大社である。とも考えられます。

30 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:14:41
>>22
それはおかしいんじゃないですかね。
河内に巨大古墳が作られるようになって大和では休止した。
しかし従属しただけで休止にはならないでしょ。
それ以前の前方後円墳の拡大分布状況はそう言っている。
屈服されてはじめて大和での造営がなくなる。
しかし本来的には征服した大和において、
征服者の巨大墳墓が築かれるものだよ。
服属させた上で兵力を拠出させればそれでよい。
例外的に制圧を遅らせるのは、
相手もそれなりに強大で、即座の征服が困難な場合。
従民政策をもってして時間をかけて懐柔する。
しかし筑紫から河内に至る制圧路線の延長では考えにくいだろう。
なぜならそのような戦力の部隊が大和制圧に苦労するとは思えないからだ。

31 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:16:08
弥生時代は半島も日本列島も呉越系の亡命人が多かった。
しかし、半島に騎馬民族が侵入しだした頃、出雲はいち早く
この騎馬民族系を見方につけた。
出雲族の物部は騎馬民族と関係の深い人間であることは間違いない。
倭(九州)は晋(漢)にしか目が向いて無かった。

32 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:16:25
脳内妄想なら何とでも言えますw

33 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:23:15
筑紫の東進はない。
畿内朝の主力は出雲系。
九州は元々神道を信仰していないはずです、
出雲(騎馬系)が畿内・東国で
新羅・高麗・出雲神社を広めた。


34 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:25:19
台与の記述は真実。あそこがまさに畿内統一王朝の始まり


35 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:26:31
伊都国・出雲(投馬国)・吉備の連合によって二世紀後半、
大和の三輪に統一政権が誕生した。ヤマト国といい、倭国の首都であった。
女王の都する所。

36 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:31:12
>>32
魏志倭人伝の邪馬台国は九州地方王朝であるという
前提で史記の辻褄合わせをしてる。(この他に出雲王国があるが。)


37 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:32:50
>>35俺の前提と全然ちがーーう・・
これじゃ、話がかみ合わないはずだ・・
魏志倭人伝の記述は九州島の国しか記述してないという説に立ってる。

38 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:36:45
そっか、それなら気にせず続けてw

39 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:36:53
>>35
それから、伊都国は安曇勢力だから出雲と犬猿だろう、宗像という
九州では異質の存在と手を組んだのが出雲だと考えるのが自然だろう・・



40 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 19:39:21
安曇勢力と出雲系勢力で分けて考えると分かりやすい。


41 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 20:10:32
出雲では近畿側の銅鐸と九州側の銅剣の両方がある。
出雲の銅鐸は九州の銅鐸が伝わったものである事が解っている。
近畿の銅鐸は出雲から伝わったのだろう。

ところで出雲の東に弥生時代から銅鐸を持たない異質な存在があった。
四隅突出墓を作った連中だ。
畿内では弥生時代末期、銅鐸を破壊された。
銅鐸祭祀を嫌う種族が畿内に入った事は間違いない。


42 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:10:52
応神が筑紫で生まれた=騎馬民族が東進したと結論付けるキチガイ論法

43 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:26:42
応神陵が他と違ってるならともかくね

44 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:28:42
こうあってほしいい!!!
という希望を広めるのが人文学

45 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:33:37
邪馬台国だってそう、明らかに豊国の可能性が高いのに
筑紫であってほしいい!!というキチガイが
歴史をねじ曲げる。

46 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:00:27
せめて、データは公平に公開しよう。

47 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:27:33
>>30
>しかし従属しただけで休止にはならないでしょ。

ぜんぶ休止したとは言っていない。「巨大古墳」が作られなくなったと言っている。
やはり古墳の大きさは相対的な権力の大きさ、支配の広さを表していると思う。
もし大和で河内より大きな古墳が作られたなら、それは河内に従属していなかった証だ。
しかし実際はそうではなく、より小さな古墳しか作られなかった。

>例外的に制圧を遅らせるのは、
>相手もそれなりに強大で、即座の征服が困難な場合。

ちっとも例外ではない。古代の支配形態は、古墳を築くだけの独立性のある
小王国や豪族が、互いに支配被支配関係を持ってネットワークをなしている
だけなのだ。磐井のときのように徹底的につぶすほうがむしろ例外だ。

それに君の言うように、大和だってそれなりに強大だ。
だから河内は、大和を従属させると同時に大和の半島への出口を封じたの
だろう。河内に立地した意味はそこにある。南の紀ノ川の河口に、馬兜を出した
古墳があるが、それもこのような大和封じ込めの一環だと思う。

48 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:44:18
>>1
歴史学者が否定してるんだから、もういい加減にしとけや。

49 :日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:47:49
>>48
頓馬な学者がね。

50 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 01:56:01
>>47
河内の巨大古墳作ったのが大和なら何も矛盾しないだろ。大和で作られなくなったの。

大和封じ込めに河内制したというが、そんな回りくどいことせずに直接陥落させよ。
騎馬兵移動は困難か?大和へのルートは。
それと河内抑えても、琵琶湖伝って日本海ルートがあるだろ。

>ちっとも例外ではない。古代の支配形態は・・・
だからそれなら大和でも依然としてそれなりの規模のを作り続けてないとおかしいでしょってこと。

それに任那の古墳はぶっ壊されてるでしょ。
扶余に。

51 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 09:44:16
>>50
>河内の巨大古墳作ったのが大和なら何も矛盾しないだろ。大和で作られなくなったの。

そして応神が大和出身ならね。

>大和封じ込めに河内制したというが、そんな回りくどいことせずに直接陥落させよ。

直接支配か、間接支配かは、どちらが経済的かの選択だ。
つぶしてもそのために血を流して戦力を低下させ、つぶした後はみずから経営の労を
払わなくてはならない。
徳川だって大名を全部つぶして全国を天領にすればよかったが、そうしなかったのは
間接支配のほうが経済的だったからだ。

>だからそれなら大和でも依然としてそれなりの規模のを作り続けてないとおかしいでしょってこと。

三輪王朝の巨大古墳は、その支配が大和の外まで及んでいることを表しているのだ。
河内王朝成立後は大和内部の支配に縮小したのだから、いままでどおりの古墳を作る
ことはできない。

>それに任那の古墳はぶっ壊されてるでしょ。 扶余に。

それは直接支配のケースだ。支配者だってじぶんの本拠が必要。
金官に本拠を確保した後は、周りの伽耶諸国や新羅はつぶさず、間接支配した。

52 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 09:59:05
騎馬民族の習俗、文化はどの程度伝わっていたの
馬乳酒ぐらい飲んでたの

53 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:52:58
応神天皇陵の入口には神巧皇后三韓征伐の折
香椎の皇居に轡を納めた轡鍛冶の末裔が今でも住んでる。

54 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 01:32:59
>>51
吉備の大古墳はどう説明する?
巨大古墳造営時期は河内とほぼ同じだ。
河内に従属して全国支配力弱まったら作れなくなるなら、
吉備はなにゆえに作れたのか?

巨大古墳作るには労働力が必要だろ。
河内にそれだけの基盤はあったのか?
よそから連れてこなきゃ無理だろ。

大量の労働力を確保し、巨大古墳を築いて権力の基盤を固めた河内を捨てて、
後になってから大和に乗り込んで行った理由は説明できるのか?

55 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 05:00:06
>>54
大和発展説ならなおのこと説明できない。
大和発展説では、吉備の大古墳の問題はいわば「放置」されているのだ。

征服説、新王朝説なら河内と吉備は同じ勢力であった、という説明ができる。
征服者は先ず吉備に基盤を持って大和を威嚇し、第二段階で大和と折り合いを
つけて河内に乗り込んだ。
河内に新王朝を建てたあとも吉備は半島経営の基地として保持し、親族あるいは
有力者を駐留させた。
河内、吉備とも、新勢力が日本、半島を合わせた新しい「帝国」であることを
主張するために古墳は巨大になった。

56 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 06:32:20
>>52
>馬乳酒ぐらい飲んでたの

騎馬民族の中でも特に酒の飲めない連中が来たのさ。
だから畿内には今でも下戸が多い。

57 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 06:39:11
畿内には二つの勢力があった、難波(安曇江)は下戸の多い民族が
開拓した地域。黄泉(近江)は出雲(騎馬)の勢力が強かった。
河内より東も出雲(騎馬)の勢力圏

58 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 09:23:31
>>57
馬乳酒より日本酒(どぶろく)が旨かったというだけのことじゃないの
酒の肴は馬肉だろうけど


59 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 09:29:30
天高原は出雲人の高句麗から北に伝わる伝説と筑豊盆地侵略を被らせたんじゃなかろうか・・

60 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 09:40:29
元々、戦前の皇国歴史韓でかなりねつ造されたところから
スタートしてるから・・
出雲人は明らかに騎馬系の末裔、後裔
強大な軍事力で侵略・併合し瞬く間に日本を制圧した。
倭(九州)は小国分裂国家で漢から伝わった銅剣銅矛で
戦争ばかりしてた。銅剣銅矛文化圏、銅鐸文化圏なんてバカ臭い
のがあったが日本古代史はほとんどねつ造だらけ、そのせいで発展が遅れた!

61 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 09:55:59
まだやってたのか。いい加減にしろよ。

62 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 10:00:21
山人(ヤマト)は縄文人の後裔で今でも我々の遺伝子に痕跡を残す
日本海沿岸に渡来した太陽信仰を持つ
騎馬人(出雲・宗像人=異国人)が騎馬をもって日本列島を制圧したと言えよう。


63 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 10:16:08
>>61頭にくるじゃん。
いい加減な説が流布されてると

64 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 15:32:05
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&c2coff=1&q=%E9%A6%AC%E3%81%AE%E7%94%A3%E5%9C%B0&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
馬の産地で調べれ

65 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 15:35:15
古代日本では、いしゆみは使わなかったの?

66 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:43:17
>>55
馬と騎馬戦術が入ってきたんで、大和主体に、
まだ独立性のあった吉備を屈服させ得たんだよ。
河内は馬飼育地。
ゆえに河内と吉備に新たに大古墳が築かれた。

そもそも筑紫や吉備を征服した主体が、
大和のみ放置する理由はない。
大和も同時に屈服させ、
吉備と大和に大古墳を築けばいい。

67 :白馬青牛:2005/07/05(火) 23:07:15
>>65
いしゆみ、と言うより広い意味での弩は『日本書紀』天武紀。壬申の乱に
おいて瀬田川の戦闘で「列弩乱発 矢下如雨」とあり、のち延暦十四年
(795)「強弩為神 其為用也 短於逐撃長於守禦(中略)
故大唐雖有弩名 曾不如此器之勁利也」つまり強弩は神の如きもので、
性能の特質は追撃戦に弱く防御戦に強い。唐(中国)の弩も日本の
この弩には及ばない『本朝文粋』。
貞観八年(866)肥前国諸郡司の新羅通諜事件でも、「造兵弩器械之術」
我が国の弩の製法を教えることであった『三代実録』。ハイテク兵器の
技術が敵国(新羅)に漏れるのは如何にもまずい。逆に新羅軍にとっては
脅威じゃった。
弩が威力を発揮した戦闘は寛平六年(894)新羅軍の対馬侵攻で、
「大小船艘 乗人二千五百人」の新羅軍を迎撃したが、勝敗を決したのは
敵を引き寄せ「立盾令調弩(中略)合計射殺三百二人」とあるよう
弩によって新羅軍を撃退した『扶桑略記』。
日本は、対蝦夷や対新羅で騎馬戦闘や造船技術よりも強弩の開発に力を
注いだ。

68 :白馬青牛:2005/07/05(火) 23:52:54
新弩の改良は、承和二年(835)にもあり、、嶋木史真という者が
辺兵に備える為自ら製作したもので、「四面可射 廻転易発」と容易に
発射方向を変えることが出来るよう改良されたらしい『続日本後紀』。

出雲については、四隅突出墳の年代が問題となるので、難しいが仮説と
して、出雲の四隅突出墳は、島根を中心に広島、岡山、鳥取、北陸にも
ある。更に北朝鮮の満洲よりの慈江道(日本統治時代は平安北道、
高麗以前は女真の地)にも見られるので新羅(朝鮮)より高句麗(満洲)の
影響が強いと思える。

69 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:57:25
そりゃ騎馬民族ツングースだから高句麗(句麗=呉)だろ
俺は出雲と広島・岡山の出目は間違いなくモンゴル人だと睨んでるよ。

70 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 03:08:51
東日本人がどうやら立派なツングースの末裔であることが
立証された。

71 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 03:16:35
↑YAP+問題は未解決
ツングースにはないのに
日本人やアイヌ人やエスキモーやネイティブアメリカンにはある。

72 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 03:30:00
>>71
簡単じゃん、東日本人は西日本人に白(朴=パク)人、太陽、
アマテラス崇拝の騎馬民族が混じっただけ。

73 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 03:40:35
太陽信仰の新羅人は日出国を目指したと思うね。
まさに出雲だったのでしょう。

74 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 03:41:33
正確には新羅人もいろんな民族がいるから特定の人だけ

75 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 03:51:47
するとツングース(朴=パク)は太陽めざしひたすら東進
雪(白)を好むのは天性の習性だったのでは・・
雪国東日本に住むことは民族(ミンジョク)の祈願のだったのかな・・・


76 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 05:59:35
>>71
>YAP+問題

YAP+は縄文人が持っていたと言う事で解決だ。

>日本人やアイヌ人やエスキモーやネイティブアメリカンにはある。

当然だろ。縄文人の末裔なり、混血なんだから。
黒人にもある。人類発祥の時から持っていて、その後失われたものだ。

YAP+は生存競争に弱かったのだろう。YAP+は人口の希薄な所、島、山の中に多い。

77 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 09:22:23
>>67>>68
サンクスでつ

やはり弩でもって、騎馬戦法に対峙したら極めて有効ではないかと思いまつ

78 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 09:59:26
吉備の秦にあるH式古墳は地元では、国内最古といわれ、5世紀建立説の秦廃寺も
国内最古説。高梁川たたい(たたら)の人工堤防は20キロ四方にいまも用水をおくり、
紀元8年当時の新時代の貸せんが28枚も一度に出土している。たてつき遺跡からは国内最大の
祭祀水銀(鬼道)が他の一〇倍規模で出てる。造山古墳は当時アジア最大(国内4位)
神武が8年滞在した伝説、書紀では応神、仁徳が妻を追って何度も吉備のハダに滞在記述。
秦氏は始皇帝15世弓月王始祖が応神のときに渡来となっているが、伊勢、狼の姿を
借りた神記述など騎馬遊牧民的記述が多い。太子のパトロン秦河勝は新羅代理人だが、
高句麗の軍事顧問説もある。一族に伝わる土器や瓦、埴輪には鳩や船が多く、羊伝承もある。

79 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 10:49:04
君たちの家や近所にある神社・神棚が天照系(出雲)か大王系かで
その地域が本当の意味で新羅系か徐福系か区別できるのでは?

80 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:11:59
半島の人は自分たちを支配した日帝がまさか自分たちの祖先
新羅神を崇拝する出雲・関東政権だとは思いもしなかっただろう。
出雲はかつて分身と呼ばれていたらしいが何か関係はないのか

81 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:13:47
>狼の姿を借りた神

ってモロ、モンゴルから来た証拠だよね。

82 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:17:13
白神山地ってのはやはり新羅系

83 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:22:49
大神=オオカミなのでは?

84 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:25:09
君らほとんど語呂合わせだけだね。

85 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:32:23
>>94
後の政権が必死で出目隠ししたもんで表だったものは少ない。

86 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 11:55:23
日本の神道って、大陸の道教系なの
それとも半島の祭祀の影響があるの?
さすがに豚の頭はお供えしないよね

87 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 12:15:48
日本の土着信仰に徐福の道教が混じり東日本一帯には
出雲にきたツングースの信仰が混じった。

88 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 12:18:53
磐座信仰は半島系らしい。
神社は明らかに新羅の真似だね。

89 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 12:21:40
>>88磐座信仰は半島のどの辺ですか?
てっきり日本の土着信仰だとばかり思ってた。
それでも起源は南洋系か縄文時代からの信仰なんじゃ
ないんだろうか?


90 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 12:42:50
>>89
>磐座信仰は半島のどの辺ですか?

全羅道の支石墓だ。半島には数万の支石墓があり、全羅道には半数以上の
支石墓が集中している。
日本では北九州を中心に全部で千個以下かな。

支石墓は初めは墓だったが半島では巨大化して、次第に墓としての意味を
失い、集落の中心、集落の境界をしめすモニュメント化したそうだ。
そしてそこでは祭祀が行われていた。

となると、磐座、磐境そのものじゃないか?

>それでも起源は南洋系か縄文時代からの信仰なんじゃ

支石墓そのものは南方or揚子江下流域が起源で縄文末に来ただろう。
多分、水耕稲作と同時に。

しかし、古墳時代頃、半島で巨大化して墓の意味が無くなってから再び
来日した。


91 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:06:13
全羅道とは半島の南西部ですね。
呉越や東南アジアでは磐座信仰はみられないのだろうか?

92 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:12:56
秋田や越国はベトナム系という説とオロチ(オロチョン=高句麗)系という
説があるがどちらが有力なのだろうか?それともその両方だろうか?

93 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:25:40
ヤマトのオロチ(句麗人)=八岐大蛇という説

94 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:32:08
全羅道に呉越から稲作が伝わって半島の人により呉越の遺伝的
影響が見られるということは、北部九州では呉越人から稲作だけを
学んだ土着の人が多かったってことかもしれない。
すると日本での本格的な弥生人は山東半島の徐福の系統ってことかも

95 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:46:57
http://www.geocities.jp/rekisi_neko/owari.html
ヤマタノオロチはオロチ族という説はあるよ

96 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 13:58:32
戦前戦後嘘つき遺伝子によってねつ造された歴史を再検討する必要あり

97 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:07:51
やはり、日本は神国ということで解決
でも神武がどこから来たのかは知りたい

98 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:10:41
>>97
馬鹿か?徐福にきまっとろが。


99 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:12:09
時代が違うだろ。

100 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:12:39
新羅に決まってる

101 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:12:56
もう手遅れ。
パワーバランスの微妙なバランスに乗ってるだけ。

102 :サガミハラハラ:2005/07/06(水) 14:13:39
すみません。神武は土着の倭人なのです。
福岡市の室見川流域(山門庄)で生まれ育ちました。

103 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:36:36
八女の磐井の乱の岩戸山遺跡はほぼ間違いなく山や岩を信仰する
土着勢力の天照を信仰する出雲政権に対する宗教戦争だろ・・
八女の勢力は新羅の岩山勢力にでも援軍求めたのだろうか?

>>99
年代は記憶違いや物語化する際の整合性の問題でかなりずれるだろ

104 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:45:51
ずっと天照大神が土着勢力、倭大王魂が進行勢力だと教えられてきたが
どう考えても真逆。

105 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 15:15:04
国譲りから考察するに、出雲は新羅辺りから青銅器文化を持ち込んだ人々が土着と結びながら開拓していった土地で
後から鉄器を持つ天孫族の侵入で出雲は脅びやかされることになる、銅剣VS鉄剣では勝負にならず、出雲側に強硬派はいたものの
出雲国主の冷静な判断で、降伏(国譲り)又は天孫優位の同盟で平和的決着がつく。
そもそも出雲族と天孫族の出自は近かったと考える。
天孫族は委奴国王として考えてみるのも面白い、大乱後南九州に追いやられ狗奴国として再興の機会を伺い
時は満ちたと。鉄器武装させた勇敢な隼人を従え・・・九州を制圧・・・国譲り・・・
年代差はまあそこは記紀ということでご容赦。

106 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 15:44:45
DNAからみて基本的に縄文勢力と最初の弥生人は平和的に混交していったと
みるのが自然だと思う。これから察するにもっとも大規模な
弥生勢力は平和的な山東の人々

難波に関しては地名から察するに呉越系が多かったと思うな・・

天孫族は名前からみてツングース系だと思う、倭(ヤマト)とは異なる勢力。
すると、国譲りの話はヤマトとの統一の前かな


107 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 16:03:35
まだやってるのか。w

108 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 16:06:49
国譲りの話は本州(扶桑国)だけの話だと考える。
天孫族(ツングース系)が先住のヤマト族やオロチ族を制圧し最後に
出雲・東国一帯を制圧したのだろう。
難波についてはヤマトと呉越人の関係で九州と繋がりが深かったので
出雲勢力下に入るのは遅くなる。

倭国(九州)についてはこれと分けて考える。
倭国の土着ヤマト勢力は新しい天孫系勢力が邪魔で邪魔で仕方なかった。
おそらく天孫系が支配的だったのは豊国一帯


109 :白馬青牛:2005/07/07(木) 00:32:29
>>105
中国地方は、鉄の産地じゃ。新羅は出雲より角杯型土器の出土から
北陸の方に影響が強いと思う。
銅剣が鉄剣より劣るのは、斬るという要素。刺すものとしては、
銅剣がよい。しかも耐強度の為、厚くなり、刺された方は傷がひどい。
その点では鉄にない威力を持っておった。

ちなみにオロチとは、ツングース語(満洲語、モンゴル語、ヤクート語
等にも共通)で「領域、土着の者」の意味もある。

110 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 13:55:42
>>66
>馬と騎馬戦術が入ってきたんで、大和主体に、
>まだ独立性のあった吉備を屈服させ得たんだよ。
>河内は馬飼育地。
>ゆえに河内と吉備に新たに大古墳が築かれた

時系列がめちゃくちゃだな。
騎馬化した大和が河内と吉備を騎馬戦術で征服したというが、河内以前の大和、すなわち
三輪王朝が騎馬化した形跡はない。
また河内王朝が成立した結果として河内の馬生産がはじまったのであって、河内がもともと
「馬飼育地」だったのではない。

111 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 14:10:54
三輪王朝はやっぱり大和の本家本流なんだね。
ところで、大和は鮮人勢力岡山・和歌山人を屈服させる
ことができたのだろうか

112 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 18:31:27
熊野神社は高麗の神社なんだよね。
白木神社は新羅。
白髪神社も新羅。

113 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 18:43:25
そうだよ、大国様と神仏習合神以外全部朝鮮人の末裔なのよ。
僕は学者じゃないし政治力もないから
馬鹿ん頭人(関東人=チョン=朝鮮=ツングース)が
今の今まで封印してきた歴史をデータで裏付けし広めて。
ヤマト

114 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 18:45:26
なりすまし日本人、世界最低の人種
東朝鮮人(東日本?人)

115 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 18:51:28
三輪、太宰府はおそらく、旧ヤマトの首都があった都市だね。
なりすましツングースが封印したのさ

116 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 18:59:43
>>112
白髪神社といえばどぶろくだな
どぶろく文化は馬乳酒がベースなのか?
騎馬民族は米酒が好きなんだろう

117 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:01:07
先人がツングースに乗っ取られ伝えられなかったこと
を・・

118 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:29:13
白山神社は以外にも高句麗。
祭神の名前が菊里(ククリ)媛。
皇室では韓神祀っているし日本人の大半があっちから来たと言うのも頷ける。

119 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 19:31:12
だから、ヤマトを制圧した東朝鮮人

120 :サガミハラハラ:2005/07/07(木) 20:09:43
熊野神社は天照大神の5人の子の1人クマノクスビ(だっけか)神をまつったものです。
出雲の熊野神社が本社で和歌山の神社は、崇神天皇の時の出雲振根の変の時に出雲から移住させられた貴族が分祀して持ってきたものです。

121 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 20:13:15
あなたは正直な人ですね、相模のヤマトの末裔です。

122 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 20:17:09
つまり、こういうこと

韓国、朝鮮人は、非常に人種差別的、権威主義的、 階級意識の強い人々

韓国、朝鮮人は、自分たちの階級意識や権威主義的、人種差別的、価値観を他国に押し付けたがる人々

韓国、朝鮮人は、日本の権威、権力と自分達とを無理やりに こじつけて、日本人に対する優越感を持ちたがっている

123 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 21:48:46
高句麗は「狛」少し違う字、確か作りが「百」になってた。
この「狛」と言うのは想像上の動物だが熊によく似た獣だった。
だから「高麗」も「狛」も「くま」で「くま」が訛って「こま」になった。
朝鮮語でも「熊」は「こま」だ分かったか?

124 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 21:50:07
>>123
訂正
朝鮮語で「熊」は「こむ」だった。


125 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 22:19:28
( ´,_ゝ`)プッ

126 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 05:16:23
>>123
なるほど。神社にいる「こまいぬ」も、あれが想像上の動物の「こま」で、
「いぬ」はつけたりなのだろうね。

127 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 06:41:16
どうやら出雲騎馬民族ツングース支配政権だったみたいですね。

128 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 09:01:49
>>126
>なるほど。神社にいる「こまいぬ」も、あれが想像上の動物の「こま」で、
>「いぬ」はつけたりなのだろうね。

「こまいぬ」は7世紀高句麗が滅んで日本に難民がやって来たときに持ち込んだものだ。
本来は中国の獅子が起源なのだが、高句麗から来たから「狛犬」とされた。
沖縄では中国から直接来ているから「シーサー(獅子が訛った)」になったのだよ。

日本では獅子の姿を見た事は無いし、「狛」も見たことは無い。
四足だし頭を除けば犬に見えなくも無い。
高句麗人が持ち込んだから取り合えず「狛犬」としたのだろう。

129 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 22:58:13
訓読みの「こま」は熊だろうか。
そうすると「駒」の「こま」はどうなる?
本当は「こま」は一般に「たくましい動物」を言うのではないか?
だから「駒」は本当は「こまうま」で、体格のいい馬のことではないか?

130 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 03:11:27
電波祭り

131 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 03:14:48
こま=子馬 アフォくさ

132 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 03:26:14
>>130
2chの古代史関連スレはそれを楽しむ場所。

133 :サガミハラハラ:2005/07/09(土) 07:34:54
こま=小馬
本来の馬より日本の馬は小柄なので小馬となづけた。  といってる人がいました。

134 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 08:19:48
素戔嗚尊・大国主命は馬に乗ってねえよ
♪〜大きな袋を肩にかけ、だぞ


135 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 09:44:11
古代騎馬民族軍団の祭器が銅鐸なの?

136 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 09:53:53
古代騎馬民族の末裔=聖徳太子=ツングース=源氏=明治天皇
銅鏡だよ、光、白は彼らのもっとも神聖とするものだ。
源氏は出目を明らかにせよ


137 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 10:03:32
鮮卑拓跋部の北魏の漢姓は元氏だが、「原氏」との説もある。
日本の源氏も別方向で見ると天皇家の姓と考えられないこともない。

これは電波系かも知れんが、聖徳太子(厩皇子)自体が極東突厥人説もあるらしい。

…となると
古代騎馬民族の末裔=聖徳太子=トルコ+ツングース=源氏=明治天皇だろう?

138 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 10:29:49
>>137これでは電波にもならない

139 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 11:24:55
俺を学者として迎えるなら真実を明らかにしてもよい

140 :サガミハラハラ:2005/07/09(土) 12:28:40
銀座駅前大学で教授の資格をとってはいかがでしょう。

141 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 12:31:07
みんながんばろうね。
もう、万里の長城は直ぐそこ・・・

142 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 13:33:48
>>133
漢和辞典によると「若くて元気な馬」「小型の馬」の二つの意味があるらしいね。

君し来ば、手だれの駒に飼ひ飼はむ、黄ばみ枯れたる下葉なりとも。(源氏物語)

この「駒」の意味は別だけど。

143 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 17:44:50
ホ・ジェヨン・ソウル大国語教育研究員首席研究員は、「日本の学者たちは、日本語が
アルタイ語(及び韓国語)とは独立的に形成され、むしろ日本語が韓国語に影響を与えた
というふうに説明している。・・・・・」

ソース:ハンギョレ新聞を抄訳<“日本語の根は韓国語” 学問的立証>
http://www.hani.co.kr/section-009000000/2005/07/009000000200507081721054.html

144 :滝沢馬琴:2005/07/09(土) 18:50:23
前方後円墳をみると、アレは完璧に騎馬民族の象徴の馬蹄アーチと一緒
......と思う。

145 :サガミハラハラ:2005/07/09(土) 19:26:04
前方後円墳はあれは人型なのですよ。くびれ部分に糸をつけるとてるてるになるでしょう。

146 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:28:55
>>145
貴方はもしや平家の末裔では?

