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♪【精強】♪♪オーストリア海軍♪♪【帝国】♪

1 :フェルディナント・マックス:04/04/04 01:34
え〜でるわぁいす♪ えぇ〜、出るわぁ〜♪

いまは内陸国になってしまった、美しき国の海軍について語る場です。

ちなみに小生は子供のころ、サウンド・オブ・ミュージックのトラップ男爵が
海軍大佐であった背景が理解できませんでした。

329 :教えて君ですいません:04/12/25 20:14:01
何時の間にか貴重な情報が次々と……
眠い人様、 ギシュクラ・ヤーノシュ様、 権兵衛さん様
情報提供ありがとうございます。

330 :ハウス:04/12/25 21:52:04
>>319
とある欧文サイトより

シュレスヴィヒとホルシュタイン公国をめぐるデンマークとの紛争で、プロシアとオーストリアは
そこを占拠しました。またオーストリアの海軍はデンマーク海軍に対抗する事のできる有効な海軍
力でしたが、その船はアドリア海から北海へ移動させなければなりませんでした。

オーストリア海軍はテゲトフ提督の率いる汽走フリゲイト艦Schwarzenberg、Radetzkyおよび砲艦
Seehundよりなる艦隊を北海に派遣しましたが、その存在は英国人にひどく嫌がられました。また
報告によると、1864年4月にオーストリア艦隊が燃料補給の為に英国の港に立ち寄った時、そこの
責任者の不可解な手違いにより砲艦Seehundが座礁して大きな損害をうけたので、残りの2隻がプロ
シアの艦隊(砲艦3隻)と合流し、5月9日にデンマーク海軍との間で行なわれたヘルゴランド沖の
海戦で有名になりました。

この戦闘は木造艦隊同士の最後の海戦でした。そしてオーストリアはこの戦争の勝利を記念し、
新たな軍艦(コルベット艦)を「ヘルゴランド」と命名しました。

1864年8月にデンマークはプロシアとオーストリアにシュレスヴィヒとホルシュタインを引き渡し
ました。しかしその2年後にはプロシアとオーストリアとの間で戦争が行なわれ、その結果シュレ
スヴィヒはプロシアの支配の下ホルシュタインと統合しました。

>>323
久保田正志著『ハプスブルク家かく戦えり−ヨーロッパ軍事史の一断面−』錦正社 2001年 の事
でしょうか? 簡単な記述ですが、デンマーク戦争(1864年)の中で触れられております。
「〜略〜更にオーストリア海軍のテゲトフ提督率いるオーストリア・プロイセン連合艦隊3隻(砲
40門)は、5月9日にヘリゴラント島沖でデンマーク艦隊(砲120門)を撃破したことで戦局は連合
軍有利となり、イギリスの斡旋で5月12日より休戦に入った。[396頁]」

・・ところで1848〜49年にオーストリア国内が民族運動でゴタゴタしている最中、デンマーク人
のDahlerupなる人物がオーストリア海軍の司令長官に就任し、以後数年にわたり海軍の再編成に
務めたようですが、彼は1864年のオーストリアとデンマークの戦争の時にどこで何をしていたの
かが気になりますねぇ。

331 :権兵衛さん:04/12/26 00:16:07

  >>330

 >Dahlerupなる人物がオーストリア海軍の司令長官に就任し、以後数年にわたり海軍の再編成に
  務めたようですが、彼は1864年のオーストリアとデンマークの戦争の時にどこで何をしていたの
  かが気になりますねぇ。

   問題の人物 Hans Birch Freiherr von Dalerup (伯爵、提督)は、デンマークの海軍軍人で
  すが、オーストリア帝国が1848年の「3月革命」で混乱に陥り、近年領土としたベネツィア
  の「反乱」により、オーストリア海軍軍人約5千人のうち、帝国に忠誠を誓ったのが、わずか士
  官72人と水兵665人という危機的事態に陥った海軍を再建するために招請されたそうです。
   基本的に当時の帝国海軍を構成していたのがイタリア系の人間が大半であったから、当然の結
  果といえますね。1849年3月にダーラップ提督が着任して、再建に乗り出しベネツィアの反
  乱を8月に鎮圧しています。その後、1852年に皇帝の弟フェルディナント・マクシミリアン
  が海軍総司令官に着任するまで、その任にあったようです。
   彼の伝記はデンマーク語のものしか見つからないので、経歴は不明ですが、生年が1790年
  とあるので、1864年には、とっくに退役、隠居の身であったと思われます。ちなみに彼が没
  したのは、1872年だそうですから、当時としては長寿の人物でした。

332 :権兵衛さん:04/12/26 21:44:20

>>1
   このスレッドが始まったきっかけのいまは無き「オーストリア帝国海軍大佐
  (ホントは少佐)」だったゲオルグ・リッター(騎士または准男爵)・フォン・
   トラップ艦長と後妻となったマリア・アウグスタ・クッチャラ嬢と先妻との
   間にできた7人の子供たちの話を元にしたミュージカル「サウンド・オブ・
   ミュージック」の舞台が新年1月に東京・厚生年金会館で上演されるという
   宣伝番組をテレビ朝日系列でやってましたね。(おしまいの方しか見てませ
   んけど)相変わらず、トラップ「大佐」のままですね。「艦長」と呼ぶ方が
   正解なんですけど。ドイツ語圏では社会的な地位を得た人間は現役を退いた
   後でも、その「称号」で呼ぶのが普通です。

333 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/12/31 20:20:19
とりあえず、ネタフリ。

多様な地域の人々が二重帝国を構成していたが為に、特有の問題だったのが民族問題です。
二重帝国には約20もの民族がドイツ語を話すオーストリア人と、マジャール人の支配下にありました。

陸軍は民族毎に大隊なり連隊を構成していましたが、海軍は別々の言語を話すたくさんの民族の乗組員から
構成されており、ちょっとしたこの国の縮図状態になっていました。
将校以外の海軍の構成員の比率は、クロアチア人とスロヴェニア人が34.1%、マジャール人が20.4%、オースト
リア人が16.3%、イタリア人14.4%、チェコ人とスロヴァキア人は11%で、残り4.6%が、ポーランド人、ルテニア人、
そしてルーマニア人でした。

これら、ドイツ人とマジャール人、スラヴ人、スロヴェニア人、イタリア人との間に緊張が高まっていたため、
海軍の中に相当な問題が生じ、帝国解体に伴う民族自立が盛んになった際、この艦艇配分が政治的な問題
になったのです。

その上、二重帝国の封建主義、保守主義に対抗する社会主義、共産主義者の抵抗が大きな問題になって
いきます。

334 :ハウス:05/01/01 12:38:55
皆様、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
このスレが昨年以上に発展・繁栄する事を願いながら、新年初のカキコをさせていただきます。

>>331
権兵衛様ありがとうございます(返事が遅くなってしまいましたが・・)。まさかDahlerup
(ダーラップ)提督についてのコメントをもらえるとは思いませんでした。
・・実は権兵衛様のレスに刺激を受けまして、Lawrence Sondhaus著『The Habsburg Empire
and the Sea Austrian Naval Policy 1797-1866』Purdue 1989年、の ●The Navy under
Dahlerup(1849-1851)の箇所(全9ページ)の通読を試みたのですが・・(以下略)・・。
まあ今後少しずつ読み進めていって、いつかレスできればと思います。

〜眠い人様に引き続きネタフリその2〜
オーストリア海軍は>>333のレスにあるように多民族かつ多重言語で構成されておりましたが、
将校に関してはドイツ系オーストリア人の中から任命され、彼らは少なくとも帝国内の4言語
に習熟していなければなりませんでした。公用語はドイツ語で、これを使用する事により艦艇
の効率的な操作・運用を可能としましたが、当然の事ながらほとんどの船(艦)は多重言語の
乗組員をかかえておりました。

その中で、イタリア人は海軍人口の約7分の1を占めており(国全体人口の20分の1だけを占め
ていたにもかかわらず)、これはオーストリアの主敵がイタリアである事が明らかになるに
つれて重要な数値として取り扱われるようになりました。

第一次大戦中のオーストリア海軍は、その多民族の構成にもかかわらずなんとか機能し続け
ましたが、1918年2月1日には最南部の軍港「カッタロ」に停泊していた装甲巡洋艦サンクト
・ゲオルグより社会主義思想に影響されたスラヴ人水兵達の暴動が起こり(それは瞬く間に
装甲巡洋艦カイザー・カール6世、砲塔装甲艦クロンプリンツ・ルドルフ、駆逐艦タトラ、
バラトン、セペル、オルジェンなどに伝染した)、これ以降民族主義が海軍を悩まし始めま
した。

335 :世界@名無史さん:05/01/01 13:33:15
>>332
vトラップは終戦時は艦長じゃないよ。海軍基地司令官です。
  ゲオルク・トラップ経歴
1894-1989海軍兵学校
1898海兵隊少尉に任官
1900義和団事件に従軍
1908航海科に転科(階級・Linienschiffsleutnant)
1908潜水艦隊に配属
1911U4艦長に就任(階級・Kommandant)
1915U5艦長に転任(階級・Kommandant)
1915レオン・ガンベッタ撃沈
1916U14艦長に転任(階級・Kommandant)
1917貨物船ミラッツォ撃沈
1918階級Korvettenkapitaen
1918Uボートステーション・ゴルフvカッタロに転任(階級・Kommandant)
1919予備役編入
   授章メダル
マリアテレジア騎士十字勲章
レオポルト騎士十字勲章
三級アイゼルネクローネ勲章
戦功銀章
三級軍事十字章
戦功銅章
ドイツ一級鉄十字章
ドイツ二級鉄十字章
オットー戦功章
カール勇猛章
WW1従軍記念章
義和団従軍記念章
勇猛勲章(義和団事件戦功)

336 :世界@名無史さん:05/01/01 13:41:46
ゲオルクさんはトラップ大佐でもトラップ男爵でもなく、
本当は少佐のリッター(騎士)だったんだね。

337 :世界@名無史さん:05/01/01 14:17:09
>>336
男爵だよ
1919年、予備役編入の前日にマリアテレジア騎士十字勲章
貰ったから。この勲章は男爵の肩書きが貰える。

338 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :05/01/01 16:21:23
明けましておめでとうございます。

ところでテゲトフ提督についてお聞きしたいのですが、彼の伝記というのは
本として出版されているのでしょうか?

339 :権兵衛さん:05/01/02 20:38:47

  >>337

 トラップが「軍功マリア・テレジア騎士十字章」を正式に授与されたのは
 何時のこと?「大十字章」と「軍司令官十字章」と「騎士十字章」とあるけど
 その3番目。第一次大戦を通して100個余りしか授与されていないけど。

340 :権兵衛さん:05/01/02 21:25:48

>>338

テゲットホーフ提督の伝記となると、世界史的にはマイナーな存在です
 から邦文のものはまずないでしょうね。小伝くらいはあるかもしれないが
 それすら判りません。
  英文でも、たいしたものは見当たりません。 
  ドイツ語の文献としては、「オーストリア大百科事典」の該当項目の
 出典として、次のような文献が挙げられています。入手が可能かどうか
 は判りません。
  H.H.Sokol und P.Handel-Mazzatti,"W. von Tegetthof" (1952)
U.Schoendorfer,"W. von Tegetthof" (1958)
K.Mueller,"Tegetthofs Marsch in die Nordsee" (1991)
 上の2冊は完全に「古書」扱いですね。3番目は先に話題になった
 「ヘリゴランド島沖海戦」だけを対象にしているようです。
 ご当人の銅像はまだいくつか残っているそうですが、さすがに伝記
 で商売になるほどの存在ではないようです。 


341 :世界@名無史さん:05/01/02 23:33:47
>>339
彼が貰ったのは1919年9月10日(サン・ジェルマン条約調印の前日)
この日、同僚のルドルフ・ジングレ(確か彼が撃沈数トップだったと思う)
と共に授与された。翌日、条約批准と共に海軍解体となって予備役編入
(もしかしたら9/9かもしれない)

伊達に英雄と言われる男だけはある。&家族をナチの手から救ったのも海軍
の経歴があったお陰なんだが…イタリア国境では亡命希望者が殺到していて
原則送り返しが実行されていたんだが、彼はフューメに住民票が残ったままだ
ったため家族共々、イタリア在留が認められた…

342 :世界@名無史さん:05/01/03 02:30:24
条約調印の前日に貰ったのは3人いた気がするんだが気のせいか

343 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :05/01/03 03:19:14
権兵衛さま
情報感謝いたします。
彼は確か、出先で馬車が見当たらず雨の中を歩いて戻って急性肺炎かなにかに
なって急逝されたと聞いているのですが、出先がどこだったのかなぁと思いま
したもので・・。あと、確かクロアチアのサイトだったかでガンで逝去された
と書かれたものも見たことがあります。いずれの情報が正しいのでありましょ
うか??もしご存知でありましたらご教示賜れば幸いです。


344 :権兵衛さん:05/01/03 06:03:29

>>343

  テゲットホーフが働き盛りの44歳で急逝したことは、二重帝国海軍に
 とって大打撃であったことは容易に想像できます。彼の直接の死因につい
 ての記述はまだ見つかりませんが、「非常に短期間に症状が悪化して亡く
 なった」というものと、癌が原因で亡くなったというものがありますね。
 ウィーンの海軍省に海軍総司令官として勤務していたと有りますので、海
 で死にたいと願っていた彼にとっては不本意な最後であったわけです。多
 分すでに癌に侵されていたところで、雨の中を長時間濡れながら歩いたと
 いうことが、急性肺炎を引き起こしてほんの2〜3日で急逝する結果にな
 ったのではないかと想像します。
  メキシコで非業の最期を遂げたフェルディナント・マクシミリアンと、
 クリミア戦争時に親しく接する機会があり、強力な海軍を整備しようと努
 力をしている途上での「急ぎすぎた死」であったようです。
  誕生:1827年12月23日、Marburg(Maribor),Styrie
死亡:1871年 4月 7日、Wien
 ということになりますね。(享年44歳3ヶ月17日)



345 :世界@名無史さん:05/01/03 09:05:10
>>340
>さすがに伝記で商売になるほどの存在ではないようです。
 韓国の提督だったら今頃国内向けでベストセラーかも?
 その国のナショナリズムが高揚する時期かどうかによって
一般人における歴史上の評価ってかなり違ってきますね。

346 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :05/01/03 16:08:02
>権兵衛さま
ありがとうございます。

ウイーンの軍事博物館でテゲトフ提督の伝記はないですかとお聞き
したところ「今、出版されているのはない」と言われました。
その時にプラータの銅像と海軍省の建物は見て帰りなさいと言われ
ました。
あと、リッサの海戦を描いた絵で、艦橋で両手をポケットに突っ込
んで仁王立ちになっているというのがありまして、そういう癖のあ
る人だったのかなぁと思った記憶があります。


347 :権兵衛さん:05/01/05 00:48:11

 更新が早いサイトなので、穴が開かないための「埋め草」です。

  オーストリア=ハンガリー海軍の最後の海軍総司令官となったミクロス・
 ホルティ提督の回想録から。

  1917年4月2日、アメリカ合衆国が連合国側についてドイツ、オース
 トリア=ハンガリーなどの中央同盟側諸国に対して宣戦布告をした。この新
 たな参入者の登場により、戦争の動向は決定的な状況となりつつあった。
  我が国にとってはアドリア海での状況の急変となってそれは現われること
 になった。わが海軍は未だ海上での戦闘で破れたことはなかったが、陸上で
 の相次ぐ敗戦は、補給難となって将兵の士気に大いに影響を与えた。
  戦艦「プリンツ・オイゲン」の艦長として、プーラに着任した私の目には
 艦隊はまともな状態ではなかった。3年近い「閉塞在港艦隊」として時を過
 ごしていてはそれも仕方なかった。ドイツ海軍もキールで似たような状態に
 置かれていたが、我国の場合はさらに人種的な背景が事態をより一掃困難な
 ものにしていた。[1]

 [1] 1914年当時の二重帝国海軍の人的構成は以下のようであった。
    クロアチア 31.0% ハンガリー 20.4% ドイツ=オース
    トリア 16.3% イタリア 14.1% チェコ=スロバキア
    11.8% ポーランド・ルーマニア 3.0% スロベニア 2.8

  私が「プリンツ・オイゲン」に着任した最初の晩に、水兵たちが夕食を取る
 ことを拒否するという事件が起こった。こうした行動に対して「反乱」めいた
 行動を取ることは許さないと言明し、またハンガリー系水兵たち約3百人が私
 を支持してくれたことで艦内の統制を取り戻すことができた。しかし、海上で
 の行動ができない艦隊の士気を維持することに腐心せざるを得ないまま、徒ら
 に日時は経過して行った。(以下、続く(もし、可能ならば・・・。)    

348 :世界@名無史さん:05/01/05 01:20:56
>>335 @Kommandantとは、少佐なのですか。
    コマンダーに似ているので中佐みたいですが。 
    A海兵隊と海軍とは、どういう関係でしょうか。たとえば、米軍では、
      現在は、それぞれ別々のようですが、過去はいろいろだったようです。


>>336.337 @リッター・フォン・トラップ家の出身で、彼は自らの功績でフライヘル・フォン・トラップになった、
      ということですか。
      AWW1後のオーストリア共和国では、貴族の称号すら禁止だった筈ですから、「フォン」すら禁止ですよね。
        したがって、本当はトラップさん(ヘル・トラップ)、トラップ大佐(コマンダント・トラップ)と呼ぶのが正しいのでは。
         (もちろん、私的な会合で「フォン・トラップ男爵」はありうると思いますが)
     


349 :世界@名無史さん:05/01/05 03:18:18
348の@ですが、
 Kommandantとは、少佐ですか。中佐ですが。
「1918Uボートステーション・ゴルフvカッタロに転任(階級・Kommandant)」
 そのあと、1918階級Korvettenkapitaenですが、この方はなんですか。
 なんか上がったり下がったりしているみたいで。


350 :世界@名無史さん:05/01/05 11:13:48
>>348 >>349
第一次世界大戦より前の海軍の階級制度を日本式の階級制度に当てはめる
のは不可能かと思います。悪く言いましたら階級は三段階しかないからで
す。船の船長・指揮官・操作責任者です。
船長の中に戦列艦(戦艦)の艦長・フリゲートの艦長・コルベットの艦長
があります。その次に指揮官(コマンダー)という職種があります。これ
は航海責任者・砲術長など個別セクションの責任者です。また、スループ
や潜水艦の責任者もこれになります。その下に各砲、機器の操作責任者と
しての尉官(ルテナント)がいます。

351 :権兵衛さん:05/01/05 17:35:25

  ホルティー提督の回想録より −2−

 1917年5月に我々がオトラント海峡の封鎖線を打破したが、1918年になると
 ふたたび封鎖されてしまった。2月のローマでの連合国会議で封鎖の強化がなされると、
 英国の駆逐艦は40隻に、フランスのそれは12隻となり、合計76隻もの艦艇によっ
 て封鎖線が構築され、飛行艇などによる哨戒も行われた。
  こうした状況下で、わたし[ホルティー]は士官学校時代の同期生2人と共にバーデン
 の海軍総司令部に呼び出された。そこで私たちは皇帝カール陛下に拝謁することとなっ
 た。陛下は私をアドリア艦隊司令長官(事実上の帝国海軍司令長官)に任ぜられた。こ
 の任命に驚いた私は辞退申し上げたが、陛下はそのご意志をお曲げにならなかった。弛
 緩しきった海軍の士気を回復させるためには、思い切った人事の若返りが必要だとのご
 決意であったのだ。(1818年3月1日付け)
  かくして少将に昇進した私は、「反乱寸前の艦隊」に艦隊司令長官として赴任したの
 だった。着任早々に、チェコ系とクロアチァ系の水兵2人が反乱を教唆したとして逮捕
 された。軍法会議の結果、2人とも死刑判決を受けた。私はその判決を承認し、処刑に
 際しては各艦より20人ずつを参加させた。その結果、艦隊の不穏な雰囲気は収まった
 が、それは一時的なものでしかないことも判っていた。(続く?)
  

