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邪馬台国は九州であるという前提で話を進めるスレ!

1 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 08:55:56
英彦山、日向系神話、阿蘇山

2 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 09:02:00
英彦山神宮

福岡県田川郡添田{そえだ}町英彦山に鎮座。主神として正哉吾勝々
速日天忍穂耳尊{まさやあかちかちはやひあめのおしほみみのみこと
}を祀{まつ}る。一名を彦山権現{ひこさんごんげん}ともいう。
天忍穂耳尊は天照大御神{あまてらすおおみかみ}の御子で、
英彦山に降臨されたことから、日子山{ひこさん}と称する。
神武{じんむ}天皇東征に際し、天村雲命{あめのむらくものみこと}
を派遣して天忍穂耳尊を鎮祭し、崇神{すじん}天皇41年、
英彦山頂に社殿が創建されたと伝える。

阿蘇神社

熊本県阿蘇郡一の宮町に鎮座。阿蘇十二神、すなわち一宮健磐竜命
{たけいわたつのみこと}、二宮阿蘇都比?{あそつひめ}命、三宮国竜神
{くにたつのかみ}、四宮比?御子{ひめみこ}神、五宮彦御子{ひこみこ}神、
六宮若比?{わかひめ}神、七宮新彦{にいひこ}神、八宮新比?{にいひめ}神、
九宮若彦{わかひこ}神、十宮弥比?{やひめ}神、十一宮速瓶玉{はやみかたま}
命、十二宮金凝{かなこり}神を祀{まつ}り、さらに別殿に『延喜式{えんぎ
しき}』に記す全国3132座の神を祀る。一宮健磐竜命は神武{じんむ}天皇の
子神八井耳{かんやいみみ}命の子、二宮阿蘇都比?命はその妃{きさき}で、
そのほかはすべてその血縁関係にあたる。社伝によれば、健磐竜命は
神武天皇の特命を受けて九州鎮護の任にあたり、当時大湖水であった
阿蘇火口湖を開いて美田を開発し、住民に農耕の道、畜産の法を教えた
といい、その子速瓶玉命によって孝霊{こうれい}天皇の代に祀られたの
が本社の創建という。

3 :サガミハラハラ:2005/07/04(月) 09:04:22
確かにいままでは、九州説対近畿説としての論争に力をいれすぎたきらいがある。
その点、九州説をもって邪馬台国論争をすることは大変意義のあることだとおもいます。

4 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 09:04:44
日向系神話

天孫瓊瓊杵尊{ににぎのみこと}の降臨以後、その御子{みこ}の彦火火出見
尊{ひこほほでみのみこと}、孫の鵜葺草葺不合尊{うがやふきあえずのみ
こと}の三代にわたり、日向{ひむか}の地と海神国を舞台として展開され
る神話。瓊瓊杵尊の聖婚、火中出産、海幸{うみさち}・山幸{やまさち}、
豊玉姫{とよたまひめ}の出産、鵜葺草葺不合尊の五群からなるこの神話は、
高天原{たかまがはら}の神話と初代天皇神武{じんむ}の人代とを結ぶ位置
にあり、太陽神・穀母神の天照大神{あまてらすおおみかみ}の裔{えい}で
ある天神御子{あまつかみのみこ}が、いかにして現人神{あらひとがみ}なる
支配者となるかの経緯を語る。


5 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 09:15:35
宇佐神宮

 《古事記》《日本書紀》に名の記される宇佐津彦,
宇佐津姫のまつる宇佐(比売)神があったとみられるが,
《扶桑略記》《八幡宇佐宮御託宣集》などには,欽明32年
に大神比義(おおがのひぎ)が託宣により誉田天皇広幡
八幡麻呂を奉斎したとある。八幡神は712年(和銅5)創立の
鷹居瀬社にまつられ,のち小山田社に移り,725年(神亀2)
現在の小倉山に社殿が造られた。日向大隅の乱の鎮定に協力

宗像大社

福岡県宗像郡玄海町田島の辺津宮(へつみや)(祭神は市杵島姫
(いちきしまひめ)神),および同郡に属する二海島,すなわち
大島の中津宮(湍津姫(たぎつひめ)神)と沖島(おきのしま)
の沖津宮(田心姫(たごりひめ)神)の三宮を宗像大社という。
祭神の三女神については古来異説があり一定しないが,
天照(あまてらす)大神と素戔嗚(すさのお)尊の誓約(うけい)
の際に生まれたと伝えられている。鎮座地が九州本土から朝鮮に至る
海上交通の要衝に位置していたため,古くは海上交通者や漁業従事者
などの信仰を受けていた。近年,数度に及ぶ沖島の発掘調査により
発見された古墳時代の祭祀に関する豊富な資料は,このような原始祭祀
に関連したものであると考えられる。


6 :サガミハラハラ:2005/07/04(月) 09:52:26
とりあえず、それぞれの説をあげてみるのも一興かとおもいます。
私は佐賀県小城説です。
唐津(西唐津八幡町)から東南に33.3km進み(松浦川沿いの芦や柳の生い茂る中を進みます)、多久市南多久の庄集落の延寿寺にとうちゃくします。ここが伊都国です。ここから東南に6.6kmが奴国ですが、「行」という字がないのでいきません。
延寿寺から東へ6.8kmで小城町(不彌国)に到着します。町の南の大江から南に20日で投馬国にいたりますが『行」という字がないのでいきません。
小城町の南、不彌国に面して邪馬台国の都があります。「行く」とかいていませんが、面して接しているので『行く」は省略しています。
水行10日陸行1月はここまでの総日数です。
道順を説明するとき、道のりを説明したあと、5分ぐらいですよ、と時間を付け加えることがあるでしょう。それとおなじですよ。
卑弥呼の墓は小城公園内の桜ケ岡です。この岡はかつて娑婆岡とよばれ、江戸時代以前に大量の人骨が発見されています。
これらは、卑弥呼の殉死者でしょう。
郡治のソウルからここまで786.7kmであるが、海上の千余里は実測より長く表示しているので千余里は67kmとしてみると、
総キロ数は828.8kmとなる。1里はざっと67〜68mですから、68で割ると12188里となり1万2千余里にあう。
よって邪馬台国は佐賀県小城市であることがなりたつ。

7 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:05:29
邪馬台国の地は、大分の宇佐、
駅館川流域河口付近が極めて可能性が高い。

当時の河口付近は、
今現在の河口よりやや上流にあたる可能性がある
当時の河口が今現在より下流域にあったのなら、
周防灘の海の中

8 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:30:38
まず現在、皆さんが、どこが邪馬台国であるかと考えるかを調べてみるのも有意義であると思います。
幸い「邪馬台国はどこにあったのか」という投票形式のHPがあるのでそこをつかうのがよろしいかと思います。
九州説以外のかたも投票してみてください。
現在の邪馬台国論争の傾向がわかるとおもいます。
http://www.yu-ji.com/-bin/eztohyo.cgi

9 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:44:37
>>8みれません

10 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:58:03
僕はどの国の経済力も一長一短で全ての国を束ねることは出来なかったと思う。
そこで神懸かり的な人、地域に支配を委ねたと思うんだけどな

11 :プラム:2005/07/04(月) 11:37:37
今まで無かったのが、不思議なくらいのスレですね
(現時点の私の比定地)
『邪馬壹国』
博多〜唐津までの沿岸地域『一大率』
半島南岸か壱岐島

今の所ピンポイントで特定するに至っておりません

12 :プラム:2005/07/04(月) 11:44:25
>>11補足
『邪馬壹國』
半島南岸・対馬・壱岐・(博多〜唐津)

13 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:05:25
http://ja.wikipedia.org/wiki/アマテラス

出雲(イザナギ)が近江(黄泉)で戦って
スサノオは根の国へ行く前に姉のアマテラス(卑弥呼or台与)に会おうと
高天原(九州山地、高千穂、耶馬)上った
豊葦原中国(中津)に子のアメノオシホミミを降臨させることにし、天つ神を派遣した。
豊葦原中国が平定され
と思えてならねー
でも根の国が分からない・・

14 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:12:27
>>12
そうすると九州人を韓国人認定したい派閥ですね。
三韓(弁韓、辰韓、馬韓)は九州人だったというわけですか・・
土地勘の無い東日本の派閥ですね

15 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:25:31
すみません。入力のし方がわからないので検索にうちこんでください
邪馬台国はどこにあったのか?
http://www.yu-ji.com/cgi-bin/eztohyo.cgi

16 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:31:07
余談ですが、八女には筑後方言をほとんど話さない謎の集落があり
出雲系の物部麁鹿火の末裔ではという説があったりします。

17 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:43:31

どの説も特定の史書や地名、遺跡だけに目がいき過ぎてるように思う。
邪馬台国は出雲との統一、畿内政権発足前夜ですから。
日本にとっては大きな転換点です。
史書や地名、伝説にある程度共通点が見られるはずです。

18 :プラム:2005/07/04(月) 12:44:07
>>14
いいえ違います。

当時半島や大陸からの物資を円滑に調達するのに半島南岸地域の港には 九州地域の勢力が多少なりとも入っていたと思われるからです。
対馬では南北市糴無くしては生活に支障をきたすので、かなり以前より交易人の半島側居住区が存在していたと、思われます。

19 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:55:57
すごい電波を感じます

20 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 13:15:04
>>19
神社の由来から探ってます。

21 :プラム:2005/07/04(月) 13:51:05
当時、倭や韓の住人の中に倭人や韓人などと区別意識を持って生活していたヤシはどれほどいただろう
陳壽等は高等な学問を身につけた官僚だから
そのような認識を持ち合わせていたのだろうけど
当の韓や倭の住人達にそのような認識があったとは思えない。
自分の集落と他の集落や自分達に敵対する所などの認識はあったろうけど
敵対しないその他の地域は全て同一認識が一般的ではないだろうか?
言葉や生活習慣の違いで分けたりすることはあっても、政治的な自国愛は、極一部を除いて皆無であったろう。

22 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 13:56:54
>>21
気分的には良くないが、一部同意。
ただ、同一民族だとすれば半島にヤマトなど倭系の地名はないのだろうか?

23 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:06:59
>>21
倭奴国王の倭はどの範囲を指すわけ?

24 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:12:24
小国分裂国家だから利害があえば他国とも同盟結んだ可能性はあるな、
しかし、あの地域を韓という風に区別していたのは間違いないと思う

25 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:18:36
人口も少ない、海超え領土争いするほどの危険侵す必要も無かっただろう。
わざわざ、海の向こうから人を受け入れる必要もない。
そもそも九州と中国地方は言葉が違っていたし、九州内でも差異があった。
当時の倭人にとって半島は未知の国に思えたに違いない。

26 :プラム:2005/07/04(月) 14:20:44
>>22
同一民族や異民族という認識がそんざいしたのだろうか?
それは、華人側の認識ではないか

>>23
魏書東夷伝に「倭奴国」が登場しない(触れていない)ということは
「東夷伝倭人」そのものが古倭奴国そのものか それとも全く別の場所か
私は前者をとります。

27 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:47:52
倭という地域、奴国という行政単位を示しているだけだろう。

>>26感覚的だけど、
一般的に沿岸部の漁労民は国境の意識は低いと思う。
しかし、沿岸から20kmも過ぎれば、完全に山の民、平地の民になる。
船も、海洋技術もない、沿岸部の人とは言葉も通じない。
海の向こうの人ならなおさら(現代でさえ、関西・四国と中国と九州には
ハッキリと言葉の壁があるのに・・)
それに、現代のように労働者が行き来する習慣も必要性もない。それなのに
船で半島と九州島を混血が起こるほど行き来するだろうか・・不自然だよ


28 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:55:29
筑後平野から南の人間は驚くほど閉鎖的で
断固対外勢力を排除するよ。
(中国地方人でさえ近畿人は外人だと思ってるし)
経済的な利害度外視してもやるだろ、
これはおそらく古代から変わらない。

29 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:56:28
×(中国地方人でさえ近畿人は外人だと思ってるし)
○(中国地方人、近畿人でさえ外人だと思ってるし)

30 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 15:15:03
東日本には九州=朝鮮認定勢力が根強いから。
おそらく、開拓民(東日本人)と土地の人(九州人)の
土地に対する根本的な観念の違いと思われる。
東京で100k離れても同じ東京人だか土地の人は100k離れると
言葉が変わり、民族が変わる意識がある。
それと戦前戦後の固定化した学説

31 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 16:07:26
神社は本来、新羅のものだな・・・
発祥は出雲だろう
神社の出目に秘密があるように思えてならない。

32 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 16:48:39
出雲系とヤマト系のどっちが先住民族で渡来系かということは
この神社の成り立ちに掛かってる。
そして邪馬台国の場所も関係してくる。
俺は、出雲・宗像こそ渡来系種族の末裔だとみてる。

33 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 16:57:37
記紀神話によれば,出雲の国譲りに際し,天照大神は大国主神に対して,
日隅宮(ひすみのみや)を建造すべきことを約束し,また瓊瓊杵(ににぎ)
尊が日向の高千穂の峯に降臨したとき,これを八衢(やちまた)に迎えた
猿田彦神は,地上に降って伊勢の五十鈴河のほとりに退いたが,のちに
その地に倭姫命がたどりつき,天照大神の神鏡を鎮祭するに至ったと伝えて
いる。この神話は,のちの出雲大社と伊勢神宮の起源を語るもので,両宮
は日本の神社の中で最古のものと考えられた。その後,崇神天皇のときに
,大国主神の子大物主神を大和の三輪山にまつり,また倭大国魂神を同国
の山辺郡にまつったとあるが,それらは出雲,伊勢につぐ神社であった。
以上の例から明らかなように,大和朝廷はその国土統一にあたって,
みずからの神々の社〈天社(あまつやしろ)〉のほかに,
(出雲系)の神々の社〈国社(くにつやしろ)〉をまつったと考えられる。


34 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 17:15:09
>>31
天照大神の弟を祀る出雲は、発祥の地でないのは確か。
三女神が一体誰なのかが何を表すのかが核心

35 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 17:24:26
山人(ヤマト=縄文人)、出雲・宗像(海人)=渡来人?

36 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:01:18
どっちも渡来系という可能性、
あるいは、どちらか(どちらも)縄文系と混血した可能性。
http://www.loops.jp/~asukaclub/kami/kami_149.html
五十猛命
『日本書紀』の一書には、須佐之男命は高天原を追放された後、
御子五十猛命を伴って新羅に渡り、曾尸茂梨(そしもり)に住んだが、
この地にいることを嫌い、埴土の船に乗り、出雲国簸の川上にある鳥上
の峯に至り、八俣大蛇を斬って神剣を得たとある。

37 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:08:27

神道による神を祀る場として、その原初形態の時代から、
社殿のある神社があったのではない。『日本書紀』天孫降臨
の条にも「天津神籬{あまつひもろき}および天津磐境{あまつ
いわさか}を起こし樹{た}てて、吾{あ}が孫のために斎{いわ}いまつらん」
とあるが、そのような神籬・磐境が神を祀る場であったのである。
すなわち、神籬は、現在では神の[_よりまし]としての樹{き}のみを
さす語とされているが、古くはそれを含めた神を祀る場をさして称し
た語のようである。また磐境は、今日各地にみられる祭祀遺跡から察
せられるように、自然の岩石のある神聖な神祀りの場のことであり、
そのような場で神祀りがされたのである。


38 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:10:23
 さて以上神社成立の起源をみる基礎として神祀りの場をみたが、
それらおのおのの発生には、時間的にはかなりの差があるものとみられる
。その厳密な判定はなしがたいが、それらを基礎として、
神祀りのときだけでなく、常設的また恒久的な社殿等が一般に
設けられるようになったのは、飛鳥{あすか}時代より白鳳{はく
ほう}時代になってからかとみられる。
 そこには、それ以前からすでに社殿を有する宮居も存したが、
当時仏教寺院の建築が次々となされたこと、また国内諸体制の
整備とともに、神祇{じんぎ}行政もその緒についてきたことに
関連して考えられるのである。かくて常設的な社殿を設けた神社
のなかに、古代信仰をそのままに継承し、独自の形をもつ神社がある。
奈良の大神{おおみわ}神社は三輪{みわ}山を神体として本殿がなく、
長野の生島足島{いくしまたるしま}神社は明治時代以後に本殿が建て
られたが、もとはその池の中の本殿の建てられた島そのものが神体と
されていて本殿はなかった。いまの本殿も大床{おおゆか}のない
形式である。奈良の石上{いそのかみ}神宮も、明治時代以前は、
拝殿の前の禁足地が神体の埋蔵された聖地で本殿を有していなかった。
伊勢{いせ}の神宮では、古来拝殿はなく、祭儀は庭上でなされている。
原初時代に、神を祀る場合、一定の神聖な場に神を招き祀られたとみら
れるが、ときに臨時の屋舎が設けられることもなされ、また一方の御屋
のあることより、進んで常設的な社殿が設けられ、神社として発達して
きたのである。→磐境 

39 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:14:45
 次に3世紀より6世紀にかけて発達した古墳が各地に残存するが、
その古墳に接続して鎮座する神社がある。これはその古墳に鎮まる
神霊を祀る場に恒久的な社殿が設けられ神社となったものであろう。
また、神宝、神体を神聖なる地、のちに禁足地{きんそくち}とよばれ
るようになった地に埋蔵し、それを対象とした神祀りの場より発生し
たとみられる神社もある。神社とは、神体があり、それを祭祀するため、
また拝礼するために公衆に開放された場でもあるが、以上のごとき場が、
その成立の起源とみられる。


40 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:28:50
卑弥呼はやはり山とか磐に関係してる、アニミズム的な場所
天高原
出雲とはなんだったか・・

41 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:33:24
古墳とは少なくとも日本では自らが山(御神体)になることを意味してたかも

42 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:44:41
原始アニミズムの九州倭人の勢力は後進的で時代遅れだった
新羅(騎馬民族)との交易を重視していた出雲は先進的な軍事国家だった。

43 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:58:38
自ら御神体になったからこそ神の物語として描かれた。

44 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:19:32
http://www.tabiken.com/history/doc/T/T328C100.HTM
対馬国・一大国(一支国)・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・
邪馬台国を掲げた後,〈斯馬国・己百支国・伊邪国・郡支国・弥奴国・
好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇国・鬼国
・爲吾国・鬼怒国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国

北九州の地域が本来,「倭」であったとすれば,大和政権は倭の別種
であるとする認識も存在したようである。それが『旧唐書』に言う,
〈日本国は,倭国の別種なり〉ということばに象徴される意識ではな
かろうか。『旧唐書』には,さらに〈或はいう。日本は,旧小国,
倭国の地を併せたりと〉とも述べている。其の国,日辺にあるをもって,
日本を名としたというのは,元来は,西方の北九州,つまり「倭」に対し,
大和が東方の国であるという主張からおこったものかも知れない。

もちろん,倭国という名称は忘れ去られたわけではない。ヤマトの
名称に大倭や大和をことさら当てるのもそのためであろう。

45 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:26:54
己百支国:三養基郡
郡支国:鳥栖
弥奴国:柳川
誰か解読して・・

46 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:31:14
ねぇ 頼むから
そういう話はオカルト板でやってくれないかな

47 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:35:46
>>45
どういう話だといいんですか?
オカルトじゃないですよ。

48 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:46:12
やっぱ
神話の世界はオカルトか出雲スレにご招待かな

49 :サガミハラハラ:2005/07/04(月) 19:46:54
>>45
郡支国とは都支国のことだと思いますけど、都支国はタキ国と読み福岡市西部の金武、吉武のある室見川流域です。

50 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:50:05
>>48
神話にも少なからず史実が隠されています。

51 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:54:47
>>48
我々現代人が日本統一を想像してかくとは異なり
この著者は遠くない過去の言い伝えを神話として描いています。

52 :サガミハラハラ:2005/07/04(月) 19:57:53
日本神話は天石戸事件以降はかなり史実に近くなってきます。

53 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 21:01:38
>>1は機内説論者
ココは九州説論者の隔離板

54 :プラム:2005/07/04(月) 21:23:34
よく関連スレにて(アマテラス=卑弥呼)というレスをよく見掛けますが
どうして=になるのか、よく理解できません。

景初三年に魏に朝貢の使者を出し
其年十二月に親魏倭王の詔号並びに金品を贈られ
正始元年には魏の使者(郡の役人)が詔書・印綬を持って倭国王に上表

その他諸々の魏と倭の外交をどのように 読み取ればよろしいのか
ご説明いただけないでしょうか

55 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 21:27:10
古田説信者でつ

56 ::2005/07/04(月) 21:48:12
アマテラスは卑弥呼姫じゃぁないよ・・・。全然別人で〜すな。

57 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 22:00:11
アマテラスって記紀の中で生きてる人だろう
外に出てはいけないんだろう

58 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 22:22:25
>>8
サガミハラハラって真正のバカ?

>>9
削れ!

59 :日本@名無史さん:2005/07/04(月) 23:29:34
残された有限の資料と摺り合わせ、最後の消去法で、
天照=卑弥呼で間違いないとおもうが、
これは絶対に、永遠に、決して公で認められることのない
日本のアンタッチャブルな存在であり続ける

よって日本の古代史は、
ローマ帝国の起源や、中国史のように、
晴れて正々堂々と明るみに解明されることのない
神話のままであり続ける

60 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 01:28:58
天照=持統も捨てがたい

61 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 03:05:33
神話から考える。
アマテラスとは母性原理の女神さま
母性によって要請された父性原理が高天原の神々。
しかしながらアマテラスは高天原の主神でもある
記紀神話で主要な祖神とされる、天御中主・高御ムスヒ・神ムスヒ
の三神のうち、二神のムスヒは産霊の神である。
ムスヒとは天地創造のエネルギーと考えられるが
本質的には母神が持つ産出・豊穣力に他ならない。

62 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 03:11:15
中国における「天」の思想は騎馬遊牧民とのつながからもたらされたものである。
それは父性原理であり人格神であり世界を操作する神である
彼らは絶対神で唯一神であるから、相対神や多数神なぞは認めない。
つまり神話の多数神は母神が産み出したものである。

63 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 03:14:25
つまり神話の中の高天原は母神が産み出したものである。
に訂正。




64 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 05:19:40
日本は中国ではないし、中国の影響も考えにくい

65 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 05:41:46
>>54
当時の倭(九州)が畿内・出雲に外交政策をあかすとは思えない。

66 :プラム:2005/07/05(火) 06:40:03
>>65
なんかへんではありませんか?
外交記事は国内からではなく、中国国史からの情報ですよ 記紀編纂時には魏書の存在、内容を知っていただろうし
政治的意図により削除されたのであれば意味が通りますが
もう一度背景を検討のほど

67 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 07:07:54
>記紀編纂時には魏書の存在、内容を知っていただろうし

普通に考えて
知らないでしょう、中国への使者は倭勢力(九州)しか送ってない
出雲が支配的だった大和(難波・近江)にはそのことは伝わってない。

68 :プラム:2005/07/05(火) 07:18:49
>>
すると
大和朝廷は一度も大陸に使者を派遣したことがなく
全て、九州(倭)の出来事だと?