147 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:29:51
イクイクオナニミコはフィンガーマンで女どもは穴を突き上げ
それを激しく求めた。
前方後円墳は、マムコにも見えますね。

148 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 22:54:39
>>128
>本来は中国の獅子が起源なのだが、高句麗から来たから「狛犬」とされた。

異説もある。その説によれば神社の狛犬は一対の獅子なのではなく「狛」と「獅子」
の組み合わせだ。角の生えているほうが狛で生えてないほうが獅子。
もとはどちらもペルシャなどのライオンだが、中国で狛と獅子に別れた。
日本で、前者には「こま」という訓がついたが後者にはつかなかった。

この説が正しければ「あれが想像上の動物の「こま」」というのは半分
あたっているわけだし、高麗から来たからこま犬、というのは順序が逆。
高麗は「ワイ狛」の狛、狛の訓は「こま」、だから高麗は「こま」という
順序だ。
もっとも「ワイ狛」の狛は本来はむじな扁だけど。


149 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 23:30:56
>もっとも「ワイ狛」の狛は本来はむじな扁だけど。

狛は「貊」。中国語では「ばく」だね。

>高麗は「ワイ狛」の狛、狛の訓は「こま」、だから高麗は「こま」という
>順序だ。

日本に存在せず、見た事もない動物に倭訓が有ってたまるか。
典型的トンデモ。

150 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 13:31:00
朝鮮半島の付け根に蓋馬(ケマ)高原という大きな山塊がある。
高句麗が「こま」と呼ばれた事に無関係ではあるまい。

日本人は高句麗が「貊」であり「熊」に似た動物を始祖とする伝説を持っていた事も知っていた。
それが高句麗を「こま」と呼んだ理由だ。

高句麗の始祖伝説として「三国遺事」に書いてある「熊女」の話は後世に作られた話とする説がもっぱらだが、
昔からあった話であると考えるのが妥当だ。
このように推理をしていけば熊野神社は高句麗系神社である可能性は強い事になる。

そして熊野神社が祀る素戔嗚尊が新羅に来る前にいた所は高句麗。
高天原も高句麗という事になるのだ。

日本に来た騎馬民族は高句麗族で間違いない。


151 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 13:43:37
いやだから、来てないって

152 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 14:57:30
幕末に日本へ来た英国将校が日本には去勢がないと。職人が西洋式馬具
蹄鉄は造れたが、そんな可哀相なことは出来ませんと拒否。
騎馬民族で去勢を知らないとは。

153 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 19:55:05
準構造船のような丸木舟に毛の生えたような船で馬を運ぶ事は難しかった。
子馬で運んで日本国内で繁殖させたのだろう。
なぜ難しいのにそうまでして馬を運ぼうとしたか?
騎馬民族だからだ。

去勢したら繁殖できないだろ?
何代も去勢せずに繁殖させている内に去勢する技術は忘れてしまったんだ。
これで辻褄が合うだろ。

それからモンゴル平原の東にトゥバ族という、去勢をしない騎馬民族がある事も指摘されている。
去勢をしないから騎馬民族ではない、などアホの言い草。



154 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 02:16:54
>153
南鮮で騎馬隊と戦闘してるうちに、
戦闘における馬の重要性を知ったからだ。
インディアンも同じだろ。
知れば馬の飼育に乗り出すのが当然だ。


155 :がいやまん:2005/07/11(月) 09:12:13
参照→馬飼首(うまかいのおびと)列伝
http://www.infonet.co.jp/nobk/kwch/umakai.htm


156 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 10:20:44
関西は牛車でしょ。

157 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 16:26:57
熊野神社の御神体は素戔嗚尊というが
角があるのは牛頭天王に関連するのか
また素戔嗚尊はなぜに水神系の神々と関係があるのか

158 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 17:41:51
貧乏暇なし

159 :日本@名無史さん:2005/07/12(火) 00:19:53
>角があるのは牛頭天王に関連するのか

高句麗語で「牛頭」は「次若」となる。
「次若」は「tu-nyak」と発音されるから、日本語の「角(つの)」に対応がとれる。




160 :サガミハラハラ:2005/07/12(火) 17:13:40
>>134
因幡の白兎の話だが、インドネシアに登場動物は違うが、(ソロモン王のご命令だとして鹿?だかが騙したという話。うろ覚えですみません)
似たような話があるが、これは、戦国時代に南方に進出した日本人が伝えたものですよね。

161 :日本@名無史さん:2005/07/12(火) 17:44:31
確か南方には、浦島太郎伝説もあるだろうが


162 :日本@名無史さん:2005/07/12(火) 19:03:15
高句麗神話にも朱蒙を父親が殺殺そうとして、川まで追い詰めた時、魚が橋を作って朱蒙を逃がした、と言う話しがある。


163 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 16:51:32
ツングースって、なんか曖昧な民族じゃないの
一部が騎馬民族に分化したの
騎馬というより先祖はトナカイに騎乗してたんだろう

164 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 16:58:13
想像だけど、始皇帝の前は万里の長城より南はみな
アイヌのような白人ぽい人種住んでいたのではないか?
辺境に住んでいた新モンゴロイドが南に住んでいる
豊かな民族から土地を奪おうと文明を発展させたのかも
目つり上げながら

165 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 16:59:20
>>163
最初から騎馬化していたとは考えにくい。

166 :白馬青牛:2005/07/14(木) 00:47:44
>>163
ツングースは、ホジェン族(ナナイ族)のように漁労を生業とした
部族もあった。のち、平安期に刀伊(女真)が北九州を襲ったように、
海賊の要素もある。
仮説であるが、島根から広島、鳥取に四隅突出墳を残した者も、日本海
ルートで北陸に勢力を広げていること、あるいはオホーツク文化、
(北海道)まで考えると、把婁と同じく、水軍としての性格が強いとも
思える。
こう考えると騎馬民族説より、ツングース水軍説に近くなるが。
ツングースのみならず、トナカイ騎乗から、内陸アジアは騎馬民族化
したという説もある。

167 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:53:08
騎馬民族なんて日本に来てねえし、考古学的根拠に乏しいし
バカ説認定。

168 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 01:03:22
きてるよ。縄文人と現代日本人が顔が違うのが何よりの証拠。
ツングース=源氏、先住民族=平家
氏姓制度、貨幣制度

169 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 05:03:43
>>168
弥生人として来たのはまだ騎馬民族説の対象ではない。
その後の波として4世紀以降に来て、政治的に支配した一派があったと
想定するのが騎馬民族説。

170 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 09:24:41
>>166
ツングース水軍説はおもしろいと思う



171 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 10:38:34

昭和天皇はなぜ何度も江上を呼んで騎馬民族説を聞いたのでしょう?

172 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:46:29
>>166
あなたの言うように、ツングースは非常に柔軟な民族で、土地に合わせてなんでも
やって暮らしていたと思う。そのことは間宮林蔵の探検記を読めばわかる。

それはともかく、日本を征服したと想定される「扶余」のイメージは後世の満洲族
を考えればいちばん近いのではないか。
つまり、扶余は狩猟、牧畜、農奴制の農業などを行うと同時に国民皆兵の軍事組織を持つ
戦闘的な民族だった。また毛皮、宝石、馬などを商品として中国と交易していた。
またいくつかの国家を作った実績から言って組織力、政治力にすぐれていた。

このようなイメージは、明末の満洲族とそっくりである。そして満洲族は江上の言う
「騎馬民族」の典型である。

173 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:55:39
ツングースの信仰とはなんだ?金、白はまさにツングースを
象徴してると思うが
【社会構造】
エベンキの社会構造は父系氏族が基礎にあった。同一氏族に属する家族
は互いに協力しあい、定期的に開かれる氏族会(スグラーン)に出席し
て今後の方針を決め、首長を選出した。氏族外婚は厳守され、同一氏族内
の結婚は大罪とされたが、逆に婚姻関係の認可という形で氏族の分派独立
が認められることもあった。結婚に際しては婿方の氏族から嫁方の氏族に
婚資が支払われ、婿が嫁の家にしばらく滞在してのち、嫁入りの儀式を行い
、新居を営んだ。このような氏族組織は、17世紀にロシア人が接触を始めた
ころには盛んだったが、新しい猟場、遊牧地を求めての移動や、ロシア人、
中国人などの影響によって家族ごとに分解し、19世紀には婚姻規定を除いて
はその機能の大半を喪失していた。



174 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:59:25
氏姓制度、万世一系思想、集団主義がここにもみられる。
そう、天孫はまさにこのツングースそのもの。

175 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 14:01:36
歴史に詳しくなくとも、古代中国の北辺でもっとも厄介な存在だったのが
「匈奴」だ、ということは誰でも知っている。そのイメージは凶暴で狡猾。
「匈奴」は時代的には、分裂したフン族の残党ともいえる遊牧騎馬民族だ。
とにかく西はヨーロッパの端まで遠征し、ユーラシア大陸の小国を片っ端か
ら征服した、怖ーい軍団帝国として世界史に知られている。

176 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 14:48:24
なぜ朝鮮元軍は出雲を襲わなかったのであろうか・・


177 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 21:04:00
朝鮮元軍てなに?

178 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 04:53:02
>>171
>昭和天皇はなぜ何度も江上を呼んで騎馬民族説を聞いたのでしょう?

それは天皇家に、出自に関する言い伝えがあるからです。
神皇正統紀を書いた北畠親房もそのことを暗示していると、なにかで読んだ
ことがあります。

179 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 09:41:36
>>178
まさに神の国なり、というやつね

180 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 14:16:22
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumiall.htm
古代ビビンバ王国
東北の白虎隊会津も彼らの末裔かもね、吉備のビビンバ埴輪も
彼らの遺跡と関係ありそう。

181 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 14:56:31
>>179
>まさに神の国なり、というやつね

違う。天皇家は朝鮮から来た、という天皇家の言い伝えだ。
それは書きたくても書けない、ということを北畠親房が暗示した。

182 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 15:00:54
ヤマトの頃までの濃い顔の天皇は先住民族だった
今の天皇(源氏)は韓神をまつる出雲朝鮮人の直系

183 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 15:03:07
みんな天皇みたいな顔になるのです。
これがほんまもんの元寇です、万里の長城は既に
スンダランドを超えました

184 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 15:41:21
>>181
逆じゃないの
「神皇正統記」は、そのような邪説を排除している

185 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 15:44:07
>>184
あなたはどっちだと思う?
あの顔が日本列島独自に進化した顔だと思う?

186 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 15:53:40
すくなくとも「朝鮮」という背景を背負ってはいないな。

187 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 16:02:28
源氏が新羅、高麗を神と祀っている以上
公にはできないが出雲ツングースだよ。

188 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 20:28:19
>>185
だからそれが「立て前」だということだ。

189 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 20:34:48
立て前で済む問題かよ・・

190 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 20:58:26
ウチの先祖は神功皇后。源頼朝。島津義弘と轡を納めてきたんだが
なぜか必ず海中から引き揚げた碇を原料にしたことになってる。
神巧皇后と頼朝は誉田八幡宮縁起書に書いてある、義弘は羽曳野市に文献が残ってる。

191 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 21:28:55

昔日本は【三韓と同種】なりと云事のありし、かの書をば桓武の御代に 焼きすてられしなり。

192 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 21:31:27
三韓は本来倭人の済む地域だったのだろう。
縄文遺跡の分布からみても明らか。

193 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 21:48:47
古代三韓人と倭人は基本的に人種は同じ。
出雲族は高句麗、新羅の騎馬化する前の
新モンゴロイド系ツングース族。
彼らは半島と東日本一帯を朝鮮顔に変えた。

194 :日本@名無史さん:2005/07/15(金) 23:16:14
皇国史観が真実をねじ曲げている、アマテラスは
出雲、新羅。出雲族系の源氏派は朝鮮人顔。

195 :白馬青牛:2005/07/16(土) 00:42:44
>>172
扶余は、満洲族よりモンゴル的要素(牛飼育)もある。
満洲は、騎馬化以前に水軍的部分が多かったと思うが。

梅棹氏によると「船が大型化して軍事勢力として編成されるまで、
初期段階では、静かな水域が必要で、大河や湖が、かっこうの場を
提供する。ヴァイキングにしても、フィヨルドという静かな水域が
ないと育たなかった。各地に広がっていくときも、大洋を押し渡ると
いうより、海岸伝いに行って、セイヌ川、とかテムズ川のような大河川を
遡っていく。あるいはバルト海経由でロシア内陸部まで、大陸河川を
伝っていく。その過程で、船が大型化して軍事勢力として安定して。
極東北部での水軍育成流域は、遼河、松花江、鴨緑江であり、西洋の
ノルマン・コンクェストに対比し、ツングース・コンクェスト。
神武東征伝説が、なぜ陸軍でなくて水軍による遠征になているのか。」
と北方海洋民族による征服説となる。                                   

196 :白馬青牛:2005/07/16(土) 01:02:18
今日は、酒が入った(飲み会)の後なので、195は、文章が乱れて
おった。
>船が大型化して軍事勢力として安定してくる。
>陸軍でなくて、水軍による遠征になっているのか。
と訂正する。

197 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 02:16:42
扶余はモンゴルでもトルコでも南サモイェードでもいいんじゃないの?
ま、少なくともツングースやシベリア・イヌイットではないことは確か。

198 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 04:43:11
>>189
北畠親房が本を書いたのは天皇家の「正統性」を証明するのが目的だから、その過程で
天皇家の由来に深く入り込んだ。そのなかではからずも「朝鮮由来」という事実に
つきあたったのだ。
それを書くわけにはいかないので暗示するに止めた。

>>195
扶余水軍説は面白いね。梅棹のその説ははじめて聞いた。
それならば、扶余が鮮卑に敗れてヨクソ(いまの北朝鮮・ロシヤ国境あたり)に
走ったあと、半島東岸沿いに水軍で南鮮に至ったことは十分あり得る。

199 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 11:03:10
ツングース諸民族はケツに蒙古斑が出るの?

200 :日本@名無史さん:2005/07/16(土) 12:07:36
ツングースだけではなく、シベリア・イヌイットも。

201 :白馬青牛:2005/07/17(日) 00:04:53
>>197
扶余は、モンゴル的要素もあるが、概ねツングース系であると思う。
梅棹忠夫氏の生態学的考察において、ツングース地域は森林で、
だいたいが巨大な川の地帯。興安嶺あたりを境目に東西に分かれる。
遼河の契丹(遼)もモンゴル語系であったとしても、生態学的に
ツングース系とされておられる。なるほど東胡系鮮卑、契丹等の
征服王朝のタイプも、モンゴル帝国型よりも、女真、満洲型に近い。
>>198
梅棹氏は、初期において黄海側(静かな海)を考えておられる。
百済が、遼西・晋平の二郡を占拠したという『宋書』『梁書』『南史』の
記述から海上からによる南朝鮮進攻も考えられる。
のちの渤海は、唐と新羅に海上封鎖され、黄海はおろか、東海岸沿いも、
敵国新羅がおるので、日本海の大洋を押し渡る手段しかなかったが。

202 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:16:03
扶余については南洋的な風習を持ってるから、縄文や南洋系とも
関係がある、周辺のツングース系の影響を受けツングース化したと
思う。(それでも彼らは半島の異端児だった)
出雲に渡ってきたタイプは扶余ではなく、扶余の影響を受けた
ツングースそのものだったと思う。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html

203 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:27:39
そもそも騎馬と限定するのは視野が狭い。
ツングースは極めて柔軟でずる賢い民族だから
何だってする。

204 :白馬青牛:2005/07/17(日) 01:33:13
>>203
ツングースがずる賢い民族?ロシア人もツングースを「シベリアの貴族」
と定義し、日本人も、満洲人を「彼等はシナ人の尊大さがもたらす
傲慢さや意地悪さを好んでおらず」や「ことのほか正直に申しうけ候。
いつわりごと一切なく、金銀ちらしおきても盗みとりなく、いかにも
律儀に候」と親しみをもっておる『異国物語』。
シロコゴルフも、「ツングースは阿諛(こび、へつらい)を甚だしく
嫌う。阿諛されることも嫌うから、ブリアートをこの為に嫌うので
ある。」モンゴル系は純朴で鈍重ではあるが、服従されやすい民族
でもあり、河口慧海氏のチベット旅行記にも、「モンゴリア人はどうか
するとつけたようなお諂(おべっか)などをいう。その点において
チベット人は最も酷い」カム人(東部チベット人、四川省西部、戦前の
西康省のチベット人)は、「むやみにお諂などというのは大嫌いの性質で
ある。」
チベットを潜行された西川一三氏も中部(農耕地帯)のチベット人を
朝鮮人の気質、西康人やタングート人(森林もある狩猟牧畜地帯)の
性格は日本人に似ていると記しておられる。話がズレたが。

205 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 01:53:17
そういう評もあるんですね。
ツングースや騎馬民族には悪いイメージが
あるもので。。


206 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 09:11:06
確か、出雲族は神武天皇(カムイ≒イワレビコ)とは別のグループの部族で、
ある説によると、鉄鍛冶に長じた技術を持ったらしいから、
原トルコ族の丁霊の系統の可能性もある。トーテムはわからんけどな。

扶余も多分、丁霊と同じトルコ系の翟(白狄)やツングースと海洋民族と
複雑に混血を重ねて形成されたと思われるが。

207 :206:2005/07/17(日) 09:20:56
ソース仔細
【始皇帝】徐福伝説ヨリ

352:鴨禰宜:2005/04/07(木) 13:34:18
吉備は王莽、貨泉の時代から造山古墳に至る400年の間何をしてきたのかを考えると
大きく見て邪馬台国建国以前、いわゆる、投馬国時代、それと河内王朝草創期の時代
に分けてみるのが一法かと。共に謎の多い頃で、重要な頃であると思うが、この時代の
象徴である鏡、特に三種の神器、大型国産?製鏡等を考えると吉備はその最終到着点
ではない。漏れは吉備にある生部(なしべ)は邪馬台国外交官として活躍したのではない
かと思うのだが、勤務地は、トウチゴリと同じく、大和の十市近辺ではないかと思う。
神武記は吉備を通過地として把握しているがなかなかたいしたものだ。現在漏れは
スサノオをトルコ系遊牧民族小月氏の首長で、秦氏と共に大目尊の後を追って渡来
したものと考えている。

208 :日本@名無史さん:2005/07/17(日) 12:50:53

出雲族(天孫)が白を好むことから白狄と関係がありそう、国が滅んだのも
BC3Cころで天孫族の出雲渡来と一致する、
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
墓の形状でも一致すれば確定なのだが。。

白狄<はくてき>【異民族】

 主に山西省西部や陝西省東部に居住していた異民族の総称。
白い衣を着ていたので白狄と呼ばれる。
http://www.npo-shoken.or.jp/denshi_juihitu/zuihitu/gyoku.htm

209 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 02:09:21
>>171
正月に皇居でやってる「講書始の儀」だよ。
何人かの学者らとともに天皇の御前で講義する、
よくテレビでも放送されてるあれですよ。
あれに宮内庁に選定された江上波夫が出たことがあって、
そこで江上が騎馬民族説話したということ。
昭和天皇が何度も呼んだとか言う話なんて聞いたことがないし、あり得ない。

210 :白馬青牛:2005/07/18(月) 03:09:51
>>206
トルコ系突厥の先祖も、鉄工であり、遊牧民は鉄(武器)の欲求から、
鍛鉄の技術に巧みな部族に特別な立場を与え、それが発展の有力な
原因となった。
高車丁零のトーテム獣は、突厥と同じく「狼」。
天山山脈の鉄産は、良質とされておった。そういえば、付近に住んで
おり、西突厥部族連盟に加わったトルコ系弓月族の後裔は、
カンクリ(康里)人。カンクリとは、高い車を持てるもの意味で、
高車丁零族を思わせる名である。
秦氏(弓月)がトルコ系弓月族と結びつくかまではわからん。
ただ、同じく渡来系の漢氏も、牧畜民的伝説と騎馬習俗を持って
おった。漢氏、秦氏も騎馬近衛兵でもあったので、北方牧畜民族と
関連があったと思う。

211 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 03:18:26
大局的にみて、生産力の増強を目指す部族とそれを武力で奪う部族
に分けられるように思う。
それぞれの文化習俗が血縁を超え複雑に入り乱れている。
日本の場合、天孫族は武力で奪うタイプの部族。
ヤマト族は増産重視タイプ。

212 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 03:28:55
そして騎馬的生き方は低成長時代の生き方であり
需要創造型のヤマトの生き方が好ましいと思う。
騎馬民族の生き方は好きではない。

213 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 09:35:55
…となると、カムイ・イワレビコ≒神武天皇率いる部族の『天孫族』は
『烏』をトーテムとして、モンゴルを骨子にトルコ+ツングースの混血かな?
ある記録を見ると『天孫族』の風習は大化の改新の形成までは、
匈奴や鮮卑や蒙古と同じ末子相続だったらしいから。神武天皇自身も末子で。
なんか、チンギス・ハーン後裔の『黄金氏族』とダブるわけで…。

一方、出雲の『大和族』はモンゴルよりも穏やかなトルコ系で、
鉄鍛冶などを奨励する需要創造型の部族であろう。
『スサノオ』の読み方はモンゴルの『オノン』河と似てるのは単なる偶然だろうか?

まあ多分、両部族とも隼人・熊襲・安曇などの海洋民族を奴隷にしたと思う。
それが北方遊牧民の宿命ともいえる忌まわしい性質らしいけど。

214 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 12:31:36
出雲はどうみても天孫だろう。
神武はどうも大和の裏切り者という気がしてきた。

215 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 13:00:49
>>210
多少亀レスっぽくなるが、康里族ってカルルク族と同じトルコ系で、
西突厥の弓月部族の一つで11、2世紀頃にシル河に定住した民族でしょ?

チンギス・ハーンの大征西のきっかけとなった中央アジアのホラズム朝は、
カンクリ族の王朝とは違うの?



216 :白馬青牛:2005/07/18(月) 16:39:05
>>215
その通り、カンクリ(康里)は、モンゴル時代頃シル・ダリア方面に住み、
ホラズム朝のなかに入って有力な傭兵集団となっておった。

この地域で興味深いのは、シル河の中の島に城塞を作り、寡兵ながら
得意の水上戦法を用いて、モンゴルの大軍を悩ましておる。
トルコ系は、水戦、鍛鉄、建築等生産的な業もなすが、モンゴル人は、
水を怖れ、生産的なものは、奴隷のする事と考えておったのかも知れん。
サマルカンドでは、降伏したカンクリ兵にモンゴル兵の髪型をとらせ、
安心させて騙し、彼らを皆殺しにした。よほど手を焼いたのであろう。

ホラズム朝は、セルジュク朝に仕えたトルコ民族の奴隷アヌシュ・テギン
を祖とする。カルルク族かカンクリ族かはようわからんのです。

217 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 17:00:19
モンゴル人は酷いな、そうは見えないけどな。
しかし、モンゴル人というのは明確にトルコと区別できるもの
なのだろうか?漏れの認識ではモンゴル人はトルコの後に
勃興してきたタイガの田舎者という認識だけど

218 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 17:19:20
そのアヌース・テギンの孫のアーチズがセルジューク朝から完全に独立し、
多分、カルルク族の政権と思われるカラハン朝の衰弱に乗じて、
広大な中央アジアの大部分のホラズム朝を建国したらしいね。
その前後にモンゴルとツングースの混合体らしき契丹族の遼の準皇族の
耶律大石が、母国を滅ぼされたツングース系の金に追われて西進して、
カラハン朝も含めて現在の新疆省と中央アジア東部を征服し西遼(後遼)
→カラキタイ=黒契丹を再興したらしいね。
おそらく、西遼はホラズム朝とは同盟しセルジューク朝と激戦したと思われ。
そのアーチズの曾孫がチンギス・ハーンと戦ったムハメッドであるわけで。

219 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 17:27:02
>>216
>この地域で興味深いのは、シル河の中の島に城塞を作り、寡兵ながら
>得意の水上戦法を用いて、モンゴルの大軍を悩ましておる。
>トルコ系は、水戦、鍛鉄、建築等生産的な業もなす

この部分が結構興味深いんだけど、出雲の天孫族にも該当するね。
だとしたら、この部族はトルコ系が濃厚かも知れない。

神武天皇の部族はトルコ系なのかモンゴル系なのかは見当がつかないが。
>モンゴル人は、
>水を怖れ、生産的なものは、奴隷のする事と考えておったのかも知れん。
この事項がある通り、神武天皇の部族はモンゴルとトルコの混合民族かも。

220 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 17:31:41
http://ja.wikipedia.org/wiki/弥生時代の墓制
支石墓
朝鮮半島の影響を考慮すると、支石墓の被葬者は半島からの渡来人
であると想定されていたが、実際に考古学的に分析してみると、
被葬者は縄文人的特徴が強いことが判った。その謎を解明するため、
いくつかの説明が試みられているが、明確な結論は出ていない。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は、
弥生時代後期の山陰地方・北陸地方に見られる墳丘墓である。
方形墳丘墓の四隅を突出させ、その突出部に葺石を施すという特徴がある。
広島県の三次盆地に発祥し、雲伯地方へ広がり、さらに富山県地方へ
伝わっていった。このことから、山陰〜北陸にわたる日本海沿岸の
文化交流圏を想定する論者もいる。

必死で北部九州人を朝鮮人と結びつけようと考える東京人の嫌らしい策略が
かいま見える。九州北部の弥生はほぼ続縄文人。
土井が浜出雲人こそモノホンの朝鮮人。

221 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 17:44:39
>この事項がある通り、神武天皇の部族はモンゴルとトルコの混合民族かも。

神武の部族は古代王朝の系統、神武以前はそれぞれの地域から大国主命を
選んでいたという説が有力、万世一系思想は天孫続が持ち込んだ思想
ではないか?ヤマト勢力の中でそれに乗った勢力が神武勢力だと思う。
おそらく西南九州一帯はその思想には与していない。
>モンゴルとトルコの混合民族かも。
確かにヤマトにはモンゴル的な性質があるようにも思う、しかし、
考古学的にはヤマトはほぼ続縄文文化的民族であり日本独自で
発展した民族。
想像だけど、彼らは中国から逃れてきた政治難民だと思う、
だから半島を素通りし、死ぬ思いをして海を渡る
必要もあった、自らの出自を明確に残していないのもその為だろう。
ばらしたら中国本土から攻めてくるからね。

222 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 18:05:40
新羅、高句麗と倭との戦争も
出雲と新羅、高句麗の深い関係が
倭国自体の存亡に関係してた為ではないか。
(半島南西部の領有権も含めて。)

223 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 18:18:55
北部九州の弥生習俗は裸足でハチマキをしめ、入れ墨をし
縄文時代の道具をそのまま使い、
高床式の倉庫を建築していることから
http://erewhon.ticonuno.it/arch/rivi/popoli/fig4.jpg
この人達と似通った民族であったろうと思われる。
むしろ極東地域の一般的な習俗だったのではないか?
これ以降、中華的文化、あるいはツングース的な文化が
少しずつ取り込まれていく。


224 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 18:36:34
東南アジアのネグリド黒人そっくり。
アジア人も色の濃いのは黒人、色の薄いのは白人
そっくりだったんだろ・・
むしろ目の細いモンゴルタイプは少数派だったに違いない。