352 :世界@名無史さん:05/01/05 18:07:54
>>権兵衛さん

その、ホルティの回顧録って出版されているのでしょうか?
私は『写真集 ホルティ・ミクローシュの生涯』という本を
持っています(ただしハンガリー語)。
ブダペストの軍事史博物館の売店で見つけました。


353 :権兵衛さん:05/01/05 20:13:05

>>352 (うーん、ハルトマンの撃墜数を取られたか。)

  多分、以前ハウスさんが触れていたサイトと同じものだと思います。
  英文というのが「欠点」ですけど。

  Annotated Memoirs of Admiral Miklos Horthy, Regent of
Hungary, The (注解付き「ハンガリーの摂政、ミクロス・ホ
  ルティの回想録」とでも訳しますか。)

  Historical Text Archive というサイトで「E−Book」
  の中で見つけました。

  ttp://historicalarchive.com/books.php?opviewbook&bookid=9&cid=7

です。お時間があればどうぞ。結構、いろいろな文献に出くわしますよ。


354 :権兵衛さん:05/01/05 20:46:14

 ホルティ提督の回想録より −3−

 謀反人の公開処刑による規律維持は短命なものであることは明白で
 あった。この年の初め[2月1日]にも南部の軍港ボッチェ・ディ・
 カッタロ(Bocche di Cattaro)で何隻かの艦船に赤旗が翻ったのだ。
 こうした反乱の風潮を押さえ込むことは容易なものではない。
  艦隊の指揮と規律を手っ取り早く復活させるには、海上での行動
 とそれに伴う戦果であることは古今の常識である。
  かくて私は艦隊の全力を挙げてオラント海峡の封鎖線を破ること
 にした。前年5月15日に起きたように、敵は任務を果たしたあと
 撤退する我が艦隊を追撃するであろうが、充分にこれらの妨害をし
 りぞける力はあると判断された。
  かくて、私は上層部にこの作戦を上申し、認可を得たのである。

355 :世界@名無史さん:05/01/06 00:11:28
のちのハンガリー摂政のホルティ提督(アドミラル・ホルティ)の提督っていうのは、
何をもって、そういっているのでしょうか。

スレッドをみると、オーストリア海軍には、階級と職位の二つではなく、職位しかなかったみたいに見えます。

356 :世界@名無史さん:05/01/06 00:17:14
イン川のほとりに、フリートブルク城というのがあるそうで、ご覧になった方はおられるでしょうか。
この所有者は、フォン・トラップ伯爵であるとある本に書いていました(グラーフ・フォン・トラップ)。

所有とは、戦後買い求めたのか、
遥かな昔、主君より賜ったか、戦で勝ち取ったか、まさに城主なのか、
そこまでは書いていませんでしたが。

トラップ大佐は、フォン・トラップ男爵ではなく、フォン・トラップ伯爵ではないか。
そんな気がして来ましたが。
 (トラップ大佐は分家筋かもしれませんが、ご先祖がすでに伯爵であれば、
  次男三男も等しく、同じ爵位を名乗る習慣がある?、ドイツのことですので)


357 :権兵衛さん:05/01/06 00:42:02

>>346

>あと、リッサの海戦を描いた絵で、艦橋で両手をポケットに突っ込
 んで仁王立ちになっているというのがありまして、そういう癖のあ
 る人だったのかなぁと思った記憶があります。

 あるオースリア海軍のサイトで見かけた絵でしょうか。艦橋で両手を
 ポケットに入れ、仁王立ちしながら敵を睨みつけいる頬髯の人物。
 その右側(絵では左になります)ではサーベルを抜いた士官が敵艦に
 切り込まんばかりの姿で、左側では双眼鏡を持った士官とそのとなり
 にもうひとりの士官が立っている。
  その下で巨大な舵輪を5人の水兵が取り付いている。真ん中の若い
 兵は右手に軍帽を高々と掲げ、何か叫んでいる。
  この絵でしたら、「リッサ海戦」を扱ったサイトではよく見かける
 ものですね。両手をポケットにつ込んだまま、敵を睨みつけているテ
 ゲットホーフの姿は彼の熱血漢でありながらも、沈着さを失わない人
 物像を表現しているようでもありますね。

358 :通りすがりの名無史:05/01/06 14:29:46
今週発売の学研「歴史群像2月号」でイタリア海軍小型艇特殊部隊の記事が
あり、イタリア魚雷艇(MAS)の攻撃によるド級戦艦ツェント・イシュト
ヴァーン撃沈と人間魚雷攻撃によるポーラ軍港襲撃とヴィリヴス・ウニー
ティス撃沈の経緯が詳しく記載されていました。

ホルティ提督については少ししか語られていませんが、記事中のポーラ軍港
のオーストリア艦艇配置図などは、二重帝国海軍ファンにも参考になりそう
です。

359 :権兵衛さん:05/01/06 17:36:34

>>358

  先に書き込まれてしまいましたね。同じ号の始めの方に「リッサ
 島沖海戦」(1866年)も扱われています。見開き2ページを使
 用してイタリアの装甲艦「レ・ポルトガロ」に体当り攻撃をしかけ
 るオーストリアの木製戦列艦「カイザー」の絵がのっています。
  記事そのものは残りの4ページを費やして書かれていますが、テ 
 ゲットホーフ(テゲトフ)の肖像は出てません。

360 :世界@名無史さん:05/01/06 19:37:04
>>355

351には、こうありますが、、
>かくして少将に昇進した私は、「反乱寸前の艦隊」に艦隊司令長官として赴任した

361 :権兵衛さん:05/01/06 20:08:48

 オーストリア=ハンガリー帝国海軍の階級

  簡単に、ドイツ海軍と同じかと思い込んでいましたが、サイトをあちこち
 と捜しまわってもこれというのがなかなか見つかりません。以前あったもの
 は消滅していたので、がっかりしました。
  それでも第一次大戦当時のものではありませんが、ひとつ見つけたので、
 とりあえずアップしておきます。(下士官、兵は複雑なので略します。だい
 いち、意味も判らないのが多い。(^^;; 日本のそれだって同じだけど。)

  1880年当時の海軍の階級(士官のみ)
  
  将官(提督)級
   Admiral 大将
Vizeadmiral          中将  
Kontradmiral         少将
  佐官(幕僚)級      
   Linienschiffeskapitaen    大佐
Fregattenkapitaen       中佐
Korvettenkapitaen      少佐
  上級(先任)士官級
   Linienschiffsleutenant    大尉
Linienschiffsfaehnrich    少尉

  この当時は中尉がなかったようです。大尉が一級と二級に分かれて
 いたという意味の記述がありますが、特に区別していなかったようです。
  ただ、第一次大戦のころには海軍の組織も拡張されているので、また
 階級が分かれていたことは確かです。(何しろ Grossadmiral がない。)

362 :権兵衛さん:05/01/06 21:52:31

  ホルティ提督の回想録より  −4−

  最高司令部よりの認可を受けて、[封鎖線打破]作戦は1918年6月11日
 に設定された。目的地の到達するには2晩の秘匿を必要とした。まず、グラボ
 ーサ?(Gravosa)港北のスラーノ(Slano)泊地から第1戦艦部隊から出撃を命
 じた。ザイツ大佐指揮下の第2戦艦部隊は目的地までの距離が半分のグロッサ
 (Grossa) は24時間の余裕があるので、それまで待機させることにした。
  原因不明の理由により、港湾の防潜網の移動が遅れ、更に戦艦テゲットホー
 フの機関のトラブル[これは、「ツェント・イシュトバーン」と混同しているよ
 うです。] により、艦隊の進行は遅れた。未明になって、イシュトバーンが闇
 にまぎれて接近してきたイタリアの魚雷艇の攻撃を受け、2本の魚雷を被雷し
 た。3時間と経たずに同艦は沈没し、魚雷艇は逃げ去った。これは我々の意図
 が敵に知られたことを意味した。オトラント海峡の封鎖線が一層強化されるこ
 とは明らかであった。重苦しい状況の中で、私は艦隊に撤収を命じた。
 

363 :世界@名無史さん:05/01/07 11:56:31
>>358>>359
それは!オーストリア海軍好きには、まるでお年玉のような号ですね

364 :権兵衛さん:05/01/07 22:13:36

>>356

 >イン川のほとりに、フリートブルク城というのがあるそうで、ご覧になった方はおられるでしょうか。
この所有者は、フォン・トラップ伯爵であるとある本に書いていました(グラーフ・フォン・トラップ)。

  ドイツ語のサイトで見つけました。インスブルックの東、近郊にある城のようです。
  ttp://www.tibs.at/burger/burger_schlosser.tirol/friedberg.htm

  ゲオルグ・フォン・トラップとは直接の関係はないようです。観光ガイドめいた文章
 が掲げられていますが、彼の名前は出ていません。世界的に有名になった「トラップ一
 家」の係累ならば、当然触れるはずですから。
  トラップという苗字は、ドイツ語圏では意外にありふれたもののようです。
  ナポレオン最後の戦勝となった「ドレスデン会戦」での、連合軍の補給担当の責任者
 の将校の中にも「トラップ男爵」の名前があります。また、北イタリアにもカルドッチョ
 ?(Corte di Caldozzo)という城か、館があり、そこの当主も「トラップ伯爵」を名乗っ
 ています。また、パッサウ(Passau) の市立劇場の関係者として「トラップ伯爵」の名前
 の名前が18世紀ごろにあるそうです。
  ゲオルグの子供たちが、「父の称号は第一次大戦での戦功によって得たもの」と言って
 いるので、由緒ある家名を継いでいた訳ではないようです。



365 :ハウス:05/01/07 23:12:51
>>358 >>359
内容を確認の上、さっそく購入しますた!
(普段この手の雑誌は全然読まないのですが・・・)

>>362 ホルティ提督の回想録より  
これまで疑問に思っていた事が徐々に明らかになってきております。
権兵衛様感謝です。

366 :世界@名無史さん:05/01/08 17:01:12
権兵衛さん へ;

339 :権兵衛さん :05/01/02 20:38:47
    >>337
    トラップが「軍功マリア・テレジア騎士十字章」を正式に授与されたのは
    何時のこと?「大十字章」と「軍司令官十字章」と「騎士十字章」とあるけど
    その3番目。第一次大戦を通して100個余りしか授与されていないけど。

  

これは、ハンガリースレッドVの911番の
>マリアテレジア軍事勲章:
>1757年7月18日のコリーンの戦い(@)の大勝利を記念して
>マリアテレジア女帝(A)により、設けられた
>帝国内(B)の士官への最高軍事勲章である。
>中央にオーストリアの紋章を配し(B)、周りにラテン語で「勇気」と記す。
>世襲の貴族称号も併せ持つ勲章である。1918年11月(B)まで授与された。
に関係ありそう。
第一位から第何位まであるのか知りませんけど、
第三位の位だと、男爵ということなのかなぁ。
勲章の名前からだと、騎士爵のように見えるんだけど。


367 :世界@名無史さん:05/01/08 20:25:40
>>255
ありがとう。やっぱり大佐は嘘だったんですね!
そうだろうと思っていたんだ。少佐だったのか。

368 :ハウス:05/01/08 23:46:27
>>365
これまで疑問に思っていた事が徐々に明らかになってきております。

・・あれ? 何か変な文。「これまでの疑問点が徐々に解消されつつあります。」かな?

>>358
先ほど学研「歴史群像2月号」でその記事を読みましたが、
いや〜大変充実した内容で大満足ですた。
記事内のポーラ軍港におけるオーストリア艦艇配置図についてですが、
以前とある欧文サイトで、図の戦艦群と共に巡洋艦や駆逐艦?なんかも加えた
より詳細な配置図を見た記憶があるのですが・・探せばまだあるかしら?

369 :権兵衛さん:05/01/09 00:00:05

>>367

左様で「権ス」(^o^)

370 :権兵衛さん:05/01/09 09:38:14

>>366

 マリア・テレジア軍功十字章ですが、上の二つは国家元首や最高司令官級や
 軍司令官などに送られる「儀礼的な勲章」と考えたほうがいいので、実際上は
 3番目の騎士十字章が代表的な戦功勲章となるでしょう。110個が送られた
 そうです。上は大将から下は中尉まで受賞者の階級は様々です。
  Uボートの艦長で受賞したのは3人で、トラップのほかはルドルフ・ジング
 ーレ(Rudolf Singule)大尉とヘルマン・リジーレ(Herman Rigele)大尉です。
  リジーレ大尉は受賞者の最後の生存者として、1982年に101歳の生涯を
  閉じたそうです。(養老院で慰問のために上映された「サウンド・オブ・ミュ
 ージック」を見て、かつての畏友トラップ少佐が「コケ」にされていると、カ
 ンカンになったというエピソードが伝えられています。)

371 :世界@名無史さん:05/01/09 21:17:47
うーん、すごく博識なスレですねえ。
Linienschiffeskapitaen    大佐
Fregattenkapitaen       中佐
Korvettenkapitaen      少佐
リニエンシッフェスカピテン ラインシップ(戦列艦)艦長 大佐
フレガッテンカピテン フリーゲート艦艦長 中佐
コルヴェッテンカピテン コルベート艦艦長 少佐(←トラップ氏)
ってことでイイ?
ところでフリーゲート艦とコルベート艦って何?海防艦って何?戦艦と
どうちがうの?戦艦が古くて一線でつかえなくなると海防艦になるの?
砲艦って何?
そういえば、この間読んだマンガに日本海軍も日清戦争までは中尉がな
くて少尉と大尉(一等と二等)だけって書いてあったっけ。
あと、ついでに教えて!ドイツ語にやたら詳しい人がいるみたいだから。
携帯電話のCMで、「choeka」(oeはoウムラウト)と書いて、
「チョッカ」と読ませているけど、あの発音って嘘だよね?

372 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/01/09 23:08:18
>371
中世以来、19世紀末になるまで、戦闘艦の区分としては、一番大きいのを戦列艦、中くらいの艦をフリゲート、
小さい艦をコルベットと称していました。

英国の場合は、最初、乗員数で区分され、300名以上を一等艦、50人未満を六等艦としていました。
18世紀以降は砲門数で区分するようになりました。
アンソン海軍卿が定めたのが、100門以上を一等艦、84〜100門が二等艦、64〜84門を三等艦、50〜64門が四等艦、32〜50門が五等艦、
32門未満を六等艦、20門未満を等外艦としていました。

この一等〜四等艦を戦列艦、五等、六等がフリゲイト、等外艦をスループとしています。

フランスの場合も砲門数で等級を分け、76門以上3層砲甲板を有するモノを一等艦とし、以下30門以上1層
砲甲板を有する五等艦と呼び、五等艦以下をフリゲイト、ブリッグなどと言っています。

フリゲイトは、上記区分で、24〜40門程度の1層砲甲板の艦を指します。
更にシップ型、つまり、3本のマストの前の2本に横帆を、最後尾マストに横帆と縦帆を掛けるもので、排水量は
1000t未満。
打撃自体は戦列艦が行いますので、主任務は偵察、監視、情報や命令の伝達、沿岸警備、商船護送、要人急送、
海賊、私掠船討伐、つまり、単独行動が可能で、快速力と小回りの効く艦であることが重要です。

コルベットは、フランスが最初に開発した艦で、フリゲイトよりも小型で、平甲板のシップ型で、植民地警備や土着民
討伐、砲艦外交用に使用されています。

以下、等級艦に入らない艦船としてスループ、ボムケッチなんてのもあります。

後に蒸気機関、旋回砲が実用化されると、舷側固定砲門は意味が無くなり、艦の性格も変化していきます。
戦列艦は、外洋で敵艦と戦闘し、敵地の沿岸邦題を破壊する任務を持ち、激浪に耐える航洋性と、長大な
航続力、大型の大砲と強固な装甲防御力を持つ戦艦に変貌します。
この戦艦のうち、任務、装備は戦艦と同じですが、戦闘場面を自国沿岸に限定したのが、海防艦、あるいは
海防戦艦と言う艦になり、耐波性に劣りますが、陸地に接近出来、小型の船体に大口径砲を装備することで
安価に数が揃えられると言うことで、中小国が挙って整備しました。

373 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/01/09 23:09:40
う〜ん、中途半端に切ってまった。

フリゲイトは敵商船と護衛艦を攻撃する通商破壊任務と、その逆で敵の攻撃を防ぐ任務を持ち、航洋性、航続力、
高速力を持つ代わりに、攻撃力と防御力の制約を受ける、巡洋艦に進化しました。
巡洋艦と言っても、一等から三等まであり、一等、二等がこれに当たりますね。

コルベットは偵察、命令伝達を主任務とする三等巡洋艦、または、通報艦に進化します。

砲艦はボムケッチの進化型でもあり、小型の海防艦と言っても差し支えないでしょう。
小さな艦に大口径砲を1門程度持ち、浅喫水であるため、河川、浅瀬で行動出来ます。

374 :権兵衛さん:05/01/10 12:41:23

  眠い人さん、こんにちわ。

  前近代の海軍艦船の区分、有難うございます。こうした簡潔な説明があると
 先ごろ深夜に再々?放送していた「ホーンブロワもの」や「マスター&コマン
 ダー」などが理解しやすくなります。

375 :ハウス:05/01/10 12:57:38
>>370
トラップ少佐やジングレ大尉と共にマリア・テレジア騎士十字章を受賞した
ヘルマン・リジーレ(Herman Rigele)大尉の第一次大戦中の戦歴についてちと調べてみました。

1918年9月に入るとオトラント海峡には駆逐艦31隻・水雷艇10隻・潜水艦8隻・駆潜艇36隻(米艦艇)
ドリフター153隻といった大小合わせて250隻を超える連合国艦艇が集結し、10月2日には伊戦艦3隻
伊英巡洋艦8隻・同駆逐艦16隻・水雷艇8隻・米駆潜艇と伊MASよりなる艦隊が北上、アルバニア
沿岸部のオーストリア勢力下の都市ドウラッツオを砲撃しました。

対するオーストリア側は駆逐艦・水雷艇・潜水艦の小部隊が敵艦隊への襲撃を試みたようで、この
時ヘルマン・リジーレ(Herman Rigele)大尉の指揮する潜水艦U31が英巡洋艦Weymouthに対し魚雷
攻撃を行ないましたが、最終的にこれを沈没させるまでには至りませんでした。

そしてその2週間後の10月17日にオーストリア潜水艦部隊に対し戦闘中止命令が下されました。

376 :maro':05/01/10 13:35:49
>>368
ハウスさん、それではオーストリア艦艇配置図のトレース元になった、
1918年6月30日の空撮写真を載せておきます。解説上の画像をダブル
クリックしてください、大画像で見れます。ご参考までに。
http://www.photohighway.co.jp/ImageAlbum.asp?key=473.431143&src=15987321&un=
97071&m=2&pos0=49&type=0


377 :maro':05/01/10 13:38:46
上のURLが上手く表示されていなかったので、もう一度
http://www.photohighway.co.jp/ImageAlbum.asp?key=473.431143&src=15987321&un=97071&m=2&pos0=49&type=0

378 :世界@名無史さん:05/01/10 17:27:39
>>372
艦種の分け方ですが軍事史学上ではこうなってます。
3層以上…戦列艦
2層…フリゲート
1層…コルベット
甲板のみ…スループ

379 :世界@名無史さん:05/01/10 18:13:41
>364
>ゲオルグの子供たちが、「父の称号は第一次大戦での戦功によって得たもの」と言って
>いるので、由緒ある家名を継いでいた訳ではないようです。

お調べいただきありがとうございました。
 もっとも、子供たちが言っている「父の称号」は、勲章に付随する男爵位のことで、
 そのほかの称号ではないのかな、としつこく思ったりします(ごめんなさい)。
 大佐(否、少佐)は、亡命後、いつまで生きたかしりませんが、彼が誇りとするのは、
 祖先からの称号でなく、自らの勲功だけで、それしか語らない軍人でしょうし、
 マリアも、社交界や、上流階級の閨閥について疎いはずですし。

以上は独り言ですので忘れてください。

 私は、最初、少佐は、伯爵の称号と男爵の称号の両方を持っていて、ただし、後者の
誇りに思っていて、後者しか使わなかったんではないかと予想しました。
 T.男爵は、彼の手柄で獲得したわけで、その裏にはマリアテレジア軍事勲章がある、
 U.また、ひょっとすると、伯爵位は、形式上、オーストリー公国の君主から授与されたものに過ぎないが、
   男爵の方は、皇帝から授与されたのであれば、こっちのが、高そうですし
  (帝国爵位だから、高いとすれば、こちらを儀礼上用いるのが、社交ルールに合うような気もする)。

 トラップ一家は別として、一般論としては、このあたりどうなんでしょうか。

380 :ハウス:05/01/10 18:54:02
>>376>>377
maro'さん、どうもありがとう!
お礼といっては何ですが、よろしければご参考にどうぞ↓

【終戦時のポーラ軍港に配備されていたオーストリア海軍艦艇】

準ド級戦艦 Radetzky、Zrinyi、Erzherzog Franz Ferdinand ド級戦艦Prinz Eugen、Tegetthoff、(×Viribus Unitis)
(以上軍港内の北西から南東にかけて並んでいた主力艦艇)

前ド級戦艦 Habsburg、Arpád、Babenberg 海防戦艦Budapest、装甲艦Mars
装甲巡洋艦Kaiserin und Königin Maria Theresa 防護巡洋艦 Aspern、Szigetvar 水雷巡洋艦Leopard
駆逐艦Tatra[Balaton]Csepel
   Blitz、Csikós、Dinara、Huszar、Orjen、Planet、Trabant、Turul、Ulan、[Uskoke、Velebit、Warasdiner]
水雷艇Tb8,10,74,77,78,81,86,94,98
[Tb51,59,64,67,68,70,75,80,90,92,95,99]

※[]は修理のためドック入りの艦艇

381 :371:05/01/10 19:00:33
>>372-373
ふむふむ。
どうもありがとうございます。(^^)

382 :世界@名無史さん:05/01/10 19:02:21
上のほうのレスにトラップは1919年にマリアテレジア騎士十字勲章を授与され
男爵になったとあったのですが、1919年はすでに共和制になっているので、
男爵の称号はつかないのではないでしょうか?


