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「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか17)

1 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 13:02:13
立場、主義主張を超えて真摯な議論をしましょう。
荒らしは徹底無視の基本方針でマタ〜リとお願いします。
歴史的スレタイを変更しないで! 写本の心で。

過去スレ:
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか16)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1119925933/


2 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 13:04:21
はいはいわろすわろす

3 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 13:36:03
>邪馬台国

初歩的質問。
当時の「魏」では「邪馬台」をどう発音していたの?

4 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 19:44:49
ユ・4チョル!

5 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 19:51:27
詳しくはないけれど九州説支持。


6 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/24(水) 20:27:08
難升米=率善中郎将
牛利 =率善校尉
伊声耆=率善中郎将
掖邪狗=率善中郎将

これら「率」を下賜された者達が任に就いた役所を
〇〇率と、言うのではないか

7 :日本@名無史さん:2005/08/24(水) 21:01:29
率は(ひきいる)という意味なので
一大率は先生が受けもつクラスの人数(多くて50人くらい?)
の兵隊をひきいていたってことだと思います


8 :スレ立て乙:2005/08/24(水) 23:27:11
>>7
複数人中の一人の地位ないし任務を表しているだけで、人数とは関係がありえないです。

9 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 01:13:15
age

10 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 01:17:24
俺は吉野ヶ里だと思っています。
見張り台の数の多さはまるで何かに怯えているようですし
地名を信用できるかどうか未調査ですが近くに大和町があります。

11 :tociguri:2005/08/25(木) 03:06:56
>>10 いやヤマトタケル伝説から見ると川上タケル(元祖ヤマトタケル)の
根拠地川上=ヤマト=邪馬台国ではないか?


12 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 04:14:01
俺は吉野ヶ里だと思っています。
見張り台の数の多さはまるで何かに怯えているようですし
地名を信用できるかどうか未調査ですが近くに大和町があります

13 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 04:20:56
しかし、最終的な大和朝廷の高天原が鞍手の物部であるから
豊国とみる方が正しい。
大和の勢力が仮にあっても怯えてるのに、安定的な政権であるわけが
なかろう。クナにせよ邪馬台国にせよここが
巨大国家邪馬台国の中心地であるはずはない。

14 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/25(木) 11:36:23
あの日、あいつはピーターパンになった

15 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 12:38:14
↑荒らしだな

16 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 23:10:57
>>14
あいつって誰?それが邪馬台国と関係あんの?

17 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 23:34:09
イジャナミ系(伊邪国)=安曇氏?南方系
ヤハタ系(邪馬台国)=秦氏?半島系
隈系(狗奴国)=原住民?
の三つ巴の戦い。
垂玉命とは魂をタラ(梵語で拝む)命
軍功のあったヤハタ一族は後に大和朝廷に軍神八幡として
祀られる。
では?つまり隈の魂を弔うという意味だろうか・・



18 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 23:35:55
神代のころに梵語読みの命、神がいたのかい?

19 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 23:49:14
神社作った時には仏教が入っているでしょう。

20 :日本@名無史さん:2005/08/25(木) 23:53:50
仏教伝来は552年ころ、伊勢神宮等もっと古い神社はうんとあるはず。
その命は552年頃以降の方か?

21 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 00:10:13
磐井の乱(527年)以降、
八女に物部の降臨するから、後、神代(クマシロ)に
入り少しして大和に仏教が伝来、その後神社建築が始まるので
時間的にも辻褄があう。

22 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 00:23:16
478年、豊受大神宮なるとか、崇神の時代伊勢神宮なるとか、神社建築はもっと古く
な〜いの?問題はその命が何時頃存命していたかどうかさ。
だって梵語の名なんて仏伝前じゃあおかしい。

23 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 00:31:38
垂玉命が何時出来たかは分からないよ。
記紀にないから。
日本の神の中には先住民祀った神が無いに等しいん
だから一つくらいあってもいいだろう。

24 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 00:42:26
仏教そのものは帰化人あたりが既に持ち込んでいただろう。

25 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 02:22:18
えぇ~、もう当時から在日がいたの?
あぁ~こわぁ〜^^
で、謝罪と賠償はしたんでしょうか?

26 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 02:52:52
>>25
優等生の「在日」に馬鹿にされたかね?

27 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 09:10:33
>>23
あってもいいが、事実と、創作やあなたの希望とは、これは別。
仏伝以前に日本に梵語名の神がいるならば、天竺あたりからの渡来人がいたことに
なり、論議せねばならんよ。

28 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 09:59:02
別に仏教渡来以前からこの神(垂玉命)が祀られていたという
事実はないでしょうし、仏教伝来以前に仏教の
考え方が入っていないとも言えない。
そういう微妙な時代なので、梵語の渡来時期までを議論する
必要もないでしょう。
(岩山戸遺跡や磐井の墓でもこれに関係すると視られる出土はないと思う)
この高良も本来何であるか考える価値がある。
末盧国が松浦に変わったのと同様にラというのに一つの意味が
あるのかな
高良垂玉命(高い、良い、垂(梵語で祈り)、玉(魂)、命(祈り))
タラという地名は長崎南部にあり、
阿蘇の神社でも垂玉命が祀られています。垂玉川あり
この地方にいた神官が懺悔の念でこのような弔い方をしたのではないだろうか?
甘木夜須では皇后が「熊鷲を取り得て我が心則ち安(夜須)し」
というようにこの地の豪族熊鷲が稲荷神社として祀られています。
この地の先住民は統一した宗教を持たず磐や熊(籠)といった
原始的な宗教しかなかった為に赴任した神官がそれぞれを各自各様に
祀ったとも考えられる。



29 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 10:09:53
ずーっと気になってるんだけど、吉野ヶ里の環濠って外側に柵があるんだよね。外敵を
防御する為なら逆に内側に柵があるべきだと思うんだけど、、、
もしかして吉野ヶ里って捕虜収容所?監視塔つきの。

30 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 10:23:14
水城って唐の侵攻畏れて作る場所じゃないよね。
どう見てももれには国境線にしかみえない。

31 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/26(金) 10:27:03
2chよりYAHOOやmixiのほうが議論が盛り上がってるようですよ

32 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 12:49:05
mixiってどこですか?

33 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 13:04:32
ヤフーは一つ一つめくらないといけないので
なんか、使いにくい。

34 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 13:20:52
つ 専用リーダー

>>31
森下げてるのは自分だと気づけ。

35 :日本@名無史さん:2005/08/26(金) 15:07:01
大変だ!
対馬が 在日韓国人移住者という名の侵略軍に島ごと乗っ取られそうになってるよ!
(詳細はスレのテンプレで)

対馬終了のお知らせファビョ〜ン!〜Part2〜
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/news/1124992446/l50




36 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/27(土) 16:57:37
mixiの邪馬台国コミュのほうでお見かけしましたが
原田実さんというのは著名なプロの古代史研究者なのでしょうか?
ググってみたら結構本とか出してるほんまものの
研究者のようですが・・こんなすごい人がネット上にいたなんて。。
僕みたいなド素人が浅い知識でああだこうだと言ってるのが
恥ずかしくなってきた。

37 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 16:58:13
潮が引くように、コテハン達がいなくなってしまった、若干一名ほどは居座っているようだが
未だ自分が、この原因を作った事に自覚が無い
幸せな奴だ
この寂れたスレの状態は、近年に無い

