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「自分の言葉」とは何か?

1 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/09(火) 06:00:15

このスレでは、「自分の言葉」と呼ばれているものが
よく考えたらありもしないものであることを証明します。

2 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/09(火) 06:08:06

「文の理解とは、そこに現れている語の理解を前提する。
 よって、文の意味を述べるためには、
 そこに現れている語の意味を述べることができなくてはならない。
 語の意味を述べるとは、その語の用法を定義することであり
 それは、その語がどのような状況のもとで使用されるべきか
 の指示を与えることである」

[文献]
飯田隆「言語哲学大全・意味と様相(上) 」勁草書房 p93

3 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/09(火) 06:10:35

それでは、「自分の言葉」という語が、
どのように使用されているか、をみていきましょう。

4 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/09(火) 06:14:15

自分の言葉でない言葉とは、
(1):「安定性」「成長性」といった抽象語、
(2):パンフレットに書いてある言葉、
(3):日頃使い慣れていないのに面接用に使っている言葉、
(4):暗記してきた言葉、
のことだ。
ttp://mentatsu.diamond.ne.jp/qanda/index03.html

自分の言葉とは、自分が引き受ける責任だ。
ttp://ex.nikkeibp.co.jp/hotspot/meigen/26.shtml

自分の言葉とは、使い慣れていて、意味だけでなく
読み手に与える効果や印象までよく知っている言葉のことです。
ttp://www2.hongwanji.or.jp/info2/sp101/sp101_05.htm

5 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/09(火) 06:17:05

自分の言葉とは、自らが思索した言葉のことです。
自分のことでも、一般論でもいいです、
ttp://kotobanochikara.ameblo.jp/day-20041111.html

言語というものが共通理解の上に立つものである以上、
自分の言葉とは逆説的ではあるが他人の言葉である。
したがって他人の言葉の集積たる本を読むことが自分の言葉を増やすことである。
これはほぼ賛成なのですが、付け加えたいことが少々。
他人の言語が「直接」自分の言語ではないということです。
言語というツールを仕入れて用いることは自分の言葉ではありません。
他人からの借り物の言葉です。
自分の言葉とは、他人の実感を自身の実感へと変換し、
その上で自分の思うところの「真理」に基づいて、
すなわちパレーシアステースとして語りだす言葉です。
ttp://blog.livedoor.jp/pokopenhomepage/

自分の言葉とは、私自身が心の底からそう思い、私自身が私自身として発する言葉である。
ttp://homepage3.nifty.com/Tannisho/8_DaizenDaikudoku.htm

6 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/09(火) 06:17:36

自分の言葉がない。 全部誰がこういっているとか、人との比較の言葉、
自分の本性からの叫びの言葉がないから、 子供もゲームの中で生きてしまうのでしょうね。
ttp://www.e-kotoba.net/e-top/e-mental/mental69.html

自信のない人は「客観的」という言葉が好きだ。
客観性とはつまり、根拠を自分以外のところに置くことである。
客観的に正しい事実ならば、自分が信じられなくても言うことができる。
こういう人は、反対意見に対して「絶対にそうだというのか」とか
「証拠を挙げろ」とか言うからすぐわかる。
こういう人々の共通点は、自分の言ったことを自分の言葉で説明できないことである。
彼らはそもそも自分の言葉を持たない。彼らの言葉は「事実」あるいは
「誰かが言ったこと」だけで構成されている。この2つだけを言う限り、
どう否定されても自分が否定されたと思うことはない。

自分の言葉を持つと、それが否定された時にパニックになってしまう。
これに対して、自信のある人は根拠を必ず自分に置く。
「正しい」とは、自分 が信じられることと同義だ。
ある事柄が正しいかどうかを判定することは自分以外の誰にも任せることはできない。
客観より主観を大事にする考え方である。
ttp://iwatam-server.dyndns.org/column/71/

7 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/09(火) 06:28:10

>>4-6の要約。

自分の言葉の定義

(1) 具体的
(2) 日常用語
(3) 即興
(4) 自分で責任をとれる言葉
(5) 使い慣れている言葉
(6) その言葉の意味や効果や印象まで知っている
(7) 自分で考えた言葉
(8) 自分の実感に基づいて語る言葉
(9) 言葉の根拠が自分にあるもの