383 :世界@名無史さん:05/01/10 19:25:06
>>364
>子供たちが、「父の称号は第一次大戦での戦功によって得たもの」と言って
>いるので、由緒ある家名を継いでいた訳ではないようです。

もともとは、 「von トラップ」家でもなく、
 たんなる「トラップ」家だったのかなと疑問が残ります。
 
 映画を信用するわけではないですが、映画では、
 大きなお屋敷、自宅で舞踏会、男爵夫人とお友達というわけで、
 とても普通の人ではないですから。

>>382、確かにそうですね。ハンガリーは依然、王国で貴族制度はあったみたい?ですが、
 オーストリーは、共和制となり、貴族の制度も呼称も禁止した筈ですね。
 ドイツの方は、貴族の呼称は残したようですが。
 
 社交の場での慣例で、貴族呼称が残ることはあると思いますが、男爵夫人がいるのに、
 トラップ男爵とは呼ばないのですから、やはりその辺を気にしているのかもしれません。
 (あるいは、少佐の方が、男爵より、地位が高いのかもしれませんが)

384 :権兵衛さん:05/01/10 22:44:25

>>383

  映画のセットは信用しないでくださいね。(^^;;

  現実のトラップ家が暮らしていた館は現在もザルツブルグの郊外に残っています。
 一家が亡命した後に、かの悪名高いナチスの秘密警察長官ヒムラーが「オストマルク」 
 と改名された中部オーストリア地方の巡回時に、私邸として使用していたとか。その
 ため戦後、一家に返却された「没収財産」のひとつであった館は同地方で活動してい
 たアメリカの宗教団体に売却され、現在もその団体の所有になっていると聞きます。

  話が脱線しましたが、ゲオルグの最初の妻となった女性がアガサ・ホワイトヘッド
 というイギリス系の人物でした。同姓のロバートの孫娘と聞けば、潜水艦や水雷艇の
 歴史をご存知の方ならピンとくるはずです。
答えはこの次に・・・。(^o^) ご存知の方は黙っててね。m(-.-)m
24時間かそこいらしたら書きますので。


385 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :05/01/10 23:24:14
権兵衛さま
まさしくその絵です。ウイーンで実物を見たのですが、海軍の軍人に
してはいささか行儀の悪い人なのかなぁと思った次第です。
雑誌の挿絵かなにかだと手すりを握って前を指差して大声で叫んで
いて、右横で被弾した士官が倒れる瞬間というものもありますが、
ポケットに手を突っ込んで立つ彼の姿が何か人間らしくて好きです。


386 :権兵衛さん:05/01/10 23:35:05

  >>384  訂正がひとつ。
       アガサはロバートの孫ではなく、曾孫になるそうです。
      

387 :世界@名無史さん:05/01/11 10:09:24
ドイツで戦後間も無く作られた映画『菩提樹』が見てみたい

388 :maro':05/01/11 13:35:42
>>380
ハウスさん、ポーラ軍港に配備されていたオーストリア海軍艦艇リストを
有難うございます。また今後の参考にさせてもらいます。

それでは、私も。人のサイトなのでお礼と言ってはなんですが、第一次大戦
における二重帝国海軍および陸軍よる徴発/雇い汽船のリスト&船暦サイト
のご紹介です。病院船なども追跡可能です。
http://www.stile.coventry.ac.uk/cbs/staff/beech/ahnavy/dampfer.htm#ARMY

ロイズ船舶保険会社などからのソースなので信頼性もありそうで、今回は
私も重宝させてもらいました。


389 :権兵衛さん:05/01/11 21:19:15

 ホルティ提督の回想録より  −5−

  1918年秋、アルバニアが脱落したので、オーストリア海軍はアドリア海
 奥への友軍の撤収を援護し、連合軍の攻撃を撃退した。
  事態は激しく動いていた。9月29日にブルガリアが「講和」を求めた。こ
 のためバルカン半島は混乱の坩堝に放り込まれたようになった。帝国の内地へ
 の物資の補給は激減した。皇帝は前首相のチィツァ伯爵をボスニアに送り現地
 の情勢を調査させた。伯爵の報告は南部スラブ諸国の脱落を阻止する見込みは
 ほとんどないというものだった。
  10月17日、皇帝カール陛下は帝國のポーランド領域を独立国家とし、ト
 リエステを特別自治区とし、その他の王国を自治国とする布告を出した。
 帝国を連邦国家に改編しようとする試みが、解体しようとしている帝国の体裁
 を保とうとするものであったと思われる。しかし、事態はその程度の「お茶に
 濁し」ではどうともなるものではなかった。
  ブタペストの議事堂では、ミヒャエル・カロリー伯爵が「ハンガリー本国の
 防衛」のために、前線からハンガリー軍を戻すよう要求した。
 

390 :権兵衛さん:05/01/11 23:09:03

>>384

  さて、ロバート・ホワイトヘッドとその曾孫娘アガサとフォン・トラップの
 関係についての「お答え」です。
  イギリスはボルトンで1823年に生まれたロバートは、若くして工科大学
 を卒業した後、フランスで働き、マルセイユで結婚して暮らしたのち、イタリ
 アのミラノで紡績機械の工場を経営していました。19世紀半ばの大陸は各地
 とも不穏な状況だったーードイツもイタリアも統一していなかった!また、二
 重帝国も成立していなかったーーので、トリエステに移住したが、すぐにフィ
 ウメで蒸気機関の工場に就職しました。そこで彼は近代海軍兵器のひとつ、魚
 形水雷の開発に携わり、その有力な開発者のひとりとなったのです。
  蒸気機関の各種の開発でその名をはせていた彼はオーストリア政府に働きか
 けて、近代の「魚形水雷(魚雷)の父」となったのです。彼のもとには莫大な
 特許料が各国海軍から流れ込み、欧州で最も裕福な産業王のひとりとなったわ
 けです。1892年には彼の孫娘のひとりはドイツの宰相の息子と結婚しまし
 た。お相手の名前はヘルベルト・フォン・ビスマルク(!)そして、1912
 年には前年に「新鋭潜水艦」の進水式で知り合った艦長と曾孫娘フランシスが
 結婚しました。お相手はご存知ゲオルグ・トラップ大尉。しかもなぜか、一族
 の寵愛を一身に集めていた「お嬢様」は、持参金だけでも大変なものなのに、
 さらに莫大な財産を相続してくれたおかげで、一家は預金の「利子だけ!」で
 も優雅な生活を保証されていたそうです。そんなわけで、トラップは下手な貴
 族様なんぞ問題にならない、王族並みの暮らしができたというわけです。
  一説では預金だけで邦貨に換算して3000億円!あったそうですから、超
 低金利の「某島国」にでも暮らしていない限り、年に50億円から100億円
 が転がり込んでいたことになります。(物価や貨幣価値の問題もあり、簡単に
 は云えませんが、ともかく、私のような「貧民」からは想像もできないお金持
 ちであったのです。もっとも、1932年の「欧州版金融恐慌」で、一夜にし
 てその全預金を失ったそうですが・・・、同情したものか、どうか・・・?)

391 :ハウス:05/01/11 23:16:23
>>388
maro'さん、わざわざどうもです。
なかなかボリュームのあるサイトですねぇ。

さて、昨日レスした内容を見やすくまとめてみましたのでどうぞ↓
ついでに【カッタロ軍港】も追加しておきました。

◇終戦時のオーストリア海軍艦艇配備状況◇
【ポーラ軍港】
準ド級戦艦Radetzky、Zrinyi、Erzherzog Franz Ferdinand ド級戦艦Prinz Eugen、Tegetthoff、(×Viribus Unitis)
(以上軍港内の北西から南東にかけて並んでいた主力艦艇)

前ド級戦艦Habsburg、Arpád、Babenberg 海防戦艦Budapest、装甲艦Mars
装甲巡洋艦Kaiserin und Königin Maria Theresa 防護巡洋艦Aspern、Szigetvar 水雷巡洋艦Leopard

駆逐艦Tatra[Balaton]Csepel、Blitz、Csikós、Dinara、Huszar、Orjen、Planet、Trabant、Turul、Ulan[Uskoke、Velebit、Warasdiner]
水雷艇Tb8、10、74、77、78、81、86、94、98 [Tb51、59、64、67、68、70、75、80、90、92、95、99]

【カッタロ軍港】
前ド級戦艦Erzherzog Karl、Erzherzog Friedrich、Erzherzog Ferdinand Max 海防戦艦Monarch
装甲巡洋艦Sankt Georg 防護巡洋艦Kaiser Franz Josef I 水雷巡洋艦Panther

駆逐艦Pandur、Reka、Satellit、Scharfschütze
水雷艇Tb6、9、15、54、62、73、76、79、82、83、85、87、88、89、93、97、100

392 :教えて君ですいません:05/01/12 08:44:27
残存艦艇のその後ってわかりますでしょうか?
駆逐艦がイタリアに言ったとか水雷艇がユゴー等にばら撒かれたとかは知ってますけど、
あとがよくわかりません。まあ古い分は廃棄されたんでしょうね。
あと、ユーゴに分配されるはずの戦艦がイタリアの特殊部隊に破壊されたって話を
読んだことがありますが、本当でしょうか?


393 :権兵衛さん:05/01/12 17:34:14

>>392

 358-9 で言及されている学研社の「歴史群像・2005年2月号」の
 「特攻イタリア海軍MAS部隊」の記事をお読みあれ。現在、店頭に並ん
  でいる雑誌なので内容には触れません。このスレッドすぐ上でも、ハウ
  スさん、眠い人さんらが戦艦「フィリブス・ウニティス」について書か
  れています。


394 :世界@名無史さん:05/01/12 17:38:51

ホルティ提督の子孫はポルトガルで遊んでるのでしょうか?


395 :権兵衛さん:05/01/12 19:35:29

 >>394

  又聞きの伝聞になるのですが、1993年9月5日付けのニューヨーク・タイムズ紙
 が「ホルティ提督の遺体、祖国へ帰る」と題するニュースを載せたところ、その記事の
 内容に間違いあるという指摘がされました。東欧の共産圏が崩壊して、各国の王族の子
 孫たちも「帰国」できるようになった例のひとつになったわけです。
  ホルティを「大佐」であり、「提督」を僭称し、「摂政」として戦間期のハンガリー
 を統治した云々、という内容だったようで、カナダの戦略研究所の上級研究員の方が、
 1918年に当時の皇帝から直々に海軍少将に任じられたのだから、「提督」を僭称し
 たわけではない、という訂正を求める投書があったと9月20日付けの投書欄に掲載さ
 れました。そんなわけで彼の子孫も「地元」となっていたポルトガルはもちろん、母国
 ハンガリーにも住むようになったと思います。(ロシア、ポーランド、ルーマニアなど
 の諸国の王族の子孫たちも、それぞれの「母国」へ戻っているものが少なくないはず。)
 確かハプスブルグ家の当主は、ヨーロッパ議会の中心的な存在であるはず。



396 :世界@名無史さん:05/01/12 20:20:05
>>395

ホルティ提督の長男イシュトヴァーンは、政権末期に
摂政代理に任ぜられた技術者ですが、大戦末期に航空事故で
亡くなります。この人の奥さんは某伯爵家の令嬢ですが
超美人です。シシーさん(皇妃エリザベート)に匹敵します。

このホルティ未亡人の回顧録が最近ブダペストで出ました。
ハンガリー語が読める人はどうぞ。


397 :権兵衛さん:05/01/12 22:11:40

 >>396

 >超美人です。シシーさん(皇妃エリザベート)に匹敵します。

  そんな環境で育ったハプスブルグ家の御曹司に、某TV局が
 かの「某整形美人姉妹」をけしかけた「バカ番組」がありまし
 たね。もちろん、相手にされませんでした。
  考えれば当然も当然の話なんですが、そんなことも思いつか
 ないのが、「バカ」たる所以なんですけどね。

 >ハンガリー語が読める人はどうぞ。

  ハンガリー語はおろか、ドイツ語もつたないのですから、どなたか
 訳してください。(^0^;;


398 :396:05/01/12 22:30:12
>>397

ちなみに、この本です。

gróf Edelsheim Gyulai Ilona(Horthy István kormányzóhelyettes özvegye), Becsület és kötelesség, Budapest 2003.


399 :世界@名無史さん:05/01/15 13:03:48
そういえば、アルバニアのゾク国王の王妃ゲラルディンさんも
ハンガリー伯爵令嬢ですね。
こちらも美人ですよ。

400 :権兵衛さん:05/01/15 21:39:00

 なんか「オーストリア=ハンガリー帝国海軍」の話から「ハンガリアン美人」の
 話になってきたみたいですね。船(軍艦も含めて)は女性にたたとえられるか
 ら、あながち違うわないと強弁することもできますけどね。(^o^)


401 :ハウス:05/01/15 22:29:23
何気なく見つけたサイトですが、これ結構おすすめかも。
このスレのネタとしても是非ご活用ください。↓

ttp://www.kuk-kriegsmarine.at/

402 :世界@名無史さん:05/01/15 23:54:51
>>392
戦勝国内での取り決めで、軍艦は全て各国共解体業者に引き渡して鉄くず料金を受け取る
という事になってました。補助艦艇は潜水艦のみ処分(但しU14のみフランスに返却)
し、あとは各国が引き取りました。

日本は前ド級戦艦か何かが割り当てだったはずです。日本政府は解体に難色を示したため
英米から批判されたはずです。

403 :権兵衛さん:05/01/16 02:26:52

>>401

  ありゃ!、私の「ネタ箱」を暴かれてしまった!どうしよう!

404 :世界@名無史さん:05/01/16 06:23:01
時代が違うのですが
30年戦争の頃オーストリアがバルト海艦隊の建造を計画したそうです
これについてご存知の方いらっしゃいますか?

405 :515:05/01/16 15:58:19
>>403

おやおや、お坊さんも廊下ですってんてん、って感じですか?

406 :ハウス:05/01/16 21:04:36
>>404
それは興味深い話ですねぇ。
たしか当時のスウェーデンが強大で、
かの国はハプスブルク家とは敵同士だったと思いますが、
その国に対抗するためにバルト海に艦隊を必要としたのでしょうか?

407 :正毅さん:05/01/16 21:24:53

良スレなのでageますね。

408 :世界@名無史さん:05/01/17 01:06:56
>>406
某書によるとデンマーク軍を叩き出したハプスブルク皇帝が
中央集権政策の一環として計画
この件がスウェーデン参戦の引き金になったとのことです。

どなたか詳細をご存知の方、教えてください。

409 :世界@名無史さん:05/01/17 20:06:47 ,
『オーストリア残存艦艇のその後』家にある本で分かる限り。
弩級戦艦Tegetthoff(テゲトフ)
 休戦と同時に独立を認めたユーゴに移管するも、伊の主張で賠償艦として同国に引渡。
 艦籍に編入せず24年解体。
 [世界の艦船増刊近代戦艦史]
弩級戦艦Prinz Eugen(プリンツ・オイゲン)Tegetthoffと同型
 ユーゴから賠償艦としてフランスに引渡、22年にツーロン沖で標的として撃沈。
 [世界の艦船増刊近代戦艦史]
準弩級戦艦Erzherzog Flanz Ferdinand(エルツヘルゾック・フランツ・フェルジナンド)
 上記Tegetthoffとともに伊への戦利艦として19年3月22日ヴェネチアに到着。
  [世界の艦船No108(1966年8月号)掲載の「写真オーストリア戦艦史下」]
沿岸防御用小型戦艦Erzherzog Kronprinz Rudolf(エルツヘルゾック・クローンプリンツ・ルドルフ)
 20年ユーゴに引渡(以後不明)
 福井静夫氏の「世界戦艦物語」によると1887年進水の老兵、すると早々に除籍か?
 どこで見たのか記憶が確かでないですが、ユーゴに譲渡された旧オーストリア戦艦、それ
をフランコパンナ?とか命名したと言う話、この艦のことでしょうか?
[第二次大戦駆逐艦総覧:大日本絵画]

軽巡洋艦Novara(ノヴァラ)
 仏戦利艦、巡洋艦Thionville(ティオンヴィル)として短期間使用。
 [世界の艦船増刊フランス巡洋艦史]
軽巡洋艦Saida(サイダ)
 20年9月19日イタリアに引渡、21年より巡洋艦Venezia(ヴェネチア)として使用。
 37年3月11日除籍
軽巡洋艦Helgoland(ヘルゴランド)Saidaの同型艦
 20年9月19日イタリアに引渡、23年より巡洋艦Brindisi(ブリンディジ)として使用。
 37年3月11日除籍
 [世界の艦船増刊イタリア巡洋艦史]

410 :世界@名無史さん:05/01/17 20:08:21 ,
駆逐艦、主力駆逐艦7隻が20年9月伊に戦利艦として移籍。
 Tatra(タトラ)、Fasana(ファサナ)と命名、23年除籍。
 Balaton(バラトン)、Zenzon(ゼンゾン)と命名、23年除籍。
 Csepel(チェペル)、Muggia(ムッジア)と命名29年3月15日廈門沖で台風で喪失。
 Orzen(オルゼン)、Pola(ポーラ)と命名。31年Zenzonを襲名。37年除籍。
 Triglav(トリグラフ)、Grado(グラード)と命名。37年除籍。
 Lika(リカ)、Cortellazzo(コルテラッツォ)と命名。39年頃除籍。
 Uzsok(ウツォーク)、Monfalcone(モンファルコーネ)と命名。39年頃除籍。
  [第二次大戦駆逐艦総覧:大日本絵画]
  [世界の艦船No147(1969年8月号)掲載の写真イタリア駆逐艦史第7回]

【水雷艇群】[第二次大戦駆逐艦総覧:大日本絵画]
 ギリシア、21年水雷艇6隻を獲得。20年に分配を受けたとの記述もあり詳細不明。
92F、獲得後Proussa(プロウッサ)と命名。41年4月4日コーフー沖で独軍機の空襲により戦没。
95F、獲得後Pergamos(ペルガモス)と命名。41年4月25日サラミス沖で空襲により戦没。
95F、獲得後Panormos(パノロモス)と命名。38年3月トウルロス岬沖で座礁沈没。
 誤植なのかどちらも前艦名が95F、どちらが本当の95Fか不明。
98M、獲得後Kyzikos(キジコス)と命名。41年4月24日サラミス沖で空襲により戦没。
99M、獲得後Kios(キオス)と命名。41年4月22日アテネ沖で空襲により戦没。
100M、獲得後Kidoniai(キドニアイ)と命名。41年4月26日モーレア南方で空襲により戦没。

 ポルトガル、水雷艇6隻を獲得。内2隻は19世紀、他4隻は一次大戦海戦前後の竣工。
 全て40年に除籍。
 ルーマニアの項では74Tの同型6隻との記述有り、こちらの方が正しいと思う。

411 :世界@名無史さん:05/01/17 20:10:03 ,
 ルーマニア、水雷艇7隻を獲得。
74T、Viforul(ヴィフォルール)と命名。32年予備艦。
75T、Vartejul(ヴァルテジュール)と命名。32年予備艦。
80T、Vijelia(ヴィジェリア)と命名。32年予備艦。
81T、Sborul(スボルール)と命名。44年ソ連が接収、Musson(ムッソン)と命名。
 45年9月22日返還、原名に戻る。修理後46年再役。59または60年除籍。60年解体。
82F、Naluca(ナルカ)と命名。44年8月20日ソ連軍のコンスタンツァ空襲で沈没。
83F、Smeul(スミュール)と命名。44年ソ連が接収、Toros(トロス)と命名。
 45年9月22日返還、原名に戻る。修理後48年再役。59または60年除籍。60年解体。
84F、Fulgerul(フルゲルール)と命名。回航途中にボスポラスで浸水沈没。

 ユーゴスラビア、沿岸用小型水雷艇4隻、近海用水雷艇12隻を保有。
 なお他に上述の戦艦、特務艦各種、モニター、小艇等を保有。
76T、T1と命名。41年4月伊が捕獲。原名のまま伊が使用。43年9月脱出同年12月返還。
 Golesnica(ゴレスニカ)と改名し59年除籍。
77T、T2と命名。39年頃登録抹消。
78T、T3と命名。41年4月伊が捕獲。原名のまま伊が使用。
 43年9月16日フューメで独が捕獲TA48として44年8月15日再役クロアチア所属。
 44年12月14日独が再取得し、45年2月20日トリエステで被爆沈没。
79T、T4と命名。39年頃登録抹消。
87F、T5と命名。41年4月伊が捕獲。原名のまま伊が使用。43年9月脱出同年12月返還。
 Cer(セール)と改名し、63年予備艦。
93F、T6と命名。41年4月伊が捕獲。原名のまま伊が使用。
 43年9月11日ケセナティコ北方10マイルに自沈。
96F、T7と命名。41年4月伊が捕獲。原名のまま伊が使用。43年9月独が捕獲。
 クロアチアに引渡、以降不明。
97F、T8と命名。41年4月伊が捕獲。原名のまま伊が使用。
 43年9月11日ダルマチア諸島からの伊兵撤退時ブンタ・オリヴァで独軍機が撃沈。
 独捕獲時にT3は改名、T'7は改名なしの理由不明。あるいは独軍への編入の有無か。
12隻とあるが残り4隻の動向が不明、旧式で早々に除籍か、あるいは8隻が正解?