38 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 17:05:56
福岡佐賀が朝鮮とは遠いという調査結果が希望にそぐわないので
しらけて、面白くなくなったのでしょう。
本州人の唯一の愉しみ福岡=朝鮮認定が出来ないのですからw

39 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 17:11:50
>>38
相変わらず被害妄想の強いヤツだな
誰もそんなこと考えてないぞ

40 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/27(土) 17:30:08
S・A・G・A 佐賀

41 :圭角:2005/08/27(土) 19:41:38
37さんにお応えして。
 邪馬台国論というものは、結局は文献つまり魏志倭人伝の解釈論であるということ
重ねてあらためて主張したいなあという気持ちでおります。
 考古学的解釈論ではないと自分は思います。無論、考古学裏づけが皆無の場所にて
邪馬台国論が存立はしないでありましょうが、北部九州説というのは、両論からして
やはり最有力であります。
 

42 :圭角:2005/08/27(土) 19:50:25
 水行二十日や水行十日陸行一月もしくは一日は、さして重要ではないです。
倭の地は周旋五千里と陳寿が、倭人伝前半地理誌でそう締めくくっていると
いうことこそが重要なことです。
 小人国の記述は沃狙国伝を受けたものです。
女ばかりの国や、顔が二つある人の居る国のことを陳寿の記事を読まれる事を
重ねてお勧めします。

43 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/27(土) 20:09:45
こんばんわ圭角さん

「日本書紀」の神功皇后の項目に倭人伝の外交記事が使われています。
何故
中国正史を使用したのでしょう。
編纂当時国内では、魏王朝への朝貢はおろか、邪馬壹國や卑弥呼の内容そのものが、国内で情報収集出来なかったことの証明かと思われます。

44 :日本@名無史さん:2005/08/27(土) 20:45:22
>>43
中国とは対等、新羅は属国という思想で書かれた日本書紀で
どうやったら中国王朝の臣下であった事実を記載できると思いますか?

45 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/28(日) 00:05:42
>>44
対等とはいえ、
それはあくまで新生日本国の話で「倭」の時代と違うんだと、言う現れではないか?
中国正史に記載あるものを完全無視も出来ない
万世一系の形も作りたい
そんな天武や編纂グループのジレンマが、
記の「倭」であり紀の、「日本」ではないであろうか?

46 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/28(日) 08:51:49
直接関係ないかもしれませんが、ひとつの説を。
史書としての三国志が成立した当時、時代は司馬氏の立てた晋の時代でした。
そもそも陳寿が著した三国志自体は、晋の文帝の発案により晋の首席秘書官で
あった張華が、部下の陳寿に記述させたモノでした。そのため、陳寿が記述した
三国志が正史として認められたのは陳寿の死後二年の後。
このような成立の事情があったためか、三国志自体は魏王朝を滅ぼし
晋を建国した司馬氏に、かなりおもねった史書とと言う性格が指摘されます
(ま、これは中国の正史には共通の傾向ですが)。
さて、三国志演義で諸葛孔明最大のライバルとなる司馬懿は、
魏の斉王後見人となって権勢をふるうのですが、
同じく後見人となった曹爽とはライバル関係にありました。
この曹爽の父である曹真はかつて、
西の大国である大月氏の魏への朝貢を実現させていました。
大月氏は中継貿易で栄えた西の大国で、
王朝の勢力を誇示するために周辺国家の朝貢というのは、
非常に大きなセレモニーでした。


47 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/28(日) 08:58:01
司馬懿は238年に、公孫淵が支配する朝鮮半島を総大将として遠征し、
朝鮮半島を魏の支配下に治めます。この結果、朝鮮半島周辺の国家
(と言うか小勢力群)から魏への朝貢が行われました。
その中のひとつが、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国なのです。
陳寿が著した三国志では、司馬懿の功績をライバルの曹爽に匹敵するモノとするために、
邪馬台国を曹爽の父の曹真が朝貢を実現させた
西の大月氏に匹敵する大国として描く必要があったと推測されます。
大月氏は魏の都・洛陽から西に一万七千里。
それに対抗させるために邪馬台国も帯方郡から一万二千里と、
誇大な遠隔地に設定された可能性があります
(遠い土地から遠路はるばる朝貢にやってくるという事は、
皇帝の徳が未開の蛮地まで届いたことの傍証となる)。
大月氏が魏からもらった印綬が「親魏大月氏王」の印。
卑弥呼がもらったとされる印綬が「親魏倭王」の印とされるのも、
そこら辺の事情を推測させます。
卑弥呼の死が247年から248年であり、司馬懿がクーデターによって魏の実権を握ったのが249年ですから、
そういった中国側の事情を抜きにして、三国志の距離の記述を鵜呑みにするのは、実は危険な気がします。


48 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/28(日) 09:00:11
邪馬台国の比定で問題になる「水行十日陸行一月」の記述も、西の大月氏に匹敵する
東の超大国・邪馬台国という幻想を作る必要があった。
実際、司馬懿の政治的ライバルであった曹真・曹爽親子の業績は最小限に留められています。
ちなみに、洛陽から帯方郡郡までが当時の知識として五千里。
帯方郡郡から邪馬台国までが一万二千里。
大月氏の都までの距離一万七千里とピッタリ一致します。
司馬懿が公孫氏を打ち破って征服した朝鮮半島も三国志には四千里四方と
記述されていますが、これではインド半島並みの巨大半島になります。
魏の首都である洛陽周辺一二県を含めた戸数が十一万戸と記述されているのに、
邪馬台国七万戸という記述が、どういう意図を持って描かれた、
だいたい推測できるのではないでしょうか(邪馬台国が実際より南に描かれているのも、
季節風による方角の誤認と言うより、敵対国である呉への政治的圧力・アピールとも
考えることが可能です)。
以上の説は、ソエジー(笑)の師匠である岡田英弘氏の『日本史の誕生(弓立社)』や
『倭国の時代(中公新書)』を参考にさせていただいております。自分にはかなり面白い説だと思えます。
実際に読んでいただくのが手っ取り早いですが、こちらのサイトもダイジェストとして良くまとまっています。
http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai28-Gisiwajinden.html

49 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 09:07:37
>>46
定説、皆承知のこと。
これといって有力な反対説もない。
いまさら、何ゆえにそのようなことを書き連ねますか?
何か書くなら、それに対する貴方の見解なり、仮説なりを披露したら?
そうしないと、これ以上スレが展開しないよ。

50 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/28(日) 09:12:39
では、現時点で、この点はまだ九州説が優位という点をあげていきましょう。


 魏志韓伝には、韓国の鉄を倭人が採っているとの記述があります。
日本列島で製鉄がさかんになるのは5〜7世紀以降(この年代については論争があります)
でそれ以前は鉄資源は朝鮮半島からの移入に頼っていたものと思われます。
そこで鉄器の出土分布を調べればその時代の朝鮮半島との交易ルートを支配した勢力が
どこを拠点としていたか、推定できるはずです。
 弥生時代を通しての鉄製品出土件数では、福岡・熊本両県がそれぞれ1700〜1800点、
鳥取約800点、京都約500点、大分・岡山がそれぞれ400〜500点と北部九州の優位は明らかです。
なお、京都府の出土件数が多いのは一見畿内説にも有利なようですが、実は京都での鉄製品出土は
畿外の地である県北部(丹後地方)に集中しており、これはむしろ日本海の
他の地方(北部九州含む)との関わりの深さを示すものとみた方が妥当でしょう。
それに対して大阪府・奈良県の鉄製品出土件数は合計しても200そこそこ、
奈良県だけにかぎれば10件ほどにとどまります。