225 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 18:39:41
>>221
確か神武天皇の時代は中国では五胡十六国の時代の最中でしょ。

あの時代はある意味純粋の漢族政権の終焉を物語る時代であったわけで。
南匈奴・鮮卑・氐羌などのモンゴル・トルコ・チベット系の多種族が中原に
乱入し、文化の吸収・重なる混血・言語の変異が隋の中国統一の原型なったと思われ。
北だけではなく、南もヴェトナム人の祖の越部族やタイ系諸族との混血も重ったはず。

>想像だけど、彼らは中国から逃れてきた政治難民だと思う、
>だから半島を素通りし、死ぬ思いをして海を渡る
>必要もあった、自らの出自を明確に残していないのもその為だろう。
>ばらしたら中国本土から攻めてくるからね。

これらが上で記した事項と無関係とは思えないのだが。


226 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:00:37
倭人は呉の裔と自称しておる。
もっとこれを重視すべき。
前五世紀の呉越戦争で敗れた呉の難民が九州北部にやってきて弥生時代が始まった。
弥生時代を前十世紀とか言い出したパアな学者がいるけどほんと知能はチンパンジー以下。

騎馬民族が来たのは古墳時代。
応神天皇の時だ。


227 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:10:45
神武勢力(ヤマト)は中国あるいは半島から来た
侵略民だとは思えない(先住系大国の系統)
ただ、天孫族(高句麗、新羅に近い)のような新興勢力と与したことで
日本の土着勢力の抵抗はあったと思う。
ヤマトがもし五胡十六国のいずれかの部族であるなら、随の倭に対する
外交姿勢も違っていたように思う。

>倭人は呉の裔と自称しておる。
文化的にみると北部九州は南洋系(あるいは古代極東の標準的な文化)
呉越時代の頃はまだ、ポリネシアンがあの近辺に居たという
遺跡の研究もあった。(うろ覚え)


228 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:20:42
>騎馬民族
これも、、騎馬化してないツングースの存在を一切無視している。
凄い短絡的なんだよな。。馬鹿御用学者。

229 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:24:37
というか『倭』と『大和』は全く別系統の民族。

倭は古モンゴロイドの種族。全身に黥(イレズミ)や断髪の風習があり、
水泳の名人が多く、背が低く海洋民族と共通する。呉や楚と同系統と思われ。
もしかしたら隼人・熊襲・安曇などはこれらに属するであろう。

一方、大和は出雲の天孫族とは系統は離れてるが、大陸から来た新モンゴロイド。
古モンゴロイドと異なり、背が高く弁髪か月代や末子相続の風習があり、
まさに北方遊牧民族系かと思われ。シャーマニズムもその名残と思われ。
彼らが何故渡海したかというと、
>トルコ系は、水戦、鍛鉄、建築等生産的な業もなす
というように、遊牧系には珍しく水戦を得意とするトルコ民族がいたから、
大規模の舟を増築し、必要な馬を乗せて日本に来たと思われる。

ただ、神武糸と応神系が別系統の部族というのは考慮する点でもあるが。

230 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 20:02:31
西日本、半島は縄文土器は早くに無文化するからね、縄文人骨のまま変わりなく。
そこで、弥生が始まったかと思えばそれは違う、弥生の後期でも
縄文的人骨が出続ける。弥生式土器は単に製造方法の進歩と利便性
縄文に宗教的な価値が無くなっただけかもしれない。
(それ以外の古代習俗は受け継がれている。)
縄文時代、弥生時代と土器だけで時代の変わり目を区切る自体が
もう時代遅れ。

231 :日本@名無史さん:2005/07/18(月) 20:05:28
集落も縄文の集落をそのまま弥生集落にした可能性もあるらしい。
なんせ縄文時代の器具そのまま弥生時代の流用してる位だから。
そうすると、人口推定も当然見誤るよね。
スレ違いsage

232 :白馬青牛:2005/07/19(火) 05:49:46
>>217
モンゴル側からいえば、ホラズムに送った使節を殺されたわけで。
「使者は殺されぬ」はトルコ族の格言にもあり、これは、当時でも
国際法上の侵犯。日本でも平安期まではそうであった。鎌倉期は
違うであろう。
トルコ人とモンゴル人の区別は、言語、民族によるもので、もちろん
人種的なものでは無い。トルコ人は、支配した農耕、牧畜、狩猟民を
トルコ化し、アナトリアから東シベリアまで、広がっておるが、
モンゴル人は、ツングース的要素のある東胡系は別として、遊牧生活に
こだわり、概ねモンゴル高原のトルコ人をモンゴル化したに過ぎず、
他民族への同化力に違いがあると思う。
トルコ・モンゴル・ツングース系の遊牧民や狩猟民は、
「窃盗、嘘言、詐欺は恥すべき行為」と共通の性質も多いのであるが。

233 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 07:10:14
>>232

>モンゴル人は、ツングース的要素のある東胡系は別として、遊牧生活に
>こだわり、概ねモンゴル高原のトルコ人をモンゴル化したに過ぎず、
>他民族への同化力に違いがあると思う。
>トルコ・モンゴル・ツングース系の遊牧民や狩猟民は、
>「窃盗、嘘言、詐欺は恥すべき行為」と共通の性質も多いのであるが。

多分、出雲の天孫族も神武天皇≒カムイ=イワレビコの大和族もそれらの
グループの一派の可能性が濃厚だと見た。

実に興味深いな。


234 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 13:55:58
>>201
そういえば、扶余の本拠地、満洲中部の交通は、清国の時代に至るまでほとんど
河川だった。康煕帝は、満洲北端のロシヤ人の砦、アルバジンを攻めるのに、
まず吉林に造船所を作った。松花江、黒竜江経由で兵員物資を輸送するためだ。
吉林という地名は造船所という意味の満洲語に由来する。

扶余とて同じだったのではないか。広い領地を治めるのに、松花江などの河川の
交通に頼っていたのではないか。扶余、楡樹など扶余の遺跡は第二松花江沿いに
ある。
鮮卑に攻められてヨクソに走るときも、第二松花江を一本遡れば行けた。
あるいは敵に近すぎて危ないと思えばいったん松花江を依蘭まで下って、牡丹江を
遡ればヨクソの北部まで行けた。

扶余は案外に内陸水軍を持っていたのではないか。少なくとも水軍の
発達に黄海を必要としなかっただろう。


235 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 18:32:45
天皇家が朝鮮半島から渡来したと言う説は良く聞くが、証拠は不十分である。
それに天皇家の顔はどちらかと言うと縄文系に見える。
聖徳太子にしても、後醍醐天皇にしても、半島系の目つきをしていない。
仮に半島から来たにしても、現在の朝鮮人とは血縁関係があるようには見えない。


236 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 18:34:24
>>235
苦しい言い訳に聞こえる。

237 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 21:27:55
朝鮮も南と北では人種が違うから。

天皇家は北の方だろ。

238 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 21:40:55
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
間違いなく北系。
ちなみに、モンゴル人に近い民族がツングースに
半島南部、列島に押し込んだ説
もあるがそれはあたらない。山東から半島素通りした民族は居た。

239 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 22:08:01
妄想&推測を覚悟で記す。

ツングースは多分アルタイ化したシベリア・イヌイットの一派。
モンゴルは進化?したトルコの一派。カザフもある意味モンゴルかも知れん。

ツングースに近いモンゴル系は東胡か山戎くらいと思われ。
海西女真の葉赫(イェへ)部族もモンゴル人に近いツングース民族。

>山東から半島素通りした民族は居た。
山東人は屈強で背が高い。もしかしたら漢化した古代モンゴル系と思われ。

真偽の程はわからんけど。

240 :日本@名無史さん:2005/07/19(火) 22:27:14
カザフは匈奴の後裔という説が有力
妄想推測でも既知のデータや史書など裏付けがないと・・
間違いだとは言わないけど、古代史関連のスレとの整合性は

241 :白馬青牛:2005/07/20(水) 01:36:02
>>233
トルコ系でも、オアシス農耕系はさまざまな民族に支配された歴史、
経験から嘘言を吐くでしょう。地域によっても違い、シル河の
トルコ人は漁労民的要素もある。
草原地帯のモンゴル人は、河にかからぬうちから、気の毒なほど
顔面蒼白で、河にかかるとまったく怯え切っている。
大興安嶺東側(満洲北部のツングース的)のモンゴル人は、激流でも、
清くさわやかな水のにおいをかぐと、気分はそう快となり、小船に
乗るか、中流あたりまで馬の背にまたがり、そこから馬をすべりおりて、
尻尾のさきにつかまり、激流をつっ切っていく。おぼれた子供がおれば
泳いで助ける。モンゴル人も地域による違いがある。
トルコ系とツングース系の関係では、ロシアのV・メドヴェジェフ氏に
よると靺鞨は考古学的特徴においてトルコ系の影響が強いと。

242 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 01:46:48
蒭葯 靺鞨
(まっかつ)
6世紀後半から中国東北の松花江流域を中心に、北は黒竜江中・下流域、
東はウスリー川流域、南は朝鮮半島北部に勢力を振るったツングース系
諸族の一派。5世紀後半からこの地方にあった勿吉{もつきつ}人の国が6
世紀なかばに崩壊し、その服属諸部が自立したが、自立後も一括してそ
の同音異字で靺鞨とよばれた。いくつかの大部族に分かれ、そのうち粟末{
ぞくまつ}、伯咄{はくとつ}、安車骨{あんしやこつ}、払涅{ふつでつ}、
号室{ごうしつ}、白山{はくさん}、黒水{こくすい}の七部族が有力で、
靺鞨七部とよばれた。高句麗{こうくり}と争い、粟末、白山の二部は
高句麗に服属した。高句麗が唐に滅ぼされた(668)のち、高句麗の
復興を唱えて渤海{ぼつかい}国が成立すると(698)、多くの靺鞨人は
その支配下に入ったが、黒水部だけは独立の勢力を保持した。



243 :白馬青牛:2005/07/20(水) 02:25:13
>>234
梅棹氏は、海の自然条件と技術のバランスから、日本海側は荒い海で、
黄海側を考えておられるが、ポリツェ文化や仮説であるが、出雲系文化の
四隅突出墳も考慮すると日本海側もありうる。
もちろん、梅棹氏も「実は海より川のほうが重要かも知れない。」とされ
内陸水軍から出発したと思う。ヴァイキング型ともいえるかは、
定かでないが、古代ギリシャ人の殖民活動が、沿岸地帯に活動すのと違い
(マケドニアのアレキサンダーは陸路であり、水路ではないであろう。)
ヴァイキングは、入江から川を遡り内陸部に奥深く入る。
ヴァイキングやツングースは、海民というより水民に思える。
>>239
アムール川流域のウリル・ポリツェ文化のちの靺鞨文化まで、
川の源流であるバイカル地方から東漸したと見る考古学的考察は如何に。

244 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 05:03:00
>>243
騎馬戦術を持つ扶余が内陸水軍を持っていたのであれば、馬を水上輸送
する技術も持っていた可能性が高いね。

245 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 12:42:32
白山大龍脈団 パイシャンターロンパーティアン
白山神社は全国3000社を越える。神は白山比メ神(シラヤマヒメノカミ)、
菊理姫(キクリヒメ)死霊の口寄せをかたったイタコの祖先のごとき神として
知られ、いざなぎといざなみの争い事を調停したことで日本書記に書かれている。
古代亜細亜の東北部に靺鞨(まっかつ)と呼ばれたツングース系の民族がいたが、
ここに白山部という支族があり、白頭山の太白山信仰をしていたことで日本に
渡って白山信仰になったとも言われている。
このツングース系民族はモンゴルにその足跡を残しており、風水的呪術も残って
いる。
モンゴル首都のウランバートル市内にある寺院も日本と同じく鬼瓦を使用し、
何かを封印守護をしている。
http://www.kazemizu.com/basis/map/hakusan.html



246 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 12:46:51
白山信仰
(はくさんしんこう)
越前{えちぜん}(福井県)、加賀{かが}(石川県)、美濃{みの}(岐阜県)
三国にまたがってそびえ立つ白山を対象とする信仰。白山が信仰の対象として
仰がれるようになったのは、大化{たいか}(645〜650)前代のことであろう。
つまり白山信仰は、白山に源を発する九頭竜{くずりゆう}川(福井県)、
手取{てどり}川(石川県)、長良{ながら}川(岐阜県)流域の人々の間から、
また相前後して日本海で白山を航路案内とする漁民の間から自然に発生したもの
と考えられる。
 ついで、奈良から平安時代にかけて全国的に山岳信仰が盛んとなるなかで、
白山にも717年(養老1)越{こし}の大徳といわれた泰澄大師{たいちようだいし}
が初めて登拝し(『泰澄和尚{かしよう}伝記』)、これ以後登山口には
修験{しゆげん}の道場が置かれ、ここを中心に白山信仰は全国に流布し、
新たな展開をみせた。その道場とは、前記三国にそれぞれ設けられ、
「三箇馬場{さんこのばんば}」と総称される越前馬場(平泉寺{へいせんじ}
白山神社)、加賀馬場(白山寺白山比?{しらやまひめ}神社)、美濃馬場
(長滝{ながたき}寺白山神社)のことで、最盛時には多数の社僧を擁し大勢力
を誇った。白山信仰の一端をうかがい知る資料に『白山曼荼羅{まんだら}』
『白山講式{こうしき}』『白山牛王{ごおう}』などがある。

247 :がいやまん:2005/07/20(水) 14:32:44
はずんだますなー。ちょっと失礼。出雲の日御碕神社社伝によると「「孝霊天皇
六十一年月支国の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神の宮鳴動し
虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没
せりと云う。」こういう風に月支国王の多数軍船を撃退したとしている。
http://www.web-sanin.co.jp/local/taisya/yuisyo-h.htm
この月支だが、最近馬韓では↓
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/01/10/20030110000047.html
日本は↓
http://www2.begin.or.jp/~sakura/kota1.htm
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai06.html
こういう状況にあるようです。


248 :日本@名無史さん:2005/07/20(水) 22:14:23
ニュース板で、天皇は侵略してきたということになっているのですが
それは日本史板的にはどうなんですか

http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news2/1121423363/l50


249 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 00:32:37
日本在住で公的地位のある日本史研究者はそんなことを言わない。

国外在住で公的地位のある日本史研究者はそう思ってるし発言する。

250 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 04:47:16
ということは日本史学は国粋主義に影響されているということだ。

251 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 06:45:19
>>250
韓国の場合国粋主義そのものなので話がややこしくなる

252 :がいやまん:2005/07/21(木) 10:52:20
日本建国とも言うべき纒向の建設には、記紀にある垂仁の言葉から察するに、渡来系
のアメノヒボコが相当力を入れた様子だ。箸墓とかその周辺の一連の古墳は弓月ヶ嶽
を向いているし、それと箸墓の線上にある大兵主神社というのは秦氏の蚩尤の神、ヒボ
コをも祀る。さて弓月=半月=トルコのシンボルである。トルコ系は月、星、狼を祀る。
つまり、纒向建設に参加したアメノヒボコ集団の中には月支国がその名前から似つか
わしいのであるが、製鉄に関連するトルコ系要素が混じっていたと考えたい。坂の上の
田村麿は後世、蝦夷征伐の際に7つの月山神社の建設を約束して実行している。月山
、月読み(半月か、読み=弓)という名称は対馬、壱岐、北部九州、出雲、関東、東北
と分布しているが、渡来系が僻地に追いやられたのか、あるいは、秋田鳥海山辺りに
直接上陸したのかと考えさせられる。さて、大兵主神社は秦系であるが石上神宮は布留
の霊を祭っているようでこれはツングース系であろう。ツングース系と秦(秦の遺民)が
合流するのは辰韓あたりかなー。更に、複雑なのは出雲には方面にも月山があり、
スサノオに代表される製鉄関連の渡来系がいる。他方、楯築古墳はトルコ系の中円
双方墳であることだ。これはカザフスタン迄広がる石積みのヒゲクルガンと構想が
似ている。古墳文化には様々な朝鮮半島経由の渡来人文化が混じっていることは
間違いないだろう。

253 :がいやまん:2005/07/21(木) 11:03:40
当時の日本はドボルザークの新世界よりにも似た、まさに戦前の満州建国のような
新時代の開幕であったのではなかろうか。古墳建設でエネルギーを蓄えながら
倭の五王時代への開化時期へとつながっていくんじゃなかろうか。

254 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 11:15:00
日本の場合、万世一系主義が話をややこしくしている。

255 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 11:26:21
>>254
戦後だいぶその傾向も薄まったと思うのだが、ついに駆逐するまでには至らなかった。
結局日本国民も望んでいるのではないか? 万世一系主義

256 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 13:45:44
談合とかこれと無関係ではないと思うね。
血族意識が極めて高いのはこの顕れ。
縄文人はこれに無頓着だった。

257 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 13:46:40
144 名前:名無しさん@恐縮です[sage] 投稿日:2005/07/20(水) 15:38:32 ID:co1/9+io0
こんなハレンチ穴の親の顔がみてみたい? そうですか、それではどうぞ

点と線【全裸練習 八王子 菊間の父】 
http://sports9.2ch.net/test/read.cgi/volley/1121668617/

21 名前:名無し@チャチャチャ[sage] 投稿日:2005/07/19(火) 21:58:10 ID:np49+uH9
全裸バレーってなんだよ一体・・・マジかこの話?
信者の女児を強姦していた在日姦国人牧師とやってる事は変わらんな。親は抗議しなかったのか?
ニワカの俺にはにわかに信じられない話だよ。ホントなのか八王子実践の全裸バレーは?
ソフトオンデマンドのDVDならそういうのを見た記憶があるのだが・・
菊間は親子揃って自害しろ!

http://sports9.2ch.net/test/read.cgi/volley/1016695960/
裸バレーの裏事情
http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/company/1016695820/
女子バレーで全裸!
http://piza.2ch.net/company/kako/965/965835552.html
【朝日記事】全裸バレー強制【セクハラ】
http://choco.2ch.net/news/kako/1014/10140/1014042994.html

258 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 17:12:49
>>257
信者の女児を強姦していた在日韓国人牧師とやっていることは違うと思われw

259 :がいやまん:2005/07/21(木) 17:13:35
>>252
渡来ツングースには日本海周りと、黄海周りの2つの系統があり、金属加工をかかわり
の深い月支族は本来内モンゴルの方面から遼寧青銅器文化圏に入り、そこで黄海周り
のツングースと共に南下し、楽浪周辺で山東方面から渡来していた秦の遺民などと共に
百済(ハクサイ)を結成して馬韓に南下、他方、純粋なツングースが日本海周りで新羅、
山陰、越前に入り、これらは白頭山の竜神関係の信仰を富山、岐阜、愛知、三重方面に
伝えた。これが見る銅鐸、前方後方墳、東海式土器、狗奴国を形成し、東国以上に難し
い地域になったんじゃないかな。もちろん、九州、近畿には渡来系よりも古い基層の氏族
はいたであろうが、よりハイカラな大陸的な物に押されたんだろう。

260 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 17:24:19

大和が新羅、高句麗と戦ってる時も、白村江で戦っている時も
出雲はそれを静観して新羅と独自外交していたという話を聞いたことがある。


261 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 17:35:06
しかし、対馬の人は生きた心地しねーだろうな。
イヤでも朝鮮人をチング(友人)といわんと
生命すら危ういよな。

262 :がいやまん:2005/07/21(木) 17:52:15
>>252
渡来人のマンモスの墓場は恐山かとおもう。白頭山天池とそっくりな浄土風景があり、
これがゴビ砂漠に似ている。白頭山は更にネオモンゴロイド、ツングースの聖地
バイカル湖をイメージしたものかもしれない。これは白山の頂上、金毘羅さんにもある。

263 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 17:59:27
古墳を立てた勢力は九州の辺鄙な地域(宮崎)に拠点を構えるが
南から、西から常に圧力を掛けられついに東進したのではないか
http://ja.wikipedia.org/wiki/西都原古墳群
人種的特徴はともかく政治的には宮崎、大分、四国、瀬戸内、奈良大和
あたりが同盟関係にあり、西南九州の土豪がそれとは少し違う動きをしていた
ように思う。そして出雲、中部関東、日本海一帯は新羅と親密な別の勢力。


264 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 18:21:48
銅鐸と越以南の銅鼓とは関係あるの?
ともに地中に埋め込むことが稲作神事らしいが

265 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 18:39:04
銅鼓
中国南部から東南アジアにわたり広く分布する青銅製の太鼓。
楽器としてはゴング類に属する。その鋳造と使用の年代は長
く,流伝の地域は広く,関係する民族も多い。銅鼓の起源については,
篠製置台上の太鼓を青銅でかたどったとするもの,漢族古楽器の■于
(じゆんう)(銅■)からの発展とするもの,雲南省のタイ(■)族,
チンポー(景頗)族で今なお使われている木製象脚鼓の写しとするも
のなど諸説があるが,炊具から変化したとする考えが比較的有力と
なりつつある。1975年,雲南省楚雄県万家■(ばんかは)竪穴土坑
墓出土の銅鼓は鼓面がことのほか小さく,形式学的に最も古式と認
められるが,伴出の銅釜と形態がきわめて似通っており,釜を伏せ
た形から打楽器に発展したと見られるからである。この万家■墓の
炭素14法による年代は前7世紀ないし,前4世紀で,現在,銅鼓出土
墓のうち最も古い。また,この雲南省中部地区において,銅鼓形態
の発展序列をたどれるところから,銅鼓の起源地もこの地区に求めら
れるとされる。


266 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 18:44:14
越国の人がベトナムと関係があるとはいうけどやっぱり・・

267 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 18:54:18
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/guanguang/jieri/200201/200201.htm
 雲南省文山チワン族ミャオ族自治州白ラ人・蕎菜節
  先祖と交わる原始の銅鼓




268 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 19:00:28
彼らは一見して新モンゴロイド風、
純血思想がありお祭りを大事にするようである。
華南に進出した北の勢力だろうか・・・

269 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 19:10:08
雲南省の住民は日本人そっくりだよね
餅だとか赤飯とかもあるんだよね

270 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 19:18:33
http://www.kaze.gr.jp/fwvietnam/viethis/viethisdyn/viethisdyn.htm
銅鼓の歴史は彼らの歴史そのもののようだから、これは
何かの手がかりになりそうではある。

271 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:10:17
歴史的に簡潔に言うと
神武の東征は、不可能である。



272 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:16:03
雲南しろモンゴル系入ってるよ。

273 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:25:40
元々米は赤米だからベト人がきていたとしても神事の
赤米がベトナムの習俗と結びつくとはかぎらんわね。

274 :がいやまん:2005/07/21(木) 20:26:39
エスキモーの夏用芝生葺きイグルーというのに張り出し型前方後円墳そっくり
なのがあり、前方後円のつなぎ目にハッチがある。エスキモーというのはBC1000
年頃に現在のアラスカ・カナダに移住してきた新モンゴロイドだという。すると彼らが
バイカル湖周辺から出ていても不思議ではない。纒向周辺は唐古鍵の時代には
二階建ての南方形式の大型宮殿、神殿のあったところだが、纏向遺跡の住居模型
というのは聞かない。思うに建造物は行宮であり、円形の神殿部のパオと方形の
補助施設からできていたのかもしれない。まー、サーカス小屋のようなもんだな。
これは想像が飛躍しすぎたかもしれないが、野洲方面の伊勢遺跡などはサーカス
とか見世物小屋を思わせるところがある。この辺もアメノヒボコが通った跡だろう。

275 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:34:43
銅鼓の日本での遺跡分布をしりたいのですが?


276 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:44:33
トラキアの墓も
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Afterlife/04/0400.html
前方後円墳

277 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:51:19
トラキアはブルガールやらフンと関係あるからもしかするとだけど
他に似たものがないから・・

バルカン半島東部の地方。「トラキア」は古名で、現代ギリシア語名
はトラーキThraki (Thrake)。トラキアの範囲は時代によって非常に異なる。
古代ギリシア時代では、西側はマケドニアに接し、東は黒海の西岸と
マルマラ海の北西部、南は沿岸部を除いたエーゲ海に囲まれた地域をさした。
現代では古代のそれよりいくぶん南側の地域をさし、マリーツァ川
(古名ヘブロス川)を境にして、西側のギリシア領を西トラキア、
東側のトルコ領を東トラキアとよんでいる。
 古くからインド・ヨーロッパ語族のトラキア人が居住していたが、
彼らは好戦的で野蛮な民族としてギリシア古典期に知られた。
初期の歴史は不詳で、沿岸各地に紀元前8世紀ごろよりビザンティオン
(現イスタンブール)など幾多のギリシア人植民市が設立されると、
ギリシア人を通して彼らの実態が知られるようになった。彼らの宗教
は原始的で、人身御供{ひとみごくう}や動物崇拝、来世信仰が行われており
、神々としてはベンディスやディオニソスの崇拝がとくに有名である。
前6世紀以後何度かペルシアの侵入を受けたが、ペルシア戦争後は
オドリサイ人のテーレース王のもとにトラキア人のほとんどが統一された。
彼の息子シータルケースはギリシアでも有名であった。前2世紀から
漸次ローマの支配下に入り、当初、自治を保持していたが、
紀元後1世紀にはローマの属州となった。古代末期にゴート人やフン人が、
中世にはブルガリア人が侵入し、15世紀トルコのコンスタンティノープル
(現イスタンブール)制圧後は、完全にトルコ領となった。

278 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:02:45
トラキアと関係あるかもしれない、まあ埋葬文化だけという事で
あまり深入りせずに

279 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 09:36:19
そもそも古墳時代の巨石による墳墓構築と構造はどの方面から伝播したの
権力者が古代船を使ってお気に入りの石材を運び込むなど、熱の入れ方が
気になるが


280 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 09:49:20
倭の前方後円墳は、
いわゆる騎馬民族が倭に侵攻したとする時期前から築かれていて、
征服王朝が樹立されたと仮定されてる時期に至っても
一貫して造営されてる方式で、
騎馬民族統治後は地元土着の倭人に建設させたものと想定している。
よって前方後円墳という形式それ自体は、
騎馬民族文化とは本質的に無関係ということになる。
もし前方後円墳の墓式が大陸由来文化なら、
箸墓の卑弥呼の時代から既に倭の統治者は大陸出自民族でなければならない。

281 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 14:23:55
中央ユーラシアに紀元前から積石塚と呼ばれる墓制があり、その中に尻尾付きとか角付きと呼ばれる出っ張りのある墓があった。
それはモンゴルやギリシャにも影響を与えたと思われる。
ギリシャには紀元前2000年以上前にクルガン人という遊牧民が入ったといわれ、それがトラキア人の可能性がある。
クルガンはキルギスの語源であるし、ギリシャの語源の可能性もある。
http://homepage3.nifty.com/sekiokas/Topfile/History/rekisinonaka/42~51/45kurgan.html

モンゴルにはヘレクスルという積石塚があるがヘレクスルと言うのはキルギス人の墓と言う意味だそうだ。
「尻尾付き」とか「角付き」ヘレクスルと呼ばれる墓こそ日本の墓に特有と言われる前方部そのものだ。

282 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 14:56:26
クルガンで検索したら
http://moon-cat.jp/weblog/archives/2005/03/post_1005.html
こんなのが出てきた。
デリヘル、ムーンキャットの冬木舞嬢が歴史好き。是非呼んでみたい。

283 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 14:57:53
>>280
なんか理論に無理あるように思う。

284 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 18:48:30
馬は海人が持ち込んだんだよ。

285 :がいやまん:2005/07/23(土) 09:05:20
>>281
ヘレクスルについては金沢大学の以下のPDFが参考になる↓
http://web.kanazawa-u.ac.jp/~arch/kouko43.pdf
「・・・そして現在のところ次のような構築方法が想定されている。まずは中心に大きめ
の石で核を作り、その回りに順次石を重ねていくというものである。 石堆の発掘では、
その構築方法が明らかになるとともに、馬の頭骨が検出され、全てが鼻面を東に向け
ていた。
さらに、1号ヘレクスルから少し離れた「4号鹿石」の周辺の環状配石遺構でも発掘が
行われた。こちらは、1999年度調査の際、時間的な問題によって埋め戻していたもの
であるが、今回、馬の頭骨、頸骨、蹄骨が改めて検出された。保存状態が極めて良好
であった。 遺物としては、鹿石と土器片が挙げられる。鹿石は、墳丘東南部の縁から
発見された。

円形を二つ表現しただけのものである。彫りは浅く、一見すると積み石との区別が
つかないほどである。ただ、こうした鹿石が出土したことは重要で、ヘレクスルと鹿石の
セット関係を示唆するものである。土器片は、モンゴルとブリヤーチヤの板石墓文化
(前1千年紀前半)に関連づけられるものである。今年度の調査は、墳丘の半截が完了
した時点で、一応の区切りがつけられた。モンゴル側団長のエルデネバータル先生は、
中心部分に見られる石の重なりが、石槨の一部を構成するものであるという。それが
正しければ、ヘレクスルはやはり墓葬、それも構築の困難さから考えて、相当な権力を
持つ人物の墓葬であることになる。・・・」
板石墓文化(前1千年紀前半)であるが、漏れは楯築遺跡、三輪山等のイワクラにこの
文化の片鱗が認められ、この伝来において馬韓月支国が中継地として存在すると考え
ている。

286 :がいやまん:2005/07/23(土) 09:15:49
>「尻尾付き」とか「角付き」ヘレクスルと呼ばれる墓こそ日本の墓に特有と言われる
前方部そのものだ。

同感であり、楯築の中円双方墳の方形部分の機能については後の箸墓の後方部
および四隅突出墳の突出部同様、地檀というか礼拝する部分であったと考えている。
箸墓は四隅突出墳文化が瀬戸内海積石墳文化とマージして大和朝廷が生まれる
プロセスジャーなかろうか。

287 :がいやまん:2005/07/23(土) 09:21:46
参考までに板石墓の写真↓
http://ngo.burnet.ru/eger-gallery/pictures/autumn/medium/19.jpg
http://ngo.burnet.ru/eger-gallery/rus/autumn3.htm
他にも↓
http://hist.dcn-asu.ru/skif/fotos.html
これがすばらしいんだが、宇宙の果てのような感じだ。

288 :がいやまん:2005/07/23(土) 09:29:24
これら板石墳、ヘレクスルの分布図↓
http://www.baikalfoto.ru/library/articles/fold_01/fold_01/005.htm
やっぱ、日本人には多少この辺の血も入っているのかね。

289 :がいやまん:2005/07/23(土) 10:35:17
>>274
やはり馬韓にはエスキモー式住居、上部ハッチ式があったようだ。
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_4.htm
「住居は草の屋根と土の部屋を作り、(中国の)墓のような形をしている。
戸口は上にあって、家を挙げて、いっしょにその中に住んでいる。長幼、男女の
区別はない。」


290 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 10:43:51
日本みたいに巨石を運んで組み合わせる墓制や構造は
渡来の形式なのか?