8 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/09(火) 06:36:20

>>7をいいかえると。

自分の言葉とは、
(8) 自分の実感に基づいている言葉だから
(9) 言葉の根拠が自分にあり
(4) 自分で責任をとれる言葉であるゆえ
(1) 具体的だし、
(2) 日常言語のように
(5) 使い慣れている言葉で
(6) その言葉の意味や効果や印象まで知っている
(7) だから (状況に応じて即座に) 自分で考えて
(3) 即興で語ることができる。

9 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/09(火) 06:44:13

>>7-8を再度要約すると

定義:自分の言葉とは、
   その言葉の根拠が自分のなかの実感に基づいており、
   自分で責任をとれる言葉である。

判断基準:
(a) 具体的でない場合は、自分の実感に基づいてないので自分の言葉ではない。
(b) (a) が可能なら、日常言語のように使い慣れているはずなので
  状況に応じて即座に自分で考えて答えられるはずである。
(c) (b) が可能なら、その言葉の意味や効果や印象まで知っているはずである。

10 :考える名無しさん:2005/08/09(火) 07:42:15
終了

11 :他スレの37:2005/08/09(火) 12:37:58
‘言葉’とはなんでしょう。‘自分’とはなんでしょう。

この二つには共通することがあります。
 それは一人きりであれば、存在しないものである。ということです。

‘言葉’は、自分以外の誰か、何かに、意思を伝えるために、発生し、発達してきたもので、
‘自分’とは、自分以外の誰か、何かとを、区別するために、必要としたものです。

‘文字’も同様といえます。ただ、‘文字’には過去の自分から未来の自分へ、という側面もあります。


‘言葉’とは音声による表現方法を指します。広い意味では、文字での表現も言いますので、

‘言葉(音声表現)’と‘文字(文字表現)’は違うものとして、

言葉に責任を持つ事は大切だが、他の者より、強要されるべきものではない、
文字には責任を持つべきで、他の者より、強要されても仕方の無いことだ、と考えます。

言葉は瞬間のものであり、文字は永遠のものである為。
言葉も文字も過去から導くが、言葉は現在を変え、文字は未来を変える、故。

未来は‘個’だけのモノではなく、‘全’のモノである。

‘言葉’は本来、発する者の意図した者へ、者達へ、向けられた。けして不特定多数に向けたものではない。
‘文字’は、この不特定多数の為に存在する。正確に表現すると、意図したが不特定多数、である。


他人の言葉を鵜呑みにするは、愚かだが、
 書かれた文字を信じてしまうのは、いたし方の無いことです。




12 :他37 続き:2005/08/09(火) 12:39:11
「1 ◆7cy2QI8jBM」さんは、‘言葉’の(音声表現)と(文字表現)を混同しているようです。

(音声表現)としての「自分の言葉」であるか、
(文字表現)としての「自分の言葉」であるかが、自分には理解できませんでした。


追伸
 引用に対して、許可を取ったのでしょうか。
  2chへ書き込むと大変な事になると聞きますが...。

 責任の所在は。どこに...。    なんてね。


 私考(思考)の良き材料となりました。ありがとうございました。    じゃ、Romに戻ります。




13 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/09(火) 13:19:02
>>9の定義を、私的言語と公共言語を用いて考えてみたい。

われわれは、他人に問いかけるときは、どうしても他人と共通の言葉で訴えるしかない。
色一つとっても、どこからが赤くてどこからが赤くないかというのは、私的なものがある。
もちろん「赤」の意味は公共的に定まってるかもしれないが、
私がいまみている赤が、それと同じということはわからない。
しかし、「わからない」ということは「区別できない」ということでもあり
区別ができない以上、「これは自分の言葉である」と言うこともできなくなる。

もし、自分の言葉というものが、公共的ではなく私的なものであるならば、
その言葉とは、私にしか理解できないものであり、完全に孤立した言語である。
ということは、その言語は、コミュニケーションの役には立たない言語であり
このような言語としての働きを失っているものと、
はたして「自分の言葉」と呼んでいいのだろうか。

