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【体制側テロ・反体制側テロ】幕末のテロ

1 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 14:32:34
民主主義や法律に基づく政権移譲が確率された現代なら「テロ=悪」なんて
視点もありだろうとは思いますが、幕府による独裁体制(選挙すらない一党独裁みたいなもんか?)
が取れていた時代となると話は難しい。

そこで幕末における体制側(佐幕派)・反体制側(倒幕派)を問わず
当時のテロについて論じて頂ければと思いスレをたててみました。
ネガティブじゃない意見をどぞー。



参考
テロリズム - Wikipedia
テロリズムの語源は、フランス大革命末期のロベスピエールの恐怖政治
(regime de la Terreur 1793年6月 - 1794年7月)よりきている。
権力者が対立する者を抹殺した場合もしくは、その影響(恐慌や追従)も
含めてテロと呼ばれていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AD

ノート:テロリズム - Wikipedia
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E3%83%86%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

2 :幕末維新:2005/07/22(金) 14:35:51
明治維新はクーデターで成り立った。薩長中心の明治新政府は、さまざまな醜い部分や真実を歴史から消し去り、謀略によっておのれを正当化したのである。
その後、明治新政府は
冨国強兵
殖産興業
という政策により軍国主義の道を歩み始めた。
こうしてこの百年間で幾多の戦争を引き起こし、多くの犠牲者を出した事は多くの人々の知る事である。
日本の悲劇は、薩長を中心とする人らによって政府が作られた時からすでに始まったと言ってよい。

3 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 14:58:51
会津人の「恨」コピペで
埋めつくされるだけのスレを立てるな!
それとも、会津人ホイホイのつもりで立てたのか?

4 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 15:16:48
>>2 んで、徳川幕府はどうやって成り立ったのかなw

5 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 16:18:37
戊辰戦争で西軍と会津軍との双方に多くの戦死者が出たが、この時、西軍の将兵は丁寧に埋葬されたのに対し、会津藩士および一般人の死体は戦争が終わってからも放置されたままだった。
西軍側の民政局の
手をつけた者は厳罰
という令により、道々には見るも無残な死体が置かれたままにされ、それは時がたつにつれ腐敗し、鳥獣の食い荒らすに任されていた。
この非情な扱いには武士道など正に皆無であり、あまりの処置に多くの会津藩士が怒りに燃えた。
戦死者の魂に線香をたむけることも禁じられた。この怒りが武士道に生きた会津藩士や会津人の心の中に
怨念
として永く生き続けていくのである。

6 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 16:19:22
長州の御所発砲は
北から乾門、中立売門、蛤門、下立売門で、当時は中立売門を除いた三つは現在より内側にあり、蛤門は南に向いていた。
門を繋ぐようにして大小の公家屋敷がある。
長州兵は蛤門の両側に連なる八条家、石川家、勘修寺家などに押し入って激しく銃砲火を浴びせてきた。
これらの屋敷の東側は空地を隔てて禁裏の塀である。弾丸は容赦なく塀に飛来。まさに長州は野蛮人。

7 :1:2005/07/22(金) 22:27:35
とりあえず戦争とテロは違う、とマジレス。
言うだけ無駄な気はするが。('A`)

8 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 14:41:34
小中学生が夏休みに入ってから、
会津ヲタが大量発生して困っているので、
会津ホイホイ緊急age

9 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 15:07:21
いまどき休みとかに関係なく、誰でもいつでも書き込みできるわけだが。

10 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 15:11:10
多忙なはずの大人でも、平日から2chに書き込みしている者がいるのだから、
大人に比べてヒマな中学生なら、普段から普通に書き込みしてるだろう。

11 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 22:08:46
慶応四年正月 小栗作戦が実行された場合の近代日本史。