291 :がいやまん:2005/07/23(土) 11:13:57
上記の金沢大にある「構築の困難さから考えて、相当な権力を持つ人物の墓葬」
という考えは正しいと思う。
「この御酒(みき)は 我が御酒ならず 酒(くし)の司(かみ) 常世にいます 
石(いは)立たす 少名御神(すくなみかみ)の 神祷(かむほ)ぎ 寿(ほ)ぎ狂ほし 
豊寿(とよほ)ぎ 寿ぎ廻(もとほ)し 献(まつ)り来し 御酒ぞ 乾(あ)さずをせ 
ささ(記)」
神功 皇后のこの御製には巨石文化への憧憬が含まれていると思う。
常世にいます 石(いは)立たす 少名御神(すくなみかみ)という技術の背後には
鉄器の使用と、巨大な権力の発生が意味されているものと思う。

292 :がいやまん:2005/07/23(土) 18:46:26
鹿石については:
「「鹿石」の絵についてははっきりした事は解っていないが、鹿を神の使いとして崇拝
の対象とする遊牧民族の習慣と関わりがあるものとする研究者もある。モンゴルの
古代文化の書籍や漢文の史書にも、鹿をこの世と冥界とを行き来する力を持った
聖獣としていたという記載が見られる。」
新疆・青河県石堆墓のミステリー
http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/rmhb/japan/200207/8-2.htm
と、こういう解釈もあるんだが、日本では天孫の代表者フツヌシが鹿島神宮に祭られたり、
これと春日大社が関係があり、日本の玄関口には志賀島がある。
漏れはツヌガアラヒトのツヌガとは通化、敦化、ツングース共々この鹿石の意匠である
角を持つ鹿を表しているんじゃないかと思っている。秋田とか、三陸の半島、鹿踊りは
鳥海山、月山方面に直接上陸した大陸物部(百の渡来集団)じゃないかとも思うが。


293 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 19:10:24
佐賀:太宰府(8世紀に設けられたミニ平城京)
の左にある賀(喜び)と信じている。
(嵯峨源氏の関係もあるが)
「賀」という語彙は中国由来だよね?
吉野ガリという地名は佐賀県神崎郡周辺だけの特殊な地名だが
吉野ヶ里(吉野賀里)だと思ったりしてる。
古代の人はこの賀という言葉を好んで使っている。


294 :がいやまん:2005/07/23(土) 19:14:38
つの+か、なんてちゃんぽんジャーないかといわれるだろうが、そもそも
向こうで既にこんなへんてこな言葉を使っていたのならしょうがない。
高句麗、新羅、百済などを生み出す、本家国、分家国、臨海(辰、震)国という構想は
満州を舞台として成立した住み分け概念で、これが半島南端の三韓、日本列島と
分列行進を続けてきたという大局的な捉え方ができるのではなかろうか。

295 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 19:21:52
たしかに馬韓やら百済ないなんて馬鹿にされている三韓はそうかもしれないが
倭については先史時代からある程度の文明と独立独歩の精神があるから、
そう簡単に満州人に完全制圧されるとも思えない。

296 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 19:33:23
磐井の息子は連座恐れ筑紫の沿岸部(鞍手)を朝廷に献上していることから
とても筑紫の勢力が東進したとは思えない。
それに、旧太宰府(平和台=旧福岡城)という防衛上無防備とも
いえる沿岸地域に政府の拠点をおいていたのはそれより南の勢力も
大和朝廷にとって脅威だったからに違いない。

297 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/23(土) 19:44:28
横レス失礼ーー邪馬台国小城説宣伝期間中
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。
伊都国は唐津市の東南の多久市です。不彌国はその東で、邪馬台国は不彌国に
南接してありました。卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡です。
1991年8月12日にその南端に到着しました。

298 :がいやまん:2005/07/23(土) 21:01:34
>>295
ごもっとも。特に九州には伊都国、奴国を中心とするちょっとした連邦、熊本辺りにも
かなりの勢力はいたでしょうね。ところが邪馬台国建国したも伊都国の大型内行花文鏡、
をすんなり渡さず、仲哀の頃に渡したり、応神神功 にいたっては近畿を制圧したような
有様で、また、積石、四隅などは甕棺、支石墳文化にとっては闖入者でないでしょうか。
つまり外来文化ですね。九州以外の弥生日本は大陸の金属文化の前に圧倒されたと
というか、大いに積極的に吸収した。しかし、中核的に日本的なものは譲らなかった。
たとえば、雄略の吉備への反発とか、神功 応神の巻き返しの話にもそんなものが感じら
れる。今日の読売の夕刊に「シカが踊る弥生の代表」というのがあり、春成さんの銅鐸
図案の統計があったがそれによると:
1)シカ135頭以上、2)人間59人、3)魚40匹、4)猪27頭、ということでこの猪などはネイティブ
施主の発注かも知れない。

299 :白馬青牛:2005/07/24(日) 00:51:57
>>298
弥生時代の銅鐸に描かれおる絵には、鹿狩り、猪狩り等の狩猟の絵が
多い。弥生期において狩猟、漁労文化を軽視出来ん。それは、縄文系の
伝統によるものか、東北アジアの移住民によるものか、難しい問題で
あるが、弥生式時代は、竪穴住居と高床住居の共存ともいえる。

弥生時代においてポリツェ文化の影響から、鳥居氏のツングース
「原日本人」説、梅棹氏によるプロト・ツングース説、あるいは、
岡正雄氏の唱えた弥生文化における北方的要素「父系的、ハラ氏族的、
畑作、狩猟、飼育民文化」も考慮する必要がある。

300 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 01:14:52
沖縄の先輩が奄美だろ、奄美の貝が吉野ヶ里で見つかるという
ことは沖縄人は古代九州人だよ。

301 :白馬青牛:2005/07/24(日) 01:28:26
ただ岡正雄氏のハラは、日本の同族組織(本家による分家の統制)と
似たものとみておられることで、学説的には問題がある。
渡来系の東漢氏には、腹(ハラ)が分かれても本家、分家の別は無く、
初期の源氏においても、摂津源氏と河内源氏の本家、分家の区分は無い。

しかし、末子相続制的傾向はあったようで、蒙古で末子は「炉の主」や
「家の主」等と呼ばれた。日本でも、西日本は、末子相続で、東日本は、
長子相続という傾向はあった。源氏も、関東へ移住して、本家による
分家の統制と変化したと思える。東日本の社会組織宗族制の起源が、
中世に発祥したものか、縄文に遡れるのかは、わからん。
西日本の方が、遊牧民的社会組織をもっておったとはいえるであろうが。

302 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 01:47:08
末子相続

家長としての地位やさまざまな財産を末子が相続継承する方式を一般的に
末子相続(ばっしそうぞくとも読む)という。末子相続は世界的にみれば,
ヨーロッパ,中央アジアの遊牧民,北東アジアの狩猟民,東南アジアの
農耕民などに点々と行われているが,日本では西南日本の村落で主に
行われている。
 日本における末子相続の具体的方法はかなり複雑である。最も多いのは
子どもたちのうち長男から順に分家して,最後に残った末子が相続する
方法であり,このほかには一度分家や転出した末子がふたたび両親のもと
にもどって相続する方法もある。また親が長男にあとを譲ったのち,
次・三男や女子を連れて隠居分家をくりかえし,最後に親と同居した
末子が親のあとをつぐ方法も,一般的には長男相続(長子相続)と隠居分家
の制度であるが,これも事実上末子相続に非常に近い相続形態である
小面積で主食を確保できたサツマイモ地帯では、不動産分与が容易
だったことと関係するのかもしれない。断片的末子相続事例は、
日本でも近世前半までみられた男子均等分割相続と、早婚の両親が
若い末子を扶助する傾向とが複合した偶発的事例であろう。

日本大百科、世界大百科事典


303 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 02:01:14
鹿児島地方の分割相続

 さて、鹿児島地方(旧薩摩藩領)では、明治以降でも兄弟など複数の
相続人に財産(主に田畑)を出来るだけ均分に分割して相続させる
分割相続慣行がみられた。
 財産分与の対象となるのは、原則として男子のみであり、分離した
各世帯は基本的に別居・別食・別財である。農業経営も別になる。ただ、
老夫婦が独立した世帯を維持することが難しくなると、末子(の場合が多い)が老夫婦の面倒をみ、老夫婦の財産(隠居分)は末子が引き継ぎ、位牌元となる場合が多い。
 このような分割相続地帯は鹿児島地方から奄美諸島、琉球諸島にかけて
広がっている(ただし、相違もある)。

http://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/29-2/bunkatu.html
分割相続と農村社会


304 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 02:34:22
末子相続、長子相続はもう少し考える必要ありそうですね。。

305 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 05:05:07
>>294
>高句麗、新羅、百済などを生み出す、本家国、分家国、臨海(辰、震)国という構想は
>満州を舞台として成立した住み分け概念で、

同意。そしてその本家は扶余だが、扶余が滅亡したときにその一部は晋の傀儡国と
して再建され、他の一部は独立を保って任那を攻略して新しい本拠地とし、さらに
倭國を征服した。
だから倭は扶余勢力圏のなかの本家筋だ。
百済や渤海の、倭國に対する甘えぶりは、本家筋に対する分家の態度である。

306 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 08:53:48
>>305
それも1つの説ではある意味正しい。
>>229の説もまた最有力。

307 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 20:15:58
東胡ってのはツングースだろうが、同時に胡服を身につけているので
胡的(西洋的)でもあったんだろう。
多少胡人も居たかもしれない。

308 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/24(日) 23:23:48
BC3〜4世紀に、燕の秦開将軍が東胡を討ったという資料があります。
おそらく渤海の北岸から南満州にかけて居住していた諸族だとおもわれます。
追われて一部は満州北部に、一部は半島に逃げ込んだと考えられます。
その一部が更に南下し、倭国に渡り(上陸地は唐津付近)、邪馬台国をつくったのではと考えています。

309 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:32:38
弥生人は時代的に東胡の可能性がかなり高いね。
居住区は満州西部あたり。
もともとはもっと北から南下したものだろうが。


310 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:37:25
少しずつきただろう、胡服きた古墳時代の遺跡ありゃ
東胡系だよ。

311 :がいやまん:2005/07/25(月) 11:25:27
東胡は原始社会関係にある遊牧民族、BC3世紀以前は匈奴とは勝るとも劣らない
関係で、一時は匈奴の朝貢を受けるも、BC3世紀末匈奴に征圧された、蒙古東部
-満州南部、北京(張家口)-興安嶺にいた部族。匈奴の征圧を逃れたものは烏桓、
鮮卑となる。ロシアではこれを元モンゴルまたはツングース乃至はトルコ族とみて
いる。


312 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 15:20:00
東胡の後裔は烏桓{うがん}、鮮卑{せんぴ}、契丹{きつたん}ですが
これらのうち、鮮卑は首長を可汗と呼んでいるからおそらくトルコ系?
になっていったのではないか?そして契丹は
《旧唐書(くとうじよ)》《新唐書》に見える蒙兀(もうごつ)であるから
モンゴル人の祖先だろうか?
そして烏桓が土井が浜に渡来したタイプと近い気がする。

北方シラムレン川流域を根拠地としたのが鮮卑{せんぴ}、
南方ラオハ川流域に根拠地を置いたのが烏丸とよばれた。
中国正史によれば、狩猟、交易のほか、季節的農耕の痕跡{こんせき}
もある。シャーマニズムを信仰し、初め統一勢力はなく、
非世襲の大人{たいじん}に統率されて地域ごとに分立し、
匈奴に服属していた。
前2〜後3世紀初,内モンゴルのラオハ川流域を中心に活動した遊牧民族。
烏丸とも記され,前206年ころ匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)に
滅ぼされた東胡の一派。族名については,蒙古語ukhaghan(賢),
unagan(奴隷)などとする説がある。前漢時代は小部落にわかれ匈奴に属した。
鬼神,天地,山川,日月を祭り,シャマニズムを信奉し,頭髪をそりおとす
風習があった。

313 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 15:36:09
烏丸南方ラオハ川流域[遼河]てのは、丁度半島で四隅墓が見つかった位置の
中国側少し西にあたるんだよ。出雲の勢力はこの勢力なんじゃないかな・・

314 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 15:38:20
a

315 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 16:05:10
建武九年(33)、司徒掾班彪が上言して「烏桓は生来身勝手でずる賢く、
もし勝手に振舞わせれば必ずや民に危害を加えるでしょう。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/jkodaisifukugen/fileKodaisiNenphyo.html
日本極東アジア古代史年表

316 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 16:58:45
http://www007.upp.so-net.ne.jp/jkodaisifukugen/index.html#nomichiJ
日本古代史復原作業報告
プロフィ−ル

 野道事務所(代表 野間口道義のまくちみちよし 1934年生 
鹿児島県出水市出身東京大学文学部哲学科卒。)は日本古代史復原事業
を開始しました。野道事務所は日本古代史復原作業の全行程記録をこの
ホームページに公表しています。日本古代史復原作業を克明に記述している
「委奴國志(いどこくし)− 新古事記・日本古代史復原 −」をぜひ一読
して下さい。

この人すごくね?

317 :白馬青牛:2005/07/26(火) 01:57:21
魏志東夷伝(倭人伝)に、「骨而ト、以占吉区」とあり、
動物の骨で、占うのは北方的習俗と思える。
>>312
烏垣については、「後漢書烏垣伝」に赤山の記述もあり、赤色を尊び、
モンゴル語で赤い(ulan)説もあります。

318 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 02:51:37
土井が浜の人は要するに赤も白もいたってことだな、
日本そのものが彼らによってつくられ、巫女さんの服や
日の丸にもなった。

319 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 03:29:45
>>317
あなたの博識ぶりにはいつも脱帽します。下のスレに来て議論されてはいかがです?
   ↓
鮮卑はトルコ民族か?(世界史板ヨリ)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1108895458/


320 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 06:13:44
葦の宮に神武逗留伝説の残る吉備秦(ハダ)の末裔。高梁川の岩倉石畳神社の巨石は20メートル以上。
たたいで、河神への祭祀もしていた、船は直接呉とも交易をもった。
いくつもの時代の渡来者がいるので、5世紀以降はいまきと呼ばれた。古くは魏との交易もあり。
応神天皇も歓待し、姫は秦からでている?聖なる正木山は皇室正月句会の句語。
死んだ神主や曽祖父たちは、先祖は遠く中央アジアの弓月からきたので
秦小学校の紋章も半月と弓にした。としている。

321 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 06:15:27
戦前は英雄ウラの居城だった鬼城へ青年団が成人の行事で報告にいく通過儀礼あり。
お盆に村の男女が徹夜でこもる虫追い祭りは
ユダヤの過ぎ越し祭りに似ているので、戦前実家に調査がきたらしい。
狼をはじめ、動物のモチーフは多い。尼子の戦国武将、山中鹿之助は三日月に
「我に七難八苦を与えたまえ」と祈念した英雄で信仰者も多い。


322 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 06:53:16
吉備の一部(広島福山市あたり)では紀州と通じる「蘇民将来」のお札信仰が残る。
赤穂や京太秦の大壁(壁は人偏のビンで、中国読みではダビデ王のこと)神社
にみるペルシャ文化(後の雅楽)に造詣の深い秦河勝一族らとの関係は不明。
ただし蘇我一族の直轄地、たたら跡地は多い。徐福伝説もある。
後に吉備真備ら中国大陸外交の大物をだすマビには、ニマ(二万)があり、
天智の白村江口の会戦のため、文字通り秦水軍2万が近江、紀州、尾張などから結集し渡来。
新羅系神社の強い地元では、唐と新羅連合にわざと負けたのではという
笑い話も。歴史的に、吉備は大和から軍事でも独立しており、過去3回も宮廷クーデターや
故地の任那まで下がって新羅と都市同盟をくみ大和に抵抗している。
吉備秦の捕虜は長安まで抑留されるが、後に一部が2000名規模で唐の進駐軍
といっしょに帰還している。天皇制、律令、日本国号使用初期のこの時代の国際政治研究は
日本社会のなりたちからみても、かなり重要な課題だろう。
吉備系の和気清麻呂による道鏡追放の宇佐(ヤハタ)の神託事件などにも、吉備大和連合の残滓が。

323 :がいやまん:2005/07/26(火) 15:38:03
>>298 >>311
例のヘレクスルはBC1000年頃、石板墳は春秋時代だから東胡(遼寧青銅器)とは
重なるものの、漢四郡、扶与、秦の遺民、等等様々な曲折を経て日本に渡来する
わけで鹿石、ステラ(石碑)などは日本においてはいろんな姿に化けているようだ。
鹿石は陽根思想があり、善光寺の回向柱の四角、宇宙軸思想は鹿島神宮の要石
に残っている。鹿石には軍神の一面があり剣を埋納すると言う形に変わり、荒神谷
石上神宮、鹿島神宮などにその本来の思想と石の文化の片鱗が残ってエいるようだ。
これらはヘレクスル文化が遼寧青銅器文化圏を通過したときに変質したものであろう。

324 :がいやまん:2005/07/26(火) 15:56:43
また、ヘレクスルには日輪を表すと思われる車輪形との関係が深く、これは飛騨、伊勢、
善光寺などの菊花紋と関係があり、皇室の紋章になったのではないかと思われる。
ただし、エベンキ自治州の紋章などは流水紋であり、後醍醐天皇が楠木正成に許した
ものと同じである。この水の流れはエベンキ族の世界像によるようだ。エベンキ族は
韓国などにある二重丸の太陽のマークをシャーマンの帽子につけている。三途の川の
銭太鼓のようなタンバリンもあるようだ。また、バイカル、アムールのチョウザメのような
魚の模型を大事にしているようで、この辺が黒龍江とか、琵琶湖のしゃちほこのイワレかも
知れない。


325 :がいやまん:2005/07/26(火) 16:37:04
話は変わるが、飯田には馬を周辺に埋めた古墳があるという。こうした習慣は
スキタイに多いもので、王族、武人の墓である。降伏した新羅の王が倭国大王の
馬飼いになることを約したというのは本当かなと思わせる。

326 :がいやまん:2005/07/27(水) 09:19:30
>>324 菊紋のヘレクスルの写真。
http://sae-spb.narod.ru/8-01/image066.jpg

327 :がいやまん:2005/07/27(水) 10:37:04
ヘレクスル関係で若干補足説明する。
http://www.evenkya.ru/eng/?id=vlast&sid=sym
上段はエベンキの太陽を表す民族的織物「クマラン」をデザインした、ヘレクスル、
菊紋、内行花文鏡等の起源を暗示させる図案を、北極の朝昼晩を表す、青、白、
ダークブルーの3つのストライプの中央に置いたエベンキの国章。下段は儀式用
シャーマン・タンバリン(日本では銭太鼓というもの)を図案化したエベンキ自治州
のエンブレムで、白い鳥は:loon[lu:n]n.〔鳥〕アビ:北半球産の水にもぐる鳥
.Progressive English-Japanese Dictionary, Second edition Shogakukan
1987.プログレッシブ英和中辞典 第2版 小学館 1987.
これは「安倍氏」等の起源を暗示させる。その他にも説明があるが、恐山の
三途の川の話を髣髴させる。
↓これはシャーマンの写真と思われる。
http://www.evenkya.ru/adm/pic/photo/big/1-51.jpg
これは日本では鳥形木製品として発掘されるものの原型だろう。
http://www.ethnofund.ru/Buriatia/evenki10.jpg
これはモンゴル東部にあるもので「クシフル岳」、クジボンなどのオリジンと思われる。
http://www.angara.net/image/2343.jpg

328 :がいやまん:2005/07/27(水) 10:54:15
>>326
菊紋ヘレクスルの前に小さく復元された鹿石、これが日本に入ると
http://nakamurasanchi.cool.ne.jp/ekoubasira.htm
このようなものになるが、この背後にあるのが陽根、軍神等騎馬民族の
思想であるというわけ。

329 :がいやまん:2005/07/27(水) 14:04:08
http://www.evenkya.ru/eng/art/obsh/pic/rossia.jpg
エベンキとは自国を自称したもの、ツングースとは「山を渡る民」という意味。
エベンキの代わりに"ile"(イリ彦と似ている)、人という場合もある。ツングースは
古来よりオホーツク海岸からオビ河の間に住み、東から、海寄りのものは"Even"、
"Lamuti"、(Lamaが海という意味だから、日本語のワヌ、ワニ、、ヤマト、アマツか)、
バイカル湖付近のものを"Murcheni"(murが馬で馬飼い)、一番西側のツングスカ、
アンガラ川流域のものを"Orocheni"(oroが鹿だから鹿飼い)と呼んだ。
だから、彼らが朝鮮半島南端、日本列島にまで南下してもこうした区分はしていた
のではなかろうか。

330 :がいやまん:2005/07/27(水) 14:18:33
確かに「天津」というのは海人族としてニギハヤヒ東遷でも乗組員リストに計上されて
いる。
http://www.h4.dion.ne.jp/~munyu/kujihonki/

331 :がいやまん:2005/07/27(水) 14:32:01
凡海郷↓これってツングース?
http://www.kammuri.com/
凡 海 郷 異 聞 をクリックすると色々と面白い。
応神天皇による敦賀の二重服属などを勘案すると、ツヌガアラシトとは新羅から
敦賀にツングースのセンター、角鹿を移動させたのではないかという気がする。

332 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:20:59
ツングースというかツングースっていうやつは古代東胡の雑多な民族の
総称なのではないか?この中から蒙古、チュルク、女真などが生まれる。
思想、信仰、宗教に共通点はあるが異同点も多い。
日本に関係したのはこのほんの一部の部族だろう、しかし信じがたい恐怖の
半島、列島征服術を編み出した。

333 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:30:04
がいやまんさんの研究は大変参考になります。


334 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:31:50
そういや、出雲族の支配で鹿が関係するという人がいたね。

335 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:35:51
最終的に赤と白がどう関係したのだろう、
渡来系対渡来系か?
土着対渡来系か?
それとも土着に近い渡来系と渡来系の対立か?・・

336 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:55:42
熊はどうも先住民族を意識して付けた名称のような気がする。
半島の先住民(カイ)も熊をトーテムとしてるね、
このトーテムは出自、民族と深い関係がある。
とくに古代アニミズムの流れを組むものはそれを強く意識したはずである。


337 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 16:01:02
ヘレクスル、スキタイ、梵はツングースに深く関わったかもしれない、
しかし民族・人種に大きな影響はなく文化的宗教的な影響に
留まっていると思う。
半島・列島に深く関与した集団はもっとも先進的な
ツングース(東胡)だった筈です。

338 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 16:04:36
倭人自体はいろんな変遷あったけど基本的に縄文人の後裔だと
思いますよ。いろんな観点からみてもそうとしか思えない。

339 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 16:35:42
ヘレクスル、スキタイ→ツングース(朝鮮)だが
梵→中華→ツングース(朝鮮)だな

340 :がいやまん:2005/07/27(水) 17:10:36
>>334
大己貴命は鳥取市から石川県まで鹿と亀に乗ってきたといわれている模様。
http://www.toriton.or.jp/~kawahara/legend/
↓上世の昔、大己貴命、出雲国より因幡国気多崎(因幡の白ウサギの地)に至り、八上比唐フ許に通せ給い、夫より鹿・亀の二霊に駕して、当国当所に渡らせ給う、今の府中の浦是なり。↓
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file2/ketahon.htm

341 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 17:40:42
大国主神
おおくにぬしのかみ
[オオクニヌシ物語の大要][オオクニヌシ像の変遷]
⇒関連項目
大国主命(みこと)ともいう。日本神話にあらわれる神の名。記紀の神話に,葦原中国
(あしはらのなかつくに)の国作りを行い,国土を高天原(たかまがはら)の神に国譲
りした神として語られている。素戔嗚尊(すさのおのみこと)の5世の孫(《古事記》)ま
たは子(《日本書紀》)とされる。名義は大いなる国主の意で,天津神(あまつかみ)(高
天原の神々)の主神たる天照大神(あまてらすおおかみ)に対して国津神(くにつかみ)
(土着の神々)の頭領たる位置をあらわす。大国主にはなお大己貴命(おおなむちのみこ
と),葦原醜男(あしはらのしこお),八千矛神(やちほこのかみ),顕国玉神(うつ
しくにたまのかみ)などの別名がある。これはこの神が多くの神格の集成・統合として
成った事情にもとづいており,そこからオオクニヌシ神話はかなり多様な要素を含むも
のとなっている。ただ多くの別名のうちオオクニヌシの原型をなすのはオオナムチであ
る。