もちろん、それはコミュニケーションの役には立たなくても、
自分の内的世界についての記述には使えるかもしれない。
しかし、そうなると自分が自分で内的世界を記述するということであり
その記述が正しいか否かを判定する基準は、どこから与えられるのだろうか。
公共言語ならば、他人が私の言葉遣いの間違いを指摘してくれるし、
そこには言語使用の正しいやり方が定まっている。
けれども、私的言語はそういった他人の介入を拒むのだから、
私的言語に正しいか否かを判定する基準など与えられないのではないか。
つまり、私が私的言語によって何かを記述したとしても
それが正しいか否かを定かにすることはできないのだから、
記述としての言語の役割も失っている。
そうなれば、自分の言葉とは、「これは私が赤という音を発したくなる状態だ」
と述べているようなもので、もはや自分の言葉とは言語ではないといえる。

14 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/09(火) 13:28:23
>>13で述べたことは、自分の「言葉」という名称が、はたして
語ろうとしている実在をより正確に描写しているものなのだろうか、
という問いかけになっている。

次に、述べたいことは、>>9のような判定基準は
はたして適用可能なのだろうか? ということである。

つまり、自分の言葉が自分の私的感覚をあらわした記号のようなものであるならば
それが自分の言葉であると判断するための手がかりは、当人の記憶以外にはない。
いうまでもなく、私的感覚である以上、これをもつことができるのは当人だけであり
外から判断できるようなものがあるとは思えない。
>>9で述べた判断基準など厳密には使い物にならず、
結局のところ「自分の言葉」と「自分の言葉でなもの」を区別する
ものなどないのではないか。

われわれが、「彼が語ったことは自分の言葉である」と思えるときがあるのは
それが実際には使用者だけにしか根拠づけられないものではなく
他の人々にも共通に観察できるような公共的基準と結びついた言葉だからではないか。
このように公共的基準と結びついた言語であることがみえてきた以上、
「自分の」言葉などという名称を与えることについて、考え直さなければならない。

15 :考える名無しさん:2005/08/09(火) 17:57:52
    ⊂_ヽ、
      .\\  /⌒\
         \ ( 冫、)   ウンコになぁーれ☆
          > ` ⌒ヽ
         /    へ \
        /    /   \\
        レ  ノ     ヽ_つ
        /  /         ・*.・:
       /  /|          :。 *.・
       ( ( 、           ★。:’*
       |  |、 \        。・.*・; ・
       | / \ ⌒l     ;* ・。;*★ 人・
       | |   ) /      ・ ★・ (_ );; * 。・
      ノ  )   し'        ・ * (__) * ・。・
     (_/          。*.;; ・( ・∀・) >>1★.* ’★

16 :他37:2005/08/09(火) 20:16:00
>>13より
>われわれは、他人に問いかけるときは、どうしても他人と共通の言葉で訴えるしかない。
>色一つとっても、どこからが赤くてどこからが赤くないかというのは、私的なものがある。
>もちろん「赤」の意味は公共的に定まってるかもしれないが、
>私がいまみている赤が、それと同じということはわからない。

 ここまでは、同意。

>しかし、「わからない」ということは「区別できない」ということでもあり

 これは?
 誰かが語る「赤」と、他の誰かが語る「赤」という区別はできる。
 自分が思い描く「赤」と、誰もが思うであろう「赤」、での区別は、どうです。

 少年が思う「赤」、少女が描く「赤」、若者が叫ぶ「赤」、老人が懐かしむ「赤」、
 歓喜の「赤」、畏怖の「赤」、トマトの「赤」、血の「赤」、夕焼けの「赤」...。

>区別ができない以上、「これは自分の言葉である」と言うこともできなくなる。

 区別はできる、自分でする。そうすることが
  「自分の言葉」への第一歩ではないかと考えます。


「自分の言葉」とは、自分を見つめ、それを如何に伝えるかにあると思います。

伝えることの難しさが、‘言葉’を選ぶ必要性になり、
 選ぶことが‘自分の’ものの証となる。


17 :他37 追伸:2005/08/09(火) 20:17:36
本質的には、‘言葉’は個人が占有できるものではなく、全員が等しく持つものです。

「1 ◆7cy2QI8jBM」さんの、ご指摘は正しい、と思います。


ただ、造語という形の表現があります。伝えたいことを正確に表す言葉がないとき、
 探しに探しても無く、仕方なしに、考えに考えて、作った言葉。


それを知ったものが、その表現の的確さに、心動かされる。そんな時、その言葉を
 「自分の言葉」(その人ならではの言葉)といっても良いのではないでしょうか。


自分を見つめ、伝えるべき相手を思い、伝えたいことを的確に表現する。
 この事ができる人が、「自分の言葉」を持っていると、言えるのではないでしょうか。

  そこまで出来る人は、いないでしょう。
  だから、「自分の言葉」を持っている人も、いないでしょう。
  勘違いしている人は、沢山いるでしょう。
  自分も、その一人でしょう。
    あなたは、どうでしょうか?