69 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 07:22:55
>>68
倭の五王から以降は全て大和(大倭)で畿内・出雲・倭(九州)の
統一政権でしょう。難波(安曇江)、黄泉(近江(安曇江の付近))
はまだまだ未開な地だった。

70 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 07:42:21
>>68
できれば、あなたのその時代の歴史観がもっと知りたい。
韓≒倭としてたり、邪馬台国が九州にあったとしてるにも
関わらず畿内政権が倭の後裔であるとみなしてたり、
出雲も影響についてもどう考えているのか・・

71 :プラム:2005/07/05(火) 07:45:16
では、奈良朝廷はどうでしょう?
過去の外交記録は奈良朝廷にも伝えられず闇の中に葬り去ったのでしょうか

72 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 07:59:38
>>71
倭(九州地方)の外交記録は無いし、九州と関係薄い、言い伝えもない
と思われる畿内、出雲の人にどうやって倭(九州)の行った外交が伝わりますか?
邪馬台国の密使の記録が畿内に伝わるとは思えないし、
おそらく奴国や不弥国のような周辺国も知らなかったと考えるのが
自然でしょう。畿内政権は倭(九州)の直系ではないと考える。

>>44をみるに当時の九州の地名は畿内の地名と関連性は無いように
思う。三輪、久留米、甘木などは畿内に征服された後の地名かな・・?

73 :プラム:2005/07/05(火) 08:06:33
>>70
私の場合、畿内政権は(紆余曲折があったものの)マキムクを基盤に発展したものだと考えていますよ
九州北部地域は四世紀を境に各地の豪族が独自路線を歩むととらえてます。
出雲は拡大する畿内勢力に次第に飲み込まれたと
六世紀になると、主だった地域もかなり畿内色の濃政治体系下に

74 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 08:16:40
>私の場合、畿内政権は(紆余曲折があったものの)マキムクを基盤に発展したものだと考えていますよ
ほぼ同意
>九州北部地域は四世紀を境に各地の豪族が独自路線を歩むととらえてます。
四世紀を境というより、西南九州は本来は全く別の勢力だったと思います。
海岸沿いの勢力と東北九州の勢力が畿内・出雲よりだったと考えます。




75 :プラム:2005/07/05(火) 11:57:19
>>74
>西南九州は別勢力

同意します。

東北九州は、宗像氏の動向次第だとかんがえてます。沖の島経由神湊ラインは当時画期的なルートと考えるからです。

76 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 15:05:28
>>44
地図をみて由来の分からない地名(特に字)、そこにヒントがある。
当時の倭語はだいぶ現代日本語と異なっていたように思う。

77 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:42:25
西南九州は狗奴国のあったところ。
西北九州にあった邪馬台国と対立していた。

78 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:47:38
>西北九州にあった邪馬台国と対立していた。

おねがい、常識と外れた説流す時は根拠を頼む
西北九州=末盧国・伊都国・奴国

79 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:06:30
>>44
>北九州の地域が本来,「倭」であったとすれば,大和政権は倭の別種
>であるとする認識も存在したようである。それが『旧唐書』に言う,
>〈日本国は,倭国の別種なり〉ということばに象徴される意識ではな
>かろうか。『旧唐書』には,さらに〈或はいう。日本は,旧小国,
>倭国の地を併せたりと〉とも述べている。其の国,日辺にあるをもって,
>日本を名としたというのは,元来は,西方の北九州,つまり「倭」に対し,
>大和が東方の国であるという主張からおこったものかも知れない。

別種であるらしい事は『梁書』に『扶桑國』として記されている。
慧深という坊主が中国の東にあるところから来て畿内王朝の情報を伝えている。
ただし、言葉が旨く通じなかった為情報は錯綜している。
日本でも自分が梁書の『扶桑國』である事を自覚していたらしく、
平安時代には『扶桑記』『扶桑略記』『扶桑日記』などが書かれている。


80 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:28:47
扶桑國=ふそう国とよむのかな・・
ふそうと倭全然違うね、どこかに名残はないのだろうか

81 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:41:00
>ふそうと倭全然違うね、どこかに名残はないのだろうか

倭じゃないもん。

82 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:42:31
扶桑(本州)と扶余、語感似てる。。
新羅・高句麗の侵攻も同族援護じゃなかったのか?
日本ももっと本当の歴史教えて欲しいよ。

83 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:55:05
参考
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kinai.htm

84 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:08:53
>しかし、5世紀といえば、日本列島ではすでに九州から東北
>まで前方後円墳が普及していた時代である。その時期の九州
>と近畿でそれぞれ個別に中国に遣使しうる王権が存在してい
>たというのは無理があるのではないか

ここの意味がよくわかりません。
倭の五王は畿内政権が倭の後裔
を詐称してるものだという説を持っているので

85 ::2005/07/05(火) 19:15:02
>>59 後段
心配すんな。長時間経過するものの、俺がいずれ決着を付ける日が来るんさ。

86 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:22:49
我々は中央政権の希望的な歴史観により間違いなく騙されている

87 ::2005/07/05(火) 19:25:15
どういう点が希望的なんだろう?

88 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:35:54
日本列島の何処かに倭とは違う国があって、その国は中国(南朝)とは付き合いが無かった。
ということが解る。

その国を関東にする人間もいれば、畿内とする人間もいる。慧深は単なる詐欺師という意見もある。
しかし、九州王朝を支持する漏れとしては畿内王朝だと思いたい。

畿内王朝は南朝とより北朝側と強い交流があったらしい形跡がある。


89 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 20:09:01
皆さんは倭政権と扶桑政権は何時統一したと思いますか?

90 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:10:28
つ 扶桑政権などない

91 :プラム:2005/07/05(火) 21:35:24
『扶桑』とは
山海経や淮南子などの古代中国神話に現れる、東方の日出ずる処に生えているという神木が生えてる場所

中国南朝「梁」の時(520〜527)扶桑を国号とする国より来たと称する僧侶の報告が朝廷に取り上げられた。

彗深の証言が正しく、扶桑が日本の何処かであれば仏教伝来は宋の大明二年(458年)になる

92 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:55:18
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-79.htm
『古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン』
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-80.htm
複合王朝としてのヤマト王権---葛城氏の正体

この記事、日本人形成の秘密について事細かに語って居ます。
読む価値はあると思います。
呉越、山東半島系弥生人の北九州、難波勢力
とツングース系渡来人の出雲の日本海勢力についても示唆してる。

93 :92:2005/07/05(火) 22:06:18
もうだんだん過去に何が起こったか分かってきた・・
縄文人と倭人(呉越人)と倭族(除福)の温厚な混血民族を
とツングース・モンゴル人(出雲人)が力で制圧したんだ・・

94 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 22:15:02
>>93
酔っ払ってるの
もう、思考能力ゼロみたいそろそろ寝たほうがいいよ

95 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 22:15:04
>>91単に仏教が受け入れられなかっただけでしょう・・

96 :プラム:2005/07/05(火) 22:34:08
>>95
信じる信じないは、別として
「慧深証言」
扶桑国には458年にカシミールの僧五人が渡来して来て仏教を伝えたと、いうことです。
扶桑国の所在は、中国の東大漢国の東方二万餘里の所にあるそうです。

私は話半分状態でこの資料を見てますが

97 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 02:14:26
>>75

沖ノ島経由は、別に画期的なルートじゃないでしょう。

祭祈遺跡などをみれば縄文時代から利用されていたことは顕かですが、
定期航路の中継点には成り得ない島です。
先ず、良港が無い、そして、水も無い。
絶海の孤島ですので、小船が緊急避難的に利用することはあっても、
交易船が経常的に利用するような島ではありません。
単なる目印としてであったら、前述のとおり縄文人にも知れていた島ですので、
新たなルートでもないでしょう。

それとも、単に山陰、博多湾、関門海峡方面から韓半島への直行便が出現したと言うことですか?
だとしたら、それは航海技術の進歩や海上交通の主体者の勢力変動の問題ですが、
後世の「宗像氏」につながるような事実は、何も検証されていませんよ。
遣隋使の時代であっても壱岐経由なのですから、三世紀に「沖ノ島経由」のルートがあったとも
思えませんが・・・

何をもって「当時画期的なルート」と考えられるのでしょうか?


98 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 06:21:58
>>96

話半分でいいと思うよ。
大漢国(新羅)の東方一万余里(短里)で大邱から700km余。
ピッタシじゃん。


99 :プラム:2005/07/06(水) 07:22:16
>>97
画期的

ようするに
航海技術の進歩ですね
目標物がなくても目的地に到達することが
沿岸航海に頼らず 初期の海洋航海ですね

100 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 10:37:15
二つの勢力が対立してたんじゃなかろうか?
瀬戸内海路の支配圏を巡って

101 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 10:39:56
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/headlines/wrestling/20050706-00000104-spnavi_ot-spo.html
サップ、アーツ、セフォーらK―1で名をはせた大型ファイターを差し置き、
1メートル63の山本がメーンに選ばれた。前田日明スーパーバイザーは
「昨年の大みそか(Dynamite!!)は粗削りりのパンチ、キックで魔裟斗
選手と互角に戦った。そういう意味でもメーンにふさわしい。日本人では
50年、100年に1人の選手」


谷川の遺伝子を継承する前田(笑)

102 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 10:40:29
誤爆った orz


103 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 17:33:21
宗像・出雲は渡来人だね、おそらくヤマトにとって外人だろう。



104 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 18:07:27
>>103
何故、そう言える?
地元民と言えない根拠はなに

105 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 19:08:36
ヤマト大王の魂は日本列島に福をもたらした福の神
彼らは伝説ではなく本当に先住民族に沢山の
福をもたらし融合した大王の末裔

これに対し東朝鮮から光(太陽)を求めて
天を仰ぐ邪術を使いツングース系の訛りで話す外人勢力、
出雲、日本海、東日本一帯、九州の大分に支配圏を広げた天孫。

106 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 19:17:49
出雲神話、日本神話よめば答えはでる。
間違いない
出雲・日本海、東日本一帯、大分(豊国)の宗像、宇佐
こいつらの出目は外人ツングース!!

107 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 19:18:57
天孫が天皇がツングースとは片腹痛い
天皇は土人

108 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 19:23:28
ツングース厨があちこちのスレでマルチしてるUZEEEEEEEEEEEEEE!!!!

109 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 19:45:25
認めたくない現実だろう、だから今まで隠されてた。


110 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 19:47:04
なんで「ツングース」なわけ?韓人でいいじゃん

111 :これが真実の歴史:2005/07/06(水) 20:09:09
邪馬台国は豊前一体。
イヨの時代は宇佐が中心地。
大和朝廷との関係は
戦いなどなく平和的な融合。
しかし4世紀末になると
邪馬台国が大和朝廷をのっとる。
これが応神王朝。応神・仁徳の
墓がばかでかいのは九州・畿内の
完全統一の象徴。国力が倍増したため。
それまでは同盟関係でしかなかった。
のっとりを正当化するために記紀を編纂。
日向(当時の邪馬台国都)から神武(応神)が
東征したふうにみせかけ王位を正当化。

112 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 20:14:18
>>108
気分わるくされたらごめん、でもほぼ確信持ってる。
事実は伝えなければならない。

113 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 20:23:06
「ツングース」と表現を濁しているところに、ツングース厨の考えのあやふやさが
滲み出てるわけだがw

114 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 20:25:42
異教徒、異人種だったのさ、だから内乱が起こった。

115 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 20:38:15
この関連スレは
いつから 「マングース族」と「神話族」に占拠されたんだ

116 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 20:51:51
白村江で負けたヤマトは新羅の傀儡だった出雲や東日本と
何かあったのかも

117 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 21:06:46
基地外スレたてるんじゃねーよボケが!

118 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 22:23:39
大和朝廷は、出雲地域の重要性を認識どころか
かなり蔑んで見ていたようだ
出雲は大和朝廷にとって、辺境であり不浄な地域なようだ

出雲地域が神聖な重要地域なら 出雲の北部に浮かぶ「隠岐」を天皇の流罪地(聖武帝)などにしたりしない。

119 ::2005/07/06(水) 22:26:49
後鳥羽天皇?

120 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 14:45:02
邪馬台国は、日向にありました。
卑弥呼は、ヒムカです。
台与は、トヨで、宇佐に居ました。
宇佐神宮の境内の下の古墳は、卑弥呼ではなく
台与のものだと思います。
台与の時代に内乱が起こり、崇神が台与から政権を
奪い取り大和へ東征したのです。
その頃、大和には大物主の末裔が王として君臨していましたが
鉄の武器で武装した崇神の軍隊にあっけなくやられてしまいました。
間違いない。


121 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 14:48:38
>>120
何度も言うけどね〜

>間違いない。

と、思っているのはお前だけ!w

122 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 14:55:17


123 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 14:55:17
>>120
それ当たりでしょ。後の崇神のは認めたくないけど・・


124 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 15:02:57
もう、過去に何があったかはだいたいわかった。
伊勢・出雲、東日本のチョン共め・・

125 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 15:56:39
吉野ヶ里、あれは地名からみてチョン(東日本人)に負けた都市だな!!!


126 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 16:02:03
久留米、甘木はヤマトの地名が残ってる。こっちは
チョンに負けてない・・佐賀はチョンに明け渡し・・・

127 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 16:06:43
倭寇は積年の恨みだったんだろ・・

128 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 16:35:20
ご先祖様の伝えきれなかったことを僕は
解読しました、みなさんはご先祖様に感謝して
この史実をデータをあつめ立証し、世間に広めてください。。。。。

129 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 20:16:11
つまり、こういうこと

韓国、朝鮮人は、非常に人種差別的、権威主義的、 階級意識の強い人々

韓国、朝鮮人は、自分たちの階級意識や権威主義的、人種差別的、価値観を他国に押し付けたがる人々

韓国、朝鮮人は、日本の権威、権力と自分達とを無理やりに こじつけて、日本人に対する優越感を持ちたがっている

130 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 20:53:27
どこも殺伐としてますね・・・

131 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 20:57:34
ツングース厨が荒らしまわってるからね

132 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 21:00:11
インターネット倭寇?

133 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 01:28:49
邪馬台国は、吉野ヶ里です。

134 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 02:20:30
吉野ヶ里 吉野はニニギの言葉です、占領して地名変えやがった
けがらわしーーーーー

135 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 02:27:11
大国さんは侵略者スサノオの子で、天照にびびって国わけあたしたんだよね?
太ってばっかで小心者だったんだね。。。嗚呼出雲。。

136 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 03:21:41
平将門の乱もなんかありそうだ、俺がしらべてもいいが、とにかく
いろんな人にこの事実を伝えて一人一人の力で
出雲東日本朝鮮人の
悪行を洗いざらい暴露していきましょう。

137 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:00:58
邪馬台国は鹿児島にありました。
場所は霧島神社周辺です。
そして神武の時に東征しました。
間違いない。

138 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:11:30
邪馬台国は、八女市周辺だろう。
「邪馬」は「八女」です。
「台」は首都を示す。
狗奴国は、熊本です。
「狗奴」は「熊」です。
官のコクチヒコは、菊池日子です。
間違いない。

139 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:19:06
いんや、
邪馬台国は、
沖縄だよ。
沖縄の神社には
卑弥呼を彷彿させる
女の神主がいます。
倭人伝を素直に読めば
邪馬台国の位置は、
沖縄辺りになるんだよ。
間違いない。

140 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:23:33
>間違いない。

と、思っているのはお前だけ!w





141 :kimoi_saru04:2005/07/08(金) 12:25:15
猿の言う掲示板がここですか?w
へまやろうww


142 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:37:51
>>141
カスやろう

143 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:44:29
ヤマトの積年の恨み、インターネット倭寇、
ツングース=出雲

144 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 14:31:42
邪馬台国は(国名を変えているのでその点は触れないが)

福岡県北部〜佐賀県南部〜熊本県西部〜福岡県北部 と変遷した。

だから、今の1都市を指定すること自体無理がある。

145 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 14:46:30
もう、出目については振れないよ、ごめんね。
一つ聞くけど、外国も国体で工作活動したりってするの?

146 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 15:15:00
>>144
キチガイですね。
邪馬台国は変遷などしていません。
大和に遷都するまでずっと宇佐です。

147 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 15:18:31
邪馬台国は、吉野ヶ里です。
狗奴国は、日向です。

148 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 15:23:34
↑お前こそ基地外!

邪馬台国は宇佐で
狗奴国は鹿児島県一帯。

149 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 16:27:27
邪馬台国は阿蘇山麓一帯だろう。
「有阿蘇山」と書かれた文献があるからな。

150 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 16:29:05
九州説ってレベル低いね、

151 :元祖プラム:2005/07/08(金) 16:41:10
邪馬台国の比定範囲は倭(九州)から狗邪韓国を含めた韓半島南部一帯で
その中で卑弥呼が鎮座したとされる場所は大隈半島のつけねにある都城でしょう。
狗奴国は女王国と南に境を接するのだから、大隈半島から薩摩半島と考えるのが妥当
です。
太陽のカラス
「八咫烏を御先として、太陽神の子孫が行く」神武東征で天照(太陽信仰)と関わりが
深いカラスが神の使者として登場します。
このことから天照が卑弥呼であった可能性は非常に高いと考える。

152 :元祖プラム:2005/07/08(金) 16:43:05
太陽信仰は朝鮮由来とされてます。

153 :プラム:2005/07/08(金) 16:48:26
↑勝手にコテハン使うなよ

154 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 16:50:02
やっぱりなw 九州説ってレベル低いね

155 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 16:55:43
捏造日本書紀を信奉するヤシは畿内説も九州説もレベルは低いさ。

邪馬台国とヤマトは全く無関係。

156 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 16:56:10
マングースの正体が分かったような希ガス、なあプラムw

157 :プラム:2005/07/08(金) 17:22:03
マングースはもう結構です。
とても私に付き合えるレベルではありません。

158 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 17:39:09
コテハンだとそう言うしかないわなw

159 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 18:01:45
東京競馬場だろw

160 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/08(金) 18:10:56
え!
それでは、私が マングース房の疑いをもたれてる様ですね
別に構いませんが
これはいい機会、私も少しマングース族の勉強でもしますか

それに、どうやら「元祖プラム」を使うヤシが現れたようなので
対策を考えなくてはいけませんな
どうせ「プラム」のコテハンも時間の問題で、遊ばれるでしょうから

161 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 19:02:21
もうその位にしとけ〜よ

162 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 19:12:03
つーことでマングース房の猛威も少しは治まることでしょう

163 :サガミハラハラ:2005/07/09(土) 19:45:03
あと1月で邪馬台国到達14周年です。来年の15周年は盛大に祝いたいものです。

164 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:48:28
まさか、邪馬台国の謎を解くことで古代史全ての
謎を解けるとはおもわなんだ。。

165 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 18:49:57
>>151
邪馬台国は宇佐です。
日向が狗奴国の首都、
卑弥弓呼はヒムカ王という意味。

166 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/10(日) 19:14:24
>>151
邪馬壹國の比定地「都城」
確か、以前何処かのスレでこのフレーズに心辺りありん〜 ほんの少し思い出してきた…

167 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 19:46:18
>>151
は、基地外です。

168 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/10(日) 20:02:57
>>167
やっぱり>>151はそうでしたか
よりによって「元祖プラム」のコテハンを使うとは

169 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:11:57
↑まったくですw
邪馬台国は宇佐に決まってますよね。
都城なんか狗奴国の一部にすぎないよ。

対馬、壱岐、筑前、筑後、豊前(邪馬台国)、豊後、肥前、が
邪馬台国連合です。

日向(狗奴国)、肥後、大隅、薩摩が
狗奴国連合です。

間違いありませんよw

170 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:18:07
↑これが定説です。
100%間違いありません。

171 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:21:28
ライフ・スペース? う〜ん?

172 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:22:06
>>169-170は自演だ

173 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:29:21
>>172
>169-170は自演だ

>>169-170は、俺が書いたんだが何か?

174 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:55:02
>>173
それでは、貴方の自説を披露してくれ。

175 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:24:19
>>174
めんどくさくて
いちいち披露などしてられんよ。

176 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:40:20
なにを言っているんだ
何が定説だ
日向こそ邪馬台国だよ
宇佐は投馬国であろう
卑弥呼=日向(ヒムカ)であろう


177 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:41:37
基地外が多くて困るよw

178 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:41:42
初心者な質問でスマンが、邪馬台国などの弥生時代って
卑弥呼のほかに有名な人物(武将)って誰がいた?

たとえばヤマトタケルやスサノオなんかは半分は創作の
人物だといわれてるけど、この時代にリンクしたのかな?
神武天皇あたりだと卑弥呼の時代と重なる?

179 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:48:11
↑めんどくさいのに
何故このスレに

180 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:49:13
神武は卑弥呼よりも1世紀ほど古い時代の
人ですので時代は重なりません。

181 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:55:39
邪馬台国は沖縄だって言ってるじゃんくゎ!!!!

182 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:05:09
>>180
なにを根拠にその様なデタラメをいうんだ

183 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:09:50
↑出鱈目などではありませんよ。
定説です。

184 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:10:42
だーかーらー
沖縄だって言ってるじゃんくゎ!!!!!!!!!!!!!