1858 井伊直弼が日本を開国。日本の近代化が始まる。
     近代化に反対する鎖国主義勢力を処罰する。
1860 新見使節団が米国を視察する。
     桜田テロ事件。反近代派のテロ。井伊氏が犠牲に。
1861 軍制改革が始まる。福沢諭吉ら知識人が活躍し文明開化が始まる。
1862 竹内使節団が欧米を視察する。留学生を送る。
     薩長の乱がおこる。(〜1868) 鎖国回帰を主張する
     復古勢力の反乱。一時京都を焼く。
1863 池田使節団が欧州を視察。
1864 反乱による政情不安続くも、小栗忠順らが政府の
     建て直しに活躍する。
1865 横須賀製鉄所をつくる。日本の工業化が始まる。
1866 薩摩藩・長州藩の起こした薩英戦争・馬関戦争により、関税率が下がる。
1867 兵庫商社をつくる。株式会社のはじめ。
     軍制改革がすすむ。
1868 徳川慶喜氏が大君(=大棟梁=大統領)に就任する。小栗らと連携し
     反乱鎮圧と近代化に尽力。
     政府が最終的に反乱を鎮圧し、首謀者および
     政府側内通者を斬首。6年にわたる政情不安が
     解消される。
     廃藩置県が実施される。
1869 四民平等になる。鉄道が開通する。
1870 憲法が発布され、議会が開設される。
1871 日清 日朝間に平和友好条約が結ばれる。
1872 小栗らの主導により、富国強兵政策がすすむ。
1873 産業革命がすすむ。
1907 小栗氏が死去。日本近代化を指導した巨人。
1913 徳川慶喜前大統領が死去。

1945 すでに日本は世界屈指の平和国家・民主主義国家・経済大国に。

12 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 22:11:07
天皇暗殺こそ最強テロ。

13 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 22:12:52
慶応四年正月 小栗作戦が実行された場合の日本の近代史。

1864 反乱による政情不安続くも、小栗忠順らが政府の
     建て直しに活躍する。
1865 横須賀製鉄所をつくる。日本の工業化が始まる。
1866 反乱により、関税率が下がる。
     徳川慶喜氏が大君に即位する。小栗らと連携し
     反乱鎮圧と近代化に尽力。
1867 兵庫商社をつくる。株式会社のはじめ。
     軍制改革がすすむ。
1868 政府が最終的に反乱を鎮圧し、首謀者および
     政府側内通者を斬首。6年にわたる政情不安が解消される。
     裏切り者の徹底処分。藤堂家、井伊家など断絶
     井伊直弼は歴史から抹殺さる
     彦根藩士ら暴発。政府軍に瞬殺され数百人斬首
1869 大阪に遷都する。関東・東北地方は急速に衰退へ
     旗本リストラ、俸禄削減および欧化政策への反発強まる
     永井尚志、大鳥圭介、榎本武揚ら政府要人の斬殺相次ぐ
1870 新撰組ら諸隊の反乱。近藤勇、土方歳三ら斬首     
1871 廃藩置県
1873 徴兵令 地租改正
1874 小栗忠順、閣議で大統領制への移行を主張するも
     一蹴され下野。帰郷して旧旗本系不平士族に担がれ
     上州の乱を起こして敗走、捕縛され斬首
1875 讒謗律 新聞紙条例制定
1876 旧譜代、佐幕派系諸藩の士族反乱相次ぐ
1877 会津士族が暴発し、東北戦争が勃発する
     警視庁の薩摩士族が大活躍、会津人(賊軍)を皆殺し
     西郷頼母ら飯盛山で自刃
     松平容保、ひねくれて終生チョンマゲ切らず笑い者に
1878 徳川慶喜、不平士族(旧旗本)により斬殺


14 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 22:17:33
このスレは、会津ヲタ専用のコピペ集積所になりますた。

15 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 22:25:49
長州は逆賊。

16 :日本@名無史さん:2005/07/23(土) 22:29:13
長州の御所発砲は
北から乾門、中立売門、蛤門、下立売門で、当時は中立売門を除いた三つは現在より内側にあり、蛤門は南に向いていた。
門を繋ぐようにして大小の公家屋敷がある。
長州兵は蛤門の両側に連なる八条家、石川家、勘修寺家などに押し入って激しく銃砲火を浴びせてきた。
これらの屋敷の東側は空地を隔てて禁裏の塀である。弾丸は容赦なく塀に飛来。まさに長州は野蛮人。

17 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 08:48:06
>>5>>6>>16史料的根拠はない会津人の捏造であることは明らかなのだが・・・

18 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 10:29:01
天皇は暗殺されたとしてもスペアがたくさんいるので全く意味なし

19 :日本@名無史さん:2005/07/24(日) 11:45:21
>>18
コピーの域を越えて自己主張した孝明天皇に対する暗殺は意味があったのでは。

20 :1:2005/07/24(日) 22:13:47
孝明天皇の死因は「出血性痘瘡」(原口清説)だったかと。

21 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 23:39:36
>>20
それにしては、急死すぎる。

22 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 23:45:36
アーネスサトウが明治政府からミカドは毒殺されたと聞いた!