 

51 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/28(日) 09:15:12
私は、最近の古墳時代開始時期の年代引き上げ論についてはまだ確定した議論とはいえない、と考えていますので、
弥生時代の鉄製品出土分布は邪馬台国所在推定の決め手の一つになるものと考えています
 重要なのは、こうして鉄製品出土における北部九州の優位が年代引き上げ論で邪馬台国の時代とみなされている
古墳時代初めになってもまだ続いていることです。
 これは邪馬台国時代を古墳時代の初期にもっていっても、
まだ北部九州が鉄交易ルートの主導権を握っていた時代に属している、
ということを示しています。
この点については寺沢薫氏の『王権誕生』に示されています
(寺沢氏は畿内説ですが、鉄の扱いについては公正です)。
古墳時代に入ってからは畿内の古墳からの鉄製品出土が次第に多くなり、
鉄交易ルートの支配権が北部九州から畿内に移ったことが明らかになります。
それが畿内の王権による広域支配の確立を示すものであることは間違いないでしょう。
というわけで九州説に優位な根拠として、
まず、鉄の問題を挙げさせていただきます。


52 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 09:22:11
一生懸命書いているんだから、ケチつけるのもどうかと思うな。
それよりヒッキー他の事しろよ。


53 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/28(日) 09:25:35
他の事?

54 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 09:32:57
漏れなんか素人だから、
草薙の剣とはつまり狗邪ナギの剣と思っていたりするから。
にしても、製鉄は技術はもとより、原料をどこから調達するかが
最大の鍵なわけだが当時の人はどこから調達していたのだろう?
やっぱ狗邪韓国だけだろうか?
あと、必要なのはコークスだな、これは筑豊と大牟田にある。
九州で鉄鉱石がとれる場所ってあるの?


55 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 09:34:38
>>53
ほれ、大学受験とかすると言ってたじゃん。
大丈夫かなと思って。

56 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/28(日) 09:41:11
>>55
大丈夫です。やはり調べていくと
歴史の専門職に就くのはほとんど
不可能に近いことが分かったので
やはり普通に理系にすすむことにしました。
2流大学くらいなら僕の頭でも
1年勉強すれば余裕で受かります。

57 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 09:46:18
お、頼もしいねw

58 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/28(日) 09:53:17
>西都原古墳群:
>国内最古級の前方後円墳の可能性 宮崎
> 宮崎県西都市の国特別史跡「西都原古墳群」にある81号墳が、3世紀中ごろに築造されたと見られる国内最古級の前方後円墳の可能性が高いことが宮崎大の調査で確認された。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/news/20050519k0000m040124000c.html

http://www.asahi.com/culture/update/0518/001.html

http://www.the-miyanichi.co.jp/news/index.php3?PT=1&DT=20050519

 3世紀後半となると卑弥呼の時代の直後です。台与の時代とみなしても良いでしょう。
 西都原古墳群の形成がその時代まで遡るとなると、前方後円墳体制がすでに南九州に達していたことになるわけで、これは畿内説に有利ですね。

 ただ、これらの新聞報道では年代判定の根拠となった土器の具体的様式が挙げられていないのが、惜しいところ。

 畿内の古墳時代開始年代引き上げに準拠しているとすれば、この年代判定には慎重になる必要があるでしょうし、逆に判定基準となった土器の絶対年代がさらに遡りうるなら、前方後円墳体制が卑弥呼の時代、すでに南九州に達していたという解釈も可能になります。

 もう一つ、アクロバチックな解釈としては前方後円墳体制の形成が当初は九州主導で始まった、というのも一応可能です特に邪馬台国日向説論者から、この解釈が出てくることが予想されます。

 いろいろと想像をめぐらすだけでも楽しめますが、とりあえずは続報に期待しているところです。


59 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 12:13:52
高良垂玉命
高良は高い国(ラ)でしょうね、
垂玉(すいぎょく)寺というのが
かつて熊本などにあったそうです。
やはり仏教的な意味合いが強いのか?

60 :圭角:2005/08/28(日) 12:30:22
プラムさんの43へのご返事です。書記が神功皇后で魏志を引いた理由についての
わたしの知人の説を書きます。ご意見賜れば幸いです。
 中国正史に書かれていることを日本の正史としても完全無視はできなかった。
 卑弥呼の伝承を現地で収集し暗記するために、勅語を以って稗田阿礼が筑紫へ
 派遣された。その証拠は、歴史的事実とは認めがたい景行天皇から神功皇后の
 間の記事において、筑紫地方の地名がやたらと詳細をきわめていることである。
ちなみに、稗田阿礼は舎人ですね。舎人とは、ご承知のとおり、天皇皇族に近侍して
雑事をした人で、豪族や国造の子弟が任についてしたとされています。
そこで、わたしは稗田という地名を探しましたところ、奈良県大和郡山以外にも
たくさんありました。無論、九州にもありました。
彼が、九州の稗田の豪族の子弟で舎人で云々という仮説は興味深いと思っています。


61 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 12:44:10
稗田は関門海峡沿いに多い地名ですよ。
下関、行橋がその中心地と思われ。

62 :圭角:2005/08/28(日) 13:00:46
ヒッキーさんへ。
あなたの岡田氏や鉄器の書込みは以前このスレでずいぶんと取り上げられた次第です。
さて、ヒッキーさん、やはり自分の頭で考えることが大事ということを、あなたが
岡田氏の著作から引用した所において、ひとつ指摘させて下さいな。
48の書込みです。
 倭の位置を呉と同じくらいの南の緯度にして記述したのは、魏が呉を政治戦略上での
理由に拠るとの岡田英弘氏の中公新書の倭国の一文。
 氏は失当であると思料します。理由は、呉が魏から滅ぼされた年次は280年ですね。
一方で、陳寿が三国志の著述を開始したのはちょうどその頃、とされていますよ。
陳寿四十八歳とされています。
 つまり、もはや滅ぼした呉を牽制するなどという意味は無いのです。
岡田氏は碩学な方ですが、ヒッキーさんもご自分で考えてのご意見を早くお持ちになると
素晴らしいかと存じます。


63 :圭角:2005/08/28(日) 13:07:36
61さん、さっそくのご返信有難うございます。
 行橋と、すでにご存知でございましたか。
稗田阿礼が行橋地方の豪族の子弟であったという仮説を、今後わたしも
考えて検討したいと存じております。
 なんとなれば、記紀は九州説を補強するものとなるかもしれませんね。

64 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 13:16:52
稗田阿礼は女性という説が江戸時代より根強くあり、
稗田氏そのものが巫女(シャーマン)と関係の深いに
あるものと考えられる。
地名もこれに対応するので、八幡系と関係の深い一族のように思う。
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/11_ota/11052.html
稗田神社
誉田別命
天照大神
武内宿称命
荒木田襲津彦命
春日大神

65 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/28(日) 13:22:41
宮崎県立西都原考古博物館主幹・北郷泰道氏が
次の書籍を出されました。
『日本の歴史1 西都原古墳群』
 同成社 2005年8月10日
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886213294
http://www.bk1.co.jp/product/2582404