342 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 17:48:57
[オオクニヌシ物語の大要] 《古事記》のオオクニヌシを主人公とする物語は,(1)オ
オナムチが種々の苦難,試練を克服して大いなる国主となる物語,(2)ヤチホコの神の妻
問い物語,(3)少名毘古那神(すくなびこなのかみ)(少彦名命)との協力による国作り物
語,(4)葦原中国の主として天津神に国譲りする話の4部分からなる。(1)オオナムチには
多くの兄(八十神(やそがみ))がいたが,1日かれらは因幡(いなば)の八上比売(やか
みひめ)のもとへ求婚に出かける。途中赤裸(あかはだ)の兎と出会い,八十神が兎を
いっそう苦しめたのに対しオオナムチは懇切に療法を教えて救い,よって袋を背負い従
者の身なりをした末弟のオオナムチがヤカミヒメを得ることとなった。それを怒った八
十神はオオナムチを欺いて二度にわたり殺すが,そのつど母神に助けられて蘇生し,祖
神スサノオのいる根(ね)の国へ逃れる。根の国ではスサノオから課された蛇の室(む
ろ),むかで・蜂の室,野焼きなどの難題を解決したことにより,スサノオの娘須勢理
毘売命(すせりびめのみこと)を妻となし,また宝器〈生大刀(いくたち)生弓矢(い
くゆみや)〉を授かり,それをもって八十神を追い払い初めて国の主となったという。

343 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 17:49:56
以上の話には動物報恩譚,末子成功譚,難題婿といった説話の型がふまれており,民話
的な興趣があるが,根幹は若者に試練を課した古代成年式に基づく王の即位式の説話化
と見ることができる。兎を救った話は,民衆のために医療,禁厭(まじない)の方法を
定めた(《日本書紀》)とあることの本縁譚で,もって王者の徳“慈愛”を語ったのであ
ろう。(2)はヤチホコの神として越(こし)の国へ妻問いに赴く話だが,前半は越の沼河
比売(ぬなかわひめ)との,後半は嫡后(おおぎさき)スセリビメとの長歌の唱和の体
をとる。歌はそれぞれ20行前後の長さをもち,その身体行動に即した演劇的表現,性的
表現の直截性,全編にわたる滑稽性において古代歌謡の特色をもっともよく伝えている。
これらの歌謡はおそらく宮廷の饗宴で俳優により演ぜられたもので,ヤチホコという神
名は陽根の象徴と見られる。王者の活力の一端を示す挿話としてオオクニヌシの物語に
とりこまれたのであろう。(3)においてオオナムチは海の彼方より漂着した小人神スクナ
ビコナと国作りを行う。この大と小との対照的組合せを示す2神は,《風土記》《万葉
集》などに地方の山川を創造・命名し,また農業の本を開いた神として伝承されている。

344 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 17:50:46
記紀の国作り物語はそうした在地神話の宮廷的・中央的集約とみなされる。ただしスク
ナビコナは国作りなかばにして常世(とこよ)の国へ去り,かわってあらわれた大物主
神(おおものぬしのかみ)がオオクニヌシとともに国作りを完成させる。これはオオナ
ムチがオオクニヌシに統合・吸収される過程で生じた政治的付加といえる。(4)かくして
葦原中国の主となったオオクニヌシに対し高天原より国土を天津神の子に譲れとの交渉
がはじまる。交渉は両三度に及ぶが,ここでのオオクニヌシは生彩のない受動的な神に
すぎず,使神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)に対して事代主神(ことしろぬしのか
み),建御名方神(たけみなかたのかみ)(ともにオオクニヌシの子)ともども屈服し,
国譲りのことが定まる。その際の条件にオオクニヌシは壮大な社殿に自分をまつること
を請いそこに退隠することになったが,これは出雲大社の起源を語ったものである。
[オオクニヌシ像の変遷] オオクニヌシの祖型としてのオオナムチはスクナビコナと
組みをなして記紀以外の文献,伝承にもっとも多く語られた神である。そこでは《出雲
国風土記》に見える〈五百(いお)つ■(すき)の■猶(なお)取り取らして天の下造
らしし大穴持(おおなもち)の命〉との呼び方や,《播磨国風土記》に伝える2神の我慢
くらべ譚,オオナムチが〈屎(くそ)まらずして〉スクナビコナが赤土の重荷を背負っ
てどこまで歩き続けられるかを競った話のような土着臭の強い神としてあらわれ,記紀
の時代以後も諸書に伝承の痕跡を残している。

345 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 17:52:12
オオナムチあるいはオオナモチの名義は
,〈大穴持〉の文字よりすれば洞窟にいる神を意味し,その在地性に即した名といえよ
う。なお平安末期には大黒天(だいこくてん)を食厨の神として寺院の庫裏にまつる風
が生じており,近世期には七福神のひとつとして流布されるが,その過程でオオクニヌ
シは大黒天と習合されるにいたった。〈大国〉あるいは〈大己貴〉の音をもって通わせ
たといわれるが,大黒天像の袋を背負い米俵をふまえた姿はなお古代の農神の面影を伝
えており,西日本において大黒天が〈田の神〉として信仰されたのも同様の理由による
と思われる。またオオクニヌシは現在も“縁結び”の神とされるが,これは記紀のオオ
クニヌシが子福者であり,〈其の子凡て百八十一神ます〉(《日本書紀》)とされたこと
の世俗化であろう。

346 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 18:24:41
長文投稿、恐縮です。
調査力のない人が跋扈してますんで直接彼らの目にも触れるよう
出来る限り事細かに書く必要があると考えました。

347 :白馬青牛:2005/07/27(水) 21:12:47
>>339
ツングースと朝鮮が、同じ文化圏に属するといえる根拠は
何処にあるんか?
ツングースは、北アジアでも朝鮮と最も違う民族性を持っておると思う。
モンゴル人は、若干文明化しておるので、阿諛する部分もあり、
朝鮮民族と近い部分もあるが。

348 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 21:54:23
>>347
必ずしもそう思っては居ません。
しかし、掲示板みている人に分かりやすくするために
多少誇張気味に書いたことは事実です。
今後はその勢いで馬鹿なコピペ荒らしを撃退してください。

349 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 05:32:18
ツングースである満洲族は、じぶんたちの民族性が漢族より優れているから、漢族を
支配するのは当然、と考えていた。
しかしその優れた民族性も、漢族にとりまかれて何代か経てばたちまち漢化してしまって、
清帝国の衰退に至る。

それは別として、満洲族と自称する人たちに会うと、漢族より我々日本人に近い感じが
するのは不思議なほどだ。

350 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 11:24:25
つまり日本人はツングースカってこったな
本当に本州人をみると満州人そのものにみえる

351 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 11:30:46
だから、もう明治以後は加速度的にツングース化だって、アキラメロ。

352 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 11:45:20
つまり、「騎馬民族は来なかった」は否定されたわけね?

353 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 12:06:45
現代のツングースってどんな階層の人たちなの?
放送業界とかIT関連かな

354 :がいやまん:2005/07/28(木) 13:43:29
One day in Evenkia
http://www.evenkya.ru/eng/?id=uniq&sid=foto&photocat_id=3
The faces of Evenkia
http://www.evenkya.ru/eng/?id=uniq&sid=foto&photocat_id=2
The nature of Evenkia
http://www.evenkya.ru/eng/?id=uniq&sid=foto&photocat_id=4

355 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 14:01:29
東胡の人って凄い氏族の結束力が高いそうだから、どこにでもいるだろう。
放送業界とかは多そうではある。
中世の村でも惣なんかはかなりエベン的な社会なんじゃないかな・・
士族以外氏姓を許されなかったのも相対的に支配階層の
結束力を高めたとも言えるからエベン的のように思う。

356 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 14:13:06
酒屋、土倉、金貸し、サラ金、風俗、パチンコ屋、
マスコミ、白虎隊(警視庁=警察)
この辺は古代から根で繋がっているとみてるよ。
ツングースの本家筋だと思う。

357 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 14:28:52
ツングースの支配体制は東に行くほど洗練され完璧なものとなる。
八紘一宇なんか、天才的だ。

358 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 15:10:20
先の大戦なんかも主導したのはツングース系だろう
軍属、官僚、政商、教師が一丸となった

359 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 15:30:15
そもそも下ってきた天孫が新参者なのに神の子、先住民族と
言ってる時点でねつ造だろ
半島も同じ天孫神話の国だぞ。
ヤマト(倭)等は天孫ではないから白虎隊などに比べ差別的待遇を受け
危険な任務に就かされているだろ。

360 :がいやまん:2005/07/28(木) 15:33:29
八旗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%97%97
満州の旅
http://homepage2.nifty.com/bekkysbar/manchu3.htm

361 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 15:36:51
彼らは時には奢侈の対象にもする、いろんな形で
先住民族を利用する。
インドのアーリア(選民)などもこの系統に近い神話を持つが
むしろカーストが生業を守り先住民族の血を守ったと
言える。それに仏教、ヒンズー、ジャイナなど多種多様な
選民思想と相反する思想も影響したと考えられる。

362 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 15:49:41
戦前の自由主義的な柳田の民俗学も全然ダメ。
あれは唯物史観からのもの、馬鹿。

363 :がいやまん:2005/07/28(木) 21:44:47
>>340
「高句麗〜天孫降臨と国譲り
 紀元前五十九年の四月八日、天から不思議な一行が降りてきました。
白鳥に乗って羽衣を翻した百人あまりの天人が、天空を駆ける五龍車に
つき従っています。清らかな楽の音が高らかに響き、鮮やかな雲の間を
かきわけて、まずは熊心山に降りました。そこで十日あまり過ごし、ついに
地上の訖升骨(フルスンコル)という城に降臨しました。
 五龍車に乗っていたのは天帝の太子で、解慕漱(ヘ モソ)と言います。
頭には鳥羽冠をかぶり、腰には龍光の剣をさしていました。慕漱はそこを
都に決めて自分のことを王だと名乗り、国の名前を北扶餘と名づけます。
やがて解夫婁(ヘ ブル)という王子も産まれ、彼が成長すると国を継が
せたのでした。 
 解(ヘ)という姓は「日(ヘ)」に、夫婁(ブル)という名前は「火(ブル)」
にひっかけたものだと言われます。つまり、「太陽・炎」という名前です。
天から降りてきた一族は、太陽にちなんだ名前を持っているのでした。 
 こうして夫婁が王として北扶餘を治めていたとき、大臣の阿蘭弗
(ア ランブル)は不思議な夢を見ました。天帝が夢枕に現れて、
遷都せよと命じるのです。
「この地は、今まさに余の子孫が国を建てるべき場所である。よって
汝らは遠慮して立ち退くのじゃ。
 東海の沿岸に迦葉原(カソヴォル)というよく肥えた地がある。そこが
お前たちに向いておるであろう」」
http://enkan.fc2web.com/kantan/kr/kr_03.html
上記の「迦葉原」が「香春」、「橿原」そして >>340 「河原」と関係があるかも。
辛国息長大姫、神武、気多神と皆外からはいてきた存在が係わるのが共通。
すなわち、同一の神話を維持してきたのではなかろうか。また、逆に日本の
方からのフィードバックということもありえるかな。

364 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 22:15:28
>>360
八旗と八幡て関係あるの?

365 :がいやまん:2005/07/29(金) 08:26:28
↑高御座だとか、「大事には「あきつみかみと、大八洲しろしめす、天皇詔書と」
といつた形を以てしたものと思うてゐる。」という下記の記述とか、
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/24435_14230.html
八幡についての考証とか、
http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-51.html
http://www.e-tamaya.com/hatiman.html
他にも八咫鏡、内行花文鏡、等関係は深いようだ。

366 :がいやまん:2005/07/29(金) 09:15:34
↑上の最後のリンクには「更に、新羅は満州族の影響を受けていると考えられ、
その満州には「八旗制度(八幡制度)」があった。 八旗制度は軍事、政治、生産
職能の機能を持つ重要な制度で、八旗の構成メンバーは"旗人"と呼ばれた。」
ということが書いてある。一方、神武は紀ノ川で名草戸畔を殺し、死体を8つに切った
とされる伝承を残す。これは神武軍は八幡史観をもち、多分銅鐸集落をスサノオが
「ヤマタのオロチ」というように、共通の竜神(水源)を持つ集落集合体を、銅鐸の破壊と
共に解体し、紀ノ川、熊野と銅鐸圏の西、南の要地を攻略、後の纒向を中心とする
倭国形成に寄与したのではないかと思わせる。つまり、神武の他にも北陸、東海地方の
大王がいてこれが欠史八代の頃の天皇に計上されているのではなかろうか。




367 :がいやまん:2005/07/29(金) 13:02:30
>>365 高御座 ↓
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co-0407-08.htm
このように八角形となっている。

368 :がいやまん:2005/07/29(金) 13:54:34
内行花文鏡、については↓
平原遺跡と下池山古墳出土の大型内行花文鏡について
http://homepage3.nifty.com/markmaeda/naikoukamonnkyou.htm
鏡の種類
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/kouko16kagami.html
この頃の倭国成立については↓
前方後円墳と前方後方墳
http://www.inuyama.gr.jp/ssinfo/contents/aotsuka/shinpo/shinpo7.html
が参考になる。


369 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 14:40:18
八になぜツングースは拘るのだろう・・

370 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 14:56:54
ツングースというより遊牧民系の八方分割じゃないか?

371 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:02:14
八方分割?
八進法か?
なんのいみがあるんだろ・・

372 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:56:47
■ハングル板基本用語解説■其の14

(理由2) <<白丁(ペクチョン)>> 日韓併合されるまで朝鮮に存在していた被差別階級。在日=白丁とされる韓国では
現在でも在日は差別される。実際は全ての在日が白丁な訳ではないがその多くは朝鮮社会での被差別階級だった。朝鮮の身
分階級は大別して「良人(両班、中人等)」「賤人=奴隷」とあり、「賤人」のうち個人所有=民婢、公有=官婢と称した。
国家的奴隷制、贈り物・相続・売買され、殺生しても罪に問われなかった(←部落との違い)「白丁」は、これの更に下層
に奴隷以下の被差別民として位置づけられた。李朝時代に身分として固定され、柳細工の製造販売や屠畜などに従事、衣服
も指定され、居住地も制限され、目印として平壌笠と呼ばれる笠をかぶらねばならなかった。(コピペ)
(理由3) <<済州島出身者>> 白丁よりも済州島が多い。ソウル>地方>全羅道>白丁>済州島 済州島に対する差別
は酷く、完全な野蛮人扱い。済州島出身者との結婚となると、在日の間でさえ「血が汚れる」と一族が猛反対。
1948年、南朝鮮の単独選挙に反対する南朝鮮労働党が組織した済州島四・三蜂起が発生し、朝鮮戦争後の1950年代
半ばまで、弾圧とテロ、山岳ゲリラ活動が続き、のべ8万人の島民が殺されたとされている。今日でも、済州島は反中央の
気風と結びつけて語られることが多く、半島には済州島出身者への差別意識が残っていると論じられることも多い。
済州島は、民族的に陸(半島)と著しく異なり、倭人に近い。昔は独立国だったが、いつの頃か朝鮮に侵略されて現在に至
る。ただ、完全な支配となると意外と新しく、三別抄の乱後、元寇以後になるんじゃないかな。日本では、神功皇后が済州
島を征伐し、その時百済に与えたと伝えられてる。 (コピペ)

――戦後の補償と謝罪―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
戦後の補償と謝罪に関するデータ http://tenpura_c.tripod.co.jp/


360 :日本@名無史さん :2005/07/29(金) 15:41:29
早い話満州人が倭人(縄文)をB扱いして差別・排除してきただけだね。
半島も日本も構造は同じじゃん。

373 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/29(金) 21:50:37
今、井沢元彦氏の逆説の日本史12巻をよんでいます。ふと、おしまいの方のページに目がとまりました。
>ケガレとは、皮剥ぎの一工程。
「新鮮な肉」を得るための解体作業には「血抜き」と「皮剥ぎ」がかかせない。
牛馬の「皮剥ぎ」にかかわってきたがゆえに、「毛がれ」とされ、五穀を枯らす根源とまで考えられて、蔑視
賎視を受けるに至った皮革の技術者ーそれがエタであった。

ところで、騎馬民族とはその生業は略奪と牧畜でしたよね。とすれば当然、肉食ですよね。そして動物を解体する
ことはあたりまえの人達ですよね。
ところがそれが日本では、汚らわしいとして差別の対象とされているということは、
騎馬民族は、支配者として日本に来たのではないと言う事を表しているのではないでしょうか。
それともはじめは、征服者的に日本にきたが、やがてエタの身分になったとか。
どちらにせよ、騎馬民族が支配者であったなら、日本では動物を殺して食うことに、
もっと違和感はないのではないでしょうか。



邪馬台国小城説宣伝強化期間
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は、小城公園桜ヶ岡です。

374 :白馬青牛:2005/07/29(金) 22:59:18
>>373
ケガレとは、死・病や社会や政治の秩序を攪乱し脅威となるものに
対する忌避・恐怖の観念で、皮剥ぎの一工程をあらわすものではない
でしょう。
しかも、遊牧文化をもつチベットでも、「屠殺者が賤民」となって
おるので、その説には同意出来んのです。
騎馬民族の生業が略奪というのも疑問があり、略奪される側との正常な
関係が崩れた場合をさすというほうが、近いと思う。
弥生人も、銅鐸に描かれておるように、鹿狩り、猪狩りと狩猟の絵が
多いので、動物を殺して食うことに違和感はなかったでしょう。

375 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/30(土) 07:17:09
チベットで「屠殺者が賎民」となっているのが現代だとすれば、仏教の影響ではないでしょうか。
弥生人もとありますが、騎馬民族説の時代想定は4〜5世紀ではないでしょうか。


376 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 09:10:37
広開土王の碑文に征服した異民族を奴隷化してその陵守としたという一文がある。
高句麗でも被征服者が賎民化されているわけで、日本の天皇陵の陵守もこれに倣って行われたと考えられる。


377 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 14:16:35
>>373
>ところがそれが日本では、汚らわしいとして差別の対象とされているということは、
>騎馬民族は、支配者として日本に来たのではないと言う事を表しているのではないでしょうか。
>それともはじめは、征服者的に日本にきたが、やがてエタの身分になったとか。

ばかも休み休み言え。
征服民族の中核は誇り高き戦闘者、戦士だ。
戦士がみずから皮剥ぎなどやるものか。
皮剥ぎをやったのは戦士の階級に仕えた部民のなかの一つだったろう。


378 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 14:45:02
>>376

Bの中に陵がある例があるがそれはどう説明する

379 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 17:20:08
Bって何?

380 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:53:09
追加。
晋書東夷伝の扶余条にも、扶余が「豪家」と「奴僕」に別れていたと書いている。
この奴僕が農作業や「皮剥ぎ」をやっただろう。
また「家々有鎧杖」とあり、家々に武器を持っていたというが、奴僕が武器を持っているのは
おかしいから前記「豪家」がみな武器を持っていたのであり、これが戦士の階級だったろう。

また奴僕は同じ民族でもよいが、土着の被征服民族か、あるいは戦争捕虜だったろう。
広開土王碑にも、南鮮を荒らした王が一つの村の人民を連れ帰る記事がある。

381 :白馬青牛:2005/07/31(日) 00:51:33
>>375
チベットの仏教の影響は吐蕃以降であろうが、仏教の影響とするには、
非仏教圏のヨーロッパにおいての賤民(羊飼い等)も考える必要もある。
弥生人も、日本への移住民と思われますが、弥生人を例に挙げると、
不都合でもあるのでしょうか。

382 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 07:41:16
鴨禰宜がきてからスレのレベルが一気に落ちたな

383 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/31(日) 16:58:03
確かにお偉いさんはに肉体労働を嫌い、動物の解体のみならず、農作業や建築等もほかの人にやらせたであろう。
しかしそうでない一般人は、自ら肉体労働もやったはずである。
ときたま、遊牧民の生活のTVをみるが、家畜を飼育している人が、解体していた。
いや、遊牧民は、家畜の飼育のほかに、その解体処理までもしらなければ失格ともいえる。
それは、戦士でも例外ではないと思う。

384 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 23:17:12
>>383
江上説によれば日本を征服した征服民族は扶余だが、扶余は決して遊牧民ではない。

385 :白馬青牛:2005/07/31(日) 23:19:19
>>383
遊牧民である、なしに関わらず、農耕民でも、家畜を飼育している人が、
解体処理し食うことは、当たり前のことでしょう。
なぜ、動物の解体処理が問題となるのか?

386 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 08:14:41
江上説をほとんど知らずに論ずるのはなんですが、扶余は騎馬民族なのですか?

387 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 09:21:22
293 名前: ルーツ 投稿日: 02/05/01 14:15

日本語と朝鮮語は、驚くほど関連がないね、
もっともっと、似たようなものがあるのが普通でしょ、隣国なんだから。

支配民族=言語支配と考えると、 
結果として両民族の支配民族のルーツは全く違うわけだよ。

大事なことは、
現日本(支配民族)は古朝鮮をも支配したことがあってその逆はないということ。
現朝鮮(支配民族)が古日本を支配したことはない。

古朝鮮は倭に300年朝貢支配されたが、660年完全に支配からはずれ、
倭の残留言語系はその後の1400年の間の諸民族の朝鮮蹂躙で消えてしまった。
韓国人が唱えるその逆の説、「古日本が古朝鮮系に支配された」という説はなりたたない。
なぜなら、
支配言語の日本語が朝鮮半島ルーツの場合は、
現在の朝鮮半島に日本語が色濃くのこっているはずだからである。

388 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 09:23:53
305 名前: 娜々志先生ファン 投稿日: 02/05/07 05:35


  上代日本語 高句麗語 新羅語 高麗語 中期朝鮮語 現代朝鮮語

1   pito"    −−   hсtсn  hсtсn   hΛdΛh    hana
                 (一等)  (河屯)
2   puta    −−   tu"pс"r tuβсr   durh     tu:r
                 (二尸)  (途孛)
3    mi     mil    −−    sei    s∂ih    se:s
            (密)          (洒)
4    'jo"     −−   −−    nei    n∂ih    ne:s
                        (廼)
5    'itu     'utu   −−   ta∫us  dasΛs    dasсs
           (于次)        (打戍)
6    mu    −−  −−    'jur∫us  'jсsΛs    'jсsсs
                       (逸戍)
7   nana   nanun  −−     'irkup   nirgub    'irgob
            (難)          (一急)
8    'ja     −−  −−    'jurtap   'jсdщrp   'jсdсr
                       (逸答)
9   ko"ko"no" −−   −−   'ahop   'ahob    'ahob
                       (鴉好)
10   to"'wo"   tek   −−    'jсr    'jсrh     'jс:r
            (徳)          (噎)

389 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 09:36:16
>>387-388だが。

>>386の質問に答えるとなると扶余≒高句麗だから、まあ渡来系弥生語とは
親近関係があり、結論としては騎馬民族というより半牧半農民族かと思う。
また、高句麗語はトルコ語に近い説もあるらしいから、ブリヤート語と
かなり関連性があると思う。だから北方系日本語(北九州弁など)とは似ている。
(ブリヤートは初めはトルコ族で後にモンゴル化した半牧半猟の民族)

一方、高麗語≒朝鮮語は満州語に近く、祖語を遡ればシベリア・イヌイット
諸族の一派がアルタイ化し、ツングース語と分派して南下したと思われる。


390 :白馬青牛:2005/08/01(月) 23:00:53
>>389
また人種厨か?ブリアートは、HLAでも日本人(満洲族、漢族、
中国朝鮮族、韓族も含む)とは、全体的に遠いと、他スレでも何度も
ゆうたのに。
江上氏によると、騎馬民族は遊牧民のみでなく、半農半牧民や
半猟半農民も含む。
高句麗がトルコ語と近いという説は、誰の説か知らん。
(ブリアート語は、モンゴル系の語派)関連性があるとの説は、
聞いたことがないし、北方系日本語という存在も知らん。
ブリアートは、初めはトルコ族ではなく、ブリアート自身が北上し、
モンゴル語をバイカル地方にもたらしたというほうが近いと思う。
そして現地民のトルコ、サモエード、ツングースと混合した。
イヌイット諸族の一派がアルタイ化し、ツングース語と分派という説も、
初耳で誰の説か?高句麗語の、土地(na)は、日本語、女真語、満洲語
でも、同じであり、高句麗語の、水(me)は、日本語、女真語で、miで、
満洲語では、muke、以上は村山七郎説、満洲において断絶はあるのか?

391 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 18:18:35
>>390
質問に答えてくれたから、こっちも突っ込んでみる。

最初に断っとく、申し訳ないが貴方はツングース厨なんか?
江上説に反論するがブリヤートは、HLAでモンゴル・ヤクート(サハ)とは、
全体的とは断定できないが、朝鮮・満洲よりもずっと近いことが数年前の
NHKで、幾多の考古民族の学者によって証明されている。執拗かも知れんが。

>騎馬民族は遊牧民のみでなく、半農半牧民や半猟半農民も含む。
これは総合的に賛同する。アジア系だけでなく印欧語族のゲルマン・ケルトなど
のコーカソイドの種族にも該当する。元来森林の民だから。 
>高句麗がトルコ語と近いという説は、誰の説か知らん。 
少なくとも古代朝鮮語は日本語に近いのが有力。現在の朝鮮語とは別系統のはず。
>(ブリアート語は、モンゴル系の語派)関連性があるとの説は、聞いたことがない
>ブリアートは、初めはトルコ族ではなく、ブリアート自身が北上し、 
>モンゴル語をバイカル地方にもたらしたというほうが近いと思う。 
>そして現地民のトルコ、サモエード、ツングースと混合した。
それは貴方が言い出したんでしょ?モンゴル諸族が古代はトルコ族だと。 
>イヌイット諸族の一派がアルタイ化し、ツングース語と分派という説も、 初耳で誰の説か?
アクセントとスペルを感じで推測すると、そうとしか考えられない。モンゴル・トルコとは異種の
感じがする。また現在の朝鮮人・韓国人の容貌を見ると、日本人はモンゴル人に似ているが。
村山七郎のことは、無知でゴメンなんだが。

392 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 18:23:39
訂正;

>それは貴方が言い出したんでしょ?モンゴル諸族が古代はトルコ族だと。  
それは、貴方がモンゴル諸族が古代ではトルコ族で後にモンゴル化したと言い出したんでしょ?

参考にコピーしとく。

25 :世界@名無史さん :2005/07/02(土) 19:29:35 0 
>22 
ブリヤートの先祖は、6世紀頃「骨利幹(クリカン)」と 
呼ばれたテュルク系民族。その一部は北へ移動しサハ(ヤクート)になった。 
残留した「森の民」は他のトルコ族の一派がモンゴル民族として勃興と共にモンゴル化し、 
「バルグト(ブラガト)」と呼ばれる。 

バルグトはチンギス・ハーンに征服されモンゴル帝国に組み込まれる。 
  


393 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 18:29:29
>>391-392だが、
また訂正;

>ブリヤートは、HLAでモンゴル・ヤクート(サハ)とは、
>全体的とは断定できないが、朝鮮・満洲よりもずっと近いことが数年前の
>NHKで、幾多の考古民族の学者によって証明されている。

ブリヤートは、HLAでモンゴル・ヤクート(サハ)と共に日本人とは、
全体的とは断定できないが、朝鮮・満洲よりもずっと近いことが数年前の
NHKで、幾多の考古民族の学者によって証明されている。

394 :白馬青牛:2005/08/02(火) 23:21:10
>>393
『HLAーA,B,DR−1ハプロタイプにみられた東北アジア6集団の近遠性と
異質性』で、ブリアートは他集団(日、満、漢、朝、韓)と比較的遠い
関係にあった。
篠田謙一氏の『DNAからみられた縄文・弥生人と現代人の関係』では、
縄文・弥生人ともに相同なハプロタイプを最も多く共有するのは、
本土日本人以外では、朝鮮、中国の遼寧省・山東省といった日本の地域に
近い人々で、特に渡来系弥生人はこれらの集団と密接な関係にあり、
縄文人は、これらの地域に加え、雲南省やブリアートといった中国周辺に
あたる集団とも共通のハプロタイプ持っていた。以上のことは、
佐賀医大医学部にでも問い合わせればよい。
ブリアートと縄文人は、松本秀雄氏のGm遺伝子も含め関連があろう。
また、考古学からも加藤晋平氏によると1万2、3千年前の細石刃文化も、
バイカル湖周辺からアムール流域を通り日本まで伝わったそうであるが、
幾多の考古、民族の学者とは誰のことか?

