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方法的懐疑について

1 :考える名無しさん:2005/06/01(水) 17:36:10
その意味・意義を深く考察していきたい。
方法的懐疑についてのスレがないのでたてました。

2 :bbs:2005/06/01(水) 18:13:44
考えても考えて何もかも懐疑していっても考えることは意識から排除できない。
これはデカルトですね。
ただ、本来「あるもの」は「あるのかないのか分からない私」から見た他者に向けての行為に過ぎないですから、コギトは私が客観的に存在するためには必要であっても、それ自体は自分を定義しないと思いますが。
しかし、1+1=2とかを疑う姿勢は立派です。
ですが、考えていることそのものが悪霊によるものではないかとかとは彼は疑わなかったんですよね。
デカルトはそういう中でも客観的常識は現実的には大切だとしています。それは生き抜く知恵としてはすばらしいでしょう。

3 :考える名無しさん:2005/06/01(水) 18:21:07
デカルトは神を本気で疑っているのでしょうか?

4 :考える名無しさん:2005/06/03(金) 08:09:35
>>3
ひとまずその存在を保留しようとして・・・・
そのつぎその存在を疑ってみて・・・・
その後、疑いえないものとして・・・・

5 :bbs:2005/06/06(月) 12:26:59
>>3
最終的には「神は全ての肯定的要素を含むため存在する」という結論だったらしいですけど。

6 :ななし:2005/06/08(水) 02:13:24
>「神は全ての肯定的要素を含むため存在する」
でもそれは結局、肯定的要素を含むと言う仮定の上に成り立つ結論ですよね。

7 :考える名無しさん:2005/06/08(水) 02:55:47
ばーかばーか

8 :考える名無しさん:2005/06/08(水) 09:37:40
デカルトの方法的懐疑を引用して自らもその「懐疑」を行った哲学者というのは、
「デカルト的省察」のフッサールとか「善の研究」の西田幾多郎とか色々いる。
しかし彼らはデカルトと同じ議論を辿ったわけでは、勿論ない。

むしろ、「一度懐疑をした上で、どこから議論を始めるか」というのが哲学の問題だろう。
そうすると単に、デカルトは考える私というものから、
カントはアプリオリな感性と悟性の形式から、ヘーゲルは自己発展する論理学から、
ベルクソンは純粋持続から、西田は純粋な経験或いは無の弁証法から、
それぞれ議論を始めた、というだけのことに過ぎなくなる。
要するに、哲学を行う上で何を出発点とするかが問題なのであって
その出発点を正当化するために、一群の哲学者によって方法的懐疑ということが言われている
のに過ぎないと思う。

方法的懐疑に対立する「出発点の選び方」としては、
「現状で我々が持っている知識の体系を出発点として、
 それをできる限り良い方向に修復しようと試みる」というのがあると思う。
仮にこれを「修正主義」と呼ぶとすると、
古代のプラトンやアリストテレスや、中世のトミズムなんかはたぶん、どちらかといえば修正主義。
それに対してデカルトが方法的懐疑を唱えて、以後何人かの哲学者がそれに追随した。
しかし現代の分析哲学なんかは、またそれを超えて修正主義に戻っている。

方法的懐疑を、何かの哲学的出発点を選び取るための方便として用いる(デカルトのように)ことには、
どこかに「うさんくささ」のようなものが拭い去れない。
修正主義はその「うさんくささ」から逃れている、という見方は可能だし、妥当だと思う。

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