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□■■源義経について説明お願い!!■■□

1 :日本@名無史さん :2005/08/12(金) 19:45:00
明日までにどうにかしないといけないんだ!!!
お願いします!文章は長めで

2 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 19:46:19
ホシュ

3 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 19:52:55
お願いです!

4 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 20:25:59
1159年、源義朝と常盤御前の間に産まれる。幼名は牛若丸。
平治の乱ののち母と共に平清盛に捕らえられるもまだ幼年であった為、命を助けられ京都・鞍馬寺に預けられる。この時、遮那王と改名。
11歳のときに自分が源義朝の子であるとしった遮那王は、15歳で鞍馬寺を離れ商人・金売り吉次に連れられ奥州の藤原秀衡の元に身を寄せ、平家打倒の機会を伺う。奥州へ向かう途中、源九郎義経と改名。
1180年、兄・源頼朝が配流先の伊豆で挙兵したことを知り、郎党を引き連れて頼朝に対面し平家打倒を共に誓う。
1184年、頼朝の命により平家を追って京都に入り狼藉を働いていた従兄弟の源(木曽)義仲を破る。
その後、都落ちした平家軍を追って一の谷、屋島で次々撃破し、遂に壇ノ浦にて平家一門を滅ぼした。
京都に戻った義経は頼朝の許しを得ない行動(検非違使の任官、平家の娘との結婚など)や後白河法皇の接近等により頼朝との関係が悪化。次第に対立も激化し遂に頼朝は義経追討の兵を差し向ける。
義経は京都から奥州に逃れるが、藤原秀衡の「義経を絶対に頼朝に引き渡すな」という遺言に子の泰衡が背き、1189年衣川にて泰衡軍に囲まれ自害。


5 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 20:44:46
>>4ですが、もっと詳しい方がいいのかな…ってもあんまり詳しくないけどわかることならお教えします。

弱い者、負けた側への同情の念のことを『判官贔屓(ほうがんびいき)』といいますが、これは頼朝に容赦ない追討を受ける義経への同情から生まれた言葉と言われています。
『判官』とは検非違使という役職を指す言葉で就任した後の義経は源九郎判官義経と名乗っています。
義経は一躍悲劇のヒーローとなり、後世まで語り継がれ『衣川から落ち延び蝦夷へ向かい、そこから更に大陸へ渡りチンギス・ハンになった』という伝説も生まれました。


6 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 22:08:01
源義経
(1769年〜1821年)
清和源氏源義朝の九男として生まれる。
陸軍幼年学校、士官学校で、軍事を学んだ義経は、革命の混乱に乗じて頭角を現す。
1793年のトゥーロン攻略、1795年のヴァンデミールの反乱の鎮圧でその才能を発揮し、
1796年イタリア遠征でオーストリア相手に劣勢の軍隊で連戦連勝、首都ウィーンに迫り、
城下の盟を誓わせた。
1798年にはエジプト遠征を行うが、フランス艦隊がナイルの戦いで敗れ、
義経はエジプトに孤立することになった。
一方フランス本国も、イギリスを中心とする対仏同盟にイタリアを奪還される等の危機を向かえていた。
エジプトから帰還した義経は、無能な総裁政府に対する民衆の不満に乗じてクーデターを起こし、
第一執政になった。
政権の座についた義経は、マレンゴの戦いでオーストリアに勝利し、
内政面でも様々な改革を行い、民衆から圧倒的支持を受け、1804年に皇帝に即位した。
翌年ウルム、アウステルリッツでオーストリア、ロシアに勝利し、
1806年イエナ、アウェルシュタットでプロイセンに、フリートランドでロシアに勝利した。
これらの勝利でヨーロッパの大半を制圧した義経だったが、スペインの内紛の介入から、栄華に陰りが見え始め、ロシア遠征の失敗、
そして1814年のパリ陥落によって義経は退位し、エルバ島に流される。
翌年突如島を脱出した義経は、再び皇帝の位に還りざくが、ワーテルローの戦いで敗れ、
大西洋の孤島セントヘレナ島に流刑にされ、1821年その波乱の生涯を終えた。


7 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 22:14:21
アゲ

8 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 22:28:08
ありがとうございます!

9 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 22:31:14
ほかに分かることがあったらおしえてください!

10 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 22:40:30
「トラの尾を踏む男達」の映画は必見。昭和二十年完成の黒沢作品。
義経を叩かざるをえない弁慶の心境は心を打つ。

11 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 22:59:10
>>10
それは『勧進帳』の話?興味深いな…

12 :日本@名無史さん:2005/08/12(金) 23:30:41
>>11
スバリ!ピンポ〜ン。

13 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 00:14:39
武将としても数々の名臣を歴史に刻んできた義経。
1953年、第1号家臣うつぼの完成に始まり、1961年には「喜三太」、1963年には「武蔵坊弁慶」を発表。
武蔵坊は、弁慶の愛称で親しまれました。
1968年には、藤原秀衡がデザインを担当した「佐藤継信」がデビュー。
1974年には頼朝との共同家臣「梶原景時」、1981年には、再び藤原秀衡がデザインを担当した「佐藤忠信」、そして「伊勢三郎」を発表。
1985年には「静」を発表し、スタント走行などを使ったCMも話題になりました。
個性豊かな義経の家臣は、今もファンに語り継がれています。

14 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 02:10:28
壇ノ浦での義経も凄いね。
平知盛率いる平家艦隊に対する勝利は海戦史上特記すべき。
義経ターンからの丁字戦法は凄い。
丁字戦法を考えた参謀の弁慶も凄いけど、あのタイミングで敵前での逐次回頭しようなんて、
普通の度胸じゃできないね。


15 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 04:52:43
そういえば壇ノ浦では義経の『八艘飛び』なんてのもあったね。
何やらかっこいいけど実際は平家方の猛将・能登守教経から逃げた結果生まれた言葉なんだが

16 :日本@名無史さん :2005/08/13(土) 10:11:08
助かるよ。
あとは、レポートにまとめるだけだ。
ホントサンクス

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