395 :白馬青牛:2005/08/03(水) 00:45:39
>>392
ブリアートが政治集団となるのは17世紀。当時はモンゴル系である。
ブリアート自体は、バイカル東部のバルグトか、バイカル西部のドルベン
というトヴァ族を中核とした部族から発祥した。その時代はトルコ系で
あろう。
人種的要素も、黄河人と中国北辺の青海〜興安嶺南部の住民は
人種的根源同じであるが、南北に違った経済文化圏(北部は農主牧副から
牧主農副と変化)となった。シロコゴルフによると南方ツングースも
人種的同一の黄河人から分かれ、北方ツングースはバイカル型として
いる。それはモンゴル人でも、北へ行くほど扁平な顔が多くなる。
以前のトルコ系住民でも、同じであろう。中央アジア型(中亜種)に
対するバイカル型(北亜種)の割合ともいえる。イヌイットに多い
極北型は、これらの地域では少ない。細かくいえば、現在の北朝鮮と
韓国でも南北で、顔は違うであろう。モンゴルへ行ったこともあるが、
日本人の容貌が朝鮮人に比べモンゴル人と似ておるとは思えん。
キルギスに行った人がいうに、キルギス人(中亜的)の方がモンゴル
より日本人に似ておるらしい。モンゴル人は、朝鮮人より扁平な顔。

396 :白馬青牛:2005/08/03(水) 01:33:27
モンゴロイド要素が強い同じトルコ系でも、キルギスとカザフでは
容貌に違いがある。カザフの方がエラが張り、角ばった顔でモンゴル人
とも近いが、モンゴル人より顔の彫が深い。
トルコ系オングト族は「容貌稍細く」とあるが、突厥とは違う容貌で
あったかも知れん。
満洲人は、北部漢人より鼻が高く目が大きい。西洋人も満洲人の容姿を
誉めておる。日本へ滞在したエルヴェン・ベルツも、日本の上流階級に
多い高貴なタイプ(本州西南部に多い型)を満洲・朝鮮型(長州型)と
呼んだ。


397 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 11:12:18
>>394-396
どうもありがとう。ツングース厨だなんていって大変申し訳ない…。

398 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:26:17
当スレで紹介されている梅棹氏とは、どこの学者先生でつか?


399 :白馬青牛:2005/08/04(木) 01:36:49
>>397
わしも、人種厨と失礼なことを言いました。反省しております。
それにしても日本史板には、人種厨が多く紛れ込んでおる。
このスレでも356あたりもどのような意図があるんか知らんが。
>>398
梅棹忠夫氏に、ついて語ると生態学的比較文明論とスレから外れて
しまうので、経歴等は「梅棹忠夫」で、検索すれば詳しく出ており、
しかも、梅棹文明史観ともいえる面白いものが出てくると思う。
梅棹氏の、ツングース水軍説は、『日本の海洋民』未来社刊の
日本国家の形成と海<座談会>にあります。

400 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 08:43:43
まさに良スレなり!

401 :日本@名無史さん:2005/08/05(金) 21:08:00
アゲ

402 :白馬青牛:2005/08/06(土) 00:34:58
>395の補足として、大林太良氏が示された、エーバーハルトの
先史時代の主な地方文化領域(1977)の地図から、中国文明の
形成に参与した地方文化として、河北、山東〜満州の豚飼育ツングース
文化、河北〜甘粛、モンゴル高原の馬飼育テュルク(トルコ)・モンゴル
文化、山西〜青海、四川に至る羊飼育チベット文化、河谷居住稲作民の
タイ文化、山地居住のヤオ文化、タイ文化とヤオ文化が混合して後に
出来た海洋民の越文化であるが、越の文化は朝鮮と九州にも影響を及ぼし、
ツングース文化も日本に影響を及ぼしていく。ツングース文化の中には、
チュルク・モンゴル系からも影響が及んでくる。
この説に関して、乾燥地帯の羊飼育と湿潤地帯の豚飼育となるが、
地域的相違が前面に出て(言語も違う)おる。西洋では、地中海地帯の
羊飼育、湿潤地帯である西北ヨーロッパの豚飼育と違いもあるが、
しかし東アジアでは、西戎〜羌、狄、山戎、貊等文化的共有と言う
要素も考慮する必要もあると思う。

403 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 13:40:49
>>385
383は、「日本では家畜解体をする人達が差別された、家畜を解体するのは騎馬民族だ、 だから騎馬民族は日本を支配しなかった」と言いたいわけだよ。

>>386
>江上説をほとんど知らずに論ずるのはなんですが、扶余は騎馬民族なのですか?

江上説をよく読めば、江上の言う騎馬民族とは「農耕民族を征服、支配することを
生き方とする軍事的・政治的な民族」という意味であることがわかります。
扶余はまさにこの定義にあてはまります。
と同時に、扶余は3世紀末〜4世紀前半の時点で南鮮や日本列島になかった、騎馬戦術
を持っていたこともまた事実です。

>>387
>支配民族=言語支配と考えると、 
>結果として両民族の支配民族のルーツは全く違うわけだよ。

支配者の言語が支配的になるというのは法則ではない。
支配者の言語(A)と被支配者の言語(B)との関係にはいくつかの類型がある。

1)AがBを完全に置き換える=フランスなどでラテン語がケルト語を
2)AとBが混じりあってピジン語が生じる=英語におけるフランス語とゲルマン語
3)AがBに吸収される=清国において満洲語が漢語に

ただし3)の場合もAはBになんらかの痕跡を残す。
騎馬民族説においては3)のケースであったと考えればよい。

404 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:53:27

中国を支配した鮮卑は中国語を使うようになった。
支配者が多数派を支配するのに、多数派に解る言葉で命令しないと意志が伝えられない。
支配者が自国語に拘っていては支配できない。

しかし、鮮卑が中国北半分を支配した事により、中国語に変化を齎した。
漢字の読み方に「漢音」、「呉音」の差が出来たのだ。

高句麗語が日本語に影響を与えたのも似たようなものだろう。


405 :白馬青牛:2005/08/07(日) 00:05:49
>396の補足もしておく。江上波夫氏の著作から、ヤクート(サハ)に
ついて要約『ヤクートの体質・容貌については、A・T・ミッデンドルフ、
R・マアクら以後、多くの学者が観測計測したが、だいたい顕著に区分
される二型があり、
一型、広顔と低鼻を有する純モンゴル型(ヤクートは、ブリアートと
しばらく雑居、混血しモンゴル要素を加えた)と
二型、長顔と隆起した狭鼻を有する西南シベリア型である。
いわゆる高貴なヤクート長老たちは二型に属するといわれ、
混血の少ない、より純粋なヤクートの体質を代表することは疑いなく、
彼らと西南シベリアのトルコ族との人種的近縁関係を示唆する。
ヤクートが現在飼育する牛馬はキルギス原産種といわれ、ヤクートの
伝承にキルギスとの接触が物語られている。ヤクートの最も有力な
氏族連合Khangalas(カンクリ、康里)で、キルギス原郷説に一証を
加える。』
わしは、かつて他スレで、ヤクート(サハ)をバイカル原郷とゆうたが、
江上氏の著作をあらためて読むと、キルギス原郷に説得力があり、突厥も
含めここで訂正しておく。

406 :白馬青牛:2005/08/07(日) 01:28:35
>>403
383氏の説は、他にも日本において猟師が自ら狩った獲物を、
解体することを無視しておる。
話は変わりトーテム獣について、突厥、高車丁零が「狼」をトーテムに
し、満洲人や現在のキルギス族が「犬」をトーテムとする。
佐口透氏によると扶余はブユ(鹿)という意味らしい。
江上波夫氏によると「狼、犬、鹿」は狩猟的要素が強い牧民が
トーテム獣にする。半農半牧民は「牛」でウィグル、トルコマンそして
ブリアートもトーテム獣は「牛」。遊牧的要素が強いのが「馬」で、
ヤクート(サハ)にあてはまる。
檀君神話の朝鮮やアイヌのトーテムは「熊」。日本(大和)は、
狼(大神)か鹿か定かではない。

407 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 17:45:18
日本は鳥トーテムじゃなかったのかな?
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/tn00a1.htm
「●鳥トーテム
 宇宙樹信仰は、その象徴として「頭の部分に日月・中央部に有蹄類・下部にベビ」などから構成される柱が、神体として扱われていたようでありまして、この柱の神体をトーテムと言います。
 稲作起源は紀元前八五〇〇年頃の中国であるとされておりますが、この頃の遺跡から稲作に必要な「太陽」「水」「鳥」が描かれた土器が出土されます。
 時計の無い時代でしたので、鳥の声はとても重要でありました。江戸時代でも鶏の声を基準にしてりましたし、埴輪にも鳥や鶏が多くありますね。
 このような意味でト−テムから派生するものの多くは「母権制氏族社会」、つまり女性が巫女になったり、最高位の神になったりするわけでありまして、
 七夕のお話しの場合には後にしつこく出て来ます(^^; 「西王母」が中心的な役割を負っているようなのであります。
 このような神話は鳥トーテム信仰のあった東北アジアの部族の間に色々伝わっています。
 例えば高句麗の祖先の朱蒙(しゅもう)は大きな卵から生まれていて、清の祖先である満州族のプクリヨンソンは
 神鵲(かささぎ)が落として行った赤い実を飲んだ天女フクリンから生まれたと伝えられております。」
 
日本にはいなかったカササギが和歌に沢山出てくるのも変だし、三本足のヤタガラスが天皇の即位の儀式に登場するのも象徴的だ。
カササギは別名カチガラスともいう。
神鵲(かささぎ)=ヤタガラスだったのだろう。


408 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 17:50:56
熊は東北アジアでは先住民族を表していると思うのですが

409 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 18:09:08
>>407
遼東あたりにあった国が「燕」を名乗ったのも鳥トーテム所以かもしれないな。

日本武尊の白鳥伝説も鳥トーテムが影響したかもしれない。

410 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 18:39:02
当時の人もそういうトーテムも原始アニミズム的な記憶として
曖昧になりつつある頃だという事は認識しておく必要はあるだろう。
だからトーテム一つをとって断定することはできず
手がかり的なものにしかならない。

411 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 19:13:46
鳥;逃亡
狼;虎 戦い
熊;先住民族
牛;農耕

412 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 19:15:18
鹿;狩り


413 :白馬青牛:2005/08/08(月) 01:35:09
トーテムについては、よく調べたことが無いので詳しく無い。ただ、
大林太良氏によると、動物が征服軍や移住民を先導するのは、牧畜民で
発達した観念であり、日本の神武東征のヤタガラスのよう鳥の形をとる
ところもあるが、ヨーロッパに進攻したフン族の牝鹿や牝牛、あるいは
『続日本紀』巻三八、延暦四年(785)坂上刈田麻呂
(坂上田村麻呂の父)の上表文の阿智王は「神牛の教え」に導かれと
あるように、東漢氏には神武東征よりも半農半牧民的要素もある。

「熊」は、確かに先住民的であろう。アムール地方に近いナナイに
は「虎」トーテム。
杉山二郎氏は、日本でも推古朝の五月五日に宇多野で百官を率いて
飾り馬に乗って薬猟をやったという記録が『日本書紀』に出ている
ことから「鹿」トーテムを考えておられるようであるが。

414 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 09:59:42
友人に獣トーテムについて尋ねたら、次のような
メールをくれた。

「狼も犬ももとは牛=ウル族
カ・ウル族がカルブ族=鹿族、カリブ族
ウル族がブル族、
ウル族が、グル族・・・ヨーロッパのグリス、ゲルマン、ガリア、ケルト
ウル族がロムロス=犬族、ローマ人の祖先
韓国新羅族=白族=朴族=スキタイ系の白銀族、カルブ族、
鹿族

こういったわけで、韓国の慶州は、朝鮮せかいでは異質なスキタイ
タタール人だと考えております。
では朝鮮人はとなりますが、韓国人は亀トーテムで、北朝鮮は
狩猟民、馬トーテムで、ランク付けは、馬>牛>猪>狗」

415 :オイルふえち:2005/08/09(火) 22:42:02
新羅系が政権をとっていたが、途中で百済系に政権交代したので、古い勢力が被差別の
対象になったと思いませんか、八幡制度のはたも秦氏が京都の元を造った

416 :日本@名無史さん:2005/08/09(火) 22:48:32
百済系というのはないあるなら倭系。

417 :がいやまん:2005/08/10(水) 13:12:00
騎馬民族の末裔の日本における足跡をたどってみよう。日本最初の都市国家、
纏向遺跡を建設纒向に近い穴師、大兵主神社は箸墓をはじめとする初期大型
古墳が向く弓月ガ嶽を向いている。弓月というのは秦氏の伝承で、仲哀、応神
(127県の領民が渡来)の他にアメノヒボコ、ツヌガアラシト等の伝承もあり、辰韓
方面から大量の渡来があったことを伝えるかのようである。弓月というのは半月
のことで、星、狼と共にトルコのシンボルであるが、三韓時代においては馬韓月
支国、辰韓半月城等が拠点であったと見られる。日本に渡来したのはトルコ系
匈奴/月支、ツングース/扶与・フル、秦族などの混成民族軍で月支は月、星
、狼(星辰、妙見)、ツングースは太陽神、白山、竜神、水源、秦族は蚩尤等を
信奉していたのであろう。ただ、弥生1000年の間、縄文の伝統を持つ日本に
トーテムとか信仰対象とが全くなかったわけでもなく、渡来人の信仰対象は
在来のものと習合されていったのであろう。前置きが長くなったが、纒向に
入った渡来人はどうもアメノヒボコのようであるが、これは但馬を中心に
近畿各地で活躍をしているが纒向もその一環であろう。


418 :がいやまん:2005/08/10(水) 13:13:40
「豊前の古歴史」
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-buzen.html#anchor1959758
「託宣集」によると、八幡大神は小倉山にいた先住の地主神である北辰神に、
一緒に住んで法界衆生利益の願を発そうと持ちかけたところ、北辰神は彦山
に権現がいて、一切衆生を済渡していると云った。香春大明神も八幡大神に
むかって同じようなことを云った、とある。北極星を神格化した北辰神を、妙見
菩薩といって鉱山に関係がある。北極星の信仰はもともと道教から出発した
もので、渡来人が持ち込んだものである。香春には妙見金鉱山がある。この
妙見金鉱山の近傍には比口羊神が祀られている。比口羊神が鉱山技術者の
神であることから、香春では北辰信仰と比口羊神への信仰が一対として伝え
られ、それがそのまま宇佐神宮の二の御殿の比売大神とその脇殿の北辰神
との関係に置き換えられたと思われるふしがある。それでは北辰神と比口羊神
とを宇佐の小倉山で斎祀したのは誰か、ということになるが、それは渡来氏族
で、宇佐地方に誕生した辛嶋氏以外にない。大神氏は大和国中の近傍からの
移住者と思われる。また宇佐氏は土着の氏族であって北極星の信仰を
持たない。総じて日本には星に対する信仰は育たなかった。・・・
記紀では月読みの命として出てくるが、強力な武力が敬遠されているようである。
このため月支族は月山、狼関連神社などとして中部・東日本に分布する。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~ALLURE/gassan.html
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~raifuku/special/wolf/wolf_top.html
これの起点となるのは月山富田城に程近い松江の田和山遺跡であり、
頂上には三日月形「加工段」といわれる遺構がある。↓
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/kouko/tawayama.htm
この様式を保っているのが、福井県山中にあって、
「ピラミッドのよ うな三層の石垣に載った本殿」、日野宮神社↓
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~raifuku/special/wolf/map/area/chubu/shrine/hinomiya/hinomiya.htm
日本に上陸した騎馬民族の末裔、月支族はこの地方から出羽、
三陸方面に向ったのだろう。


419 :オイルふえち:2005/08/11(木) 23:30:18
日本海側が古代は大都会であったと見えます、奥まった奈良に都があり、継体も
福井から迎えたのは、親類が後続で

420 :白馬青牛:2005/08/12(金) 02:22:20
>>414
高句麗においては、狗(内部、東部、桂婁、沸流部、扶余狗加)>馬
(南部、貫那部、扶余馬加)>牛(西部、松譲部、扶余牛加)>豚
(北部、堤部、扶余猪加)の順かと思える。
>>417
狼祖神話が全てトルコ系とは思えんのです。モンゴル部も狼と鹿の混合。
匈奴は牛。江上氏は「トルコ系も、鉄勒OyuzをOkus(牛)の転形と見うる
ばかりでなく、ウイグルのオグズ汗の伝説の挿画にはオグズ汗が明らかに
牡牛の形に描かれ、彼らの牛トーテムに基ずく。そうしてオグズの末裔
遠くカスピ海岸に住むトゥルコマンは、その氏族のトーテム獣として
牛を有することが多い。」とされておられる。しかも東日本には、
西日本の牛車、牛犂文化等、農牧民的文化要素が希薄となるので、
欠落部分が出ておると思う。

421 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 10:26:50
>>418
確かに、星辰、北極星の信仰は古代中国の神話や道教から出発したもので、渡来人が持ち込んだものである。
おもしろいことにこの古代星辰がらみの海人祭祀(古代中国の海人神事と同様に日月星辰の幡を掲げて練り歩く)
がいまも残っている地域が現存する。
有明海沿岸の山門郡太神地域だが、かって古代安曇の勢力圏であった。
当地の太神氏は土着の氏族であって北極星の信仰を持っている。
ここの太神氏が宇佐とも関係していたと聞いたことがある。



422 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 15:34:50
今日で邪馬台国発見14周年となりました。
屋又四国小城説宣伝強化期間として、小城説を喧伝してまいりましたが、ご賛同はともかく小城説の存在をおわかりいただけましたでしょうか。
来年の15周年には、大きなイベントを考えておりますのでどうぞ宜しくお願いいたします。

423 :石宮:2005/08/15(月) 13:34:27
馬の輸送についてですが、よく馬はデリケートな動物なので海上の輸送はむずかしい。
とかききます。近頃、NHKの義経をみておもうのですが、源平の合戦でよく馬が出てきます.
昨日も屋島の戦いで那須与一が馬に乗っていましたが、あの馬は兵庫から運んだものでしょうか。それとも現地調達した馬だったのでしょうか。
ちょっと疑問に思ったものですから、お聞きします。勿論撮影用のことではなくです。

424 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 14:57:50
鹿は古代ト占の名残ではないのですか?
鹿の骨がこの占いに重要な意味があったらしいし、
航海する上で祭祀上かなりの権限もっていたらしいですが
藤原もこの出らしいですね

425 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 15:10:30
宇佐が土着である証拠ありますか?
僕はよっぽどの事がないかぎり氏姓を与えられたのは
渡来系のみだと思っております。
中臣のような古代海神勢力で占いして神武に付き従った
土着系以外は・・・

426 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 15:15:23
トーテム論は限界を感じる、既に魏志倭人伝にみる倭人の
生活にトーテムを感じさせるものは少ない。

427 :日本@名無史さん:2005/08/15(月) 15:32:27
高句麗出雲・武蔵族の渡来はおそらく紀元前2世紀頃だろう
(まだ高句麗の無い頃)
日向天孫降臨が紀元後2世紀頃である。
神武の勢力は東進し出雲・武蔵族の系統を破り畿内に朝廷を開いた。

428 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 14:14:15
>>423
私もそれを聞きたかった。
それと、一ノ谷のとき、平のアツモリはしずしずと馬を海に乗り入れて沖合いの
船に向かうときに熊谷に呼び止められて首を取られた。
アツモリは船に着いたあと、馬をどうするつもりだったのか?
船に積むのか、船につないで泳がせるのか、それとも放してやるのか?
アツモリだけでなく平家の騎馬武者すべてに拘わる疑問である。

429 :がいやまん:2005/08/16(火) 15:27:21
騎馬民族についてはちょっと置いて、箸墓周辺の同期古墳が弓月ガ嶽
にむいているのは、後世の秦氏の作為ではないかと思う。兵主神等の
正確な知識がヒミコの時代にあったとは思えないし、倭人伝の描く倭国
はとてもそんな国ではない。弓月ガ嶽の方角に向いた古墳をデザイン
したのは当時の倭国人のコンセンサスにより、工事を請け負ったアメノ
ヒボコ渡来集団が建設、吉備の倭人祭祀集団が祭祀を行ったもので
古墳の先の山の名前は弓月ガ嶽ではなく別の呼称があったのだと思
っているんだけど。まー、いずれにせよこの辺は50年くらいで廃れ、佐紀
盾波古墳群に中心は移動する。

430 :がいやまん:2005/08/16(火) 15:40:54
ズマソ、前言取り消し。兵主神等といった概念はなかった。ただ、兵器を祀る
山上のイワクラのようなものはあった。しかし、それは兵主思想とかいうので
はなく渡来集団の持つしきたりであった・・・と考えてみたい。

431 :がいやまん:2005/08/17(水) 10:01:25
>>421
有明海沿岸の山門郡太神地域から遠賀川、岡の港、そして、宇佐というのは
確かにありえる。山門郡太神地域が甕棺文化の最終地点でこの辺から別の
形態に変わって筑後川、日田、英彦山、香春、岡の港、宇佐方面に展開する
のだろう。八幡の起源が伊都国から南下して有明海方面に入り筑豊、豊前
へと流れるのかな。

432 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:40:31
そう言えば宇佐には四国と関わる伝承が沢山あるよね。

433 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:24:14
九州にあって畿内と四国に睨み聞かせれるのは豊しかないし、
九州にあって九州とは異なるのは豊の国、これは縄文時代から
その傾向があったらしく西九州人と、東九州人の形質は異なっていたらしい>>4

八幡の起源は豊しかあり得ないな、八幡市、宇佐、小倉、トキワ、香春


434 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:28:24
>>432
それは初耳であります。
概略で構いませんので、ぜひともご教授おねがいいたします。

435 :オイルふえち:2005/08/17(水) 21:16:23
八旗制度の八秦、秦氏は京都を造り、日本を造ったので

436 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:32:42
八卦、満州八旗と関係あるのかな・・
当時は八進法が主流だったけ?

ただ、秦氏は稲荷に祀られたので、新羅渡来系であったとしても
北方系より漢か倭に近い感じはするけどな、朱を尊ぶ点においても


437 :白馬青牛:2005/08/17(水) 23:28:11
>>423
馬の海上輸送は、貞観18年(876)のちの忽那水軍の本拠、伊予
(愛媛県)の忽那島から毎年馬4頭、牛2頭を朝廷に貢納し、忽那島には
当時300頭ぐらいの馬がおったが、牛も同数近くとあり、麦を食うので
農作物の被害から島民が困窮するゆえ貢納を減らしてほしいとあるが、
無人島では、江戸期にいおいても広島藩、岡山藩も馬牧場があった。
島は牧畜に適する地帯で、新唐書新羅伝にも「島の山で牛馬を飼い」
とある。瀬戸内海の段々畑も、元来牧畜から転じたとは宮本常一氏の説
じゃが、海民と馬飼いとの密接な関係、水軍の豪族は、牧場経営者という
側面も無視出来ん。
馬放牧について、森浩一氏は東日本は高句麗集団による高原の放牧、
西日本は、おそらく百済系による湖や川岸で水草を求める低湿地の放牧と
区分されておられるが、その百済系とは、馬飼い渡来系である漢氏、史氏、
田辺氏等、自称中国系の帰化人で、その源流には北アジアの牧畜民も
考慮する必要もある。

438 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:36:36
倭人伝には、倭人は骨を砕き占いをしているとある、
これは勾玉とは結びつかない。
直ぐ、マルクス的唯物史観によってか起源、征服という風に
短絡的に考える人が多いがそういうのは無いんだよ。

439 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 23:44:11
漢に馬が入るのはキョウド戦争の頃だから。土地に適した
牧畜を開拓した百済の漢人かな。

440 :白馬青牛:2005/08/18(木) 00:42:41
それと、このスレの67にも書いた貞観8年(866)肥前国諸郡司の
新羅通諜事件もそうじゃが、平安期新羅側の海賊による侵攻が九州北部に
度々あったが、新羅側にも隷属的立場をとったと思える肥前国は、新羅の
影響が強いと思われるので、のちの時代についても書いておこう。
松浦党が嘉禄二年(1226)に、数十艘の兵船で高麗の民家から資材を
掠め取ったとあり、「吾妻鏡」貞永元年(1233)にも夜討を企て、
数多の珍宝を盗み取ったという「倭寇」の行動に、田中健夫氏や
高橋公明氏は、朝鮮半島で猛威を振った「倭寇」が列島側や対馬島民だけ
でなく、済州島民、朝鮮半島の禾尺、才人等「賤視」された人々を含む
騎馬の大集団である点に注目し、その馬の供給源が済州島の牧であったと
見ている。肥前国高来東郷深江村の牧には文永16年(1273)頃
44匹の馬、100頭の牛がおったとされる。ここでも、騎馬と水軍の
関連がある。

441 :白馬青牛:2005/08/18(木) 01:15:29
>>438
マルクス史観では、自国民族の発展段階説で、少なくとも異民族の
日本の征服とは考えておらんでしょう。なにしろ、もっと狭く、
東日本の鎌倉政権を発展段階説で解釈し、日本における奴隷制から
封建制への歴史発展の法則「在地領主制論」により、東国農村の
在地領主こそ武士発生の源とする。西日本側から都から発祥した
武士職能論等異論を唱えると、歴史修正主義者とレッテルをつけられる
ぐらいですから。

442 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 02:14:57
521 :日本@名無史さん :2005/08/18(木) 02:13:35
78 :名無し象は鼻がウナギだ!:03/03/14 10:58
それにしても東北弁には思った程古語が無いんだな
四国の方が言葉が古臭い

流石に津軽弁には吾(あ)とか脳(なづき)といった古い語彙が豊かなんだが
関東から東北にかけては明らかに日本語の東国方言って感じなんだが
奥の方へ入ると東国と倭語のクレオールといった感じで語彙に古代性が現れる

平安期までは貴族は一人称に吾(あ)を使っていたらしい、
東国一帯の標準的な言葉でもあり津軽の方で残った。
倭人はその名の通り一人称は「ワ」、韓人は一人称に「ア」を
使っていたそうだ、その一例として楽浪人の事を自らの内
残った者として「阿残」と呼んでいたらしい。

443 :日本@名無史さん:2005/08/18(木) 03:45:18
宇賀神社、弁才天、沖縄の拝所(ウガンジュ)、
ウガヤ朝、鳥丸(ウガン)

何か関係はないですか?