23 :日本@名無史さん:2005/07/26(火) 23:53:11
孝明天皇の死こそ開国へ踏み切る必須条件だ。
彼が生きている限り日本の近代化は不可能。

24 :1:2005/07/28(木) 22:32:51
>>21
急死すぎるってのは
「一旦回復に向かったはずの様態が途端に悪くなった」
ってのを受けて「急死」って言ってるんだろうけど、実際のところは
様態が回復に向かったなんていう証拠はないみたい。

一応、典医の報告書には天皇の様態について一時「至極御静謐」とか「弥御順症」
みたいな表現もあるようだが、これは対外発表上の話で実際のところは
中山慶子(明治帝母)や公卿山科言成など、数人の人々が罹患以来の重症ぶりを伝えている。

んで、その罹患以来の症状がまんま疱瘡と同じだから毒殺説はありえないという論法。
話題性としては毒殺説に飛びつきたい輩も多そうだが、実際はこんなもんでしょう。

25 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 22:43:44
桂小五郎は「都合の悪い天皇は替えればいい」と言った。

26 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 22:59:23
「孝明天皇紀」、「中山忠能日記」より、拾ってみる。
ちなみに、中山忠能とは、明治天皇の生母と言われている中山慶子(孝明天皇の妾)の父である。
慶応二年十二月十二日
 高熱を発し、苦痛を訴える。
十二月十五日
 手に一対の吹き出物が出来る。
十二月十六日
 吹き出物が顔にも出来る。一睡も出来ず、吐き気と下痢が激しい。
十二月十七日
 典医十五名は正式に疱瘡と発表、宮中にわかに騒がしくなる。
十二月十八日
 吹き出物が変色して落ち着く。睡眠もとれはじめた。京都守護職松平容保などがお見舞いに参内。
十二月十九日
 朝から食欲がでる。
十二月二十日
 食欲、便通も順調、吹き出物の経過も良好。
十二月二十一日
 天皇の機嫌が良くなる。吹き出物から膿が吹き出し始めてさらに楽になる。徳川慶喜もお見舞いに参 内。
十二月二十二日
 午前二時に葛湯一碗、唐きび団子三つ、さらに二時過ぎに唐きび団子五つ、十一時半にお粥一碗、正午には御大便少々、午後二時に唐きび団子七つ、五時にお粥一碗、八時過ぎにほしいい一碗、十二時前にお小水、そして午前一時前にお粥半碗と大根おろし少々。

食欲も排泄の方も順調に回復していることを記している。又、中山忠能の日記にも、すでに前日に「全て御順道との儀承り、恐悦に存じ上げ候」と書いている。

27 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 23:00:30
十二月十三日
 食欲ますます進み、吹き出物の膿も出てしまい乾燥しはじめた。
十二月十四日
 この日も葛湯、お粥、ほしいいをとり、便通もあり、天皇の機嫌はますます良好。

ところがである。

十二月十五日
 天皇の様態は前夜から急変、激しい嘔吐と下痢におそわれ、顔には紫の斑点が現れた。
 さらには「御九穴より御脱血」、七転八倒の苦しみのうちにその夜遅く亡くなった。

天皇はまだ三十六才、それまでは至極健康な壮年であった。

28 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 23:57:15
天皇暗殺ネタは、専用の板があるのでそっちでやってくれ。

29 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 23:59:44
孝明天皇が生きてたって幕府や倒幕方に何のメリットがあるんだ?
死んで困るのは会津中将ぐらいだし。

30 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 00:47:24
孝明天皇の死によって窮地を脱したのは幕府側。
その後の慶喜の圧倒的優勢に対し
追い詰められた連中によって、討幕派が形成された。

つまり討幕派による暗殺というのは、本末転倒。

31 :1:2005/07/29(金) 07:44:25
>>25
>桂小五郎は「都合の悪い天皇は替えればいい」と言った
それは初耳。ソースがあれば教えてくらはい。

32 :1:2005/07/29(金) 07:45:35
>>28
スイマセンURLで誘導お願いします。
せめてヒントを。

33 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 12:59:25
>>29
子供の明治天皇をロボットにして倒幕をやり遂げた。
立派にメリットがあったとおもうぞ。