412 :世界@名無史さん:05/01/17 20:10:59 ,
番外:弩級戦艦Viribus Unitis(フィリブス・ウニーティス)Tegetthoffと同型で本艦がネームシップ
 休戦直前の18年10月末ユゴー新政府が捕獲、Yugosiavia(ユーゴスラビア)と改名。
 同年11月1日ポーラで伊軍ロセッティ少佐とパオルッチ少尉の仕掛けた機雷で沈没。
[小学館万有ガイドシリーズ32戦艦]
 世界の艦船No108(1966年8月号)掲載の「写真オーストリア戦艦史下」では、18年10月
10日夜魚雷を曳航して潜水進入した伊海軍士官2名により撃沈。
 どちらが正しいのでしょう?
 ちなみに同号には「リッサ海戦の艨艟」も掲載。107を保有してないのが悔しい。

413 :世界@名無史さん:05/01/18 01:02:29 0
>>412
どちらも微妙に正しくもあり、間違っている。上の文章の誤りは、伊軍
ロセッティ少佐とパオルッチ少尉の仕掛けたのは、人間魚雷から切り離された
弾頭部だったこと。休戦直前にユーゴスラヴィアに改名していたは正しい。

下の文章も実は、上の話と同じ事を言っているが、日付けが間違っている。
上の文章の通り、フィリブス・ウニーティスが撃沈されたのは11月1日早朝。

この撃沈の詳しい経緯は、歴史群像の今月号にのっています。



414 :世界@名無史さん:05/01/18 04:43:31 0
>>409
エルツヘルゾック…。
世艦の表記がそうなってるのか…?


415 :カラジチ ◆mWYugocC.c :05/01/18 08:38:25 0
>>408
某書って菊池良生の『戦うハプスブルク家』?

416 :権兵衛さん:05/01/18 13:26:51 0

>>414

  >エルツヘルゾック…。(Erz・herzog)

  大公爵(大公)の読み方ですね。ドイツ語では普通「Z」は英語と違い、
 「濁らず」「清音」で「ツ」に近似した音になりますから、「エルツヘル
 ツォーク」がより正しい発音に近い表記になると思います。
  1960年代あたりの本ではドイツ語に限らず、ロシア語などの表音の
 表記は英語に準拠した読み方、表記の仕方が変なものはかなりありますね。
  現在なら、アラビア語なんてカタカナでは「表記不能」になる音がある
 言語が登場するようになったので、もっと「しんどい」ことになりますね。

417 :世界@名無史さん:05/01/19 18:35:55 0
>>415
「神聖ローマ帝国」
同著者ですw

418 : :05/01/19 18:56:05 0
江村洋や菊池良生は歴史小説家。歴史研究者と混同しないように。


419 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/01/19 21:31:22 0
>409 補足で、巡洋艦以上の古い艦(1912年以前のもの)の戦後の状況。

Habsburg級前弩級艦 Habsburg/Arpad/Babenberg(1900〜02)
 全艦英国に引き渡されたが、1921年にイタリアで売却、解体。
Erzherzog Karl級前弩級艦 Erzherzog Karl/Erzherzog Friedrich/Erzherzog Ferdinand Max(1903〜05)
 3隻ともYugoslavia海軍に引き渡されたが、フランスと英国に賠償として引き渡され、売却、解体。

海防戦艦 Kronprinzessin Erzherzogin Stephanie(1887)
 1910年には除籍され、機雷学校の練習船になっていたが、1920年イタリアに賠償として引き渡し、
 1926年、繋留地で解体。
海防戦艦 Kronprinz Erzherzog Rudolf(1887)
 1919年にYugoslavia海軍に賠償として引き渡され、Kumborと改名。
 しかし、老朽化のため1922年に解体。
Monarch級海防戦艦 Monarch/Budapest(1895〜96)
 両艦とも英国に引き渡され、1920〜21年に掛けてイタリアで売却、解体。

420 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/01/19 21:32:10 0
続き。

装甲巡洋艦 Kaiserin und Koenigin Maria Theresia(1893)
 老朽化のため除籍状態で、1917年に武装撤去(武装はイタリア戦線へ)され、
 ドイツ潜水艦乗員の宿泊船となり、1920年に英国に引き渡し、イタリアで売却解体。
装甲巡洋艦 Kaiser KarlVI(1898)
 1920年英国に引き渡し、イタリアで解体。
装甲巡洋艦 Sankt Grorg(1903)
 1920年英国に引き渡し、イタリアで解体。

防護巡洋艦 Kaiser Franz Joseph I(1898)
 僚艦Kaiserin Elisabethは青島で自沈。
 1917年に武装を撤去し、水上司令部として機能していたが、1919年にフランスに引き渡し。
 引き渡しの途次、大嵐によって1919.10.にCattaro湾のKumborで沈む。

軽巡洋艦 Panther級 Panther/Leopard(1885)
 英国に賠償として引き渡し、1920年、イタリアで売却解体。
 ちなみに、この艦は英国が提唱していた、雷装衝角艦を具現化したもの。
軽巡洋艦 Tiger(1887)
 1919年にYugoslavia海軍に引き渡されたが、1920年にイタリアが賠償として没収し、売却解体。
軽巡洋艦 Zenta級 Aspern/Szigetvar(1897〜1900)
 英国に賠償として引き渡し、1920年、イタリアで売却解体。

421 :409:05/01/19 22:41:27 0
さうがは眠い人様、すごすぎです。
これだけの知識が得られるならつたない書き込みをしたかいがありました。

422 :417:05/01/20 11:55:45 0
>>418
混同してはいませんよ
しかしウエッジウッドが底本になってますんでね

423 :権兵衛さん:05/01/20 18:35:16 0

  舞台版の「サウンド・オブ・ミュージック」を観て来ました。(^o^)
 
  会場で捜していたトラップ一家の長女アガーテ・フォン・トラップが書いた
 「わたしのサウンド・オブ・ミュージック(原題「サウンド・オブ・ミュー
 ジックの前後時代の回想録」)」を見つけて、早速購入しました。(お陰で、
 昼飯代が消えて、立ち食いソバになってしまった。「抜き」よりましか?)
  ゲオルグ・フォン・トラップの長女(当年91歳!)だけに、義母マリアの
 著書「トラップ一家物語」と違って、父親やその前の先祖についての記述が詳
 しく書き込まれているので、楽しみです。
  とりあえず、ゲオルグの称号「フォン」ですが、父親のアウグストが1876
 年に危険な状況での勇敢な行為と的確な判断により、乗艦・乗員を救ったとし
 て、鉄十字三等勲章を授与され、皇帝から「騎士」に叙せられて、「フォン」を
 名乗るようになったそうです。ゲオルグ自身も第一次大戦での殊勲で「騎士」に
 叙せられたので、父親からの「お下がりの勲位」ではなく、自らの力で勝ち取っ
 た勲位として生涯誇りにしていたそうです。そこから先はまだ読んでいないので、
 お待ち下さい。(書中に礼装をした1935年のゲオルグの写真があります。そ
 の袖章ははっきりと旧オーストリア海軍の少佐のものです。一見、海軍少将のそ
 れと見間違えそうなものです。今回の舞台ではちゃんと、4本線の英米流の「海
 軍大佐」の軍服で登場してました。)


424 :世界@名無史さん :05/01/21 00:17:48 0
第一次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1848−50)の最中に
プロイセン陸軍砲兵がデンマーク木造戦列艦「クリスチャン8世」を一撃で
爆沈させたという話を聞いたのですが。話ですか?

425 :世界@名無史さん:05/01/21 00:23:02 0
それと同時にデンマークフリゲート「ゲフィオン」が座礁してしまい
プロイセンに鹵獲されて、同名のプロイセン海軍3等巡洋艦になったとも
聞きました。

426 :世界@名無史さん:05/01/21 00:30:50 0
>>423
長女ってことは映画版だとナチ党員と恋におち、温室で踊った場面の娘ですな。
91歳でご存命ですか。アメリカに渡ってから心の傷を癒す相手に恵まれたのでしょうかねぇ?

427 :権兵衛さん:05/01/21 22:20:26 0

>>426

  えー、映画(と舞台)と実在のトラップ家の話は、まったく関係がない、と
 言えるほど違うものーー子供たちの名前は勿論、マリアの名字も違いますーー
 なので、知りませんとしかいえませんね。


428 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/01/21 23:20:41 0
>424
世界の艦船の約20年前のドイツ海軍特集ならあるかもしれないのですが、
生憎、震災で手放してしまいましたので…。
ただ、>425に関しては本当ですね。

デンマーク海軍の帆走フリゲートであるGefionが1848年に座礁して、プロ
シアが捕獲し、自国海軍に組み込んで、Eckernfoerdeと改名、後にGefionに
再改名して1891年まで使用しています。

429 :権兵衛さん:05/01/21 23:53:13 0

  >>425

  確かこの話は、海軍関係の「トリビア」のひとつとして有名なものです。
 詳しい資料は手元にありませんが、「陸の砲兵隊に撃沈された唯一の戦艦」
 として知られていると思います。(陸上の砲台と撃ちあった戦艦が沈んだと
 いうのはいくつかあります。)(戦艦というか、戦列艦ですけどね。)
 
 

430 :世界@名無史さん:05/01/23 03:39:24 0

 う〜ん、エーデルワイスは沈没するのか?

  単なる冷やかし、御免。m(-o-)m

431 :ハウス:05/01/23 09:17:56 0
デンマークの海軍はナポレオン戦争時に英国海軍によって壊滅させられていたはずですが、
その後海軍を再建してそれなりの艦隊を保有するようになったのでしょうか?個人的には
1848年&1864年当時のデンマーク海軍が、戦列艦から小型艦艇にいたるまでそれぞれ何隻
保有していたか興味津々でつ。

一応80年代の世界の艦船の特集では、1859年当時のフリゲイト艦総隻数がオーストリア
7隻(内汽走艦3隻・帆走艦4隻)に対しデンマーク9隻(内汽走艦3隻・帆走艦6隻)とな
っておりますが・・。

ちなみにプロシアが4隻(内汽走艦1隻・帆走艦2隻・パドル1隻)で、当時のシチリア&
サルジニア両国は29隻(内汽走艦8隻・帆走艦9隻・パドル12隻)との事です。

・・それにしても>>424>>425の話はおもしろいでつ。

432 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/01/23 13:36:57 0
>431
1864年当時、デンマークが保有していたのは以下の艦艇。

Screw Battleshipとして、1833年建造、1858〜60年改装のSkjold(2,550t、30ポンド砲64門)。
Screw FrigateとCorvetteとして、1855年建造のNiels Juel(2,320t、30ポンド砲42門)、1858年建造のSjaelland
(前者と同型艦?)、1851年建造のThor(1,000t、30ポンド砲12門)、1856年建造のHeimdal(1,170t、30ポンド砲
16門)があり、いずれも、一軸艦で片舷2〜12門の砲を備えていました。

このほか、帆走艦としてWaldemarとFrederikVIがあり、それぞれ30ポンド砲30門と18ポンド砲54門を備え、
Danneborgは、30ポンド砲72門、Thetisは18ポンド砲48門、Rota、Havfruen、Bellonaは18ポンド砲46門、
Tordenskjoldが30ポンド砲44門、Galatheaが18ポンド砲26門、Valkyrienは18ポンド砲20門、Najadenが30ポンド砲
14門、Sagaは18ポンド砲12門がありました。

DanneborgとTordenskjoldは後にスクリューを装備した艦になっています。
前者は1850年建造で、3,057t、改装により1863年にスクリューを装備し、主砲を30ポンド砲72門から60ポンド砲
16門に変更して装甲帯を張って甲鉄艦に種別を変更、後者は1861〜62年に改装を受け、同じくスクリューを
取り付け、1,718t、代償として30ポンド砲を34門に減じています。

更に1860年以降に建造されたのが、1864年に建造された甲鉄艦、Peder Skramで、3,330t、8in砲6門、26ポンド
旋条砲12門を備え、装甲として4.5inの鉄を木造船体に貼り付けたもの、そして、南部連合の発注で英国が建
造中に注文流れとなった甲鉄艦を引き継いだ、4,670t、8in砲12門、26ポンド旋条砲12門の鉄船で、4.5inの装甲
帯を持つDanmarkを1864年に取得しています。

モニターとしては、68ポンド砲4門を旋回砲塔に持つ1,320tのRolf Krakeが1863年に英国で建造されており、
木造Screw Frigateとして、先に書いたJylland(2,420t、30ポンド砲44門)、帆走Sloopとして、1861年建造のDagmar
(1,175t、6in砲14門)、1862年に英国で建造されたAbsalon、Esbern、Snare(516t、6in砲3門で2〜2.4inの装甲帯持つ)、
1862〜63年に建造されたFylla、Diana(550t、6in砲3門)などがありました。

433 :ハウス:05/01/24 23:43:37 0
>>432
眠い人さん、ありがとうございます。
こうして眺めてみると当時のオーストリア海軍をやや上回る勢力≠ニいった感じになるでしょうか?
ただ甲鉄艦(装甲艦)の隻数はオーストリアがデンマークを上回っているみたいですが・・。

434 :権兵衛さん:05/01/28 18:11:38 0

  トラップ「男爵」の父親と息子

  アウグスト・フォン・トラップはドイツから19世紀半ばにオーストリアに移住して
 来て、海軍に入り、ツーラで勤務し、のち軍艦「サイダ」の艦長となった。同艦が地中
 海の航海中に嵐に遭遇して危機に陥ったとき、適切な処置をして艦と乗員を救ったこと
 から「騎士」に叙せられ、フォンを名乗ることになったことは以前に紹介しました。
  その後、1880年4月4日にゲオルグが生まれ、弟ウェルナーが1890年頃に生
 まれたそうです。(この弟の経歴などはまだ詳しく判っていないようです。1915年
 に戦死したこと、その前年に結婚していて娘がいたことくらいですね。次男はこの伯父
 の名前を継いでことになります。また、彼の曾孫たちが「新トラップ一家合唱団」の中
 核となっています。)
  1894年、ゲオルグは海軍兵学校に入り、4年後父が指揮した「サイダ」の名前を
 ついだ「サイダ2世号」という練習帆船に乗り、世界周航航海に出たそうです。地中海
 からインド洋を経て豪州にまで足を延ばしたそうです。中国沿岸を北上して上海へ向か
 う?途中で「義和団」による不穏な動きに警戒した本国からの指令で帰国。軽巡洋艦「
 ツェンタ」に航海士として乗艦。再び中国へ戻り、「北京の55日(篭城)事件」の救
 援活動の一環として上陸作戦に参加、軍歴で初めての勲章を受ける。この戦闘について
 は家族たちに話すことはなかったそうです。

  ところで、脱線しますが「ツェンタ」という名前は、昔は「ゼンタ」と表記されてい
 た所ではないか?と思います。「ゼンタ城の虜」という冒険活劇小説があり、トランシ
 ルバニア地方(よく冒険小説の舞台に使われる地名)にある無名の王国となっていたと
 いましたね。地図を見てもどこにあるのか、判らない。ドラキュラやフランケンシュタ
 インなどもトランシルバニアだったかな?また、マイ・フェア・レディでも、主人公の
 イライザが「貴婦人」と認められるのが、トランシルバニア王国の女王だかのパーティ
 でした。地図にもトランシルバニアという地名はあるのですが、ツェンタは見つからな
 いので、比較的小さな場所だと思いますけど。

  


435 :世界@名無史さん:05/01/28 18:17:35 0
なにかの本で巡洋艦ゼンタだか、軍艦ゼンタだかと言う表記をみて。ツェンタと同じ艦だろうかと疑問に思ったことがあります。
「ゼンタ城の虜」、この本は結構はやったようで亜流がたくさん書かれたそうです。
ターザンや火星シリーズで有名なエドガー・ライス・バローズも「ルータ城の危機」(題名うろ覚え)を書いています。
こっちはもとネタと異なりバローズお得意のハッピーエンドですが。

436 :世界@名無史さん:05/01/29 11:05:34 0
イシュトヴァーンとサイダの
レジンキットを安く手に入れたが
資料が少なくすすまねー

437 :ハウス:05/01/30 00:14:52 0
>>434
軍艦「サイダ」の名前の由来について少々

1840年にエジプトがオスマン・トルコ領のシリアを侵略したのをきっかけとして、
オーストリアはロンドン条約の下英国・プロシア・ロシアと共にエジプトに対抗
する同盟を結んで合同艦隊を結成、このフリゲイト・コルベット艦よりなる合同
艦隊はエジプト軍が占領していたベイルートを砲撃して軍隊を上陸させ、オース
トリア軍は南部の都市「サイダ」を解放することに成功したとありました。
当時はエジプト・トルコ戦争が行なわれている最中で、オーストリアは他の欧州
列強としばしばこれに干渉していたようです。

手持ちの文献をパラパラとめくってみると、このオーストリア艦隊を指揮していた
人物にフレデリック大公やBandiera提督、派遣されたフリゲイト艦にGuerriera、
Medea、同コルベット艦にClemenza、Lipsiaなんかが出てきました。

あとゲオルグが航海士として乗艦した軽巡洋艦「ツェンタ」は20世紀初頭メキシコ
にも派遣され、1867年(マクシミリアン大公がメキシコで銃殺された年)以来途絶
えていた同国との国交回復にも貢献したもようです。

「ツェンタ」の場所に関してですが、ベオグラード北北西約124kmにあるツェンタ
(ゼンタZenta)、という内容をあるサイトで見かけたので、場所はセルビアという
事になりましょうか? この件はギシュクラ・ヤーノシュさんが詳しそうですが。

438 :権兵衛さん:05/01/30 02:23:40 0

  ツェンタ(Zenta)は、現在ユーゴ共和国のセンタ(Senta)だそうです。
 1697年9月11日(!)ハブスブルグ王国で最も優れた軍司令官サ
 ヴォイ公ユーチェンヌがこの場所でオスマン・トルコのサルタン、ムス
 タファ2世の大軍を完膚なきまでに打ち破った戦場とのことです。のち
 の1699年1月26日のカルロヴィッツ条約でハンガリーをオースト
 リアに割譲し、中欧南東部に対するトルコの脅威を取り除いた戦いだそ
 うです。
  
  軽巡洋艦「ツェンタ」は第一次大戦開始早々の1914年8月16日、
 モンテネグロの沖合いで、フランスの装甲艦「クールベ」に遭遇、僅か
 10分で2発の命中弾を喫して沈没したそうです。但し、乗員約300
 人の大多数は救命艇に逃れ、モンテネグロの海岸に生還したようです。

  アンソニー・ホープの「ゼンダ城の虜」はツェンタをもじったゼンダ
 だそうです。やはり、小説なので実在の地名を避けたようです。ウィー
 ンやパリなどの押しも押されもしない大都会なら問題はないでしょうが、
 聞きなれない地名では「ほんと」の話と誤解されることを怖れたのでしょ
 うか?