444 :がいやまん:2005/08/18(木) 09:57:35
>>420 白馬青牛さん、こんにちわ。

>狼祖神話が全てトルコ系とは思えんのです。モンゴル部も狼と鹿の混合。

欧州、ヘロドトスなどに月夜の狼の話もありますが 、蒙古高原では狼祖神話の
形となっているってことでしょうか。

[牛トーテム、カスピ海岸に住むトゥルコマン、牛犂文化]  

これは欧州、中近東インド、中国などユーラシア南方の農耕牧畜と関係しており、
牛よりも鹿、トナカイの方が牧畜に適する寒冷地文化と南方文化の境界、接触、
移動を考える際には有意義なようですね。NHKシルクロード小河墓遺跡では赤く
塗られた牛の角、棺を取り巻く牛皮、印欧伝承、エジプト、日本、雲南省にある
舟形木棺と概念的には似ている舟形棺が出土。被葬者は北欧、古代人的コー
カソイドでしたね。4000年ほど前と言うことですから、エーゲ海の海の民より古い
わけで、木棺はハッチビームで覆われていましたから地中海、黒海の古代海洋
民族かもしれない不思議なものでした。小麦を入れたバスケットしか出土してい
ませんが、ミレット、スキ農耕が中央アジアからインドと中国に一元的に流入する
という仮説のコースとも重なり興味があります。
http://www.theepochtimes.com/news/5-6-10/29426.html



445 :がいやまん:2005/08/18(木) 13:40:28
↑雲南省の舟形木棺は形状はヒミコ時代というか、古墳初期のものであり、丸木舟
式のものですが、上記の小河墓のものは構造船の底なしのもので、それよりは
進化したものです。ところが雲南省のものは現在使用されており、被葬者には
生前に親族から贈与されます。これを贈与された老婆は非常にうれしいらしく
見せびらかします。多分、箸墓古墳が完成した頃ヒミコも得意の絶頂にあったの
ではないでしょうか。邪馬台国はウルムチより2000年文化的に出遅れ、雲南省
はヒミコより2000年出遅れていますから、中国が少々時代遅れであっても悠久の
時の流れからすれば目くじらを立てるほうがおかしいのかな。

446 :白馬青牛:2005/08/20(土) 00:44:04
>>444
がいやまんさん、現時間では今晩は。
狼祖神話及び狼トーテムは、蒙古高原よりも、森林地帯のアルタイ山脈や
大興安嶺北部あたりの半猟半牧地帯と思える。モンゴル部も元来遊牧民
では無く、室韋族「半猟(魚)半農(牧)」の流れです。

黒海、中央アジア、パミール高原、中原の文化が南北に分かれ、
北部はシベリアのトナカイ飼育民と混じり会い、遊牧民となったとの
説もありますが、モンゴル高原の純遊牧民自体が、果たして政治的
支配民族あったのか?それは北部の狩猟牧畜民や南部の農牧民に支配され、
その一員に加わったのか?と疑問が残ることですが。ただ支配氏族は、
周辺の半猟半牧や農牧民から出たと言えそうです。

雲南は、タイ系農耕民とチベット・ビルマ系牧畜民が接触した地域であり、
古代日本を考える時に参考になるかも知れませんね。

447 :がいやまん:2005/08/20(土) 05:33:41
>>446 白馬青牛さん、おはよう(JST)ございます。

>狼祖神話及び狼トーテムは、蒙古高原よりも、森林地帯のアルタイ山脈や
>大興安嶺北部あたりの半猟半牧地帯と思える。モンゴル部も元来遊牧民
>では無く、室韋族「半猟(魚)半農(牧)」の流れです。

狼祖神話及び狼トーテムは、地域的にはアルタイ、バイカル湖南部、ザバイカル、
人種的には丁霊というか、イェニセイ河の古コーカソイドに由来するトルコ族とは
考えられないかと思っています。欧州にはインドイラン・スキタイ系の木槨クルガン
墳担架者が伝えたのかと。

>黒海、中央アジア、パミール高原、中原の文化が南北に分かれ、
>北部はシベリアのトナカイ飼育民と混じり会い、遊牧民となったとの
>説もありますが、モンゴル高原の純遊牧民自体が、果たして政治的
>支配民族あったのか?それは北部の狩猟牧畜民や南部の農牧民に支配され、
>その一員に加わったのか?と疑問が残ることですが。ただ支配氏族は、
>周辺の半猟半牧や農牧民から出たと言えそうです。

欧州ではウゴル・フィン、櫛目文土器文化は印欧系に押され、アジアでは
モンスーン稲作農業の影響下にありモンゴロイド、北方のツングース系が
優位に立ったが、モンゴル高原においては丁霊の血を引く匈奴、トルコ系も
後代まで隠然とした力を残していたのではなかろうか。対馬とか、東北地方
には丁霊系、大鵬のような感じの人がいるし、坂上苅田麻呂などもアッチャ
クサイところがありますね。

>雲南は、タイ系農耕民とチベット・ビルマ系牧畜民が接触した地域であり、
>古代日本を考える時に参考になるかも知れませんね。

ところがこの辺にもコーカソイド的遺伝子を持つのがいるという話を耳にします。

448 ::2005/08/20(土) 08:12:21
「熊」(kuma)は,隈(kuma)や神(kami)や動詞の「籠る」(komoru)と同根の語らしく,
そしてアイヌのカムイや古代朝鮮のKom(熊),Kum(神・女神)とも関連があるといふ.
谷川健一は,「古代人のカミ観念」の中で次のやうに推論してゐる.
「カミという語はコモルとかクマといふ語と関連があると思う.道や川のまがりくねったところを
クマといっている.また神に供える米をクマシネと呼んでいる.動物のクマも冬ごもりする習性が
目立つからそう名付けられたのであろう.つまり,奥まった場所にじっとこもっている霊魂をカミ
と呼んだと私は考えている.タマ(魂)が卵やひさごや人間の身体のように密閉された中空の器に
入り込むように,カミも幽暗な空間にこもっている.そのカミの顕在化する現象が,顕つ(たつ)
である.」

してみると,日本語のカミ(神)には,アイヌや朝鮮を含めた東アジアのかなり古い宗教観が
秘められてゐるらしい.カミはこもることのできる生物や無生物に宿ってゐて,そこから,
勢ひのいい霊力としてたちあらはれたり,特定の人格をもつ存在としてあらはれたりする
ことをくりかへす存在である.

449 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 08:40:54
うちの近くに怪しい巨石があるんだが、これ古代人が
御神体としたものかも・・・

450 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:14:37
>>420
夫餘の諸加と高句麗の五部を直接関係づけることはムリだよ。

451 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:35:55
神(カミ)様の語源は上(カミ)様じゃないですかね。
上を示す古代語もカミだったと思う。
ここから上にいる権力者をカミと呼ぶようになったのではないでしょうか?

452 :?♪:2005/08/20(土) 14:46:58
それは甲乙が違ふからw

453 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 19:33:32
古代に、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族が日本海側の
北陸、東北に移住したって http://www.geocities.jp/intelljp/manju/shukushin/japan.htm
に書いてあるけど本当?

454 :日本@名無史さん:2005/08/20(土) 21:52:24
奥尻島なんかはアイヌではない北アジアの民族が住み、
アイヌと対立し、そして近年になって和人が住むようになったらしいね。

455 :日本@名無史さん:2005/08/21(日) 06:42:48
辰韓渡来の八幡の秦氏は基本的に秦の役を逃れた中国系というのは正しく
どちらかというと中国よりの文化を持っている。
彼らは畿内で倭先住民ヤマト族と同化していく。(ヤマタノオロチ)
出雲武蔵人はかつて阿(ア)国と呼ばれたように大和(ワ)人とは異なる異民族。
高句麗人に近い出自で、その後、継続して半島東部と緊密な関係を保ち、
辰韓シラ国の北方騎馬系の新羅人支配層と同化していく。(スサノオ)
八幡系、出雲武蔵系の人が海外のツテを伝って馬を大量に仕入れ
騎馬文化が急激に広がったと考える。
また、中世以降の東国の騎馬文化の広がりは東北一帯の沿海州系の渡来人の
影響もあるだろう。

456 :オイルふえち:2005/08/21(日) 08:38:12
高麗神社を高来に変更したとこよりも、百済を残してる大阪はすばらしい、
久宝寺はどうなってるかわからない

457 :がいやまん:2005/08/21(日) 09:23:42
>>453
塩釜・曲木神社由緒から考えるとマガキは靺鞨が塩釜の塩を買っていたんじゃないか
と思われる。春日神社伝承では「日本を代表する古社、奈良県の春日大社の縁起を
伝える『春日権現記』(1309)によりますと武甕槌神は陸奥国塩竈浦に天降り、やがて
鹿島に遷ったとされる注目すべき記述があります。 」とある。天孫による国譲り活動が
盛んなのは九州に代わり山陰に鉄製品が多くなり、魏との国交の始まる頃であるから
武甕槌神、フツヌシなどは鉄剣を象徴するものであろう。安倍氏、大彦等は東北から
大和に進出したのかもしれない。

458 :がいやまん:2005/08/21(日) 09:35:21
出羽の鳥海山への物部の降臨も大陸(夫餘)から直接来たことも考えられる。
白頭山の火山灰が津軽海峡にのみ降ることからも、季節風、海流を利用すると
津軽には容易に着くし、夏場はウスリー・アムール河の流れに任せ、樺太沿岸伝い
に海馬島、利尻、礼文と丸木舟でも渡航できる。

459 :がいやまん:2005/08/21(日) 13:23:58
↑集安将軍塚とは行かないが、考え方としてよく似た構造をとるのがこの出羽の
天日宮(あめのひのみや)
http://www.kyowa.ne.jp/kyowa/txt/a02.htm
[唐松神社。天日宮] :からまつ、韓服宮。あまひ、てんにち
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/ao1krmt.htm
また、松江の田和山遺跡も同類である↓

「山頂面についてもうひとつ注意すべき遺構は、面の南東端を段状に削り出した
加工である。平面形は三日月形を呈する。長さ17m、最大幅2.4mを測る。全体と
しては段にみえるが、注意深く観察すると、とくに残りのよい東半部では浅い溝状
になっていることが知られる。造作当時はもっと明確に溝状を呈していた可能性が
高いが、ここでは加工段とよんでおく。上屋等があったかどうかは不明である。
この加工段の時期は、出土した土器片から前期後葉である。また、この加工段
に接してSB-02に近い位置に焼土があったとされ、黒曜石の原石も付近から出土
している。」
古代出雲のパルテノン、田和山遺跡を守ろう 
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/kouko/tawayama.htm
田和山の稜線が真っ二つ
http://fish.miracle.ne.jp/dawnkato/

更に、この様式を保っているのが、福井県山中にあって、
「ピラミッドのよ うな三層の石垣に載った本殿」、日野宮神社↓
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~raifuku/special/wolf/map/area/chubu/shrine/hinomiya/hinomiya.htm

こうした遺跡を目の当たりにするとツングース文化を持つ民族が渡来したことは
否定しがたい事実のように思われる。だが、これらの礼拝の対象は星辰、つまり、太陽、
月、星、狼、そして多分兵器であり、ツングース系とは言うが極めてトルコ、匈奴の
騎馬民族的メンタリティーを持つもので、コーカソイドである狄等も含まれていたこと
だろう。

460 :がいやまん:2005/08/22(月) 09:03:06
>>459
この図 http://www.kyowa.ne.jp/kyowa/images/pa0203.jpg
は中央が梵天/梵卵、左右が女陰、男根のようだ。梵天/梵卵は中世の密教、修験道
と高度な石材加工技術の時代を経た後に成立したものであろう。性器についても微妙な
加工は古代においては考えられない。だからといって、この遺跡全体の起源を新しいと
見るわけには行かない。それには由緒とか、周辺の民間に残る祭礼に目を向ける必要が
ある。
東北地方には、大きな梵天を作って神社に奉納する梵天奉納祭が行われる。秋田県
横手市の旭岡山(あさひおかやま)神社(2月17日)、秋田市赤沼の太平山三吉神社
(2月17日)などで、いずれも神社の前の石段にくると、各梵天は互いに争って石段を
かけのぼり、最初に梵天を奉納した者にはその年幸運がさずかるといわれている。
地方によっては、みそぎによって生まれ変わることをめざしたり、競技を行うことで
年占を行う裸祭があり、岩手県水沢市の黒石寺の蘇民祭(旧正月7日)、愛知県稲沢市
の尾張大国霊神社の儺追(なおい)神事(国府宮の裸祭、旧正月13日)、岡山県西大寺
の会陽(えよう)(旧正月14日)、福岡県の筥崎(はこざき)宮の玉取祭(玉せせり、正月3日)
などがある。東北の民衆も極めて忠実に伝統文化を守ってきている。
http://wadaphoto.web.infoseek.co.jp/kisai_2.htm
http://www.rnac.ne.jp/~yanbe/sominsai.htm
こうした文化は日本海沿岸から内陸に進むようである。
http://web.thn.jp/maroudo/


461 :がいやまん:2005/08/22(月) 09:17:48
上記の、いずれも神社の前の石段にくると、各梵天は互いに争って石段を
かけのぼり、最初に梵天を奉納した者にはその年幸運がさずかるといわれている
という点にポイントがあり、復元されたバイカル湖方面のケレクスル(ヘレクスル)
http://sae-spb.narod.ru/8-01/image066.jpg
も前面に鹿石が立っており、鹿石にはトナカイの角が彫ってあり、男根を意味する
とされるが、これは善光寺の回向柱と本堂との関係と同様であり、梵卵と同じ思想の
宇宙、祖先の霊というか、永遠のDNAの不滅を祈るものであろう。例の七枝刀が
石上に奉納される思想にも共通したものを感じる。あれはトナカイではなく鹿の角だろう。
ちなみに上記のケレクスル遺跡には菊文が旭日旗のようなビーム付きででているが、
これはエベンキ自治州の国章にも使われている。

462 :がいやまん:2005/08/22(月) 09:41:11
>>448
エベンキの国鳥はアビという北方のかいつぶりのような海鳥であるが、極地の
地平線を潜る太陽に見立てたものかも。また、トルコ系は鴨を神聖視する。
モンゴルには巨大な亀の山があるが、現在は観光名所ではあるものの宗教的
意味はないらしい。イザナギはかいつぶりから男女の道を知るというが、生死を
繰り返す人間の営みという深い古代の意味が含まれているのであろう。いずれに
せよ、氷河→間氷期→漁労・採集→農耕・牧畜へと時代が変化したとき世界中で
イザナギ的発見、生殖作用、太陽の存在感が出てきたということでしょうか。

463 :がいやまん:2005/08/22(月) 10:31:01
↑イザナギの鳥はセキレイ、水にはもぐらない。尾っぽを振り振りするだけらしい。
あまり深い意味はなかったようだ。

464 :がいやまん:2005/08/22(月) 14:00:59
>>462 さて熊だが古朝鮮の檀君神話では、天帝桓因の子桓雄は天符印3個を父
より授けられ、徒3000を率いて太伯山頂の神檀樹の下に降臨した。
洞窟に虎と熊がいて人間に化すことを願ったので、楕(よもぎ)と蒜(にんにく)を食べて
忌籠るよう教えると、熊だけが女となり桓雄と結婚して檀君王倹を生んだ。
檀君は古朝鮮国を開きその始祖となった。・・・つまり、虎は忌籠れなかったのに、熊
はそれができたことが強調されている。これも農耕・牧畜時代への順応をを象徴するかの
ような話である。

465 :がいやまん:2005/08/22(月) 14:34:21
↑水鳥、亀などが水中、地中に潜り、再生し、太陽に似た自然界の回転を意味する
のに対し、熊も同様の冬眠をするが周期が鳥、亀より長く1年である。太陽にも1日、
1年の2つの周期がある点が熊に似ている。こうした生物が天体の周期と似た点の
あることが古代人の驚きであったのであろう。鴨、亀、熊、神、上と非常に似た言葉
であるが、これは偶然に似ているのではなかろうか。

466 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 15:47:52
http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line/kodaikiri.htm
アン(安)の説より高度で説得力ある、時間掛かるかもしれないけど
読んでね。
これでも十分とは言えないと思うけど・・

467 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 15:52:05
畿内、出雲、関東、っていうか本州全土は自分たちを阿(あ)と呼んでいた。
一方九州人(熊襲)は倭(わ)と呼んでいた。
万葉集はP音・・
つまり、日本は新羅朝鮮に乗っ取られたという事ね

468 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 16:16:33
邪馬台国にあった甘木、小郡のクマソの賊軍
は小郡、甘木地区の横隈、小隈、乙隈あたりから
小郡市東野をえて西の方に逃げたのだと思うな。
これより南は熊襲が強かった。。
万葉集は読むもんだ

469 :がいやまん:2005/08/22(月) 18:28:54
>>461
参考まで:
鹿石とは http://oldchita.megalink.ru/archeolog/plate_thumb/deerstone.gif
こういったものが上部に彫刻されている石柱のことで、ヘレクスル遺跡、石板墓の
前面に立っているという。

470 :がいやまん:2005/08/22(月) 18:55:17
↑更なる情報 「<鹿石・石人>
  北アジアの青銅器文化を象徴する遺物で、 長さ1〜4メートルの石を墓石のように
立て、 表面に短剣、円紋、帯状紋を彫り込んでいる。 鹿石の名は、 表面にくちばし
のような細長い鼻の形の鹿文様が描かれていることから名づけられた。 製作年代は
主に突厥からモンゴル帝国までとされる。 現在、 鹿石・石人は草原に点在しており、
充分な保護がされているものは少ない。 」
http://homepage1.nifty.com/uraisan/yakata2/j0404.html
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/stoneman/bayantsagaany-adag.htm
http://www.csen.org/Beiram%20Excavation%20Report/deer_stone.html


471 :白馬青牛:2005/08/23(火) 03:14:02
>>447
がいやまんさん。お久しぶりです。人種的要素は、難しいですね。
特にアルタイ西部においては。
森林地帯の櫛目文土器とモンゴル高原の細石器の違い、モンゴル高原の
新石器時代の遊牧民が、狩猟具や武器さえ所有せず平和で素朴な生活を
して、後に青銅器や鉄器の武器や馬具が見られる様になったのは、
半猟半牧民や半農半牧民等、周辺地帯からの侵攻もあったと思います。
>>450
確かに強引であった。高句麗の五部族は、政治的区分の要素も強い。
扶余の四畜から、モンゴルの四駿、四狗、鮮卑八姓、契丹八部、
満洲八旗や、あるいは室韋、庫莫奚の五部等関連を考えておったが
根拠に乏しい。しかし考慮する必要はあると思う。

472 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 03:17:18
大雑把にいうと倭人は平地、山では熊を神とし
海では鹿を一つの神?のように考えていたのでは?

473 :がいやまん:2005/08/23(火) 16:04:55
>>472 倭人、あるいは、古代韓半島南部もそうかもしれないが、国作りのパターンがあり、
鹿とか女性シャーマンなどの集合する「シカシマ」、それに食料を補給する「阿波、宇和、
安房」、外敵を防衛し、辺境地に設置される「球磨、久米、久万、熊野」或は「月山」、
また、亀、龍などの祖霊が天下った「セフリ、トミ、鳥海」或は頂上に池を持つ金毘羅、
白山、鳥海等の水源神(瀬織津姫、河伯の娘)という風になっているようだ。こうした
騎馬民族(クマンというのはトルコ語で前進部族、山地、荒地の意味があるようだ)
来襲のイメージを与えるのは、漏れの仮説ではあるが、神武、ヤマトタケルを含め四道
将軍的な国土建設活動の結果ではないかとも思われる。馬韓の月支国はハクサイ国
と併記されているが、匈奴、ツングース、秦亡民等の他民族集合であり、これが辰韓、
対馬、壱岐経由列島に到来したのではないかと考えている。土佐の月山神社と中央
アジアの石製半月像は非常に似通っている。

474 :がいやまん:2005/08/23(火) 16:12:14
↑秦氏の功満王、武振熊、忍熊王などは久万が縮約して熊となっていたり、
後世の高麗とも多く混同されているのではなかろうか。これらを月支・クマン部
(久米部というべきか)と考えてみたい。

475 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 16:17:13
>>473
隈は辺境地とは限りませんよ、福岡、佐賀、大分
の地名、字でも隈の地名が沢山あります。
たしかに海岸沿いにあるとは限りませんので、籠もった場所という
のは当たっているかもしれません。

476 :がいやまん:2005/08/23(火) 16:22:55
宇和島の対岸の西都原古墳建設に当たり鬼に建設をやらせ、石を盗むといった
伝承があるが、西都原古墳の起源も宇和島、鹿島経由久万高原、石鎚そして
讃岐、阿波、播磨方面に向う半島からの渡来人集団があったのではなかろうか。

477 :がいやまん:2005/08/23(火) 16:29:38
>>475 クロスしました。日隈さんなんて苗字もあるし、
http://www.d-b.ne.jp/~siga/panora/hita/hinokuma.html
↑これなんかもそうですが、佐賀、熊本、大分、和歌山等に太陽の沈む
ことに関連する地名が多い。漏れは、トンカラリン、善光寺の本堂潜り
等にも同様の発想を見ていますが、こうした隈とは別にも意味があるんじゃない
かと。

478 :がいやまん:2005/08/23(火) 16:38:42
漏れは、河内クサエノサカとか、阿蘇の日下部、狗邪韓国がクサカの国
と読めることからして、これらは何らかの国の西部国境を表すのではとまで
疑っています。マジでね。

479 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 16:40:17
>>477
実は福岡の甘木朝倉や小郡地区に隈の地名、籠の地名は多いのです。
籠、隈、熊、磐、石に関する古代的な苗字が極めて多く、
神功皇后のこの地域の熊襲征伐も史実であろうと考えております。


480 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 17:15:53
逆に、天や甘、朝倉に関する字、苗字はこの地域には他に見つからない、
天孫のテ、アの字もない。
熊襲が逃げた東野の地名もしっかり残っている。
こうなると明治朝廷によって天孫降臨伝説をでっち上げる
為に仕組まれたのか?と勘ぐってしまうわけです。
熊襲と呼ばれた裔達はその事には一切気づいていないんだろうな・・


481 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 17:45:02
連投スマソ
御勢大霊石神社  福岡県小郡市大保
神功皇后は、この地で死んだ中哀天皇の代わりに御魂代の石
を軍船に積み鎧兜を着せ、三韓遠征を行い、帰国後にその石
を殯葬のこの地に奉った。
というのが神功皇后の伝説ですが、これは真っ赤な大嘘だと確信しております。
この地はまさに熊襲の拠点と思われる遺跡があり、天皇縁の地名は一切ない。
おそらく、熊襲軍に中哀はコロされたと確信しております。

http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/poet/saimei.html
斎明7年(661)、百済(くだら)を救援するため、自らも筑紫へ赴く。
7月に朝倉宮(あさくらのみや)で亡くなる。

斉明天皇が朝倉で亡くなったのを始めこの時期に他の天皇家も
次々死にますが、これも熊襲戦争の為だと確信しております。
三韓征伐に向かうのに博多からこんな遠い場所に拠点を置くわけありません。
それにこの地域は北九州とは絶対に言いません。

まさに天皇族の長年の朝敵はこの北部九州地域のクマソだったのでしょう。
天皇族はこの地に相当な怨念を持っていたに違いありません。


482 :がいやまん:2005/08/23(火) 17:52:54
>>479 佐賀、長崎、熊本はハヤヒワケという行政単位、すると、首長はニギハヤヒ
となりますが、倭人伝でも福岡あたりの行政官をニキとしているのだから間違いない
でしょう。ところが、ニギハヤヒと関係の深い丹後には竹野、籠、阿蘇海等がやたらと
多いし、浮羽、虹の松原を連想する橋立もある。ニギハヤヒは丹後から南下して河内
に入り物部王国を建設したようです。これが神武に降伏するのは有名なお話。話は
変わりますが、隼人は根っからの縄文人だし、中部九州には縄文の中核が残ってい
たはずで熊襲、熊襲というが、稲作というエコノミックアニマル、弥生人のバイアスの
かかった差別用語かもしれませんね。純粋の縄文系倭人が熊本で鉄器を利用して
ピンク石棺を作ったり、養蚕(高温の部屋)を運営していたのとは違うでしょうか。

483 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 17:56:19
基肄の朝鮮式山城が天皇族の拠点だったのだと思う。
ここで天皇族はこの地域のクマソと戦ったのである。
騎馬民族というより朝鮮人そのものだったのである。

484 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 18:09:45
>>482
海岸沿いの伊都国あたりはどうだったか知りませんが、
仲哀が死んだこの地域の倭人は隈、籠という名前に拘っていたように
感じます。今でもこの苗字が極めて多いというのは当時
大勢力があった事の証だと考えています。
ハヤヒは隼人という意味ではないでしょうか?
倭人は同じ言葉を使っていたのでしょうから


485 :がいやまん:2005/08/23(火) 18:16:14
古朝鮮は楽浪・帯方の領民で定着した農耕民となっていた筈で満蒙・華北の流民
のような流動性はなく、半島南部の韓人も同様に定着性の強い民族であり、満蒙・
華北の流民が日本に入ってくるのでは。

486 :がいやまん:2005/08/23(火) 18:29:51
>>484
http://page.freett.com/minakanusi/2.html
白日別シロヒワケ(福岡県)、豊日別トヨヒワケ(大分県)、建日向日豊久士比泥別
タケヒムカヒトヨクジヒネワケ(長崎県・熊本県・佐賀県・宮崎県)、建日別
タケヒワケ(熊本県・鹿児島県)
これを見ると行政改革のようで大きな合併があったようです。だが、漏れの説も
どこかであったんだけど出処度忘れ、スマソ。

487 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 18:32:06
やはり物部氏は九州の一族で大和に滅ぼされたのだろうか。


488 :がいやまん:2005/08/23(火) 19:05:27
物部は渡来系テクノクラートであり、九州には大分県に秦氏として残ったもの以外は
列島を東進、吉備、河内、大和にも定着、更に東進していったものでしょう。九州人
というより大陸系の要素が強かったんじゃないかな。

489 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 22:42:09
イザナギ、イザナミは伊邪国の人ではないでしょうか?
これが物部かとうかはわかりませんが、いずれにしてもこの
国の人が伊都城を始め朝鮮式山城を建築し九州、中国地方を
征服して行ったのでないだろうか?


490 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 22:57:12
早く知りたい上げ!