北郷氏は81号墳を4世紀初頭前後の築造とみておられます。
ただし、北郷氏は西都原古墳群でも台地上に密集している18基の前方後円墳のうち16基の築造時期を80年程度、1世紀の時間幅の中に収まるものと想定しておられます。

 北郷氏は4世紀半ばから5世紀前半頃までのこの地域に最低4系列の首長墓系譜が並立していたとみなすのですが、それはそれで無理があるように思われます。

 北郷氏は16代1系列とすれば320年もの間、柄鏡形前方後円墳を造り続けていたことになる、として系列を分散させるわけです。

 しかし、狭い地域に4系列もの首長がひしめきあっているのも不自然です。320年は大げさにしても、ある程度、この地域の古墳時代の上限を引き上げ、年代幅を広げる必要はあるものと思われます。

66 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/28(日) 13:26:59
>>62
江南の勢力が背いたら倭国とはさみうちの形にすることができるんだぞと
いう脅しでしょう。政略上の理由から倭国を利用しようとする意図は
あったふうに思われますが。

67 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/28(日) 13:31:35
自分は日本書紀の皇極天皇三年七月の条ににある常世虫の記述から、東国の富士川周辺に
養蚕の技術が浸透し始めたのが7世紀頃ではないかと考えています。
何やら虫をあがめる集団(たぶん秦氏の系統)が近くにやってきて、彼らの富と権力の源泉はどうもその虫がもたらすものだ……
という認識から、カーゴカルト同様に蚕に似た虫(たぶんアゲハチョウの幼虫)をあがめるという宗教的熱狂が生まれたと考えております。
異文化集団とであったときの、土着文化のパニックの典型的
パターンのような気がします。
してみると、養蚕の技術は北九州からかなり長い時間をかけて、じょじょに北上しているように思えますね。
養蚕技術は桑の木の植林と安定した桑の葉の供給がセットなので、
これも当然かも。ある場所に突如として養蚕の技術が出現するわけもなく、
また遠隔地に知識だけ伝えても、桑の葉の生産体制が整わないと、
絵に描いた餅ですからね。飛び石的に伝播するにしても、受け入れ先の
桑生産体制が熟さないと、無理ですから。
そう考えると、砂鉄(花崗岩)と豊富な木炭の供給という条件がそろう場所ならば、
技術者の移住によって飛び石的に遠隔地にも伝播する可能性が高い
金属製錬技術よりも、絹の出土の方が斬新的な気がするのです(素人考えですが)。
しかし諏訪地方の金属精錬に関する、永久保貴一先生の仮説などから鑑みて、
その可能性は否定できないような。
もちろん、常世虫騒動と邪馬台国の時代とは、時間的に離れすぎているので
傍証にはなりませんが、少なくとも養蚕の技術はおいそれとは伝播しないという、
間接的な証拠のような気はします。日本各地の最古の絹の出土状況を
グラフ化すると、そういう傾向(じょじょに北上している)が見えたら、
面白いんですが。そういう研究は、寡聞にして聞いた事がないのですけどね(笑)。


68 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 13:46:41
つまり、記紀編纂時から稗田(卑弥呼の末裔?)という渡来
氏族ぽいのが絡み、既に日本は渡来人に占領されていたという事だろうな・・

69 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/28(日) 13:49:47
あ、あくまでも邪馬台国が大和朝廷になったと仮定して、
 岩戸隠れ=火山灰による太陽の遮断
だとすると、大和朝廷は太陽神信仰ではなく火山信仰になるのではないか?
と言う疑問です。

出雲の大国主は大穴牟遅神・大己貴命・大穴持命の別名を持っていますが、
大穴=火口という事で、火山信仰が各地にあったのは常識です。
大浪の池とか、宮崎は火口湖が歩いていけるレベルであったりしますが、
そういうのを実際に見、また火柱を吹き上げる活火山を間近に見ると、
火山信仰が生まれて当然だと思います。

で、星野之宣先生は大和朝廷の重要な二つの神社、
伊勢神宮と宇佐八幡宮の間には活火山がない、
火山信仰の土着の人間とは異なる文化を持った
人間達による結界ではないか?という仮説を元に、
『ヤマタイカ』という壮大なファンタジーを描かれたのですが(笑)。


70 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/28(日) 14:21:49
地震です。京都で激しい地震ですよおお助けてー

71 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/28(日) 16:46:08
>>67ヒッキー君
君は何故マルチを止めようとしないの?
何処かで見掛けたような、二重人格を装うレスの付け方
ヒマを持て余し、住人達をからかって楽しんでいるようだが いい加減にしたらどうだい、もう十分に楽しんだろう
とにかく【マルチ】だけは直ぐによせよ

72 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 17:26:19
おーい
九州王朝野郎、何かコメントは無いのか?

73 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/28(日) 17:43:55
>>60圭角さん、いつもながらレスありがとうございます。
しかしながら500年と言う年月は余りにも長い歳月の様ですね
現在のような情報過多な時代であっても500年前は遠い世界、増してや八世紀当時の500年前、場所は500q西の九州
正に異国の歴史を調べる作業「阿礼」にしたところで大変困難を極めた作業とさっします。
ようするに、邪馬壹國の情報など畿内では皆無
魏史を見て初めてその存在を確認したのではないでしょうか?
天武帝も、その扱いに大変苦慮したことでしょう

74 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 18:00:30
阿礼が天鈿女命の後裔(こうえい)であるとする資料
(《弘仁私記》序)も見逃せない。アメノウズメは,天の岩屋戸神話,
天孫降臨神話などでシャーマン的な能力を発揮した女神で,
猿女氏の祖である。猿女とは古くは原始的呪的伝統をひく
〈をこ〉(滑稽)なる歌舞をもって宮廷神事に仕えた巫女で,
アメノウズメの話はその職掌起源譚であった。■田姓は大和国
添上郡の地名にもとづくもので,猿女氏と■田氏は同族であった
と考えられる。また平安朝に猿女と同じく縫殿寮に属していた■
田氏出身の女官職は,オバからメイへと継承されていた。これは
生涯独身で過ごす巫女職の継承法であった。これらを考え合わせると,
■田阿礼は猿女に属する巫女であり,その由縁をもって《古事記》
編纂にかかわったと考えるのが妥当である。《古事記》編纂に
巫女が関与したのは,これが本質的には文字以前に属する神話
であったからである。語り伝えられることを本義とする神話を
,語りごととして表現し定着させることが,〈誦習〉という
仕事であったと思われる。《古事記》上巻の一部に,発音に
関する注が付してあることが,その一証となる。


75 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/28(日) 19:14:29
>>74、「阿礼」にしたところで
「記紀」編纂に辺りその存在価値が歴史上表面に出て来たに過ぎない人物
そのような人物に対して、先祖探しが出来るとは到底思えない。
神代に登場する人物の大多数はこのような状況ではないだろいか?
××は、〇〇の後裔ではないかと、言う議論は
到底このスレには相応しくないと思う。
肯定も否定も出来ない永遠の水掛け論になってしまう