439 :権兵衛さん:05/01/30 02:50:09 0

 ユーゴ方面の地図を見たら、在りました!
  人口は2万人くらいの小さな都市みたいです。
  位置的にはベオグラードの北北西130キロ、ブタペストからは
  195キロ、近くの都市はセグドでその南南西36キロとありま
  す。この近くで日本史でいえば、元禄時代の最中にオーストリア
  とオスマン・トルコの大軍が対決したわけです。数的にはトルコ
  軍の方が優勢だったようですが、近代的な兵器と訓練された兵を
  前に、旧態然としたトルコ軍はなす術がなかったといいます。



440 :通りすがり:05/02/04 23:57:43 0

  そろそろ、「グッバイ、ソーロング、アウフビーダーゼン、グッバイ」に
 なりそうだ。頑張ってや。


441 :世界@名無史さん:05/02/05 00:27:23 0
>>439
峠の群像風にいえば時代は峠を越えたということだな

442 :ウニテス:05/02/06 00:19:19 0
ガンショップをぐぐってたらここに案内されちゃいました…なぜでしょう??
自分もオーストリア海軍ファンなのでこんなスレが有ったのかと
びっくりしちゃいました。

それはともかく、軽巡洋艦ツェンタの艦長は かつてオーストリア
サッカーチームを率いた人物で、かなりアグレッシブナ性格だったと
どこぞの資料で読んだ記憶があります。

沈められたときも、味方の低速巡洋艦を逃がすため単艦でフランス戦艦隊
に突撃していったらしいです。

なにかのシミュレーションゲーム雑誌で読んだと思うのですが、今度探しだし
ときますね。

443 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :05/02/06 00:51:59 0
権兵衛さま
軍司令官サヴォイ公ユーチェンヌは一般にはサボイ公子プリンツ・オイゲンと
して知られます。元はフランスの貴族で一説にはルイ14世の隠し子とも言わ
れますが、貧弱な体格と醜い容貌(とも思わないのですが)から僧籍に入れら
れることになっていたのに反発し、フランスを捨ててオーストリアに仕えオス
マン帝国戦で目覚しい活躍をして国家の柱石を担う存在にまで栄達しました。
ウイーンのベルヴェデーレ宮殿は彼の屋敷です。
ツェンタの戦いは彼の対オスマン帝国でも最大の戦果を挙げた戦いで、ハンガ
リー地域から決定的にオスマン帝国を駆逐する結果となりました。

444 :ハウス:05/02/06 18:36:32 0
>>440
まあ日本国内という世間で見ればオーストリア海軍≠ネんて非常にマイナーな、
また世界史的に見てもこのテーマはかなりマイナーな存在でしょうからねぇ・・。
このスレがここまでやってこられたのは、皆々様の努力の賜物だと思います。

私事で恐縮ですが、オーストリア海軍に関するテーマの中では「汽帆走フリゲイト
艦ノヴァラ号の親善・調査航海(1857〜59年)」と「第一次大戦中に司令長官を務
めたアントン・ハウス提督の生涯」の2つに特に関心があります。いずれはこれら
の文献を探し出して精読したいのですが、ノヴァラはともかくとしてハウス提督に
関するモノは見つけるのに苦労しそうでつ。

>>442
ウニテスさんマジですか? それは初耳なんですが・・。
ネタ元がおわかりなら是非教えていただきたいのですが・・。

445 :権兵衛さん:05/02/07 22:19:57 0

 >>443

プリンツ・オイゲン公の本名でしたか、気づきませんでした。

 >>444

 めぼしい伝記といえば、Anton Haus, Grossadmiral, Oseterreich=Ungarishe
Reich, a biography, PG Halpem, 1998 あたりでしょうか?360ページ
  の本ですから、それなりの読み応えはあると思います。

446 :世界@名無史さん:05/02/08 16:28:39 0
オーストリアに破られたオスマントルコが頑張って18世紀初頭から洋式海軍を
作ったのは偉いと思う。何回も壊滅させられているけど、確か1870年頃には
世界第3位の海軍力だったような気がする。

447 :世界@名無史さん:05/02/08 16:29:42 0
↑補足すると装甲艦の隻数でね。

448 :ハウス:05/02/08 23:39:29 0
>>445
さすがは権兵衛さん! 探せば意外と見つかるものなのですねぇ。
どうもありがとうございます。

>>446>>447
それはすごいですね。
第一次大戦勃発時のオスマン・トルコ海軍は、他の欧州列強と比較してかなり貧弱
な勢力だったと思うのですが、装甲艦以降は新しい艦艇を造らなかったり、1911年
の伊土(イタリア・トルコ)戦争で海軍が打撃を受けた事なんかが原因ですかね?

449 :ウニテス:05/02/09 01:58:26 0
>>444
> ウニテスさんマジですか? それは初耳なんですが・・。
> ネタ元がおわかりなら是非教えていただきたいのですが・・。

小一時間部屋の中を探してみたんだけどネタ本がみつかりません…
どこぞの米国版ゲーム本に1Pほど載ってた気がするんだけどなぁ。

とりあえず、身近な資料だけでツェンタ級のお話。
米国アヴァランチプレス社から 「The Great War at Sea」シリーズと言う作戦級海戦ボードゲーム
が出ていまして、そのシナリオの1つとしてこの戦いをシミュレート出来ます。
それによると…
投入された仏軍艦隊は、
弩級艦コルベールとジャンパール
前弩級艦 ダントン級6隻・レピュブリック級2隻・リベルテ級3隻
装甲巡洋艦7隻
駆逐艦11隻
あと英国装甲巡洋艦ウォーリア級3隻にDofエジンバラ
ほぼ仏蘭西の地中海艦隊の全力ですね。
ちなみに不参加の弩級艦コルベール級の残りフランスは14年10月就役で間に合わず
パリも14年8月1日就役ですから現在調整中の真っ最中かと思われます。

指揮官はフランス提督Boue de Lapeyrere(階級不詳)。
彼は先の独逸巡洋戦艦 ゲーベン追撃に失敗した雪辱戦としてオーストリア領
バルカン半島への艦砲射撃および地方軍港に停泊中の小型艦制圧が目的だった
みたいです。

長文すみません。もうすこしつづきますネ。





450 :446:05/02/10 00:47:29 0
>>448さん 
オーストリア海軍の板で脱線してすみませんが

オスマン海軍はレパント海戦以降は技術的に立ち遅れて衰退したと考えられていますが
実際17世紀末まで旧態依然としたガレー船隊ばかりでダーダネルス海峡をベネチアに
封鎖されて敗北したりしています。
カルロビッツ条約でモレア半島(ギリシャ)やイオニア諸島を一時喪失した後に
海軍力再建に本腰を入れ、主に北方戦争で緊密な関係となったスウェーデンから
造船技術者を招いて西洋式帆船の建造を開始します。
後にはフランスなどから艦船を購入し、1768年露土戦争前には80門艦など
戦列艦15隻とフリゲート20隻を保有するまでになりましたが、1770年
チェシメ海戦でロシア地中海戦隊に全滅させられます。
その後はナバリノ海戦(1827)まで壊滅と再建を繰り返しますが、常時十数隻の
戦列艦とフリゲート艦を保持します。
1830年代になると国家近代化を進めるマフムト2世は蒸気船にも興味を示し
小型蒸気砲艦を購入しますが、まだ主力は木造戦列艦でした。
クリミア戦争シノープ海戦で木造フリゲート艦は殆ど沈没しましたが、主力の
戦列艦はコンスタンチノープル在泊で無事だったので、後にスクリュー推進に
改造されたものもあります。 (続く)

451 :446:05/02/10 00:49:21 0
メフメト2世の後継スルタンであるアブデュルメシドとアジズは英仏伊訪問を行い
開発されたばかりの装甲艦に強い感銘を受けて自国艦隊への採用を決めたようです。
1865年から70年にかけて英仏から集中的に購入しています。またエジムト藩王国向けに
フランスが建造していた艦もモハメドアリー家の世襲支配を認める代償に召し上げています。
しかし露土戦争前夜のスルタン廃位事件に海軍将校が加わっていた為、後継のアブデュルハミト2世が
海軍を信用せず、以後は増強更新が全く行なわれず不振に陥ります。
1897年ギリシャとの戦争では、艦隊は出撃しましたが整備不良による機関故障と備砲暴発に
悩まされています。幸いギリシャもたいした艦船を持っていなかったので大事には至らなかったようです。
9000トンクラスの大型艦もいよいよ老朽化が進み、新規建造より安いと騙されて
イタリア・アンサルド社やドイツ・フルカン社で改装されますが結局1914年までに
廃棄されるか宿泊船として使われるだけの惨状に落ち込みました。
1885年以降ゲーベン遁入まで新規建造された大型艦は防護巡洋艦2隻だけでした。



452 :権兵衛さん:05/02/10 01:38:53 0

  19世紀から20世紀のオーストリア=ドイツ諸連邦に関するサイトを
 見つけたので、お知らせをば。内容的には簡潔なものですが、参考にはな
 ります。

   第一次世界大戦の主戦場<海軍編>
  ttp://asahi-net.or.jp/~BF5K-ISN/krieg6.htm

   バイエルン王国
  ttp://asahi-net.or.jp/~BF5K-ISN/index.htm

ドイツ諸連邦の国家・州歌・自由都市歌などいろいろです。


453 :世界@名無史さん:05/02/10 15:29:51 0
スレ違いですが、最近話題のオスマン海軍について。
海文堂「ソビエト海軍」D.W.ミッチェル著(S56)によると、
WW1開戦前のオスマン海軍の主力艦は、
トルゴウト・レイス(1894)&ハイレディン・バルバロッサ(1891)
ともにドイツの旧式戦艦、1万トン・17ノット、11インチ砲6門
メッソウディ(またはメシュディエ)艦齢40年以上
1万トン・14ノット・9.2インチ砲2門
ハミディ&メジディ軽巡洋艦(防護巡洋艦?)
3800トン・22ノット・6インチ砲2門・4.7インチ砲8門
他駆逐艦8、水雷艇9他
開戦後の追加(購入)、巡洋戦艦ヤブス・スルタン・セリム(独巡洋戦艦ゲーベン)
22400トン・27ノット・11インチ砲10門・6インチ砲12門
軽巡洋艦ミディリ(独軽巡洋艦ブレスラウ)
4550トン・28ノット・4インチ砲12門

「世界の艦船増刊第30集イギリス戦艦史」所収の「イギリス製戦艦輸出ノート」中名生正己著によると、1876年テームズ社で完成の中央砲郭艦メシュディエ(幸福をもたらすもの)は、
9120トン・13.7ノット・254ミリ砲12門・178ミリ砲3門(要目の違いは改装?)
なお二番艦メムドゥヒュド(賞賛に値するもの)は、1876年即位の新スルタン、アブドル・
ハミド二世にちなみハミディエと改名したが露土戦争の開戦のためイギリスが買収、
シュパーブとして1906年まで在籍。
周知のとおりイギリスはこの手を何度も使っており、やはり国産しないと駄目ですね。
メシュディエは老兵に鞭打ちギリシア海軍とダーダネルス海峡で交戦、1914年12月に
チャンク沖で英潜B11の雷撃で撃沈されています。

申し訳にオーストリアネタ、「世界の艦船第334集1984.4」収録の各国海軍の現勢その49
オーストリアによると、ドナウ川警備に陸軍大尉指揮の水上部隊が存在。
士官1名、准士官以下13名で国軍施設学校校長の管理化にある。
主力は75トンのニーダーエースタライヒ、75トン・22ノット・20ミリエリコン機関砲1門他
他にオーベルスト・ブレヒト、10トン・10ノット・12.7ミリ機銃1丁
アメリカ製M3巡視艇2.9トンが10隻

454 :世界@名無史さん:05/02/10 15:34:54 0
オーベルスト・ブレヒトって人名ですよね。どんな人物ですか?

455 :世界@名無史さん:05/02/10 16:20:38 0
大日本絵画「第二次大戦駆逐艦総覧」によると、WW1前のトルコ水雷戦力は
1911年時点で仏製デュランダル級駆逐艦280トンを4隻(1909年購入)、
98〜165トン級水雷艇15隻(伊との戦争で5隻喪失)
同年独より購入の新鋭ムヴァネティ・ミレート級が4隻。
607トン・34.5〜36.2ノット・10.5p砲2門・45.7cm魚雷発射管3
1914年英4・仏4・伊6の駆逐艦計14隻を発注するも、WW1開戦により、
仏伊艦はキャンセル、英艦は徴発されています。

456 :権兵衛さん:05/02/10 16:58:50 0

>>454

   ”Oberst Brecht " で検索してください。

    河川哨戒艇で全長12.3メートル、幅2.51メートル、喫水0.75メートル
    145馬力ディーゼル・エンジン2基、速力27キロ/時(最大)排水量10トン
    武装12.7ミリ機銃1丁。ロケット砲弾6発。

    隅田川にでも浮かんでそうな「ミニ軍艦」ですね。「ブレヒト陸軍大佐」なんて
   経歴程度では現地の関係者以外には不明な名前です。「下部オーストリア」を意味
   する Niederoesterreich と共に「ドナウ河の護り」に就いているそうです。

457 :世界@名無史さん:05/02/10 19:13:02 0
ひょっとして20年前と同じ艦?
ニーダーエースタライヒは1970年製、オーベルスト・ブレヒトは建造年の記載なしだったけど。
まあパラグアイなんか1987年時点で1908年製の通報艦、1901年製の交通船(元大統領ヨット)
なぞを使用していたわけですが。
それとニーダーエースタライヒ、当初は12隻建造予定が1隻に、寂しいですね。

458 :権兵衛さん:05/02/10 21:26:42 0

>>457

 その辺の事情は不明ですが、
   ttp://fhs-austria.com/docs/presse/presse_download.html

ttp://www.bml.gv.at/waffen/waf_pion-patrouilenboot.shtml
   を覗いて見てください。
   前者は「懐かしの船艇大集合・2002」というもので、かなり
   下の方に迷彩姿の「オーバルスト・ブレヒト」が写っています。
   ということで、退役したのではないか?と思います。
   後者の方は、軍のHPらしく、ドナウ河を航行する2隻の姿が見
   られます。「ニーダー・エステルライヒ」も「オーベルスト・」
   も「新造」にその名を譲ったのかも知れませんね。456に書い
   たのは、後の方のサイトの情報です。

459 :権兵衛さん:05/02/10 21:40:46 0

  >>445
    アントン・ハウス提督の伝記ですが、
 
Paul G. Halpern 著 " A.Haus, Oesterreich-Ungarns Grossadmiral",
1998 とアマゾンのサイトではなっています。(原題はドイツ語表記)
   ISBN 322212567 (区切りがない)価格は古本で5ドルのようです。

   そういえば、フォン・トラップ家の長女アガーテの本に、ハウス提督の
  娘リサさんの「武勇伝」が書いてあります。(p.312-313)
また、提督の孫のひとり「へルマン・A・ハウス」はアメリカに移住し
  てMIT(マサチューセッツ工科大学)の教授になったそうです。光学通
  信の分野で優れた業績を残し、「最も影響力のある物理学者100人」に
  も選ばれたそうです。2003年5月22日に77歳で亡くなったとあり
  ます。

460 :ハウス:05/02/11 15:21:30 0
最近話題のオスマン・トルコ海軍ですが、「世界の艦船第262集 イタリア海軍のあゆみ
(1978/12)」の中で伊土(イタリア・トルコ)戦争での両国海軍の戦闘についての記載
がありました。

戦争は1911年9月29日〜12年10月15日まで続きましたが、トルコ海軍は海防戦艦1隻、
水雷艇3隻、砲艦8隻、その他武装ヨット1隻を失ったようです。この内海防艦アヴニ
・イラー(Avni Illah)と水雷艇アンゴラ(Angora)はベイルート港に停泊中の1912年
2月、イタリア艦隊の装甲巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディ&フランチェスコ・フェル
ッキオの攻撃により沈められました。

オーストリア海軍は伊土戦争とは直接関わりがありませんが、この戦争が行なわれてい
る間装甲巡洋艦マリア・テレジアをギリシャ領のサロニカに派遣(同地の利権確保&自
国民の保護が目的)し、また準ド級戦艦エルツヘルツォ−ク・フランツ・フェルディナ
ント、ラデツキー、ズリーニ、軽巡洋艦アドミラル・スパウン、駆逐艦2隻を東地中海
のエーゲ海域に派遣して数ヶ月そこに留まらせていたようです。

ところで伊土戦争時にベイルートのトルコ艦隊を攻撃したイタリア装甲巡洋艦2隻は、
続く第一次大戦中の1915年7月18日にオーストリア領のダルマチア沿岸部を砲撃してい
た所、ルドルフ・ジングレ大尉の指揮するオーストリア潜水艦U4の魚雷攻撃を受けて
ジュゼッペ・ガリバルディは沈没・計50名の兵員が失われております。

461 :世界@名無史さん:05/02/11 19:32:17 0
こういろいろトルコ海軍の話が出ると、やっぱりギリシア海軍についても知りたくなりますね。
スレ違いですけど。

462 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/02/11 21:42:50 0
Ottoman-Turkeyの19世紀海軍に関しては、最近、「オスマン帝国の海運と海軍」という
好著が山川から出ています。
これの縮小版が山川ブックレットになってたか、と。

で、ギリシャ海軍ですが、トルコに対抗して可成りの戦力を保持しています。

装甲艦では、1889〜90年竣工のHydra級(フランス製/4,885t)があります。
これは、砲塔艦として、10.8in34口径砲を2門、10.8in28口径砲を1門装備していましたが、
流石に口径の違う砲では取り回しが難しく、1908〜10年に5.9in速射砲5門に換装されました。
他に装甲艦は1860年代竣工の旧式艦がありましたが、これらは大戦前に退役しています。

その後、Balkan戦争後の軍備拡張の際、ドイツに超弩級艦Salamis、フランスにProvence級の略同型艦を1隻発注していますが、
これらは第一次大戦勃発のため、前者は工事中止(1915年3月竣工予定でしたが、主砲始め武装は米国製だったので、ドイツ
製の砲熕兵器が装備できず(砲塔の口径があわなかった)、接収は免れました。)となり、後者もキャンセルされています。
代わって入手したのが、米国では旧式化した前弩級艦のMississippiとIdahoで、前者がKilkis、後者がLimnosと命名され、軍籍に
入りました。

巡洋艦としては、Balkan戦争直前にイタリアよりPisa級装甲巡洋艦(1911年竣工、9,958t)を買収し、Georgios Averofと命名します。
ちなみに、この艦名は、この装甲巡洋艦を購入する資金、300,000ポンドを拠出した大富豪の名前だったりします。

463 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/02/11 21:43:34 0
この艦は、我が国の日進、春日と同様に、Balkan戦争直前に海軍に編入され、旗艦として活躍しました。
また、余談ですが、第二次大戦でも艦ごとAlexandriaに脱出し、インド洋で船団護衛に活躍した後凱旋し、現在では
記念艦として展示されています。
我が国の三笠並の扱いを受けているわけですね。

巡洋艦はもう1隻、米国製のHelle(1913年竣工、2,600t)があります。
元々は、日清戦争で海軍か壊滅した清朝が発注したものですが、革命で清朝が瓦解し、売りに出されたのをギリシャが
1914年に購入したものです。
この艦は、英国で武装を施す関係上、結構英国に止め置かれ、1916〜17年にかけてはフランス海軍の所属艦として
任に就いていました。

このほかに近代的な軽巡洋艦として、英国にAntinavarhos Kontouriotis、Lambros Katsonisの2隻が発注されましたが、
これらは第一次大戦勃発によって、英国海軍に接収され、Birkenhead級として竣工しました。