185 :日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:11:29
沖縄は九州外ですので此処には書き込まないでね。

186 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 02:55:04
相変わらず九州連厨はレベル低いねぇ〜
厨房レベルというより小額レベルだな。
まぁ邪馬台国が九州にあったなんて考える事
自体小額レベルなんだけどねw

187 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 06:42:29
>>186
出たな 認定坊や
九州説を見ると「厨房」扱い
たまにはスレに沿うカキコでもしてみろよ
坊やにはちょっと難し宿題かな w

188 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 20:32:22
>>187

>たまにはスレに沿うカキコでもしてみろよ
>坊やにはちょっと難し宿題かな

スレに沿うカキコ。
ハテ?話はとんと進んでないみたいですな。 
「坊や」どころか大人にも難しい題材だったんだね。

189 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 21:28:17
やっぱり、神武東征神話は九州にあった邪馬台国が大和方面に本拠地を移したってこといっとんのかな。

190 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 21:31:18
九州で王様だった形跡がないんだよね、神武は。
畿内で初めて領主となった。
だから「都・首都移転」ではまったくないわけ。

191 :日本@名無史さん:2005/07/11(月) 22:30:58
冷静に考えてみな

領主でも王でもない ましてや地元民でもない
何処の馬の骨とも解らない「神武」の過去など
誰が覚えているのかな?
普通に考えれば解ること

192 :日本@名無史さん:2005/07/12(火) 03:11:18
幼稚なスレたてるなよw

193 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 00:12:37
当たり前のこともわざわざ書かないと分からないのがいるわけですよ。

194 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 20:28:23
>>193

そういうものですか。

195 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 21:38:13
>>194
そういうものですよ。

196 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 21:42:28
>>196
じゃ、そういうことで。

197 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 22:08:54
>>196
自分のLessにアンカー付けてどうするの

198 :日本@名無史さん:2005/07/13(水) 22:55:38
>>197
ありゃ、エラクすんませんこって・・・

199 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:33:25
>>197
ところで「Less」って何さ?
「RES」のことかな。

200 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:41:27
>>199
そういうものですよ

201 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:53:01
>>194-200

自作自演

202 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:56:55
ツングースマンセイ

203 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 01:04:03
>>201
ではないから面白いの。

204 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 02:46:27
自作自演おつ


205 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 02:48:24
203=荒らし

206 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 11:51:44
邪馬台国は宇佐にありました。
卑弥呼の墓は宇佐神宮の境内の下にある古墳です。
私が調査した結果では100%間違いない。
狗奴国は日向です。肥後菊池は狗奴国の連合に
組していて菊池日子がいました。間違いない。
戦争で狗奴国が邪馬台国に勝ってその後大和に
東遷しました。間違いない。

207 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 11:57:16
>>206

戦争で邪馬台国に勝った狗奴国は何故、後に大和へ東遷するの

208 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 11:58:42
その可能性が非常に高いがいずれにしても
天孫族卑弥呼の人種と宗教、九州の土着の倭人の宗教とは
かなり異質なものだったに違いない。
そこを徹底的に追求解明したい。


209 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 11:59:31
>>297邪馬台国が畿内に行ったのですよ。
文意読めない人ですね

210 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 12:52:43
>>209
邪馬台国は人の名前か?
それなら畿内へ行く可能性はあるよな

邪馬台国は国の名前か?
それなら畿内へ行けるわけないだろうよ
舟の上にでも乗せていくのかい。
え〜っ

211 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:17:31
>>210
大和(天孫ツングース族なりすましヤマト)が畿内に移ったのです。
【人種論】
日本神話では、いわゆる「天孫{てんそん}民族」が新しくきて、
国土を統一したように伝えている。それを歴史に読み替えて、
天孫民族が日本人、先住民族がエゾですなわちアイヌという理論に
発展した。『類聚国史{るいじゆうこくし}』では、エゾを「風俗部」
に数え、これを一種の「国内殊俗{しゆぞく}」すなわち「国内異民族」
扱いしている。歴史的経過に照らせば、北東日本に拠った「国内異民族」
にあたるものがアイヌであることは、まことに自然である。だから、
エゾをアイヌと考えることは、十分理由のあることである。しかし、
これは、蝦夷をエゾと読むようになった平安中期以降では無条件に正しい
のであるが、蝦夷をエミシ(エビス)とよんでいた古代においては、
これをすぐにアイヌと置き換えるだけの十分な理由がない。古代エゾ観念
は人種観念でないからである。それを、エミシ時代の古代エゾをも含めて、
通して、アイヌか日本人かという二者択一の人種論でとらえようとしてきた
ところに、この議論の誤りがあった。


212 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:17:51
【歴史上の蝦夷観念】
初めエゾという呼称はなかった。エミシ(エビス)であった。
それをすべてエゾと考えてきたところに問題があった。エミシは
もともと「勇者」の意味である。人名にエミシがあるのはこの意味である。
他方、この勇者は、神武{じんむ}歌謡以来、「東の抵抗する勇者」
として意識されるに至っている。「エミシを一人{ひたり}、百{もも}な人 
人はいへども 手向ひもせず」が、皇師東征の歌であることに注意すべき
である。こうしてエミシは「あずまびと」への賤称{せんしよう}という
ことになる。「あらぶる人たち」「まつろわぬ者たち」というのがその
性格規定である。「夷」はヒナとも読んだが、
「あずま」もヒナ=辺鄙{へんぴ}の意味であった。エミシはヒナ人である。
律令{りつりょう}時代に彼らが無法、無道とされるのもこの意味である。
すなわち歴史上のエゾ観念は、政治的、文化的な蛮族観念である。
人種の違いに基づく異民族観念ではないのである。古代国家の統一に抵抗し、
その支配と文化を受け入れないゆえに、体制側からすれば、未開、野蛮な人
たち、その意味での政治的、文化的異民族であったのである。人種上の
異民族であったかどうかは、別途の考察を要する。

213 :日本@名無史さん:2005/07/14(木) 23:59:44
>>206
>間違いない。

と、思っているのはお前だけだってw

214 :あの人は、この人なんだそうだ。:2005/07/21(木) 01:40:00
http://www.toonippo.co.jp/l-rensai/shutoken/shutoken15.html

215 :サガミハラハラ:2005/07/21(木) 09:45:23
私は邪馬台国小城説です。宇佐説ではありません。

尚 邪馬台国は小城で間違いありません。今は少数でもそのうち多数となり、
認知されることになります。

216 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 11:00:15

絶対になりませんから(w

217 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 11:08:20
>>215
>間違いありません。

と、思っているのはお前だけだってw

218 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/21(木) 12:25:47
>>215の真偽の程は解りませんが
サガミ氏の小城町説は解りました。
しかしながら>>215で、あえて「宇佐説」を否定なさる発言は、理解できません。
別に触れなくてもよいことでは?
それに、どうしてトリップを付けないのですか?

219 :トリップ ◆vNFYAR5c0g :2005/07/21(木) 12:48:46
トリップ#好きな文字
を入れ名前欄

220 :サガミハラハラ:2005/07/21(木) 13:37:59
宇佐説うんぬんの件は、私の読み違え、勘違いでした。気を悪くされたかたごめんなさい。
トリップですが、トリップ欄はどこですか?

221 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 13:40:45
サガミハラハラ#好きな文字
こんな感じで名前欄に入力すればコンピューターが
勝手に#の下に任意の番号を割り当てます。

222 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 14:20:19
>>220

サガミハラハラ#S.KC%2UP でやってみてください。

223 :サガミハラハラ ◆EROBaNmQX. :2005/07/21(木) 14:36:22

これで良いのかい(w


224 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 14:37:17
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20050518STXKD053118052005.html
どうしても畿内の大和政権は東九州から瀬戸内、四国、畿内連合
のような感じがするな、薩摩、熊本、長崎、筑後近辺は反主流派ぽい。

225 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/21(木) 14:56:41
>>223
サガミ氏 OKです。
これで、偽者「サガミハラハラ」もかなり減るでしょう。

226 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 16:56:23
それでプラムさんは一体、
邪馬台国はどこにあった説を支持してるんだろな?

227 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/21(木) 18:00:35
>>226さん
私の邪馬壹國比定地は、
まだピンポイントで示せませんけど
筑後川以北の福岡平野辺りから博多⇔前原(玄界灘沿岸)の何処かにあったと考えてます。

228 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/21(木) 18:05:57
太宰府なんて
魅力的ですよね
ワクワクしちゃいます。

229 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/21(木) 19:00:05
私が相模原のサガミハラハラです。

230 : ◆ypURG809QA :2005/07/21(木) 20:38:34
サガミさん、再度質問いたします。

諸橋大漢和辞典は読まれた事はない、ということでよろしいんですか?

231 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/21(木) 22:47:01
はい、読んだことはありません

232 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 23:23:24
●濊(カイ)
 濊は南は辰韓と、北は高句麗、沃沮と接し、東は日本海に窮まる。朝鮮
(中国領)の東は皆その濊の土地です。戸数は二万。大君主はいないと
されています。ここも高句麗の同族と唱えていました。言語や法俗は
ほとんど高句麗と同じで、衣服に違いがある。真珠や玉は宝としません。
 武帝に追われた「濊王の印」を持つ一族で、北方に逃れた主力が夫余
となり、東方に移動したものがこの濊になったと解釈すればいいようです。
濊はおそらくタイの転訛で、楚人が先住の北方系民族の上位に入って建国
した国かと思えます。
 朝鮮民族の祖とされる檀君は熊から生まれたとされていて、楚の熊
トーテムに一致しています。濊は虎トーテムだったらしく、虎を祭って神
としています。これは熊と同時期に、人間に変りたいと穴にこもったが、
途中で挫折して失敗したとされている動物ですから、熊トーテムの下位に
置かれていた部族と見当が付けられます。
 中国では虎のことを李父や李耳といいますから、濊の首長階級は李姓と
考えられ、そして、これはトゥチャ族(=巴の李氏は虎トーテム)の
可能性濃厚です。加藤清正の虎退治も、当時の朝鮮が虎トーテムの
李氏朝鮮だったため、このように表現されたもので、実際に虎と戦った
わけではないでしょう。
 夫余は北方系民族(東胡)に楚人が融合した熊トーテムと考えられますが
(*)、そこに狗トーテムの越王の血が入り、朱蒙(鄒牟=騶)が南方で
独立して高句麗を建てた。夫余から分かれて東方に展開した濊は、
その下位氏族で虎トーテムだったという順序になるようです。
 (*/高句麗本義では、天帝の子と名乗る夫余王、解慕漱が熊心山に
結びつけられています。)
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_4.htm

アイヌは自らをカイというけどどういう関係かな・・

233 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 23:39:13
武帝に追われた「濊王の印」を持つ一族で、北方に逃れた主力が夫余
となり、東方に移動したものがこの濊になったと解釈すればいいようです。

武帝に追われた「濊王の印」を持つ一族で、北方に逃れた主力が夫余
となり、東方に移動したものがこの濊になったと解釈すればいいようです。

武帝に追われた「濊王の印」を持つ一族で、北方に逃れた主力が夫余
となり、東方に移動したものがこの濊になったと解釈すればいいようです。

武帝に追われた「濊王の印」を持つ一族で、北方に逃れた主力が夫余
となり、東方に移動したものがこの濊になったと解釈すればいいようです。



234 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 23:47:37
扶余とはツングース化した縄文人なのか?
そして、倭人、濊(カイ、ワイ、アイヌ?)人も同族なのか・・・
当時の中国人はまだいたであろう縄文人を
どう表現したのであろうか?
倭人、濊(カイ、ワイ、アイヌ?)人、韓人とごちゃまぜにして
東夷として表現したんじゃないのか・・

235 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:14:24
>>233
>アイヌは自らをカイというけどどういう関係かな・・

アイヌ語で「カイ」というのは聞いたこと無いですね。日本語でいうとどういう意味ですか?

236 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:21:00
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&c2coff=1&q=%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%80%80%E3%82%AB%E3%82%A4&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja

自分もよくわかりません。


237 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:28:20
カイ(縄文系?)の一派で扶余化せずに
新羅化しその後北海道に逃れたという可能性もあるのかなっと。
アイヌは北海道をカイと呼んだり、自らをカイとよぶらしい。

238 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:34:59
アイヌがアムール下流域からきてるなら周辺部族と
言葉が似ててもいいはず

239 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:44:51
>>237
アイヌ人が自らをカイと呼ぶのは初耳なので気になってます。
http://www.asahi-net.or.jp/~hi5k-stu/aynu/bbsaynu01a.htm
気になって調べたけど↑では明確に否定されています。
何かの誤解か勝手な解釈の可能性のほうが高いような・・・

240 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:44:52
沃沮
(よくそ)
朝鮮北東部の古代民族とその居住地の名。『魏志東沃沮伝』
{ぎしとうよくそでん}によれば、地形は南北に長く、北は?婁{ゆうろう}、
夫余{ふよ}、南は?貊{わいばく}に接し、戸数は5000戸で、大君主はいず
、邑{ゆう}ごとに長帥(首長)がいて、言語は高句麗{こうくり}とほぼ同じ
という。前漢の初め、衛氏{えいし}朝鮮に臣属したが、武帝が四郡を置くと
(前108)、玄菟{げんと}郡の支配を受けた。のちに高句麗に臣属したが、
魏の毋丘倹{ぶきゅうけん}の高句麗攻撃(244、245)の余波を受けて、
その居住地は荒廃した。

古代の朝鮮半島北東から現在の中国の東北方面北方にかけて居住
していた部族名。またその国名,地名。沃沮については最も詳細
な記録を残した《三国志》魏志東夷列伝によると,沃沮族は半島の北東部,
すなわち現在の咸鏡道からその北方に居住していたようであるが,
古文献ではさらに北方のウスリー江流域一帯に存在していたらしい。
北は■婁(ゆうろう)や夫余(ふよ)族,南では■貊(わいばく)に接し,
西方には高句麗の勢力があった。その言語は高句麗と大同小異で,
四方を強敵に包囲されているため,必然的に高句麗の直接間接の支配を
うけざるをえなかった。前108年,漢の武帝が漢四郡を設けたとき,
沃沮は玄■郡(げんとぐん)治に入った。そのころの中心地は現在の咸興
に比定されている。しかし高句麗族の強大化にともないその支配に屈した。
3世紀半ば曹魏の毋丘倹(かんきゆうけん)の高句麗遠征のおりには,
高句麗王の宮(位宮)が沃沮に亡命したので沃沮も魏軍の討伐をうけ,245年,
玄■太守王■(おうき)の攻略に下った。このとき高句麗王はさらに逃れて
北沃沮に走ったという。しかし北沃沮とか南沃沮とかの区別は便宜的なもの
で,部族的に特別の違いはなかったようである。また,沃沮の文化で注目
されるのは独自の習俗とともに,かなり中国文化の影響が及んでいること
である。


241 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:50:52
>>238
周辺諸言語の中で同義の単語を例えば語頭音を取り出して比較すると
現代の日本語、朝鮮語、アイヌ語は最も近いグループだったりします。

242 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:58:05
>アイヌ人が自らをカイと呼ぶのは初耳なので気になってます。

どのあたりで明確に否定していますか?
カイ、ワイ、アイヌ、カムイ、ピラ(ヒラ)、ベツ
アイヌ語というより古代の縄文語の名残のようにも・・・

243 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:10:02
想像だけど、現在の朝鮮人は血縁重視、万世一系思想の
ツングース系なので、縄文の血をほぼ排除して
しまったんではないかな?朴、金、白
一方日本は少なくとも倭人(ヤマト)の頃まではそういった
思想が無かったので縄文の血が残ってしまったのかもしれない。


244 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:14:29
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1120914010/l50
アイヌ語は新羅人の8母音を受け継いでいるのかな


245 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:15:04
>>242
>蝦夷はカイ?
>田島照生 (2001/02/18 18:48)

ここが発端になって、以下飛び飛びで関連のあるやりとりがあります。
検索しやすいように表題のところだけコピペします。

>アイヌの自称「カイ」?
>佐藤和美 (2001/02/19 09:01)

>カイ
>田島照生 (2001/02/19 10:28)

>RE:カイ
>佐藤和美 (2001/02/20 12:04)

>RE:RE:カイ
>nupkes (2001/02/20 17:24)

>RE:RE:REカイについて
>resaknay (2001/02/20 17:42)

>RE:^4 カイについて
>nupkes (2001/02/20 21:13)

>「蝦」の発音
>佐藤和美 (2001/02/21 12:04)

出発点を見つけたら順に下にスクロールしていけばわかると思います。
一番最後に引用したレスで明確に否定してます。


246 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:34:57
中国人が蝦夷をカイと読んだかどうかは関係ありません。
蝦夷は本来日本ではえみし、えびすで勇者の意味で
人名にも使われています。
沃沮にいた民族は濊(カイ、ワイ?)であり、この議論でもアイヌ自身が
カイと呼んでないと否定はされていません。
そのそも平安期の朝廷が東北、蝦夷(えぞ)征伐を行った時期に
東北には既にツングース系の大勢力があり、ほぼ確実に
アイヌ≠東北蝦夷は否定されます。ですから蝦夷がアイヌでないと立証しても
なんの意味もありません。

RE:^4 カイについて

nupkes (2001/02/20 21:13)
 『アイヌ史を見つめて』p.105「アイヌ民族自称の変遷』を読みました。
平山氏のアイヌ語能力を見くびっていたため、この項を読んでいませんで
した。確かに、この論証からは、「カイ」の可能性は、否定できないかと
思います。
 不明を恥じます。

247 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:52:45
>>246
nupkes (2001/02/20 21:13)
のすぐ下にある
>「蝦」の発音
>佐藤和美 (2001/02/21 12:04)
は、アイヌ人が「カイ」と自称していたので「蝦夷」の漢字を当てたという説
(『アイヌ史を見つめて』)があって、それを否定してます。
で、そもそもアイヌ語で自分のことを「カイ」と自称しているという例は見つかってません。
従って中国人が蝦夷をカイと読んだかどうかと関係なく、アイヌ人は「カイ」とは自称してません。

248 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 02:02:10
>>246
改めて読み返してみて何か誤解があるような気がするので、しつこいですが。。。
「蝦夷がアイヌでないと立証」するつもりはまったく無いです。
アイヌ人が「カイ」と自称していたか否か一点だけに拘っていて、他の歴史的スキーム
を否定したいとか肯定したいわけではないです。

249 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 02:06:26
佐藤和美先生にとても敵いそうにありませんが・・w
自称ではなく自分たちの住んでいる土地をカイと
読んでいるというような?指摘もあります。
北加伊道?
http://pucchi.net/hokkaido/geo/matsuura_takeshirou.php


250 :サガミハラハラ ◆EROBaNmQX. :2005/07/22(金) 03:04:07
私が本物のサガミハラハラです。
>>229は偽物です。間違いない。

251 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 03:15:08
http://www.kcfactory.com/takaniwa/rekishi/touzai/rikuumi/uminotami.html


252 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 03:21:50
>>249
スレ違いだと思うのでこれで最後にします。。。
http://www.asahi-net.or.jp/~hi5k-stu/aynu/bbsaynu99.htm
(前略)
>さて、アイヌ語です。
>こっちもノストラダムス研究家と同じ状態ですね。
>「カイ」+「ナ」でなんで「カイナー」なんでしょう。
>せめて「カイナ」とつじつまあわせくらいしとけ、とツッコミを入れたくなります。
>どこから、「カイ」が「この国に生まれた者」で、「ナ」が「敬語」というのがでてくるんだか
>根拠を見せてほしくなります。
>たぶん、ネタ本を無批判に使ってるんでしょう。
>このHPでも何回かアイヌ語のいいかげんな扱いを書いてきましたが、
>もうすこし、資料を吟味してから使ってもらいたいものです。

>私にはこういういいかげんにアイヌ語を扱う人達が「フランス語を知らないノストラダムス研究家」
>とダブって見えてしかたありません。

佐藤女史の説が全て正しいかどうかはわかりませんし、彼女に独善的なものいいが多いような
気もするのですが、「カイ」=「アイヌ人の自称」は、松浦武四郎著『天塩日誌』が出典で、他に
それを補強する資料はないようです。松浦時代からアイヌ語研究はすすんだはずですが、
これほどの重要語がいくつかあるアイヌ語辞典には載ってません(載っていれば佐藤女史が
見落とすとは思えないし)。
「カイ」=「アイヌ人の自称」であれば、持論が有利になるというひとがきちんと調べないで
主張しているような気がしています。


253 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 03:25:36
>>452
そうかもしれません。

254 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 07:22:21
>>223>>250が、偽者サガミハラハラだと思うが
皆さんは?

255 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 07:51:59
「サガミハラハラ」のコテハンで遊んでいる
粘着房>>223 >>250
>>206
「間違いない」

256 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 08:50:07
みなさん東遷だのなんだのぶっそうですねえ・・
この国は和をもって尊しとなす「大和」の国ですよ。
邪馬台国は北九州にあった確率は極めて高いですが
畿内勢力と大規模な戦いはなく、話し合いで平和的に
融合していったとみるのが自然でしょう。

257 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 09:40:11
東遷後に、畿内の幼稚な銅鐸文化が
あっというまに駆逐されているから、
かなりのぶっそうな衝突があったと思われる

258 :サガミハラハラ ◆EROBaNmQX. :2005/07/22(金) 10:41:49
俺が本物!
間違いない!

259 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 10:45:09
>>256
>北九州にあった確率は極めて高いですが

極めて低いの間違いだろ(w

260 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 10:46:56
>和をもって尊しとなす「大和」の国ですよ。

時代が違うだろボケ

261 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/22(金) 12:07:13
>>258
サガミ氏 それでは
卑弥呼共立の年代と
男王の治める七、八十年の見解をお聞かせください。

262 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/22(金) 12:27:53
>>258
サガミ氏

お手数ですが
今一度、桓霊少献の間をご説明して戴きたく。

263 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/22(金) 13:27:04
まず>>258のサガミハラハラさんおこたえください。

264 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 14:48:52
>>257
俺は銅鐸文化が東征によって駆逐されたなどと幼稚な説は支持しとらんよ。
なぜ、そらまで畿内に争いが無かったといえるのかと・・


265 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 15:13:36
大陸半島との交易を一手に仕切っていた九州の勢力が
畿内の銅鐸文化も意図的に作り上げた可能性が高い。
銅剣銅矛の恐ろしさと畿内以東の勢力の巨大さを知っていたから
九州の勢力は軍事的に優位に立つ為にもそういったものを
規制したんだと思う。

266 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 16:30:21
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
この勢力と九州主体の勢力とが激突しないわけねーだろ、
ここ研究汁!!