76 :圭角:2005/08/28(日) 19:45:49
プラムさん、こんばんわ。
 たしかに、五百年という時空はまさしく長く巨きいものだと自ら思う次第です。
現在より五百年遡れば、江戸幕府開府以前ですものね。まさに五百年といものは
歴史時空と形容すべきと存じます。
 ところで、わたしが注意を払いたいと思っておりますことは、記紀編纂の意図と
政策趣旨という点です。このことに関しては、坂口安吾の歴史推論が著名ですが。
 無論、わたしは以前より申し上げておりますように、記紀に史実を求めるもの
ではなく、その編纂背景の背景にこそ、歴史的興味を抱くものであります。
 ただ、古事記の稗田阿礼に関する序文と、筑紫地方に関する記紀の記述の、背景
において、歴史もしくは正史の裏にはウラがあると思料する次第です。
 この点は、いつか申し述べましたように、書記引用が景初三年だから倭人伝の
二年が誤りともいえない、ということと同様であります。
 末尾ながら、わたしは稗田阿礼がはたして何処の出身であったかについては、
おおいに関心があります。記紀の内容には関心はあまり無いですが、舎人であった
稗田阿礼が天武天皇から勅語されたという歴史背景に興味がある次第なのです。
 古事記序文の太安万侶の記したその序文に、舎人の身分でしかない稗田阿礼に
あえて勅語して、というのは、尋常ではない背景を感じ取る次第であるのです。

77 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 19:50:03
>>75
定説です。
そういう否定をするなら、全てが証拠がないと否定できてしまう。
国の歴史書を編纂するのですからそれなりの人を
抜擢するのは当然です。

78 :圭角:2005/08/28(日) 20:04:30
今、手元に資料がないので失礼しますが、書紀引用の卑弥呼の朝貢記事は
大宰府天満宮でしたかな、カンエン−−失礼失礼−−という文献記録ですね。
むろん、倭人伝のショウコウ本の系譜が正しいのかカンエンの系譜が正しく
いずれが誤記であるのかは判りません。
 しかし、記紀編纂当時において卑弥呼も邪馬台国も景初二年も三年も、また
魏の明帝のことなども、大和朝廷の面々も天武天皇も、知っていたということ
には間違いなくなりますね。
 邪馬台国は大和朝廷になったのか、という別スレがありますが、
仮にそうであれば、卑弥呼の魏志引用文を神功皇后の節ではなく、当然当然に
アマテラスの節にて日本書紀は引用すべきとして自然と解す次第です。
 この点からも、九州説に光が射すというべきと思料するものであります。

79 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 20:10:35
http://homepage1.nifty.com/shoumu/
万葉集は日本最古の歴史書

80 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/28(日) 20:18:48
>>77さん、ならびに圭角さん よく解りました。
「記紀」は最初の国史で、古代に最も近い正史です。疎かに出来ない事を改めて痛感致しましたしだいです。
しかしそれと同時に、より冷静に判断しなければならない書物であることも感じました。

81 :圭角:2005/08/28(日) 20:20:57
連投で恐縮です。
 77さんの書込みに関しましてわたしの論点を今一度明確に致します。
77さんのおっしゃる通り、古事記序文にては稗田阿礼は文章表現においても
暗記にても優れ秀でていたとあります。
 さてさて、わたしが明確にしたい論点とは、古事記にて
筑紫地方つまり北部九州の地名地形地勢が、非常に精密緻密を極めていること
からして、稗田阿礼を筑紫に派遣して、九州邪馬台国卑弥呼の伝承は古事記の
編纂においては、明らかに無視黙殺できぬ程のものとして、当時周知されて
おり、太安万侶が勘案考慮して神功皇后の節に、魏志を引用したということで
あります。

82 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 20:28:53
もう、言いたい放題、ボケまくり放題ですねw

83 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 20:56:21
ここまで低レベルになると、さすがのヒッキーも引くだろうなあ。

84 :日本@名無史さん:2005/08/28(日) 21:07:51
↑だったらよそのスレに行けば サヨナラ >>83

85 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/29(月) 08:52:53
なぜ稗田阿礼さんがこんなところにでてくるんですか?

86 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/29(月) 10:43:39
>>85「ヒッキー」君
何故かは
>>74に、聞いてみな!

87 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 10:45:07
>>82.82同意
>>圭角さん
陳寿が記した時に呉は滅んでいたって、、、、wその論理展開も失当じゃないですか?

そもそも魏志倭人伝の邪馬台国の位置や道程(の基本資料)については2世紀末に来た帯方郡の
使者の旅行記を元にしてるという説が有力。陳寿には邪馬台国の位置を呉の東におく理由は、
呉が健在だろうが滅んでいようがありません。

88 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 10:49:45
そう、イライラしなくてもいいでしょう。

89 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 10:57:52
地理関係はともかく、陳寿の認識では、琉球地方の倭人と
似ていると思っていたのでは?
だから呉の東に倭大陸がありその南の小島が琉球である位の
感覚だったのでしょう。
また、倭の北にも島があることは知っていたようである。


90 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/29(月) 13:23:02
丸山弁護士ですら100キロ25時間くらいで
走破してますしねえ・・

91 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/29(月) 13:34:20
東晋・木華の「海賦」という文にも「裸人の国」「黒歯の邦」が出てきます。おそらくは倭人伝を受けてもいるのでしょうが、この両国周辺の情景についての描写もあり、あるいは倭人伝より以前の資料の残簡を用いたかも知れません。

それによると、この両国近くの海岸には鯨の死骸が漂着したり、「毛翼」という鳥が群れ飛んだりしているようです。

 古田武彦氏は「毛翼」をコンドルとみなし、南米説の傍証にしようとしましたが、アホウドリなども羽毛を撒き散らすような鳥なわけで決定的なものではありません。

 これはやはり中国南方や東南アジアにみられる島々の描写を借りたものとみなすべきでしょうね。

黒歯国は『山海経』にも出てくる東方辺境の国名ですし、辺境に裸で暮らす人がいる、という記述は『淮南子』などにも出てきますから、裸国・黒歯国というのは遠方の国に関する断片的な伝聞を、中国の文人が古典の知識に基づいて解釈したものと考えるのが妥当でしょう。
具体的なモデルがあるとすれば、ビンロウを噛んで歯を染める週間がある人々や(古代中国人から見て)裸で暮らす人々がおり、水鳥が群がる岩礁・小島が多い地方ということで、澎湖諸島もしくはインドネシアあたりということになるかと思われます。

裸国・黒歯国について、南米説以外に変わった説としては、イースター島説などもあります。くわしくは拙稿「イースター島と『海賦』−偽史列伝10−」『季刊邪馬台国』第64号、1998年4月15日、参照。

あと、ネット上には台湾説などもありますね。
http://inoues.net/mystery/kokusikoku.html

92 :圭角:2005/08/29(月) 14:10:32
87さんにお尋ね致します。
87さんが87にて書込みなされているところの
陳寿の倭人伝の記事資料は、二世紀末の帯方郡使者の旅行記を基にしている
という説が有力であるとのお書込みですが、もっと詳しくご教示くださいませ。
 と申します理由は、ご承知のとおり、
184年黄巾の乱189年薫卓の乱189年公孫度独立、という歴史年表年次
からして、後漢の経営する帯方郡は既に存立していないと推定して自然です。
まして、その帯方郡は公孫度が独立した遼東の南に位置します。そしてまた、
ご案内のとおり、帯方郡は公孫度の跡を継いだ公孫康により創設されたもの
です。漢が設置した四郡とは、楽浪、臨屯、玄兎、真蕃郡のはずです。
 公孫度の死に公孫康が継いだ年次は204年です。
つまり、二世紀末の時点では、帯方郡も帯方郡の使者も存在しえません。
 わたしが間違っておればご指摘賜りますようお願いいたします。