34 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 13:02:51
高杉晋作

35 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 13:10:47
動乱の幕末
会津藩主、松平容保が京都守護職を命ぜられたのはこのような時代だった。
容保に対する孝明天皇の信頼は実に厚く、天皇から賜った御宸翰がそれを証明している。
しかし、孝明天皇の急死により歴史の歯車が大きく狂いだしたのである。
特に天皇の死については毒殺説もあり、その他にもかなり謎めいた事件がこの時代には起こってる。
戊辰戦争で勝利を収めたのは薩長を主体とする官軍であったが、会津における戦いでは会津藩、官軍双方に多くの使者を出した。
しかし
勝てば官軍…
と言う言葉とおり官軍の使者は早やかに埋葬されたのにたいし、会津藩は賊軍とみなされたため、その遺体は埋葬を許されず、手付かずのまま冬を越したと言う。
明治は倒幕の実現によって誕生したが、それは維新と呼べるものではない。


36 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:56:02
じゃあ、勝てばよかったじゃない。

37 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 19:27:21
堀河紀子萌え。

38 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 19:49:05
孝明天皇に嫌われまくってた長州にとって、
1.長州藩が朝敵として滅亡
2.孝明天皇を殺して復権
の選択肢しかなかった。

39 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 20:01:55
>>38
主演:岩倉具視 脚本;大久保利通 じゃなかったか?
伊藤博文まだ、それができるほどえらくなかったと思う。

40 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 20:34:46
 何年か前、侍医が暗殺実行の新事実発掘の新聞記事を見た
おぼえがあるのですがソースがわかりません。
 ご存知の方、いらっしゃいませんか。


41 :日本@名無史さん:2005/07/29(金) 20:57:30
>>39
伊藤博文が実行にかかわったテロはもっとせこいものだったような
気がする。

42 :1:2005/07/30(土) 09:42:05
>>28
それらしいスレ(殺された天皇、皇族)を検索で見つけましたが、
天皇や皇族全体となると範囲が広すぎるんでこのまま話をすすますね。

>>26
>「孝明天皇紀」、「中山忠能日記」より、拾ってみる。
同じ『孝明天皇紀』には公卿山科言成の日記も引用されているようで
そちらには『中山忠能日記』にも掲載されている御所発表の病状を否定したうえで
「御腫れ物多々」
「一昨日(12月19日)抔頗る御悩み、(中略)役人役人頗る心配」
という表記が見られます。

ほかに中山慶子も二十三日付の書簡(『中山忠能日記』掲載)で
「昨日(22日)より御頭御膿水出らせらる、但し少々御少いよし、
 それゆえ御胸中の御具合御不快(中略)一両日甚だ御大事と医師申すのよし」
と病状が予断を許さない旨を報じています。

43 :1:2005/07/30(土) 09:50:59
こうなると「外部に向けて発表された情報」と「典医たちがもたらす情報」との
ドチラを信用するのかが問題。

「御九穴より御脱血」などの病状自体、疱瘡にも見られる症状なのでこの病状を
根拠に毒殺説は煽るのは不可能。

こうなると「毒殺を証明する根拠」が希薄になってくるわけですが
毒殺説をとられる方はそこら辺をどう理解してるんでしょう?

44 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 16:00:22
>>43
疱瘡に乗じて毒殺が定説かと。

45 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 16:13:07
塙次郎斬殺!伊藤博文自ら斬殺!返り血を浴びた着物のままで、幕府
役人の前を強行突破!

46 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 16:17:49
>>44
疱瘡死に乗じて毒殺説を流布、が定説かと。

47 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 17:48:22
孝明天皇毒殺は発掘調査すれば明らかに?

48 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 18:15:24
>>47
それができないから困っているのだが。

49 :1:2005/07/30(土) 22:14:05
>>46
>疱瘡に乗じて毒殺
孝明天皇の死が疱瘡の症状と変わらない以上「毒殺されたとする証拠」がないって話です。

「結果的に利益を得た討幕派が怪しい」って陰謀説ならありますけど
それは流石に証拠にもならないので、定説とは言えんでしょう。

50 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:42:23
>>49
記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの
容態の急変は急性薬物中毒によるものとされています。
 主治医、伊良子織部正光順の日記とメモを発見した曾孫にあたる医師、伊良子光
孝氏の説です。

51 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:46:43
伊藤博文が床下から刺殺したという説もあるが、さすがにそれは...