267 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:13:53
弥生時代の始まりが500年遡って、畿内は後進地帯だってことがわかったね。
畿内政権唯一絶対信仰はもうダメポ

268 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:23:39
俺の想像だけど九州人が少なくとも関東あたりまで人の移動、
文化に至るまで取り仕切っていたと思う。(中部は、出雲の勢力が強い)
武器使用を認めず争い事も禁じていたのでは?
しかしそれが裏目にでて出雲勢力の拡大に繋がった。
九州政権の最大の誤算。

269 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:32:12
近畿に関しては難波に開拓の余地があったので先住民
と争う必要性がなく棲み分けあるいは共同で国作りを
することが出来たという考え方もある。
九州の海人勢力がその辺移民とか調整をしていたのではないか?
関東も似た状況で殆ど沼地だった地域を開拓していく作業で
争う暇も無かったように感じる。

270 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:37:32
柔軟性の高い先進的な平地の縄文人は新しい農耕文化を受け入れながら
融合していった筈です。山に住んでいた勢力とも棲み分けが
あり大きな衝突は無かったと思うね。

271 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:44:51
そもそも縄文時代の後期はドングリ拾ってきて狩猟しているような
原始人の生活とはかけ離れた文化的生活を営んでいるわけで
稲作の必要性とか交易品の重要性を認識していた後期の縄文人は
我先にとそれに飛びついて行ったでしょう。

272 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/22(金) 21:59:40
どうして東征や東遷に固執するのでしょう。
「記・紀」からのソースと思われるが

273 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 23:28:18
単に畿内の大王の祖先として神武の「東侵伝承」が有ったに過ぎない。
松平家発祥伝承のように、かなりショボイ話。
遷都話でもなく大征服話でもない、只の悪党侵略話。

274 :元祖プラム:2005/07/23(土) 00:36:53
なんらかの東征はあったとみて問題ない。
倭人伝ばかりに目が眩んで記紀がソースだとトンデモ扱いとは
馬鹿の標本プラムらしくてよろしw

275 :元祖プラム:2005/07/23(土) 00:38:46
宇佐説なんて馬鹿認定w

276 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 06:16:58
>>274 >>275
貴方ですか
あちこちで、他人のコテハンを使用して荒らし回っているのは
楽しいですか?
悲しいデスネ

277 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/23(土) 06:45:23
>>276

別に構いません。
使いたければ、使えばいいよ
>>274-275
神武東征は、どうみても「記・紀」の中でもネタ話だろう
この内容を史実として受け止めるには、かなり困難じゃ無いか
もし、どうしても史実であると言うなら
「ご説明」下され
私、《馬鹿の標本》なので

278 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 10:17:21
神武説話が、まったく架空の話なら、もっと立派に書けばよい。
なんで兄弟が戦死し、モロ負け敗走したなどどと描写するのだ?
威風堂々と畿内全領域を一発制覇と描けばよし。

279 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/23(土) 11:39:15
>>278
もうすぐ皇紀2700年
記紀編纂時が皇紀約1300年神武東征の記録がよく残っていたね

280 :元祖プラム:2005/07/23(土) 16:07:50
おまえが嫌われのは馬鹿のくせに背伸びしすぎるからだよ

281 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 16:09:34
喧嘩するなw

282 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 16:58:26
神武よっぽどうれしかっただな
「撃ちてしやまむ」とかいって
3回も小躍りしてるしw

283 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/23(土) 19:53:46
邪馬台国小城説宣伝強化期間中

邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。
末ロ国(唐津市)から記述どおりに東南に500里(33.7km)進み、伊都国(多久市南多久延寿寺)に到着。
そこから東へ百里(6,75km)で不彌国(小城市不二町)。邪馬台国はそれに南接してありました。
卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡です。

284 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/24(日) 00:50:23
>>280
別に嫌われても構わないが。
>背伸びしすぎ
じゃあ 背伸びの境界線を示してくれ
それに 貴方がこのスレ主なら スレ主の言葉として尊重するので こんりんざいこのスレに近ずかないよ
>>280 貴方がこのスレ主なんだね!

それなら私は異存なしです。

285 :1:2005/07/24(日) 01:00:33
>>284
違います。
いろんな方の意見が聞きたいので
どうぞ、書き込んで下さい。

286 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 10:01:17
邪馬台国は大和。
狗奴国は熊襲。

残念ながらこれが現実です。
邪馬台国が九州にあったなら
その当時の日本は邪馬台国と大和朝廷の
2大勢力が並存していたことになるが
倭人伝の記述や考古学上の物証から判断するに
すでに九州も大和に併呑された後。


287 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 10:59:45
>>286

>倭人伝の記述や考古学的物証

それは具体的に何かな?

288 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 11:33:11
なんてったて中国人の祖先が残した資料だし。
それ程、信用おけません。

289 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 13:44:04
畿内説は古墳のでかさだけで判断してる気がする。

290 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 14:21:29
隋あたりの書物に邪馬台国=大和朝廷と書いてあるし
倭人伝にも邪馬台国が九州だったら畿内勢力について
もっと大きい描写があるはずだし、考古学的にも
3世紀の畿内の物が九州から出土。もうほぼ間違いなく
邪馬台=大和で決まり。九州だなんて言ってるのは基地外だけ。
卑弥呼の時代はすでに大和朝廷の初期段階とみるべき。


291 :圭角:2005/07/24(日) 14:35:38
お邪魔します。良いスレタイトルですね。九州説バンザイ。そのついてですが、
プラムさんこんにちは。最近は偽者も出現してるみたいですね。以下,九州説
補強のために一言。
世世王ありて、みな女王国を統属す、につきまして。
 白川静先生の字通で統属の意味をあらためて引きましたところ、所管を治める
とありました。また、大漢和辞典を蔵書している知人に頼んで、統属を調べたら
所属の宮司を統べ治める、とある由であります。さて、そうなりますと、従来は
世々王あるも、みな女王国に統属す、という読み方よりは
伊都国には代代王が居てみな女王国を統属支配していた、ということになります。
なんとなれば、かくなる其の国も倭国も卑弥呼が共立された地域領域も、よけい
北部九州説が色濃くなるものと考えます。
 ついでに倭人伝の信憑性に大いに疑義ある人は外交記事年次を倭人伝と帝紀とで
比較参照確認なさったら如何でしょうか。それと、他の正史と違いは正史の著者が
生きた時代つまりは現代史を記しているという点にも注意すべきと存じます。



292 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/24(日) 15:05:26
偽者ですね
「嬉しいような困ったような」 その対策に(トリップ)を付けてみました。
圭角さんも(トリップ)対策いかがですか?

ところで、
「世々王…云々」の事ですが 私も以前から
「伊都国の代々の王が女王の居る国を、前から統属していた。」
と、解釈していましたが
先日、住人諸氏より「間違った解釈」と言われ困っていたところです。

293 :圭角:2005/07/24(日) 15:22:29
プラムさん、しかしまだ、松本清張氏、長奥野正雄氏、阿部秀雄氏くらいで
少数派みたいですね。ただ私は白川先生は信頼尊敬していますので、自分は
そのように解釈しています。字通は凄い辞典だと存じております次第です。

294 :◆s6lHoJ82zo :2005/07/24(日) 20:59:27
あのー、素人の上ぶしつけですが
私が一番最初に原文を読んだ時、「世有王、皆統属女王国」の「統」を後ろの「属」とくっつけずに副詞的に「〜はすべて」と読んで

世々王有り、皆「すべて」女王国に属す。

と読みました。この可能性はないのですか?
現代中国語で「統統」などといえば
「〜すべて」という意味で使ったりするので、こっちの方が自然に読めたのです。

まあもちろん現代漢語と違うことは分かってますがw
ちょっと疑問に思ったもので。

295 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:01:30
邪馬台国はすでに畿内で決着してるんじゃないの?


296 :歴史の真実:2005/07/24(日) 21:19:00
神武天皇=中国新朝の残党の隊長。
畿内大和政権の誕生は1世紀。
卑弥呼はヤマトトヒモモソヒメ
応神は任那の傭兵隊長。


297 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:51:19

またまたキチガイ登場!

298 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:52:27
>>295
そのとうりです。

299 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/24(日) 23:10:50
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は小城公園の桜ヶ岡にあります。

邪馬台国小城説宣伝強化期間

300 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:22:53

ウザイ。

301 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:48:59
>>298
× とうり=党利・桃李
○ とおり=通り

302 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 00:10:12
>邪馬台国はすでに畿内で決着してるんじゃないの?

  それは脳内邪馬台国。阿蘇山も金印も九州。

303 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 03:25:34
>>302

アホか。金印は時代が違うだろ。

304 :16歳中卒:2005/07/25(月) 09:45:36
2世紀の倭国大乱とやらが
九州・畿内をも巻き込んだ
西日本全域における覇権争いだった。
それまでは九州は九州で。
畿内は畿内で。それぞれ共存共栄してた。
そして長年にわたる戦いに疲れて
倭国全体で会議を開き、卑弥呼を共立王にして
戦いは終結したと。卑弥呼のいた邪馬台国は
おそらく畿内だろうけどそれははっきりいって
たいした問題じゃない。九州であったとしてもいい。
重要なのは卑弥呼共立の時点で九州・畿内に渡る
西日本連合国家体制ができあがったということ。

305 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 11:23:46
>>304

>西日本連合国家体制

ナンジャそりゃ

>畿内でも九州でも、どちらであっても

ナンジャそりゃ

306 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 14:38:02
>>305
16歳中卒にしてはしっかりした意見です。

307 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/25(月) 15:38:55
ヒッキーなので暇なんです。
学校行かず歴史本や推理小説ばかり読んでます。
というのはさておき、107年に倭面土国の
師升という王が九州連合の長として
中国に朝貢しています。つまりこの時点では
まだ九州は九州、畿内は畿内で別個の勢力だったということです。
そして2世紀後半になると倭国大乱が起こります。
仮にこれが九州限定だったとしても畿内にとっては
まさに漁夫の利を得る好機だと思い、九州が乱れてるのに
乗じて、いっきに九州に侵攻したはずです。つまり
こういう流れで西日本全域が争う時代に突入し
この戦いを終結させる手段として卑弥呼が現れるわけです。
というのが若輩の僕の意見です。邪馬台国の場所は
おそらくマキムクです。残念ながら九州だとは
思いません。理由は地理的な要因。仮に北九州が
邪馬台国だったとすると、外国から簡単に中心部への
侵入を許してしまいます。畿内に中心部を置いたほうが
安全です。

308 ::2005/07/25(月) 15:46:22
巻向ならば朝廷の近隣のため、記紀に女王国の情勢が多大に載るはずだ。
それが無い。ということは、九州に女王国があったということになる。
シャーロック・ホームズのつもりで再考しな。

309 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/25(月) 15:53:26
重要なのは邪馬台国の場所ではなく
卑弥呼を中心に始めて西日本がまとまったと
いうことだと思うわけです。
なので天照大神=卑弥呼が最高神として
崇められてるのではないでしょうか?
神武東遷に関しては、3王朝交代説を支持し
応神天皇のところで王朝が代わってると思います。
おそらく九州の一派が東征して畿内勢力に勝ち
政権を奪取したのでしょう。それを暗示してるのが
神武東遷だと思います。

310 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/25(月) 15:55:36
>>308
記紀には邪馬台国・卑弥呼は誇張して載っています。
天照の神話として。なので大和朝廷では天照が最高神なのですよ。

311 ::2005/07/25(月) 16:00:02
日神は卑弥呼姫にあらず。全然別のお姫様だよ。
中学生では大した論述です。
さて、何故か?記紀の記述をみて一目瞭然。すなわち時代がはるかに離れている。

312 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:01:30

>すなわち時代がはるかに離れている

時代は捏造したに決まってるだろボケ

313 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:14:31
http://www007.upp.so-net.ne.jp/jkodaisifukugen/fileKodaisiNenphyo.html
完璧とまではいえるかどうか?分かりませんが、この方凄いです、
一読おすすめ

314 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:24:58
>313

何も表示されないんだけど・・・

315 ::2005/07/25(月) 17:26:10
>>312 どういう理由で捏造か?
太安萬侶とお前様とどっちが信用できるか?
当たり前だ。太の方だ。太は古事記の前文で偽を削る旨特段の説明をしておる。
それでも、確かに間違いは出ているが、お前様のほうがずっと信用できない。

316 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:26:50
漏れはおそらく、正史、神話から卑弥呼は豊前あたりだと思ってるが
問題はそういう場所を比定することではなく邪馬台国の
範囲、政治的な統率力、性質(民族とか人種、文化)が
重要だと思うわけだ、だから最初から邪馬台国の場所がどこ
そこであるという事ばかりに拘ってもあまり意味はないんだよね。

317 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:28:14
オペラでは表示できるよ、ブラウザ変えてみて。


318 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:33:32
>>315

キチガイが多くて困るよ(w

319 ::2005/07/25(月) 17:36:55
太安萬侶はキチガイではない。

320 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:37:40
サガミハラハラ氏の小城も邪馬台国であるかはともかく
古代史の重要な謎が隠されているとは言えそうだね。

321 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:41:21
>>317

やっぱ見れないや

322 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:46:50
野道事務所(代表 野間口道義のまくちみちよし 1934年生 
鹿児島県出水市出身東京大学文学部哲学科卒。)は日本古代史復原事業
を開始しました。野道事務所は日本古代史復原作業の全行程記録をこの
ホームページに公表しています。日本古代史復原作業を克明に記述
している「委奴國志(いどこくし)− 新古事記・日本古代史復原 −」
をぜひ一読して下さい。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/jkodaisifukugen/index.html#nomichiJ

323 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 18:22:55

空白のページとか表示されて
なにも見れないよ。

324 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 18:26:02
もう、弥生時代とか縄文時代とか幼稚な時代区分はやめてほしい
思考停止に陥るだけだ。

325 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 18:48:41
www007.upp.so-net.ne.jp/jkodaisifukugen/index.html#nomichiJ
これでもはりつけてみ、2chのエロページ排除してるせいだろ。

326 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 19:04:45
>>324
政治的なゴマカシなんだよな、国内向けの。
いづれ利用されるぞ、超大国に。

327 ::2005/07/25(月) 19:22:38
>>322
その007・・・は、時代区分がかなり誤認おおく承服できないな。

328 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 21:14:48
>>327便宜上
現時点での結論を出しているせいで、多少の強引さも感じる、
それを差し引いて評価すべきかなと思う。

329 ::2005/07/25(月) 21:35:53
う〜ん。なるべくよい評価をしてやりたいが、強引度が非常に多大だ。
研究熱心さは大したもんだ。〜が、とにかくうまくない。

330 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 21:42:29
>>329
そうですね、一つ、一つみると強引過ぎる面はある。


331 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 02:07:11
>>サガミハラハラ

最近辻直樹氏の書物を読むと高天原=佐賀県大和町説があり、隣町ですね。
(大和町という地名は邪馬台国と何の関係もない)

 そう言えば吉野ヶ里にも近い。

 狗奴国=出雲、熊襲=佐賀東部〜福岡南部というのも独創的でした。

 以前は安本氏の福岡県甘木市周辺の地名セットが奈良県橿原市周辺地名セットと
偶然以上の類似性があるというので、これで決まりと思っていたのが、崩れてきま
した。

332 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 02:30:24
当たり前です、なぜ8世紀に作られた新都太宰府が邪馬台国なのかと
ミニ平城京だろうが、安本 Zくせー名前だ・・ 

333 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 02:54:38
>>332 安本氏は大宰府=邪馬台国説ではなくて、もう少し南の甘木市周辺
説ですが。

 しかしその地名セット説は捨て難いという気もします。これを発見した
のは明治時代の歴史学者だったようですが。(白鳥庫吉?)



334 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/26(火) 08:15:42
辻直樹さん
この方、唐津から乗合バスに乗り、松浦川沿いに小城にはいり、邪馬台国にニアミスをされたかたです。
その後、タクシーで高天原である背振山を縦断していきました。
もう少し、佐賀に滞在して探査していたら、彼が、邪馬台国の第一発見者となっていたかもしれません。
ホントヒヤッとしました。
どんな方だろうと思って彼のお住まいまでたずねていってみました。

335 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/26(火) 10:05:45
鏡の出土状況・8万戸もの人口を養える土地

この2つを九州説の方々はどう説明するのでしょうか?
三角縁神獣鏡の出土状況は圧倒的に畿内です。
国内産だったとしても卑弥呼に縁のある品ですよ。
8万戸もの人口が北九州に集中していたのでしょうか?
そこまでの人口を養えるだけのキャパシティが
当時の北九州にあったとは思えませんが・・

336 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 12:38:33
三角縁神獣鏡は一つの文化なんじゃないか?
北部九州の遺跡ではこれが一切でてこない場所も多い、
三角縁神獣鏡が全国共通の文化だとは言えないから
この出土量だけで推し量るのは無理がある。

337 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/26(火) 13:37:30
おそらく元となる鏡が100枚あり
そのレプリカを国内で量産したということでしょう。
権威の象徴かなにかで。
いずれにせよ、畿内から大量に出土してるし
3世紀の日本の中心部は畿内とみて
いいのではないでしょうか?

338 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 14:14:19
弥生初期、縄文後期からそういう文化があればそうといえるが


339 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 14:52:31
>>337

それで良いと思います。

340 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 15:07:08
鹿児島県に卑弥呼神社がある。




カルト爺が創ったモノだけど。

341 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 15:12:24
>>337

もっと勉強してください。

342 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 23:38:24
>>334 サガミハラハラ

私は辻直樹氏の書を読んで(数日前)吉野ヶ里が邪馬台国ではないのか、という
感想をももちました。

 安本氏の説より強引さがなくて合理的な説だと思います。


343 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/27(水) 09:45:01
280年代に朝鮮に出兵してますし、
九州邪馬台国が出兵したとすると
自国の兵力を他国に向けることになり
自国の防衛力が低下。畿内勢力に
つけいる隙を与えるだけです。
また畿内政権が出兵したとしても
九州近辺は邪馬台国の勢力下なので
これも考えにくい。つまり邪馬台国は畿内ですw

344 ::2005/07/27(水) 10:21:23
短絡的思考だなぁ・・・。

345 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/27(水) 10:55:51
そうでしょうか?
まだ若輩者なのですいません。


346 ::2005/07/27(水) 11:22:40
記紀は読んだのか?女王国の具体的記述が多大になければならぬのに、殆ど掲載されて
いないのだ。畿内にあったのならば、大和朝廷の近隣なので女王国の詳細がう〜んと
記紀に記述されるはずだ。それが1ページもないのに畿内にあるといえるか?
そんなはずはないだろう?記紀の編者が真近の女王国を秘匿する必要はないし、よもや
あったとしても、畿内周辺の住民からその存在がさらに外周の人々へと、その存在が
伝達されるのは妨げられない。だから、女王国が畿内にあったとはとうてい考えられない。
半ページも記載がないということは、女王国の情報の量が編者側に殆ど無かったという
ことだ。ということは、情報の届かない大和から非常に遠隔の地に女王国があったという
考察にいたるのが当然の帰結である。だから女王国は九州にあったと観るのが正なのだ。

347 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/27(水) 11:27:20
記紀に女王国の記述がないのは明白。
なぜなら征服王朝だから。
継体のところで王朝が変わっているかは微妙ですが
応神のところはほぼ確実に変わってる。
なので前代の王朝の記述など曖昧にして
いかに応神王朝が正当かを記述したのが記紀。
ゆえに神武東征とか都合のいい情報ばかりが書かれてる。

348 ::2005/07/27(水) 11:43:17
曖昧にする必要はないだろう。征服者側が敵たる女王国に打ち勝てば
相手の悪口を記紀に書けばよいだけで、歴史を曲げる必要にはならない。
逆の場合、女王国に負けたということを隠すことがあるというならば、
先のとおり、一般の多数の住民に真実は知られているのだから、秘匿は
無理であるから、存在はかくせず、女王国の記述をしておいて、自己が正当
だというように、有利に記紀に書けばいいだけのことだ。
なにも、女王国を隠匿までする必要にはならない。
さらにだ、万一それが可能でも一般の真実を知る住民が、当該政権に捕まらない
ように、その真の史実を別の書に記載して残すことをやって真実を保全することを
やってくるはずだ。そうならば、記紀以外の古史古伝に女王国の姿を大幅な頁
を使って記述するを妨げられない。しかしながら、現存の古史古伝に多数の頁を
使って、女王国を解説したものは、今のところないではないか?
だから、その万一の状況などはありえんのだよ。
以上から、秘匿など考えられない。女王国は九州にあったのだ。

349 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 11:43:33
新羅、高句麗出兵は新羅の振興勢力かあるいは旧来の勢力を支援していたか
いずれかだとみるな。当時半島も北の新しい勢力と土着の勢力が
争っていた頃だろう。卑弥呼のいた場所は日向、豊国だがこれは畿内大和の
傀儡政権みたいなもんだろ。
神武というのはとても微妙な存在。
征服勢力でもあるし、土着勢力でもある。

350 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 11:53:34
最後まで狗奴(薩摩、熊本、福岡の南、長崎佐賀)
の倭勢力は邪馬台国を承認してなかったと思うね。
豊、日向にも抵抗勢力はあっただろう。

351 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 11:56:08
畿内にあろうが、九州にあろうが、
邪馬台国っていうのは超ド不安定なキチガイ政権。
当時新羅にも同じ対立構造があった。

352 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 12:04:36
なんせ、国津神を絶対にテン高原の朝鮮人から選ぶという奇怪な
習わしを持つ集団なのだから

353 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 12:29:52
テンコロ族と倭との間で話し合いはあっただろ、しかし
倭にとててとても承伏できる内容ではなかった、なんせ
列島全土を朝鮮から覇権されるテンコロ一味で埋め尽くす方便に
過ぎなかったからである。
中世以降もかならず国司、受領、郡司は
畿内や関東のテンコロ一味から
覇権されることになる。

354 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 12:32:26
抵抗勢力を差別すること、氏名、出自を隠蔽し結束力を削ぐこと
情報・政治工作をし洗脳をすること。
テンコロ一味の陰謀

355 ::2005/07/27(水) 12:45:06
>>352
どんな名の国津神だろう?

356 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 13:06:04
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/min/1004784053/l50
日本人ってなぜ白色が好き?
朝鮮ミンジョクの色、白について語りませんか?

357 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 13:17:51
げぇ!また、アンチ韓流乃レスが書きまれている!!な〜ぜだぁ〜?

358 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/27(水) 13:20:23
万世一系を守る建前上
征服王朝だとはおおっぴらに
書けるわけないでしょw

359 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/27(水) 13:32:01
8万戸も養えるだけの土地が当時の北九州にあったのでしょうか?