93 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 14:15:31
圭角さんは何歳で何してる人だろうか・・ちょっと気になる

94 :87:2005/08/29(月) 19:13:08
すいません。手元に資料がない上、具体的に誰の説だったか覚えてません。二世紀末の使者が
「帯方郡」の使者であったというのは私の勘違いのようです。今夜にでも調べなおしてみます。


ただ87で言いたかったのは、陳寿はあくまで当時の最も信ぴょう性のあった邪馬台国の位置を
書いただけだったのではないかということです。陳寿が著述始めたのが280年ごろだとして
何故こうなるのか
>>つまり、もはや滅ぼした呉を牽制するなどという意味は無いのです。<<
よく解らなかったのです。陳寿は伝聞から邪馬台国の位置を記したのであって、
「呉をけん制する政治戦略上の理由から」実態より南にする理由は最初からありませんよね。


陳寿が著述を始めた当時に「信じられていた邪馬台国の位置」というものが(はるか昔)
報告された時にはその報告者が政治的理由から「呉の東方」と意図的に変えた可能性は
あると思います。
私は「親魏倭王」の称号は229年12月の親魏大月氏王の称号と対比して考えるべきだと
思っています。

95 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/29(月) 19:25:32
みんなどういう人たちよ?
大学教授とかなんですか?

96 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 19:37:23
91で、くわしくは拙稿季刊邪馬台国64号って、ヒッキーさんて、ハ○○○○○さんだったんですか。
だったらPW大學博士課程修了ですね。

97 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 19:55:39
いえコピペですよ

98 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/29(月) 19:59:17
HNがついたり消えたりする病気にかかってしまいましたw

99 :本田:2005/08/30(火) 00:39:16
>>94 :87:2005/08/29(月) 19:13:08
> すいません。手元に資料がない上、具体的に誰の説だったか覚えてません。二世紀末の使者が
> 「帯方郡」の使者であったというのは私の勘違いのようです。今夜にでも調べなおしてみます。

後漢末期は、公孫氏が帯方郡を支配しはじめた時代なので、
帯方郡の使者は公孫氏の可能性あり。

100 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/30(火) 01:02:16
>>99本田氏
公孫康が帯方郡を設置したのが204年となるので
二世紀後半の帯方郡は存在しないのでは?
あくまで204年以前は、「「楽浪郡」からの使者ではないか

100GET

101 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 03:08:17
初めてカキコします。
上岡龍太郎さん経由でギ志倭人伝に興味を持った者です。

一通り過去レス読みましたが、チンプンカンプンでした…orz

今はまだ、古田武彦氏の著作本を中心に関連本を片っ端から集めている所で
すが、一日も早く皆さんと議論が交わせるレベルになれる様、精進します。

もし「これだけは読んどけ」みたいな本や資料等がありましたら、お教え頂
ければ幸いですm(_ _)m


・・・ん? 同じスレがもう一つあるのは何故でせう?

102 :きつねちゃん:2005/08/30(火) 07:09:26
卑弥呼は紀元前に中国から渡来し、富士山の近くに住んだ徐福の末裔だった
木花咲耶姫(このはなさくやひめ)だった可能性もあるよ
木花咲耶姫は富士山信仰の浅間神社の御祭神
徐福の末裔だとすると、天文や占いに深い知識があっても不思議ではない
ttp://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm
九州の鹿児島県に木花咲耶姫の足跡もあり、さくら島はさくや島だった可能性がある
現在は、桜島の噴火物の下になっているので遺跡が見つからないのでしょう
ttp://www.youdocan.ne.jp/mukasi/konohanasaku.html

天照大神ー卑弥呼ー木花咲耶姫が同一人物の可能性が考えられる
前方後円墳は、富士山と桜島を模している可能性が考えられる

103 :87:2005/08/30(火) 10:18:52
まず最初に学問板で史実に反する書き込みをしたことについておわびします>
(二世紀末の帯方郡…)。
で、勘違いの元になった文章を見つけましたので載せます。武光誠氏の文章です。
「…二世紀後半の倭国大乱が治まり、邪馬台国の女王卑弥呼が三十の小国家を支配するように
なってまもなく、倭国への使節となった一人の中国人がいた。彼が倭国に来たのは
190年前後であった。卑弥呼が朝貢して「親魏倭王」の称号と金印とをもらった魏の王朝が
建つ前の後漢の時代のことである。当時の後漢の宮廷は董卓らの権臣の手によって
乱れ切っていたが倭国への使節になった者は仕事熱心だったので、倭国の国情や邪馬台国への
道筋を流暢な文章で綴った詳細な報告書をまとめた。魏が朝鮮半島に進出して倭国との国交を
開こうと試みた230年代後半に、その報告書が多く書き写されて魏の高官の間に広まった。
さらにそれは「魏略」という歴史書にそっくりそのままの形で引かれ、「魏志倭人伝」の作者の
陳寿は、「魏略」のその記事と魏の時代の外交記録とを合わせて「魏志倭人伝」を作った。…」

104 :87:2005/08/30(火) 10:20:58
武光氏によると二世紀後半(190年前後)に後漢の使節が倭国に来朝し、その記録を元にして
「魏略」ができたということです。魚かんの「魏略」はまだ読んでいませんが「魏志倭人伝」の
ひな形になったというのは他の人も言っているのでほぼ定説として良いと思います。
つまり陳寿は邪馬台国の位置等について元となった「魏略」と魏の外交記録とを合わせて
魏志倭人伝を作ったのです。私見では、三国てい立の時期に蜀の後方の大月氏と呉の後方
(これはあくまで政略的要請からの「位置」ですが)にある邪馬台国に対する関心が高まり、
公孫氏滅亡で魏と国交を結ぶ必要のあった邪馬台国との利害が一致してあの称号になったのです。
正に呉を牽制する必要性から魏の高官や明帝が邪馬台国の「位置」について信じた
(信じたかった)わけです。

以上から、陳寿が書いた時点ですでに呉が無くなっていたとしても62の書き込みにある

>>つまり、もはや滅ぼした呉を牽制するなどという意味は無いのです。<<
という論理は成り立たないと思いますがどうですか。

105 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/30(火) 10:51:14
邪馬台国はなかった

106 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/30(火) 11:13:08
>>101
篠田 秀幸 さんの「卑弥呼の殺人」という本が
いいのではないでしょうか?一通り邪馬台国論争に
ついて学べますしミステリーにもなってて
読んでて面白いですよ。

107 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 11:35:12
私の考えでは、邪馬台国への行程記事の記述はもっと古いように思いますが.

108 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/30(火) 12:36:04
>>103

>190年代卑弥呼は後漢王朝に朝貢

そんなこと後漢書帝紀にも記載されてないけど
倭から珍しい女王からの朝貢となれば、まず、帝紀にきちんと記載するだろう。その辺いかに?