18 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/09(火) 22:04:48
なぜ>>9の判断基準が適用できないか。
>>9の定義に従えば、自分の言葉とは、自分の実感に基づいて責任をとれる言葉である。
自分の言葉であるか否かは、その言葉を自分で責任をとれているか否かである。
では、「責任をとれる」とはどういうことか。>>9の判断基準では、
「その言葉の意味や効果や印象まで知っているはずである」と述べられてる。
たとえば「痛い」という実感を、自分の言葉にするなら、
「痛い」という言葉の意味や効果や印象について説明できなければならない、
ということである。真であると考えるべき理由があるということは、
正当化されているということにほかならない。
しかし、自分の言葉であることを証明するために、
責任をとれるだけの十分な理由を実際に口にだして述べられなければならない、
とするのは、あまりにも無理がある。というのも、もし、このような定義に従おうものなら
われわれの知っているほとんどは、自分の言葉ではないことになる。
ただなんとなく思っただけではその信念は正当化されておらず、
そう思うに足るだけの理由をもっているとはいえない。
「俺がそう感じたから」などは、信じるようになった原因とは
いえるかもしれないが、信ずべき理由とはいえない。
そうなると、われわれの信念のすべては、最終的には正当化されず
無根拠にただ信じているだけのものによって支えられていることになる。
かくして、定義>>9を修正する必要にせまられる。

定義:自分の言葉とは、
   その言葉の無根拠であろうと
   自分のなかの実感に基づいているものである。

このような定義の修正をした場合、判断基準は、どのような修正をせまられるのか。
無根拠でも実感に基づいていればよいのだから
「なんとなく」や「俺がそう感じたから」といった抽象も許される。
となれば、>>9の(a)は破棄される。責任をとれるだけの十分な理由を
あげることもできるはずないのだから(b)も(c)ない。
このような判断基準を失って、他人がどのようにして
「彼の発言は自分の言葉だ」などと言えるのだろうか。>>16

19 :他37:2005/08/10(水) 12:33:38
二つの立場を同時に満たすよう定義するのは、まだ無理があるようです。
 立場1 自分から見た「自分の言葉」  自分が思う「自分の言葉」
 立場2 相手から見た「相手の言葉」  相手が思う「相手の言葉」

  AとBがいて、AがBに「〜〜ア〜〜」といった時に、
 立場1は Aが「ア」を考えて、「自分の言葉」とする場合。
 立場2は Bが「ア」を考えて、「Aの言葉」とする場合。
 

立場1ならば、>>18の定義で良いと思います。自分も同様に考えます。修正しますが、

定義(立場1):
  自分の言葉とは、
   その音声表現を強く意識していなくとも
   相手を思い、自分のなかの実感に基づき
   発せられたものである。



20 :他37 続き:2005/08/10(水) 12:34:53
立場2は難しい

>>18 の 中ほどより
>そうなると、われわれの信念のすべては、最終的には正当化されず
>無根拠にただ信じているだけのものによって支えられていることになる。

根本的には、相手の発する言葉(音声表現)を‘無根拠にただ信じているだけ’である。

正確には、
 相手の発する言葉(音声表現)が、その種類、内容、真偽、等、
 ‘言葉(音声表現)’に付随する、一切を排除した(音)とした時、
 その(音)が発せられた事実によって、「相手の言葉」であると、信じるのみである。

 ただ、その(音)に付随する事柄の判断は受け手がする以外はない。
  つまり、受け手の数だけ、判断基準があり、この真実が、

    判断基準の平均化、定式化、正確性、等を導く難しさとなる。



21 :他37 続き:2005/08/10(水) 12:36:20
結論
 「自分の言葉」とは、「自分」で決める。

 相手のいう「自分の言葉」とは、
  「相手が言葉」を発した事実をもって、その(音)のみを、相手のいう「自分の言葉」と認る。
  その(音)に、付随する一切の事柄は、受け取った者により、判断される。