360 ::2005/07/27(水) 13:55:11
>>358
いやー、書けますよ。武烈天皇の不利な話も書かれている。有体の物で大きいものほど
隠すのは困難です。まあ、小物は隠せますがね。一国というバカでかい物は隠すことは
無理。記紀には気にいらない国は悪口をかけばよいだけで、隠すことはできにくい。
無体物ならば、大きくとも隠せるものはいくらでもありますよ。ということで、
だから、記紀に超大なる女王国の記述がないということは、畿内よりずっと離れた遠方
に卑弥呼の国があったということに結論が出ざるを得ないのです。


361 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/27(水) 14:02:53
いやいやw
卑弥呼を中心に始めて国がまとまったので卑弥呼の後継者が
万世一系で国を統治する不文律がこの国で定着したんだと思うんですよね。
とりあえず万世一系はこの国の大前提。武烈天皇の悪口は書けても
天皇家が万世一系でないとはかけません。なので応神天皇のところでも
無理やり血のつながりがあるような書かれ方がなされています。
女王国の記述は記紀の中では神話の世界として完結しているでしょうね。
アマテラスの神話としてねw

362 ::2005/07/27(水) 14:06:42
簡単じゃないかい。大和朝廷が女王国をだよ、平将門じゃあないが悪皇として、正当の
萬世一系の大和朝廷に弓をひいた不届きの国だとすれば記紀に書き込めますよ。
それがない、だから女王国は畿内の近くに無かったんですよ。九州にあったの。

363 ::2005/07/27(水) 14:07:56
今日は外出しますので後日に・・・。

364 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:53:49
熊蘇、隼人の一部、狗奴国、土蜘蛛、蝦夷
と未開人扱いされている人たち
かれらはみなこの万世一系思想に刃向かったものだろう、
日本中が彼ら支配階層の敵だったに違いない。

365 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:58:36
万世一系思想は倭国征服(倭国を朝鮮天高原からの天下り族で埋め尽くす)
の大前提だから卑弥呼の時に偶々
生まれたような場当たり的なものではないだろう。

http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/min/1004784053/l50
日本人ってなぜ白色が好き?
朝鮮ミンジョクの色、白について語りませんか?


366 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 00:40:57
>畿内の近くに無かったんですよ。九州にあったの

九州なんて近い近い。何千年も前から
遠いというのは例えば中国とローマ帝国くらいの距離

367 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/28(木) 12:35:03
邪馬台国が九州では
西は中国・朝鮮
東は畿内政権
南は狗奴国

から狙われてることになりますね。大変ですねw


368 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 12:36:40
畿内政権との連合体が邪馬台国だ、だから畿内から狙われん。

369 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/28(木) 12:39:01
だったら倭人伝にもっと畿内についての記述があるはずです

370 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 12:47:36
出雲についても記述がないだろ、関東についても記述がない
日本神話には本州の様々な地名がでてくるが
倭人伝等には記述されていない。

371 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/28(木) 12:52:52
それは邪馬台国が大和国で
狗奴国が出雲で、関東は
東に倭種の国ありとかかれています。

372 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 13:12:42
まあいいや、いずれにしても邪馬台国は日本という国そのもの
秘密が沢山隠されている。そこ研究してください。


373 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/28(木) 13:33:45
別に隠されてませんよ。
隠されてるのは邪馬台国よりも
もう少し前の時代です。
邪馬台国の時代はすでに大和朝廷初期段階。

374 ::2005/07/28(木) 13:44:00
なんであなたは、記紀が女王国の記述を隠したと主張していて、>>372氏の
言う、隠されているという話を隠されていないと言いだすのか?

375 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 14:02:43
子供だからだよ、ほっとけ。

376 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/28(木) 14:04:29
日本国誕生の秘密という意味ですよ。
日本国の原型の誕生はおそらく1世紀くらいだと思っています。


377 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/28(木) 20:44:06
>>361ヒッキー君
>卑弥呼を中心に初めて国がまとまった。

それは違うぞ
「魏書東夷伝倭人」に、
【其国本亦以男子為王住七八十年 倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名日卑弥呼…云々】

と、いうことは、争乱の起きるそれまでは、男王中心に七八十年間は少なくとも国が纏まっていたと 推測出来ますな!

378 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 01:08:47
纒向で7万戸も養えたの?

379 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 08:14:14
>>377
それはおそらく倭面土国の師升を王とした
九州連合国家のことをいっているのでしょう。
そこから倭国大乱が勃発して西日本全域に渡る
争乱が展開され、そして卑弥呼が登場するのです。
想像してみてください。九州の国同士で覇権争いを
互いにして国力を弱めあってるときに畿内や吉備といった
本州の勢力が黙ってみているでしょうか?
常識的に考えればこれは九州を制圧するチャンスだと思い
漁夫の利を得るべく、争乱に加わったはずです。
九州を押さえれば大陸との交渉もしやすくなりますからね。
つまり倭国大乱とは九州だけでなく当時の西日本全域に
渡る覇権争いだったわけです。そして畿内邪馬台国の
卑弥呼を王とした体制に移行するわけです

380 ::2005/07/29(金) 08:15:52
うあっはっは〜!

381 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 08:18:14
>>378
マキムクだけでなく奈良でなら7万戸くらい
養えるでしょうね。しかし北九州で7万戸も
養えるのでしょうか?かつて漢に使者を送った
九州の奴国でも2万戸です。1世紀に最も
九州で力があった奴国で2万戸ですよ。
その3倍超の国が同じ北九州にあったとは思えません。
むろん投馬国も九州ではないでしょう。

382 ::2005/07/29(金) 08:45:09
>>379
ここは九州であるという前提のスレだよ。近隣スレが適切だね。
ただ残念ながら、畿内説は誤りですな。

383 ::2005/07/29(金) 09:54:58
>>366
現在は航空機、新幹線があるから、それは近いと言ってもまあ納得できる。
江戸住民がお伊勢参りをするのに、きわめて遠隔なのに一生に一度の大旅行。
それより、古代の人々が大和にいて九州に旅をするとなると、きわめて遥か遠方
に行く大変な難儀の大旅行だったはずだ。貴殿の言うように古代人は近いなど
とは思ってはいませんよ。現代の感覚で貴殿は主張しているだけだ。
時代錯誤の弁論だよ。


384 ::2005/07/29(金) 10:03:30
>>366
>遠いというのは例えば中国とローマ帝国くらいの距離
じゃあ私が別人になり替わって貴殿のやり方と似たような言い分をしてみましょう。


385 ::2005/07/29(金) 10:12:42
>>384 は以下のとおり。
「中国とローマ帝国とは近い近い。
 俺たちは1日幾10回も行ける距離だよ。遠いというのは地球から火星位の距離。」
                        〜スペース・シャトルの乗組員
貴殿の主張はこれと似たようなもんさ。古代人との断層が激しいのに貴殿は同位置
同程度に両者をつなげて論をしているわけだ。古代人に対応する徒歩地上人には近い筈はない。
そこに貴殿の説明のとんだ錯誤があるわけだよ。

386 ::2005/07/29(金) 10:32:32
>>366
元禄年間、江戸城松の廊下での刃傷で、江戸から播州赤穂まで事件の知らせを伝えるのに
早がけで数日かかっているはずだ。遥か古代、当時では大和から九州まではきわめて遠く
近いはずがあろうわけがない。だから、その頃では記紀への記述は、全部ではないが
わりかし近隣の(これでも遠いが)畿内周辺に内容が限定されることになるはずだ。
その遠隔性のため、九州情勢の記録が少量であるのさ。
貴殿は古代に、近い近いの新幹線電車や航空機を持って行くことのできるタイムマシン
トラベラーか?笑われるぞ。www

387 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 11:14:54
なんのために伊都国に一大卒を派遣してるのか考えれば
邪馬台国は九州ではなく畿内だとわかるでしょう。
遠すぎるから派遣してるんですよw

388 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 11:22:52
伊都国が糸島で邪馬台国が豊前だとすると
伊都国へいかずにそのまま南下したほうが早いわけです。
つまり伊都国へいくのは無駄足。
実際は伊都国から海上ルートで瀬戸内から
畿内邪馬台国へ進んでいたのでしょう。ですから
伊都国は重要だった。

389 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 11:28:27
伊都国はどの勢力にとっても重要だろ、
最後には、畿内勢力が経済力で勢力圏にした。

390 ::2005/07/29(金) 11:28:53
>>366
この遠い、近いを、お金の高い安いで説明すれば、>366氏の言い分がピントを外れて
いるのが分かるであろう。
明治大正のころは100円といえば大金、高額のお金であったはずだが、平成の現代では
缶コーヒー1本をも買えなくなっている安金であろう。それを明治大正の古話をして
いる時、高額の説明をしているのに、横から強く「いやぁー、低額ですよ。」などと
文句を言ってくるようなもので、それは、今の現代では缶コーヒーも買えられない安金
で正解の文句のようだが、一点ピントのヅレているおかしな言い草だということが、
常識ある人ならば、一発で見抜ける主張だということがわかるはずだ。
>366さん。平成は明治大正か〜?航空機電車の時代は徒歩、馬類だけの時代なのか?
俺たちをケムにまく遠近観(円金缶)で正論を曲げないでくれ。

391 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 12:32:47
邪馬台国が九州だとすると
奴国で2万戸、邪馬台国で7万戸
その他もろもろの国も合わせると
10万戸以上ですか?北九州に
当時数十万人もの人口がいたことになりますね?
ありえるのですか?

392 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:34:36
>>391
他の土地なら有り得るのか

393 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/29(金) 20:00:11
>>391
それでは、北部九州には何人の人口が可能でしょうか?
それに、大和や出雲、吉備、東海の可能人口数はどのくらいでしょうか?

北部九州に数十万の人口は当時としては異常な数字でしょう。
しかし、それは北部九州に限らず、その他の地域にしても同じような事が言えるのではないでしょうか。
地域を広げる事により、その人口が可能になるでしょうが
範囲が広がる程その数値の信憑性も低くなり 意味を成さないものになってしまいます。
「東夷伝倭人」に記載されてる(戸数)は、華人側の意図によりかなり水増しされた数値と思われます。

394 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 02:12:45
遺跡の出土状況などから推測する人口の割り出しは可能。
で、当時の人口は近畿>九州全土であるからして
倭人伝に記載されている人口の誇張云々は、可能性は無きにしも非ず
だが非常に小さい。

395 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 04:13:12
土器、埴輪等で黥面文身が多く見られる地域はどこでしょうか


396 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/30(土) 09:03:55
当時の北九州に数十万人も生活できるような
キャパシティはないと思います。
畿内大和にならあったとは思いますが・・

397 :畿内説者:2005/07/30(土) 09:26:35
>>396
3世紀の大和にもそのような生産力はありませんよ。
例えば、唐古であっても数千人規模の集落です。
まだ、全容は不明ですが、纏向でも1万人以下でしょうね。
狭い大和盆地で、唐古級、纏向級の集落が何十個も並存できるわけもないでしょう。
万戸を超える国は、かなりの広域ブロックだったと考えるのが妥当です。

それよりも、ここはスレ題のとおり「九州説」スレです。
それを無視しつづける貴方の行為は、2chでは「アラシ」と呼ばれ、
本来ならペナルティを受けるべきものです。
すみやかに「撤退」されることを期待します。

398 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 09:29:19
ヒッキー君
畿内大和には古代湖があってかなりの面積が湖の底だった。
山辺の道はその湖の湖岸にそって作られたと言う説があるくらいだ。

とてもとても北九州を上回る耕地面積はなかった。
畿内説が拠り所にしているのは近畿地方全体なら北九州を上回るのではないかと言う事だ。


399 :畿内説者:2005/07/30(土) 09:34:48
>>393

「範囲が広がる程その数値の信憑性も低くなり 意味を成さないもの」

詭弁だね。
「範囲が広がる=計測対象が大きくなる」から「精度が落ちる」と言う表現を持ち出すことはできても
「信憑性の低下」をステップに「意味を成さない」と結論づけるのは反則行為。
計測対象がどんなに巨大であっても、統計学的にはある程度の数値は常に有意だ。

400 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 09:58:47
その前に、「邪馬台国は九州であるという前提で話を進めるスレ」で、
その前提で話を進めていないお前が反則行為なんだよ(笑

401 :圭角:2005/07/30(土) 10:12:43
そもそも、倭人伝の戸数や里程記事には誇張があることを認識すべきです。
以前,九州には邪馬台国の戸数の人口を養う平野がないことを以って、近畿
だと本気で主張する著名な学者がいましたが、そういう輩は東夷伝すらも
読んでいないと推定されます。倭人伝のみならず誇張は各伝にも有ります。
 高句麗伝には
座食する者は1万人以上という記事が記してあります。
皆さんは、これを信じられましょうか。
 里程にしても同様です。東夷伝中でも倭人伝は特に誇張されています。
明帝紀には、洛陽から遼東まで四千里と記してあります。地図で確認して
比較してみると倭人伝の誇張が解ります。別に魏晋短里説などをあえて
持ち出す必要もなくなります。
 私は再々申し上げておりますが、倭人伝は東夷伝そして帝紀と比較参照
して解釈して、そこに誇張があるという前提にて勘考すべきと存じます。


402 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/30(土) 10:46:52
里程や人口については曖昧すぎるので
とりあえずおいておきましょう。
しかし水行10日陸行1月 といったような
記述は信憑性が高いと思いませんか?
里程や人口は誇張されてるかもしれませんが
こうした日程を誇張するとは考えづらいです。


403 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 12:40:37
>>402
その、行程日数も大きく分けて二つの説が有ることは君も、知っていると思う。畿内説諸氏は、その基点を(伊都国或は不彌国)とし、九州説諸氏は概ね(帯方郡)を基点に、(水行十日・陸行一月)としている。
その辺りの問題解決をせねばなるまい。

404 :圭角:2005/07/30(土) 14:50:01
恐縮ですが、皆さんに提言がございます。
このスレは、邪馬台国が九州に在ったとして話を進めるスレ、なのであります。
したがって、すでに一応、皆さんの邪馬台国の九州内の候補地については、書込みは
済んだと存じます。
さすれば、邪馬台国はどこですか、という別のスレもあることですから、ここでは、
邪馬台国ヤ狗奴国のその後のゆくすえについての皆さんの見解を聞きたいものです。
 九州説を基にすれば、次のいずれかもしくはその他になるでしょう。
@女王国は狗奴国を屈服させた後、畿内に東遷して大和政権を立てた。
A狗奴国が女王国を滅ぼして東遷して大和に入った。
B女王国も狗奴国も第三の移民族に征服され、彼らは東漸し大和を併せて統一政権を
 樹立した。
C九州邪馬台国は消滅して別な大和国なる政権が大和に成立した。
つまり、このスレを邪馬台国は九州とした前提の下での、邪馬台国は大和朝廷になった
のか、について皆さんの熱い想いをお聞きしたいのでありますが−−−。

405 :圭角:2005/07/30(土) 14:55:26
ちなみに、小生はCであります。

406 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 14:57:47
     / ̄ノノノ ̄\
    (     \  / )
    |;;;;;   ー@-@-)
    (6     (_ _)  )
     |  ∴ ノ ○  ノ  <http://kimunaru.tripod.com/
  / \ ____ノ
 /      ヽ ........;;;. ヽ
/   ,ィ -っ、       ヽ
|  / 、__ う 人  ・ ,.y  i
|    /        ̄ |  |
ヽ、__ノ          ノ  ノ
  |  ヽ    x    9  /
   |   ヽ、_;;;;;;;;;;;;;_,ノ彡イ
   |     ;;(::υ::);;   |


407 :16歳中卒ヒッキー:2005/07/30(土) 17:12:39
>>403
帯方郡から水行10日陸行1月で北九州に邪馬台国が
あったとすると、水行陸行合わせて考えると
水行10日?熊本あたりにいくんでしょうか?
そこから陸行1月??どこをさまようのでしょうか?w


408 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 17:42:03
博多、甘木と回ったが彼らに朝鮮人の血は殆ど流れてないと
実感した、倭奴そのものだ、古代から全く変わってないかもしれない
人種的にはポリネシア、マレーよりアイヌに似ている。
後は中国人か?呉越あたりの奴らか?
色黒、ちび、目ぎょろ、眉毛ふとっそんなのばっかり。
孫も半島の倭人の末裔かもしれんなリアル朝鮮人とは違いすぎる。

409 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 20:49:09
圭角さん
私も、Cです。
>>407
私は、水行十日で倭国(常駐地)に到着し、邪馬壹國(女王之所都)へは、その日の内に行ける所にあると、想定しています。

列島内で、陸行一月も必要とする所は考えられないでしょう。
舟が最大限いかせる、細長い島国ですので
すると、この陸行一月は、日本列島内での行程では無く、(半島・大陸)での行動と推測します。
「あくまで、水行十日陸行一月を基準にした考えです」

410 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 20:56:54
>>407 帯方郡から狗邪韓国までが7000里で邪馬台国までが12000里が正しいとする
と狗邪韓国から邪馬台国まで5000里、対馬、壱岐の2000里を差し引くと残り3000里
これでは奈良大和まで行き着けるはずがないと思う。(比例関係から見て)

 3000里÷30日=100里/日(短里として一日10km以下)水行10日+陸行一月とすると
一日当り陸行は10kmをかなり下回る程度になり、古代の旅行速度から見れば妥当
な線ではないかと思う。

 瀬戸内海を通ってきたのなら対馬、壱岐、松浦と同じような途中の大島の描写が
欠けているのが不自然だ。特に淡路島、明石海峡の描写がないのは淋しい。
 

411 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 21:31:39
>>410
>当時の旅行速度が一日10`程度が妥当

どのように割り出した数値でしょうか?

412 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 21:50:00
魏の使者は伊都国までしかいってないんですよ。
そこから先は伝聞できいただけですよ。
畿内まで遠いですし、外交は伊都が担当してますしね。
おそらく伊都国で邪馬台国へは水行でこのくらいで
陸行でこれくらいかかり、その情報をもとに
伊都国から邪馬台国までは異なる里程測定方法で
記述したものと思われます。なにしろ先入観で
倭国は南に連なる島国だと思ってたくらいですしね。
我々の価値基準で考えても答えは出ませんよ。
当時の人達と我々の常識は違いますから。


413 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:15:53
>>411 東海道五十三次が500kmとすると一日10km弱になることを参考に
しています。

 東海道のように整備されていない前を行く人が見えないジャングルのような
古代の道路を魏の使者が大名行列のように旅行したのなら、その程度では?



414 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 22:26:17
>>412

>使者は伊都国までしか行ってない

では、「倭王」は何時も伊都に常駐してるか伊都が倭王都なのですか?

415 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 22:34:34
魏の使者が邪馬台国へいったとしても
伊都から邪馬台国までの里数がかかれてませんし
おそらく日程から狗耶韓国から伊都までの測定方法とは
違った方法で計った場合12000里ということですよ。
おそらくこの時代、里数測定方法の変更かなにかがあったはずです。
そうとしか考えられない。ってか正直よくわかりません。
若輩者なので勉強不足でした。

416 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 22:37:09
>>413
舟で来た使者が、わざわざろくすっぽ整備されていない陸路を一ヶ月も掛けて道中する意味がわかりません。

417 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 22:40:04
415はめちゃくちゃな文章でしたw
すいません。カットしてください。
つまり僕が言いたいのは投馬国までの水行とそこから水行10日陸行1月を
3000里だとしていたとすれば
やはり魏の使者は正確に伊都〜邪馬台国までの距離を認知しておらず
日数から逆算して里数を割り出したのではないでしょうか?

418 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:45:14
>>404 安本説の九州甘木市を中心とする地名群と奈良地方の地名群の一致または
類似は首都移転と見られるという考えは説得力が大きいと思います。

 @またはAに一票



419 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 22:56:45
僕はまあこのスレの趣旨に従えばCが
1番僕の考えに近いかな。
そもそもなんで東遷なんてする必要性があるのですか?
畿内を制圧するにはそれ相応の兵力が必要となります。
それと同時にちゃんとした補給も確保されていなければ
話になりません。補給路が九州〜畿内では長すぎますし
大兵力を海上輸送で大兵力を長期的に食わせるだけの
兵糧輸送能力があったのでありましょうか?
また邪馬台国VS狗奴国の戦は相当激しかったみたいですし
その後、東遷するほどの力があったのか疑問です。
また大規模な兵力を東遷に向けることで自国の防衛力が
低下し朝鮮か中国に攻め込まれたら一貫の終わりです。
そういう意味で大陸に近い九州は危険なのです。

420 ::2005/07/30(土) 23:01:37
>>419
下段3段分の意味するところは、女王国が九州だからこそ直通の中国魏史・・・に
女王国の話がストレート的に載ったという論拠の一つになってる。

421 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:12:36
>>416 邪馬台国が内陸部にあったのなら歩いていくしか方法が無いのでは?

 しかし九州の中で一月歩くとすると一日10kmとすれば300km弱になり、
どの方面へ向かっても海に出ることになるので一里55m説を採って165kmと
すれば何とか内陸部に納まると思います。この場合は一日5.5kmしか進ま
ないというのが難点ですが。一月ぶっ通しで歩くのではなく休憩しながら
歩くと考えれば、一日10km程度でも構わない。







422 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:25:55
>16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc

そもそもなんで東遷なんてする必要性があるのですか?

そもそもなんで引篭もりなんてする必要性があるのですか?

423 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 23:28:23
>>422
学校なんていってくだらないことに縛られるより
1人で動いてやりたいことやったほうがいいからですよ。
バイトや読書やゲーム、あと勉強のペースも
自分で決めれますしね。

424 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 23:29:30
ただ今は勉強と読書とゲームしかしていない
ヒッキーですがねwバイトもしないと親にしかられる・・

425 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:33:39
>>423
お遍路さんに行ってお姉さま方と立川真言流の修行をしなさい。
「六根清浄煩悩即菩提」と唱えながら。

426 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:41:27
中華体制なんていってくだらないことに縛られるより
知恵遅れの住民がいる東に動いてやりたいことやったほうがいいからですよ。
国内戦争や支配体制の確立、あと首都のスペースも
自分で決めれますしね。

427 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 23:47:12
>>421
それじゃぁまるっきり、数字のツジツマ合わせですよ
>ヒッキー君
引きこもり生活は、人間しか成し得ない行動だよ
ガンバレ

428 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:47:29
しかし、水行十日、陸行一月は奈良としてもおかしい。大阪湾から一月も
歩くと関東まで行ってしまうのではないか?