109 :圭角:2005/08/30(火) 13:37:30
プラムさんこんにちは。こちらはまだまだ炎暑です。
プラムさんの108の書込みの通りだと考えます。理由根拠は次の通りです。
 黄巾の乱は184年、そして、遼東太守の公孫度が遼東に独立政権を立てた
のは、189年のことですからね。遼東の地理位置を見るならば困難です。
 さらに、陳寿の東夷伝の序文の記事を読めば、いっそう明らかです。
陳寿は、公孫氏が独立したため東夷諸国を絶域として放置し、司馬イが公孫氏を
討滅するまでの間、韓と倭は公孫氏に服属していたと明記していますからね。


110 :圭角:2005/08/30(火) 14:11:32
104さんへご返信。
魏略逸分は未だお読みになっていないとのことですが、岩波版のテキストの
巻末付録にありますことをお知らせいたします。また、巻頭の解説にも魏略
について述べてありますから参照されたらいかがでしょうか。
 ちなみに、石原氏は、魚拳の生卒年代は詳らかでないが、陳寿とほぼ同時
の人で陳寿より数年もしくは十数年前に没したらしく、と書かれています。
ご承知のとおり、陳寿の生年は233−297年ですね。ご参考まで。
 それから、魏志が魏略を襲うていることは、岩波版の如く既に定説です。

 

111 :圭角:2005/08/30(火) 14:22:24
さて、陳寿は呉を戦略政治上において、倭をあえて南、南と記したのは
呉を牽制する意図など無かったという私の以前の書込みの理由根拠を述べます。
 ちくま学芸文庫の正史三国志の今鷹真氏によれば、巻末解説の冒頭にて
三国志は晋による統一がなされてまもなくの時期に書かれた。呉の滅亡及び
晋の統一はご承知の通り280年ですね。
 呉を滅ぼした後に呉を牽制して倭人伝を書かなければならないという理由は
ありませんよ。

112 :圭角:2005/08/30(火) 14:50:27
連投ですみません。念のために申し添えます。
さて、呉書の三嗣主伝第三の孫皓伝に次の記事がありますので注目して下さい。
天紀四年280年の春−−−中略−−−呉軍はなだれをうって崩壊し−−−
−−−中略−−−晋の軍はいたる所で勝利を収めた。

 これにて得心納得されたことと存じます。
陳寿は呉書で280年の呉の滅亡を記しています。
晋が滅亡させた呉を牽制するために倭をあえて南と記したとするは妄説未満と
存じます。倭人伝の読解には三国志全部が必要と自戒する所以です。

113 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/30(火) 15:12:31
前漢統一後も英布がすぐに江南で反乱を起してますし
国が滅んだから牽制する必要はないというのは
いかがなものかと、、若輩者のくせに恐縮なのですが。。

114 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 16:59:10
卑弥呼の後漢朝への貢献については、183年に即位し184年に貢献したのであるが、
倭王を証明する金印を紛失していたため、封印することができず、結果正式な朝貢とは
みとめられなかったのです。
ただ、非公式の記録にはのっていたらしく、後世その書を参考にして、東大寺山古墳出
土の鉄剣に銘をいれています。
なお金印奴国と邪馬台国は同じ国です。

115 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 17:19:09
クレイジー

116 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 17:27:33
プラムさん、そして圭角さん私の書き込みをキチンと読んで頂いてますか?

>190年代卑弥呼は後漢王朝に朝貢

これは103の私の書き込みのどこに書いてありますか?おそらく引用した武光誠氏の文章を
逆さに読み間違えたのではないかと思います。圭角さんはプラムさんの書き込みであれば
内容の吟味もせず無条件に同意されるのでしょうか。


陳寿が書いた時点で呉は滅んでいた。それは解ります。しかしそれが何故邪馬台国の
位置について呉を牽制する要素が無い理由になるのか未だに不明です。

まず魏略と魏志倭人伝の関係ですが魏略について検索したところ必ずしも魏志倭人伝が
魏略を下敷きにしたと言えない点もあるようですね。

>>魏略は司馬昭を文王と記しているが、これは咸煕二年(=晋の泰始元年)に送られた諡号

魏略の成立年代は不明ながら280年前後であるとされているようです。むしろ魏志倭人伝と
魏略に共通する先行史書があったのではないかとされていますね。
まあどちらにしても魏志倭人伝が「2次資料」であることは間違いありません。

さらに陳寿の編集方針についても解読する場合には障害となる問題があるようです。
それは資料を尊重するという方針です。いくつかの基礎資料に矛盾があってもそのまま
取り入れています。さらに新しい資料がない場合は古い資料をそのまま書き写していること、
参考とした外交記録などをそのまま繋ぎ合わされたとされています。
(これは魏略についてざっと検索したところ見つけた意見ですが一般的な考え方だと思います)


このように呉を滅ぼした後に書かれた記事(魏志倭人伝)でも、参考にした文献、外交記録や
通説が呉を滅ぼす前のものであれば「呉を牽制する政略的意図」はその記事に反映される
のではないでしょうか。

117 :87:2005/08/30(火) 17:29:26
116は87の書いたモノですorz

118 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 17:42:11
115さんへ、あまりにもこれまでの研究から逸脱しているので、きゅうには理解できないでしょう。
しかし、これが真実なのです。

魏志倭人伝は魏略を下敷きにしたとよくいわれますが、両書は共通の資料を参考にしたとも考えられます。私は後者だと考えます。




119 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 20:06:43
>>116
>>109氏は、ここで「議論」を楽しんでいるのではなく、「論破」することが楽しみな方なのです。
 以前から、相手の書き込みを都合よく改変して非難することが多いですよ。

120 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/30(火) 20:22:22
>>116さん
誤解を招くレスのカキコで申し訳ありません。
ただ、
あそこで「武光氏」著書を引用し、その文が基礎となった説に対し否定的な発言ではなく同意する内容と
こちらで解釈してしまった為に
レスを付けたしだいです。

121 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/30(火) 20:37:23
>>114さん
もっと詳しくしてください。

122 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 21:48:08
>>113
文筆家が何か著作を「開始」するだけで、敵対国への牽制になると考える根拠は?
東夷伝序の大風呂敷は、晋書のクライアントである司馬氏の先代に対する顕彰だろ。
そんなことは、晋代になってから体裁を整えたって辻褄は合うわなw

123 :本田:2005/08/30(火) 22:03:48
>>100 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/30(火) 01:02:16
> あくまで204年以前は、「「楽浪郡」からの使者ではないか
おっしゃるとうりでございます。
楽浪郡の使者でも公孫氏の可能性はあります。

>公孫氏
>献帝 189 公孫度 公孫度、徐栄の推薦で遼東太守となる
>献帝 190 公孫度 公孫度、遼東侯・平州牧を称す
> 公孫度、遼東郡を分割し、遼西中遼郡を置く
> 公孫度、渡海して東莱郡を征服し、営州刺史を置く
>献帝 公孫度 公孫度、扶余国王尉仇台に一族の娘を娶せる
この公孫氏一族の娘が卑弥呼の可能性あり。
さらに記紀神話の神功皇后のモデルがこの公孫氏一族の娘だと比定すると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E
仲哀天皇のモデルは扶余国王尉仇台になる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E5%93%80%E5%A4%A9%E7%9A%87
>献帝 公孫度 公孫度、楽浪・玄菟郡を勢力下に置く
>献帝 196 公孫度 王烈・管寧・ヘイ原らが遼東に難を避ける
>献帝 公孫度 曹操、上表して公孫度を武威将軍・永寧郷侯に任じる
> 公孫度、任命を不満とし、印綬を封印する
>献帝 公孫度 ヘイ原、遼東を去り、北海に帰る
>献帝 204 公孫度 公孫度死す、長男の公孫康が後を継ぐ
> 公孫康 公孫康、楽浪郡の南に帯方郡を置く
> 公孫康、帯方郡の移民を募り、韓ワイを討ち勢力下に置く
http://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/kouson.htm