 自分で決めた「自分の言葉」を、相手が認めるかは、相手次第。

 では、相手が認める確立を上げるには、どうするか、

 相手の判断基準を考えて、「自分の言葉」を決めれば良い。


 子供向け、老人向け、識者向け、女性向け、小人数向け、不特定多数向け...。



  これをもって、最後の書き込みとします。勉強になりました。thx

     「‘どうしても’ってんなら、またくるよ」      じゃ、Romに戻ります。



22 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/10(水) 12:42:28
>>21
ああ、そういう見方ありましたね。
自分の言葉の「自分」が
話し手の方にあるのではなく
聞き手の方にあると考えれば

「自分の言葉で話してくれ」と要求するのは
「おれにもわかる言葉で話してくれ」ってことか。

こう考えるとしっくりきますな。

23 :しろうと ◆AUSirOutoE :2005/08/10(水) 19:36:10
人は他者の言葉を喋っているということですか

24 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/12(金) 22:01:48
自分の言葉の「自分」が聞き手側を指すのであれば

定義:自分の言葉とは、その言葉の根拠が
   相手側の実感に基づいている言葉である。

となる。

自分の言葉の正当化は、私個人についての事実によってではなく
私が属する社会が正しいものとして受け入れるかどうかにかかっている。
こういうわけで、自分の言葉が何を意味しているのかを一番よく知っているのは
自分だと言い立てることはできない。

そんなわけで、>>4-6で言われているようなものは「自分の言葉」ではない。
それゆえ、「自分の実感に基づいているものが自分の言葉だ」
「誰かの意見ではなく自分の力だけで考えた意見が自分の言葉だ」とかいうものは
他人が理解することが不可能なものであるし、自分の言葉とはいえない。

したがって、たとえば2ちゃんねるのような匿名掲示板において
ある人が、公共言語をもちいて説明しているときに
あなたが「もっと自分の言葉で喋ってほしい」とせがむのはナンセンスであろう。
自分がどのような人間かも明かさずに、
ただ「自分をわかってほしい」とせがんでいるようなものだ。

25 :考える名無しさん:2005/08/12(金) 22:11:11
>>24
>定義:自分の言葉とは、その言葉の根拠が
   相手側の実感に基づいている言葉である。

面白い。
レベルが高い。
また、よろしく。



26 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/12(金) 22:13:55

自分の実感に基づいているだけの言葉は、たしかにあなた自身にとっては
自分の言葉であろうが、あなたの実感を他人が実感することはできないであろうから
正当化されない。

となれば、自分の実感に基づき、なおかつ他人の実感にも基づける言葉が
最終的には、自分の言葉として両方から認められるものになる。

どうやって一致しているか否かを判断するのかという問題は棚上げするとして、
自己と他者の実感が一致する部分なんて限られているだろうし
結局のところ、公共言語に後戻りするしかないのではないか?
となれば、自分の言葉=公共言語ではないか?

27 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/13(土) 05:16:55
「自分の言葉とは、相手の実感に基づいた言葉である」というのなら、
相手が私の言葉を認めるときのみ、私は自分の言葉を話したといえる。
それゆえ、どんなに自分の実感に基づいて発言したとしても、
それを相手が認めなければ、私は自分の言葉を話したとはいえないのだろう。
したがって、私の言語表現の仕方が、私が自分の言葉で話している、ということの存在根拠である。
たとえば、身体に激痛がはしっても、ニコニコしていれば、誰も私の言うことを信じないように、
信じてもらうためには、それに相当する適切な痛みの表現が必要になる。
そのような適切な痛みの表現は、前もって言語ゲームを通じて、
理解可能な公共言語となっていなければ無理なのだ。
適切な痛みの表現とは、結局のところ言語ゲームによって決まってくるのだろう。
このような言語ゲームをつうじて、適切な痛みの表現を学んでいく。
・・・となれば、結局それは公共言語ではないか。
「自分の言葉」とは、公共言語ではないか。

28 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/13(土) 05:20:51
もちろん「痛み」という語が、だれもが理解できる公共言語になったとき、
そこには、ある種の私的な意味が失われているように思える。
それゆえ、最終的には、聞き手が公共言語に変換された「痛み」という語を
自分の私的な痛みの体験に結びつけることによって有意味となる。

私は相手の痛みを知ることはできないのだから、
できるだけ公共言語に変換することによって最善をつくす。
たとえば、相手の生活形式を分析した上で、
このような表現をとるのがよいのではないかと考える。
あとは聞き手本人が、その語を自分の実感に結びつけて
理解できるか否かにかかっている。結論をいえば、