52 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:03:15
>>43
>「御九穴より御脱血」などの病状自体、疱瘡にも見られる症状なのでこの病状を
>根拠に毒殺説は煽るのは不可能。

亜砒酸説があるよ。


53 :1:2005/07/31(日) 09:41:15
>>50
>容態の急変は急性薬物中毒によるものとされています。
だからその「容態の急変」自体真実なのかが解らない、ってことです。

天皇周辺がだす病状報告を信じるのか、典医周辺がもたらした病状を信じるのか、
で見解が変わってきちゃいますからね。

>伊良子織部正光順の日記とメモを発見した曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏の説です。
この伊良子織部正光順の日記『天脈拝診日記』を私は未見なので、日記については
何とも言えないんですが、原口説では光孝氏の説について
「この日記・メモ自体には、天皇の毒殺をうらづける明確な内容はみあたらない。
 光孝氏もも、天皇の死因はについては断定していないが、一応毒殺説と仮定した
 場合について種々論じたうえで、天皇の死因を(中略)急性毒物中毒によるものと
 推定している。」
といっています。


54 :1:2005/07/31(日) 09:48:43
>>52
>亜砒酸説があるよ
この砒素中毒(=亜砒酸中毒)のほかにも石見銀山との類似性を強調する見解はありますね。
砒素中毒にしろ、石見銀山による毒殺にせよ、その根拠としてあげる症状は
重症感染症の患者に共通することなので「毒殺の根拠」にはならないかと。

55 :1:2005/07/31(日) 09:52:47
>>50さん
伊良子織部正光順の日記とメモが掲載されているサイトってありますかね?
原口説を読む限りでは、毒殺を肯定とする根拠がのっているわけでもなさそうなんですが
原口説を鵜呑みにするのもアレなので、ソースがあれば御教授を。

56 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 09:09:43
とりあえず真相を知る原は抹殺された。


57 :日本@名無史さん:2005/08/01(月) 21:37:12
>>56
原って市之進?(´・∀・`)ヘー

58 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 01:22:29
条約履行を迫られた幕府にとって
1条約を履行できず主権放棄
2条約を履行して国家分裂
3孝明天皇を殺して危機回避
の選択肢しかなかった。

59 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 01:27:37
まあ掘ってみればすぐ分かる。
なぜ岩倉や伊藤が天皇をタブーにしたか、その本当の理由もね。

60 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 01:35:06
維新後宮内省で幅を利かせていた水戸藩出身者達が慶喜の行為を揉み消した。


61 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 01:40:00
孝明天皇の死で最も助かったのは、幕府。
ついで長州。会津は微妙。
外交問題で幕府を攻撃してた薩摩は最も不利だった。


62 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 02:00:19
帝の死で最も助かったのは長州でしょ。
孝明天皇があと数年長生きしてたら長州は滅亡してた。
一会桑と孝明天皇は持ちつ持たれつの関係、つまり、
慶喜が窮すれば条約勅許だって出しちゃう関係だから、
わざわざ握ってる玉を殺す理由は無い。

63 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 02:06:35
>>61
珍説だな。ソースだせ。

64 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 02:21:43
>>54
天然痘は数日間の前駆期を経て発疹期にはいり2〜3週間で完治する。
発疹期は「紅斑→丘疹→膿疱→結痂→落屑」と移行。

孝明天皇は、12月12日前後に発症(15日は公式発表日)、
その後の経過は極めて良好で、発症から10日目頃には、
「全て御順道との儀承り、恐悦に存じ上げ候」と記録されてる。
「吹き出物の膿も出てしまい乾燥しはじめた」状態から、
亡くなる前日(発症から約2週間)には天然痘が完治寸前の状態だった。
また、気管支肺炎などの吐血を伴う合併症の兆候も記録されていない。

この状態で突然激烈な発作を起こしたことは不可解としか言いようがない。

吐血、下血、全身ケイレン、意識混濁、紫斑…
これらは急性砒素中毒の症状と酷似。
粘膜からの出血も伴うため「御九穴より御脱血」も説明できる。

孝明天皇の最後の日の症状は明らかに急性砒素中毒症状でしょう。

65 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 02:28:26
エイズに感染したゴキブリがホイホイ集まってるな。