駆逐艦としては、ドイツ製のNiki級(1906〜07年竣工/350t)が4隻、英国製Thyella級(1906〜07年竣工/352t)が4隻、
アルゼンチンから買収した、英国製Aetos級(1911年竣工/980t)4隻があります。
これらは、第一次大戦参戦時にフランスの指揮下に置かれ、その旗の下で活動しています。
うち、1隻のDoxaは、Sicily沖でUB47に撃沈されました。
駆逐艦には、更に、英国に発注したKriti級が4隻有りましたが、これらは巡洋艦と同じく、英国に接収されてしまいました。

464 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/02/11 21:44:12 0
水雷艇としては、ドイツ製のAigli級6隻(1913年竣工/120t)がありました。

また、潜水艇として、フランス製のDelfin級2隻(1911〜12年竣工/310t)を保有しています。
DelfinはBalkan戦争において、潜水艇による世界最初の雷撃をトルコの巡洋艦、Medjidiehに対して行っています。
但し、外しましたが。
フランスには、このほか2隻の潜水艦を発注しますが、これらは接収され、Amazone級としてフランス海軍に就役
しました。
更に、ドイツからはU31級潜水艇を4隻購入する話が進んでいましたが、大戦で没になりました。

他に、機雷敷設艇を2隻、砲艦10数隻を保有していました。
このほか、Balkan戦争時には、9隻の仮装巡洋艦を使用しており、うち1隻は、トルコの巡洋艦、Hamidiyeによって
撃沈されています。

ちなみに、戦艦Salamisですが、未完成のまま放置されましたが、1923年にギリシャ政府はこの艦の引き渡しを
拒否します。
これの支払いを巡って、裁判やら話し合いやらが行われ、結局、ギリシャはA.G.Vulcanに対して、建造前に提示
された450,000ポンドのうち、30,000ポンドを支払い、1932年に漸く艦は解体されました。
この艦、先述のように、艦体はドイツのA.G.Vulcan、タービンはドイツのAEG、ボイラーは英国のYarrow、主砲と
副砲は米国のBethlehem Steel、主砲塔は英国で製造されるという国際分業の見本みたいな艦でした。
ちなみに、主砲塔のうち2基は、英国海軍のAbercrombie級Monitorに流用されていました。

465 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/02/11 21:45:37 0
最後に、これらだけではスレ趣旨から外れるので…。

ギリシャは1916年に連合軍側に参戦します。

その参戦は可成り特殊で、軍艦は全てフランス海軍旗を掲げ、フランス海軍の指揮下で
任務に就いていました。

で、戦後の軍艦分配に際しては、ドイツ艦と共に、二重帝国海軍の艦も分配されました。
駆逐艦Huszar級である、Ulanがそれで、先に撃沈されたDoxaの代替として、1931年まで
使用されました。
また、水雷艇Tb82F級のうち、Tb92F/94F/95Fが引き渡され、Prousa、Panormos、Pergamos
として使用され、1938年に座礁して失われたPanormosを除き、いずれも枢軸国のギリシャ
侵攻で撃沈されています。

466 :ウニテス:05/02/12 03:47:41 0
>>449 なんかスレの進みがはやいので亀レスになりつつありますが…

つづいてオーストリア軍。
モンテネグロのAntivariに軽巡洋艦ツエンタとSzigetvar←なんて詠むのでしょう?
駆逐艦1隻…ウランですね。
近くのカッタロには 海防艦 モナーク級3隻と軽巡洋艦アスペルン、ウランと同級の駆逐艦3隻
数隻の水雷艇が停泊していました。
カッタロはさすがに造船設備も擁するオーストリアの最前線軍港なだけあって、そこそこな
戦力が置かれていたようです。
ここまでが同ゲームのset up から判断できる情報。

ツエンタ級はコンウェイ「FIGHTING SHIPS」によると、2,300t級三等防護巡洋艦として1900年前後に相次いで就役した艦で姉妹艦はなんて詠むか解らないSzigetvarとカッタロに停泊中のアスペルンの計3隻。2軸推進、石炭専焼缶8,160ihpで速力20.8knt
駆逐艦ウーランは04年度計画艦Huszar級の1隻で389t、2軸推進6,000ihpで28knt…眠い人の
おっしゃってたギリシャ分配艦は彼女の事かと思います。

続く



467 :ウニテス:05/02/12 03:55:50 0
>>466 続き

フランス艦隊の作戦行動ですが、Lapeyere提督の最初の目的地はツエンタが停泊しているAntivarilで、
同港には弩級艦を含む戦艦群に対抗できる防御施設が十分でないのが理由だったようです。
ツエンタを含むオーストリア艦隊と仏蘭西艦隊がどういった経過で戦闘におよんだのかは謎です。
わざわざ迎え撃とうとしたのか?はたまた脱出中に捕捉されたのか??結構調べたのですが資料が無くて…

想像できるのは 13年11月に就役した2隻の弩級艦の最大船速21kntに捕捉された場合オーストリアの2隻の巡洋艦では
振り切る事が出来ないってことで、結果ツエンタが被害担任艦となり僚艦を脱出させたと言う事。
ゲームの特別ルールによると、ツエンタは友軍艦艇のため敵の攻撃を引き留め Lapeyere提督はツエンタ1隻に砲撃を
集中したために他のオーストリア艦隊とのコミットに失敗した と有ります。

海人社の フランス戦艦史にも、約4千mまで近づき500発の弾を消耗してツエンタに数発の命中しか出来なかったと記載されて
ますし、当初の目的である港湾施設への砲撃は中止して帰投しているので、フランス艦隊のこの作戦はけっこうお粗末な結果
であった様に思います。
もっともフランス海軍は弩級艦より速い速力を出せる巡洋艦を1隻も持たないあたり、その創りに問題を抱えているようですが…

一方の勇戦むなしく沈没したツエンタの艦長Paul Pachnerは、初代ウィーンサッカーチームの創設者であり、
生き残ったクルーは英雄として扱われた と捕捉説明にあります。
このへんはオーストリアのプロパガンダですね。

訂正:Lapeyere提督の階級は中将だそうです…と海人社のフランス戦艦史にのってました。
    ちなみに1909年には海相に就任しているので、このお話の時点では直接艦隊指揮はとってないはずです…たぶん。

おわり
    



468 :カラジチ ◆mWYugocC.c :05/02/12 09:07:38 0
>Szigetvar←なんて詠むのでしょう?
多分ハンガリー語で「スィゲトヴァール」。
ハンガリー語szはsにあたるなり。

469 :世界@名無史さん:05/02/14 01:02:00 0
オーストリアって共産圏になる一歩手前まで行ったんだな、知らんかった。

470 :世界@名無史さん:05/02/14 02:14:29 0
オーストリアもフィンランドも事実上東側の勢力圏

471 :ハウス:05/02/15 23:17:39 0
>>466 Szigetvar←なんて詠むのでしょう?

【↓別スレのギシュクラさんのレスをお借りします。】
72 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/06/04 23:17 ID:mzkwtY68
>69
それはシゲトヴァールですね。このクラスは古戦場の名前のようです。
シゲトヴァールはハンガリー南部にある城(ヴァールは城の意味)で
ズリーニ・ミクラーシュがスレイマン大帝率いるオスマン帝国の大軍
を迎え撃ち、壮絶な玉砕(最期は家族を我が手にかけ、城門を開いて
敵陣めがけ突撃を敢行)をとげた古戦場です。

472 :ハウス:05/02/16 23:22:48 0
>>466>>467
ウニテスさん、レスどうもです。大変興味深く読ませていただきました。
以下は軽巡洋艦ツェンタ撃沈(1914年8月15日)以降のオーストリアVSフランス海軍の戦況ですので、
よろしければご参考にどうぞ。とあるサイトより拾ってみました。

1914年8月15日/沈没した軽巡ツェンタの乗員約300人の大多数は救命艇に逃れ、モンテネグロの
海岸に生還(>>438の権兵衛さんのレス参照)。その後生き残った乗員は1916年1月23日(同月モン
テネグロ降伏)に水雷艇Tb81に乗せられてポーラへ帰還。

8月22日/オーストリアが英仏に対し宣戦布告。
8月24日/カッタロに配備されていた海防戦艦モナーク&ウイーンがMount Lovcenを砲撃。軽巡洋艦
シゲトヴァール(Szigetvar)&駆逐艦UskokeがZupaを砲撃。
8月28日/駆逐艦Ulan、Streiter、Scharfschutze、Uskokeがモンテネグロの陣地を砲撃。 

9月1日/フランス戦艦隊12隻&装甲巡洋艦4隻(含む装甲巡洋艦エルネスト・ルナン)がカッタロ近郊の
オーストリア要塞を砲撃。
9月9日/海防戦艦モナークがBuduaのフランスradio stationを砲撃。水雷巡洋艦パンターがMount
Lovcenを砲撃。
9月17日/海防戦艦モナーク&駆逐艦Ulan、Streiter、Scharfschutze が Antivari南部のモンテネ
グロradio stationを砲撃。
9月18日/ 駆逐艦Ulan&Streiterが約140名の仏軍兵士が上陸していたAntivariを襲撃。
9月19日/海防戦艦モナークがVolovica Pointのradio stationを砲撃。同ウイーンがカッタロ南部の
Sveti Varaを砲撃。

続く

473 :世界@名無史さん:05/02/19 14:48:21 0
18日の朝日夕刊より「トラップ一家、里帰り」。
http://www.asahi.com/culture/update/0218/006.html

でも本国オーストリアではミュージカルもあまり人気が無いようです。
記事中には
>「歴史問題」もある。ミュージカルでトラップ一家は、オーストリア
>を併合したナチス・ドイツに追われてアルプスを越え、イタリアに
>逃げる。ところが現実のトラップ氏は、イタリアのファシストに
>近い当時のオーストリア・ファシズムに共鳴していたと言われる。

>その後、米国に渡り、ナチスの犠牲者として注目されドラマがつくられた。
>オーストリア人にとって、触れられたくない歴史の暗部をつつかれた
>というわだかまりがあるようだ。
とありましたが、これは事実なのでしょうか?

それともアカピのいつものアレなのか?

474 :権兵衛さん:05/02/19 16:51:50 0
わたしを忘れていませんか皆さん?

475 :世界@名無史さん:05/02/19 21:35:39 0
オーストリアの独裁者ドルフスは権威主義者だが、反ナチで暗殺されているので、
トラップがドルフス支持者だったとすれば全然矛盾しないし、むしろ当然のことだが。

476 :世界@名無史さん:05/02/19 21:38:30 0
オーストリアはヒトラー以前も権威主義的独裁国家だった。
キリスト教社会党というカトリック政党のドルフスとかシューシュニクがその代表。
ドイツとの合邦以前が民主的だったわけではない。

477 :ハウス:05/02/19 23:05:53 0
>>472 続き

1914年10月16日/連合国艦隊(詳細不明)がカッタロを砲撃。
10月17日/駆逐艦ScharfschutzeがAntivariの倉庫及び鉄道施設を砲撃。同日フランス艦隊(詳細不明)が
カッタロを襲撃。同日駆逐艦Uskoke&水雷艇Tb13がPunta d’Ostro沖でフランス装甲巡洋艦ワルデック・
ルソーの砲撃を受ける。潜水艦U3&U4が作戦行動に出る。
10月19日/カッタロがMount Lovcen上の仏砲台より砲撃を受ける。
10月21日/駆逐艦Satellitが潜水艦U5(艦長ゲオルグ・フォン・トラップ中尉)と共にカッタロに到着。
同日準ド級戦艦ラデツキー&水雷艇E34がカッタロに到着。目的はMount Lovcen上の仏砲台破壊のため。
10月22日/英仏連合国艦隊40隻(詳細不明)がカッタロ近郊の沿岸部を砲撃。
10月24日/準ド級戦艦ラデツキー、海防戦艦ウイーン、装甲巡洋艦カイザー・カール6世がMount Lovcenを砲撃。

>>474
めっそうもない! 権兵衛さんは今やこのスレの神様的な存在であり、また私の師匠とも呼べるお方です。
最近のレスではやはり>>459が印象的ですねぇ。ハウス提督の娘さんの武勇伝に関しては、もう一度本の内容を
確認してみたいと思います(以前ザッと目を通したくらいなので)。お孫さんの事も大変勉強になります。

・・ちなみに紹介していただいた(大変感謝しております)ハウス提督の伝記本、さっそくアマゾンを通して
購入しちゃいますた。自宅へは3月中旬までには届くとの事なので今から楽しみです。いずれこのスレでも紹介
していこうと思うのでお楽しみに。

478 :世界@名無史さん:05/02/20 03:42:28 0
>473
どちらかといや、トラップ少佐の忠誠心はオーストリア共和国でもオーストリアファシズムで
もなく、二重帝国ただ一つに向けられていたのではないかと、私的に憶測。
そんな彼が新参の権威主義が蔓延る同国に留まったのは、それでも二重帝国の残り香を
感じられるオーストリアだからこそ。
そこへ、旧体制の残り香も感傷も掻き消す外国からの暑苦しいチンドン屋が大挙して押し入
ってきたら…
「臣」ゲオルグ・フォン・トラップがどのような反応を見せるか、外野の私にも大体の想像は
付いてしまう。

479 :権兵衛さん:05/02/20 11:01:48 0

>>474 は「偽者」ですよ。(^o^)

  当日は出かけていたので、「ザ掲示板」には来ていません。
  それにPCの具合が悪くて今朝、やっと接続できました。「偽者」が
  出れば「一人前」とか言いますが、複雑な気持ちですね。

  >>477-478

  情報がお役に立てば嬉しいですね。(さすがにドイツ語の原書を読む気
  力はなくなっているので、紹介を期待しています。)

  ハウスさんも触れているトラップの長女アガーテの本にもありますが、
  トラップ少佐の忠誠心は「消滅した帝国」へ捧げられていて、揺るぐこ
  とはなかったようです。
  
   実在している「トラップ一家」とミュージカルや映画の「トラップ一
  家」とは全く違う話であることは、DVD版のおまけなどに収録されて
  いる「本当のトラップ一家物語」を見ていただけば判ると思います。

     



480 :権兵衛さん:05/02/20 11:04:34 0

  「2チャンネル」と「ザ掲示板」と間違えた!(^0^;;
   昨晩は半徹夜だったので、まだ頭が呆けているみたいです。

481 :権兵衛さん:05/02/20 19:06:08 0

  >>473
 
   伝説と現実との違いでしょうかね? もとを正せば、マリアが軽率に
  自分の一家の伝記に関する権利をドイツの業者に全部委ねてしまったこ
  とから生じた「混乱」ですから。

   1949年に彼女が英語で書いた「一家の自伝記ーー現在では、「サ
  ウンド・オブ・ミュージック」として知られているーートラップ一家合
  唱団物語」(日本では最初に「国境を越えて歌う一家」として、キリス
  ト教カソリック派関係の団体から紹介されています。)の劇化に関する
  権利を2千ドルかそこいらで売却してしまったのです。その権利をアメ
  リカの演劇関係者が譲り受け、ブロードウェーの舞台にされたんですね。
   当初は現実の一家の活動に沿った話にする予定が、途中で一家の名前
  と設定だけーー妻を亡くした退役海軍将校とその7人の子供、そこに家
  庭教師としてやってきたマリアが慕われ、再婚し、ナチドイツとの「併
  合」を受けて、亡命するーーを残して、あとは自由に書き直してしまっ
  た訳です。第2次大戦後、アメリカ民主主義の偉大さと課題を問う作風
  が鮮明に出ていたロジャース=ハマースタインのコンビが最後の作品と
  して1959年に発表した「サウンド・オブ・ミュージック」は優れた
  「アメリカ民主主義、万歳」を見えない背景として、「民主主義に共感
  する人々が、その信条ゆえに迫害され難を逃れ来て集う国が、アメリカ
  である」というメッセージがあるのですね。
   なにせ、「ドイツ語はハプスブルグ家の一方言に過ぎない」なんて、
  言うくらい気位の高いウィーン子にとって、アメリカなんて元植民地の
  ほんの腕力のつよい「ガキ大将」(ドラえもんの「ジャイアン」みたい
  なものか?)の唱えるお題目なんぞ知ったことか、ぐらいなものでしょ
  うね。


482 :473:05/02/23 19:57:44 0
>権兵衛さん
鋭い解説有難うございました。確かに「アメリカ民主主義、万歳」
というお題目が鼻をつくのは致し方ないですね。純真な(?)
子供の頃はそんなものかと映画を見ていましたが、今見るとフーンと
なるんでしょうか。

483 :ハウス:05/02/23 23:53:36 0
>>477 続き

1914年11月2日/ 駆逐艦Csikos、Reka、Velebit、Balaton、Lika (I)、Triglav (I)、Orjen&
水雷艇Tb69Fがリッサ島近海でフランス艦隊に対する監視活動を行なう。 軽巡洋艦ヘルゴラント&
装甲巡洋艦マリア・テレジアも外洋で活動。同日オーストリア飛行艇L5が仏巡洋艦隊を爆撃(詳細不明)。
11月3日/フランス主力艦隊が駆逐艦によるモンテネグロへの物資輸送護衛を残しオトラント海峡へ退く。
11月5日/フランス装甲巡洋艦ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo、レオン・ガンベッタ級の3番艦)が
オーストリア潜水艦U5(艦長ゲオルグ・フォン・トラップ)の襲撃を受ける(場所等不明)。
11月15日/駆逐艦UskokeがAntivari沖で機雷施設を開始。水雷艇Tb16がVolovica南西のモンテネグロ
砲台より砲撃を受ける。
11月18日/駆逐艦UskokeがVolovicaのモンテネグロ砲台を襲撃。
11月19日/フランス潜水艦Cugnotが偵察目的の為にカッタロ湾に侵入するものの追い払われた模様。
11月25日/フランス海軍使節が砲台等を残しモンテネグロより撤退。
11月28日/潜水艦U5(艦長ゲオルグ・フォン・トラップ)がモンテネグロ帆船Fiore Del Mareを
捕獲(場所等不明)。

>>479
そうでしたか・・・。
まんまと474さんに乗せられてしまったわけですな。
ただ>>477のレスはお世辞ではなく本音ですよ。
それに紹介を期待してくれる人がいると、こちらとしてもやりがいがありますしね。

484 :権兵衛さん:05/02/24 00:36:11 0

>>483

  >それに紹介を期待してくれる人がいると、こちらとしてもやりがいがありますしね。

   大いに期待しております。過去の書き込みでもお判りのように、愚生はもともと第
  一次大戦に関してはほとんど知識がありません。たんに若き日に映画「サウンド・オ
  ブ・ミュージック」に熱中して、現実のトラップ一家について関心を抱いてそれなり
  に調べていただけのことです。その延長線上に「帝政オーストリア=ハンガリー海軍」
  への知識も若干得たに過ぎませんから、今後も手持ちの資料で目ぼしいものがあれば
  アップはします。でも、さすがに乏しくなってきたので「ROM暮らし」にならない
  ように努力はしますね。(さてさて、WW1のサイトの捜索に出かけねば・・・。
  。。。。。サァサァサァ〜サァッと、小走りの音、ドカァ! と「躓いた」音!
  やはり年は取りたくないなァ〜と嘆く声。でも、誰もがたどる道だし、開き直って歩
  むしかないなァ、と居直ったのか悟ったのか判らない声・・・。)

   映画がらみの話としては、家永知史(いえなが・さとし)という人物が書いた岩波
  ジュニア新書の「映画で見る世界史」という中で、この映画の主人公のひとりゲオル
  グ・フォン・トラップ少佐に関する「爆笑」ものの記述があるのですが、稿を改めて
  アップさせていただきます。(今日のところは時間がないのと、元の原稿を確かめて
  おく必要があるので。)