(1) 公共言語なしに「自分の言葉で話してみろ」と要求するのは意味不明だし
(2) このような匿名掲示板で、自分の生活形式も明かさないで話し手に
 「自分の言葉で話してくれ」と要求するのは、ものすごいワガママで無理があるし
(3) ましてや、道徳問題などを議論するときには、聞き手は自他ともに
  考えることができる理性的存在者でなければ、いくら自分の言葉に変換してやっても、
  それを自分の体験に結びつける能力がなければ理解できないだろう。
  たとえば、乳児などは、自他ともに考えられるような段階ではない。

29 :考える名無しさん:2005/08/13(土) 07:15:31
「自分の言葉」・・・〈魂〉の叫び。

30 :考える名無しさん:2005/08/13(土) 08:00:39
自分の言葉

音読したのをひらがなに訳しました↓

ぽぽまーごろむ、きたぷーぴからまごんどうらどもぎぶす
あーはあおいじこうぶむ、あんどむがらんぶむ、だーじゃ

31 :考える名無しさん:2005/08/13(土) 08:48:40
>>30

日本語変換してくれなきゃ。
強制送還しちゃうよ。

32 :考える名無しさん:2005/08/13(土) 10:29:06
いっそ殺せや。

33 :考える名無しさん:2005/08/13(土) 11:30:57
自分で理解して発言する言葉は自分の言葉としてよいのではないか?
その外延も内包もどんどん変化していく不定形なものでしょう。

34 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/13(土) 12:06:29
>>33
それは言語としての機能を失っているので
自分の「言葉」という名は適切ではない
という理由から破棄させる。
参照 >>14 or ttp://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~nobol/witt.htm

35 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/13(土) 12:11:17
すまん。>>13だ。

36 :考える名無しさん:2005/08/13(土) 14:10:56
>>34
>それは言語としての機能を失っているので

言語としての機能の一つは「コミュニケーション」だろう。
  
自分で理解できる言葉は私的言語ではない。
自分の理解と他者の理解に違いがあるかを確認することも
言葉による「コミュニケーション」の機能だ。

37 :TAR:2005/08/13(土) 14:39:14
平等よりも対等な相手に使うかな。

38 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/13(土) 22:41:22
>>36
クワインの翻訳の不確定性を持ち出されたらそれどうするつもりだ?

39 :考える名無しさん:2005/08/14(日) 00:03:57
「自分の言葉」???電波以外

40 :考える名無しさん:2005/08/14(日) 01:43:26
気持ちがこもっていれば自分の言葉でしょうね。

41 :考える名無しさん:2005/08/14(日) 01:58:10
本当に自分の言葉なんて使ったら、
誰も理解できないだろ。

42 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/08/14(日) 02:28:04
このスレはたぶん、
本物の純一が立てたのでしょう。

掲示板が誰も来ないから、
向こう側から来たのじゃないですかね。

43 :考える名無しさん:2005/08/14(日) 16:13:43
>>42
純一って誰?

44 :他37 迷ったけど再登場:2005/08/14(日) 22:11:23
>>33 へ 立場1ならそれで良いと、私も考えます。
>>36 へ >言語としての機能の一つは「コミュニケーション」だろう。
言語(音声表現)の機能は、「コミュニケーション」の為、のみと私は考えます。
>>38 へ「コミュニケーション」の必要がなければ、翻訳の必要もない。

『 1 ◆7cy2QI8jBM 』さん、が求めているものは、「自分の」にあたる部分にあると、
  私は、読み解きます。私は最初のレス(>>11)で

「‘言葉’とはなんでしょう。‘自分’とはなんでしょう。」 と、問い掛けました。

立場2を考えることは、「‘自分’とは何か」を考えることに繋がっていると思います。


自分とは何か?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1104484349/ 



45 :他37 迷 続き:2005/08/14(日) 22:12:51
相手の理解があり、自分の言葉が成り立つ。
相手と自分の共通する事柄があり、共通でありながら、独立する部分がある。