429 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:51:21
>>428
じゃあ東京都の東大和市が邪馬台国ってことで。

430 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:54:40
だから、八幡平(ヤマタイ)が邪馬台国ってことで。

431 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 00:00:02
>>429
馬鹿だなぁ−
大和は昭和二十年(1945年)に、沖縄の海に沈んだのさ
1700年前の時代と一緒に
だから今でも論争が終結しないのさ

432 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 01:07:23
北九州の伊都国から陸行一月で奈良まで歩いていくというのも変だ。船で来たのだ
からそのまま瀬戸内を船で行く方が速いに決まっている。

 そして船で行くのなら上陸後の陸行一月は間違いだろう。

 九州説、近畿説ともに陸行一月は計算上、無理がある。

433 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 02:22:41
>>430
お呼びでない。

434 :圭角:2005/07/31(日) 09:14:41
行程里程記事の読み方について整理したいと思いまして。
 注意すべきは、郡より倭に至るには、という書き出しが行程記事の冒頭です。又
その終わりも,郡より女王国に至る、万二千余里と記していることです。つまり、
郡より倭に至るには、里数では一万二千余里、その里程を日数で示せば水行十日
陸行一月と書いているのです。
 魏書明帝紀には、里数の行程を示してからその旅行に何日かかるかを述べた文例
が少なからず有ります。
 近畿説の読み方は、郡から不弥国までの区間里数の合計に水行十日陸行一月をも
さらに加算するという矛盾を抱えた解釈論であることが判明する次第となります。

435 :圭角:2005/07/31(日) 09:56:07
東夷伝の韓伝に韓は縦横四千里と記してあります。
郡から釜山近傍の狗邪韓国までで7000余里。これは妥当と言えます。
狗邪韓国から対馬国まで    1000里
対馬国から一支国まで     1000里 
一支国から末櫨国まで     1000里
末櫨国から伊都国まで      500里 以上ですでに10500里。
ところで、奴国を博多とし、伊都国を前原とし、末櫨国を唐津とすると
伊都国は末櫨国と奴国のほぼ中間に位置します。
 以上から、郡より倭もしくは邪馬台国または女王国の国境たる狗奴国との
境までの里程里数は一万二千余里であり、その行程にかかる日数旅程で示すと
水行十日陸行一月と解して、なんら不自然はありませんし、かく読むべきに
無理もありません。 


436 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 10:01:47
よめた!よめましたよ。
おそらく海上移動の距離は12000里の中に加算されていないんです。
陸上移動での総距離が12000里なんです。
ですので伊都国から海上移動で投馬国、さらに海上移動で大阪にいき、
そして残りの1500里陸上移動して畿内邪馬台国に到達するわけです。

437 :圭角:2005/07/31(日) 10:02:36
陸行一月には無理があるというご意見に対して。
 草木繁茂して行くに前人が見えないという記事からして,無理ではなく
至極当然でありましょう。
 官道の整備は八世紀以降のことです。東海道五十三次をヤジキタ道中する
訳ではないのですから。

438 :圭角:2005/07/31(日) 10:05:16
ヒッキーさんには、初めて御意を得ます。
 よろしければ、小生の書込みを読み直してくださいませな。

439 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 10:07:56
もしくは神武東征の経路同様
わざわざ紀伊半島のほうから上陸して
畿内へ入ったのかもしれません。
なぜこんなルートをとるのかは謎ですが・・
考えられることとして大阪は
邪馬台国側とは違う勢力が牛耳っていたので避けて迂回したとか。

440 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 10:11:31
>>438
読み直しましたが
12000里は陸上移動での総距離だという
僕の考えはやはりあっさり否定されるものなのでしょうか?

441 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/31(日) 10:11:38
>>434圭角さん
おはようございます。
茨城は連日の35度越えの猛暑が続いています。
今日も朝から暑いです

ところで、行程に関する先ほどのレス
大和の地を主張する諸先生方の、どの本を拝見致しても霧のベールに包まれた状態でいつの間にか、畿内に到着しています。
今回の、圭角さんのレスにも
反論レスを期待しながらROMりたいのですが はてさてどの位反論レスがあるやら

442 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 10:16:13
すいません海上移動も含んでましたね。
稚拙なレスをしてしまいスマソ。
まだ若輩者なので勘弁してくださいw

443 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 10:19:10
投馬国が鹿児島で
邪馬台国は沖縄だったりしてw

444 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 10:26:44
邪馬台国は宇佐市のあたりだよ

445 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 10:30:13
それじゃ井沢元彦さんが正しいことになってしまう・・w

446 :tociguri:2005/07/31(日) 10:42:23
>>437 歴史のど素人ですが、陸行一月というとジャングルの中としても一日少なく
とも10kmの移動として300km移動することになり、九州北岸または大阪湾から300km
移動すると九州または近畿から飛び出してしまうという難点があると思います。

一日5kmという超スローペースで何とか九州、近畿の範囲内に納まる程度では?



447 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 11:54:15
>>434 笑止!
     未来多き青少年相手に意固地な年寄りの与太話は迷惑だな。
 
『郡より倭に至るには、里数では一万二千余里、その里程を日数で示せば水行十日
 陸行一月と書いているのです。
 魏書明帝紀には、里数の行程を示してからその旅行に何日かかるかを述べた文例
 が少なからず有ります。』

あなた、ちゃんと原文も引用しなさいよ。
路程記事の記載は、『自郡至女王國萬二千餘里』
日程記事は『南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月』

文中の「女王之所都」は単なる補足説明なので、一連の文章は、
「(A地点から)南に水行十日、陸行一月で邪馬壹國に至る」と書いてあるだけだ。
路程記事では「自郡」と出発点が明らかだが、日程記事では省略されている。
しかし、俯瞰的には「東南」とイメージされている倭地の王都の説明なのだから、
方位説明で「南」にと表現されている以上(A地点)が「郡」であるわけがない。

まだ、それでも「郡から」と強弁を続けるのであれば、同じく路程記事の
「東南至奴國百里」「東行至不彌國百里」「南至投馬國水行二十日」
についても郡からの路程となってしまうぞ。

ついでだが、「明帝紀には、里数の行程を示してからその旅行に何日かかるかを述べた文例」
とあるが、この実例を示してくれれば、それと対比することにより434氏の倭人伝の読解が、
激しくトンデモであることがよくわかると思う。

ちなみに、俺は正義の味方でも何でもないので、こういう輩を退治する気は無いが、
無垢な青少年諸氏が、この手の手合いに引っかからないように一つのサイトを紹介しよう。
↓ここで勉強してデムパ諸説に対する耐性を鍛えてくれ。
 ttp://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/shosai/menu02.html

448 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 12:30:56
>>447
では貴方が(ヒッキー)に説明してあげなよ。
正しい読み方と結論を

なければ、貴方も>>434と五十歩百歩だ

449 :圭角:2005/07/31(日) 13:04:11
 あえて、 明帝紀の明帝の言の記事を書込みましょう。
司馬イを遼東に派遣する折の記述です。今鷹真訳、筑摩学芸文庫です。
 四千里の彼方に征伐に赴くのだから、たとえ奇策を用いるとはいっても
 やはり軍事力に頼るべきであり、戦費を安くあげ゜ようと計ってはならない。
明帝は司馬宣王に言った。往復に何日かかるか。司馬宣王は答えた。
 往きに百日、戻りに百日。

あとは、447氏もご自分でお調べになられてご確認よろしく。
 

450 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/31(日) 13:18:23
圭角さんへ、>434で述べておられます「魏書明帝紀には、里数の行程を示してから、その旅行に何日
かかるかを述べた文例がすくなからずあります。」とありますが、これは、水行10日
陸行一月が総日数と言う説には格好の例となりますので、是非その部分を、
抜書きして頂きたいとおもいます。よろしくおねがいいたします。



邪馬台国小城説宣伝強化期間
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡です。

451 :圭角:2005/07/31(日) 13:26:23
ちなみに、行程里程記事に誇張があることを重ねて強調しておきます。
帝紀には、洛陽から遼東の襄平までの里数は四千里と明記されています。
帝紀は、ご承知のとおり、正史の中の正史ですから、その四千里の記述は
正確に陳寿は記したはずであります。
しかしながら、東夷伝はいわば司馬宣王の顕彰伝でもありますから、むしろ
誇張して当然といえます。其の証拠を以下書きます。地図を参照ください。
東夷伝の里程記事に注目してください。
 高句麗伝に遼東から丸都までが千里、韓伝に韓の領域は縦横四千里と、
記されていますね。つまり、帝紀には洛陽と遼東の間が四千里と記しながら
韓の領域の一辺の距離は、洛陽遼東間に匹敵すると誇張して記しています。
 倭人伝の狗邪韓国から伊都国までの里程里数は、三千五百里と記されて
いますね。つまり、ほぼ洛陽遼東の間の里程距離と大差ない訳ですよ。
 東夷伝は倭人伝も含めて誇張されて記してあることは明白ですよ。

452 :圭角:2005/07/31(日) 13:48:26
サガミハラハラさんへ。
 奥野正雄氏の論文においても、氏はかく書いています。
魏志の中には、里数の行程を示してからその旅行にいくらかかるかを述べた文例が
少なからずあるのに、残念なことです。註2
 註2 魏書 明帝紀第三 中華書局本 三国志 一 110−111ページ

453 :447:2005/07/31(日) 14:07:36
>>449
そのセリフは明帝紀本文じゃなくて、干寶の晋紀からの引用部だね。
原文は
帝問宣王「度公孫淵將何計以待君」
宣王對曰「淵棄城預走、上計也、據遼水拒大軍、其次也。坐守襄平、此為成禽耳。」
帝曰「然則三者何出」
對曰「唯明智審量彼我、乃預有所割棄、此既非淵所及、又謂今往縣遠、不能持久、必先拒遼水、後守也。」
帝曰「住還幾日」
對曰「往百日、攻百日、還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣。」
と言う問答で後文の説明で距離は4千里だと言う記述は出てくる。
※道路迴阻四千餘里雖假天威有征無戰寇或潛遁消散日月命無常

しかし、これが倭人伝の
 南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支・・・
と言う一連の文章から「水行十日、陸行一月」の部分だけを抜き出して、それが郡からの総日程だと言い張る
ことの根拠なのか?

これは、単に距離の標記もある土地に対して、たまたま旅程日数の標記もあるというだけではないか。
しかも、日数の方は、遼東攻めに一年を要す内訳として往くに100日、攻めるに100日、還るに100日・・・と
説明しているのであって、倭人伝の読解の例としてあげるような、いわゆる地理的説明の文章ではない。

まともに相手にするに値しない、全くもって不誠実な反論だ。
私は、これで消えるので、後は好きなだけ吼えていたまえ。

454 :圭角:2005/07/31(日) 14:16:48
 イマ,閑ですから、ヒッキーさんや447氏にも一度答えます。
陳寿は、まず最初に、郡より倭に至るには、と前置きして、前段の狗邪韓国から
対馬,壱岐、末櫨、伊都、奴、不弥の国々に至る行程を、水行、陸行、方位、里数で
表記しています。
 次に、後段の投馬国と女王の都するところの邪馬台国、に至る行程を水行、陸行、
日数で表記しています。
 次に、二十一の傍国名のあと、其の南に狗奴国ありとし、全行程の最後にふたたび
郡より女王国に至るには、と記して、万二千余里なり、という里数の合計を記して
います。注意すべきは、行程記事の初めと終わりに、郡より−−−に至るには、と
記しているのです。

455 :圭角:2005/07/31(日) 14:26:14
陳寿の行程記事は、その用例からみて、里数で記した行程も日数で記した行程も
両方とも、帯方郡を出発点に女王国に至る行程を記しているのです。つまり、
郡より倭に至るには、里数で示せば一万二千余里、
その里程を日数で示せば、水行十日陸行一月、と書いているのです。


456 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 14:31:59
そのようなことは前前から想定内でしたが
それでは邪馬台国は北九州になってしまうので
こうして他の可能性を思案しているのでありますw

457 :圭角:2005/07/31(日) 14:41:31
 行程里程記事の読み方においては、日数は里数に加算できない性格のものです。
あえて日数を加算しての距離とする解釈論は、近畿説の近畿説による近畿説の為の
捏造に過ぎないことが自明となります。
 そもそも,悌シュン等も張政等も邪馬台国に行っていることは外交記事から
明らかです。なんとなれば、邪馬台国までの里程里数をあえて不明として、
これを記さずに、あえてあえて、日数で十日一月と記したはずがありません。

458 :圭角:2005/07/31(日) 14:46:18
ヒッキーさん、文献解釈つまり倭人伝等を読んでのみの邪馬台国の位置は
北部九州説にしかなりませんよ。
だからこそ、畿内説者は北も南も無視歪曲して、前方後円墳とばかり強弁
している次第なのですよ。

459 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 15:24:03
倭人伝の解釈ではたしかに北九州になりますね。
まあこのスレも北九州にあることが前提なので
では邪馬台国が九州だったとしてその後どうなったのでしょうか?
僕の考えでは応神が邪馬台国の末裔で
それで東征して崇神王朝を倒したと思うのですが・・
あくまで邪馬台国が九州だったらの話ですけどw

460 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 15:25:20
梁書に
「其南有侏儒國、人長三四尺、又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。」
黒齒国と裸国が倭を去る事4千余里にあって、船で行けば一年位で行けるだろう。
と記述されている。
実際の距離と掛かる日数を同時に記述した例だ。


461 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 15:28:17
4000里で1年とかめちゃくちゃじゃないですか?w
だったら12000里の邪馬台国へは何年かかるんdねすか?w

462 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 15:34:20
倭国を周旋すれば5000里だと言ってますし
もうわけがわかりませんw

463 :日本@名無史さん:2005/07/31(日) 15:46:43
梁書の例は、わかり易いですね。
距離と日数が連記されてるんですね。
それに引き換え、倭人伝は、文中の二カ国(投馬国、邪馬台国)だけ日数が載っていて、
その内の一カ国(邪馬台国)についてだけ文章の最後に距離ががくるんですかあ。
なんか、とてもわかり辛いですね。
昔の中国の中の人って、とても文章読解に苦労したでしょうね。
例えば、隋書を書いた人なんて昔の倭人のことを「夷人不知里數、但計以日」なんて言ってますから
きっと、魏志倭人伝を読んで倭人は邪馬台国までの距離も説明できないんだと思っちゃったんでしょう。
科挙を通った人たちにしてからが、これだから僕達が読みこなすことなんて不可能だよ。
それなのに、魏徴が読み間違った難文を見事読解してしまう凄い人が2チャンにはいるんだなあ。

464 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/31(日) 16:36:50
圭角さん即座の解答ありがとうございます。
ただちょっと物足りないです。

465 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/31(日) 20:35:06
107年倭国王使帥升等が朝貢した。
それから倭国は七、八十年後漢朝(楽浪)の支配下の元男子王の治世が続いたが、桓霊の乱れた政治が原因で倭国においても国が長期に渡り乱れた。
半島では、黄巾の乱に乗じ公孫氏が半独立政権を樹立、204年に帯方郡を設置、韓をその勢力下におき、以前より郡の仕事である倭の支配にも乗り出した。
国乱れる倭に卑弥呼を擁立し、諸国の首長を黙らせた(女王共立)
238年公孫政権が滅亡すると、女王卑弥呼はすかさず(魏朝による事前工作)魏に朝貢
死後、国が一度乱れるがすかず郡よりの告喩により、壹與を擁立

466 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/31(日) 21:01:54
壹與を擁立し、安定を取り戻した倭国も
265年魏王朝が消滅するころになると 安定していた倭国も、各首長達が独自の行動するようになり
王朝消滅(魏王朝との冊封体制の解除)をきっかけに、
壹與政権もその統率力を失った。
記録上AD57年より約200年続いた第一次冊封体制も壹與政権消滅を期に中国史書より一時的にその姿を消す

467 :tociguri:2005/07/31(日) 23:12:50
>>461,462
 黒齒國、裸國というのは印象としては沖縄の風聞ではないか?

 倭国周旋5000里は倭国が九州だとすればまあまあ妥当(郡から狗邪韓国7000里
との対比)で、本州とすれば少な過ぎるのでこの記事からも倭国は九州にあった
ものと推定できると思う。




468 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 00:44:28
>>437
徒歩のばあいの所要日数については、現在の常識とは全く違って、道ではないところを
進まざるを得なかったはずだし、往きも帰りも、土産物を持っていたわけだから、余計
に日数がかかったとしても不思議はないですが、半島中部西岸との行き来では必ず船を
利用しなければいけないのだから、なぜ、山陽道なら山陽道を、わざわざ歩いていくのか?
という、合理的な説明が成り立ちにくい謎が生じてしまうわけですね。

469 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 00:55:43
>>451
「意図的な誇張」以前に、「元々正確に測量しながら進んだ可能性はないと考える
ほうが事実に近い」という事情を考慮したほうがよろしいかと。
結果として、単純一律に何倍(何分の一)にするとかいった計算はナンセンス。
数字の違いは、もっとおおざっぱに、「数字に大きな差がある」なら、それは、
「距離に大きな差がある(と認識されていた)ことを物語るだけ」、と考えたほう
が良いと思います。
人口の数字も同様。倭国で正確な国勢調査が行われていたか、正確な国勢調査を
行いながら進んだとでも考えるのでないなら、「数字自体を何らかの仮説の論拠と
するのは、ありうる事実関係を無視した間違いか、為にする歪曲」でしょう。

470 :tociguri:2005/08/01(月) 02:01:41
>>468 瀬戸内海か山陰の日本海回りで奈良へ行ったとして水行十日というだけの
記録で済むものか、途中のめぼしい大きい島のことや停泊場の記録くらいは書く
だろうと思うのですが。(狗邪韓国〜伊都国のように)


471 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 02:37:30
>>470
>途中のめぼしい大きい島のことや停泊場の記録くらいは書く
>だろうと思うのですが。

長官と副官が居る様な国(島)が有れば書いただろうが
それが書かれて無いと言う事は、途中にその様な国(島)は
無かったと言う事だろう。

472 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 02:42:27
>>455 :圭角

キチガイ ハッケーン!

473 :tociguri:2005/08/01(月) 03:35:49
>>471 四国という大きな島には長官や副官が居たはずですが何も記録がないような
のもおかしいのでは?

 瀬戸内海が「水行十日」と何事も無く通過できるような海路だったのだろうか?


474 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 04:24:30
>>470
そうですね。その点でも、そこでいう水行は瀬戸内海ないし山陰ではないと
考えるほうが事実に近そう。

>>471
途中に、邪馬台国連合の重要メンバー国があったなら、国賓に当然伝えられ
るだろうし、そういった国のほうも、まぢかを通る国賓を、何のもてなしも
せずに素通りさせるということは考えにくいから、そこでいう水行は、途中
に重要な国がある行程ではない、ということになりそうですね。

475 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 04:26:16
>>473
その点も不審。瀬戸内海ではないと考えれば問題なし。


476 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/01(月) 10:36:35
倭人伝からじゃ邪馬台国は九州としか読めません。


477 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 10:49:17
近畿説では瀬戸内航路が通説。

478 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/01(月) 12:36:11
邪馬台国が九州なのに
当時の日本の中心部は畿内。
古墳も鏡も畿内にある。
とすれば考えられるのは
邪馬台国は畿内政権の出先機関。
後の時代の鎮西探題のように
九州を統括するべくもうけられた機関だった。
そこに派遣されたのが卑弥呼。
こう考えれば一応のつじつまは合いますが
さすがにこれを証明するのは無理がありますねw



479 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 12:39:10

>畿内政権の出先機関。

伊都国がそれです。

480 :tociguri:2005/08/01(月) 14:06:11
後の隋?のハイセイセイは瀬戸内を通って来たらしいと分かるような文章
だった。朝鮮通信使も瀬戸内経由だったが、魏志倭人伝には瀬戸内航行の
印象が全くない。





481 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 14:43:07
>印象が全くない。

「全くない」って事は無いだろ。


482 :tociguri:2005/08/01(月) 14:53:30
>>481 水行十日…これだけでは瀬戸内海経由という印象は感じられない。

 対馬や壱岐に渡る時の「渡海」を使うのが自然だと思う。

 マツロから陸行一月で奈良まで歩いて来たというのもあまり合理性がない
と思う。


483 :tociguri:2005/08/01(月) 15:03:18
郡から邪馬台国までの12000里のうちマツロまで10000里かかり残り2000里
で邪馬台国に至るのなら邪馬台国は北九州か山口県にしか存在しないだろう。


484 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 23:20:23
>>482

>「渡海」を使うのが自然だと思う。

いや、陸地に沿って航行したでしょうから「水行」の方が自然でしょう。

485 :tociguri:2005/08/01(月) 23:43:46
>>484 そう言えば郡から狗邪韓国までは「循海岸水行、歴韓国」ですね。

 瀬戸内にも「循海岸水行十日」と書いてあったら大和説も現実味があるのですが。



486 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 00:07:45
「循海岸」が有っても無くても殆ど意味は同じ。

487 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/02(火) 00:36:37
なぁー
よく考えてみなよ!
舟使って遣って着た連中が何が悲しくて海を見ながら獣道を一月も歩かなければならないんだ
列島の幹線道路は今も昔も殆ど海岸沿いだよ

488 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 02:12:21

俺も厨房の頃はお前と同じこと考えてた。

不自然かもしれないが実際は邪馬台国から遠く
離れた地で下船してわざわざ海を見ながら獣道
を一ケ月も歩いて行ってんだよ。

489 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/02(火) 07:17:46
>>488
海岸沿いの獣道を一月も歩いたとする根拠はなに?
その時通ったコースはどこ?

490 :サガミハラハラ:2005/08/02(火) 08:01:49
川口浩探険隊ではない(絵を盛り上げるため、りっぱな車道があるのに、わざわざ薮漕ぎをした)ではないのであるから、歩きやすい道を通ったと思いますよ。  

491 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 08:49:29
邪馬台国東遷説の安本氏がでは正しいのでしょうか?

492 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 10:36:47

正しい分けないだろ。
彼は正真のキチガイです。

493 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 11:13:02
一連のスレで安本氏の名前を出すと必ず、条件反射的に誹謗中傷する馬鹿が現れるよな
まあ畿内論者の程度の低さを露呈しているわけだが

494 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 11:57:43
邪馬台国が九州にあったとしても
東遷はなく畿内政権に併呑されたとみるべきですか?