124 :本田:2005/08/30(火) 22:30:17
>>101 :日本@名無史さん :2005/08/30(火) 03:08:17
> 上岡龍太郎さん経由でギ志倭人伝に興味を持った者です。
上岡師匠か懐かしいな。

> もし「これだけは読んどけ」みたいな本や資料等がありましたら、お教え頂
> ければ幸いですm(_ _)m
三国志魏書東夷伝倭人の条はもちろん三国志の一部なのだから、
三国志全体を読むといいと思います。
まず東夷伝だけでも読んだらいかかでしょう。
三国志はもちろん古代中国の歴史なので、
日本史オタクが書いた倭人伝関係の本は読まないほうかいいと思います。

> ・・・ん? 同じスレがもう一つあるのは何故でせう?
よくあるんですけど、前のスレッド終了直前に、
複数の人間が次のスレッドを、ほぼ同時に立てたからです。

125 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 23:33:07
公孫淵(だったっけ)が楽浪公なのにその属国の女王の卑弥呼が「親魏倭王」
と王なのは何故?


126 :日本@名無史さん:2005/08/30(火) 23:46:08

倭が公孫氏の属国って何に書いてあるんだ。

127 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 00:02:10
>>125 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2005/08/30(火) 23:33:07
>公孫淵(だったっけ)が楽浪公なのに
>その属国の女王の卑弥呼が「親魏倭王」と王なのは何故?


>晉書卷九十七 列傳第六十七 四夷 倭人

>漢末,倭人亂,攻伐不定,乃立女子為王,名曰卑彌呼。
>宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絶。
http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/shin/wa.htm

128 :本田& ◆xOS3wf.pJg :2005/08/31(水) 00:05:33
127は私です。

129 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 00:47:49
>>127>>128

キチガイは失せろや

130 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/31(水) 08:00:36
ニギハヤヒの子孫である海部氏・尾張氏の
系譜の中にいる日女命という命が卑弥呼だという説は
どうなのでしょう?二二ギノミコトの兄にあたる
天火明命が丹後地方に降臨し、邪馬台国以後は
丹後地方は海部氏が、物部氏が大和、尾張氏が尾張へ
移動したと考えられないものでしょうか?

131 :87:2005/08/31(水) 09:05:46
>>119
確かに他のスレでも色々と言われてるようですね、、、、

132 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/31(水) 09:55:31
どうも最近レスの数が少ないような気がする

133 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 10:02:39
コテハン叩きが横行してるからじゃない?
閑散としてるな〜


134 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/31(水) 10:22:21
天下の2ch。
日本1の掲示板なのに
この寂れよう・・
全国の人がみててこのレスの少なさなのですか・・?

135 :16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/31(水) 11:37:21
神武東遷において宇佐に立ち寄った際
その地のウサツヒメノミコトと天皇の家来である
天種子命を結婚させていてこの天種子命というのが
藤原氏の祖先らしいのですが、だとしたら藤原氏と
宇佐の女王とは関係してることになります。
邪馬台国ともなんらかのかかわりが・・
藤原不比等も宇佐神宮について本当は何か知っていた気がします

136 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/31(水) 12:13:02
>>130「ヒッキー」君

>ニギハヤヒの子孫である海部氏 尾張氏

それって清和源氏の末裔徳川将軍家と、同じ発想じゃないのですか?

137 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 16:51:23
久しぶりに来てみたけど、どういう結論になった?

僕が信じている説は、
帯方郡から韓国南岸までの距離うん千里というのから逆算すると、
1里が70mくらいになる。すると、韓国南岸から対馬の里程も、
対馬から壱岐の距離も、壱岐から松浦までの里程も・・・
どれもこれもピッタリ一致するって奴なんだけど。

これって今どう?見向きもされてない?

とりあえず、これで水行直前までで、福岡あたりまで来る。
んで、ここから先は乱暴になる(文献自体がそうなので・・・)けど、
水行と渡海は区別されてて、水行は海岸線を行くみたい
(帯方郡から韓国南岸がそうだった)だから、海岸線を行く。方向も南だし。
水行なん日で、大分がある平野行って、もうなん日で宮崎のある平野に行く。
つまりは、いわゆる西都原説だね。

上に出ているように、西都の遺跡が新しいなら、辛い説になるかな。
もっと古いのも出てくれば問題ないけど。

138 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/31(水) 17:27:54
>>137
対馬⇔壱岐、壱岐⇔松浦
その間の距離って
どのような方法で測ったの?

139 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 17:54:35
一里は435mでいいんですか?
高句麗が横870キロ。(しかもリャオトンから400キロはなれて870です)
韓国が横1740キロになります。

三国志のその他の距離はどのくらいの大きさと書かれているのでしょうか?

140 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 18:01:05
>>139はメチャクチャ

>韓国の横
韓国には横とか縦とかあるの?

141 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 18:01:06
邪馬台国議論のホームページでおもしろいとこありますか?

142 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 18:04:12
>>140

> 韓国には横とか縦とかあるの?

洲胡を西にしてななめに見たのが韓の「方」でしょうか?

143 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 18:05:16
洲胡(チェジュ島)

144 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 19:15:48
魏志倭人伝の1里は、67.5mですから、70mは近い値です。
魏志倭人伝の行路記事は魏の時代ではなく、前漢か後漢のはじめころにかかれたものを、かきうつしたもののようです。
もとの記録は楽浪郡にあったようです。

145 :日本@名無史さん:2005/08/31(水) 19:26:59
古墳時代前期の前方後方墳見つかる…大阪・羽曳野
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050831-00000011-yom-soci
大阪府羽曳野市東阪田で古墳時代前期(4世紀中ごろ〜後半)の前方後方墳が見つかり、
未盗掘の埋葬施設から三角縁神獣鏡1面をはじめ多数の副葬品が出土したと、同市教委が31日発表した。
旧地名から「庭鳥塚古墳」と命名された。

 三角縁神獣鏡が埋葬されていたことから、被葬者は大和王権とつながりがあった首長(豪族)とみられる。
北約2キロには、4世紀末以降の大王墓(天皇陵)が集中する古市古墳群があり、同古墳群の成立前夜の時期にあたる
古墳の発見は、大王墓が奈良盆地から大阪平野へ突然のように移動した「なぞの4世紀」とされる空白期を解明するうえで重要な資料となる。

 場所は民有地で、今年6月、所有者による竹林の整地工事の際、同市教委が発見し、緊急調査した。

 古墳は全長約50メートルで、後方部中央で埋葬施設を確認。工事で南半分は壊されていたが、粘土で覆われた箱形木棺
(長さ2・7メートル、幅0・9メートル、高さ0・4メートル)のまくら元に三角縁神獣鏡(直径21・5センチ)、
棺の外側には、装飾品のつえに取りつけたとみられるキャップ状の筒形銅器(長さ約15センチ、直径約3センチ)のほか、
鉄と銅の矢、鉄製のやりや刀などが置かれていた。被葬者の頭があった位置には赤い水銀朱が残っていた。
(読売新聞) - 8月31日17時16分更新

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