『 1 ◆7cy2QI8jBM 』さんは、
  共通であるから、独立する部分はない。
  共通であるはずなのに、共通であると認識されない。
  共通である為に、相手の努力が必要。
 とお考えのようですね。
  ‘相手の努力が必要’の部分が文章全体から強く出てきてしまっていますよ。
 それと、
  ‘自分で自分の言葉(音声表現、文字表現含む)を正当化したい’様に伺えますが、
    その必要はあるのでしょうか。あなたは優れた思考力を持っているようなので、
    他人に認めてもらう、他人に理解してもらう必要があるのでしょか。むしろ、
    他人を理解した方が早いと思われます。


ここへのレスはこれが最後です。早急にDat落ちすることを願います。    以上。bye 



46 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/08/14(日) 22:16:27
>>43
規制議論の賛成派の方です。
哲学板ではカオル派に属しているみたいですね。

ここは純一が立てそうなスレではあります。


47 :考える名無しさん:2005/08/14(日) 22:41:51
>>46
ありがとう。
でも、面白くて、がんばってるから全然価値があると思う。
>45みたく、理論と個人的感情がコントロールされていないよりいいね。

ところで、カオル派って何ですか。(2ch初めて2日目で恐縮します。)
昔、憧れた女性(本名カオル)がある宗教団体の幹部になったので、気になります。
予断すみません。


48 :純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/08/15(月) 00:18:10
カオル派は、純一が属する派閥の名前です。
哲学板に存在する派閥の1つです。
ビガロ派とかミスターX派とかも居ますね。

49 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/15(月) 09:05:28
われわれは、言語に先立って観念が存在していると思いがちなところがある。
もしそうなら、言語は単に観念を外に表すためだけのものということになろう。
この立場にたてば、われわれは自分の心のなかでメッセージを組み立て、
それを他者が解読できる形式にうつしかえて伝える、ということになろう。

ソシュールは、これとは対照的に、言語の社会的な側面をみた。
孤立した個人が言語をつくることなどできない、と主張した。
言語を成立させているのは、共同体のなかでのみ可能なのだ、と言う。
語の意味は、観念との統合だけではなく、他の語の枠組のなかで
どんな役割を担っているか、というところに由来するのだ。

送り手が心の中にもっていた同一のものを
受け手がもつようになれば、伝達は成功した、といえる。
しかし、同一なものを受け取ったと確認する手段がないとなれば
その判断は、相手がこちらの期待したような振る舞いをするかとか
とんちんかんな解答をしないか、といった点に注意するしかない。

このような伝達が可能になる条件とは何だろうか?
それは、それぞれが同じ言語をしゃべり、
世界について同じような信念や目標をもっているときに限られる。
二人の人間が、同じ語彙を用い、同じ文法に従い、同じ発音をするなら、
意味ははっきりと示される。

これは、つまり、言葉の意味を理解するときに、
われわれはその人の信念や目標といったものを
同時に推測する必要がある、ということである。
人がどんな意味を伝えようとしているかは、
その人が何を信じ、何を欲しているかを理解することなのだ。

50 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/15(月) 09:20:10
ある人が何を信じ何を欲して喋っているかを、
わたしたちが理解できないとき、
わたしたちは、その人い対して
「自分の言葉で喋ってないのではないか」
と思うことが、よくあるのではないか。

もちろん、相手の言っていることは理解できるが
相手が何を信じ、何を欲しているかが理解できない。
こういう経験は、何度かあるはずである。

このようなとき、われわれは「自分の言葉で喋ってない」と感じる。
これはやはり、「自分の言葉」と受け取られるか否かが
それぞれの所属する文化(言語ゲーム)によって
定まってくることを思わせる。

インターネットが普及し、世界中の人々と
会話することができるようになったとき、
ある一つの疑問が提起されていた。
それは、生活や文化や言語の異なるものどうしが
いったいどのようにして会話するのか、ということである。

かりに私がいま自分の言葉で喋っていたとしよう。
そして、それをあなたも周りの人間も認めているとしよう。

そこに、「議論=喧嘩」としか思ってない
反抗期まっさかりの中学生がやってきたら
われわれの議論を「茶番」とみるであろう。
それゆえ、「こいつら自分の言葉で喋ってねェ!」と思うに違いない。

51 :考える名無しさん:2005/08/15(月) 19:36:23
独我論はまったく正しい。
世界は私の世界である。
私の言語の限界が私の世界の限界である。
自分の言葉でこれに反論してみよう。

52 :考える名無しさん:2005/08/15(月) 19:40:51
パイプルーターを使ったから、雨亀气メ刺激を与えていると考えている人達

53 :考える名無しさん:2005/08/15(月) 22:56:16
ん〜。そもそも言語ってそこまでたいせつなものなのか?