66 :1:2005/08/02(火) 08:41:42
>>64
>その後の経過は極めて良好で、発症から10日目頃には、
>「全て御順道との儀承り、恐悦に存じ上げ候」と記録されてる。
>「吹き出物の膿も出てしまい乾燥しはじめた」状態から、
>亡くなる前日(発症から約2週間)には天然痘が完治寸前の状態だった。
もう、どうどう巡りですね。この議論は。
とりあえずは>>43の上二行を参照。

やっぱ陵を掘り返し、検証でもしないと終わらんのでしょうかね。
この論争は。

67 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:30:13
>>62
いや、頑固な攘夷馬鹿の孝明帝を殺せば、幼い帝を都合よく操れるのは幕府の方なんだが?
そう上宮中も慶喜のコネが効きまくっているしな。
孝明帝は開国を叫んでいた幕閣の官位を剥奪していたりする。小栗とか大喜びしただろうな。
一方で帝の死から倒幕にこぎ着けるまで1年近くも時間がある。

68 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 17:24:42
>>67
で、操れたか。幼帝を実際に操ったのは誰だ、歴史をみろ。

69 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 19:33:57
>>68
それは倒幕方の介入を許した幕府の失態だな。

70 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 19:56:38
幼帝を操ったのは岩倉と西郷。岩倉って岩石みたい顔してない?

71 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 20:07:59
>>70
近藤勇はそれ以上に岩石みたいな面だけどね。

72 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 20:23:17
>>62
一会桑と攘夷派天皇は持ちつ持たれつでこれたのは
彼らが対外的に日本を代表する立場になかったからだろ。
しかし一橋は将軍になってしまったんだから、もうごまかし効かないよ。


73 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 21:28:10
孝明天皇の毒殺については、医学的には決着がついたことである。

孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(おりべのかみみつおき)の当時の日記とメモが
光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、その中身が
昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。
『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。

光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの
容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。
さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。
「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、
痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」

伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、
同・石井孝氏、さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、
砒素(亜砒酸)だと断定している。

当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用させることはできなかった。
必ず、女官に渡して、女官から飲ませてもらうのだという。

前述石井孝氏は、女官たちの中で容疑者と目される者の名を、
つぎのように挙げている。

岩倉具視の実の妹、堀可紀子。
匂当内侍だった高野房子。
中御門経之の娘で典侍だった良子。

孝明天皇の死の最大の受益者は誰かということと、状況証拠から、黒幕は明らかである。


74 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:19:52
>>68
いや、それ結果論だし。

75 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:20:58
>>73
>>53

76 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:30:16
事実を確認すると、
1.孝明天皇は毒殺された可能性が高い。
2.毒殺ではなく病死だとの反論もある。
3.真実は発掘調査をすれば簡単に判明する。
4.明治政府はこの問題をタブーとして封殺し今日に至る。
5.したがって真実は闇の中。

結局「病死」である証拠もどこにもないわけね?

77 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 23:05:49
逮捕覚悟で墓荒らししてやるっていう人間はいないのか?

78 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 23:10:33
>>77
墓荒らしなら仙台人の右に出る者はいない。

79 :日本@名無史さん:2005/08/02(火) 23:32:58
宮内庁が発掘調査許可すればOK?明治政府の陰謀がバレるから絶対に許可しないと思う。 たとえ許可が出たとしても孝明天皇はどのような形で埋葬されてるんやろ?檜の棺桶に入ってるのかな?

80 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 08:07:39
>岩倉具視の実の妹、堀河紀子
孝明天皇によって出入り禁止にされていたが。
孝明天皇は晩年は岩倉に近い連中は退けており、岩倉が宮中で工作するのは困難だった。
慶喜寄りの公卿が孝明天皇の回りを固めていた。


81 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 09:32:26
幕府厨には破滅覚悟で事を為そうっていう気概が欠けている。
宮内庁が許可してくれないから・・・じゃない。こんなとこでぐちぐち言い訳してないで、追えよ、真実を。
逮捕されても薩長の陰謀が明らかになれば本望だろうが。

82 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 10:12:28
臆病な慶喜が勇敢なる幕閣・幕臣達を捨てた。
幕府が潰れたのは全て臆病で卑怯な豚一の責任。
幕臣・旗本は皆勇敢で高潔な武士だった。