485 :ハウス:05/02/27 22:58:29 0
>>483 続き

1914年12月3日/(イタリア軍がオトラント海峡右岸のヴァロナを占領。)
12月6日/駆逐艦Satellitが潜水艦U12(艦長エゴン・レルヒ)を伴いカッタロ湾に到着。駆逐艦Wildfang、
Turul、Huszarがリッサ島南西部で作戦行動に出る。
12月13日/(英潜水艦B11がダーダネルス海峡でトルコ戦艦(中央砲郭艦)メシュディエを雷撃。>>453
レス参照・地中海域で潜水艦の雷撃を受けた最初の艦との事。)
12月16日/フランス潜水艦キュリー(ブルメール級16隻のうちの1隻)が同装甲巡洋艦ジュール・ミシュレ
に牽引されてオーストリア領のペラゴサ島沖に到着。
12月19日/キュリーがオーストリア水雷艇に続きポーラ湾に強行突入。
12月20日/駆逐艦Satellitが防潜網に引っかかったキュリーを発見。駆逐艦Turulも彼女の捕獲に参加。
潜水艦U12がカッタロ湾を離れて哨戒活動を開始。
12月22日/駆逐艦Balatonがペラゴサ島沖で哨戒活動を行なう。
12月25日/オーストリア潜水艦U12(艦長エゴン・レルヒ)がオトラント海峡のサザン島沖で船団護衛を
していたフランスド級戦艦(旗艦)ジャン・バールに対し魚雷攻撃を行なう。2本の魚雷は艦首に命中し、
戦艦は沈没は免れたものの傷を受けて地中海の英海軍基地マルタへ退却。これと同時に海峡を封鎖してい
た仏戦艦隊もイオニア海のキファリニア島へ引き下がる。[ジャン・バールは先の8月15日の海戦でオー
ストリアの軽巡洋艦ツェンタを沈めている]
12月25日/(イタリア軍がEssad Pashaの反乱のためアルバニア沿岸部のドウラッツオを占領。)
12月31日/(イタリア軍がヴァロナを再占領。)水雷艇Tb54Tがセベニコ沖で敵潜水艦を捜索。

おわり

>>484
ありがとうございます。権兵衛さんのレスも楽しみにしておりますので、
これからもよろしくお願いします。

486 :権兵衛さん:05/03/01 21:53:45 0

  どうも、2チャンネルでは少し長い文章は入らないので、「爆笑」ものの場面だけを
 取上げておきます。「一方、映画の中でナチスに逆らって家族を引き連れて国外へ亡命
 したトラップ大佐とはどんな人でしょうか。現実のトラップは貴族出身のオーストリア
 海軍の武勲ある退役将校(少佐)で、彼の政治的立場は「オーストリアの支配権をめぐ
 ってナチスと争い」敗れた、オーストリア・ファシズムともいうべきシュシュニック体
 制の支持者(増谷英樹「歴史の中のウィーン」)でした。
 その証拠に、映画の中でもトラップ大佐は、パーティのシーンでオーストリア・ファ
 シズムの記章を首から下げています。」(p.134-135)

  典型的なイデオロギーの眼鏡を通したまるっきりの「政治的思い込み」による記述で
 すね。(^o^) 多分、著者はマリアの自伝での「アンシュロス(併合)」を知ったゲオ
 ルグがシュシュニック首相あてに「貴殿に神のご加護のあらんことを。オーストリア万
 歳!」という電文を送ろうとしたことと、娯楽映画の「小道具」でしかない勲章がたま
 たま「オーストリア・ファシスト党」のシンボルマークと同じだったことをもって、上
 のような記述を「大真面目に書いた」ようです。


487 :世界@名無史さん:05/03/01 21:55:04 0
糞スレなのでsageますね

488 :権兵衛さん:05/03/01 22:09:40 0

  「映画に描かれたことと現実は違っていることに気をつけること」と注意して
 いる著者が見事に「思い込んで」いる例でしょうね。現実のトラップは1930
 年代早々に「大恐慌」のあおりをうけて、莫大な預金を全て失ったこともあり、
 政治的な活動などに係る余裕はありませんでした。せいぜい、ザルツブルグ地域
 での在郷軍人会の会長を務める程度でした。家族が1936年の音楽祭の「アマ
 チュア合唱部門」で優勝したのを機に「プロ活動」を開始したこと、その追い風
 となったのがシュシュニックの要請による「オーストリアの心を取り戻す運動」
 の一環としてラジオ全国放送で歌ったことぐらいで、政治的な動きはしていませ
 ん。戦間期のオーストリアを扱った本でもトラップの「ト」の字も出てきません。
  史実に忠実でないことは結婚式でのゲオルグの礼装を見れば判ります。アガー
 テの本にでてくる1935年ごろのゲオルグの軍服姿の写真とは似ても似つかな
 い代物です。
  プロパガンダの意図を持って書かれた文章の典型ですね。
  本スレッドの趣旨から離れるので、こんなところで止めにしておきます。

489 :傍観者:05/03/05 19:17:39 0

  単に age るだけ。

490 :ハウス:05/03/09 22:36:32 0
いきなり質問なんですが、第一次大戦中のドナウ川部隊(河川艦隊)の戦歴について
ご存知の方っていらっしゃいますか? いつ(何年に)・どこで・誰が(どの艦艇が)
・どうした(どのような戦闘を行なった)。というような形で・・

たとえば1914年7月28日から29日にかけて(オーストリアがセルビアに宣戦布告した
ちょうど1時間後)、ドナウ川河川砲艦Temes、Bodrog、Szamosが隣接するセルビア
の首都ベオグラードへ砲撃開始。などというように・・

・・とりあえず自分でも調べてみようと思います。

491 :ハウス:05/03/11 21:14:43 0
ちなみにドナウ川の河川部隊は1440年に創設されたようで、17世紀から18世紀に
かけては小艦隊を編成・当時同河川を境に国境を接していたオスマン・トルコか
らの攻撃に備えていたようです。

・・ということは、当時のオスマン・トルコもドナウ川に河川部隊を持っていた
のかしら?

492 :権兵衛さん:05/03/12 21:30:51 0

  ハウスさん、お久しぶりです。

  ドナウ河川艦隊についてのサイトは
  略歴については、
   「オーストリア=ハンガリーの戦闘艦艇写真集第2巻」バウムガルトナー&
   ジーヒェ共著からの抜粋を原文の独文から英文に翻訳したものが、
   ttp://www.gwpda.org/naval/daunbe.htm

  河川艦隊の個々の艦船については、
   tt://stile.covnetry.ac.uk/cbs/staff/beach/ahnavy/DonFlot.htm

に簡単な戦歴めいたものがズラーッと出ています。 


493 :ハウス:05/03/13 21:32:08 0
>>492
権兵衛さんこんにちは、そして貴重な情報をありがとうございます。

実は以前見つけたThe Austro-Hungarian fleet:River craft≠ネるサイトにも、
492で紹介して頂いた艦船・Monitorクラスの艦艇図&その戦歴が載っていたのですが
、今はどういうわけか見つからない(見られない)みたいで・・・。

・・ところでバウムガルトナーといえば、昨年のF1・ミナルディチームにも同名の
ハンガリー人ドライバーがいましたね。スレ違いですが・・。

494 :世界@名無史さん:05/03/20 04:58:27 0

持続のために age

495 :味噌:2005/03/22(火) 23:50:56 0
板違いすいません、
「レパントの戦い」って英語でなんて書くんですか?

496 :味噌:2005/03/22(火) 23:53:47 0
またまたすいません、1588年にイングランドとスペイン間で起こった海
戦の名前を英語で書くとどうなるんですか?



497 :世界@名無史さん:2005/03/23(水) 00:10:08 0
板違い云々の前に、なぜそれをオーストリア海軍スレで聞くのかがわからない。

498 :世界@名無史さん:2005/03/23(水) 16:55:40 0

  >> 495-497

  オーストリア=ハンガリー帝国海軍の栄光の時
  「リッサ沖海戦」であるとしておきましょうよ。
 「インヴィンシブル何某」については勝手に調べてよってなところで。

499 :権兵衛さん:2005/03/24(木) 02:56:32 0

  いま、しばらく資料の収集の時間的猶予が要るな。

500 :世界@名無史さん:2005/03/24(木) 02:57:26 0

  ハウス提督と権兵衛さんに

501 :権兵衛さん:2005/03/24(木) 02:59:26 0

  なにやら、同調の挨拶があったみたい。オーストリア海軍史、
 いましばらく時間が欲しいのは事実だな。

502 :世界@名無史さん:2005/03/28(月) 01:29:16 0

  単なる応援のための
age

503 :ハウス:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 23:53:13 0
このスレができてから今日でちょうど1年ですねぇ。
大変喜ばしいことで・・。

さて、以前アマゾンを通して注文したアントン・ハウス提督の伝記 "Anton Haus:
osterreich-Ungarns Gro Admiral 1913-1917" ですが、商品がまだ確保できて
いないとのことから自宅に届くのが4月中旬以降になりそうです。

・・ところでこんなスレを偶然見つけてしまいました。なかなかおもしろい内容な
のでよろしければどうぞ。↓
〔第二特務艦隊について マルタの礎 〕
ttp://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1086253240/

504 :世界@名無史さん:2005/04/10(日) 02:48:10 0

単に age のため。ハウスさん、権兵衛さん、ネタ切れ?それとも、休養中?
 その他の人もがんばってね。

505 :ハウス:2005/04/14(木) 00:24:01 0
>>504
ネタはあるんですが、常連以外の方のレスを期待しておりまして・・・。
興味のあること、気づいたこと、何でもいいからカキコしてほしいなぁ。

あとオーストリア海軍に興味・関心のある方ならどなたでもよいので、この
スレを運営・コーディネートしてくれる人の降臨もひそかに期待しておりまつ。

506 :朱由檢:2005/04/14(木) 00:29:41 0
前近代は海戦が少ないのに海軍力を増強するのは植民地獲得のため?
それとも防衛のため?

あと、完全に内陸国化した現在のオーストリアに海軍はいるのかな?

教えて、エロい人!!

507 :世界@名無史さん:2005/04/14(木) 02:03:30 0
いまは陸軍にドナウ河部隊があるだけやね

508 :朱由檢:2005/04/14(木) 21:25:50 0
>>507
やっぱり海軍はないんだね、残念だな。
艦隊もドナウ河向けのスケールなのかな?

509 :ハウス:2005/04/15(金) 23:53:57 0
>>506
これは第一次大戦前の時期の事ですかな?
それでしたら「防衛」が主目的です。

当時のオーストリア帝国の仮想敵国はアドリア海を挟んで対峙する
イタリア王国でしたので、それに対抗するために戦艦から巡洋艦
駆逐艦 水雷艇 潜水艦にいたるまで各種取りそろえていました。

あとオーストリアは海外植民地は保有しておりませんでした。

【保有する軍艦 1880〜1914年(排水量 トン)】
       
1880年  1890年  1900年   1910年  1914年

オーストリア  60,000  66,000  87,000  210,000  372,000
イタリア   100,000  242,000  245,000  327,000  498,000

510 :朱由檢:2005/04/16(土) 00:20:57 0
>>509
サンクス、ハウスさん。
このスレを最初から読み返してたんで、
すごい詳しい人だなって思ってました。
回答貰えてうれしいな。
参考にします。

511 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :2005/04/22(金) 23:23:56 0
トラップ少佐のフィギアだそうです。
ttp://www.panzermodellbau.com/index_at.html?gal_trapp.html&1
二重帝国海軍愛好家には必須?アイテムかも??

512 :世界@名無史さん:2005/04/23(土) 02:52:12 0

トラップの名前を関した軍事大学校があったんだが、その資料を探さねば。

513 :ハウス:2005/04/23(土) 17:45:00 0
>>510
いえいえどういたしまして。
特に詳しいというわけではないのですが、自分の回答がお役に立てれば
こちらとしても素直にうれしいです。(遅レススマソ。)

>>511
お久しぶりです。
フォン・トラップ少佐のフィギアとはシャレていますね。あと同じサイト
にある軽巡洋艦ツェンタの水兵らしきフィギアもなかなか・・・。

・・とりあえず貼り付けておきます。
ttp://www.steelnavy.com/Radetzky.htm
オーストリア帝国海軍の準ド級戦艦「ラデツキー」の1:700模型
ttp://www.infoseek.co.jp/Honyaku?pg=honyaku_top.html
(こちらのweb翻訳を使うと上記サイトの日本語訳がでてきます。)

514 :権兵衛さん:2005/04/26(火) 00:38:18 0

  >> 512

 前に書き込んだと思うが、「オーストリア連邦共和国マリア・テレジア
 軍事大学院」の「1997年度記念士官」にトラップが選ばれたことだろ
 うね。
  いろいろと忙しくて、書き込むネタ探しもままならいのが残念だな。

515 :権兵衛さん:2005/05/03(火) 23:21:08 0

  そろそろ、挙げておかないと、消えそうなので、

age


516 :ハウス:2005/05/08(日) 19:28:15 0

権兵衛さんに引き続きage
さすがにデータ落ちはもったいないよねぇ。

個人的には2ちゃんねるだけに頼らずに、どなたかが作成・管理する同海軍
専用サイト?の掲示板かなんかに、皆がいろいろと書き込めるようになれば
と思うのですが・・やっぱ難しいかな?

さて、スレの燃料にはなりにくいですが、マイナーネタを一つ。

1895年にオーストリア海軍の砲艦「アルバトロス(Albatros)」が地質学者のHeinrich
Foullon von Norbeeckらを乗せて太平洋のソロモン諸島へ向かいました。しかし1896年
5月にFoullonは同諸島のガダルカナル島で原住民の待ち伏せ・襲撃にあって死亡。その
後アルバトロスから派遣されたオーストリア軍は原住民との小競り合いを展開し、オー
ストリア側は兵学校の士官候補生1人と水兵2人が殺され、数名が傷を追ったようです。

その後オーストリア砲艦はオーストラリアのシドニーを訪問して数ヶ月滞在したのちに
シンガポールとインド洋経由で帰国の途につきました。これは当時のオーストリア産業
界と海軍が南太平洋諸島に関心を抱き、調査隊が派遣された折に起きた出来事です。

517 :ハウス:2005/05/08(日) 20:01:41 0

権兵衛さんに引き続きage
さすがにデータ落ちはもったいないよねぇ。

個人的には2ちゃんだけでなく、どなたかが作成・運営する同海軍に関する
サイトの掲示板あたりに、皆が書き込めるようになればと思うのですが・・
難しいかな?

さて、スレの燃料にはなりにくいですが、マイナーネタをひとつ。

1895年にオーストリア砲艦「アルバトロス(Albatros)」が地質学者のBaron
Heinrich Foullon von Norbeeckらを乗せて南太平洋のソロモン諸島へ向かい
ました。しかし1896年5月に、Foullonは同諸島のガダルカナル島にて敵意を
持つ原住民の待ち伏せ・襲撃にあって死亡。その後アルバトロスから派遣さ
れたオーストリア軍は原住民と小競り合いを展開し、オーストリア側は兵学
校の士官候補生1人と水兵2人が殺され、数名が傷を負ったようです。

その後オーストリア砲艦はオーストラリアのシドニーへ立ち寄って数ヶ月間
滞在の後にシンガポールとインド洋経由で帰国の途につきました。これは当
時のオーストリア産業界と海軍が南太平洋諸島に関心を抱き、調査隊が派遣
された折に起きた出来事です。

518 :ハウス:2005/05/22(日) 11:02:57 0

このスレもその使命を終えつつあるようなので一言
(ではなくなってしまいましたが)。

忙しくてなかなかレスできない人もいらっしゃるようなので、
また新たにレスしてくれる人もめっきり減ったようなので、
なんとかデータ落ちを避けようと時折レスしてきましたが、
やっぱ寂しいなぁ。

だからといって、スレ維持を目的としたレスをこれ以上続けるのは空しいだけなので、
無駄なあがきはやめてこのスレの行方を見守ろうと思います。

私事で恐縮ですが、今後は手持ちのオーストリア海軍のしかるべき文献の精読を推し進めつつ、
同海軍の中で最も関心のある「フリゲイト艦ノヴァラ号」&「アントン・ハウス提督」を究め
ていきます(まあ趣味の範囲を超えるものではありませんが・・)。

そして近い将来、このスレでお世話になった人やオーストリア海軍に関心のある人達に、何ら
かの形でフィードバックできればと思います。それは2ちゃんという掲示板を通してではない
かもしれませんが・・。

というわけで権兵衛さん・ギシュクラさん・眠い人さん・maro,さん・へんくつ海軍好きさん、
ウニテスさん・カラジチさん・その他の皆さんお世話になりました。

またこのスレを私物化してしまっていたことは反省いたします。


・・なーんて言っておきながら、近いうちにまた皆さんとお会いするかも・・。

519 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/05/22(日) 16:16:47 0
>518
いあ、単純に今暇がないのでレスできず状態な訳で…。
某板の手前のスレ保守で手一杯で、なかなかこっちまで、進出出来んとです。

来月くらい、時間が欲しいなぁ。

520 :世界@名無史さん:2005/05/22(日) 21:24:43 0
楽しく読ませていただいてはいるものの、
資料がゲームしかないでございます。

>>519
東欧の軍隊スレでしょか?

521 :権兵衛さん:2005/05/23(月) 01:54:03 0

 そういえば、CWニコル氏の新作では第一次大戦時、地中海に派遣された
 日本艦隊、マルタを母港として二重帝国、ドイツ帝国の潜水艦U−ボート
 と戦う話が主になっていますね。時間があれば、内容と史実を対比させた
 一文が書けるのだけど。夏休みあたりが希望の刻[とき]なのかな?何か
 野暮用が入るのもこの時期なんで、心配もしています。

522 :世界@名無史さん:2005/05/23(月) 14:02:25 0
テゲトフの時代にバルト海くんだりまで行って
デンマークと海戦やってるのに驚いた

523 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :2005/05/28(土) 23:04:00 0
ハウス提督閣下
なかなかネタもないですが、奥も深いので短慮は禁物です。
二重帝国の駆逐艦の鮮明な写真を発見いたしましたぞ。
ttp://people.freenet.de/kriegsmarine/huszar%20klasse.htm


524 :ハウス:2005/05/29(日) 22:05:19 0
>>519
眠い人さん、どうも。
自分は他の方と比べて比較的時間がある方だと思うんですが、
皆さんの事情がわからなかったので、ちと焦りがあったようです。
東欧スレの方は時折見させてもらっておりまつ。

>>520
そうですか。それでもこのスレに興味があって読んでくれている
というのはやっぱうれしいですね。

>>521
権兵衛さん、それは楽しみです。
メンタル面でイッパイイッパイ?の自分は、手持ち文献を翻訳する
だけでやっとですが、いずれはあなた様のようになりたいです。
このスレも夏まで生きながらえてほしいですね。

>>522
このスレでも眠い人さんや権兵衛さんが同海戦についての詳細なレス
をしてくれていますが、お読みになりましたか?