495 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/02(火) 12:31:17
>>494
私はそう考えてます。
経済力で圧倒的優位に立った畿内勢力
「富と力は、より富と力のある所に集まる。」

496 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 12:36:48
では宇佐八幡神託事件はどう説明されます?
なぜ伊勢神宮ではなく宇佐神宮に神託をうけにいったのですか?

497 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 12:59:00
宇佐はイ妥国(邪馬台国)の残党狩りの根拠地だったから、
いわば畿内政権の立役者。

498 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/02(火) 13:13:06
うろ覚えでわるいけど、あの神託は宇佐神宮からでたので、もう1度宇佐神宮に確かめにいったのだとおもっていますが。
井沢元彦先生の逆説の日本史に詳しいいきさつがのっていたとおもいます。

499 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:20:39
あの人学会でなんの信用もされてませんよ。史料もろくに暗記もしてないし。

500 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:51:21
井沢元彦も安本と同様に正真のキチガイです。

501 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 13:52:15
八幡というのはたしか応神天皇のことだと
聞いたことがありますし、やはり応神が我々が
歴史で習った大和朝廷の始祖とみるべきなのでは
ないでしょうか?仲哀と応神のところで血統が
変わってるとみるべきです。仲哀以前は畿内土着の政権で
応神がこれを滅ぼた。こう考えればなぜ記紀で
九州がクローズアップされてるのか?がわかります。

502 :tociguri:2005/08/02(火) 14:14:16
>>500 安本先生は統計学の大数の法則とかで、天皇の平均在位年数や近隣言語の
頭音だけ取り出して比較するという非常に大雑把に見える方法を採っているが、
それはそれで意味があると思う。


503 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 14:25:13
井沢元彦大先生は
卑弥呼を祭る霊廟があるところが
邪馬台国だとおっしゃられ宇佐神宮の
比売大神がそれだといささか短絡的とも
思える内容でベストセラーをたたき出し
儲けているようですがw


504 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 14:27:51
卑弥呼が天照大神で皆既日食で死んだとも
おっしゃられてました。アマテラスは元々男神だったと
記憶してますがいつのまにか女性になってしまっていた
ようですね。おそらく藤原不等人により改ざんが
なされただけではないでしょうか?

505 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 14:28:27
不比等でしたっけ?すまそ

506 ::2005/08/02(火) 17:46:00
>>504
もともとから姫神だよ。w

507 ::2005/08/02(火) 17:50:40
アマテラスが男神だったら、君の説では卑弥呼が男性になっちゃうよん。ww

508 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 19:13:35
男か女かしらんが
ちゃんとDNA鑑定したんだろうな

509 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 02:51:10
>>501
気比、息長とかはどう考える

510 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/04(木) 19:27:52
井沢氏は、一時宇佐説を唱えた事があるといっていましたので、今は宇佐説でないとおもいますよ。
井沢氏自身、逆説の日本史の一巻目は、将来書き換えるかもしれないといっていました。
よってアマテラス卑弥呼説も修正するとおもいます。


邪馬台国小城説宣伝強化期間
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡です。

511 :圭角:2005/08/05(金) 14:47:01
プラムさんの書かれた、当時の富と力とは、米穀食料と鉄器だと、相も変わらずに
私は思っております。米と鉄です。人口も兵力数も軍力の技術も米と鉄が始点です。
前にも書きましたが、鉄器東漸の経緯を探求することこそが、邪馬台国は大和朝廷に
なったのかを解き明かす鍵です。

512 :圭角:2005/08/06(土) 09:25:06
もっとも、大和政権は卑弥呼邪馬台国の系譜ではありません、が。

513 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 11:35:01
邪馬台国九州説晒し上げ

514 ::2005/08/08(月) 21:33:09
『阿蘇ト大分県ノ間ニ注意セヨ!!!』

515 ::2005/08/10(水) 19:21:45
よく↑を調べろ!

516 :日本@名無史さん:2005/08/10(水) 19:32:05
暗記科目=クソ科目
馬鹿があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

517 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/10(水) 19:40:27
>>513
晒し上げって、どういうところが晒しあげられるのでしょうか。御教唆お願いします.

518 :tociguri:2005/08/11(木) 17:58:35
514

519 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:17:43
きょう‐さ【教唆】ケウ‐
[名]スル■ある事を起こすよう教えそそのかすこと。
「―扇動」「法外な給料増加の請求を坑夫等に―し」
〈木下尚江・火の柱〉■他人をそそのかして犯罪実行の決意
を生じさせること。

誤用です、先生

520 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 00:39:15
御教示、ですね。

521 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 01:13:29
そんなこと言うと、拡張型心筋症で入院しちゃうぞ!

522 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 05:31:57
崇神天皇が南韓の人で期を持して邪馬台国(宇佐)を攻め落とし
その後、瀬戸内海を渡り近畿地方を平定したと言う説はどーよ。w
なので近畿地方の人のDNAは他の地域の日本人のDNAに比べ韓国人に
非常に近くゆえに近親憎悪で異常に韓国人を嫌う「西村真悟」みたくに。w



523 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 07:31:21
>>519ー521
これで、サガミハラの2CHネラとしてのプロフは、
偽りだと言うことがはっきりしたね。
自身が言うような元教師のじいさんだとは、とても思えない国語力だ。
自費出版狂の元先生は名前を騙られているだけで、
やはり、サガミハラ本人は、痴漢プレー好きの風俗オタクだろう。

524 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 09:59:59
教唆 誤用のご指摘ありがとうございました。
どこかで誰かが使っているのを、確かめもせず使ってしまいました。
定説や通説を再考もせずに鵜呑みにしているとずいぶん人のことを攻撃してきましたが、
人のことばかりいえないですね。反省します。


525 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 14:22:57
邪馬台国が歴史上から姿を消すころに
崇神天皇が四道将軍を送るんですよね・・
やはりイリ王朝に九州邪馬台国連合は吸収されたと
みるのが1番妥当な見解か・・
時代的にも畿内政権が中央集権化を進めだしたころに
邪馬台国は消えますしね。


526 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 14:59:57
今日で邪馬台国発見14周年となります。
邪馬台国小城説宣伝強化期間として小城説を喧伝してまいりましたが、ご賛同はともかく小城説の存在
をおわかりいただけましたでしょうか。
来年の15周年には、大きなイベントをと思っておりますのでどうぞよろしくお願いいたします。

527 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 15:00:49
小城ってどこですか???
相模原ってことは神奈川ですよね?

528 ::2005/08/12(金) 15:25:26
>>525
大間違い。

529 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 15:28:56
>>528
では>>525の僕の意見も間違いでしょうか?
今回は今までの皆様との意見交換を
全部踏まえた上で現時点における自分の結論を
述べてみました。

530 ::2005/08/12(金) 15:37:05
>>525 の前段は間違い。崇神の世に女王国はまだない。

531 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 15:41:33
>>530
どういうことでしょうか?
崇神天皇は3世紀後半くらいの
人なのではないのですか?
邪馬台国より前の時代の人では
つじつまがあわなくなります。
応神天皇は4世紀後半の天皇だということは
ほぼ確定されてますし逆算すると
応神より5代前の崇神は100年前くらいになるんじゃないですか?
当時の平均寿命も短かったでしょうし・・

532 ::2005/08/12(金) 15:46:59
確定?そんなのされていないぞ。だまされるなよ。

533 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/12(金) 15:52:51
>>527「ヒッキー」君

佐賀県内で吉野ヶ里遺跡の西方(向かって左側)に有るから
地図にて確認を

534 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 15:56:32
>>527
邪馬台国は九州佐賀県(福岡県の西隣り)の小城市(佐賀市の西隣り)の甘木地区(JR小城駅のところ)です。
甘木とは、天の城、つまり王様の居る所の意味かとおもわれます。
卑弥呼の墓は、駅の北の小城公園の中の桜ヶ岡です。

相模原は私の現住所です。
宣伝期間の延長を考えています。

535 : ◆ypURG809QA :2005/08/12(金) 16:17:31
>>503 16歳中卒ヒッキー 殿
>>510 サガミハラハラ殿

井沢氏は宇佐が邪馬台国だとは断言してないですよ。
井沢氏の小説「魔鏡の女王」で
「卑弥呼の墓は佐賀平野のどこかにあるんじゃないか」と
仮定している程度ですが。


536 :圭角:2005/08/12(金) 20:05:38
サガミハラハラさん。
私は、卑弥呼の塚が卑弥呼が都した邪馬台国である必然性は必ずしもないのでは、
とも思うことがあります。男弟がマツリゴトをおこなっていた土地と、卑弥呼が
カリスマを為していた土地とは、同一の土地地域ではないような気がいたします。
無論、根拠理由はありませんが、
見るある者少なく、とか、の記事や、男弟あり佐けて国を治む、とか、さらには
ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す、などの記事からすれば
そう思える次第です。
また、その俗挙事行来に云為云々の記事からすれば、卑弥呼の墓が卑弥呼が都した
邪馬台国ではない可能性も極めて高いのではなかろうか、とも想う次第です。

537 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/13(土) 08:57:32
watasiが卑弥呼の墓が桜ヶ岡であると談じた根拠のひとつは、当時の都の設計が
吉野ヶ里を例にとれば、北に墳丘墓、その南に王の住居(北内カク)その南に一般?住居
そして市場という構成になっているころから、(安本美典氏のいう甘木市は、北に甘木公園の丘群、
南に甘木の地名、さらに南に牛木(市木の訛化か)の地名)小城の構成もおなじようである(北に
桜ヶ岡、その南に甘木の地名、さらにかなり南に石木の地名がある)ことから、桜ヶ岡が卑弥呼の墓
であると断じました。また魏使も墓をみているとおもいます。

538 :圭角:2005/08/13(土) 08:59:39
魏の使節が卑弥呼の墓を見ていることは,確実と私も想います。

539 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 09:02:15
まあ邪馬台国は九州にあったのでしょう。
でその後どうなったのですか?

540 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 09:23:42
>>532
ええっー
雄略天皇=武 というのはほぼ間違いないはずですし
だとしたら倭王讃が応神か仁徳になるはずですよ・・
とすると崇神天皇と邪馬台国が同じ時代くらいですし
崇神天皇の四道将軍の時期に邪馬台国は吸収されたのでは?

541 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/13(土) 09:35:45
もう一つ下の垂仁天皇の時代かもしれません。
応神天皇の生誕は355年で確定でしょう。

542 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 09:45:14
狗奴国、大和朝廷からはさみうちにあう
かっこうになり自然消滅したのかもしれませんね。
そしていつのまにか大和朝廷VS熊襲の戦いになってる。
ヤマトタケルの時代にすでに熊襲征伐の話がありますしね。
垂仁の時代と一致します。

543 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 10:27:37
>>541 サガミ氏
>応神の生誕は355年で確定でしょう。

好太王碑・新羅本紀・日本書紀等を照らし合わせ、一年のズレを修正し、新羅出兵を読みとると、仲哀帝崩御が362年、神功皇后の出兵後の応神生誕は363年になります。
サガミ氏の主張される355年では 日本書紀を書き直さないといけなくなります。

544 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 10:40:55
壱与が死んだあたりに中国も
5コ十六国時代の争乱の時代に入りますし
中国からの後ろ盾を失った邪馬台国は
衰退していったとみるべきなのでしょうか?
つまり王の権威の低下とでもいいましょうか。


545 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 10:57:35
>>544
壹與死亡並びに、邪馬壹國衰退の記載は文献上ないと記憶します(間違いであればスマソ)
265年に魏から西晋王朝に移行し、266年に倭女王(壹與?)が朝貢
中華王朝の冊封体制は続きます。
しかし、313年に楽浪郡が高句麗に滅ぼされ、あい前後し、馬韓族により帯方郡が滅ぼされています。
これにより
中華王朝と倭の交易ラインは寸断され、冊封体制も313年までには解除されたと見るべきでしょう!

546 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 11:28:23
>>545
266年の朝貢が「女王」だと言う文献は存在しないと思いますよ。

547 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 11:34:50
>>546さん
これは、勇み足でした。
間違いの指摘感謝です。

「泰始二年十一月己卯倭人来献方物」(武帝紀)
でした。

548 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 11:47:28
>>546さん
しかしながら、
日本書紀所引の晋起所居注には、
「泰始二年」の遣使を「倭の女王」と、しています。
書記編纂時の事情でしょうか?

549 :圭角:2005/08/13(土) 12:16:41
プラムさん、九州は連日の炎暑です。プラムさんの548に関連しまして。
いわゆる大宰府のと申しますか、書記が引いている倭人伝の記録つまりは
景初二年が明帝景初三年という件などを思いますと、倭人伝が木版印刷される
までの期間、伝写に次ぐ伝写伝写にて誤記は当然生じたとして確実であると
思う次第です。
一般には、景初二年は三年の誤とされています。この点についてはプラムさん
いかがお考えでしょうか。ご見解をお聞かせください。

550 :圭角:2005/08/13(土) 12:46:01
このスレは邪馬台国が九州であるとして話を進めるスレという認識のもとに
狗奴国につきまして書きます。
狗奴国は定説通説では筑肥山地以南の熊本と比定されていますが、陳寿が、
あえて、素より和せず、と記した理由には、やはり、血の違いつまり種族
としての違いからくる長年積年の争いを想起する次第です。
まあ例えて言うならイスラエルとパレスチナみたいなものだったと想います。
古はおそらく春秋戦国から倭に稲作とともに渡来した人々がいて、北部九州
へも、中部九州にもおそらくはほぼ時を一として渡来したと想われます。
しかし、その渡来した人々の数は北部九州の方が地理経路からして多かった
と考えて自然です。なんとなれば、筑肥山地以北にも以前は勢力を有していた
熊襲の狗奴国が南に押されて行かざるを得なかったろうと想います。
 無論狗奴国は勢力土地の奪還を目指し、北部九州に侵攻した。しかし、
女王国は、筑肥山地を防波堤としてこれを防ぎ、攻撃し合った。為に、今も
筑肥山地周辺から多数の鉄鏃が出土しているのだと考えます。

551 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 12:47:23
圭角さん
茨城はどんよりと曇り空で若干過ごしやすいお盆を迎えております。

年号の誤記ですが、景初三年とする理由はやはり、公孫氏討滅の時間的関係にあると思いますし、
現在の我々よりリアルに近い時間帯で魏書を見ることの出来た、書紀編纂グループが書記の中に「景初三年」とし、朝貢記録を残した事にあると考えてます。

552 :圭角:2005/08/13(土) 13:11:17
プラムさんは、狗奴国の土地を昔に旅行されたと書いておられました。
それで少しばかり私の狗奴国伝を読んでくださいませ。
 まず江戸時代の肥後細川藩の石高は五十四万石です。石高だけからならば
雄藩ではないかとの見方もありますが、否です。細川藩の場合は天草を除く
肥後一国でその石高です。筑前黒田藩は筑前という肥後に比べたら狭小にも
かかわらず肥後細川藩の石高を超えています。
 つまり、熊本平野などと申しますが熊本市の北の土地は畑作地で稲作には
不向きな台地だと言う方が適切です。地図帳で見ると熊本市周辺は緑色にて
塗られていますが水耕地適地は以外と狭いのです。熊本はスイカの生産量が
日本一ですが、裏返せばそういうことです。博多へ高速道を往復しても、
熊本県に入ると熊本市を通過南下するまでよほど目を凝らしていなければ、
水田風景を目にすることはできません。
 例外の土地はクコチヒコの菊地市付近ですが、高速道から離れています。
熊本市の南は貝塚が多くあり、昔は稲作地ではありませんでした。
プラムさん、面白いのは、私自身が高速道で熊本県から福岡県に入ると
まさに、国境いや県境を実感して福岡県側の水田地帯を眺めては、熊本より
福岡が豊かだと本当に実感するのです。
 狗奴国の人々にとってはそれこそ垂涎の父祖の故地だったと想います。

553 :圭角:2005/08/13(土) 13:29:17
再び景初二年三年につきまして。
 私も以前は岩波版のテキストや書記引用文からして二年は三年の誤と
考えておりましたが、二年をよりリアルと考えるようになりました。
その理由については、おいおい書きますが、坂口安吾ではありませんが
歴史通説には必ずウラがあると思うからです。
 明帝紀の明帝の、いかに奇策を用いると雖も、という台詞の記事が
ありますね。それは、海船を各地で大々的に建造し、楽浪郡帯方郡から
先に接収平定して,然る後に遼東の公孫淵を討ったという単純なものでは
ないと、私は思うのです。
 明帝は韓の有力者には二郡平定後にさかんに位号を与え懐柔工作したと
明帝紀にあります。となれば、司馬宣王が自ら洛陽に凱旋する数ヶ月前に
自らの名声を高からしむる為に、二年に倭から朝貢使を仕立てたとしても
自然な解釈に思う次第です。


554 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 14:31:39
>>553圭角さん
なるほど!

以前より、魏王朝への朝貢が余りにも鮮やか迅速であったので
必ず裏工作があっての朝貢と、思っていましたが…!
それから、先程熊本のスイカ事情はよく解りますよ、茨城も地図で見ると南側は平野で一面水田風景の様ですが、実情は、大変畑作地の多い土地で
スイカ、メロン(日本一)梨、栗…etc… 等が盛んです。

それと、以前サガミ氏と卑弥呼共立年代について意見交換をしましたが
圭角さんのお考えを、お聞かせいただければ幸いです。

555 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 14:38:07
しかし、魏の使節がみたところによると倭人
野菜ばっかり食ってたらしいですね

556 :圭角:2005/08/13(土) 15:00:33
卑弥呼の共立年代につきましては、やはり私としては共立の主語に相変わらずも
こだわっております。以前のレスで東夷伝各伝つまり高句麗伝と扶余伝においては
共立の主語が明記されているのに倭人伝のみ無いから何か特殊事情が作用したのでは
ないかと書きましたけれど、皆さんのご支持は得られなかった次第です。
 さて、東夷伝韓伝の、健安年間196−220年、公孫康は帯方郡をつくり兵を
起こし韓ワイを討たせた。これ以降、倭と韓は公孫氏の帯方郡の支配を受けるように
なった、との陳寿の記述から推測されることは、三世紀初頭に公孫氏の意向を受けた
帯方郡が卑弥呼共立にかかわったと自分は推定しています。
 一時期、卑弥呼共立も司馬宣王かと疑ったのですが、陳寿は司馬宣王顕彰を基調に
三国志を記していますから、もしそうであれば、帝紀にも東夷伝にも記していなくて
はなりませんから、その可能性は無いことになります。
 したがって、公孫康が韓とワイを討った直後のことと考えられますが、陳寿がその
年次を明記していませんから健安年間の半ばと考えております。

557 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 15:11:28
倭人伝みると大和朝廷が卑弥呼を支援していたという風にみえる
奴国では大倭の役人がうろついている、みな畏れている。

558 : ◆ypURG809QA :2005/08/13(土) 15:18:44
サガミハラハラ殿ならびに皆様

え〜、小城町に行って見ました。
実際に行って見て「あること」で腰を抜かすほど驚きました。
なんであんなに集中して存在するんだか・・・・・・
まるで桜ヶ丘を囲うような、まるで結界というか・・・・・・

桜ヶ丘が卑弥呼の墓かどうかは私には判断つきかねますが、
南には佐賀西部最大と言われる土生遺跡や
東には宇佐神社があったりと
桜ヶ丘のあたりには、やはり「何か」があるとしか・・・・・・



ちなみに小城駅の職員さんに
「このあたりが邪馬台国だったという説をご存知ですか」と聞いたところ、
きょとんとした表情で
「知らんねえ、吉野ヶ里ならともかく、そげん話ば初めて聞いたばい」と言われました。

559 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 15:48:20
宇佐株式会社の佐賀支店ですね。

560 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:00:12
その後5世紀の福岡南部、熊本の装飾古墳の東北南部への広がりを
考えると狗奴国の勢力は本州にも一定の影響を及ぼしていたと思うね。
そういえば、福岡南部、熊本の無アクセントは東北南部の言葉と似てるよ。
そのずっと以前も磐座信仰が九州から東北まで広がっているわけで、
古代社会に対する認識を改めるべきだと思うね。
出雲の勢力が関東から東北に入ったのはその後だと考えるべきだよ。
その前は九州の勢力が東北の方にも一定の影響を及ぼしていたと考える
のが自然だよ。神代文字の広がりもみてみよ


561 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:19:32
>>560
神代文字なんちゃらと言っている時点であぼ〜ん

562 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:21:14
九州は極めて先進的で独自性のある文化をもっていて本州にも
影響を及ぼすほどであった、しかし何時の頃からか、大王を中心とた
巨大な権力の集中が本州、日向の方であった、これに出遅れたのが
西九州一帯の小国家群(後の女王国)、狗奴国であった。これらの地域は
本州の権力に次第に飲み込まれていくことになるのである。

563 ::2005/08/13(土) 16:23:16
ヒッキーさん
雄略天皇は武王というのは完全に間違い。
>>561
神代文字をなめるな。


564 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 16:33:04
>>558さん
暑い中ご苦労様です。
遠地に居る私には大変参考になります。

>>556圭角さん
私は、以前にもレスしたことがあるのですが
卑弥呼共立(擁立?)を204年以降とし、これは全て公孫氏の仕業と考えてます。
理由は、
@国乱を鎮静化するには当時外圧が最も有効(冊封体制の定着意識)
A239(8?)年の朝貢記事
桓霊の間時の共立なら 221年頃に魏王朝に朝貢、或は180年代に後漢王朝に朝貢した記録が記載されてるはず

魏王朝や自国の共立でない為に、公孫氏が滅びると余りにもタイミングよい朝貢により現体制を維持しようとする行動

565 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:54:27
朝貢はしても厳格な冊封体制に入っていたといえるのだろうか?
そもそも冊封とは中国の支配者を他国に送り込むことやその
影響力を行使することではない。仮にその説が正しいとして
その目的をどのようにして執行していたのだろうか?
魏の使節は倭国の独特の風習、法治体制を報じている。
しかもさほど理解しているようではない、こんな中国人に倭が
支配できたとは到底思えん。

566 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:06:00
>>563
神代文字なんてぺろぺろりんw

567 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 17:12:00
「卑弥呼以死大作冢径百餘歩殉葬者奴婢百餘人」

ここで注目すべきポイントととして(百歩・百人)だと思います。
調度きりのよい「百」という数字を使い 誇張するような表現として使われているような印象を持ちます。実際の墓は、全国レベルで考えると周溝墓に毛の生えた程度(しかし、その地域では大きな規模)
殉葬者の百餘人も、
さも、偉大な女王だったとする誇張
その様に思えてならないのですが
未だ発見に至っていないため、あくまで空想ですが

568 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:16:35
奴国周辺の人は大変だったろう、彼らも元々は狗奴の勢力だった
のだろうが、東の方には宗像のような出雲系、宇佐、辛島、佐伯のような
畿内大和系の連中もいる。

569 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:24:04
女王国の連中も渋々邪馬台国に従っていたのは見え見えだし
渋々、嫌々墓も作ったのだろう、小さい墓だと思う。

570 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:41:28
京都には韓神を北に園神を南に祀る風習がもともとありこれが
平安朝廷にも受け継がれたと言われている。
まさに韓神とは出雲朝鮮、園神とは土着を意味するのではないか

豊国の言葉は畿内語を東京アクセントにしたような不思議な言葉である。
かつての支配層の言葉だったのではないか?