491 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 23:36:44
侵略的な要素を持つ各々の氏族が軍事力の低い本州、四国を
を短期間で征服し、それらが次第に巨大化し対立が生じたように感じる。
元来、侵略民は土着、渡来いずれも、海洋渡航になれていて
更に渡来の文化を短期間で吸収・順応し、また新たな渡来氏族と
混じりながら日本の支配階層に発展していったのだと思う。
渡来氏族、海洋民、侵略民VS地元民、農耕民という構図があるのでは?
それは現代でも各人のDNAに受け継がれ性格として如実に顕れていると感じる。
永い歴史もそれを反映していると感じる。



492 :日本@名無史さん:2005/08/23(火) 23:54:23
移動性の民にとっての10年は
土民にとって1000年に匹敵するのかもしれない。

493 :がいやまん:2005/08/24(水) 08:32:44
>>471 白馬青牛さん、レスありがとうございます。

>人種的要素は、難しいですね。
>特にアルタイ西部においては。
>森林地帯の櫛目文土器とモンゴル高原の細石器の違い、
>モンゴル高原の新石器時代の遊牧民が、狩猟具や武器
>さえ所有せず平和で素朴な生活をして、後に青銅器や
>鉄器の武器や馬具が見られる様になったのは、半猟半牧民
>や半農半牧民等、周辺地帯からの侵攻もあったと思います。

ロシアの分析では:
南シベリア長頭丁霊-旧石器時代から既にエウロペイドと
並行するコーカソイド
草原丁霊→+匈奴
丁霊→イェニセイ・キルギス→+(モンゴル+ウゴール)
ロシアは「短頭・華北・狄」も亜流エウロペイドとするも、
これが欧州から来たものか丁霊同様アジア起源のものかについては
言及していない。狄はその後:
戒狄+東チベット人→タングート
草原狄(烏孫・鉄勒)→+モンゴル
といった感じですね。



494 :がいやまん:2005/08/24(水) 08:34:14
↑日本では秋田県に原節子のような長頭系、北海道には大鵬のような
短頭系がきているように思われます。
しかし、ここで問題なのが最近の小河墓遺跡のミイラでして、これは
コーカサスのマイコープ文化のような牛、粘土、生殖といったシュメールを
髣髴させる中近東文化と現代のオランダ人のような西欧風の服装が、
言語的にヒッタイト・トカラの故土であるアナトリア方面との関連も
考えさせます。非常に大きな謎ですね。
http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/#FigSource_10
http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairy/encart/takuramakansabak

u.htm


495 :がいやまん:2005/08/24(水) 11:01:54
ブリャート・モンゴル地方にある石板墓↓
http://ngo.burnet.ru/eger-gallery/rus/autumn3.htm
楯築遺跡↓(中央アジアにある月型石もおまけについている)
http://www.geocities.jp/celeste4851/iwakura/tatetuki/tatetuki.htm
秦氏の松尾神社↓
http://www.y-morimoto.com/jinja22/matsuo.html
結論:月氏は冒頓単于(→冒頓王→モツ王→松尾)に従属した後、馬韓月支国
経由山陰、瀬戸内海、秋田、纒向等に到来、日本古墳時代の原動力となった。


496 :がいやまん:2005/08/24(水) 11:12:45
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/TATETU.html
これはラモスではないが、彼と同様のコーカソイド。但し、楯築の神様である。
匈奴となった丁霊で、おそらくは、冒頓単于だろう。

497 :がいやまん:2005/08/24(水) 12:52:33
バヤンツァガーヌィ=アダグの鹿石・オンギ遺跡[オヴォルハンガイ]
(表面に鹿石のような丸と帯のあるバルバルも。)
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/ongi/balbal2.JPG
この石が土佐に上陸すると:
http://www1.ocn.ne.jp/~cyan/tukiyama/tkeidai/thome.htm
そして楯築では:
http://www.geocities.jp/celeste4851/iwakura/tatetuki/image5.jpg
出羽の月山は船形(月型)山を遥拝するようで、船形山には月.日.星の
三光ノ宮があるのがポイントのようである。
http://www.ne.jp/asahi/f/toukoukai/sub2/3400_funagata/3400_funagata.htm
出羽三山では日、月、星は山単位で分けられたようだ。

498 :がいやまん:2005/08/24(水) 17:07:58
「出雲日御崎神社伝承」
孝霊天皇六十一年月支国の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。
特に神の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、
見るほどに波風荒びて賊船覆没せりと云う。
http://www.web-sanin.co.jp/local/taisya/yuisyo-h.htm
孝霊帝はヒコフトニ、月支国王はヒコハニ、ほんとに敵味方
だったのだろうか。
http://inoues.net/tenno/kourei_tenno.html
孝霊帝が先遣隊であったかのような名前だが、孝霊帝の娘がヒミコじゃないか
とされるモモソヒメだ。


499 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:36:28
7は縁起が悪いので、8がいいと言うので、八幡、八坂、八秦

500 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 01:22:41
いいや多分、五百、五ひゃく、五100!ゲト

501 :白馬青牛:2005/08/25(木) 01:35:55
>>493
甘粛省敦煌県莫高窟の壁画から、回鶻(ウイグル)王や王妃供養図等は
鼻の低い扁平な顔でモンゴル人に近い容貌に描かれております。
現代のウイグル人は、コーカソイド(白人種)要素が強いのですが。
一方西夏(タングート)男子、女子供養図は、顔がふくよかでやや長く、
鼻すじが通り、これはタングート人が鼻が高いという特徴に符合。

『秘境西域八年の潜行』西川一三著から、タングート族について、
[彼等の容貌は、「蒙古、支那人以上に日本人と似ているなあ」と
感じるのである。事実私が、「俺は蒙古人だ」と云っても、
「お前は蒙古人ではない、タングートだ」と云われた位である。
日本人と似ていると思うのも、一般に細長い顔、鋭い眼つき、
真っ直ぐな高い鼻からであろう。]とあります。
>>499
「七」は北アジアの遊牧民で、縁起のよい数字であったように思う。

502 :がいやまん:2005/08/25(木) 09:17:08
>>501
中国西南部少数民族ネパール等と日本人の間の文化的とか人類学的
類似とともに興味深い問題ですね。

503 :がいやまん:2005/08/25(木) 09:25:20
>>498
月支国ヒコハニは日向イハニから出雲に来たようだ。↓
「波知 波如 波禰  式内社調査報告から
【社名】当社は出雲風土記に云う「波禰社」に相当すると考えられる。
天和三(1686)年の岸崎左久次著『出雲風土記鈔』に「波禰社、
式書波知神社是也。健部郷羽根村須多禮大明神也」云々とあります。
結論として、当社は出雲国風土記の波禰社で、近世以来簾大明神、
須多禮大明神、また八社大明神とも呼ばれていたと考えることができる。
【由緒】正倉院文書天平十一(739)年に「波如(はね)里」とあり、
波知神社は波如神社の誤りであろう。鎮座次第は日向国の宮地
伊波禰よりニニギ尊を勧請せしを持って直にこの地の名称となれり。
しかるに中古以来伊の字を省き波禰と称しき。 」
http://kamnavi.jp/log/koujinvry.htm

504 :がいやまん:2005/08/25(木) 09:52:10
↑日向は例の土佐の月山神社
http://www1.ocn.ne.jp/~cyan/tukiyama/tkeidai/thome.htm
に近いし、また、

「鬼の窟 地元の伝説より〜
木花開邪姫(このはなさくや姫)を嫁にと願う悪鬼が、父の山の神、
オオヤマツミから一夜で岩屋をつくる様に言われ、一夜で完成させた
ころという伝説があります。 
コノハナサクヤヒメを嫁にと願う鬼は山の神、オオヤマツミの指示どおり
一夜にして岩屋を造り遂げます。
安心した鬼はうつらうつら・・・夜が明けて鬼がおきて見るとちゃんと
完成したはずの岩屋の石が一枚抜けています。
これは朝、鬼が寝ている間にオオヤマツミが石を一枚抜き取った跡
とも言われています。
オオヤマツミが朝あわてて岩屋から抜き取って投げたこの石は 
西都市の石貫神社参道入口に据えられている。
古墳の入口から玄室に至る道の天井に大きな隙間があります。
鬼の窟古墳という名前はこの伝説から由来しているのでしょうね。」
http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_on/
こうした、鬼を利用して古墳を作ったという伝承もある。
すると日向では鬼とされるものは出雲で月支族、ニニギ尊とされる
ものではないかと思われる。記紀でもニニギは空中で生まれたとか
途中から入り込むような話になっている。

505 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 21:34:46
伊の字が一番重要で、伊勢、伊賀、伊予、古代朝鮮に関係する伊の文字ではないか

506 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 21:57:39
伊の文字だけでなくイという発音が重要だとおもう。
能古の島のイジャナミ、イジャナギの東進
イズモとの対立、クマソ伝説の欠落。

507 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 05:25:22
>>504
近い?日向と土佐じゃぜんぜん別の場所やんけw

508 :がいやまん:2005/08/26(金) 06:21:32
>>504
四国南西地方は銅剣銅矛文化圏の影響が強く、山頂に武器の名を付けた石鎚、
剣山と霧島だったか山頂に剣を立てた山があることが似たような考え方であるし、
高知県には九州にもある十市物部に関連する地名がある。食べ物もご飯にぶっ
掛ける(詳細度忘れ、スマソ)似たものがあるらしい。

509 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 07:35:00
古代はイに伊をつけるという決まりがあったわけではないので
イに関する音は伊以外にも検討する必要あるでしょう。
漏れの想像ではこのイは海岸沿いの勢力と比較的一致しているので
魏志倭人伝のあの入れ墨していた南方的な倭人に関係する
ものだと思うな。


510 :がいやまん:2005/08/26(金) 09:05:38
>>508
四万十川というのは島津と関係があるのでは。つまり、島の人、鹿児島の人。

511 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 09:19:17
しまんとはアイヌ語ですよね、ずっつ後から漢字を探してあてた

512 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 09:29:17
それ、デンパ学者の妄言だから半分聞いておく程度でいい

513 :がいやまん:2005/08/27(土) 11:01:04
おっと、しまんたw

514 ::2005/08/27(土) 12:36:43
「籠る」(こもる)は古形では「籠む」(くむ)でせう.
名詞化すれば「籠み」(くみ)ですね.
隈クマとも神カミとも関連がある言葉なのでせう.

515 :がいやまん:2005/08/28(日) 06:21:38
球磨に近い甑島のトシドンと男鹿半島のナマハゲ、トルコ系クマン、コマン族の
侵入したハンガリーに近いオーストリアのナマハゲ。秦氏の功満王、土佐月山
神社に近い久万高原。神武が久米の援軍を待ちながら進軍した熊野。吉備の
山中の熊野。トルコ語でクマンというのは荒地、山地の意味。キガネゴイエネガー。

516 :がいやまん:2005/08/28(日) 07:50:40
またぞろ、歴史、大河ドラマの水に流されるであろう、安徳帝さながらに、水に流された
邪馬台国ラストエンペラー、忍熊王のクマ、タケフルクマのクマもい同じクマなのは、
彼らが職業軍人族クマン、久米部と関係があるのかもね。

517 :がいやまん:2005/08/28(日) 07:53:29
クマンというのはタタール語であったかもしれない。スマソ。クマソ。

518 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 10:00:01
発音はどんどん添加しやすいし、漢字も色々な物を当てはめてるので、
どれがどれかわかりまへん、白木人はほんまみたいです

519 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 10:32:40
熊も古形はクム。
朝鮮音で金をクムと読み(慶尚道ではコム)人名や地名の時はキムと読む。
日本語では金をクロガネと読み、鉄を意味します。
朝鮮語で「黒い」は何種類かあり、コムというと重い黒、カムと言うと黒光りする
ニュアンスがあります。
釜、鎌のカマや、カミナリ等のカミは黒光りするニュアンスなのだと思う。
あと、オオキミのキミや吉備の国のキビはキム(金)の事だと思う。


520 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 10:55:18
そこまでいくと関連性苦しいよ。
ほとんどこじつけにしか聞こえない。
関連性がないとは言わないが立証性に乏しい。

521 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 12:09:30
それはあんたが朝鮮語を知らないからだよ。

522 :がいやまん:2005/08/28(日) 13:53:19
伊勢遺跡 http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/iseiseki.html

「もともと社殿という施設が「ヤシロ」という「神を迎え入れ、一時的に篭もる
場所」としてあったことに由来するといわれています(それは木造建築物に
限らず、それ以前は石や草木で簡易的な祭祀場を設けたりなどしていた)。
「ヤシロ」は本来、祭りの時だけに設営される施設であったため、祭りが終わる
とそれは解体されて、また、次の祭りの時に場所を代えて新しい「ヤシロ」を設ける、
といった形態が原初的な祭祀方法だったと、神道学の分野などでは考えら
れています。」

これはユーラシア巨石遺跡研究において重要な考え方だと思う。また、篭ると
いうこと、亀、水鳥などに農耕牧畜の再生産の原理を見ているのだろう。

話は変わるが、この遺跡は天孫側が大国主への譲歩で天の安川に勝鬨橋、
マリーナを建設しようと譲歩した国譲りの場所だと思うんだ。

また、神社とは三上山等聖なる山の見えるところに作るという神社の起源をも
示しているようだ。



523 :がいやまん:2005/08/28(日) 14:04:16
これはアルタイ、モンゴル、ザバイカルの典型的ヘレクスル、BC7-8世紀頃、スキタイ
時代というか、のヤシロ ヘレクスル/鹿石
http://sae-spb.narod.ru/8-01/image066.jpg
これの前面にある石柱、鹿石についてロシア学会には陽根のシンボル、世界宇宙
モデル、世界樹、埋葬された指導者、武人の石像、馬のつなぎ柱、霊堂、刀剣崇拝
の表現ではなかろうかとの意見があるらしい。実は平原、香椎宮、善光寺等わが国も
この構造を踏襲している。香椎宮の神主は鹿飼というらしいが、エベンキ語では
オロチェニというらしい。ロシアでカザフスタン方面まで調査範囲を広げてこうした
鹿石の調査をしている。 http://www.unesco.kz/kazhistory/conf_2004_foto.html#nul
するといろいろのことがわかる。

524 :がいやまん:2005/08/28(日) 14:16:09
鹿石を四角又はそれ以上にして各方位で様々な厄除けをしているようだ。これは
日本では黒石寺、「蘇民袋は麻布でできており、その中に小間木と呼ぶ六角形の
護符(縦一寸二分<約3.6cm>直径七分<約2.2cm>の木片)が山盛り五升分入っている。
小間木は桂の木の一年目の若枝で作る。六つの面には蘇民、将来、子孫、門戸、☆、
黒石寺、が印されている。」、風の盆の音頭に「二百十日の真夜中に六角ヘノコが
飛んできて、村の後家さん逃げ回る」等と全国的に有名だ。また、六根清浄という
富士登山、修験道の杖、こけし等に現れている。頭の部分は最重要で鹿石とはここに
トナカイ、デンドライト式に成長する氷、春のぜんまい、トナカイの角に宇宙の法則を
見るのであろう。これが鹿島神社の要石では古来龍頭であったとういう。つまり、鹿
の頭は龍の頭に変化するのだ。

525 :がいやまん:2005/08/28(日) 14:20:29
日本でも鹿石などの研究は盛ん。
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/shiveet-ulaan/shiveetulaan1.htm
だが、たまには初詣にも帰ってこないとコマイヌをライオン石等と言うことになるw
このコマイヌ像を見ると日本にコマン、すなわちトルコの影響がなかったとは誰でも
いえなくなるのと違うか。

526 :がいやまん:2005/08/28(日) 14:36:24
日本の鹿石は宇佐を拠点 http://homepage2.nifty.com/hatazoku/kyou1.htm
として楯築、松尾神社などに移動したようだ。いわゆる神武東遷に加わったのかな。

527 :がいやまん:2005/08/28(日) 14:41:07
国際的至宝、三女神社「三柱石」の無残な姿
http://homepage2.nifty.com/hatazoku/mihasira.htm
これって銭金では変えない、国宝以上のものだと思うが、断腸の思いだね。
ユーラシアは荒廃している。

528 :がいやまん:2005/08/28(日) 14:47:30
>>523
世界樹で思い出したが熊野の那智などにあるナギの樹、あれを見ると欧州にある
世界樹の概念と似ている感じがする。

529 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 14:48:38
突厥の影響は日本に随所に見られますが、それは渡来文化
そのもののような気がします。
日本や朝鮮に来た渡来人とはこの突厥と極めて近い種族であった
ろうと考えますが、突厥碑文などの文字が残っていない等から
突厥そのものとも少し違うのかな?と思うわけです。

530 :がいやまん:2005/08/28(日) 14:59:38
突厥碑文は何世紀に、どこで成立したものかわかりませんでしょうか?
楯築遺跡はAD200年頃ですから宇佐のメンヒルはAD150年頃かと思われます。

531 :がいやまん:2005/08/28(日) 15:16:58
欧州に侵入したコマンをロシア人は黄色人(ポロベツ)と呼んでいるが、突厥は
アジア系白人であり、コマンの中にはモンゴロイドが相当多かったことを意味し
ている感じで、日本に入ったコマンもどちらかといえば純突厥ではなくツングース
等がほとんどであったということは大いに考えられますね。

532 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 15:29:56
突厥が白人であるという説はよく聞きますが、どの程度
信じて良いかわかりません。
中国人が匈奴、突厥を模した人形をみたことがありますが
正直、モンゴル人そのものでした。四川省には彼らの末裔がいますが
やはり白人の血が混じっているようには思えませんでした。
エフタル(大月氏?)を白フンと呼んだことからも
フン族は基本的にアジア系だったのでしょう。
アナトリアトルコ人をみて突厥=白人という先入観が根強いのかな?
と思ったりします。

533 :がいやまん:2005/08/28(日) 16:07:09
ロシアによる研究の結果丁霊、狄は事実コーカソイドであり、存在した。
丁霊は匈奴の一部となったというのが結論です。ロシアくらい研究に金をつぎ込んだ
国はないでしょう。

534 :がいやまん:2005/08/28(日) 16:20:25
トルコ、アゼルバイジャンはトルコ語ですが、欧州人、アラブ人としか見えませんね。
参考:トルコの国旗
http://www.geocities.com/Pentagon/Bunker/6066/ayyildiz.html
月読神社の紋章
http://genbu.net/data/iki/tukiyomi_title.htm

535 :白馬青牛:2005/08/28(日) 23:40:35
>>532
突厥のキヨルテギン像は、容貌からモンゴロイドですね。
匈奴も王侯貴族、あるいは単于であったとされるイノンーウラ古墳出土の
頭髪は黒色を呈し、直毛であり、今日のハルハーモンゴル人の頭髪に近く
匈奴国家の少なくとも支配部族がモンゴロイド型人種に属したとされる。
北匈奴は西方へ移動した(フン族か?)が、イリ川の西方、ケンコール
古墳群の遺骨は基本的にはモンゴロイド型人種に属するが、幾分か混血が
ある。外部の封土の遺骨はコーカソイド型、とりわけパミールー
フェルガナ人種に属しておるのでしょう。
>>533
牧畜文化でも、アフェナシェボやアンドロノボ文化人は、コーカソイドで
近隣森林地帯はモンゴロイド。カラスク牧畜文化人は、モンゴロイドでも
シベリアの森林諸種族(バイカル型)ではなく、「華北型」(中央アジア
型、長顔、北アジア種に比べ高い鼻。ただしロシア人はコーカソイドの
影響もありうるとしている。)に近いということでしょう。羌
(チベット・ビルマ系)、戎(チベット・トルコ系?)、狄(トルコ・
モンゴル・ツングース系?)、貊(モンゴル・ツングース・高句麗系)等
中原北部種族も「華北型」(中央アジア型)の別れであると思います。
ロシア人は、形質、考古学的要素で種族分けしておる部分がありますが、
最近のDNAやHLAの遺伝子の研究から、渡来系日本人を含め東亜の
種族は、北亜より、中亜種に近いようですね。

536 :がいやまん:2005/08/29(月) 08:32:06
なんだか古臭く、キルギスっぽくて恐縮なんですが、こういう情報があります。

主題:丁霊問題
副題:G.Ye.Grumm-Grzhimaylo仮説の新歴史考古学資料に基づく見直し
Lev Nikolaevich Gumilev 1959年ソ連地理学会報No.1
中央アジアにおいてはヨーロッパ人種の枝分かれとして2つの白人亜種が
実際に存在した。
その一つは南シベリアにいた長頭「丁霊」、別の一つは華北にいた短頭「狄」。
ヨーロッパ人種と丁霊は直接的関係はなく、それらは旧石器時代に枝分かれ
した亜種である。
丁霊の子孫はイェニセイ・キルギスであるが、紀元後第二千年紀、南方から
到来したモンゴルと北方から到来したウゴルに吸収された。
戒狄の子孫は紀元後第一千年紀、一部は華北華人により、一部は東部
チベット人により吸収され、後者は混血してタングート族を生んだ。
ステップ丁霊はフンの一部となり、それにヨーロッパ的風貌(高い鼻、ふさふさ
としたあごひげ)を与え、他方、ステップの狄、烏孫、鉄勒は9-12世紀にモンゴル
族に吸収された(AD840年のウイグル汗国滅亡後)。


537 :がいやまん:2005/08/29(月) 08:56:51
檀石槐に拉致された倭人もいるそうですから、シベリア引揚者のような倭人が
引揚者失対事業としての古墳建設に参加したということもあるかな。

538 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 09:09:15
ソ連はかつてシベリアに抑留した日本軍人も詳細まで調べました。
県別の調査で、鼻の高さ、眼窩の深さ、肌の色、事細かに
調べ上げられています。
日本では殆ど知られていませんね


539 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 09:30:12
渡来人は朝鮮を経由して日本にきましたが、朝鮮での滞在は短いものでした、
次の渡来人が大陸から押し寄せてきたので

540 :がいやまん:2005/08/29(月) 19:07:51
>>535
月氏というのは甘粛省に跋扈していたイラン系、つまり、シルクロードの商人的
なものだったといわれていますが、新羅とインドの姫との婚姻伝承もあり、大月氏
との関係もあったのかなー。ヒミコ時代には魏が大月氏にも金印を出しているし。
等と考えるのですが。こうなると月氏は匈奴の攻撃を受けその支配下に入り、朝鮮
半島を南下して馬韓に入ったという仮説はどうでしょうか。


541 :白馬青牛:2005/08/30(火) 02:19:47
>>536
>南シベリアの長頭の「丁零」、華北の短頭の「狄」が白人亜種と
断定出来るのは、遺跡から出土した人骨、頭骨からの結果ですか。
しかも亜種という意味がようわからんのです。少しでも、鼻が高ければ、
白人亜種となるんか、どうか。あるいは、中原の彩文土器の起源が
バルカン、南ロシア方面にあることから、そのような説が出たのかも
知れません。
時代的変化は知りませんが、現代の東チベット人の、頭長幅示数
[今村1968]は、75ぐらいで長頭といえます。
それと遼寧系・スキタイ系青銅器文化は高句麗、朝鮮半島、日本の渡来系
文化にも影響があるが、遼河付近一帯の赤峰紅陶期人(農主牧副民から
牧主農副民に変化した東胡人、烏垣、鮮卑、遼寧青銅器人)も人骨から
中亜種「華北型」とされ、モンゴル高原の匈奴とは、違いがあったんで
しょう。

542 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 06:49:42
人類学板の厨は頭指数絶対主義者が多いのだけれど、
頭指数は環境やら近親婚などで短期間で変化しやすいでしょう。
事実、縄文人間でも差異はあるし、同じ人種間でも、
そして同国人でも差異はある。ただ、全ての外見的特徴が流動的
というわけではなく流石に、顔の凹凸、肌の色はおいそれと変わらない
傾向がありそうですが、頭指数だけでの人種判定は極めて問題があると思う。

543 :がいやまん:2005/08/30(火) 07:12:20
>>541
前後関係に不明なところがありますが、基本的には頭骨測定の結果のようです。
アウシュビッツ時代の名残ですかね。亜種というのは欧州を含めて同じレベルの
枝分かれということのようです。最近ホモサピエンス全体の脱アフリカはアラビア半島
東端-南西アジアではないかといった説を目にしました。中原の彩文土器に
ついては印欧文化到来以前のイラン高原にあった農業文化ではないかと考えられる
節もあります。バルカン東部、ドナウ川、ドニエプル川の農業文化も印欧文化の前の
段階で牛がシンボルのようですね。中国神話に出てくる神農氏でしたか、牛の姿、
デカン高原と同一とされる牛鋤等もヤンシャオ文化への西方からの影響が考えられ
ますね。青銅器自体については中国南西部にコーカサス地方より古いのがあります
ので中国独自のものでしょうが、春秋戦国時代の戦車は印欧神話によく登場する
もので、西方から伝来したのだと思います。

544 :がいやまん:2005/08/30(火) 16:09:40
>>541
>それと遼寧系・スキタイ系青銅器文化は高句麗、朝鮮半島、日本の渡来系
>文化にも影響があるが、遼河付近一帯の赤峰紅陶期人(農主牧副民から
>牧主農副民に変化した東胡人、烏垣、鮮卑、遼寧青銅器人)も人骨から
>中亜種「華北型」とされ、モンゴル高原の匈奴とは、違いがあったんで
>しょう。

青銅短剣の技術の流れを考えると、カラスク→タガール→オルドス
(スキタイ鉄剣模倣)→遼寧(東胡→烏垣+鮮卑)→松菊里(ソングンリ)→
吉野ヶ里→出雲荒神谷といった流れですね。

シルクロード(インド・パキスタン・洛陽・馬韓):月氏→匈奴→鮮卑→
烏孫(烏丸)(これだけの広域と長期間において長短頭指数の適用は無意味
となるかも)シルクロードのこの部分の東西の極、大月氏、邪馬台国に魏が
金印を授与したのもそれなりの意味があるかも。
これは烏丸半島という守山の地名の所在地であるが(これはまた、京都の地名でも

あるが)、天孫が大国主にヨット、マリーナ、勝鬨橋を譲歩した天の安川と思しき野

洲川、三上山、伊勢遺跡、烏丸(Uwan)ではないかと思われる和邇川、イザナギ

墓所などガこの辺に集中している。この辺が国譲り前夜の重要なポイントでは
ないでしょうか。

545 :がいやまん:2005/08/30(火) 18:18:45
これまでに述べた漏れの仮設を整理すると:
(1)平原、香椎宮、熊野那智、善光寺、鹿島神宮などにはヘレクスル遺跡の鹿石に
 相当する柱、神木、霊石がある。これはヘレクスルの世界樹、鹿石の方位魔除
 などと関係がある。黒石寺六角形護符小間木、六根清浄の杖も方位魔除。
 これらは古代宗教と関係がある。
(2)山頂、ふもとの宮などに剣、鎚等を納める宗教儀式があり、霧島、石鎚、剣山、
 五剣山 などの山岳、石上神社、荒神谷其の他は古代の宗教と関係していた
 可能性がある。 神武の熊野遠征もこの延長線上にある可能性がある。英彦山に
 伝わる天竺から投げられた五本の霊剣はシルクロードにおける初期仏教とステップ
 のヘレクスル文化の習合である可能性がある。石上神社に献納されたフツの御霊の
 フツとは大月氏より伝えられた「仏陀」という言葉であった可能性がある。
 これは新羅とインドの婚姻伝承などの背景になっているのではなかろうか。この仮説
 は 後漢、三国時代の仏教ブームを考えると捨てきれない。
(3)こうした宗教伝播の媒体となったのは月氏であり、記紀においては月読尊、遺跡に
 おいては月山神社、船形山、月型、船形石がキーワードとなる。

ヒミコの鬼道においてスサノオ・八幡などと関連すると見られる内行花文鏡が三角縁
神獣鏡に変わるのは何らかの宗教改革であり、その改革に対しては相当の反撥があ
ったようだ。

546 :白馬青牛:2005/08/30(火) 23:04:37
>>542
そうですね。それゆえDNAやHLAの遺伝子も考慮しております。
しかし、容貌も参考になると思います。
ロシア人民族学者のシロコゴロフも、ツングース南方起源説を唱え、
北上し現地の北亜種と混血したとする。その起源を黄河ならびに揚子江
(長江)流域として、ツングースの衣服がシベリアの気候に適さず、
容貌から南方支那人や安南人(ベトナム人)には驚くほどツングースに
似た容貌があるとのこと。
マルチン=マルチ二も満洲人の容貌について、
「彼等の顔は整っており、色は白く、鼻は支那人ほど低くなく、目も
さほど小さくない。」とも関連するかも知れません。
エーバーハルトのツングース起源である河北、山東、遼寧、満洲説より
南方起源となっております。

547 :白馬青牛:2005/08/30(火) 23:56:23
>>543
中原の彩文土器について、イラン、西アジア系の初期農耕文化が
直線文の彩文土器を特徴とし、バルカン、南ロシア系の初期農耕文化は
渦巻文、波状文等曲線文の彩文土器を特徴とする。天山山麓〜甘粛、
更に大興安嶺南部の熱河彩陶に至るまで曲線文の彩文土器を特徴とする。
それゆえ東欧方面の影響と思えるのです。
戦車、車輪文化の西方起源には同意です。北狄の方が騎馬化する以前は
徒歩ですね。
>>544
銅剣は縞を厚肉に作っておるんで、突くのには鉄より良いと以前書いたが、
銅剣を含め、遼寧青銅器こそ高句麗を強国にしたともいえそうですね。
地名については詳しくありませんので、なんとも言い難いのです。

548 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 23:59:52
http://list2.auctions.yahoo.co.jp/jp/2084053073-category-leaf.html?f=&alocale=0jp&mode=1

もう直ぐ決着だ。

でもパンツ丸見えって恥ずかしいよね。これ。

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