>>523
ギシュクラさん、サンクス。
確かにちと焦りすぎたようです。スレ維持も大切ですが、奥が深い
このテーマ、焦らずにいっしょにじっくりと楽しみましょう。

・・そういえば以前注文したアントン・ハウス提督の伝記本ですが、
なんかどの仕入先からも入手できないとの事なので、ひとまずおあ
ずけみたい。

525 :権兵衛さん:2005/05/31(火) 01:01:42 0

  ハウス閣下、こんにちわ。

  ま、気楽に行きましょう。いま、ここの軍事板で「ミッドウェー海戦」
 についての議論が白熱しております。しかし、この海戦について、それ
 なりに「首を突っ込んでン十年」の経歴をもつものの感想としては、そ
 の「熱意」には感心するものの、レベル的にはこちらのそれより数段落
 ちるものといわざるを得ませんね。「新参者」が参入しやすい問題でも
 あるので、当然かも知れませんが、それにしても英文の文献にあたって
 発言している人が皆無なのには驚きというより、落胆させられますね。
  ここの板なら、英文はもちろん、独文や仏文、露文、さらにはハンガ
 リーやポーランドなどの言語にも通じている方が発言しているせいかも
 しれませんね。もっともそうした言語に関してある程度の知識がないと、
 歯が立たない分野であることも確かですけどね。
  せっかくの分野ですから、肩の力を抜いてのんびりと「スレ落ち」し
 ないようにいきましょう。
  二コル氏の新著は図書館にリクエストを出しているので、入荷すれば
 早めに読んでみたいです。
  「ハウス提督伝」の入荷が遅れているとの事、残念ですね。たぶん、
 初版で1000部かその辺りの出版だと、古書市場でもあまり流通しな
 いのかも知れませんね。ドイツで見かけた本では500部なんてのも、
 よくありました。そのせいかやたらと価格が高い本が多い印象がありま
 したね。

526 :世界@名無史さん:2005/06/01(水) 00:58:39 0
このお店↓
ttp://www5b.biglobe.ne.jp/~mbfw/cd_aust.html
に、クリークス・マリーネ軍楽集「Historische Ma"rsche der k.u.k. Marine」
(ttp://www5b.biglobe.ne.jp/~mbfw/y_OST-168.htm)が入るのを、心待ちにしている
のですが…中々入りませんなー
(注文しての取り寄せは個人的に抵抗がありまして。注文した後に目当ての品を別口店
頭で見掛け、注文品の到着はその一ヶ月以上後だったという、屈辱的な仕打ちを受けた
過去があるのです)

527 :権兵衛さん:2005/06/01(水) 20:03:59 0

  たまたま、本棚を整理していたら「北京燃ゆ――義和団事変とモリ
 ソン」(ウッドハウス・暎子著・東洋経済新報社・1989年)とい
 う本が出てきました。このスレでずっと以前に話題になった「謎」の
 オーストリア海軍士官フォン・トーマ(中佐)が登場していたので、
 そこの部分を、少しばかり――しか書かれていない――紹介します。

  「(1900年)6月20日午後4時、最期通牒の時間切れに始ま  
 った義和団・清軍の砲撃は翌朝まで休みなく続いた。(中略)オース
 トリア館は1日ももたなかった。一両日の激しい砲撃に参ったオース
 トリア兵は海軍中佐フォン・トーマンの指揮の下、さっさとフランス
 館に退却した。(この)オーストリア館の早期放棄を正当化する充分
 な説明はなかった。トーマンの弱腰は続き、彼はイタリアにも勧めて
 一緒にフランス館に入った。(中略)先に、トーマンは、自分の中佐
 という兵位の高いことを理由に、自ら篭城軍総指揮官を任じていたが、
 この失策のため総指揮権は各国公使の総意のもとに(イギリス公使)
 マクドナルドに譲られることになった。」(p.105-106)

  このトーマン中佐は7月7日に砲撃のために戦死したと、あります。
 (p.128)

「義和団事件」、「北清事変」などと呼ばれているこの事件につい
 ては直後にかなりの日記や体験談、回顧録などが出版されたようです
 が、なにしろ百年も前の話になっているので、捜すのは苦労するのは
 間違いないです。


528 :ハウス:2005/06/04(土) 13:32:47 0

だいぶ前のネタですが>>296でレスした内容の補足です。

米西戦争が勃発したちょうど1ヵ月後の1898年5月、当時オーストリア海軍長官&艦隊総司令官
を務めていたヘルマン・フォン・スパウン提督は、装甲巡洋艦「カイゼリン ウント ケイニギン
・マリア テレジア」(艦長ジュリウス・フォン・リッパー)をカリブ海の西インド諸島に派遣
しました。その目的は同地にあった自国の権益の保護で、また必要に応じこの地域(米西戦争の
戦域)より自国の領事やその他の国民を非難させるという使命も持っていました。

ところで不運にもこのオーストリア艦は、当時同諸島のキューバに派遣されていたスペイン海軍
の装甲巡洋艦「インファンタ・マリア テレサ」と外観がそっくりで、掲げている国旗も類似、
おまけに一時スペイン艦隊と行動を共にしていたらしいのです。そこで悲劇が起こりかけました。
7月3日の早朝、オーストリア海軍の装甲巡洋艦「マリア テレジア」はキューバのサンチャゴ港
を出港しましたが、当時港内にはスペイン艦隊が存在し、アメリカ艦隊はその封鎖活動をしてい
る最中でした。

この少し後スペイン艦隊も出港してアメリカ艦隊と交戦(実際には一方的に追跡された)しまし
たが、アメリカ側はまだ同海域にあったオーストリア巡洋艦「マリア テレジア」をスペイン艦と
思い込み、その後数時間に渡りひそかに追跡し、アメリカ側の10300トン級戦艦「インディアナ」
はまさに発砲寸前の状態でした。その直前にインディアナの艦長が間違いに気付いたようですが。

この難を何とか切り抜けたリッパーの「マリア テレジア」は、多数のヨーロッパ人やラテンアメ
リカ人が避難している同諸島のジャマイカに向かい、8月の停戦・戦争終了ののち帰途に着いたと
の事です。

その後この艦艇は1900年の義和団事件の時には中国海域にも派遣され、同地で軽巡洋艦「ツェンタ」
などと合流していますが、この時期同軍艦を指揮していたのがアントン・ハウスでした。義和団事件
については権兵衛さんがトーマン中佐がらみの詳細なレスをしてくれていますが、自分もハウスがら
みでちと調べてみることにします。

529 :権兵衛さん:2005/06/10(金) 01:44:53 0

「侵攻」が早いので、とりあえず、age.

530 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :2005/06/12(日) 20:21:54 0
PDFでホルティ提督の回想録が読めます。
ご参考までに。
ttp://www.hungarian-history.hu/lib/horthy/horthy.pdf

531 :世界@名無史さん:2005/06/15(水) 12:04:39 0
神聖なる二重帝国sage

532 :権兵衛さん:2005/06/16(木) 17:15:20 0

Heil! Der heilige Vaterland und der Kaiser und Keonig!

533 :ハウス:2005/06/19(日) 21:42:06 0
>>530
ホルティ提督に関しては、個人的には第一次大戦前の海軍での経歴に関心がありまして、
士官候補生や航海士としての体験談?や、スパウン、ハウス提督などとの関係・やりとり
なんかを意識して読んでみるのもおもしろいかも。

534 :世界@名無史さん:2005/06/19(日) 22:31:03 0
質問です。
ロシアの北、北極海にオーストリア皇帝の名前が冠せられた
島がありますが、何故オーストリア皇帝の名前が遠く離れた北極海と
関係があるのでしょう?
勝手な推測ですが、カナダにもプリンスオブウェールズという
島があることから、ひょっとすると島を発見した艦船の
名前が島の名前になる。という慣例でもあるのでしょうか?


535 :ハウス:2005/06/19(日) 23:33:24 0
>>534
慣例のことはよくわからないのですが、参考の一つとして次のサイトがあります。

氷と闇の恐怖
ttp://members.aon.at/hwien/bgk/2003/cr1.html

536 :世界@名無史さん:2005/06/24(金) 00:28:38 0
>534
>ひょっとすると島を発見した艦船の
>名前が島の名前になる。という慣例でもあるのでしょうか?
1873年にフランツ・ヨーゼフ群島を発見したのはパイヤー大尉率いるオーストリア探検隊だったけど
彼らの乗艦の名前は「アドミラル・テゲトフ」だった。
カナダのビクトリア島のように国威掲揚の一環として主君の名前を名付けたわけ。

537 :権兵衛さん:2005/06/24(金) 21:46:49 0

地理学(天文学でも同様)、「新発見」をした者が「命名権」を
 持つのが普通ですから、ちょうど「第2次大発見時代」だったの
 でそうした名前が付いたのでしょう。
  そういえば、南極探検で知られたシャクルトン卿の伝記映画で
 は、新発見した場所にスポンサーの名前を冠すると言って、探検
 資金を募集していました。第1次大戦の頃の話です。出航直前に
 大戦が始まり、従軍すべきかどうか悩んだりしてました。結局、
 「老いぼれ水兵が戦場に来るより、未知の大陸での発見の方が国
 民の士気を高める」と判断した時の海軍大臣ウィンストン・チャー
 チルからの電報「Proceed! (進め!)」を受けて、南極を目指す
 ことになります。氷に閉じ込められて大変な目に遭うのですが、
 それはここの話題とは違うので、そちらの方を当たってください。

538 :ハウス:2005/06/25(土) 14:01:08 0
ニュージーランドの奥地にも「フランツ・ヨーゼフ氷河」なるものがあるみたいだけど、
これも上記のような経緯でついた名前なのかな?

539 :ハウス:2005/07/10(日) 16:49:07 0

ひとまず、age

540 :権兵衛さん:2005/07/12(火) 01:11:55 0

  おお、水没を免れていたか!
  昨日は見つからなかったので、ついに「ツェント・イシュトバーン」の
 運命をたどったのではないかと危惧しておりました。まずはage


541 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/07/26(火) 20:21:43 0 ?#
久々に水没逃れのカキコ。

福井静夫の二重帝国海軍戦艦評なぞ。

それは、英国系の技術を基とし、またその戦艦の性格は極めて英国のものと類似している。
アドリア海と言う制限された作戦海面のために、その装甲艦(戦艦)は、(1)伊海軍の対応艦を目標とした。
(2)作戦海面の特徴である多島嶼、狭水路の運動に適するよう、比較的小型、高速を目的とし、主砲、副砲の配置に苦心の跡が見られる。

英国式装甲艦は、多年二重帝国海軍の中核であって、ポプラーのサミューダ造船所で外国向きに多数建造された、所謂、エドワード・リード
式装甲艦の系統であり、我が扶桑(初代)や、当時のトルコ戦艦の多数と同系統のものである。

二重帝国の戦艦の特徴として、
 (1) リッサ海戦以後、特にラムを重視し、頑丈、かつ著しい艦首の突出ラムを有し、また重砲(主砲及び準主砲)の前方射撃を良好とした。
    その門数の50%以上は前方に発射可能である。この傾向は、第一次大戦時の弩級艦、即ち最後の主力艦まで一貫している。
 (2) 第一次大戦時の弩級艦は三連装30cm砲塔4基を背負式として搭載し、近代戦艦の主砲配置として、断然進歩した方法を率先して採用、
    当時の列強海軍の注目の的となった。
    しかし、主砲の爆風が強く、また、その機構の作動など、色々の欠点があったようで、次いで第一次大戦末までに計画された(設計のみ)
    新大型戦艦及び巡洋戦艦は、この方式を廃止し、大戦前のドイツ戦艦の要領に近い方法にと転換を意図しつつあったようである。
    (一方ではドイツ海軍は二重帝国海軍式の「Michigan」配置へと転換しつつあった。

以後、色々興味深いことが書いてあるので、ちょこちょこ保守的に書いていく予定。

542 :権兵衛さん:2005/07/27(水) 18:06:57 0

 眠い人さん、こんにちわ。

  久々の救援、ありがとうございます。

  夏休みに入ったので、各スレッドの進行が早くなっているので、
  監視の回数を増やさないといけないと思っております。

543 :ハウス:2005/07/29(金) 22:13:09 0

眠い人さん&権兵衛さん、ご無沙汰しております。

福井静夫評といえば『日本潜水艦物語』の中にも(3)リッツオ艇長の偉勲(4)人間魚雷の
ポーラ軍港進入、という見出しでオーストリア海軍とのやりとりがまとめられています。
今年の『歴史群像2月号』と内容は重なりますが(>>358のレス参照 )。

さて再度購入を試みているアントン・ハウス提督の伝記本ですが、8月中下旬には自宅に
届くはずなので、このスレでもその内容を紹介していければと考えております。

544 :権兵衛さん:2005/08/01(月) 02:12:17 0

>それは、英国系の技術を基とし、またその戦艦の性格は極めて
英国のものと類似している。

 欧州というのが別々の国々と見えて、実は2千年前は単一の「帝国」
 の領域でもあったわけで、違いもあれば共通点もたくさんあるわけ
 です。
  おなじみの「トラップ少佐」にしても、その始めの妻はイギリス系
 のアガーテ・ホワイトヘッドでした。その祖父は近代的魚形水雷の発
 明者としても知られているわけですから、技術的にも関係が深かった
 のでしょうね。その叔母のひとりがビスマルクの息子の嫁になったり
 もしているので、「華麗なる一族」のひとつでもあったわけです。
  第1次大戦のイギリス、ドイツ、ロシアの皇帝もすべてイギリスの
 ヴィクトリア女王の孫筋に当たるのですから、トラップ家の例など、
 それこそ掃いて捨てるほどあったことは間違いありませんね。

  などといいながら、何回目なるのかわからないほど見た「サウンド・
 オブ・ミュージック」を見てきました。(さすがに、併映された「山
 猫」(ヴィスコンティ監督の傑作のひとつ)とは違う分野の作品である
 ことを実感させらましたね。)

545 :権兵衛さん:2005/08/10(水) 22:20:29 0

 ヴィスコンティ監督の「山猫」は1860年の「イタリア統一戦争」
 時代を背景にしたシチリア島の大貴族の物語です。ローマ帝国が崩壊
 てから、1500年近くも四裂五分の状態であったイタリア半島が形
 の上にせよ「統一」された王国になるということが、アドリア海と
 アルプス山脈という自然の要害によって隔てられていた大陸諸国へ大
 きな衝撃をもって迎えられたことは容易に想像できます。
  アドリア海とそれに連なる地中海の制海権を巡って、壮絶な海軍拡
 張競争の産物のひとつが「オーストリア=ハンガリー二重帝国海軍」
 ですね。ギリシャ、オスマン=トルコ、エジプト、フランス、スペイ
 ンに加えて、イギリスとロシアも絡んだ半世紀に及ぶ歴史も見もので
 す。この競争に北欧の諸国だけでなく、新興のドイツが加わったこと
 でついに「(第一次)世界大戦」となるわけです。

  この辺りの詳細は「ハウス」さん、「眠い人」さんなどにおまかせ
 しますが、愚生もそれなりに資料を漁ってみますね。

546 :ハウス:2005/08/13(土) 11:51:41 0
学習研究社の『図説世界の歴史6 現代世界の試練』斎藤孝監修、の中でオーストリア海軍
に関する記事・資料をいくつか。

・ヴィリブス・ユニタス号1911年トリエステで進水したオーストリア・ハンガリー帝国
の戦艦で、排水量2万トン、305ミリ砲を12門装備していた。ウイーン軍事史博物館蔵〔62頁〕

・「ふたつの実験」 40センチ装甲板が砲撃を受けた場合の抵抗を検証するため、20世紀初め、
オーストリア海軍によって行われた実験。上:貫通された装甲板 下:貫通しない砲弾。とも
にイタリア・トリエステ戦争博物館蔵〔62頁〕

547 :ハウス:2005/08/13(土) 11:52:26 0
・「プーラ港風景」 ユーゴスラヴィア西北にあったオーストリア・ハンガリー艦隊の最重要
基地。1917年8月、イタリア軍の空爆を受けた。〔104頁〕

・「アドリア海の激戦」 上:イタリア海軍大尉ルイジ・リッツオの指揮下、1918年6月10日、
アドリア海のプレムダ島付近でオーストリア戦艦聖イストヴァン号≠撃沈した魚雷艇マー
ス15号。右:沈没する聖イストヴァン号≠ニもにフラッカローリ・コレクション蔵〔128頁〕

548 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/08/16(火) 12:20:42 0 ?#
>541の続き

 (3) 軍港としてはアドリア海北部のポーラと同南部のカッタロを主に使用した。
    前者は立派な大軍港で工廠もあり、後者は第一次大戦中に作戦基地として使用され、整備された。
    ポーラ軍港は二重帝国海軍の全艦隊を収容できる大軍港であった。
 (4) 戦艦の建造は、ポーラ工廠とトリエステの造船所で行った。
    トリエステのスタビリメント・テクニコ社は世界一流の大造船所で、付近にも大艦を建造できる分工場を有し
    (第一次大戦後はイタリアの大造船所となり、現在に至る)、弩級艦などはここで建造された。
    他にも相当の施設があり、ポーラ工廠も巨艦を建造する様に拡張中であった。
 (5) 砲は主にクルップ系とシュコダ系を使用した。
    しかし、弩級艦の3連装30cm砲は、英国Vickersの技術を導入したという。
 (6) 魚雷は英国のホワイトヘッドが発明して実用化した直後に、その工場をフューメに設立し、此処で生産する
    ホワイトヘッド魚雷は世界の各海軍が使用し、我が国でも明治10年代より、ここから購入した。

549 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/08/16(火) 12:21:13 0 ?#
 (7) 二重帝国の戦艦は、第一次大戦では優勢な伊および連合国海軍(主に英)にアドリア海入口のオトラント海峡
    を厳重に封鎖され、アドリア海内でも制海権を伊に抑えられて、ポーラ軍港に留まり、時折出撃するくらいであった。
    しかし、その性能より見るに、決してアドリア海のみの行動に我慢したようではない。
    殊にラデツキー型およびフィリブス・ウニーティス型弩級艦は、当時の一流戦艦であり、その7隻の存在は伊
    海軍にとって一大脅威であり、特攻的襲撃で弩級艦4隻中2隻を沈めることに成功した。
    しかし、一般的に見て、航続力は他国の大戦艦と同じであっても、二重帝国海軍戦艦の居住性はかなり苦しく、
    長期の連続外洋行動は不必要のためもあるが、性能的に困難だったと思われる。
    その主因の一つは、立派なダメージ・コントロール装置と、防御区画法であったようだ。
    二重帝国海軍のダメージ・コントロールは第一次大戦中、独戦艦のそれに比肩しうる程であって、戦後押収した
    二重帝国海軍戦艦の艦内を調査した連合国技術調査団に大なる感銘を与えている。
    例えば、前弩級艦ラデツキーの応急訓練及びそのダメージ・コントロール取扱書の完備などは、独戦艦以上の
    ものであったという。

550 :世界@名無史さん:2005/08/23(火) 23:46:16 0
オーストリア海軍萌え

551 :ハウス:2005/08/24(水) 22:30:39 0

ageも兼ねて、オーストリア海軍概略史その1

オーストリアと海との接触は、当時のハプスブルク家君主レオポルト3世が1382年に
アドリア海に面したトリエステを保護領として獲得し、初めて沿岸部に進出した時
でした。この沿岸部の住民の主導の下で15世紀からは海運業が発展し、彼らはオス
マン・トルコやアラブ人海賊から商船の保護に努めましたが、海軍そのものは長い
間建設されませんでした。

18世紀に入りカール6世の治世下にはトリエステの整備が進められ、同時に東地中海
を航行する商船保護を目的とした海軍建設が試みられましたが、これは財政難のため
不成功に終わりました。その一方で、国内のドナウ川にはすでに小艦隊が編成されて
おり、17〜18世紀にかけては陸軍と共同し、当時国境を接していたオスマン・トルコ
からの侵略に備えておりました。

1797年のカンポ・フォルミオ条約によりオーストリアはベネチアからダルマチア沿岸
部に至る長い海岸線を獲得し、この時に消滅したベネチア共和国の艦隊を入手して本
格的な海軍建設が進められました。以後ベネチアの艦隊及びこれに所属するイタリア
人水兵はオーストリア海軍の基礎を成します。その後対ナポレオン戦争の相次ぐ敗北
により一時沿岸部を失う事となりますが、1815年のウイーン条約により同地は再びオ
ーストリアの支配下に戻されました。

続く

552 :ハウス:2005/08/27(土) 20:52:23 0

オーストリア海軍概略史その2

これによりベネチアの艦船及び造船所は
すべてオーストリアに帰属して海軍が再建されました。
オーストリアの産業革命は1830年から始まりましたが、
同時に海軍の拡張も行なわれ、
戦列艦、フリゲイト、コルベット、ブリッグ、スクーナーといった
多数の帆走軍艦を保有するまでになります。
こうした中ベネチアはオーストリア海軍の最重要軍港として発展し、
軍艦はこことトリエステで建造されました。

1848年のフランス2月革命はオーストリアにも波及して
各地で民族運動が起こりましたが、
これは大部分のイタリア人水兵が蜂起する事を意味し、
ベネチアに停泊していた軍艦の多くが彼らに占拠されてしまいます。
このため海軍は急遽再編成を迫られると同時に
陸軍と共同してベネチア湾を封鎖し、
翌49年8月には反乱を鎮圧して艦艇を回収しましたが、
海軍の根拠地(本部)はベネチアからポーラ(現クロアチア領プーラ)に移され、
1853年にはイタリア語に代わりドイツ語が海軍の主要言語とされました。
ただしベネチアそのものは1866年までオーストリア領に留まりました。

続く

553 :ハウス:2005/08/27(土) 22:13:12 0

スレの趣旨から外れますが、
本日の世界・ふしぎ発見!では
「アドリア海の楽園・クロアチア紀行」の特集でした。

ポーラ(現クロアチア領プーラ)の円形劇場に敷かれた超巨大なネクタイ
(クロアチアはネクタイの発祥の地らしい)
リッサ島(現クロアチア領ヴィス島)の港や郷土料理
同島近くの小島にあるこの世の楽園とも呼べる神秘的な洞窟
アドリア海の真珠・ドブロブニークのまち
なんかが取り上げられていて、とても興味深い内容でした。

554 :カラジチ ◆mWYugocC.c :2005/08/28(日) 11:01:50 0
>>553
見逃したー!
そゆことは放送前に言って欲しかったです

>クロアチアはネクタイの発祥の地らしい
ルイ14世がクロアチア人の使節が首に布巻いているのを見て流行らせたとか何とか。
フランス語ではネクタイのことをcravateというのだけど、これはHrvat(クロアチア人)に由来。

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