571 :圭角:2005/08/13(土) 18:36:36
東夷伝の各伝をまず充分に読みそれを前提として倭人伝を吟味すべきでしょう。
女ばかりで男の居ない国があると、沃狙伝で陳寿は記している次第です。
ならば、帝紀に倭の女王卑弥呼と記している訳ですから、侍女を千人以上も
侍らせたとしても、自然な筆遣いと言えるでありましょう。
 そもそも、陳寿は漢書の班固を気取って西域伝の代わりに、曹真をボツして
司馬宣王を顕彰するために書いたのが三国志ということを忘れるべきでは、
ありません。彼が服従させた高句麗に座食する者が一万人以上居たり、また
邪馬台国の戸数が際立って多いと記したことは当然でしょうね。
 邪馬台国の使者が万二千余里の絶遠の彼方から朝貢したことは、それら全部
司馬宣王の顕彰に結びつくのです。そのことは、汝がある所はるかに遠きもと
わざわざ詔書記事にもある次第です。
 司馬イ伝は三国志にありません。彼が殺した公孫淵伝はあってもです。
つまり、東夷伝は倭人伝は司馬イ顕彰伝として陳寿が記したものであって、
当時の読書人も当然にかくなる了解のもとに読んでいたことになるのです。
 断定形の形容詞をいささか多用して恐縮です。が。

572 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:13:06
中国人が倭国に内政干渉したというのは不自然だ、
そう主張したいならもっと確固たる証拠か何かを提示して欲しい。

573 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:46:20
中央政権は北九州政権を朝鮮か中国の傀儡で
大和朝廷の中核、侵略者とみなしたいのは山々だからな
あの手この手で曲解し話をこんがらかせ、しらきって、
真相を闇に葬るつもりでもいるんだろう。
それが日本政権の歴史教育戦略なんじゃないかな
宗教施設の方向性みても明らかだろうに!

574 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:48:41
んで邪馬台国は九州であるという前提はどうなったい。

575 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:49:54
倭国大乱で連合政権内さえ統制できないのに、どうやってその
数十倍も人口あろうかとみられる本州を制圧できるのか、
キチガイとしか言いようがない。


576 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:54:23
邪馬台国は九州にしかない、そうしか書いてない。
では九州にあった邪馬台国の主権とは何かと論じているのです。
そこが一番の核心だと思うのです。

577 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:56:05
>>575
はい、そこで「邪馬台国は古代版一向宗説」が出てくるわけですよ。

578 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:58:30
>>577
なんじゃそりゃ?

九州のどっかにあった邪馬台国の植民地(?)が全国各地にあったとでも?

579 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 20:01:13
>>571
あなたは福岡南部、熊本、東北南部に多く存在する
装飾古墳群をどう解釈しますか?

580 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 20:05:01
>>579
東北南部ってどこですか?
福島、宮城あたりなら黒潮に乗った南部九州人がもたらしたってことで
説明ついちゃいますが。

581 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 20:20:04
装飾古墳
(そうしょくこふん)
石室、石棺などに彫刻、彩色を施して装飾された古墳の総称。
わが国の古墳時代には5世紀から7世紀にかけて、古墳石室の入口や内部、
石棺の内外面、および横穴の外壁や内部に、各種の文様や絵画を彫刻や
彩色で表す風習があった。それらの分布は福岡県南部と熊本県下にもっ
とも多く、全国の総数約300例のうち半数以上を占める。同じ九州でも
宮崎、長崎県下には少なく、鹿児島県下には発見されていない。本州
では島根県東部と鳥取県西部に集中し、畿内{きない}およびその周辺
にはきわめて少ない。東日本では相模{さがみ}湾周辺、および鹿島灘
{かしまなだ}に面した茨城県地方に多く、これに隣接する福島県東部
には集中的にみられる。それらの多くは横穴系に属し、北は仙台平野
北部の宮城県志田{しだ}郡地方に及ぶ。
 初期の図柄は主として直線と弧線を組み合わせた直弧文{ちよつこもん}
をはじめ、円、同心円、三角形、菱形{ひしがた}などの幾何学図形文を
表したものが多い。一方、5世紀前半ごろには、鏡や大刀{たち}、
短甲{たんこう}、靱{ゆき}、楯{たて}など、具象的な図柄が出現し、
やがて赤、白、黄、青、緑などの彩色も併用される。6世紀代になると
壮麗なものが多く、なかには被葬者に関する一種の物語風場面を構成
するものがあり、それらの意匠は横穴の表壁や内部に踏襲される。
その点、奈良県高松塚古墳の壁画は系流を異にし、高句麗{こうくり}
や唐文化の影響によるものであった。
 装飾古墳の起源を中国の後漢{ごかん}や朝鮮半島の高句麗壁画墓に
求める向きがあるが、無関係で、その目的には悪霊排除などの
呪術{じゆじゆつ}的な意味が考えられる。しかし6世紀後半になると、
大陸系の四神や日月、竜馬神話などが画題に反映し、思想的な影響が
あったことがわかる。

582 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 21:02:17
熊本と福岡南部は磐井の乱、南北朝時代、西南戦争まである程度
一蓮托生的な関係でやってきてるのだから、
おそらく倭国大乱の頃もこの関係があったものとみる
のが妥当でしょう。

583 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/14(日) 00:37:26
>>565
遅レス申し訳ないです。
盆入りの為何かと野暮ようが

当時の倭に対する中華王朝や半島郡の影響力はかなりあったと考えます
中華王朝や郡の乱れた時や冊封体制化が途切れた時等は必ず「倭」の情勢が乱れます。
それだけ普段から影響力があったと思われます。

それに、「倭」の争乱の原因の一つに 冊封体制下になろうとする利権争いがあると思います。
中華王朝に朝貢し、冊封体制下に入るということは、その交易利権を独占出来るというメリットがあるからです。

584 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 02:07:18
馬韓人は極めて先住系に近い民族、習俗だったようです、
馬は既にあったようですが、彼らは馬に乗ることをせずに
専ら副葬に使っていたようです(ペット?)
馬韓人は亡命してきた大陸の人に辰韓を与え、王を馬韓人から
選び天君と呼んでいたようです。
どうもこれが天皇制の始まりのようにみえます。
しかし、次第に辰韓には好戦的な北方渡来高句麗系の
民族が入ってきます。(扶余とも違うようです)
彼らは馬韓の風習を受け入れ出雲にも渡来したようです。
その内天君の地位おもをこの辰韓人が乗っ取り
新羅国を建国しました、更に倭へも渡来してきたようです。天孫族

585 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 02:19:33
倭国は多いに乱れたと思う、しかし魏の使がみたのは九州の
政情のみだったのでしょう、おそらく中華利権を独占していた
九州(倭)がその最前線だったはずです。

586 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 02:36:36
四隅墓を残した部族が北方系なのか中華系なのか難しいところではある
しかしいずれにしても後の新羅人と通じていたではあろう。

587 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 07:56:55
邪馬台国が北九州にあり、壱与の死後
連合国家体制が瓦解し狗奴国(熊襲)と
大和朝廷のはさみうちの形になり
自然消滅して大和朝廷に吸収されていったとしても
それなら邪馬台国が滅んだという伝説が
どこかに残されてるんじゃないですかね?
ないんですか?

588 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 08:59:37
>>587
古田教と言う宗派が、そういった伝承を口伝して後世に残そうとしています。

589 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/14(日) 11:13:18
>>587「ヒッキー」君
いったい貴方自信の仮説はなんなんですか?
関連スレを見てみると
殆ど質問スレになっており貴方自信の筋が見えないのです。
とりあえずこの辺で
貴方の仮説をご披露されたく思います。
つい最近の質問内容には、関連スレにて、あい反する内容の質問をされてる様でROMる側も多少困惑致しております。

590 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 12:20:43
ヒッキー君は昔の誰かさんに似ている。渡来説をくどく主張してた人かな。

邪馬台国が滅んだという伝説は何故残っていないんだ、という言い回しは
記憶にあるようだが。

そんな伝説が残ってる訳ないだろ。
記紀は大和政権が改竄したというより、他の豪族の伝を消滅させるために
編纂したんだから。

反論してごらん、ヒッキーくん。正体を暴いてあげるからさ。

591 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 12:27:48
>>589
587は、九州邪馬台国と大和朝廷は、もともと同一政治圏に属しており
日本史的には、特段の事件もなく忘れ去られ、中国の文献にだけその名を残したって言ってるんだろう。
587は、別に「質問」しているわけじゃない、それがご本人の「仮説」なんだよ。
関連スレでは何と言ってるのかは知らないが・・・

592 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 13:01:40
俺は基本的にヒッキー君と似た仮説をもつものだからヒッキー君の
説がもっと学会で支配的になりその方面で集中的に論議されることを
望むね、あとは裏付けとっていくだけだとおもう。
この一番自然に考えられる仮説をなぜ学会は邪険にするのか
真相を隠すために諸説流し困惑させるのが狙いだとさえ思う。
せめて2chだけでもヒッキーの説が支配的になってほしい

593 :ヤットデタマン:2005/08/14(日) 13:20:03
592氏、お久しぶり。やはり君かね。

594 :キムチ大好き!:2005/08/14(日) 13:40:57
>>592 隠さなきゃいけない「真相」ってなだよw

595 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 16:05:12
>>592

単なる学閥の面子でしょ。

京大系派閥と東大系派閥のつまらん意地の張り合い。

596 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 17:49:49
若輩者の僕のレベルではやはりまだ
ここで議論できるレベルにはありませんか・・
古代史の勉強のほかにやるべきことが
多くあるのでなかなか深く勉強できません・・
とりあえず、内田康夫著「箸墓幻想」という
本を先ほど購入してきたので読んでみます。

597 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 18:00:30
>>589
すいません。若輩者だもんで
皆様の意見を聞いたり、他の書物を
どんどん読んだりしてるうちに
考えが変わっていくようですw
つまりまだ勉強不足ということですね・・
邪馬台国の本ばかり読んでても視野が
狭くなりますしやっぱ年配向けなのかなこういうのは・・

598 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:06:35
純粋な質問です。
私にはいわゆる古田説がもっともしっくりくると思われるのですが、
なぜ邪道(トンデモ?)扱いなのでしょう?
外三郡誌関連では確かにチョンボしちゃいましたが、
九州王朝関連では議論の土俵に上げてもいいのではないかと思うのですが、
頭から否定してかかる何か理由があるのでしょうか?
私は専門的に勉強しているわけではないので、
なんらかの信用に値しない事柄(事件)があったことを
知らないだけかもしれませんが。

599 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:18:14
ワは宇佐ですけど、古田さんの説は極めて合理的で
自然です。彼の説はもっと理解されるべきです。

600 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 18:25:44
僕の仮説ですか・・?
若輩者の意見ですが九州邪馬台国連合というのは
今に例えれば県全体がそれにあたり
あとなんとか国というのは今でいう市にあたる
気がするのです。そして邪馬台国というのは
今で言う県庁所在地であり県知事(卑弥呼)が
選挙で共立されてるというわけです。
しかしそのシステムがうまくいかなくなったので
3世紀終わりか4世紀初頭になり
大和朝廷のほうで軍事力を担保に北九州を
吸収して大和朝廷による直接統治に切り替わったのだと
思います。今に例えれば国のほうから県に
圧力をかけて政府の息のかかった県知事を
送り込んだり、地方交付税等を増やすなり
えさを与えて懐柔したとでもいいましょうか・・
つまり九州邪馬台国連合というのはそっくり
そのまま残っていたわけですが彼らは
大和朝廷による支配を選択せざるをえなかった
だけではないでしょうか?いや選択したほうが
いいと結論ずけたのかもしれません。

601 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:40:49
倭人伝書いた人はどうも琉球のあたりも倭と考えていたらしい。
そのせいで、倭の地域を南にのびる巨大大陸?あるいは中国大陸の
南北の長さを過小測定していたように思う。
彼らは倭人と琉球人を同族的に認識し琉球を倭大陸ともいうべき
九州地域の直ぐ下にある島だと認識していたのかもしれない。
倭を会稽の東方と言っているのもその為であろう。
習俗も倭と琉球を似たものとし認識している。
しかし、彼らは倭(九州)の北にも倭の勢力がある事を又聞き的に
知っていた、しかし全く通交関係が無かったとみえる。
やはり朝貢により倭人(九州人)が本州地域との中華との結びつきを
絶っていた為であろう。
倭国大乱以前は中華政府は100余りの国と国交があったらしい、
それが30余りの国に減っている、これをどうみるか、
小国が合併したとみるべきではなく、いずれかの地域との国交が
邪馬台国の政治力により絶たれたためだと思う。
狗奴国連合かもしれないし、あるいはもっと南の勢力かもしれない
しかし、本州ということはまずないだろう。
彼らは本州を全く知らないのである。

602 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:53:40
中華利権を完全に牛耳っていた九州の支配者、本州地域の豪族は
彼らの支配下にあったものもいれば
全く別の勢力もあっただろう、彼らは主に新羅、高句麗経由で
大陸のものを仕入れていた。彼らは九州と九州の息の掛かった本州の
勢力と敵対関係にあったが、次第に九州の息の掛かった本州の勢力も
新羅高句麗系の勢力に呑み込まれていく中で本州大倭政権連合が誕生した。
九州の勢力はこれに太刀打ちできずむしろ支配される側になってしまった。
その転換点、過渡期にあるのが九州邪馬台国だと思う。

603 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 18:58:44
畿内政権にとって邪馬台国というのは
消滅させるより存続させるように支援していたほうが
都合がよかったはずです。狗奴国と大和朝廷との
防波堤的役割もありますし双方で力を削りあってから
漁夫の利を得ようと考えていたのだと思います。
北九州を制圧しようとするより交易ルートだけ
確保されてれば畿内政権にとって北九州の役割は
果たしていたのだと思います。

604 :日本@名無史さん:2005/08/14(日) 19:20:29
筑後地区に残る祭り風俗はまるっきり南方のものが多い
そのまま太平洋の風俗

605 ::2005/08/15(月) 21:19:38
>>566
お前さんの頭脳は蜂の脳みそ位か?w


606 :圭角:2005/08/16(火) 14:00:28
579さんからお盆前に私に対して装飾古墳をいかに考えるかというお尋ねがある
ことを盆休みに紛れて今知りました。失礼致しました。
 熊本が地元でございますので、いくつかは見ております。各学者の諸説その他を
拝聴する次第のみにておりますが、熊本の装飾古墳の絵模様には、農耕に関した
ものが少なく、漁労や船などや抽象画図が多く、農耕を図柄とするものが多い北の
地域とは文化圏を異にした側面を感じております。
 ちなみに、熊本県の県木は楠です。古代の船材として多用され適した材質であった
ことを想えば、長崎周りで伊都国や壱岐対馬との交流交易を想うしだいです。
 

607 :日本@名無史さん:2005/08/16(火) 15:47:01
宇佐!宇佐!

608 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/16(火) 17:58:50
みなさんにお尋ねしますが
やはり投馬国も九州にあったのでしょうか?
投馬国はどこだとお考えですか?
僕は一応日向あたりかなと思ってるのですが・・

609 :圭角:2005/08/17(水) 08:15:44
仮に、九州説の投馬国が宮崎県で、邪馬台国が福岡県の南部だったとしても、陳寿は
これを机上で南の方角へ直線につないだのであろう。
水行は、大きな川や海があるという伝聞報告が帯方郡の報告書にあったので、それを
陳寿が行程の中に取り入れたに過ぎない。
水行を筑後川、有明海、周防灘、瀬戸内海、日本海などと考えるのも、意味のない
ことである。
 以上は松本清張の説の一節ですが、私は次の通り考えています。
張政の派遣滞在の記事からして、相当に詳しい地理情報報告は郡に届いていたはず
となります。しかし、司馬宣王顕彰の記述姿勢からすれば、邪馬台国はできる限り
絶遠の地が望ましいのはいうまでもないこと。よって、奴国の南に位置した投馬国
を水行二十日と記した、と。


610 :圭角:2005/08/17(水) 08:22:54
わたしが609に書いた理由根拠はいたって単純明快です。
 陳寿は、その余の傍国は遠過ぎて里程は詳らかではない、と記しています。
しかるに、その絶遠のその余の傍国のさらに南のさらに遠い狗奴国の官の
名前も王の名前も、ちゃんときちんと明記しているということなのです。

611 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/17(水) 08:38:29
福岡県前原市の平原遺跡では日本最大の内行花文鏡(5枚)が出土。
福岡県春日市の須玖岡本遺跡では同じく鏡・剣・勾玉の「三種の神器」の原型ともいうべき副葬品が見つかった。
奈良県では鏡・剣・勾玉の「三種の副葬品」は2世紀以降(平原遺跡はBC50年までさかのぼれる)にならないと出土しない。


ということは神武東征は1世紀にあったのでしょうか?


612 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 09:33:31
>>611

神武東征があったとすれば、1世紀ごろが妥当だと思うよ。

613 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:18:02
>>612
神武よりむしろニギハヤヒの方が先ではないかと・・・

ちなみにあたしゃ
呉の滅亡(280年)が神武東征を引き起こすきっかけになったと
思うちょりますばい。

614 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:49:04
難しくなってきた・・
ニギハヤヒというのは隼人じゃないの

615 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:53:14
確認しよう、三種の神器

剣の中心地、鏡の中心地、勾玉の中心地はそれぞれ何処だ。
そしてそれらがそれぞれ何を意味するのか・
確かに、三種の神器がそろったとき
日本の全国規模の支配者が
誕生したとみえる。

616 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:56:43
神武のルーツが日向であったとしても日向にこの三種の神器が
くるのは遅いんだよね?
北部九州でそれは揃った、つまりこの神武の勢力に近い勢力が
この北部九州にきた時に初めて支配が確立したのか。
神武の前のウガヤ朝の存在、そして弁韓支配(ガヤ)
繋がるかな・・

617 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:08:15
鏡;美(福岡)
剣:武(熊本、福岡南部)
勾玉:呪術(本州)

ここに日本の統治王、大王が誕生したなり!


618 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:23:36
http://www.mukiban.com/users/net/COLUMN01.html
山陰の弥生

619 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:52:50
鏡は外見の良さの象徴だろ、
剣は文字通り武芸の達人
そして勾玉は智の象徴である。
この三つが揃い倭は統治された
この倭とは漏れには
福岡(鏡)、熊本(剣)、大分(勾玉)
に思えてならない。ただ大分の勾玉については
起源は山陰地方出雲である。

620 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 18:04:15
↑それらが東征したのか?

621 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 18:28:06
何時東征したかまではわからない。
ただ、これらは各地を統治する中で生まれたもので
最初から支配者が三つを揃えて居たというわけではなく
統治の歴史の中で自然と神聖化されたとみるべきではないか
と思うわけ。もし不条理にこれら三つをもった支配者なら
三種の神器を今の今まで神聖化するとは考えにくいしな



622 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 18:46:05
筑後地方は水の神の起源だからおそらく違うと思う。
あの地域は農業神でどちらかというと労働、被従属民だろうな
時に熊蘇、時に邪馬台国の支配に甘んじた地域だろう
頻繁に水の被害に見舞われたので遺跡もあまり残ってはいないが

623 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:11:56
最終的に九州を統治したのは近畿の豪族(少弐、菊池、大伴)
と関東の豪族(島津)、そして畿内で二種の神器をいや
勾玉を加えた三種の神器だと主張したのは藤原(ト部)
こうなるとわけわからん状態。

624 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:09:28
まあ、結局日本を統治したのは近畿の藤原と関東の源氏
というわけです。
これが今の日本人の容姿を決定付けているわけです。

625 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:11:31
しかもこの近畿の藤原、茨城の鹿島と深い関係があるんでは
なかったですか?

626 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:28:32
磐井の墓に三種の神器はなかったよね
筑後地方には勾玉と鏡が欠けていたと思う。
これは熊本と近い傾向がある

627 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:51:06
磐井は明らかに菊池や狗奴の勢力にあると思うよ。
古墳とかの共通性が極めて高い。
筑紫国造というのが成立したのはやっと6世紀後半だろ
ヤマトと最後まで対峙したのはこの狗奴を中心とした
九州の勢力だったのです。間違いないでしょう。

628 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:03:11
九州の勢力は、伊勢、関東の太平洋側、東北の南部と
文化的共通性をもつ遺跡を残す。


629 :日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:16:40
台与の後、狗奴国が勝利し九州の殆どを治めた。
小倉、八幡、宇佐の渡来勢力は畿内に従ったものと
狗奴に従ったものに分かれた。
狗奴国の中心地は筑後市、八女市周辺に置かれた。


630 :ニワカ:2005/08/29(月) 19:24:36
海幸山幸の神話は最初に九州を統一したスサノオの出雲王朝を
後から来たヤマト王朝が倒したという意味。ここまで分かった。

神話から妄想したんですが、スサノオの軍隊は津波で滅んだのかも・・・

631 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 21:16:20
スサノオの伝承は九州ではあまり聞かない。
氷川神社もない、こちらは八幡神社です、
「討ちてしまん」だったかな?

632 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 00:25:32
「討ちてし止まん」では?

633 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/30(火) 11:25:13
投馬国東遷説

634 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 11:55:31
邪馬台国は投馬国より南ですよね。投馬国は不彌国より、20日も南ですよね。
とすると、東遷したところはどこですか。

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