83 :日本@名無史さん:2005/08/03(水) 21:34:52
>>76
>結局「病死」である証拠もどこにもないわけね?
だからって「毒殺された可能性が高い」ってのも違うだろ。

84 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 03:46:25
可能性としては次の3パターン
1.討幕派による毒殺。
2.幕府による毒殺。
3.単なる病死。

当初から毒殺疑惑が広まってた問題だから、
2・3のケースであったなら、
明治政府は当然しかるべき調査をするでしょ。
そして仮に幕府の犯行と分かったら、
鬼の首を取ったように騒ぎ立てたはず。

しかし実際には明治政府は緘口令を敷いてこの問題を厳重に封印する。
これは1の毒殺犯が権力を握った場合に見られる行動。

状況証拠からすると「討幕派による毒殺の可能性が高い」という表現で、
問題ないと思う。


85 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 05:31:11
慶喜は明治政府から勲一等を贈られ侯爵の爵位まで贈られたが。


86 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 08:47:43
慶喜は維新の功績が認められて公爵を賜った。
こうなったら孝明天皇陵を発掘を! 孝明天皇陵は明治天皇陵みたく丸く盛り上がってる??

87 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 12:45:38
孝明天皇暗殺の風説は明治天皇をコントロールするためにばえらまかれたという説
はどうかな。明治天皇がいうことをきかないと、岩倉あたりが、そういえば先帝の最後
はおいたわし、などとつぶやくわけだ。

88 :怨念:2005/08/04(木) 14:04:22
怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨
賊軍の汚名を着せられ、
恭順の意を表したにも関わらず強引に戦争を仕掛けられ、
領民を放火・略奪され、武士の妻を強姦され、
遺体はカラスに食い尽くされるまで埋葬を許されず、
生き残った者は下北半島に強制移住させられ
寒さと飢えで地獄の苦しみを味あわされた。
会津の怨みは永遠に消えることはない。
薩摩と長州の人間は末代まで呪われるであろう。
怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨


89 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 21:38:48
>>84
>2・3のケースであったなら、
>明治政府は当然しかるべき調査をするでしょ。
ちょっと待て、3なら普通に調査せんだろw

90 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 21:42:08
>>86
っttp://www.sakai11.jp/rm_tukinowanomisasagi.htm
ヨクワカンネ

91 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 21:43:11
>>87
>という説はどうかな。
「どうかな。」って言われてもな。

92 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 22:34:54
維新後宮内省の主流は旧幕臣・水戸藩関係者が多数占めており、
孝明天皇暗殺が事実とすれば何らかの情報を獲得できただろうが、
今のところ何故だかそのような話は聞かない。


93 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 01:06:53
孝明天皇暗殺ネタは、煽り叩きがひどいし、
専用板があるんだからそっちでやってくれってば!

孝明天皇は存在自体が大罪スレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1081738641/l50

94 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 02:17:07
>>93
いや、そこは孝明天皇の存在自体を叩くスレ。
ここは幕末のテロリズム全般について語るスレだから、
天皇暗殺事件は当然このスレの対象となる。
天皇自体ではなく、
天皇コロシという犯罪を問題にしてることにご留意を。

95 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 07:54:39
そこの厨房。わかっとらんな。
孝明天皇ネタは板が荒れるからイヤなんだよ。
そのスレのイヤってんなら、孝明天皇暗殺ネタ専用スレ作ってそっちでやれよ。

96 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 09:18:56
孝明天皇を毒殺した薩長&岩倉は右も左も分からない16歳の幼い明治天皇を手中に入れ徳川幕府を潰した。
薩長閥を中心とする明治新政府は明治天皇を大元帥陛下にまつりあげ近代国家軍国の道を歩み始めた。



97 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 18:28:07
>>95
1>> がここでやると言ってるのに君は何??

98 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 18:36:49
薩長の顕官ども(幼帝の頭なでながら)「錦坊や、おとなしくワシらの言うこと聞くんだよ
そしたらお前さんをスターにしてやるさかい、聞かんかったら?そら・・・・・」

99 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 18:59:03
なぜ関西弁なのか?

100 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:42:30
岩倉だからでしょ

101 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 22:11:35
考えるんじゃない感じるんだ!