54 :考える名無しさん:2005/08/15(月) 23:07:04
記憶(歴史)やみずからの行動規範(しきたり、慣習)、動作や物そのものも言語。おーけー?

55 :考える名無しさん:2005/08/15(月) 23:15:46
>>51
独我論はまったく間違っている。
世界は私の世界ではない。
世界は私の言語の限界の外に広がっている。

56 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/16(火) 00:04:28
>>53-54
問題はそれが「自分の」として認められるか否かだろ。

57 :考える名無しさん:2005/08/16(火) 02:35:46
>世界は私の世界ではない

そう考えてるのはお前だからそれも独我論だな

58 :考える名無しさん:2005/08/16(火) 02:38:34
世界と世界観とを混同するのが独我論の特徴だよ。

59 :考える名無しさん:2005/08/16(火) 16:58:52
自分の言葉とは著作物に著作権があることである。

60 :考える名無しさん:2005/08/16(火) 17:54:14
おまんこしたい



61 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/16(火) 21:40:24
池上彰が、著書『相手に「伝わる」話し方』において
何の根拠があるのか「自分の言葉」という章をもうけているので
ざっと目をとおしてみた。
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061496204/

池上は明言してないが、彼の述べる全体の文脈を読むと
彼にとって「自分の言葉」とは、次のようなものを指しているらしい。

(1) 間違えたときに自分が責任を負う言葉
   たとえば、これはデカルトの言ったことだから
   この説が間違っていたとしても、それはデカルトが間違ってるんであって
   ぼくが間違っているんじゃないよ、という言い逃れができない言葉。
(2) 自分の主張の根拠について、十分な理由(説明)を与えられること。
(3) 「アナウンサーとして・・」などの立場から述べるのではなく
   一個人の立場から述べられたもの。

以上をまとめて「自分の言葉」を「相手の心に届く言葉」と言いかえていた。

62 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/16(火) 21:46:21
>>61の(1)と(3)は、同じ意味だと考える。
「(3)個人的な発言」をするということは、
これすなわち、誰かのせいにすることできない、
ということであり、「(1)責任を負う」ということである。

よって、彼に言わせれば「自分の言葉」とは

「個人的な立場から責任をもって (1)+(3)
 自分の発言に十分な説明を与えられるもの (2)」

である。>>9とさほど変わらないように思える。

63 :考える名無しさん:2005/08/17(水) 23:44:22
ある友人にいわれたことをそっくりそのまま書き込んでみる。
結局なにがいいたいんだい?

64 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/18(木) 05:29:27
>>63
>>1では「証明します」と発言しているが、
あくまで自分は「自分の言葉など存在しない」という立場にたって考える
というだけで、現段階では、とりあえず、どういう答えにいたるか
自分自身わかってないので、関係ありそうなものをメモって書き込んでるだけ。

65 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/18(木) 10:15:07
わりぃ、答えが書いてある本みつけちゃった。
かといって、それをここに転載するわけにもいかない。
あえて結論をいえば、厳密な意味での「自分の言葉」というものは存在しない、
というものだった。これはソシュール以来の言語学によって証明済みである。
やっぱり、想像してたとおりのものだった。

66 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/18(木) 10:15:50
ということで、終了。

67 :考える名無しさん:2005/08/18(木) 11:10:11
ぬぁ〜。マスターベーションスレかよ!!
見損なったぜ>>1
ほかになにかかんがえてることないのかよ!!

68 :1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/18(木) 12:32:45
>>67
やっぱ結論を少なからず明かさないとだめか。結論は、
宮原浩二郎「論力の時代―言葉の魅力の社会学」勁草書房
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326199288/
に書いてある。

目次
第1章 論力の時代?(議論強者
   民主主義と討論 ほか)
第2章 二つの言語―吉本隆明を読む(自己表現と他者伝達
   『言語にとって美とはなにか』 ほか)
第3章 言葉の危機と表現リテラシー(意味と価値の分裂
   「要約」の問題 ほか)
第4章 言葉の権力、暴力、そして魅力(言葉の力
   言葉の権力―主張の正しさ ほか)
第5章 自分の言葉をもつ(「会議」から「話し合い」へ
   「自分の言葉」をもつ ほか)

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