102 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 22:23:18
>>98
大正天皇の狂、昭和天皇の腰砕けもそれで説明つくな。

103 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 22:26:58
岩倉は公家ヤクザ。
生活は極貧で傘貼りや賭場経営でしのいでた。
倒幕の密勅には幕府に対する恨みつらみがこめられてる。

104 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 22:29:44
佐々木克氏の「戊辰戦争」(中公新書)に孝明天皇は毒殺された
と、堂々と書いてあります。

105 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 23:12:55
岩倉は袖の下を慶喜に掴まされていた為、慶喜に厳しい薩摩を抑えて死一等を減じ謹慎とする旨の決定に尽力したという。


106 :日本@名無史さん:2005/08/06(土) 23:50:01
>>95
このスレのほとんどは孝明天皇暗殺ネタ、立派な専門スレに
なってますな。

107 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 11:06:45
>>104
昨年出た『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館)の中で佐々木克氏は、
「孝明天皇が悪性の痘瘡で没した」(348頁)と述べております。

また、私が所持している『戊辰戦争』の22版には、
あとがきに追記があり、原口清氏の論文は説得力があるので、
自分が述べた毒殺説は誤りであったことを読者にお詫びすると言ってます。

108 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 11:14:51
>>107
誤りの理由はなんとありますか。

109 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 11:26:18
ソースが出てるんだから、自分で調べろよ会津ヲタ

110 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 12:21:59
>>109
それは不可能です。戊辰戦争22版がでるのは、何十年か先ですから。

111 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 12:57:20
孝明天皇暗殺は発掘調査すれば真実が分かる。宮内庁は発掘許可絶対に認めないだろうけど……闇は永遠に………

112 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 14:14:41
佐々木は政治的圧力に屈したんだよ。
原口説だって荒唐無稽な仮説のひとつにすぎない。

113 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 21:58:39
>>112
>原口説だって荒唐無稽な仮説のひとつにすぎない。
っ【鏡】

114 :日本@名無史さん:2005/08/07(日) 22:04:27
伊藤博文閣下は小テロリストではない。ラディンなみの
大テロリストだ。

115 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 00:28:48
>>108
なぜ毒殺説を捨て病死説をとるのか詳細な説明はなし。

116 :日本@名無史さん:2005/08/08(月) 00:36:06
孝明天皇を毒殺した薩長&岩倉は16歳の幼い明治天皇を擁立し徳川幕府を潰し明治維新を成し遂げた。
薩長閥を中心とする明治新政府は明治天皇を大元帥陛下にまつりあげ近代国家軍国の道を歩み始めた。
その後の大日本帝国は戦争一色。

117 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 21:26:55
オススメ。
松浦玲『暗殺-明治維新の思想と行動−』

118 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 21:50:22
幕権の為の粛清と弾圧及び征長では腰抜けぶりを暴露した幕府に諸藩は愛想を尽かし、
以前のように恐れなくなった。


119 :日本@名無史さん:2005/08/11(木) 22:40:28
>>104>>107>>112
佐々木は大久保利謙の弟子筋だけど、薩長視点に立っていないので、
そこが面白いのだけど、原口や石井孝みたいな戊辰戦争研究のパイオニア
を自負する連中には面白くない存在だろうな。
自説を覆す勢力を削ぐ事に余念がなかったり、学閥争いや個人的な
好悪感情を「論争」という名で覆い隠してしまうのが学者だから、
孝明天皇毒殺説を佐々木が取り下げた理由は、彼が本当に原口の論に
納得したからかどうかはわからないよ。
ま、21世紀の現代では、原口、石井はすでに過去の人という感じも
なきにしもあらずではある。佐々木も既に古いと感じるけどね。

120 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 01:07:21
孝明天皇の毒殺については、医学的には決着がついたことである。

孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(おりべのかみみつおき)の当時の日記とメモが
光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、その中身が
昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。
『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。

光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの
容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。
さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。
「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、
痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」

伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、
同・石井孝氏、さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、
砒素(亜砒酸)だと断定している。

当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用させることはできなかった。
必ず、女官に渡して、女官から飲ませてもらうのだという。

前述石井孝氏は、女官たちの中で容疑者と目される者の名を、
つぎのように挙げている。

岩倉具視の実の妹、堀可紀子。
匂当内侍だった高野房子。
中御門経之の娘で典侍だった良子。

孝明天皇の死の最大の受益者は誰かということと、状況証拠から、黒幕は明らかである。

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